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2005.01.06

〔網掛(あみかけ)〕の松五郎

『鬼平犯科帳』文庫巻14に所載[さむらい松五郎]のじつの〔呼び名〕。
〔さむらい松五郎〕の由来は、好んで侍姿をしているため。
上方から中国すじを荒らしていた故〔湯屋谷〕の富右衛門の右腕だった。
(参照: 〔湯屋谷〕の富右衛門の項)

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年齢・容姿:事件は寛政8年(1796)夏におきているから、そっくりさんの木村忠吾はそのとき29歳。鬼平が「松五郎は兄か」といっているから30すぎだろう。忠吾に似ているなら、色白で兎のようにやさしい容貌。
生国:信濃国更科(さらしな)郡網掛村(現・長野県埴科(はにしな)郡)坂城(さかき)町網掛

探索の発端:[五月闇]で刺殺された密偵の伊三次を、菩提寺である中目黒の威得寺の墓域に葬った同心・木村忠吾が、墓参後、名物の黒飴を購っての帰路、〔須坂(すざか)〕の峰蔵に呼びよめられた。そっくりの〔さむらい松五郎〕と間違えられたのだ。
血を見るおつとめが嫌いの〔須坂〕の峰蔵とすると、正統派だった故〔湯屋谷〕の富右衛門の右腕〔網掛〕のお盗めを助(す)けたいと。
ところが忠吾と打ち合わせをしたすぐあとに、ほんものの〔さむらい松五郎〕に声をかけられたから、峰蔵は混乱してしまった。

結末:〔須坂〕の峰蔵が助(す)けることになっていた〔轆轤首(ろくろくび)〕の藤七一味は、断首。
小柳安五郎が捕らえたほんものの〔網掛〕の松五郎と、〔須坂〕の峰蔵の処置は書かれていない。

つぶやき:コメディー・リリーフ役の兎忠こと木村忠吾をの面目躍如の好篇。とくに、〔さむらい松五郎〕になりきっての先輩・小柳安五郎を手下あつかいしたあとのやりとりが秀逸。

威得寺は明治20年に廃寺となり、瑞聖寺(港区白金台3丁目)へ合祀された。

池波さんは、目黒不動門前の〔桐屋〕の黒飴----といろんなところに書いている。出所は『江戸名所図会』の店頭の絵だが、そこに書かれているのは「目黒飴」---つまり「目黒の飴」で、絵には白飴が描かれている。

また、不動門前の料理屋〔伊勢寅〕の名代の一つ、筍飯も、実際に筍が目黒の名産となったのは幕末から明治初めからで、鬼平のころにはまだ広まっていまかった。

ま、そういう詮索は、ファンには無用といっておく。話のおもしろさにひたればいい。そっくりさんを書いたのは、池波さんの頭に1人2役の舞台があったからであろう。もっとも、忠吾は総髪、松五郎は月代を剃っているから、この早替わりをどう解決するか。

これもファンは気にしないことだが、この事件のおきた寛政8年には史実の長谷川平蔵は故人になっている。
平蔵の歿年は寛政7年(1795)5月10日(旧暦)。『寛政重修諸家譜』に5月19日に歿とあるのは、辞職願などの手続きが済んで公式に喪を発した日。

長野県 埴科(はにしな)郡坂城(さかき)町商工課  三井 さんからの連絡---
「網掛村」は、明治22年4月1日に上平村(うえたいらむら)と合併し更級(さらしな)郡村上村(むらかみむら)となりました。その後、昭和35年4月1日に埴科(はにしな)郡の坂城(さかき)町に編入合併されました。町の西、千曲川の左岸に位置し、人口は930人(平成14年4月1日)です。

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コメント

伊三次の墓標に合掌している木村忠吾は、故人と仲がよかったのですよね。

忠吾がコメディー・リリーフ役なら、伊三次はバックアップ役。事件の捜査の進展が停滞し、みんなが落ち込んでいるときに、「もう少しの辛抱です。先は見えているのです」と励まして、みんなを奮い立たせる役を買ってでていました。

組織には、忠吾役と伊三次役がぜったいに必要なのです。
それをつくるのもリーダーの役目の一つです。

俳優さんや裏方さんたちの心を一つにまとめあげなければならない演出家として、池波さんはそれを痛いほどご存じだったから、忠吾や伊三次をお創りになったのでしょう。

投稿: 文くばり丈太 | 2005.01.06 07:35

池波さんの『堀部安兵衛』(新潮文庫)に、
「武士とは何じゃな?」
「人の頭(かしら)たるべきもの」
という問答が、菅野六郎左衛門と若い堀部安兵衛とのあいだでかわされています。

〔さむらい松五郎〕が好んで侍姿をしたのは「人の頭」に立とうとおもっていたからでしょうか。
3カ条を守ったのも、その心意気だったのかもしれませんね。

いまなら、「武士」を「役人」におきかえられましょう。「役人」なら「人の頭」たるべき心意気があるべきなんでしょうね。

投稿: ちゅうすけ | 2005.01.06 07:46

[須坂]は現長野県須坂市のことだと思いますが、私の出身地、小布施の隣町。人口約54,000人。明治以降、織物の町として栄えた町です。
でも、江戸時代は農業が中心で財産減らしを避けるため、次男、三男は多少の教育をつけて、江戸に奉公に出すのが常でした。
[須坂]の峰蔵もその伝で、三男ぐらいだったのかもしれません。
また、「網掛けの松五郎」も生国が須坂の近隣、「坂城」であることから、その辺の事情を実によく踏まえた状況設定だと感心します。
峰蔵も松五郎も10~12歳頃、北国街道から中山道を通って約210里の道を、江戸へ上ったのでしょうか?そして十数年後に盗人になる。
現代の社会マーケティングの視点で見ると、透徹した視点を感じます。
「盗人探索目録」を今後そうしたマーケティングの視点でを読んでいくと、現代にも通ずる、実に面白いヒントや視点があると感じ、投稿しました。
因みに更埴市と戸倉・上山田は合併し、現在は「千曲市(ちくま)」になりました。坂城はそのままです。

投稿: ヌマピー | 2005.01.06 11:47

ずっと拝見していますが、鬼平ファンとして教えられることばかり、いったい、どういう手だてで調べるのか---と、リサーチ手法にまで気がまわる、じつに綿密な「探索日録」です。

しかも、1日1盗人ずつアップされるのですから、拝見しているのはまさに氷山の一角、水中にどれほどの蓄えがあるのか。

どうか、これからもつづけて、われわれ鬼平初心者をたのしませてください。

投稿: 横浜のムー | 2005.01.06 12:32

「目黒の黒飴」ではなく「目黒飴」だ---という話、ホームページでも話題になっていましたね。
住いが目黒なものですから、記憶に残っています。

ホームページのほうで、『江戸名所図会』の〔桐屋〕の店頭の絵の「目黒飴」は白い、と教わり、図書館で確認したら、そのとおりだったので、感心しました。

「目黒の黒飴」じゃなく「目黒の白飴」だと最初に主張されたのは、西尾先生ですか?

投稿: 目黒の朋子 | 2005.01.06 12:42

>目黒の朋子さん

「目黒飴」ねえ。
いえね、『江戸名所図会』の〔桐屋〕の店頭の絵を塗り絵していまして、「おや、白いぞ」と気がつき、古い『目黒区史』などを見たら、白飴とあったのです。

塗り絵の効用のひとつです。
塗らない人が、なにやかや言っているようですが、塗ってみないと、細部まで目がとどきませんよ。

投稿: 西尾 忠久 | 2005.01.06 13:31

>ヌマピさん

ようこそ。
ヌマピーさんのようなマーケティングのプロフェショナルが『鬼平犯科帳』を、ご専門の立場から、どう切り刻まれるか、興味津々です。

おそらく、このブログをご覧になっているビジネスマンの方々にも、大いに参考になると思われます。

なにぶんともに、よろしくお願いいたします。

投稿: ちゅうすけ | 2005.01.06 16:42

>横浜のムーさん

ことらへは、初めてでしたね。
いつも、当サイトをご覧いただきありがとうございます---と、他人行儀はここまでにして。

別段、特殊なリサーチ法をもっているわけではありません。
疑問ができたら資料をあたる。
地元の地方自治体のご担当の方へ問い合わせる。
スケジュールが許されれば、現地を踏む。
わかったことはパソコンに記録する。

これらをコツコツ、8年間ほどつづけているだけです。

投稿: ちゅうすけ | 2005.01.06 16:52

[網掛]の松五郎から木村忠吾、そして志ん朝さんと連想してしまうと[網掛]の松五郎が悪事を働くなんて考えられなくなってしまいます。
盗めの三ヵ条をしっかり守り、最後も潔くお縄についた松五郎に感服です。
盗賊に感服しちゃいけないか。

投稿: 靖酔 | 2005.01.10 09:38

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