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2005.01.05

〔荒尾(あらお)〕の庄八

『鬼平犯科帳』巻10[お熊と茂平]に顔見せする、千住大橋の手前、小塚原で畳屋をやっている。
じつは、宇都宮を本拠とする〔今市〕の十右衛門の配下。
(参照: 〔今市〕の十右衛門の項)

210

年齢・容姿:40がらみ。小柄だが筋骨たくましい。
生国:美濃国(養老郡?)荒尾郷(現・岐阜県大垣市荒尾町)

探索の発端:鬼平を支えるキャラの一人で、その言動に笑いをまきちらすお熊婆さんのボーイフレンド、南本所の名刹・弥勒寺の寺男の茂平の遺言で、お熊は茂平の死を、〔荒尾〕の庄八のところへ伝えに行く。

お熊から事情を聞いた鬼平は、茂平が引き込みではないかと疑い、〔荒尾〕の庄八に見張りをつける。
案の定、庄八の動きがあやしくなった。尾行すると、〔今市〕の十右衛門につながって行ったのである。

結末:ひそかに庄八夫婦を捕らえ、その畳屋を訪れる一味をつぎつぎと逮捕。その者たちの自白で〔今市〕の十右衛門もお縄に。死罪。

つぶやき:美濃生まれの庄八と、宇都宮が本拠の〔今市〕の十右衛門とのつながりがしばらくわからなかったが、庄八の母が京の紙問屋〔近江屋〕太四郎の妾腹と知り、太四郎かその先代が東近江の出身なら、赤坂宿の南にある荒尾郷は中仙道でつながると推測。庄八の母は、伝手を頼って〔近江屋〕へ奉公に上がったのだろう。
大垣市在住の畏友・川中さんからのメール「荒尾の旧家に尋ねると、明治以前はわからないが、大正―昭和で、荒尾に畳屋はないとのこと」
荒尾村に畳屋がなかったとすると、庄八は村をでてからどこかで畳職の技術を身につけたことになる。
まあ、「荒尾」という地名は、愛知県北設楽郡設楽町、同県東海市にもあるから、いちがいに荒尾郷の出ときめるわけにもいかないが、近江にもっとも近いのは美濃の荒尾郷なので----。

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コメント

シリーズを通じて、お熊婆さんが事件の端緒となるのは、この篇と巻21[討ち入り市兵衛]ぐらいではなかったかしら?

とにかく、お熊婆さんの天衣無縫の一挙手一投足は、巧まずして笑いをさそいます。木村忠吾とともに貴重なコメディ・リリーフ。

40歳代のとき、酔って素裸で銕つぁんの寝床へ入りこみ「味をためしてくれよう」とねだり、逃げ出した銕つぁんが風邪を引いてしまったとか、70歳をすぎているのに鬼平の「褒美に何がほしい?」に、入れ歯をがくがくさせながら「いっぺんでいいから抱いてくれよお」と平蔵をふるえあがらせたり。

いやもう、池波センセのお熊婆さんの出し入れの緩急自在ぶりは感心します。

この篇でも、「こう見えてもおれは、腰っ骨だけは鍛えてあらあな」ですもの。

ほんと、70過ぎても、お熊婆さんのように色欲(?)を保ちつづけたいものですわなあ。

投稿: 裏店のおこん | 2005.01.05 13:10

あのう、〔荒尾〕の庄八の母親は、(近江の在所へ返されてしまいました)新装p308 とありますが----。

滋賀県のどこかに、「荒尾」という所はないのでしょうか?

投稿: 加代子 | 2005.01.05 13:38

>加代子さん

ご指摘のとおりですね。
Google で400件ばかり、荒尾を検索しましたが、熊本県荒尾市関連と、尾張の荒尾と大垣市の荒尾町が1件ずつ引っかかっただけで、滋賀県はありませんでした。

はるかな昔---といっても明治22年以降、滋賀県のどこかの荒尾村がどこかと合併して村名が消えたのかもしれませんね。

そうなると、滋賀県の地元の古老かどなたかからのコメントをお待ちするしかありません。

投稿: ちゅうすけ | 2005.01.05 14:01

この[お熊と茂平]は第70話にあたります。
長谷川組の捜査手順にもなんらかの新手が必要です。

で、〔荒尾〕の庄八夫婦をひそかに捕まえておき、連絡(つなぎ)にあらわれる者を片っ端から召し捕って尋問。

今なら人権うんぬんで逆に訴えられかねないでしょうが、鬼平の読み手はそんなところへは気をまわしません。そこが、池波さんのすごいところです。

投稿: 文くばり丈太 | 2005.01.05 15:43

>文くばり丈太さん

そうなんですよね。
『鬼平犯科帳』は、情報の収集手段としても読みごたえがあります。
盗人捜査は、つまるところ、情報アンテナの張り方ですからね。

史実の長谷川平蔵は、逆情報---盗人側へ情報を流す技術やルートも持っていたみたいです。
たとえば、長谷川組は拷問はしない---という情報を流して自首者をふやして捜査コストを下げた、とかの。

このあたりのことは、兄弟HP[『鬼平犯科帳』の彩色『江戸名所図会』]の[現代語訳 よしの冊子』]にくわしいです。平蔵と同時代の貴重な記録です。

もっとも、アンチ平蔵の松平定信派隠密の報告書なので、それなりのバイアス補正めがねをかけて読む必要はありますが。

投稿: ちゅうすけ | 2005.01.05 16:31

役宅庭先で平蔵いや銕つぁんとお熊婆さんの出会いで始まるこの話は何度読んでも面白い。
70のお熊婆さんがボケずに憎まれ口がたたけるのもまだまだ色気があるからですね。
「色気がなくなったらおしまいよ」とよく言いますから。
今市の十右衛門と配下の連中もどうして御用になったのかわからなかったでしょう。
まさか荒尾の庄八が身内の人情にほだされてもらした一言がいのちとりになったとは。
平蔵の感の冴えもみせた一編です。
「こう見えてもおれは、腰っぽねだけは鍛えてあらあな」と言うセリフ、池波さん誰かに言われたのかしら。

投稿: 靖 | 2005.01.05 17:41

〔荒尾〕の庄八が畳職を修行したのはどこか、池波さんは書いていませんが、千住大橋の南詰、小塚原で畳屋を開かせたのが庄八の目ききなのか、それともお頭〔今市〕の十右衛門の指示か。

なにせ、日光・奥羽街道への第一の宿場・千住には44の旅籠があったといいます。
それだけの旅籠があれば、客商売ゆえ、畳替えの注文も多かったでしょう。
とともに、第一の宿は品川、新宿などがそうであるように、情報の出入り口でもっわけで、じつにいいところに拠点をかまえたといえます。
情報の出入り口を押さえるのは、マーケティングの基本ですからね。

池波さん、マーケティングをどこでまなんだのかしらん。

投稿: ちゅうすけ | 2005.01.05 19:11

初めまして、沢山のコメントありがとうございました。ブログに紹介した2つのエッセイが面白かったので、小説にも再チャレンジしようかと思っています…。もう一つブログを開いて、旅行記もやっていただけるとうれしいです。

投稿: YOHSI-ha!ha! | 2005.01.05 20:31

>YOHSI-ha!ha! さん

『新男の作法』『食卓の情景』を褒めていらっしゃいました。それでコメントをつけさせていただきました。
上の2冊に『池波正太郎の銀座日記(全)』(新潮文庫)を加えたのが3大エッセイ集ではないでしょうか。あと、映画とか旅とかもありますが。

『銀座日記』は、タウン誌『銀座百点』に連載されたものです。そういえば、長年編集長をやってらした斉藤美子さんが引退されて、滝田恭子さんが後任になられましたね。

『銀座日記』は、池波さんが、斉藤前編集長と「(気学の)気が合う」ということで、長くつづいたと聞きました。

ぜひ、お読みになってみてください。

投稿: ちゅうすけ | 2005.01.06 03:16

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