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2005.01.01

〔雨畑(あまばた)〕の紋三郎

『鬼平犯科帳』文庫巻8の[あきれた奴]に登場する盗人。
大坂の〔生駒(いこま)〕の仙右衛門の下からひとりばたらきに。
(参照: 〔生駒〕の仙右衛門の項 )

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年齢・容姿:30がらみ。頑丈そうな体格で猫なで声。
生国:甲斐国南巨摩郡雨畑村(現・山梨県南巨摩郡早川町雨畑)。

探索の発端:同心小柳安五郎が受けもちの谷中を夜廻りしていたとき、古門前町の正林寺(架空)の土塀の上から飛び降りた2人のうち、〔鹿留〕の又八(42歳)は捕らえたが、もう1人は逃がした。
非番の日、亡妻と子が葬られている安倍川町の竜源寺へ墓参、そのあと本所・亀沢町の亡妻の里で夕食をご馳走になった小柳同心は、両国橋で身投げしようとしていた母子を助けてみると、なんと〔鹿留〕の又八の妻(26歳)と子どもであった。
又八を妻子に会わせるといって牢から出し、逃げられてしまった小柳は、鬼平から入牢を申しつけられた。
半年後、〔鹿留〕の又八が大八車に棺桶を乗せて火盗改メの役宅へもどってきた。棺桶の中には、半死半生の〔雨畑〕の紋三郎がはいっていた。
飴売りに身をやつした又八は、東海道の御油で半年間、紋三郎が飯盛り旅籠の女のところへ現れるのを待ちつづけたのである。

結末:正林寺の寺僧2人を殺した〔雨畑〕の紋三郎は死罪。、〔鹿留〕の又八は遠島。

つぶやき:『鬼平犯科帳』全篇の中でも、男の信義を描ききった清冽な1篇である。太宰治『走れメロス』を連想させる。

「雨畑」に、池波さんは(あまばた)とルビをふっているが、地元では(あんばた)と呼んでいると。
良質の硯石の産地だから、紋三郎にはもったいない「通り名」で、むしろ[鹿留]と入れ替えたいほど。

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雨畑渓谷(早川町パンフレットより転載)

余談だが、郷原 宏さんから贈られた『松本清張辞典決定版』(角川学芸出版)で、松本清張ーさんの長篇みステリー『考える葉』(角川文庫)は、雨畑出身の青年が主人公と教えられた。

付記:山梨県南巨摩郡早川町 観光協会からりポート

当町の「雨畑の件」ですが、『鬼平犯科帳』では池波先生は「あまばた」とルビをふっておられるが、土地の人間は「あんばた」といっています。
町の沿革: 江戸、文化年間(1804~14)の甲斐国誌には、この地に19ヵ村あったことが記録されています。その後、これらの村々は明治初年以来、それぞれ合併や離反などの変遷を経て、大正初期には、本建、五箇、硯島、都川、三里、西山の6ヵ村に統合され、昭和32年9月30日をもって、この6ヵ村が合併、早川町が誕生しました。町の人口は約 2,500人。名硯石の産地としてよく知られている「雨畑」地区および雨畑湖は町の西南に位置しています。

硯石の原石が掘り出される雨畑渓谷(パンフレット「雨畑硯」より)

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コメント

雨畑石製の硯を1基持っています。
端渓並みとはいいませんが、かなりのすり心地です。もっとも、すり心地よりも、筆づかいのほうが優先しますが。

紋三郎に〔雨畑〕の「通り名」は似合わないと感じたのはわたしだけではないとわかり、安心しました。

投稿: 文くばり丈太 | 2005.01.01 19:12

>文くばり丈太さん

雨畑硯をお持ちとか。うらやましいです。
筆字もすきなのですが、パソコンやワ-プロ専用機が机上を占領してしまっていて、墨をするスペースがありません。

陸軍幼年学校時代は、日誌を筆で書かされました。60年近い前のことですが、なつかしいです。

そのうちに---とおもい、墨はいくつか買い置きはしているのです。古くなるほどいい味がでる---と承知していますので。

いつか、機会をとらえて、雨畑へ行ってみようと思っていますが、ほんとうは〔鹿留〕という土地が実在しているなら、こっちのほうへ行きたい。

投稿: ちゅうすけ | 2005.01.02 11:31

「盗人探索日録」だと[あきれた奴]に登場する盗人から取り上げるとすると「鹿留の又八」かとお思いきや「雨畑の紋三郎」でびっくり。
いそぎ盗きのひどい奴で又八の義理人情を裏切った盗賊の風上にも置けない奴です。
又八とおたかの夫婦が可哀想でなりません。
御上のご慈悲で八年の遠島が四年ほどになればと願ってます。小柳安五郎もうならせる人物ですね。

投稿: 靖酔 | 2005.01.02 17:19

>靖酔さん

[あきれた奴]の主役は、おっしゃるとおり、〔鹿留〕の又八と、小柳安五郎同心、そして、又八の女房おたかですよね。

でも、〔鹿留〕という土地がみつからなかったのです。

遠島7年の〔鹿留〕の又八は、鬼平の手配で3,4年で帰ってきたとおもいたい、です。
そうでなと、おたかとその子があわれです。

で、長谷川平蔵が寛政7年(1795)に病没していなかったら、又八はすばらしい密偵になったでしょう。
その物語を書いてみたいです。

投稿: ちゅうすけ | 2005.01.02 20:51

友人が今週、奈良田という温泉に行ってきて、ミクシーに日記を書いているのですが、その中に『雨畑』という地名が出て来、ピンと来て、ちゅうすけさんのブログを引用して、表記の紋三郎の話を書いた所、
→「雨畑」に、池波さんは(あまばた)とルビをふっているが、地元では(あんばた)と呼んでいると。
に対し、件の友人から、
『地元ではかつては「あまはた」、現在では「あめはた」と読んでいるようです。
展示保存されている硯の数々は正に芸術品! 目の保養をさせてもらいました。』
との、報告がありました。
地名の読みは、本当に難しいですが、一応、リアルタイムな情報だったので、コメントさせていただきました。

投稿: ぴーせん | 2006.06.17 17:57

googleで検索しましたが、きょうまでのところ、市町村合併はしていないようですね。

早川町の観光課からのコメントは、3年ほどまえにもらったものですが、それでもすでに、地元での呼称がちがってきているとは、変化のはやさに、おどろきます。

投稿: ちゅうすけ | 2006.06.18 08:49

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