出来る男の隠しポケット
長谷川平蔵が捕らえた3巨盗として真刀小僧、葵小僧、大松五郎をあげたら、ある鬼平ファンから、
「 〔早飛〕ノ彦はどうなっているのだ」
と指摘された(彦の逮捕の顛末は6月3日に記述)。
いわれてみるとたしかに彼もたいした泥棒だが、ちょっと見えっぱりのところがあって好きになれない。いや、葵小僧や真刀小僧に好感をおぼえているわけではない。
〔早飛〕ノ彦のどこが気にいらないか……捕らえられて平蔵に尋問されたとき、
「手下どもはお構いくださるな。手前が、今夜は四谷へ行け、お
前は浅草へ行けと指図していたのであって、連中はろくな奴らで
はありませぬ。私めがこうして捕らえられたからには、今後は酒
屋で酒代をふみ倒すていどのことしかできますまい。うっちゃっ
てお置きなさい」
ぬけぬけとたたいた大口がいかにも小物を思わせる。
『よしの冊子』によると、〔早飛〕 が起居していたのは赤坂門外の定火消屋敷のがえん(火消人足)部屋。
何十人もが大部屋で起臥し、丸太棒を枕にして寝、いざ火事となると不寝番がこの丸太を槌でたたいて起こした。
枕の丸太棒を槌で打って起こされたがえん部屋
(『風俗画報』明治31年12月25日号より)
フンドシひとつで火がかりをしたから、みごとな刺青(いれずみ)が目立ち、それだけ無法者の巣窟にもなりやすかった。
早飛が巣くっていた赤坂の役屋敷の主は松平隼人(4500石)。22歳という若さで持ち出しの多いこの役職を命じられたのは、裕福と見なされたからだ。
寛政3年(1791)、平蔵はがえん部屋を探れ、と指令した。
泥棒の頭目・早飛がそこにいる、と差した者がいたのである。
察した彦は、吉原へ隠れ、さらに板橋宿の食売旅籠へ移ったが、長谷川組の捕方がやってくると聞き、駕籠で逃げようとしたところを捕らえられた。駕籠だと顔は隠せるが行動の自由がきかない。
赤坂では早飛のほかに2人、駿河台の堀田主膳(4200石)方でも2人、小川町の米津小大夫(4000石)の部屋でも2人、御茶ノ水の中根内膳(6000石)の役屋敷でも2人あげられた。
手下は150人ほどもいると早飛が豪語していたにしては実勢はいたって少ない。
がえん部屋を狙ってみよとの平蔵の指示には、出来る男は隠しポケットをもっておくべきだという教訓が含まれている。
たとえば営業畑なら、いざとなったらある金額なら仕入れてくれる先を保持しておけということだし、広報担当なら頼めば間ちがいなく記事にしてもらえる記者をつくっておくべきだなのだ。
そのころ、
「長谷川平蔵は無宿人を取りこむ人足寄場にかかりきりで、盗賊
対策が手薄になっている」
との陰口がささやかれ、
「そんなことはない」
と実績を示して見せる必要に迫られていた。
で、大身旗本が就任している足もと---定火消のがえん部屋を狙った。
ほんとうは、がえん部屋などはいつさらっても2人や3人はひっかかる猟場だ。
〔早飛〕ノ彦の大盗賊あつかいも、じつは平蔵の意図的な情報操作だったような気がすること、しきりだ。
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