余禄 池波さん激賞の江戸の味
『鬼平犯科帳』を読むたのしみのひとつに、作中にでてくる食べ物…料理なり甘いものを賞味することをあげる池波ファンも少なくない。
こころえた編集者や番組制作者が、それらの料理のつくり方を絵解きしたり、池波さんが贔屓(ひいき)にしていた店を訪問した番組をつくって、それらがまたそれなりの人気を呼んでいる。
が、あの人たちがまったく気づいておらず、一度も書かれたりブラウン管に紹介されたことのない店……といってはいけない、そこはふつうの料理屋ではなく仕出し屋さんだ……をバラそう。
なに、バラしたところで好き者が殺到、味が落ちるということにはならない。というのは、ふつうでは食べに行くわけにはいかないのだから(いや、いまだからいうと、閉店してしまっているのだ)。
店名は〔若出雲〕、所在は北品川(だった)。池波さんがあるところに、こう書いている。
折箱(おりばこ)の蓋(ふた)を開けて見たとき、私はもう、
この弁当の旨さが半分はわかったようなおもいがした。
折箱の料理というものは、まことに、むずかしい。調理をして
数時間後に人の口へ入ることになるのだから、材料の選択(せ
んたく)、調理の仕方、客筋の種類などを、よくよく考え、時
間をはからなくてはならぬし、これを良心的につくろうとする
と、他の料理にくらべて数倍の神経をつかうことになる。
そして、食べる人が蓋をあけたときに、料理が、いかにも新鮮
に見え、食欲をそそるように仕あがってなくてはならない。
〔若出雲〕の仕出し弁当は、先ず、鮪(まぐろ)の刺身の切り
ようからして東京ふうだった。他の料理の味つけにも丹精(た
んせい)がこもっている。
長谷川平蔵が現代に生きていたら、大盗賊を召し捕った祝いの日や亡父の法事にはここへ弁当を注文したろうな、と思い、2代目のご当主だった森田弘康さんに懇望した。
玄関脇の部屋には池波さんが料理素材を描いた色紙が2枚かかっている。池波文学の研究をしているというと、キビキビした身のこなしのご当主が受けてくれた。池波夫人もご贔屓だとか。
[鬼平]クラスが品川宿跡を探訪した帰路、2階の座敷でご内儀のサービスで賞味。季節の素材を微妙に按配した膳だった。
翻訳家の相原真理子、佐々田雅子、山本やよいさんらを誘って会食したときには、ワイン研究の大家・山本博さんがひと口するなり「このごろは失われている、東京ふうの濃いめの味付け」と嘆声。
森田弘康さんを「2代目ご当主だった」と書いたのは、20002年ごろの秋に60歳という若さで急逝されたからだ。合掌。あとをご内儀と3代目の息子の弘さんが引きついでやっておられた。
あるとき、電話をしたら息子さんが「いろいろお世話にんなりましたが、ついにダメでした。なにしろ、親父がつくった借金がおおきすぎました」
借金の理由は聞かなかったが、材料を吟味しすぎたのだと推察している。
とにかく、一度もマスコミに紹介されることなく消えた、池波さん激賞の店である。
つぶやき:
ご主人・故森田弘康さんとのご縁は、こうして始まった。
〔鬼平〕クラスの品川ウォーキングのあとの懇親会食の場として、交渉に行った。
1人前15,000円といわれて、あきらめたとき、森田さんが、「なんのグループなんだ?」と聞いてくれたので、「池波さんの『鬼平犯科帳』の史跡を歩くグループで---」というと、「どうしてそれを先にいわない。池波先生のグループなら、予算でやってあげるよ」
予算は7,000円だった。それで、15,000円の膳がでた。
だから、店をつぶした責任の一端はぼくにもある。
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