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2006.10.05

亀戸の〔玉屋〕

文庫巻18の[蛇苺〕で、長谷川平蔵は、
「今日は、久しぶりで亀戸の天満宮へ参拝するのも悪くない。そうじゃ、そうしよう。玉屋へ立ち寄って、鯉を食べるのもよい。玉屋のおきくも変りなくやっていような」
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亀戸天満宮

料亭〔玉屋〕を、池波さんは、『江戸買物独案内』から見つけた。
同書には、所在は「亀井戸」としか書かれておらず、天満宮の門前かどうかはわからない。
Photo_218

が、池波さんはためらうことなく、こう、筆をすすめる。
---亀戸天神の門前にある玉屋は、古い料理屋で、平蔵は少年のころ、亡父の供をしてニ、三度あがったことがある。


(はて、銕三郎は、母親の園とともに大百姓の実家---三沢仙右衛門方へ帰り、17の歳まで巣鴨村で育ったはすだが)
などと余計な斟酌をしてはいけない。いまでも離婚した夫婦でも子どもとの面会日は与えられている。
ましてや、長谷川宣雄は400石の旗本である。巣鴨へ銕三郎を呼びにやって、亀戸で落ち合って食事をともにするなど、そんなにむつかしいことではない。

とはいえ、これは小説の設定に則しての解釈である。
史実は、銕三郎は生まれたときからずっと、実母とともに長谷川家で育った。小説で波津と呼ばれている継母は、銕三郎が5歳のときに病没している。

その経緯は別のときに述べるとして、ここでは、〔玉屋〕の鯉料理と店の位置にしぼる。

亀戸の鯉料理は、なにも〔玉屋〕にかぎらない。池波さんが座右からはなさなかった『江戸名所図会』は、亀戸天神の俯瞰画にそえて、「門前貨食店(りょうりや)多く、おのおの生洲(いけす)を構え、鯉魚を畜(か)う」と。

鬼平がよろこんだのは、酒の肴としてでてきた、細切りにした鯉の皮を素麺(そうめん)と合わせた酢のものと、肝の煮付け。夏場の鯉の皮は脂が多いが、酢がうまく薄めていると、池波さんは書く。

わが家では、ノールウェイ産のキング・サーモンの皮の細切りをオリーブ油でいためた熱々に、レモンをかけて客へ出し、大いにうけた。魚の皮には、さまざまな調理法がある。

歌川広重に、『江戸高名会亭尽(つくし)』という一枚絵のシリーズがあり、これに〔玉屋〕を選ばれている。雪の景で、亭前を芸者が二人と、鯉を入れた手提げ桶をとどける小むすめが寒そう。

絵をよく見ると、「亀戸 裏門」とある。〔玉屋〕は門前とはいい条、裏門に店を構えていたのだ。真裏は津軽越中守の下屋敷だから、生洲を考慮にいれると、横十間川に面した西門のあたりか。

『江戸名所図会』の西門あたりにも「茶や」とある。その中の1軒が〔玉屋〕だったのだろう。
Photo_216
赤○=亀戸天神・西門と横十間川

〔玉屋〕のその後を知る人は、いまはない。

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コメント

9月の「鬼平熱愛倶楽部」のウオーキングの時
裏門の「玉屋」附近を確かめました。
今はお茶屋の面影はありませんが。

投稿: みやこの豊 | 2006.10.05 19:54

料亭らしい料亭はありませんね。

投稿: ちゅうすけ | 2006.10.06 11:22

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