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2006.05.27

聖典『鬼平犯科帳』のほころび(2)

銕(てつ)三郎父・宣雄従妹・波津との結婚をいう前に、『寛政重修諸家譜』から、伊兵衛・長谷川家の六代目当主・修理(しゅり)宣尹(のぶただ)の項を見ておきたい。

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第14巻

筆者が所有しているのは、続群書類従完成会の昭和55年12月25日刊の第4刷である。全23巻・別iに4冊の索引つきで、ご覧のとおり、黄土色の装丁。
台東区の池波記念文庫の移転書斎にあるのは灰色の装丁で、黄土色の前の版だが、内容に大差はない。

さて、修理宣尹の項。

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宣尹(のぶただ)
   権太郎 修理 権十郎 母は某氏。
  享保十年(1725)九月朔日はじめて有徳院殿(吉宗)に
  拝謁す。時に十一歳。
  十六年四月六日遺跡を継ぐ。
  元文二年(1737)十月二十日西城御書院の番士となり、
  延享二年(1745)閏十二月番を辞す。
  四年(1747)五月十二日西城御小姓組に列し、寛延元
  年(1748)正月十日死す。年三十四、
  法名日順。
女子 宣尹が養女。

この「女子」とあるのが、妹の「波津(小説での名)」。『諸家譜』では、女子は名前を記さない。
宣尹と宣雄は四つ違いの従兄弟同士であるから、波津は宣雄の従妹にあたる。
(宣尹は正徳5年--1715の生まれ、宣雄は享保4年--1719の生まれ)。

実兄の歿年が34歳というから、波津は30歳前後ともいえる。
30歳近くまで嫁がなかったのは、嫁げなかったのであろう。兄とおなじく病身だったとみる。
もしかすると、病床にあったまま、家禄を守るために、急遽、兄・宣尹の養女となっての婿とりともおもえる。

宣雄の項を見てみよう。

宣雄(のぶお)
   平蔵 備中守 従五位下 
   実は宣有が男。母は三原氏の女。宣尹がときにのぞみて養
   子となり其女を妻とす。
 寛延元年(1748)四月三日遺跡を継。(略)。

宣尹の死からほぼ4ヶ月を経ての家督である。この間の、諸手続きの輻輳が想像できる。
おそらく、あちこちへ口留めとまいないがくばられたことであろう。

宣雄と波津の婚儀がなったとき、銕三郎は3歳であった。
また、波津は妻としての所作が行えなかったから、家裁は、銕三郎の実母がとりしきっていたはずである。

この実母を、池波さんは(妾)と記しているが、この表現が妥当かどうか。

また、波津は銕三郎が十七歳にまで家に入れなかったというが、じっさいは、婚儀の2年後の寛延3年(1750)に死去していることが、戒行寺の霊位簿にきろくされていると、研究家の釣洋一氏からおそわり、霊位簿のコピー---秋教院妙精日進---も見せられた。

実母のほうは、平蔵宣以が死ぬ4日前まで生存し、夫・宣雄と同じ位の戒名をさずけられている。
すなわち、興徳院殿妙雲日省大姉
ちなみに、泰雲院殿夏山日晴大居士が、従五位下・備中守だった宣雄の法名。

つぶやき:
池波さんが、銕三郎のぐれを、継母の継子いじめとしているが、これは、安易な見方ともいえる。
まあ、継子いじめは、古今東西に共通の悲惨事だから、おおかたの共感を得られやすいが。
ぼくは、池波さんの安易は、急ぎすぎたための窮余の結果と見ている。そのことは明日。

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コメント

ちゅうすけさんのご研究で、真実が次ぎつぎと
明白になり、小説を読んでいるように、面白いです。

あしたはどんな史実が明らかになるのでしょう。
楽しみです。

投稿: みやこのお豊 | 2006.05.27 08:44

一人の人間にライトをあてて、仔細に眺めていくと、小説はだしの事実が浮かびあがってくるものです。

事実ですから、毀誉褒貶、さまざま。

投稿: ちゅうすけ | 2006.05.27 09:02

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