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2008年9月の記事

2008.09.30

書物奉行・長谷川主馬安卿(やすあきら)(2)

銕三郎どの。そのことは、評定所の書留(かきとめ)で、書物奉行の書庫にあるかどうか---」
長谷川主馬安卿(やすあきら 50歳 150俵)は言いわけをした。

銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)の頼みごとは、老叔母・於紀乃(きの 69歳)の5年前に亡じた夫・長谷川讃岐守正誠(まさざね 享年69歳)が、延享4年(1747)から4年間、甲府勤番支配として赴任させられた因がなんだったかを知りたい---という、突拍子もない案件であった。

延享4年といえば、銕三郎が誕生して2年目である。もちろん、記憶があろうはずはない。
また、父・平蔵宣雄(のぶお 50歳 先手頭)からも、本家の主・太郎兵衛正直(まさなお 55歳 1070石余)からも一度も聞いたこともないし、尋ねたこともない。

また、当事者の讃岐守正誠は52歳、於紀乃が47歳のときの人事である。

「無理にとは申しませぬ。お分かりになるかぎりでよろしゅうでございます。ひらにお願い申します」
「一つだけ、お聞かせくだされ。何ゆえのお調べですか?」

銕三郎は、しばらく主馬安卿の顔を見つめていたが、
「甲府の軒猿(のきざる)にかかわりがあったかと疑念いたしまして---」
「軒猿とは---忍びの?」
「はい。ご内密にお願いいたしますが、ある女盗(にょとう)にかかわっておりまして、そのことにつながりがあるかとおもいついたものですから---」

銕三郎どのは、『孫子』の[用間(ようかん)第13]をお読みになったことはおありかな?」
「いいえ。第6の[虚実篇]は筆写いたしましたが---」
久栄(ひさえ 16歳)に写本させておいて、いかにも自分がしたように口ぶりで答えたものである。

長谷川主馬安卿は、そこは気にとめず、
武田信玄公が愛読していたという[用間第13]がわが奉行所の書庫にありましてな。傍書きがそれはそれはたっぷり---」
信玄公のものであれば、拝見いたしたいものですが、そもそも[用間」とは---?」
「間者(かんじゃ)の用い方を説いたものです」
「あっ---」


ちゅうすけのつぶやき】長谷川銕三郎の成長の過程で、かかわりのあったさのざまな幕臣の周囲を仔細に見ているのは、そうすることにより、幕閣のような実権をもった人たちではなく、光があたることは少ない下の層も示すことで、江戸時代の一端に触れられるとおもうからである。
ぜひ、ごいっしょに散策していただければ、うれしい。

コメントをお書き込みいただけると、とりわけ、嬉しい。

コメントがないと、o(*^▽^*)oおもしろがっていただいているのやら、
(*≧m≦*)つまらないとおもわれているのやら、
まるで見当がつかず、闇夜に羅針盤なしで航海しているようなわびしさ。

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2008.09.29

書物奉行・長谷川主馬安卿(やすあきら)

使いにだした老僕・太作(60歳)が、本所・石原町(現・墨田区石原2丁目)に屋敷がある長谷川主馬安卿(やすあきら 50歳 150俵)の返事をもらってきた。
「明後日は非番なので、お待ちしている」
とのことであった。

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(青〇=本所石原町・長谷川安卿屋敷 左斜め上=徳山五兵衛屋敷
=『おとこの秘図』)

長谷川安卿とは同姓ながら、縁戚ではない。
_100家紋も、銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)の家紋は、左藤巴だが、主馬安卿のは、注連三枝松という変わった図柄である。
注連三枝松をつかっている長谷川家は、お目見(みえ)以上の幕臣では、安卿のところと、その本家にすぎない。

もっとも、本家といっても家禄は100俵10人扶持で、分家よりも低い。
祖は稲葉家の家臣であったというから、美濃系であろうか。
信長の死とともに、庶士となっていたのかもしれない。
綱吉が5代将軍となるときに、家臣団を充実させるために、神田の館に137人の土豪・庶士・不明者が雇われて幕臣化したという。(深井雅海さん『江戸城』 中公新書 2008.4.25)。
2家の長谷川は、その137人のうちであった。

2_360
(上=本家 下=主馬安卿の長谷川家)

主馬安卿は、書物奉行・中根伝左衛門正雅(まさちか 300俵 享年79歳)の後任である。
書物奉行の定員は4人。

参照】中根伝左衛門正雅  (A) (B) (C)   (D) (E)

中根正雅は、銕三郎をとくに気に入っていてくれ、なにかと世話を焼いてくれた。
自分が老齢(?)を理由に役を辞したとき、後任の長谷川主馬安卿を紹介してくれた。
「姓が同じゆえ、くれぐれも、よしなに頼みますぞ」

主馬も、
「同姓というのも、前世の因縁かもしれませぬ。それに、それがしの旧姓は、田中です。銕三郎どののご先祖は、駿州・田中城の城主でござったでしょう」
と、言ってくれた。

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(主馬安卿の実家・田中休愚右衛門喜古(よしひさ)の個人譜)

そのとき---明和2年(1765)---主馬安卿は47歳で、初めての出仕であった。
田中家から長谷川家へ婿養子にはいったのは28歳のときであった。
長谷川家のむすめばかり4人の、長女の婿となったのである。

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(長谷川主馬安卿の個人譜)

初目見は翌年。29歳。

家督は42歳とずいぶん遅かった
養父・甚兵衛安貞(やすさだ)が富士見宝蔵番(3番組)組頭としての400石の役高にこだわって、享年74歳で果てるまでこの役にとどまっていたからである。

銕三郎が訪ねると、嫡男・弥太郎(17歳)を引きあわせ、
「明年には初目見を考えております。こんごともよろしく、うしろ楯となってやってくださいますよう」
父親に似て、顔の四角な少年であった。

「拙の初目見は遅れており、今年あたりはもう逃がれられません」
銕三郎が自嘲すると、弥太郎少年が
長谷川さまは、どうして、遅くおなりなのですか?」
と、踏みこんできた。
銕三郎が釈明をする前に、主馬安卿がたしなめた。
「これ。はしたないことを申すでない。わしの初目見は29歳であった。長谷川どのにお詫びを申しなさい」
「まあまあ---拙は、遊びすぎたのです」
銕三郎が笑ってとりなすと、弥太郎は引き下がっていった。

銕三郎の頼みごとに、主馬安卿はちょっとむつかしい表情をしたが、
「10日ほど、日をいただいてもよろしいか?」
「別にいそぎませぬ。いつにてもよろしゅうございます」

返りぎわに、手みやげの〔塩瀬〕の落雁を差し出した。
銕三郎の頼みごととは---。

ちゅうすけのつぶやき】長谷川銕三郎の成長の過程で、かかわりのあったさのざまな幕臣の周囲を仔細に見ているのは、そうすることにより、幕閣のような実権をもった人たちではなく、光があたることの少ない下の層も示すことで、江戸時代の一端に触れられるとおもうからである。
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2008.09.28

大橋与惣兵衛親英(2)

大橋家3人目の養子・親号(ちかな)は、久栄(ひさえ 16歳=明和5年(1768))が銕三郎と初めて出逢った翌年、婚儀がととのい、花嫁となって家を出て行ったのちに、縁組みされた。

参照】[大橋与惣兵衛親英] (1)の家譜

つまり、家事をほとんだ省みることのなかった与惣兵衛も、久栄への養子をあきらめざるをえなかった結果といえる。

家長の権力が絶対とされていた徳川時代に、与惣兵衛の思惑(おもわく)を敢然とはねつけて、自分を貫いた久栄を、いまの世人は「みごと」と見るであろう。
しかし、江戸時代の見方では、はねっ返り、強情むすめ、であったろう。
それを意に介さなかった平蔵宣雄(のぶお)・(たえ)の父母をどう評価しようか。

ちゅうすけは、表向き、世間常識になるべくさからわないふりをしていた宣雄夫妻の、芯の強さと、こころの奥を見たおもいである。

もっとも、銕三郎久栄の華燭にいたるまでの道のりの曲折は、これから、記すことになるのだが---。

いまは、2度の養子縁組に失敗し、二女・英乃(ひでの 22歳)の欝病を招いたともいえる与惣兵衛の次の手をのぞいてみよう。

3人目の養子を、大番筋の家格にもかかわらず、なんと、医家の息子に目ぼしをつけたのである。
番医・野間玄琢成育(せいいく)の三男・千之丞(せんのじょう 10歳=明和6年(1769)であった。

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(野間玄琢成育と親号の個人譜)

しかも、目をつけ、下交渉をはじめてから、実際に養子縁組をするまでに、7年の看察期間をおくという慎重さであった。

千之丞が養子にきた安永6年(1777)には、与惣兵衛親英は64歳になっていた。
幕府の定めでは、当主が60歳をすぎてからの養子縁組は、審査が相当にきびしかった。
それでも、与惣兵衛は、千之丞が18歳に成人するまで待った。
ついでに記しておくと、この安永6年には、平蔵宣以(家督後の銕三郎襲名 32歳)の妻・久栄は25歳であった。もちろん、辰蔵のほか2人のむすめを産んでいた。

千之丞親号の実家・野間家は、尾張国知多郡(ちたこおり)野間村の出で、先祖は織田信長に仕えたが、本能寺の変事のあと浪人、医術を学び、京・京極で開業していた。
家康に見こまれ、隔年に江戸にくだるようになり、日本橋・元大工町(現・中央区日本橋2丁目)に屋敷を賜った。その屋敷は商業地であったため商家に貸し、三築(さんちく)長屋呼ばれた(大正5年刊『日本橋区史』)。
代々、幼名が三竹であったからである。

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(三築長屋のあった下大工町新道 池波さん愛用の近江屋板)

実父・成育の住まいは、小川町裏猿楽町の武家地で、医師・和田春長の所有地の借地にあった。

養子・千之丞親号の妻には、黒田家から親英の姪を養女として迎えて妻(め)あわせた。

与惣兵衛親英(ちかふさ)の慎重さは、ついに実った。
しかし、二女・英乃は、22歳から死ぬまで、男との縁を絶たれたままであった。
英乃の没年は未詳。香華寺である高田の宝祥寺(現・新宿区若松38-1)に過去帳がのこされていれば探れようか。

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(宝祥寺参道)

[大橋与惣兵衛] (1)


[大橋家の息女・久栄(ひさえ)] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)


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2008.09.27

大橋与惣兵衛親英

ついでだから、久栄(ひさえ 16歳)の父・大橋与惣兵衛(よそべえ)親英(ちかふさ 55歳=明和5年(1768) 西丸新番・与頭)についても記しておく。
やがて、銕三郎宣以(てつさぶろう のぶため 23歳 のちの鬼平)の岳父となる仁である。

家譜をみると、与惣兵衛親英の父は、黒田左太郎忠恒(ただつね 享年93歳 新番与頭 250俵)、母は大橋与惣右衛門親宗(ちかむね 享年79歳 800石)のむすめである。
長生きのDNAを受け継いだ仁のようだ。おめでとう。

与惣右衛門親宗も、与惣兵衛も同族で、本家(2120石 絶家)は肥後国山本郡大橋の出で、家康以来の幕臣である。

黒田家は、近江国伊香郡黒田村の出。
本家は、黒田官兵衛高(よしたか 筑前福岡藩主 52万石)。
その数代前の左衛門尉宗満(むねみつ)の長男・高満(たかみつ)の末裔を称している。

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(黒田忠恒・親英の個人譜)

三男の三郎左衛門親英は、母親の縁で大橋家に養子に入ったとかんがえるのはもっともである。
それもあるが、黒田左太郎忠恒は、小梅村に屋敷をあてがわれていたものの、実は、下谷・和泉通りの大橋家の敷地の一部を借り、別棟を建てていたのである。

先代の与惣兵衛親定(ちかさだ 享年68)が享保17(1732)年5月4日に葬したので、急遽、末期養子の届けをだし、同年7月4日に遺跡継承(39歳)がみとめられた。
ずいぶん,遅い養子入りであるが、むしろ、養父・親定の手ぬかりを責めるべきかもしれない。

黒田姓から大橋姓に変わって出仕してからの親英の勤務ぶりと出世はめざましい。
ただ、万年家からの先妻が産んだ長女を自分の実家へ養女に出したり、二女・英乃(ひでの 22歳)の婿養子の選択などを見ると、仕事はでき、人づきあいもそつはなかったであろうが、家族への配慮には、久栄のいうとおり、欠けるところがあったやに見うける。

鬼平犯科帳』では、高杉道場で、銕三郎の32歳年長の老剣友と書かれているが、はたして、入門していたかどうか。p158 新装版p270
仕事一点張りの親英が、地所借りしていた黒田家にまだ籍があった時代、和泉橋通りからわざわざ本所・出村の高杉道場まで稽古に通ったともおもいがたい。

あるいは、久栄が、どこかで近藤勘四郎と知り合い、に処女のあかしを奪われたすこし前に入門したとしても、住まいは和泉橋通りであったのである。

長谷川家と大橋家が、入江町になかった史実も引いた。
とすると、

「もう久栄は、嫁にゆけぬ」

などと、愚痴を銕三郎にこぼすこともなかったろう。
ま、このあたりは、小説の醍醐味なので、あまり、かっちりと触れては、それこそ艶消しというもの。


[大橋家の息女・久栄(ひさえ)] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)


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2008.09.26

大橋家の息女・久栄(ひさえ)(8)

「おかしいじゃないか。入江町の長谷川家の左どなりが大橋家、そのまた左に、17歳の処女(むすめ)のあかしを久栄から奪った近藤勘四郎の家があったのではないのか?」([むかしの男]p257 新装版p269)

鬼平犯科帳』の熱烈なファンほど、疑問をお投げになる。
その疑問は、ダルビッシュ有くんの直球の強さほどに、ずっしりと重い。

熱烈ファンの方なら、

参照】2007年8月13日~[大橋家から来た久栄] (2) (1)

の逆順に、お目とおしいただきたい。
ついでに、

参照】2007年9月6日[『よしの冊子(ぞうし)』 (4)
2008年3月8日~[南本所三ッ目へ] (9)

ファンの夢をこわすみたいで、申しわけない。
ちゅうすけだって、文庫3[むかしの男]の名場面がなりたたなくなることを憂えてはいる。
しかし、小説と史実は違うのだ---と、割り切ることにしている。

このプログは、小説でもないし、歴史書でもない。
「じゃあ、なんなんだ?」
問われると、
銕三郎(てつさぶろう)のヰタ・セクスアリス(性の放浪)であり、〔荒神(こうじん)〕のお(なつ 26歳)に誘拐されたまま未完となっている、おまさを救出するためのあれこれ」
こう、答えるしかない。

むかしの男]の名シーンとは、

久栄が平蔵の妻になったとき、
「このような女にても、ほんに、よろしいのでございますか-----? 」
久栄が両手をつき、平蔵に問うた。
「このような女とは、どのような女なのだ?」
「あの、私のことを---」
「きいたが、忘れた」
「ま------」
「どっちでもよいことさ」
「は---」
「おれはとても極道者(ごくどうもの)だ。それでよいか、と、お前さんに問わねばなるまいよ」
いうや平蔵、ぐいと久栄を抱き寄せ、右手を久栄のえりもとから差しこみ、ふくよかな乳房をふわりと押さえつつ、
「久栄」
「はい---」
「お前、いい女だ」p260 新装版p272

男なら、一度でいいから、言ってみたい、やってみたいシーンであろう。
もっとも、最近は、ウ゜ァージニティなど、むしろ、男性のほうに多いのかもしれないが。

もう一つの、結婚23年後の名セリフ。

「それよりも久栄。お前もまた、むかしの男に何と強(きつ)いまねをしたものだ」
「存じませぬ」
「怒るな。いやみを申したのではない」
「申しあげまする」
「何じゃ?」
「女は、男しだいにござります」p287 新装版p300

若い女性が、『鬼平犯科帳』に惹(ひ)かれるところでもある。
もっとも、妻からこう言われて、忸怩(じくじ)たるおもいをする男性も少なくなかろうか---ちゅうすけは、忸怩の側である。

さて----明和5年(1768)の春、〔五鉄〕の2階へ戻って。

母親違いの姉・英乃(ひでの 22歳)のこころの傷を語り、自分は、養子をとる気はない、大橋の家を出たいのだ、と銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)に打ち明けた久栄(ひさえ 16歳)が、
「家の恥を、はしたなくも口にした久栄を、銕三郎さまは、軽蔑なさいましたでしょうね?」
その目には、行灯の明かりをうけて、涙が光っていた。

(ここで抱けば、久栄はおれのおんなになる)

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(国芳『逢悦弥誠』 イメージ)

しかし、銕三郎は動かなかった。
久栄も、くずれてはこなかった。

「失礼をいたしました」
久栄が涙をぬくったとき、銕三郎は、
「武家の婚儀は、家と家の取り決めです。今宵の久栄どののお申し出は、母へ通じておきます」
「あ---」
「母は、さいわいなことに、久栄どのに好意を感じているようです」
「かたじけないことです。ありがとうございます」

「これから先のことは、親同士の手へ移すことに---」
「はい。でも、ときどきお逢いするのことぐらいは、私たちに許されているのでございましょう?」
おまさの師匠同士として---」
銕三郎は、無理に微笑んだ。

久栄も、もう、涙を浮かべてはいなかった。
その双眸で見返してきた。

久栄どの。拙の頼みを聞いてくださいますか?」
「なんでございましょう?」
「これを、久栄どのの麗筆で、写本していただきたいのです」
「『孫子』。いつまでにでございますか?」
「2日後---」
「三ッ目通りのお屋敷へお届けすればよろしいのでございますね?」
「拙が留守のときは、母へ、お渡しおきください」
久栄が、心得顔で、ゆったりと微笑んだ。
16歳とは、とてもおもえない、まさしく世故にたけた、大人のおんなの笑みであった。


[大橋家の息女・久栄(ひさえ)] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7)

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2008.09.25

大橋家の息女・久栄(ひさえ)(7)

[大橋家の息女・久栄(ひさえ)](6)でご披露した大橋与惣兵衛親英(ちかふさ)の[個人譜]にはつづきがある。
といっても、明和5年(1768)の春の銕三郎(てつさぶろう 23歳)と久栄(ひさえ 16歳)には関係が薄いが、再録ついでにつけくわえておく。

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(大橋与惣兵衛親英の個人譜と久栄)

こういうものを見なれていれば、明和5年(1768)の久栄が16歳、父の与惣兵衛親英は卒した寛政8年(1796)が83歳なら、明和5年には55歳---と勘定なさろう。
とすると、久栄親英が39歳のときの子、二女・英乃(ひでの)は33歳の子とも暗算なさる。

久栄は、井口(いのぐち)家からの後妻の子とも言っていた。
二女・英乃(ひでの 22歳)は、万年家からの先妻---この先妻は離縁とも書かれていないし、万年家のほうの家譜にも離婚とは書いていないから、病死したものとかんがえられる。

後妻の最初の子が久栄であるから、亡じたのは、英乃が3,4歳のころであろうか。

親英は、先代・親定(ちかさだ 享年68歳)の末期養子に近い。
黒田家から19歳のときに迎えられた。
出仕は、それから5年後の元文2年(1237)。

役料なしの廩米200俵では、内証(ないしょ 暮らし向き)に余裕があるとはいえなかったかもしれない。
銕三郎久栄が出逢ったときには、西丸の新番の与頭(くみがしら 組頭とも書く)であったから、600石格で、400石の足(たし)高がついていた(もっとも、400石といっても、4公6民ということで、じっさいに給されるの400石の4割---160石であったらしい)。
それでも家禄に近い実収増である。

久栄が、「家の事情」といったのは、そういう家計のことではなかった。
「いずれお耳に入るとおもいますから、英乃姉上の病いのもとをお話しておきたかったのです」

英乃は、17歳のときに最初の夫を迎えた。
家譜に、某---岩佐五郎右衛門茂伴(しげとも 享年38歳 70俵5人扶持)の3男・左膳とある仁であったが、病気持ちとわかって、すぐに養子縁組が解消された。

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(岩佐左膳の個人譜)

去年の秋に迎えたのは、名門・京極一門ではあるが、末流に近い三右衛門高明(たかあきら 享年45歳=安永8年(1779) 2000俵)の弟・高本(たかもと 推定30歳)。

ちゅうすけ注】池波さんが、『鬼平犯科帳』で、平蔵宣以(のぶため)の理解者としている京極備前守高久(たかひさ 丹後・峯山藩主 1万1000余石 のちの若年寄)はこの一門。
参照】2006年4月11日[若年寄・京極備前守高久

_360_2
(京極文次郎高本の個人譜 水野姓から京極へ改姓)

その齢まで養子の口がかからなかった原因は、言動が異常者じみているからと、養子にとってみて分かった。
そのせいで、英乃はこころの病いになり、高本はとりあえず実家に引きとってもらっているが、与惣兵衛親英は、2人つづいての養子の不縁は世間体(てい)も悪(あ)しく、自分の見識も疑われると、離縁にはいまもって首を縦にふらない。
(2年がかりで、けっきょくは不縁となったことはなったが---)

「わが家の、2人つづけての養子不始末のことは、いずれ、世間の噂になるでしょうが---」
長谷川家は、他家のことは語らないことになっておりますゆえ---」
「家の犠牲になった形の、英乃姉上が痛わしくてなりませぬ。20歳をちょっとでたばかりの若い身ぞらで---。そして父は、こんどは私の婿養子を考えているようなのです。私は、嫌。お嫁にいって、大橋の家をでるつもりです」
銕三郎は、相槌(あいづちう)がうてず、久栄の潤(うる)んだ双眸を見つめるばかりであった。


[大橋家の息女・久栄(ひさえ)] (1) ((2) (3) (4) (5) (6) (8)


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2008.09.24

大橋家の息女・久栄(ひさえ)(6)

銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)、大橋家の久栄(ひさえ 16歳)の出逢いを書いている。

しかし、読み手の理解を鮮明にするために、ちゅうすけは、すこし先走って、久栄の年賦を掲出しておきたい。

宝暦3年(1753)  大橋与惣兵衛親英(ちかひで)の次女として誕
            生。 
            母はその後妻。幕臣・井口新助高豊の三女。

明和5年(1768)  銕三郎と知り合う。
     (16歳)

明和6年(1769)  長谷川銕三郎宣以(のぶため)と婚儀。
     (17歳)

明和7年(1770)  嫡男・辰蔵を産む。
     (18歳)

安永元年(1772)  長女・を産む。
     (20歳)    河野吉十郎広通の妻。 

安永3年(1774)  次女・を産む。
     (22歳)   渡辺義八郎久泰の妻。
天明元年(1781)  二男・正以を産む。
     (29歳)   長谷川栄三郎正満の養子。

天明3年(1783)  三女を産む。
     (31歳)

寛政7年(1795)   夫・平蔵卒(享年50歳)。
     (43歳)

文化12年(1815)  久栄
     (63歳)   法名・滋雲院殿妙瑞日光大姉


銕三郎さま。聞いていただけますか?」
「なにを、ですか?」

本所もはずれに近い、四ッ目の裏通りの居酒屋〔盗人酒屋〕から、下谷・和泉通りの大橋家まで、久栄を送っての道すじである。

「私の家の複雑な事情を---でございます。ご迷惑でございましょうか?」
「よそさまのご家庭の事情に、深入りしてはいけないと、つねづね、父から言われております」
「やっぱり---」
「いえ。お話しになることで、久栄どののおこころの苦痛が、薄らぐのであれば、喜んでお聞きします。ただ---歩きながらでは失礼です。もう一軒、おつきあいくださいますか?」
「うれしい」

銕三郎は、二ッ目ノ橋北・東詰の〔五鉄〕へ、久栄をいざなった。
[軍鶏(しゃも)鍋」と白ぬきした紺のれんをくぐると、板場の格子ごしに三次郎(さんじろう 明けて18歳)が目ざとく認めて、包丁を置いてでてきた。

さぶどの。上の部屋を借りたいのですが---」
「どうぞ、どうぞ」
「酒となにか---」
「軍鶏の肝の甘煮でも---」
「頼みます」

三次郎が小女に準備を言いつけているあいだ、入れこみの端に腰をおろした久栄は、双眸をきらきら輝かせて店内を眺めている。

「軍鶏は初めてでございますか?」
問いかけた三次郎に、
大橋と申します。はい、軍鶏鍋は、まだ、いただいたことがございませぬ」
「こんど、長谷川さまと、早い時刻においでになって、お試しください」
「はい、そういたします」

入れこみの奥の階段をあがっていく銕三郎に、三次郎が片目をつむった。
銕三郎は、頭をかすかに振った。
三次郎がうなづく。

酒と肴は、三次郎がみずから運んできて、まず、久栄に酌をし、
「どうぞ、肝をお試しになって---」
久栄が箸をとり、1片を口にいれ、
「あ、柔らかくて、香ばしい」
感嘆の声をあげた。
三次郎は、すっかり満足して、降りていった。

「お酒は大丈夫ですか?」
銕三郎が訊いた。
「はい。父が毎晩のようにいただきます。お相伴は私なのです」
「そういえば、お姉上のお具合は?」
「おぼえていてくださったのですね。うれしゅうございます」

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(大橋与惣兵衛と久栄)

あすまでに、朱傍線の部分だけでも、一瞥しておいていただけると、話がすすめやすい。


[大橋家の息女・久栄(ひさえ)] (1) (2) (3) (4) (5) (7) (8)


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2008.09.23

大橋家の息女・久栄(ひさえ)(5)

(てつ)兄(に)さん。このあいだ、どこかで食べておいしかったと言っていた、田にしの酢味噌和(あえ)え、お父(とっ)つぁんが工夫しました。食べますか?」
おまさ(12歳)が、ことさら親しげな口調で、問いかけた。
おまさとすれば、あたしと銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)との仲は、きのうきょう、始まったのではないと、久栄(ひさえ 16歳)にあてつけたのである。

久栄は、聞こえなかったふりをして、おまさの手習い帖を眺めている。

「おお、頼む」
銕三郎が答えたとき、2人づれの早めの客が入ってきて、見慣れない武家むすめ・久栄のほうをじろじろと眺めると、おまさはその視線をさえぎるように立ち、注文をとった。
対抗意識を燃やしながら、早くも、仲間意識も芽生えている。

板場から、亭主の〔たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ 45歳からみ)が察しよく、ちろりと田にしを運んできた。
「のびるをあしらってみました。お口にあいますか?」

箸を久栄へもせた銕三郎が、田にしをつまんだ。
しこしこした歯ごたえ、身の舌ざわりに、ふと、なにかを思いだした。
(はて、この感触は---あ、お(なか 34歳)の乳首!)

顔に血がのぼったような気がして、思わず久栄をうかがったが、久栄は、頬をゆるませながら田にしをあじわい、
「母方が、近江の出の井口(いのくち)家の者で、元は浅井(備前守長政)さまに属しておりましたから、田にしは、わが家でもよく膳にのぼりますが、のびるの根まであしらったこの味は、格別でございます」

ちゅうすけ注】井口家は、徳川秀忠の内室・於江与(およえ)の推薦で幕臣となった。於江与は、太閤秀吉の養女だが、じつは浅井長政の息女。

うなずきながら銕三郎は、けしからぬことをかんがえていた。

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(北斎『ついの雛形』部分 イメージ)

の乳首は、むすめのお(きぬ 13歳)と多くの男どもがが吸って、肉もこっちの田にしの身ほどもついているが、処女(おとめ)の久栄どのの乳首は、ちんまりしたほうの田にしほどであろうか。色もあざやかな桃色で---)

客への酒と肴の配膳をすませたおまさが、
大橋先生は、いつから来てくださるのですか?」
「おお、そのこと、そのこと---」
銕三郎はそう言ってから、いつかの母・妙(たえ 43歳)の言葉をおもいだした。

が座敷女中をしている雑司ヶ谷の料理茶屋「橘屋」でのことであった。
「このお部屋へ入りましたとき、香が炷(た)かれているのに気づきました。先日、銕三郎の着物から匂ったのと同じような香気と、いま、合点しました。伽羅(きゃら)とは異なり、清涼な感じがふくらんでいるやにおもいます。おどの、なんという香木でしょう?」
に、こう問いかけた。
と出事(でこと 交合)をする部屋で、脱いだ着物に香(こう)の匂いがしみ、翌日までのこっていることを、が言ったのである。

(すると、男女のそれの匂いものころう。もっとも、久栄どのは生(き)むすめゆえ、あの匂いの正体は知るまいが---生きむすめだけに、鼻はするどかろう。5の日のすぐあとは避けよう)

大橋どの。3の日ごということでいかがでしょう? 拙の道場での稽古も早くあがる日です。3の日ごとの七ッ(午後4時)から小一時間ということでは?」
「私のほうのお稽古ごとは、その時間にはございませぬ」
おまさ。そういうことに---」
兄さまも来てくださるの?」
「邪魔か?」
「とんでもない。2人ものお師匠(っしょ)さんなんて、豪儀だわぁ」

それまで、3人のやりとりを黙って聞いていた寅松が、泊めてもらっている家が四谷(よつや)なもので、遅くなると迷惑をかけるので---」
腰を浮かせながら、
「親分。明日、三ッ目通りのお屋敷へ伺ってもええでな?」
「昼すぎからなら、いつでも---」
「それでは---」
帰って行った。

そろそろ、客がたて混んできはじめたので、おまさも忙しく動きまわるようになった。
銕三郎は気をきかせて、久栄をうながした。

外は、すでに暮れかけていた。
おまさが、提灯と替えの蝋燭を3本、用意した。
下谷(したや)・和泉橋通りの大橋家まで、銕三郎が送って行くことを、少女らしいませた勘で見通していたのである。

竪川ぞいに銕三郎と並んであるくのも、久栄は、当時の武家のむすめとしては変わっていた。男の後ろから3歩遅れてあるくのが礼儀にかなっているとおもわれていたのである。
「並びませぬと、お話が通じませぬ」
久栄どの。拙には、敵がおります。暗いところではかまいませぬが、昼間は、避けておいたほうがよろしいでしょう」
「敵とおっしゃいますと---?」
「盗賊の一味です」
「なぜ、盗賊が銕三郎さまを---」
すでに、人目のないところでは、長谷川さま、大橋どのどでなく、銕三郎さま、久栄どのに、それが当然のように変わっていた。

「そ奴どもの探索をしましたので---」
「では、甲州へのお旅も?」
「からんでおりました」
「お気をつけあそばして---」
「拙は大丈夫ですが、久栄どのが拙とかかわりがあるように気どられてはなりませぬ」
「手でもつないで、見せつけてやりましょうか」
久栄は、ふっ、ふふと含み笑いをしながら言った。
大胆なむすめであった。
銕三郎はふたたび、不逞な空想をたくましくした。
銕三郎は、塾の悪友が隠しもってきた春画をおもいだし、いま、久栄の口を吸ったら、久栄はどんな抵抗ぶりを示すかと---。
ま、若者にありがちな空想てしかなく、このあたりは、並みの青年と変わらない。
いや、もうすこし悪かも。

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(国芳『江戸錦吾妻文庫』[生むすめ]部分 イメージ)


[大橋家の息女・久栄(ひさえ)] (1) (2) (3) (4) (6) (7) (8)

 


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2008.09.22

大橋家の息女・久栄(ひさえ)(4)

「兄上。母上がお呼びです」
一応は武家のむすめ風に言ってから、
「兄上、やったじゃないの---」
与詩(よし 11歳)は、肩をすくめた。

駿府城代・朝倉仁左衛門景増(かげます 享年61歳)が晩年にもうけた二女だったが、長谷川家へ養女にきて5年になる。

参照】2007年12月21日~[与詩(よし)を迎えに] (1011121314151617181920212223242526272829303132333435363738394041) 

養父・宣雄(のぶお 50歳)や養母・(たえ 43歳)にはすっかりなじんだが、銕三郎(てつさぶろう 23歳)には、駿府へ迎えにきてもらった道中、お寝しょうの心配をさせたので、いまだに照れがのこっている。
だから、逆に姉さんぶった口をきく。

「やったって、なんのことだ」
さま」
大橋どののご息女か?」
わざと、とぼけた。

銕三郎には分かっていた。
今日あたり、〔あすか山〕の寅松(とらまつ 17歳 掏摸)が、大橋家を訪ねて、久栄一行から掏った金を戻しに行ったはずである。
そのとき、銕三郎に諌められたから、と告げる。

参照】2008年9月8日[中畑(なかばたけ)〕のお竜] (2) (3) (4)

そうすれば、まともな武家の家なら、明日あたり、久栄が礼を述べにやってくる。
しかし、こんなに早々とくるとは---。

「おとないは、これで2度目ですよ。兄上が女性(にょしょう)にとって隅におけない人であることは、阿記(あき 享年25歳)姉上のことでわかっていましたけれど、もう、次の方ができたなんて---」
「ばか。余計なことをしゃべると、嫁入りのときに、おむつのことをバラすぞ」
「意地悪」

客間へ行くと、母・と歓談していた久栄が、先細の三つ指をそろえ、黒々とした双眸で、まともに銕三郎の目をみつめて、
「その節はお世話になりましたばかりか、寅松どのまでお気くばりいただき、まことにありがとうございました」
ふかぶかと頭(こうべ)をさげた。
銕三郎には、久栄の白くきれいな項(うなじ)が、なまめかしく映った。

「いや。もののはずみで、としりあいましてな---」
どもりながら、やっと、言えた。

「〔船橋屋〕のお羊羹をおもちくださったのですよ」
「それは、それは---」
あいかわらず、口がまわらない。

Photo
(羊羹が秘伝の〔船橋屋織江)

【参照】〔船橋屋〕は、2008年8年9日[〔菊川の仲居・お松〕 (8) (10)

「お酒ともおもいましたが、父が、こちらさまはお召し上がりにならないようだと申しましたので」
「そうでしたか。いや、なに---」

銕三郎の、常にない、しどろもどろがつづく。
「ちと、約束がありまして。失礼」

いそいで支度をし、門から離れた角で待った。
しばらくして、供の小者を従えた久栄があらわれたので、
大橋どの」

「なんでございましょう?」
久栄はかすかに微笑んで、銕三郎をみつめた。
目じりがさがって、やさしげな表情になる。
「これから、寅松と逢います。遠路、そのことだけで府内にきたので、慰労してやります」
「それは行きとどいたおこころ遣いですこと---」
「お差し支えなければ、ごいっしょにいかがとおもいまして---」

「遠くでございましょうか?」
「いえ。四ッ目ノ橋のそばですから、ほんの5丁(500m)ばかり---」
久栄は、ちょっとかんがえるふりをして、
十蔵。そなたはお帰りなさい。私の帰りは長谷川さまがお送りくださりましょうほどに---」
みごとに供を帰してしまった。
武家のすめとしては、大胆きわまる決心である。

十蔵は、しつけよく表情も変えず、銕三郎に腰をかがめ、
「お嬢さまを、よろしく---」
とだけ言い、大川のほうへ去った。

「さ。邪魔者が消えました。参りましょう」
久栄が、先に立って三之橋に向かってあゆみはじめたのには、銕三郎のほうが、あっけにとられた形であった。
振り返った久栄は、いたずらっぽく、満面に笑みをたたえている。

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(三ッ目ノ橋から〔盗人酒場〕 長谷川邸は、三ッ目ノ橋の左手2丁)

〔盗人酒場〕へ入っていくと、寅松の話しを真剣な顔つきで聞いていたおまさが、飯台から立ち上がったが、久栄を認めて、寄ってはこなかった。

寅松が、
「おや。大橋のお姫さま。またお会いできました」
それで、おまさは、寅松の事件の主(ぬし)だとわかったようであった。

おまさ。手習いのいいお師匠さんをお連れした」
銕三郎が、
「手習い帖をもってきて、観ていただきなさい」
おまさは、しげしげと久栄を見つめていて、動かなかった。

久栄も表情をくずさず、生真面目な声で話しかけた。
おまささんですね。お初にお目もじいたします。久栄と申します。深大寺(じんだいじ)で、長谷川さまに、大層お世話になりました。そのいきさつは、そちらの寅松どのからお聞きになったとおもいます。きょうは、寅松どののご好意のご報告に、長谷川さまのお母上のところへ伺いました。そういたしましたら、寅松どのがこちらにいらっしゃるからと、銕三郎さまがお誘いくださいました。寅松どのに、長谷川さまへ報告できたことをお伝えできる、丁度いい折りとおもい、ご相伴させていただきました。突然のおとない、お許しくださいますよう」

おまさは、一言も返せなかった。
くやしいけれど、大人のおんなと子どもの対面だと、身にしみるほど分かった。
精一杯の笑顔を見せて、
「ようこそ、いらっしゃました」

久栄は内心からの笑顔を返し、
「私にも、4,5年前、おまささんの齢ごろがございました。ちょうどそのころは、お師匠さまに、筆をもつ手を、いつもぴしゃりとぶたれておりました」

おんな同士のすさまじい心理戦に、あっけにとられていた銕三郎が、やっと口をはさめた。
おまさ。拙だと、どうしても男文字になってしまう。おまさはおんななのだから、もう、そろそろ、おんなのお師匠さんのお手本を学んだほうがいいとおもうよ」
おまさがうなずき、手習い帖をとりに2階へあがった。

[大橋家の息女・久栄(ひさえ)] (1) ((2) (3) (5) (6) (7) (8)

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2008.09.21

大橋家の息女・久栄(ひさえ)(3)

「その後、神田鍋町の海苔問屋〔旭耀軒・岩附屋〕の賊の探索は、すすみましたか?」
銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)は、加藤半之丞(はんのじょう 30歳 火盗改メ同心)に酌をしながら訊いた。
場所は、市ヶ谷八幡宮境内の料理茶屋〔万(よろず)屋〕の座敷である。

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(市ヶ谷八幡宮 境内に料理茶屋〔万屋〕=青小〇 近江屋板)

参照】同心・加藤半之丞 2008年2月20日~[銕三郎(銕三郎)、初手柄] (1) (4)
2008年9月3日~[蓑火(みのひ)〕のお頭] (6) (7)

甲州への旅費が半分近くのこっているので、きょうも、銕三郎加藤同心を誘った。

「進展しておりませぬ」
加藤同心があやまる。
加藤同心は、先手・鉄砲(つつ)の16番手、組頭・本多采女紀品(のりただ 55歳 2000石)の組下である。
銕三郎が、お頭(かしら)と親しいことを知っているので、言葉遣いも、おのずから丁寧になる。

「金を強奪してからの、引き上げの経路は、お調べがついているのでしょう?」
「はい。それは---」

加藤同心は書留(かきとめ)役同心だから、事件の記録には、ほとんど目を通している。

神田鍋町から神田川南岸の柳原土手まではずっと町屋つづきで、武家方の辻番所はない。
その代わり、町々の自身番所がいくつかあるが、大晦日から元旦にかけては、掛取りや初詣の人通りが絶えないので木戸を閉めない。
そこが、賊のつけ目であった。
柳森稲荷の下手に舟をもやっておき、一同、それに乗って大川へ逃げたらしい。

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(神田鍋町=緑〇から 神田川ぞい柳森稲荷=青小〇)

「高輪の牛舎前の松明舟といい、引き上げの舟といい、ずいぷんと、舟を利用していますが、そちらからの手がかりはないのですか?」
「船宿だけでもご府内には700軒からありますからね」
「船宿の舟でしょうか。足のがくような舟を使いますかな」
「たしかに---」
「佃島あたりの漁師の舟とか、深川・洲崎の釣舟とか---」
長谷川さま。それがしは書留役です。捕り方へ命令はできませぬ」
「そうでした。ご無礼をお許しください」
(そういうことだと、居酒屋〔須賀〕で頼んだ、中山道で〔蓑火みのひ)〕の喜之助(きのすけ)が買ったとおもわれる安旅籠調べの件も、岡野与力(41歳)へも通していまい)

参照】2008年8月29日~[〔蓑火(みのひ)〕のお頭]  (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)
2008年9月13日~[中畑(なかばたけ)のお竜] (7) (8)
2008年9月16日~[本多組同心・加藤半之丞] (1) (2)

銕三郎は、そのことを加藤同心に確かめるのははばかられた。
加藤同心を追いつめるようなことになっては、とおもんぱかったのである。

しばならく、気まずい空気がただよった。
気分を変えるように、銕三郎が女中を呼び、新しい酒を頼んだ。

「話は変わりますが、鉄砲(つつ)の16番手の切支丹屋敷下のお組屋敷には、与力の方々もお住まいなのですか?」
話題が変わってほっとしたように、加藤同心が酌をしながら、
「与力の方々は、加賀町にお屋敷をもらわれております」
加賀町---いまの新宿区二十騎である。

「そうでしたか。あそこは、弓の1番手の与力の方々のお屋敷ばかりとおもっておりました」
「二十人の与力の方々がお住まいです。弓の1番手の与力が10家、われわれ鉄砲の16番手の与力の方々が10家---」
「どちらも、格式のお高い組なのですね」

公式には何番手で呼ばれているが、うちうちでは〔駿河組〕---すなわち、駿河以来の伝統を誇っている組なのである。

(そろそろ、雑司ヶ谷へでかけるかな)
銕三郎は、
「ちょっと野暮用がありまして、お先に失礼しますが、どうぞ、ごゆるりとお召しあがりください」

帳場で、加藤同心への手みやげの折詰の分も支払い、提灯を借りて、合羽坂へ向かった。

(34歳)が待ちわびているはずの鬼子母神脇の料理茶屋〔橘屋〕へは、たっぷり1里(ほぼ4km)の畑道をあるくことになる。

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(市ヶ谷八幡宮境内の料理茶屋〔万屋〕=青小〇 上は紀州家屋敷 右上〔橘屋〕=緑〇 その下の四角は小石川御殿 『宝永江都図鑑』部分)

参照】[〔橘屋〕のお仲] (1) (2) (3) (4) (5) (6)  (7) (8)

だが、銕三郎がおもいうかべていたのは、おの肉(しし)置き豊な躰ではなく、なんと、凛(りん)とした双眸の久栄(16歳)であった。

〔橘屋〕では、10日ぶりの抱擁というので、おは、もの狂ほしく求めた。
が、ふつと細目をあけて訊いた。
「甲府で、いい女(ひと)に出会ったのですね?」

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(清長『梅色香』 イメージ)

「どうして?」
「だって、うわの空なんだもの」
「そんなことはない」
(鋭いな)
「もっと---燃えあがらせて---」


[大橋家の息女・久栄(ひさえ)] (1) (2) (4) (5) (6) (7) (8)

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2008.09.20

大橋家の息女・久栄(ひさえ)(2)

「お願いの儀がございまして---」
驚き顔で白い顎ひげをしごく手をとめた竹中志斉(しさい 60歳)師に、銕三郎(てつざろう 23歳 のちの鬼平)は、いつになくかしこまって頭をさげた。

長谷川の頼みとは、はて、なんじゃろうかの?」
「『孫子』[虚実篇]を写本させていただきたく---」
「ほう。『孫子』をな」
志斉師は、ますます驚き顔になった。
銕三郎のことを、学問嫌いとばかりきめこんでいたからである。

「どうのような心境の変化かな?」
それには応えず、
「先生。ご所蔵でございましたでしょう?」
「あるにはあるが、貸し出すわけにはいかぬぞ。ここで写本する分にはかまわぬがの」

「拙の用ではないのです。じつは、ご公儀にかかわることでありまして---」
「『孫子』 がか---? はて、面妖な---」
「火盗改メへ本役のお頭・本多采女紀品(のりただ 55歳 2000石)さまからの、たってのお言いつけで---」
「そのような仔細ならば、いたし方ない。して、なんヶ日ほどかの?」
「3日---いや、5日で写本してご返却いたします」

咄嗟(とっさ)に、「5日」と答えた銕三郎のおもわくを推察すると、こうだ。

2日後に、〔からす山〕の寅松(とらまつ 17歳)が、上高井土(かみたかいど 上高井戸)から下谷(したや)・和泉橋通りへやってき、銕三郎に説諭されたからと言い、大橋家に掏(す)った金を返却するはずである。
すると、同家の息女・久栄(ひさえ 16歳)が、そのことを報告に、またも、長谷川家を訪れよう。
その機をとらえて、麗筆の久栄に、『孫子 第6章 虚実篇』を写してくれるように頼む。
そうすれば、写本も持ってきたときにも会える。
断られたら、自写すればいい。
それから返しても、5日あればたりよう。

まんまと借り出した[虚実篇]の出だしは、

孫子曰く、先んじて戦地に処(お)りて敵を待つ者は佚(いつ)し、後(おく)れて戦地に処りて戦い趨(はし)る者は労(ろう)す。故(ゆえ)に善(よ)く戦う者は、人に致(いた)すも人に致されず。能(よ)く敵をして自ら至ら使(し)むる者は、之(これ)を利すればなり。
(敵が戦場に陣を構える前に、到着した待ちかまえて軍は気力が満る。逆に遅れながら急いでたどりついた軍士は疲労が回復せず、士気もあがらない。だから、有利に戦おうとするならば、先手をうって敵をこちらのおもうままに動かし、敵のおもうままに動かされない)。

なにごとも先手をとれ、といういうことであろう。
それには、相手の手のうちを読む先見性が必要である。
そして、誘導する計りごとも。
織田信長公が今川義元どのの軍勢を狭い桶狭間へ誘いこむように仕組んだのもそうだ。ふっ、ふふふ。計ってしたことではないが、久栄どのが再度訪問するかもしれないような手だてになったのも、まあ、敵をしてみずから至らしむ---かもな)

参考】藤本正行さん『信長の戦争』(講談社学術文庫 2003.1.10)

正月の神田鍋町の海苔問屋〔岩附屋〕の押し込みでは、火盗改メは3組とも、後手々々にまわり、賊はあっさり逃げおうした。
(いや、まてよ。賊の逃げ道の探索は聞いていなかった---加藤半之丞 30歳)同心にたしかめることにしよう)。

翌日、まず、牛込(うしごめ)納戸町の長谷川邸に於紀乃(69歳)を訪ね、〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)が武田方の軒猿(のきざる 忍び)のゆかりの者であることを報告することにした。

納戸町へ行くのに、ちょっと両国橋までまわり道して、和泉橋通りの大橋家の前をすぎてみたが、久栄は出てこなかった。

ちゅうすけ注】大橋家は、久栄の父・与惣兵衛から2代あとに、和泉橋通りから大塚へ屋敷替えになっているので、鬼平のころの地図には載っていない。
鬼平犯科帳』文庫巻3[むかしの男]p258 新装版p270 に本所・入江町からその後小川町へ移転したとあるのは、小説的虚構。気にするほどのことはない調査不足。

長谷川久三郎正脩(まさむろ 57歳 寄合 4050石)の広大な屋敷の隠居部屋である。
くる日もくる日も、季節の花々のほかはなんの変化もない屋敷で暮らしているこの老女は、武田の忍びのおんなにことのほか興味をもったようで、2朱(2万円ほど)で求めた土産の印伝の紙入れには、ほとんど関心をしめさず、銕三郎をがっかりさせた。
正脩は、別家からの養子で、於紀乃の実子ではない。
於紀乃は産まなかった。
他の腹が3人の子をなした。

もう9年ごし、甲府勤番支配をしている甥の八木丹後守補道(みつみち 55歳 4000石)に文(ふみ)をやって、もっと調べさせると、歯のない口で笑い、
「かっ。かかか。おもしろうなってきましたわい」
と喜んだ。
丹後守さまは、お忙しそうでございましたが---」
「なんの、なんの。山流しの身が忙しいものか」
勤番支配も、老叔母にかかっては、たまったものではない。
まあ、「山流し」は言いえているとしても---。

納戸町から中根坂を登り、左内坂を下ると、市ヶ谷の濠(ほり)に突きあたる。
そこが市ヶ谷ご門。

ご門からまっすぐ南へなだらかに下り、突きあたりが表六番町の通り。
左に曲がると、本多邸はほんの1丁先である。

火盗改メの役宅も兼ねている本多邸の門番が顔をおぼえていて、書留役(かきとめ)役の加藤半之丞(はんのじょう 30歳 30俵2人扶持)へ、すぐに通じてくれた。

出てきた加藤同心は丸い顔をほころばせ、
「市ヶ谷ご門わきに葭津張りの屋台茶店が出ていたでしょう? あそこなら、ゆっくりできます」
「それより、市ヶ谷八幡の境内の料理屋〔万(よろず)屋〕で、軽く---」
「いいですな。書類をしまってきますか、待っていてください」

ちゅうすけ注】市ヶ谷八幡の境内料理茶屋〔万屋〕は、『江戸名所図会』にも描かれている店である。『鬼平犯科帳』文庫巻4[おみね徳次郎]では、〔法楽寺(ほうらくじ)〕の直右衛門(なおえもん 60がらみ=)配下の女盗・おみねが座敷女中として働いていた。また、巻6[狐火]では、ここがなじみの鬼平おまさが呼ばれて、2代目〔狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう)とのかかわりを白状させられる。

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(市ヶ谷八幡宮 拝殿のある境内右手の瓦屋根〔万屋〕
『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

キャプション:或人の説に、市谷、昔は市の立ちし地なりゆゑに市買ひに作りたりといふ。しかれども詳らかならず。按ずるに、鎌倉鶴岡八幡宮に蔵するところの延文三年(1358)12月22日の(足利)基氏の古証文に、「鶴岡八幡の雑掌任阿(にんあ)申す。武蔵国金曾木彦三郎・市谷四郎等のこと、江戸淡路守押領を止む。正和元年(1312)8月11日の寄進状に任せ、社家に付きて沙汰せらるべし」と云々。証とすべし。社地に儀台(しばい)・楊弓(ようきゅう)の類ありて、つねに賑はし。また社前の大路は四谷への往来にて行人(こうじん)絡繹(らくえき)たり。

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【ちゅうすけ注】明治39年(1906)ごろの市ヶ谷八幡宮門前町
『風俗画報』1906年8月1日号 [牛込区之部 下])

境内の〔万屋〕でなく、門前の店でもよかったが、おみねに敬意を表して。

参照】女賊・おみね 2008年4月30日~[盗人酒屋]の忠助 (2) (3) (4) (5) (6) (7)
2008年7月22日[明和4年(1767)の銕三郎 (6)
2008827[〔物井(ものい)〕のお根] (1) (2)


[大橋家の息女・久栄(ひさえ)] (1) (3)(4) (5) (6) (7) (8)

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2008.09.19

大橋家の息女・久栄(ひさえ)

大橋さまのご息女・久栄さまがお見えになりりましたよ」
銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)が、甲府から帰って、母・(たえ 43歳)の部屋へあいさつに出向くと、告げられた。

「深大寺(じんだいじ)で、銕三郎にずいぶん助けられたと感謝しておいででした」
は、久栄(ひさえ 16歳)が返してよこしたという1分金を2ヶわたしてくれた。

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(元文1分金 『日本貨幣カタログ』より)

「おや。2分(8万円)もでしたか。1分は、拙からの荷馬賃にと言いましたのに---」
銕三郎。それは、そなたが間違っております。武家のむすめが、見も知らぬ殿ごからのいわれもないお金を受け取るものではありませぬ」
「しかし、深大寺から---下谷(したや)の和泉橋通りの大橋どのの屋敷までは、たいそうな道のりです」
「そのことと、見知らぬ殿ごからのお金をもらうこととは、別ごとです。お返しになった久栄さまのお気持ちを察してあげなければ---」

「あいわかりました。軽率でした」
銕三郎への、書状も置いていかれました」
「ご大層なことで---」
「これ、口がすぎましょう」

銕三郎は、久栄からの麗筆の手紙を、ふところになおし、はやばやと母の前を去った。
なに、一刻も早く、久栄の文(ふみ)を読みたかったのである。
おんなからの文というだけで、胸がたかぶった。

もちろん、いつかも、〔橘屋〕の座敷女中・お(なか 33歳)から、達筆とはいえない文を貰ったことはある。
しかし、16,7歳という、齢ごろの生(き)むすめからの文というのは、初めてであった。

自室にもどるや、早々に開封した。

深大寺での礼、おかげで姉・英乃(ひでの 22歳)が深大寺そばを堪能し、病状が好転してきていること、銕三郎の甲府への往復の旅の無事を祈念していること---などが、流麗な筆法で記されていた。
書簡の紙には、かすかに香の香りもあった。

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(深大寺蕎麦 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

銕三郎は、3度読み、文箱にしまってから、また、取り出して読み返した。
読むたびに、胸に暖かいものがはしった。
きりりとした双眸とは逆に、少女からむすめへ移りつつあるほんのりと赤みのある久栄の頬の色がおもいだされた。

急に、おを抱きたくなった。
8日、逢っていない---といっても、おの宿直(とのい)の夜を1回、やりすこしただけだが。
夜をともにできる5の日は明日であった。

あさっては、〔からす山〕の寅松(とらまつ 17歳)が、江戸へやってき、大橋家に掏(す)った金を返すことになっている。
甲府からの帰り、おふくろに顔を見せるという寅松とは、高井土(かみたかいど 上高井戸)の手前で別れた。

大橋家の件をすませたら、〔(たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ 45歳前後)がやっている〔盗人酒屋〕で落ちあうことになっている。
だから、〔蓑火(みのひ)〕の喜之助(きのすけ 46歳)の軍者の一人---〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)のことを、忠助に話しに行くのは控えた。

納戸町の長谷川家のご隠居・於紀乃(きの 69歳)へ報告に行くには、遅すぎる。
帰りに日暮れてしまう。

なんとも、手もちぶ゜さたで、することもなく時刻(とき)をすごしていると、久栄の、あのときの凛(りん)とした姿ばかりをおもいだす。

いちばん近い儒学の学而(がくじ)塾の竹中志斉(しさい 60歳)師を訪ねることにした。
母にそのことを断ると、養女・与詩(よし 11歳)と召使いのお(きぬ 13歳)に縫いものを教えていたが、笑って、
「珍しいこと」
与詩も冷やかした。
「兄上。どうした風の吹きまわしでございますか?」
生意気ざかりの齢ごろになってきている。
駿府に迎えに行ってやったときには、お寝しょうの心配ばかりさせたくせに。

は、目をあわせなかった。
母のお銕三郎のことにうすうす気がついているようだが、けなげにも、気(け)ぶりにもださない。

北森下町の学而塾は、午後の部の塾生たちはみな退(ひ)いて、がらんとしていた。

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(南本所 三ッ目通り・長谷川邸と五間堀ぞい・学而塾 近江屋板)

竹中先生」
声をかけて教室にあてられいる部屋へ入ると、眼鏡をかけて書を読んでいた志斉師が、
「どうしたはずみじゃ。長谷川---」


[大橋家の息女・久栄(ひさえ)] (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)


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2008.09.18

本多組の同心・加藤半之丞(2)

「盗賊が商人(あきんど)宿を買いとる? 何ゆえに?」
訊きかえしたのは、火盗改メ・本多組の書留(かきとめ)役同心・加藤半之丞(はんのじょう 30歳)である。

銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)が、江戸の大店と取引きしたり、みずから単価の高い品物をかついできて府内で売りさばいている近江商人はもっぱら、東海道ではなく、中山道を往来していることを説明した。

「そういえば、箱根を往来する商人には、伊勢や松坂の衆は多かったが、近江の衆はほとんど見かけなかったようで。そんなような次第でございやしたか」
小田原在の育ちで、箱根山道の荷かつぎ雲助をしていた〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち)の声には、実感がこもっていた。

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(箱根宿と関所 『東海道名所図会』部分 塗り絵師:ちゅうすけ)

「商人たちが、旅籠でかわす世間話の中に、盗賊が襲うにはもってこいの冨家や商舗のきれっぱしがまざっているかもしれませぬ」
「なるほど。商人宿なら、人の出入りがはげしいのがあたり前だから、盗人宿として、一味の者が出入りしても目立たないということですな」
加藤同心もいちおう納得した。
「さすがに、お通じが早い」
すかさず、銕三郎はほめあげる。

「しかも、中山道とは---!」
権七が感心しきった声をあげた。
こちらへも、
「東海道・箱根山道の主(ぬし)だった権七どのも、気づかなかった---」
「ぬかっていやした」
「気づいていれば、信玄公の軍者だった山本勘助はだしです」
「みごとに、なりそこねやした。はっ、ははは」
講談師の講釈で知っている山本勘助に並べられて、権七は悪い気はしない。

長谷川さまは、どういうきっかけで、商人宿とお気づきになったのですか?」
加藤同心が不審を述べた。
(女賊・〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)のことを打ち明けるのは、まだ早い)

「甲州で、信玄公の飛脚のろし台の遺跡を見ました。それで、高輪の牛舎の前の海で、舟から舟へ松明(たいまつ)の火で何やらの合図らしきものを交わした者があったということを思いだしました。あの盗賊一味は、諜報ということに長(た)けている向きから考えをつめたら、商人宿におもいいたったのです」

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(英泉[奈良井宿・名産之店之図] 『木曾海道六十九次』)

「目のつけどころが、さすが、でやす」
権七は簡単に納得したが、加藤同心はまだ、疑わしげな目で銕三郎を見つめている。

(この同心どのが本多采女紀品(のりただ 55歳)へ告げ、甲州勤番支配へおれの探索先を問いあわせたとしても、道案内をつとめた本多作四郎(さくしろう 37歳)うじは立ち会っていなかった。また、中畑郷の村長(むらおさ)・庄左衛門が、徳川方の役人に素直に報告するとはおもえない。おのことは、当分、秘しておけるだろう)
銕三郎は、こう、見切った。

(なに、バレたとしても、おが〔蓑火みのひ)〕一味の軍者であることは庄左衛門には打ち明けなかったから、〔蓑火〕のところまではたどれまい)

「盗賊だとて、齢(とし)は人並みにくいます。足腰が弱ったら、いま盗(ばたら)きはできなくなりましょう。そうしたときの引退(ひき)先として、旅籠をまかせるのも、いい考えだとおおもいになりませぬか?」
「なるほど。一挙三得ですな」
加藤同心は、とりあえず、うなずいた。

「襲う先のタネをひろう宝の山としては、この〔須賀〕のような酒場もあります。現に、かつて、女男(おんなおとこ)の口合人(くちあいにん)・〔雨女(あまめ)〕のお(とき 36歳=当時)もここで網にかかりました。しかし、中山道の宿々の数えきれない居酒屋を洗うことはできませぬ」

【参照】〔雨女〕のお時の事件は、[明和3年(1766)の銕三郎] (2) (3)

「それは、そうです」
加藤同心の関心は、どうやらそれたようだった。
酒客がだんだん入ってきたので、それからは雑談になり、加藤同心は杯を重ねた。

【参照】同心・加藤半之丞 2008年2月20日~[銕三郎(銕三郎)、初手柄] (1) (4)
2008年9月3日~[蓑火(みのひ)〕のお頭] (6) (7)

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2008.09.17

本多組の同心・加藤半之丞

加藤さま。その後、茶問屋〔岩附屋〕へ押し入った賊の手がかりは---?」
銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)が、ささやくような声で訊いた相手は、先手・鉄砲(つつ)の16番手の本多組の同心・加藤半之丞(はんのじょう 30歳)である。

参照】[〔蓑火(みのひ)〕のお頭] (5) (6) (7)

本多組は、組頭(くみがしら)の本多采女紀品(のりただ 55歳 2000石)が、去年(明和4年(1767)8月9日)に、再度の火盗改メを命じられ、組下60名が任務についている。
すでに書いたが、先手組の同心は32組とも30名がきまりだが、鉄砲の1番手と本多組の16番手にかぎり、なぜか、50人配備されている。
ふつうは、火盗改メが発令されると、無役の小普請組から数名、助っ人を補充するが、本多組はそれをしないでもまかなえている。

加藤半之丞がきているのは、永代橋東詰の居酒屋〔須賀〕。
銕三郎が、呼び出した。

半之丞は、本多組では書留(かきとめ)役・同心だから、よほどのことがないかぎり、見廻りとか捕り物にでることはない。
火盗改メ方のあいだは、小日向の切支丹屋敷下の組屋敷と本多邸の表六番町を往復しているだけなので、たまに、深川へ出むけて、喜んでいる。

〔須賀〕の亭主は、元・箱根の荷運び雲助の頭株・〔風速(かざはや)の権七(ごんしち 36歳)で、店は女将(おかみ)のお須賀(すが 30歳)がとり仕切っている。

参照】[明和3年(1766)の銕三郎] (2)

加藤同心は、盃を銕三郎に返して、
「押し入った賊は13,4人のようですが、〔神田鍋町〕かいわいの見張りとか、高輪・牛舎の火牛の手配、江戸湾の松明での伝送、下谷新寺町の広徳寺の支院・徳雲院でのボヤ騒ぎ、北本所の如意輪寺門前の火事などが同じ時刻であったことから、一味は20人はいたのではないかと---」

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(下谷・広徳寺と支院 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

「20人もですか?」
そう、言葉をはさんだのは権七であった。

「そう。20人がかりでないと、ああいう大仕事はできまい---というのが、大方が見たところですよ」
加藤さま。そう思わせるのが、賊の狙いかもしれません」
銕三郎の意見に、
長谷川どのには、別のお考えがおありのようですな」
「先んじて戦地に処(お)りて敵を待つ者は佚(いっ)す(先に戦いの場に陣を敷いていて、相手方の着到を待つ側は楽だ)---と、『孫子』も言っております。賊の中に『孫子』を学んでいる者がいるとは、考えられませぬか?」
「む?」

加藤さまのご一族で、文昭院殿(六代将軍・家宣 いえのぶ)さまの桜田の館(甲府藩公の上屋敷)で召された方がおられるのでは?」
「なぜ、それを---?」
「やはり---じつは、甲州へ行ってまいったのです。甲府城下で、加藤姓の勤番方にご縁のあるご仁と知り合いました。そこで、加藤姓の勤番士の祖が桜田の館に召されていたことを知ったのです。多分、その加藤うじは、武田信玄公の麾下におられた方の引きで召されたのだとおもいました」

参照】[本多作四郎玄刻]2008年6月30日[平蔵宣雄の後ろ楯] (15) (16)
2008年8月18日[〔橘屋〕のお仲] (5)

「甲府へ参られたのは、先日、ご依頼を受けた継飛脚(つぎひきゃく 幕府効用の飛脚便)にまぎれこませた書状にかかわりがありますか?」
「はい。あれは、大叔母の甥ごの仁で、甲府勤番支配をしておられる八木丹後守補道(みつみち 55歳 4000石)さまへの書状でした」
「ご用は達せられましたか---?」

「おおむね---」
「武田軍学ですか?」
「かの地に、いまなお、深くしみこんでいることがわかりました」
「そのことと、〔岩附屋〕へ押し入った賊とのかかわりあいは---?」
「それは、しかとはしませぬが、中山道の主だった宿場で、この10年のうちに、賊に襲われた事件をお調べになってみてはいかがかと---」

長谷川さま。なぜ、そのことを本多さまへじかにお話になりませぬ?」
「申しましたとおり、しかとは分かってはおりませぬゆえ、とりあえず、加藤さまと例繰方(れいくりかた 記録調べ役)の岡野与力さまでおこころあたり下調べをしていただいてから、と---」

「ほかにも、なにか、お考えがおありなのでは---?」
「〔岩附屋〕に押し入るにあたって、仮りに20人を動員したとして、獲物は800両となにがし。次の仕事(つとめ)仕込みに400両をのけると、分け前は、ならすと1人あたり20両(約300万円)にしかなりませぬ。配下たちは、とても納得できないでしょう」
「仕込みに400両も---?」
「それでも、少なすぎる見積もりです」
「少なすぎる---?」
「この賊の頭は、商人宿をつぎつぎと買い取っているのです」

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(〔中畑(なかばたけ)〕のお竜が頼りを寄越した高崎宿
広重 『木曾海道六拾九次』のうち)

参照】[〔中畑(なかばた)のお竜] (7) (8)

参照】同心・加藤半之丞 2008年2月20日~[銕三郎(銕三郎)、初手柄] (1) (4)
2008年9月3日~[蓑火(みのひ)〕のお頭] (6) (7)

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2008.09.16

ちゅうすけのひとり言(24)

100いささか遅れ気味ではあるが、古くなるというものでもなし---。
9月7日(日曜日)午後の、静岡のSBS学苑[鬼平]クラスのあらましの報告。

テキストは、『鬼平犯科帳』文庫巻8[流星]。

ただし、ビデオは、[大川の隠居]と合わせての特別番組篇なので、[大川の隠居]もからませてのレクチャーとした。

文庫6[大川の隠居]が、池波さんの少年時代を送った永住町と目と鼻のさきの、台東区寿1丁目の竜宝寺鯉寺の巨鯉の供養碑がヒントになってできた物語であることは、同クラスの「江戸の鬼平ウォーキング」で、すでに碑に参詣したので、ほとんどの受講者が知っている。

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([大川の隠居]のモデルの巨鯉の供養碑 竜宝寺)

松本幸四郎(白鸚)丈が鬼平を演じた[大川の隠居](1972年(昭和47)3月16日)に放送されたことをまず指摘したい。
このときは、[流星]とはあわさっていない。
と断言できるのは、[流星]が『オール讀物』に掲載されたのは、幸四郎丈=鬼平が放送された3ヶ月後の6月号だから、原作がなかったことによる。

で、推測を述べた。
幸四郎丈=鬼平の[大川の隠居]撮影は、12月と1月の東宝歌舞伎シーズンを外した1971年(昭和41)の晩秋であったろうと。
で、台本はその前後に池波さんの手元へとどいていたであろうし、池波さんも目をとおしてチェック、朱筆入れもしたであろう。
が、翌年3月の放送を観て、勃然と、〔浜崎はまざき)〕の友五郎(盗賊としての名は友蔵)という男に興味が深まったのではなかろうか。

というのは、『鬼平犯科帳』を通じて、火付け盗賊方と密偵をのぞき、盗賊をはじめ、ほとんどの脇役は使い捨てである。
例外は、〔蓑火みのひ)〕の喜之助(きのすけ)と、文庫巻11[]で登場した京扇店〔平野屋〕の〔帯川おびかわ)〕の源助(げんすけ)と番頭・〔馬伏まぶせ)〕の茂兵衛、そして、池波さんが急逝されなかったらふたたび顔を見せたはずの〔荒神こうじん)〕のお(なつ)くらいである。

(いつかも書いたが、このブログは、〔荒神〕のおの手からおまさを救い出すまでの大長編のつもりなのである)

しかも、原作[流星]を、池波さんは一気呵成に書いた気配がある。
理由は、ふつうの篇は400字詰原稿用紙50~70枚なのに、この[流星]は140枚近くと、2倍から2.5倍も筆が走っている。
興がよほどに乗らなければ、こんなにはずむものではない。

ついでだから、参考までに記すと、150枚前後の『犯科帳』の短編は、ほかには巻2[妖盗葵小僧]と巻3の京から大和へ行く[兇剣]がある。

じつは、ちゅうすけは、幸四郎丈=鬼平をほとんど観ていないので、以上は、あくまでも独断である。

もう一つ、独断を加えると、テレ屋の池波さんは、[大川の隠居]からの連想を隠すために、[流星]では、物語の出だしを京、枚方、大坂、それからゆっくりと江戸(巣鴨、板橋、川越)にもってきている。
故意に(鯉にではなく)、大川からそらしている。

もちろん、新河岸川は川下で荒川につながり、荒川は千住あたりで名を隅田川、そして大川橋をくぐると大川と呼ばれる。

 千住女郎衆は碇(いかり)か綱か、今朝も二はいの船とめた p190 新装版p200

ここで、嘉永にでた郷(村)名によるカラー版大地図の、川越城下から新河岸川づたいに、[流星]にでてくる廃寺のあった福岡郷、友五郎の生地である浜崎の入った原寸カラーコピーを配布。
(このブログでは縮小版しかお目にかけられなくて残念。拡大図の入れ方を学習していない)。

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(右上の□=川越 緑○上=福岡 下=浜崎 両郷を結ぶ川=新河岸川)

この新河岸川ぞいのウォーキングは、東武[上福岡駅]から始まるが、船積み問屋の旧家を利用した市立河岸記念館などが参考になるものの、帰りのバスは対岸の花の木中学前だが、1時間に1本---しかも、長い運行区間のせいで、時間にルーズなので、よほど忍耐心がないと、やってられない。

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(上福岡市の船積み問屋の家の河岸記念館 入場券)

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2008.09.15

本多作四郎玄刻(はるとき)

本多も、元服名(諱 いみなとも言う)が、かの、勇猛・忠勝(ただかつ)ご先祖のように「」で始まるとか、知恵者・正信(まさのぶ)老のように「」が頭にきていればたいした家柄ですが、小生のように、(げん)がついていては、まさに、幻滅・泡沫の本多であります。甲府勤番で塩漬けがつづいておりますが、諸兄のお引きたてで、早く帰府がかない、山猿どもからの餞別の勝ち栗をもって、この集いに出席がかないますよう---」

寛延元年(1748)4月3日に、先代の遺跡を継ぐことをゆるされた16人のうちの有志でつくった〔初卯の集い〕の最初の会食の夜、本多作四郎玄刻(はるとき 17歳=当時 200俵)の自己紹介である。

この、巧みに冗談を織りこんだあいさつに、平蔵宣雄(のぶお 30歳=当時)が「かなわない」と感じたことは、すでに述べた。
人に好かれる才能ともいえる。

参照】本多作四郎玄刻 2008年6月30日[平蔵宣雄の後ろ楯] (15) (16)

銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)が、このたび、甲府へきて逢った感じでも、目鼻が寄っていてその分、額が広く、いわゆる童顔が37歳までのこっており、人なつっこげな面体で、人びとに警戒心をもたせない風貌の持ち主であることを確認した。

ちゅうすけも、本多作四郎については、あれこれ考察している。
もちろん、ちゅうすけ作四郎観は、銕三郎とは別で、甲府勤番が3代つづた家の仁としてである。

中道往来の中畑村の探索から七ッ(午後4時)に甲府へ帰ってきたきょうも、作四郎は、昨日につづいて、銕三郎が宿泊している柳町通りの旅籠〔佐渡屋〕にあがりこんだ。

銕三郎は、寅松(とらまつ 17歳 掏摸(すり))を帳場へ行かせて、夕餉(ゆうげ)を頼ませた。
とうぜん、酒もいいつけた。
作四郎は、あたりまえのような顔で、盃を口にしている。

丹念に読んでいらっしゃるあなたのことゆえ、昨日、作四郎が同じこの部屋で、銕三郎に、
「自宅に招きたいのだが、後妻が臨月に近いので---」
と断った言葉に目をおとめになったはず。

いや、2008年6月30日[平蔵宣雄の後ろ楯](15)に掲げた彼の『個人譜』で、再婚している記録に目ざとく注視なさったかもしれない。

赤傍線を引き直して再掲する。

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(本多作四郎玄刻の2人の妻と息・玄仲の2人の妻)

最初の妻君は、やはり、勤番が2代目の加藤又八郎長清(ながきよ 59歳=明和5年 200俵)の長女---ということは、甲府生まれとみてよかろう。
同じ組屋敷で育ち、恋が実ったと書けば小説だが、残念、作四郎はお濠の脇の廓外裏佐渡町の組屋敷、勤番着任が遅れた加藤家が入った組屋敷は、これも廓外だが納戸町(現・甲府市北口)だったから、10丁(ほぼ1km)は離れていた。

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(甲府城下 青〇 左下=裏佐渡町 右上=納戸町 太白帯=甲州路
『甲州道中分間延絵図』解説篇より)

作四郎の17歳は、遺跡継承、とうぜん、嫁取りは早い。
そのときを18歳と仮定すると、寛延2年(1749)、舅・加藤又八郎は40歳---長女は18歳前後であったろう。
当時のむすめとしては、適齢期である。

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(加藤又八郎長清とその長女)

結婚してまもなく、嫡男・作十郎が産まれた。明和5年(1768)には19歳。
離婚の理由は不明だが、実家へ帰ってのち、武蔵孫次郎秀直(ひでなお 42歳=明和5年 220石)に嫁ぎ、『寛政譜』の記述にしたがうと「また、棄(すて)られる」

小説的な妄想を書くと、武蔵孫次郎は勤番としては2代目で、家督は遅くて35歳の遺跡継承。それまで妻帯していなかったふう。屋敷は作四郎とおなじ裏佐渡町だから、作四郎との離婚は、孫次朗との不倫とか。
まさか。
不倫が原因でないとしても、元夫・作四郎の家と同じ組屋敷へ再婚したのでは、顔が合うこともあったかも。このあたりも小説なら、書いてみるところ。

孫次郎は、「彼女を棄て」たのちは、正式には再婚していない。

本多作四郎の後妻は、同じ裏佐渡町の組屋敷に住む渡辺善四郎清(きよし 49歳 200石)の養女---というのは、善四郎の祖父の弟---つまり大叔父のむすめ。
嫁入りは20歳すぎか。

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(渡辺善三郎清とその養女たち)

臨月なのは、2人目の子。

この後妻の姉も、再婚して「棄てられ」ている。
再婚女性の離婚を、「棄てる」と書くのが『寛政譜』の常用用語なのかどうかは、まだ、あたっていない。
調べるとなると、加藤家渡辺家が幕府に呈出したオリジナル「先祖書」を、国立公文書館で借り出して、どう書いていたかまで見分しないといけない。
これをはじめ、ブログ3つをこなしているいまは、そんな時間がとれそうもない。

しかし、この用語法にドラマを感じるとともに、甲府勤番という狭い社会の中での人間模様を汲みとるのは、ちゅうすけの妄想癖が強すぎるからであろうか。
手元の『寛政譜』で、30~50家をあたってみると、きっとおもしろいドラマが見つかりそうな気もする。

甲府市の図書館ものぞいてみたくなってきた。


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2008.09.14

〔中畑(なかばたけ)〕のお竜(8)

銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)は、中畑(なかばたけ)村の村長(むらおさ)・庄左衛門(しょうざえもん 55歳)が打ちとけてきたのをみはからって、
「お(りゅう 29歳)どのが村をでていったのは、何年ほど前でしたろう?」
「10年より、もちっと前かのう?」
「すると、18歳前後?」
「そんなころだったかなあ」

「村長(むらおさ)師匠の目からご覧になって、『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』の中で、おどのがもっともこころを留めていたのは---?」
信玄公の書簡だったかのう」
「ほう。書状に---」
信玄公は、謀略にも長(たけ)ておられ申したでのう」

戦国時代の武将は、忍びの者を放って諸将の動きを探るとともに、書状をあちことに送りまくっていた。
いまでいう、情報の収集と操作、そして合従連衡(がっしょうれんこう)の策である。
集めた情報が決断と行動の要(かなめ)であったともいえる。
情報戦に遅れをとった武将は滅亡した。

は、信玄の力の均衡の保ち方にでも興味を寄せていたのであろうか。
(そうではあるまい。書かれた手紙文の裏を読むことを学んでいたにちがいない)

銕三郎は、寅松(とらまつ 17歳 掏摸(すり))を、右左口(うばぐち)村で待機している大久保作四郎玄刻(はるとき 37歳 200俵)へ、そろそろ、迎えにくるように使いにやった。

「おどのの母ごは?」
「そのことよ。おとお(かつ)が村を出ると、後を追うように消えましてな」
「すると、父(てて)ごの猪兵衛どのは---?」
「酒におぼれて、いまでは廃人同然のありさま---」

庄左衛門は、銕三郎ともっと話したそうであったが、長居をしては、余計なことまで話さなければならなくなると、銕三郎は辞するとにした。

「そうそう、村をでるときに、おが餞別にと言って求めたのは『孫子』の[虚実篇]の写本でした」
「かたじけのうございました」

村長の家の冠木門をでると、滝戸川のほとりで本多作四郎を待ちながら、銕三郎は、
(あるときは江戸の旅籠、あるときは高崎の商人宿、またあるときは下の諏訪の安旅籠---からおが便りを寄越した)
と言った、庄左衛門の言葉を反芻していた。
(もしやすると、それらは、〔蓑火(みのひ)〕一味にかかわりがあるのではなかろうか)

(高崎、下の諏訪)---と、2,3度くり返して、
(あっ。中山道!)
と、思わず、呟いた。

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(中山道 下の諏訪-高崎 『五街道細見』の付録地図より)

近江商人は、天竜川や大井川が雨で増水して足止めをくらって日程が狂ったり旅籠賃がかさむことを嫌い、峠の多いことは苦にせず、江戸への往還には、もっぱら、中山道を歩くと聞いている。

そうやって節約した金がたまると、江戸の手前、蕨宿とか大宮宿あたりで質屋をひらき、さらには酒蔵の株を買い、しかるのちに江戸の店株を買う。

だから、中山道に、宿泊賃の安い商人旅籠を設けておけば、近江商人が好んで宿泊し、江戸の商家や、諏訪、高崎・熊谷あたりの冨家の内所のありようが、自然と耳にはいる。

銕三郎は、急いで江戸へ帰りたくなった。
雑司ヶ谷の〔橘屋〕おの肌も恋しくなっていることも、もちろんである。。

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(栄泉『古能手佳史は話』部分 お仲のイメージ)

ちゅうすけのつぶやき】池波さんも〔蓑火みのひ)〕の喜之助が情報収集の手だてのひとつとして旅籠を経営していたことはお見通しで、『鬼平犯科帳』文庫巻1[老盗の夢]で、中山道・蕨宿に小さな宿 p162 新装版p171 を亡くなったおのむすめ・おもん夫婦にゆずったり、京の五条橋・東詰の〔藤や〕を幹部配下だった源吉に渡している。p158 新装版p167
ちゅうすけ とすれば、一味の解散時に、高崎か下の諏訪、あるいは妻篭(つまご)あたりの旅籠をゆずられたおは、いい女将ぶりだったのではないかと、ひとり、空想を楽しんでいるのだが。、


参照】[〔中畑(なかばたけ)〕のお竜〕 (1) (2) (3) (4) (5)  (6) (7)

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2008.09.13

〔中畑(なかばたけ)〕のお竜(7)

「軒猿(のきざる)と---?」
訊き返す銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)に、
「はい。世間では、忍びの者とか、乱波(らっぱ)とかと呼んでいますな」
甲府勤番士・本多作四郎玄刻(はるとき 37歳 200俵)は答えた。
柳町の旅籠〔佐渡屋〕の、銕三郎が宿している部屋である。

作四郎は、勤番士の子として甲府城廓外裏佐渡町の組屋敷で生まれ育っているので、武田方の旧部下たちのことにも耳馴れ親しんでいて、軒猿なども、あたりまえに受けとめている。

「武田信玄公の許(もと)に、軒猿はどれほどおりましたでしょうか?」
「さあ。信濃の真田郷から出て、信玄に仕えた真田幸隆(ゆきたか)が支配していたと聞いておりますがの」

信長が京の本能寺で果ててから、900家からなる武田の遺臣を家康は招いているが、その中には、軒猿を従卒としていたものもいたかもしれない---と銕三郎は推察した。

いや、家康には、伊賀・服部家一統という忍びの一団がいて、諸国・諸侯の情勢をあつめていた。
その後、家康の伊賀越えを助けた者たちも召し抱えられている。

参照】2007年6月13日~[本多平八郎忠勝の機転] (1) (2) (3) (4) (5) (6) 

とすると、武田の軒猿たちは、徳川家の傘下に入ったとしても、伊賀組一統の手前、小さくなっていたろうか。

そこで考えられるのは、紀州侯となった頼宣である。
紀州へ封じられる前の頼宣は、駿府を領していた。
甲州と駿州は近い。
多くの軒猿が、頼宣に雇われたとしても、おかしくない。
その者たちは、頼宣について紀州へ移り、薬込め衆となり、吉宗に従って江戸城へ呼ばれ、お庭番衆となったとみても、筋がとおる。
(こういうときに、書物奉行だった中根伝左衛門正雅(まさちか 享年79歳)どのがご生存であったら---)
銕三郎は、もどかしくおもい、心中ひそかに唇をかんだ。

参照】中根伝左衛門正雅は、2007年10月15日~[養女のすすめ] (2) (3)
2008年7月21日[明和4年(1767)の銕三郎] (5)

翌日は、春をおもわせる青空であった。

本多作四郎の案内で、中道往還を下向山村、上向山と2里(ほぼ8km)を経て、中畑村の村長(むらおさ)・庄左衛門(しょうざえもん 55歳)宅の冠木門の前で、
「では、この先の右左口(うばぐち)村の庄屋の家でお待ちしています」
と言う作四郎と別れた。
村長だから、冠木門がゆるされているのであろう。

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(甲州-駿州を結ぶ中道往還の中畑村 明治20年前後)

庄左衛門は、はじめ、警戒の目つきで銕三郎をみていた。
「『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』に、[伊那の〔透波(すっぱ)〕]とあるのは、〔軒猿〕のことでしょうか?」
銕三郎がそう訊くと、(ほう!)といった顔つきに変わり、
「『軍鑑』をお読みかな?」
と逆に訊いてきた。

「読むというほどではありませぬ。たまたま『孫子』を習っておりました折り、『軍鑑』の用兵がそれにかなっておると教わりました。上兵(じょうへい)は謀(ぼう)を伐(う)つ。その次(つぐ)は交(こう)を伐つ。その次は兵を伐つ」
(戦争のもっとも上の策は、相手の謀略を未然に察知しその裏をかくことである。次策は、敵が同盟を結んでいる手を断つことである。さらに次の策は、敵の兵力を敲(たたく)くことである)

庄左衛門がつづけた。
「その下(げ)は、城を攻(せ)む。はっ、ははは」
笑った口の前歯が3本、欠けていた。
「ふ、ふふふ」
銕三郎も、笑った。

それで、打ち解けた。
庄左衛門の家も、かつては武田の家臣で、長柄50人を預かっていたという。
孫子』を学ぶことが、家訓のひとつであったらしい。

「甲斐では、〔軒猿〕と呼んでおりましたが、諏訪方では〔透波〕とか〔乱波〕でした。で、木こり・猪兵衛のなにがお知りになりたい?」
_150「むすめごのお(りょう 29歳)どのの生い立ちと、いまの居どころです」
庄左衛門は、しばらくかんがえていたが、
「あれは、手前の習い子のひとりでしたが---、あることから、村を出ていきましての」(絵は歌麿『婦人相学十躰』部分)

習い子というのは、『甲陽軍鑑』を読む集まりであったと。
あることとは、村のあるむすめが美しいおのことが好きになり、親密な関係になったとの評判が、村人のあいでひろまったために、居づらくなったのだと。
とくに、おの美貌ぶりに岡惚れしていた青年たちが嫉妬から、口汚くののしった。

「飲みこみの速い、頭のいい娘(こ)でしたがな---」
「いまの居どころは?」
「さて。あるときは江戸の旅籠、あるときは高崎の商人(あきんど)宿、またあるときは下の諏訪の安旅籠と---寄越した便りの居どころは、定まってはおりませなんだ」
「旅籠から---?」
「さよう」

「おどのに妹ごは?」
「おりません」
「おどの好きあったというむすめごは?」
「お(かつ)です。おも村を出てゆき、いまはおりません」
(お---おが言っいてた、女男(おんなおとこ)もおだった---)

参照】お勝は、2008年9月4日~[〔蓑火(みのひ)〕の喜之助] (7) (8)

参照】[〔中畑(なかばたけ)〕のお竜〕 (1) (2) (3) (4) (5) (6) (8) 


ちゅうすけからのお願い】甲府近在にお住まいの鬼平ファンの方、中畑村の村長(むらおさ)・庄左衛門の甲府弁をチェック。ご教示ください。
できれば、この稿の書き込み欄へコメントして教えていただければありがたいです。

ちゅうすけのつぶやき】上田秀人さん『国禁 奥祐筆秘帳』(講談社文庫 2008.5.15)は、シリーズ第2話で、津軽藩のロシアど密貿易をからませた、奥祐筆組頭・立花併右衛門と、その護衛剣客・柊衛悟、併右衛門を消しにかかる老中・太田備中守資愛(すけよし)と伊賀者、幕閣から外れた松平定信とお庭番、一ッ橋治済(はるさだ)と甲賀忍者などが卍になって争う構想の大きな物語りだが、田沼意次までお庭番あがりというのは、あまりにも荒唐無稽。
ちゅうすけは、江戸ものは、田沼意次松平定信をどう描いているかで評価している(もちろん、田沼びいき、定信は教条主義者と)のだが、これはどうも。余計なつぶやきでした。
参照】2008年6月15日~[平蔵宣雄の後ろ楯] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9 ) (10)  (11))  (12) (13) (14) (15) (16) 

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2008.09.12

〔中畑(なかばたけ)〕のお竜(6)

長谷川うじ。いい折りだから、お引きあわせしておこう」
勤番大手組支配・八木丹後守補道(みつみち 55歳 4000石)が紹介したのは、相役で山手組支配・山口出雲守直郷(なおさと 59歳 3000石)であった。

ちゅうすけ注】甲府勤番支配は2人制で、大手組と山手組をそれぞれ預かっている。両組とも番士は100名、それに与力10騎と同心50名ずつがつく。
なお、勤番支配という呼称は正式のものではなく、『柳営補任』は「勤番頭(がしら)」、「慶応3年(1867)から「甲府小普請支配」と唱え替えた」としている。
しかし、『寛政重修諸家譜』は「勤番支配」を使っているので、ちゅうすけはこれにしたがっている。

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(甲府城下街 中央から斜め左下へが甲府城の堀 その左の広大な地域(青〇)が廓内。
『甲州街道分間延絵図』部分 道中奉行制作)

山口出雲守は、痩せた疳性の強そうな老人で、人を見下したような目つきでみる。
もっとも、勤番士の本多作四郎玄刻(はるとき 37歳 200俵)があとで解説してくれたところによると、あの目つきは癖で、心底はそうではないのだと。
しかし、あの目癖で、大身幕臣としては出世がおくれ気味だとも。
老中、若年寄にいい印象をもたれなかったらしい。
(いや、人間、目つきは大事だ)
銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)は、自戒した。

山口出雲守は、それが精いっぱいのお世辞だったのであろう、
「拙宅は、牛込うた坂だから、長谷川久三郎どのの屋敷と、目と鼻でしてな」
納戸町の長谷川久三郎(正脩 まさひろ 4040石)邸は、八木支配の叔母・於紀乃(きの 69歳)の婚ぎ先である。

「先日亡くなられた中根伝左衛門どのの数軒南でございますな」

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(牛込の山口邸=上(南)の青〇 下の青〇=中根家)

銕三郎は、言おうとして声を呑みこんだ。
「亡(ぼう)じた」というような忌み言葉を拒むようなかたくなな姿勢と、300俵の下役など---といった蔑視を感じたからである。

参照】中根伝左衛門正雅(まさちか 享年79歳 300俵) 2007年10月15日~[養女のすすめ] (2) (3)
2008年7月21日[明和4年(1767)の銕三郎] (5)

当の八木丹後守は、縁者に便宜をはかりすぎるとおもわれるのを避けるように、
「万事は、本多番士がこころえておるから、そのように---」
と、控えていた本多作四郎へ体(てい)よくふって、面接を打ち切った。

八木丹後守は年齢は下でも、山口出雲守より8年も先任なのだから、相役にそれほど気を遣うことはないのだ。
要するに、気の弱いところがある仁なのだ。

参照】本多作四郎玄刻 2008年6月30日[平蔵宣雄の後ろ楯] (15) (16)
2008年8月18日[〔橘屋〕のお仲] (5)

「中畑(なかばたけ)村までは、それがしがご案内します。しかし、村長(むらおさ)・庄左衛門(しょうざえもん 55歳)には、顔をみせないほうがよろしいでしょう」
城下・柳町の旅籠〔佐渡屋〕率一郎方の奥の部屋で、本多作四郎玄刻が言った。
自宅に招きたいのだが、後妻が臨月に近いのでと、銕三郎寅松(とらまつ 17歳)が泊まっている旅籠へきたのである。

酌の手をとめた銕三郎が訊き返した。
「なにか、ご不都合でも?」
「百姓は、役人には、つねに、ほんとうのことを隠します。手前は市川支配所(代官所の出先)とはかかわりはないが、これでもお上の役人の端くれでしてな---はっははは」
いっしょに笑った寅松が、銕三郎に睨まれて首をすくめて、焼き山女(やまめ)をつまんだ。

本多作四郎が、地元生まれの組下の同心を派遣して事前に調べてくれたところによると、お(りょう 29歳)の父親・木こりの猪兵衛(いへえ 50がらみ)は、武田信玄軍の一員---といっても、滝戸(たきど)山ののろし小屋番---の末であった。
つまり、甲府から駿河への最短の中道往還ぞいの武田方ののろし台のひとつの守(も)りをしていた子孫ということになる。

中畑村や右左口(うばぐち)村には、武田軍が滅んだときに隠棲・土着した者の末が少なくなく、家康に招かれて移っていった輩(やから)をいまだに軽蔑しているという。

「手前の姓は本多で、徳川じきじきの者にまがいようもなく、まあ。蔑視よりも敵視のほうですな。とはいえ、手前は3代つづいての勤番ですから、本多といっても、軽がる、薄うすの本多でありますがな」
こんどは、作四郎は笑わなかった。

「木こり・猪兵衛の女房---おの母親は、信玄の手の軒猿(のきざる 忍者)の末裔だそうです」
聞いた銕三郎の眸が光った。


参照】[〔中畑(なかばたけ)〕のお竜〕 (1) (2) (3) (4) (5) (7) (8) 

ちゅうすけのつぶやき】池波さんには、『鬼平犯科帳』シリーズ連載前に、幾篇かの甲賀(こうか 忍者の場合は濁らない)忍者ものがある。情報収集メン(あるいはウイメン)が、『鬼平犯科帳』の密偵に姿を変えているのかも。

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2008.09.11

〔中畑(なかばたけ)〕のお竜(5)

「ところで、子分どのは、どこまでついておいでになる、おつもりかな?」
銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)が、ふざけた口調で、〔からす山〕の寅松(とらまつ 17歳)に訊いた。
「親分どのが、勤番屋敷におおさまりになるまで---」

大月宿を過ぎてから、笹子川につかず離れずで、道中している。

「な、なに? おぬしは、拙を甲府勤番者と見ていたのか?」
「眼鏡ちがいしただど?」
「深大寺門前のそば処〔佐須(さず)屋で、大橋どのの息女に、父は先手・弓の組頭を勤めていると告げたのを聞いていなかつたか? 先手の組頭(1500石高)は、両番の家筋から選ばれる」

ちゅうすけ注】先手の組頭1500石高はいわゆる[格]であって、平蔵宣雄(のぶお)の長谷川家は家禄が400石なので、組頭に任命されると、1500石に足りない1100石が足(たし)高として給される。もっとも、知行地の家禄と同じ4公6民で、じっさいに給されるのは4割の440石だったらしい。
先手組頭を免ぜられると足高はなくなる---ゆえに、足高をもらっている組頭はなかなか辞めようとしないので、とうぜん、組頭の高齢化がすすみ、実戦の役に立ちにくくなっていた。
参照】両番の家柄---2006年5月18日[平蔵の気ばたらき

寅松は、銕三郎の言葉に、きょとんとしている。
「いや、拙が悪かった」

幕臣でない寅松が、甲府勤番が〔山流し〕といわれて、一部の小普請組の者にとっては懲罰的な勤務であることを知っているわけはない。
両番という家筋の説明からしてやった。
もし、銕三郎が地方勤めにつくとすれば、駿府定番であること。
大坂定番には、大番組の番士が任命されること。

「お見それしておっただな。わっちの親分どのは、偉い家のお世継ぎだで。こりゃあ、鼻高々というもんだ。でも、そうすると、長谷川さまは、何用で甲府へ---?」
「うむ---じつは、おんなの探索にな」
「おんな? 奥方かなにかが、お逃げになりましたかい? そうでないとすると、お妾?」
「人聞きの悪い想像を口にするでない」

_150銕三郎は、八代郡(やつしろこおり)の中畑(なかばたけ)村の木こりの家に生まれた、お(りょう 29歳)というおんなの生い立ちを探索するためだと、打ちあけた。(歌麿『婦人相学十躰』部分 お竜のイメージ)

「その大年増がどうかしましただか?」
寅松どの同類なのだ」
「え? 女掏摸(めんびき)仲間に、そんな名の年増、耳にしたことがないだど」
「掏摸(すり)より、狙いが、もちっと大きい」
「盗人?」

銕三郎は、この元旦の早暁の盗賊に押し入られた神田鍋町の海苔問屋〔岩附屋〕の事件は、高井土(たかいど 高井戸)あたりでは話題になっていないかのか、と訊いた。

「聞いた気もしやすが、わっちゃあ、荒仕事(あらづとめ)は嫌いだで---。その話のどこに、おって女盗(にょとう)がからむんで---?」
「大がかりな盗みの仕掛けを、仕組んだのが、おなのさ」
「盗賊の首領だか?」
「いや。軍者(ぐんしゃ)だ」
「へえ。おんなだてらに、軍者---」
「だから、おもしろい」

「乗りかかった舟だで、中畑までお供をしますだ」
掏摸(すり)---の威勢のいい声に、旅人が振り返った。
首をすくめて、
「季節がいいと、旅人の数ははこんなもんではねえだで---」
「だれが聞いているともかぎらぬのだから、道中では、大きな声はださないことだ」
「すんません」
「こんなところまで、仕事にきているのか?」
「へい。この先、笹子峠を越えた、鶴瀬のお関所は、男が手形要らずだで---」

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(阿弥陀道宿 『甲州道中分間延絵図』部分)

笹子峠を下り、駒飼宿の〔すしや〕重兵衛方で昼にした。

銕三郎が、しきりに右手の雪をかむった山々を気にしている。
「天目山でやすか?」
天目山は、天正9年(1581)3月11日、武田勝頼が自刃し、武田家が滅んだとおもわれているところ。
自刃の場所は、天目山から1里(4km)ほど下った景徳院だったと。
「そうではない。初鹿野村だ」

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(駒飼宿と初鹿野村=青〇 同上)

「〔初鹿野はじかの)〕の---そういえば、おぬしは寅松---盗賊の頭(かしら)は音松(おとまつ  35歳=当時)と言った」

【参照】2008年4月31日~[初鹿野(はじかの)〕の音松] (1)  (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9)
2008年8月1日~[〔梅川〕の仲居・お松〕 (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11)

「縁起でもねえ。だども、〔初鹿鹿〕のつながりさんが、どうかしたので?」
「いや。その一味にいたお(まつ 29歳=当時)---おや、これも「松」の字つながりだったな---」

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(北斎 美人図 お松のイメージ)

「また、おなごだで。親分さんは、よほどに女盗(にょとう)がお好きだで。女擦摸(めんびき)にもいいのがいるから、お引きあわせしたもんか?」
「おいてくれ。お

参照】[〔中畑(なかばたけ)〕のお竜〕 (1) (2) (3) (4) (6) (7) (8) 

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2008.09.10

〔中畑(なかばたけ)〕のお竜(4)

猿橋では、〔阿良居(あらい)〕六郎兵衛方に宿をとった。

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(甲州道中分間延絵図 [猿橋]部分 道中奉行制作)

日本三大奇橋の一つ---猿橋は、着いたのが日暮れてからだったので、明朝、明けてから発(た)つことにし、そのときに眺めることにした。

銕三郎の時代のあとの奇橋は、岩国の錦帯橋、木曾の桟橋(かけはし)だったが、いまは、桟橋に代わって四国の祖父谷(いや)のかずら橋がかぞえられている。

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(猿橋 『諸国道中金之草鞋』)

この夜も、晩飯に酒を添えてもらった。

徳利を手にしたとき、
長谷川さま。酌をさせてくだせえ」
入ってきた者がいた。
「なんだ、寅松どのではないか。どうした?」
「ま、話はゆっくりだで。とりあえず、一杯(いっぺえ)、召しあがれ---」
「酔わせて、掏(す)るつもりではあるまいな」
「ご冗談がすぎるで---」
からす山〕の寅松(とらまつ 17歳)は、銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)の手から徳利をとって、酌をした。

銕三郎は手を打って女中を呼び、とりあえず急いで盃を一つ、あと、膳と酒を追加した。
「お流れをいただきます」
注いでやると、
「これで、親分子分の固(かた)めということになっただで」
「なんだ、固めって---」
「あっしが、長谷川さまの子分になった---ということだで--」
「そんなこと、頼んはでおらんぞ」
「頼まれなくっても、こっちはそのつもりだで---」
「勝手にしろ」
「勝手屏風は2曲が定(き)まり、畳めば面(つら)がぺったりこん---番(つがい)のように離れんだで」

ちゅうすけ注】勝手屏風---台所で使う背の低い2つ折りの屏風。

「どうして、ここに宿をとっているとおもった?」
「野田尻と犬目の旅籠にお泊りじゃなかっただで、てっきり、猿橋と見当をつけた。八王子が〔油屋〕だっただで、格からいって、猿橋ならここと---」

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(甲州道 駒飼-猿橋-八王子 『五街道細見』付録図より)

「指先だけじゃなく、目はしもきくんだな」
「目はしがきかきゃ、空の財布を掏るばかなことになっちまうだで--」

「おれの紙入れの中まで見通しか?」
長谷川さまは、紙入れには2分ほどしか入れておられん。あとは、腹に巻いて---」
「驚いたな。どこで見たのだ?」
「深大寺の〔佐須(さず)屋〕で、大橋さまの分をお立替えになるとき、ちょっと腹へ手をおやりになったが、紙入れの分で用が足りたので、そのままお立替えになっただで。それで、1分をご息女の馬料としてお渡しになった。それから八王子まで、茶店にもお立ち寄りにならなかったのは、紙入れの中身がほとんど空だったからとみた---」
「あきれたな。しかし、おぬしは、〔油屋〕で、ふとんの下の紙入れに手をのばした---」

_100_2 「〔油屋〕で、風呂をお遣いになったときに紙入れへ補充なさった。その額は、1分金2枚(約8万円)」(『日本貨幣カタログ』より)
「どうして、そこまで?」
「〔油屋〕で前ばらいなさった旅籠賃は、2朱(約2万円)でお釣がきた。お釣の半分を、女中へこころづけとしておやりになった」
「おいおい---」
「1日の旅費を3朱(3万円)ときめておいでだで---昨日の晩の紙入れには1分2朱(6万円)のこっていた---」

「話の途中だが、ちょっと、一人で呑んでいてくれ」
「どちらへ?」
「帳場へ行って、宿賃を前払いして、ついでに腹にまいた金と紙入れを預けてくる」
「長谷川さま。酒代(さかでえ)はあっち持ちと、番頭に言っといてくだせえ」


参照】[〔中畑(なかばたけ)〕のお竜〕 (1) (2) (3) (5) (6) (7) (8) 


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2008.09.09

〔中畑(なかばたけ)〕のお竜(3)

日野宿(ひのしゅく)をすぎるころには、早春の日はすでに暮れていた。

八王子宿・〔油屋〕三郎右衛門方に草鞋を脱いだときには、さすがに、脚がそうとうにくたびれていた。

晩飯に、めずらしく、酒を頼んだ。
給仕にきた、40すぎの色気の失せた女中に、鑓水(やりみず)村は、ここからどれほど離れているか、訊いてみた。

「町田の里とのまん中で、2里(約8km)ほどもありますかねえ」
廊下を通りかかった朋輩に、
「鑓水までは、何里あるかねえ?」
大きな声をかけた。
「しらん。行ったことがない」
そっけなかった。

横になったとき、3年前、井関録之助ろくのすけ 16歳=当時)に、菊新道の旅籠に逗留していた〔狐火きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 初代 45,6歳=当時)と〔瀬戸川せとがわ〕の源七(げんしち 50がらみ=当時)を探らせたときのことをおもだしている。

参照】2008年5月28日~〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七 (1) (2) (3) (4)

録之助は、岩倉岩之進などという郷士の息子に化けて、〔山城屋〕に宿泊したのであった。
そのからみで、〔狐火〕が向島に囲った妾のおしず 18歳=当時)とできてしまった。

との情事は、はるかとおい昔のことのように、もやがかかっている。
2人とも、若かった。
若さゆえの無分別な成り行きだった。

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(栄泉『ふじのゆき』 お静とのイメージ)

参照】 2008年6月2日~[お静という女](1) (2) (3) (4) (5)

ことが発覚(ばれ)て、〔狐火〕から、

「お前さんは、武家方のお子だ。人のもちものを盗(と)っちゃあいけねえ。盗人のおれが、こんなことをいうのはおかしいようなものだが、お前さんだからいうのさ。人のもちものでも、金ならまだゆるせる。だがねえ、女はいけませんよ」(文庫巻6)[狐火]p160 新装版p168

(あれは、こたえたなあ)

そういえば、おも達者なら、22歳になっている。

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(栄泉『江戸錦吾妻文庫』部分 お静のイメージ)

歳月はたつのが早い。
狐火〕の子を産んだろうか。
自分の子種がやどっていたかどうか、なんてことは、銕三郎は考えもしない。

そのうちに、酒の酔いと12里(48km)もこなした疲れで、深い眠りに落ちた。

夜半、真っ暗ななかに、気配を感じた。
薄目をあけて、父・宣雄(のぶお 50歳)に教わっていた、暗闇透視の術を使う。
見たいところから、すこし上に視線を飛ばす術である。

ちゅうすけ注】旧陸軍では、「暗調応」と言い、15°上を見よと教えた。赤外線めがねを開発していた米軍に勝てたはずがなかった。

しのび足で寄ってきた男の手がふとんの下へ伸びた瞬間、その腕を逆手にとって、ねじふせる。
左手の大刀の柄で、曲者の首を押さえた。

「深大寺から尾行(つ)けていたのは、おぬしだな」
低い小声で言う。
曲者は答えない。

ねじあげている腕を膝頭でおさえ、太刀を抜き、伏せている曲者の目の前に刃を向けた。
「見えるか? 見えまい。これから、刀をぶらぶら動かす。おれの目にも見えないから、おぬしの顔のどこを傷つけるか、おれにもわからぬ。もしかすると、鼻を斬り落すやらもしれない。いや、首すじを斬るかもしれぬ。そのときは、あきらめて死んでくれい」

「助けてくだせえ」
悲鳴をあげた。

「深大寺で掏(す)った紙入れをだすか?」
「それは---」
「では、太刀を、動かす」
「紙入れは捨てたからないけど、金は返します」
「よし」

銕三郎は、曲者の帯を抜き、着物ははぎとってから、
「部屋の隅で控えていよ。動いたら斬る」

廊下のはずれの行灯をもって戻ると、男は部屋の隅で、首からさげた袋と下帯一つでふるえている。
20歳にもなっていない若者だった。

「名はなんという?」
「〔からす山〕の寅松(とらまつ)」
「齢は?」
「17」

ばっと、太刀を一閃、寅松の首に下げている袋の紐だけを切った。
寅松の顔の色がなくなった。

「着ろ」
着物と帯を放る。

「おぬし、和泉橋通りの大橋どのの家へ、掏った金を返しに行く度胸はあるか?」
しばらく思案してから、うなずいた。
「よし。では、帰れ」
「あの、おさむれえさんの名を教えてくだせえ」
「なんのために? ここで別かれたら、お互い、他人だ。おれの名前など、必要あるまい」
大橋さんに金を返しにいったときに、この宿でのことも言わねえと---」
「そうか。おれは、長谷川銕三郎。いまは、火盗改メのお頭・本多紀品(のりただ 54歳 2000石)さまのお手伝いをしておる」
長谷川てつ三郎さまでやすね?」
「言っても書けまいが、銕三郎の〔銕〕は、金偏に夷(えびす)の〔銕〕だ。宿の者に気づかれないうちに、消えよ」
「それでは---」
「寅松。縁があったら、また逢おう。おれの住まいは、南本所・三ッ目通りだ。困ったことがあったら訪ねてこい。10日後には、江戸へ戻っていよう」


参照】[〔中畑(なかばたけ)〕のお竜〕 (1) (2) (4) (5) (6) (7) (8) 

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2008.09.08

〔中畑(なかばたけ)〕のお竜(2)

「たしかに、お預かりいたします」
書留(かきとめ)役同心・加藤半之丞(はんのじょう 30歳 30俵2人扶持)が請けあった。
銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)は、正月5日に、父・平蔵宣雄(のぶお 50歳)とともに、火盗改メ本役・本多采女紀品(のりただ 54歳 2000石)の役宅にもなっている、表六番町の屋敷へ、年賀に訪ねたばかりであった。

それから旬日たつかどうかというのに、巨盗・〔蓑火みのひ)〕の喜之助(きのすけ 明けて46歳)の軍者(ぐんしゃ)・〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)に興味が湧いたので、甲斐国まででかけるについて、頼みごとがあって訪問することになってしまったのである。

の生地・八代郡(やつしろこおり)中道村中畑(現・山梨県甲府市中畑)の村長(むらおさ)へ通じておいてもらうようにしたためた依頼状を、幕府の継飛脚便に託すべく、加藤同心にあずけたのが、それである。

もちろん、叔母・長谷川於紀乃(きの 69歳)からの、甥・甲府勤番支配の八木丹後守補道(やすみち 54歳 4000石)あての添え状も同封した。

本多紀品お頭は、市内巡行中で留守とわかり、銕三郎は安堵した。
顔があえば、〔中畑〕のおのことも話さないわけにはいかない。

先手組の与力は5,6人から10人と、組によってばらぱらであるが、同心は30名と一定している。
ただ、鉄砲(つつ)の16番手・本多組だけが、なぜか、同心が50名と、ほかの組よりも多い。
それだけに、探索にも人員をさきやすい。
中畑〕のおのことがしれると、銕三郎に同心を一人つけよう、と言われかねない。
この探索は、銕三郎としては、こっそりやりたかった。

だからといって、おをおんなとみてのことではない。
女男(おんなおとこ)のもののかんがえの筋道のつけ方をしりたいとおもっているだけのつもりである。

甲州街道の上高井土(高井戸)をすぎ、入間村と金子村のあいだの滝坂の路傍の石標に、「深大寺元三大師道」とあった。
野道を27,8丁ばかりで、深大寺(じんだいじ)の山門に達する。

初大師(1月20日)も終わっていて、参詣人もまばらであった。

303_360
(深大寺 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ
天台宗(調布市深大寺元町5-5-1)


_150高名な釈迦如来倚像(重文)を拝観した銕三郎は、門前のそば所〔佐須(さず)屋〕へ入った。(釈迦如来倚像 平凡社『東京都の地名』より)

南本所の家をでてから、5里(20km)ほど歩きずめで、初春とはいえ日和がよいため、いささか空腹で、汗ばんでもきている。一休みしたいところ。

15,6歳の武家むすめの供の者と店の亭主が、なにやら、そば代のことでもめていた。

供の者が勘定の段になって、紙入れを掏(す)られたか、落としたか、とにかく銭がないことに気づき、屋敷へ帰着後に送金すると言うが、店側が承知しない。

「失礼ながら---」
銕三郎が割って入った。
「父が、先手・弓の8番手の組頭を勤めている長谷川です。金子(きんす)なら、お立替しましょう」

供の小者の主(あるじ)は、下谷(したや)和泉橋通りに屋敷のある、西丸・新番1番手の与頭(くみがしら)・大橋与惣兵衛親英(ちかふさ 55歳 廩米200俵・600石高)。
息女はその次女・久栄(ひさえ 16歳)。
病床にある長女・英乃(ひでの 22歳)が、深大寺そばが食べたいと言ったので、快癒祈願かたがた求め、昼飯(ちゅうじき)をとったら、この始末なのだと。

「拙はこれから、甲府へ行く途中なので、立て替え分はいつにても、南本所・三ッ目通りの拙宅へ返済しておいてくださればよろしい」

まだ少女々々した面影がのこる久栄であったが、さすがに武家むすめらしく、正面から銕三郎に双眸をすえて、丁寧に礼をのべた。

納戸町の於紀乃叔母からたっぷりと路用をもらっている銕三郎は、大きくでた。
1分金(約4万円)を余分に小者の儀平へわたし、
久栄どのの帰路の荷馬賃の足しに---これは拙のこころざしなので、お返しにはおよびませぬ」

さっさとでて、深大寺城址に向かった。
寄り道は、こちらが主眼であった。
銕三郎は、少年のときから、城郭に関心があった。

参照】[〔中畑(なかばたけ)〕のお竜〕 (1) (3) (4) (5) (6) (7) (8) 

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2008.09.07

〔中畑(なかばたけ)〕のお竜

「古府中(甲府)まで、なん日で歩くつもりじゃえ?」
歯がほとんどないので息がぬける声で、於紀乃(きの 明けて69歳)老叔母が訊いた。
70歳に指先がとどいている大身旗本の未亡人・於紀乃だが、甥とはいえ、若い男と話すのは愉しみらしく、銕三郎(てつさぶろう 明けて23歳 のちの鬼平)がくると、深いしわが目立つ目じりが、先刻からさがりっぱなしである。

「36里(ほぼ124km)---天気次第ですが、まあ、5日もみておけば---」
銕三郎は、そうした叔母のこころ根を読んで、多めに答えた。

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(甲州路 『五街道細見』の付録図より)

「若い銕三郎どのの脚にしては、かかりすぎのような気もするがの」
「いいえ、叔母上。甲斐路は、まだ、雪の積もっている峠のつながり道ゆえ---」
「登りがあれば、降(くだ)りもあるのが道理じゃて」
「甲府城下町は、江戸より100丈(じょう 300m)も高い土地です」
「ふん。それで、古府中には、なん日、泊まるのじゃえ?」
「行き帰り2泊、中畑(なかばたけ)に1泊---}

「往来に10日---1日1分(ぶ 4万円)とみて、2両2分(ほぼ40万円) 3泊は1両(16万円)で足りようぞ。しめて3両2分といいたいが、それでは銕三郎が承知すまいから、5両」
座布団の下から財布を引きだし、元文1分金を20ヶ、数えて、懐紙に載せた。

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(元文1分金 『日本貨幣カタログ』より)

伯母上。10両でも20両でも、と仰せでしたが---」
「それがの、新しい年も達者に迎えてみたら、まだまだ生きていけそうな気分になっての。そうなると、無駄づかいはならぬとおもえてきての」
「はあ------」

「不服そうじゃの。では、もう1両、足してしんぜよう」
「あの、じつは2人で行くつもりでおるのですが---」
「連れは、男かの、おんなかの?」
「男です」
「ならば、相(あい)部屋でよかろう?」
於紀乃叔母は、旅費を足さなかったから、だまし甲斐はなかった。

「きりよく、10両になりませぬか?」
「調子にのるでない」

於紀乃とすれば、けちっているわけではない。
先日は、もののはずみで、10両でも20両でもと言ったが、じつのところ、盗賊の素性をしったとて、なんということもない。
単に、おもしろがってみるために、10両(150万円)も使うのが、むなしくおもえてきただけなのである。
冥土で、夫にあきれられそうな予感もしてきた。

初目見(おめみえ)を目前にひかえている銕三郎が、本気で甲府行きを決心するともおもっていなかった。
瓢箪から駒---とは、まさにこのことだ。

しかし、銕三郎が探索しようとしている女男(おんなおとこ)の盗賊・〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 明けて29歳)という女賊(おんなぞく)には、こころが動いた。

昨年、甲府勤番支配で甥・八木丹後守補道(やすみち あけて54歳 4000石)あての添え状を書いた〔舟形ふながた)〕の宗平(そうへい 45がらみ)とかいった小男の賊の件よりも、興味がある。

参照】2008年8月18日[〔橘屋〕のお仲] (5)

(あの実りなしの探索で、伊織(丹後守補道の幼名)どのの関心が薄れておらねばよいが---)
書状をしたためながらの於紀乃の心は、これであった。


参照】[〔中畑(なかばたけ)〕のお竜〕 (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) 

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2008.09.06

火盗改メ索引(1)

ここまでの火盗改メのお頭リスト。
[個人譜]ありはオレンジ色(リンク←クリック)。

このリストには、10人(重任はのぞく)しか掲出していないが、最初から幕末まであげると、150人ほどになる。この時期の人たちの任期は、ほとんど1~2年(半年前後の人は、ほとんど火事の多い冬場の助役(すけやく))。長谷川平蔵宣以(のぶため いわゆる鬼平)が本役を7年も務めた理由は、いろいろに推理できる。
そのいくつかは、これから解明していく予定である。
とりあえず、20歳前半の銕三郎(てつさぶろう)がかかわった---あるいは観察したとおもえるお頭の史的リストである。


長山百助直幡(筒4)
明和 4(1767)年10月23日~
    56歳           
 明和 6(1769)年6月13日
     58歳
 (明和 5年 5月 2日継続下命)
 1784歿(73歳)
 1350石

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(永山百助直幡)

荒井十太夫高国(筒14)
明和 4(1767)年 9月23~
    58歳          
 明和 5(1768)年 6月 9日
     59歳
 1774歿(65歳)
 廩米 250俵
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(荒井十大夫高国)

本多采女紀品(のりただ)(筒16)
明和 4(1767)年 8月 8日~
    52歳           
 明和 5(1768)年 4月28日
     53歳
 -(新番頭)
 (再任。明和 4年 9月10日継続下命)
 1786歿(72歳)
  (1) (2) (3) (4) (5) (6)  (7) (8)

曲淵隼人景忠(筒13)
明和 4(1767)年 6月25日~
    62歳          
 明和 4(1768)年 6月17日卒
      67歳
 1772歿(67歳)
  400石

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(曲渕隼人景忠)

遠藤源五郎常住(筒 9)
明和 3(1766)年 9月 8日~
    50歳
 明和 4(1767)年 9月10日
     51歳
 (明和 4(1767)年 6月25日継続下命)
  ●役目に落度あり
 1786歿(70歳)
 1000石

細井金右衛門正利(弓 5)
明和 3(1766)年 3月15日~
 明和4(1767)年6月21日
   59歳           60歳
 *明和 3(1766)年 6月18日継続下命
  (明和4年 7月免)
  ●役目に落度あり。
 1789歿(73歳)
 廩米 200俵。

浅井小右衛門元武(筒11)
明和 2(1765)年 9月22日~
    56歳
 明和 3(1766)年 6月 2日役
     57歳
 1790没(81歳)
  540石

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(浅井小右衛門元武)

長谷川太郎兵衛正直(弓 7)
明和 2(1765)年 4月朔日~
    56歳           
 明和 3(1766)年 6月18日
     57歳
 1792歿(83歳)

笹本靭負佐忠省(弓 5)
明和元(1764)年 9月 7日~
    53歳           
 明和 2(1765)年 5月24日
     54歳
 1781歿(70歳)

笹本靭負佐忠省(弓 5)
宝暦13(1763)年11月26日~
    52歳
 明和元(1764)年 4月 6日
     53歳
 
長谷川太郎兵衛正直(弓 7)
宝暦13(1763)年10月13日~
    54歳          
 明和元(1764)年 5月 4日
     55歳
 1792歿(83歳)
 1450石

笹本靭負佐忠省(ただみ)(弓 5)
宝暦13(1763)年 2月27日~
    52歳
 宝暦13(1763)年 5月14日
 廩米 500俵

本多采女紀品(のりただ)(筒16)
宝暦12年12(1762)年12月16日~
      48歳        
 宝暦13(1763)年 5月14日
   49歳
 1786歿(72歳)
 2000石
    (1) (2) (3) (4) (5) (6)  (7) (8)

  
本多讃岐守昌忠(弓 8)
宝暦12(1762)年 9月10日~
    51歳         
 明和 2(1765)年 4月 1日
     54歳
 1786没(75歳)
 500石


ちゅうすけの予告】明日からは、[〔中畑(なかばたけ)〕のお竜(りょう)〕シリーズです。
銕三郎が、お竜の生地へ探索に出向きます。

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2008.09.05

〔蓑火(みのひ)〕のお頭(8)

{「お竜(りょう)」とそのおんなの名を告げられた瞬間、おもわず身を起こした銕三郎(てつさぶろう 明けて23歳 のちの鬼平)を、お(なか 明けて34歳)は、やさしく押したおし、
「うそ」
入れ替わりに、謝るつもりで、おのほうが身を起こした。
ついさっきの行為のなごりで、寝着の胸元が大きくはだけ、銕三郎に、もう、呼びかけている。

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(国芳『江戸吉原源氏』口絵 部分 イメージ)

「驚かして、ごめんなさい。だって、あなたが、寝言でおりょうなんて人の名をお呼びになるんですも、憎らしくって---」

は、齢がいもなく、涙をうかべている。
「会ったこともない、おんななのだ」
銕三郎は、おの手をとって横に伏せさせ、寝着の下から背中をなぜて、慰める。

去年の秋、座敷をした、〔蓑火みのひ)〕の喜之助(きのすけ 45歳=当時)と上方弁で話すその情婦・大柄な千代(ちよ 40歳すぎ=当時)、小男の〔夜兎(ようさぎ)〕の角五郎(かくごろう 50歳すぎ)とその息子・角右衛門かくえもん 18歳)の怪しい4人客のことを、おが、寝物語りに銕三郎へ話した。

〔通り名(呼び名という)〕から、盗賊らしいと察しをつけて、元盗賊の〔盗人酒場〕の亭主・〔たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ 45歳前後)に訊いてみると、〔蓑火〕は、盗賊も盗賊---盗賊仲間うちでは神さま扱いされている金箔(きんぱく)つきの巨盗とわかった。

_150銕三郎は、なぜか、〔蓑火〕一味を支えている幹部衆の中でも、〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう)という、美人で女男(おんなおとこ)という、(明けて)29歳の軍者(ぐんしゃ)に気をそそられた。(歌麿『婦人相学十躰』部分 お竜のイメージ)

は、甲州・八代郡(やつしろこおり)中畑村の木こりのむすめに生まれた。
とはいえ、銕三郎の見るところ、、餌食にする店の嘗(な)め、引き込みとの連絡(つなぎ)の手くばり、一味の召集の呼びかけと盗人宿と宿のつなぎ、押しこみ当日の天候の予想や月の出入りの時刻、当日のあれこれの指示の徹底など---なにより大きいのは、お頭のかかげている盗みの戒律(おきて)の周知までも段取りをつけ、とりしきっているらしいこと。

「ここにいた女男の女中の名は、お(かつ 27歳=当時)でした。あなたのおさんの名とは似ても似つかない。でも、きれいな人だったようですよ。ふ、ふふふ」
内ももを、銕三郎の股にさし入れながら、おが、甘い声でささやく。
「ばか。妬(や)く奴があるか」

30女らしくたっぷり量感のあるおの乳房を掌で柔らかくなぶりながら銕三郎は、忠助が言った、「ふくよかなおんなぶり」のお竜の頭脳の働きの筋道を推察している。
(これは、お仲に聞かせても、理解すまい)

ちゅうすけ注】嘗(な)め(事前調査)とつなぎ(連絡・通信)に、イメージ造成(広報・宣伝)を加えれば、ほとんど近代マーケティング活動だ。
いや、〔蓑火〕の喜之助は盗人の神さまということが、盗賊世界に流布されているのだから、まさにマーケテイングの具現。
リクルーティング・コストも、きわめて低く抑えられるし、苦労少なくいい人材が集まり、ますます、名声(?)がひろまる。
だいたい〔通り名〕を、生誕地の上田城下町から地名をとらないで、唐土から伝わたってきた怪物百鬼の中から、不審火の〔蓑火〕をネーミングしたことからして、センスがいい。
もっとも、〔蓑火〕を選んだのが、喜之助自身でなく、おだったとしてのことだが。

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(鳥山石燕『百鬼夜行』の〔蓑火〕
キャプション:田舎道などによなよな火のみゆるは多くは狐火なり。この雨にきるたみのの嶋とよみし簑より火の出しは陰中の陽気か。又は耕作に苦しめる百姓の臑(すね)の火なるべし)

甲州の山の中のむすめが、どこで手ほどきをうけたのか---?

が、内ももを押しつけて、催促をはじめた。
「ちょっと、待ちな。いま、考えがまとまりかけているんだ」
甲州---武田信玄流軍学---信長の根だやし指令---家康の隠蔽庇護---それを嫌っての僻地への隠棲---木こり---親から子へのひそかな伝授---

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(青〇=甲州-駿河の脇街道・中道往還ぞいの中畑村 明治20年ころの地図)

(ありうる!)

納戸町の於紀乃(きの 明けて69歳)老叔母が、路銀は10両(160万円)でも20両でもくれると言っていた。
(中畑村へ行って、おの父親に逢ってみるか)

於紀乃叔母の齢をかんがえたら、急がねば---。

参照】2008年8月29日~[〔蓑火(みのひ)〕のお頭]  (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7)

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2008.09.04

〔蓑火(みのひ)〕のお頭(7)

「高輪の牛舎は、どのように襲われたのでございますか?」
銕三郎(てつさぶろう 明けて23歳 のちの鬼平)は、〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 明けて29歳)の海上連絡のことを隠すためもあって、牛舎に話題をふった。

なぜ、おを隠したいのか、はっきりとは自分でもわかっていなかった。
この女男(おんなおとこ)は、自分の手で探索してみたいとおもっていたのかもしれない。

本多采女紀品(のりただ 明けて55歳 2000石)にうながされて、書き留め役同心・加藤半之丞(はんのじょう 30歳)が、
「日本橋から南を担当している荒井十大夫高国(たかくに 明けて59歳 廩米250俵)組へ訊きに行った者の報告ですが---」
と前置きして話したところによると---。

泉岳寺などの除夜の鐘がなりはじめたとき、番人小屋へ入ってきた3人組が、番人を棍棒でなぐって気絶させた。番人の意識がもどってみたら、手足をぐぐる巻きに縄でしばられ、おのれの手ぬぐいで口にさるぐつわを
かまされており、松明をつけられた牛は暴走したあとであった。

牛舎にはいつも1000頭近い牛がいるが、どれもふだんはおとなしい。
角への松明は、火をつける前にしばったのであろう。
そうでないと、いくらおとなしい牛どもだって、火をみれば暴れるはずである。
牛が、まだ燃えて松明をおとなしくつけさせたのは、牛の扱いによほどに手なれた者が一味にいたにちがいない。

牛を扱うのは、天竜川から西の農家に多いから、賊の一人は、そうであったのでは---。

「なんとも、はっきりしないことしか、聞けなかったようです」
加藤同心の話はこれで終わった。

「牛舎は助役(すけやく)の荒井どのの縄内だが、賊に入られた茶問屋の〔旭耀軒・岩附屋〕は、こちらの縄内だから、上からの督促は、どうでも、わが組にくるのですよ」
お頭の紀品は、にが笑いとともに言う。

「ご心中、お察しいたします。及ばず゛ながら、なにか聞きこんだら、加藤どのへお報せしましょう」
しばらく雑談をしてから、宣雄と銕三郎は、本多邸を辞した。

永代橋をわたったところで、騎上の宣雄に、
「父上。ちょっと用をたしていきますので。桑島友之助 32歳 若侍)、たのんだぞ」
「今夜は、雑司ヶ谷か?」
いまでは、家臣あいだでも、公然たるものであった。

〔須賀〕はきょうから、店をひらいているが、この時間(午後5時半)では、ほとんど客はいない。

亭主の〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 明けて36歳)は、元旦に長谷川邸へ年詞にきていたので、あいさつは抜きで本題に入った。

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(三島遺跡図 東海道筋の本陣〔樋口〕と脇本陣〔世古〕)

「女将(おかみ)どの。三島の本陣〔樋口〕にいたころに、向いの脇本陣〔世古〕の女中たちは、女男(おんなおとこ)の賀茂っていいましたか---あのおんながどういうことをしていたか、話しませぬでしたか?」
「どういうこと、と申しますと---?」
「おんな同士のあのほう---」
「さあ。聞いていませんねえ」

雨女(あまめ)のおは、女将どの、なにかしかけましたか?」
権七が口をはさむ。
「あのときは、おがお須賀(すが 明けて30歳)の手をにぎろうとしたところを、あっしが目ざとくみつけて、声をかけて、やめさせてしめえましたんで---」

参照】2008年6月8日~[明和3年(1766)の銕三郎] (2) (3)

「じつは、女男がものをかんがえる筋道をしりたいとおもってね」
「女男だろうと、かんがえる筋道がとりわけ異なってるってこたぁ、ねえでやしょう。天井がゆれてたのが、畳の目がぼやけるのに変わっただけのことでさあ」
「なるほど。逆さにかんがえればいいってことか」

年があらたまって、最初の5の日であった。
銕三郎とお(なか 34歳)は、いつもの離れで宿直(とのい)の夜をすごしていた。
酒も肴もあった。
肴は田にしの酢味噌和(あ)えであった。
歯ごたえがこりこりしていて、噛んでいるいに酢味がひろがる。

が手酌しながら、
「元旦からお節(せち)振舞いつづきで、きょうあたりから、やっと常にもどったんですよ」
銕三郎は田にしを含み、
「拙の口に、よく合う。ここの板長どのの腕はすばらしい」
さんに、伝えときます」

「このあいだ、女男のこと、お訊きなりましたね」
「目覚めていたのか?」
「夢うつつ。あたってみたんです、お(えい 明けて36歳 女中頭)さんに。前にいた女中(こ)にいたんですって---」
「ほう」

「おさんにも言い寄ったので、辞めてもらったって---」
「いくつくらいの女(こ)だっんだろう?」
「1年前に、27とか8とか---」
「名は?」
「おりょう
「なにッ!」
おもわず、銕三郎は身をおこした。
「うそ」

参照】2008年8月29日~[〔蓑火(みのひ)〕のお頭] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (8)

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2008.09.03

〔蓑火(みのひ)〕のお頭(6)

本多さま。その〔旭耀軒・岩附屋〕へ押し入った賊は、〔蓑火みのひ)〕の喜之助一味ではないかとおもいます」
「銕三郎どの。しばし、待たれよ」

本多采女(うねめ)紀品(のりただ 明けて54歳)は、銕三郎(てつさぶろう 明けて23歳)を制し、当番与力・岡野憲一郎(けんいちろう 41歳)と書き留め役同心・加藤半之丞(はんのじょう 明けて30歳)を呼んだ。

2人が詰め部屋から現われると、加藤同心が、
「お久しぶりです」
銕三郎にあいさつした。
銕三郎も、
「その節は---」

「おお、加藤は、旧知であったな」

参照】2008年2月20日~[銕三郎(てつさぶろう)、初手柄 (1) (4)

そのあと、岡野与力を、例繰方(れいくりかた)と紹介した。
例繰方は、過去の判例を調べて、量刑を提案するのが主な仕事だが、盗賊の押し入り手口や、博打の常習犯の名簿もつくったりする。
岡野は、その掛り束ねている。

銕三郎は、自分の考えをあらためて話した。

蓑火〕一味には、2人の軍者が押し込みの案を練っていること。
2人は、火にたとえられている、信州・上田生まれの〔神畑(かばたけ)〕の田兵衛(でんべえ 明けて41歳)と、水と称されている甲州・滝戸川の最上流の中畑(なかばたけ)村の出で女男(おんなおとこ)のお(りょう 明けて29歳)である。

こんどの事件であるていど読めたのは、田兵衛は火を使ってのめくらましに案に長(た)けていること、水のおは連絡(つなぎ)と嘗(なめ)---つまり、下調べ役をしているらしいこと。

芝から築地ぞいに舟を配置し、火牛の暴走が成ったことを、ゆれる松明の火で次の舟へ申し送る仕組みを算段したのは、おとみる。

銕三郎どの。その者たちのこと、どこで仕入れたのかな?」
本多お頭(かしら)が、にこやかに訊く。
「これは、拙の秘綱(ひめづな)ですから、明すわけにはまいりませぬ」
「余計なことを訊いて悪かった。おのおのに隠し筋があってとうぜん」

「拙からお訊きしたいのですが、これまで、〔蓑火〕一味の仕業とわかった盗難がございましょうか?」
岡野、どうじゃ?」
「火牛を使った大がかりなのは、こたびが初めてです」
「あとで、よく例繰ってみよ。それにしても、朝日将軍(源(木曾)義仲)が倶利加羅峠で平家軍に対してとった戦法を、盗賊がつかうとはのう」

平蔵宣雄(のぶお)が口をはさんだ。
本多どのも先刻ご存じのはずですが、倶利加羅峠での松明(たいまつ)牛のことは『平家物語』には書かれておりませぬ。『源平盛衰記』にあります。ですから、あとでの創りものといわれておるのに、それをこの江戸で再現したというのは、どういう了見でありましたのか」
「わしも、『源平』の書き手が、かの国の田単(でんたん)将軍がやった戦法---牛の角に剣をむすんではなった話のすりかえだとはおもっています。そういえば、田単田兵衛---なにやら、似ていますな。はっ。ははは---」

銕三郎は、またしても、父から、暗に、不勉強をたしなめられたと感じた。

ちゅうすけのつぶやき】銕三郎くん、それほど気落ちするにはおよばないんだよ。ぼくだって、塩野七生さん『マキャヴェッリ語録』(新潮文庫 1992.11.25)で、ハンニバルがアルプス越えしてローマ領に攻めこんだとき、カラクリで火牛戦術を使ったって啓発され、〔蓑火〕に使わせてみたんだよ。もちろん、木曾義仲の越中・倶利加羅峠のこともすぐにおもいついて、グーグルったさ。

http://blog.goo.ne.jp/t-50202/e/314671ed0e89f4849ff57961ed152e15
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1310313853?fr=rcmd_chie_detail
http://plaza.rakuten.co.jp/syanaesyan/diary/200505310000/

参照】2008年8月29日~[〔蓑火(みのひ)〕のお頭 (1) (2) (3) (4) (5) (7) (8)

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2008.09.02

〔蓑火(みのひ)〕のお頭(5)

大晦日、夜九ッ(12時)の除夜の鐘が鳴りおわるまで、商人は掛(かけ 集金)とりにはしりまわる。

火盗改メも、夜っぴいて見廻りにあたり、初日(はつひ)の出を、府内のはずれの高輪、深川で迎えてから、組屋敷へ引き上げるのが、毎年の例である。

ちゅうすけ注】高輪・深川だと、初日が海を染めてあがるのが望める。

したがって、火盗改メの年始の登城は、2日と定められている。

ちゅうすけ注】名著・松平太郎さん『江戸時代制度の研究』(復刻・柏書房)は、[火附盗賊改]の項に「毎年、除日(大晦日)にはとくに終夜を警察し、市内の保安に事(つか)ふることをもって、本組の輩(やから)は初日(はつひ)を高輪、深川等の辺鄙に迎え、帰宅するを常とせり。従って、火附盗賊改年頭賀正の登営は、二日をもって定めらる」と記している。
[火附盗賊改]の項の全文は、 (1) (2) (3)

明和4年が、明和5年(1768)と変わった夜も、3組の火盗改メは、それぞれの受け持ち区域を巡羅し、明け方、組屋敷へ引きあげることにしていた。

本役・本多采女紀品(のりただ 明けて54歳 2000石)。 先手・鉄砲(つつ)の16番手の受け持ちは、日本橋から北だから、巡回の終点は雑司ヶ谷あたりとなる。
組下の者たちが小日向の切支丹屋敷下の組屋敷へ帰りつくのは、明けきった六ッ半(午前7時)すぎである。
もっとも、役宅としている本多邸へ詰める者は、表六番町へ。

助役(すけやく)荒井十大夫高国(たかくに 明けて59歳 廩米250俵)の組は、日本橋から南---通町筋から三田、麻布、赤坂、麹町などをまわり、高輪を終点としていた。
組屋敷は駒込片町だから、巡廻のおわる高輪からは、帰宅に1時間半ほどかかる。
それより、組頭の荒井十太夫は、高田に借地した屋敷をかまえているので、駒込片町からの通勤も不便きわまる。
ついでに記しておくと、この組が火盗改メを命じられたのは、元禄15年(1702)以来50余年ぶりなので、経験者は一人ものこっていず、詰め所の遠さとともに、不慣れで、組頭・組下ともに苦労した。
警備の手ぬかりも、とうぜん、生じた。
蓑火(みのひ)〕の一味には、そこを衝(つ)かれた。
そのことは後述。

増役・、鉄砲の4番手・長山百助直幡(なおはた あけて57歳 1450石)の組は、本所・深川の巡行を担当し、終着地は深川八幡宮であった。
組屋敷は四谷伊賀町だから、深川八幡からの、くたくたに疲れての帰着は1時間ほど後。
この組も、元禄10年(1697)からこっち70年近く、火盗改メをつとめたことがなかった。

除夜の鐘が鳴りおわるのを待っていたかのように、高輪大木戸の手前、通称・牛町で、10頭ほどの牛が角に火のついた松明(たいまつ)をくくりつけ、牛舎を狂ったように暗闇の街路へ走りでた。

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(高輪牛町 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

7頭が芝田町へ向い、数頭が伊皿子坂を暴走した。

その異常事態を、辻番所や自身番所がつぎからつぎへと伝送し、赤坂を巡廻中であった荒井組へつたえられた。
騎乗の荒井組頭をはじめ、与力3騎、同心8人、供の小者21人が一斉に牛町へ急行したが、そこには松明の火に恐怖している牛はいなかった。
駆けつけた3分の1が牛舎の調査にのこり、あとは、牛たちのあとを追った。

牛たちが走っている芝田町と伊皿子坂の町々は、半鐘の速鐘(はやがね)を乱打して住民たちに危難を警告した。
早鐘は、芝へ、白金へとつながっていった。

この何者かによって仕組まれた騒擾の時刻。
下谷新寺町の巨刹・広徳寺の塔頭(たっちゅう)のひとつから火がでた。
本郷通りを巡廻していた本多組が、ただちにかけつけて、消火活動がしやすいように、群集の整理にあたった。
新寺町でも近火の半鐘が打たれた。

同じころ、北本所・中ノ郷元町の如意輪寺(現・墨田区吾妻橋1丁目)前の花屋からも火がで、長山組の巡廻中の一行が駆けつけた。
ここでも、鳶の者が半鐘をうった。

参照】如意輪寺前の花屋は、のちに代替わりして再建され、『鬼平犯科帳』巻4[敵(かたき)]p252 新装版p264 では〔大滝おおたき)〕の五郎蔵の盗人宿の一つとなっている。

牛町、下谷、中ノ郷からもっとも遠い、神田鍋町の茶問屋〔旭耀軒・岩附屋〕に、10人余の盗賊が押し入り、集金してきた金の帳面づけをしていた全員と、寝所にいた家族をしばりあげ、856両余を奪って消えた。
小半刻(30分)ほどのあいだの出来ごとであった。

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(有名茶問屋〔旭耀軒・岩附屋〕 『江戸買物独案内』)

高輪の牛舎近くの住民のひとりが、夜中に厠に起きると、ちょうど、牛たちが逃亡をはじめたときあったので、臭い逃がしの小さな格子窓からのぞくと、海上で松明をふって、どこかに合図をおくっているらしい小舟をみた、ととどけでた。

明石町でも似たような合図の振り火を見た者がいた。

間隔をおいて海上に浮かべた舟から、なにごとかを連絡しあったのだろうと、推察された。

そうしたことを、銕三郎(てつさぶろう 明けて23歳 のちの鬼平)は、父・宣雄(のぶお 明けて50歳)とともに、正月5日に、本多采女紀品の番町の屋敷へ年賀へ行って聞かされた。

参照】2008年8月29日~[〔蓑火(みのひ)〕のお頭 (1) (2) (3) (4) (6) (7) (8)


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2008.09.01

〔蓑火(みのひ)〕のお頭(4)

_150忠助ちゅうすけ)どんが言っていた、〔蓑火みのひ〕の喜之助(きのすけ 45歳))のおんな軍者(ぐんしゃ)---甲州・八代郡(やつしろこおり)山中の中畑(なかばたけ)村の木こりのむすめ---〔中畑〕のお(りょう 28歳)というのは、どういう筋道のかんがえ方をするのだろう? できたら一度、話しあってみたいものだ)

寝着がはだけて、豊満な乳房をさらして眠っているお(なか 33歳)の襟をあわせてやると、
「うーん」
銕三郎(てつさぶろえう 22歳)のものを無意識にもとめて、指を下腹へ這わせてきた。
あてがっておいて、かんがえつづける。

これまでに、2人の女男(おんなおとこ)をしっている---いや、顔をあわせたことがあるのは、盗人専門の口合人稼業をやっていた[雨女(あまめ)のお(とき 36歳=昨年)だけだが。

参照】2008年6月8日~[明和3年(1766)の銕三郎] (2) (3)

では、〔雨女〕の故事を知らなくて、番町の大伯父・太郎兵衛正直(まさなお 58歳=去年)に赤恥をかいた。

かかわりで、〔荒神(こうじん)〕の助太郎の情婦・賀茂(かも 27歳=当時)の素性も知った。
この2人は、まだ、つかまっていない。

参照】2008年3月23日[荒神の助太郎] (9) (10)

ちゅうすけ注】賀茂が産んだ〔荒神〕の助太郎の子が、のちの2代目〔荒神〕のお(なつ 25,6歳=[炎の色])である。おも〔おんなおとこ〕に育ったが、このときは、銕三郎はそのことを知らない。

銕三郎が寝返りをうって、おの指がはずれると、
「え? なにか言いました?」
「なんだ、起きていたのか?」
「いいえ---」
「女男(おんなおとこ)に、知り合いはいないか?」

ぎゅっとつかんで、
「いませんよぉ」
そのまま、眠ってしまった。

女同士の出事(でごと 性交)は、塾の悪童がもってきた春画でみたことはある。

_360_2
(栄里『婦美の清書』部分 掲載誌『芸術新潮』2003年1月号によると、欧米のコレクターのあいたでは、これが2番人気なのだと)

(まあ、男の画家が想像で描いたものが多いはず。おれが知りたいのは、〔神畑(かばたけ)の田兵衛(でんべえ)は火、〔中畑〕のおは水---と評されている、その[水]ぶりなんだ。おんなは直感が鋭い。おは、それが飛びぬけているんだろうか。しかも、冷静にそれを取捨しているんだ)

銕三郎を驚嘆させるような盗みが、その年の年末---というより、明和5年(1768)の元旦の暁闇のうちにおきた。

参照】2008年8月29日~[〔蓑火(みのひ)〕のお頭 (1) (2) (3) (5) (6) (7) (8)

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