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2008.04.06

〔初鹿野(はじかの)〕の音松(6)

(さぶ)どの。気疲れたであろうが、よくやってくれて、ありがとうよ」
「〔軍者(ぐんしゃ)〕の帰っていった方角を見そこないました」
「いや。拙たちでさえ、身動きができなかった。まだ若いどのには、無理であたりまえですよ」
銕三郎(てつさぶろう)は、板場へ入ってゆき、しゃもをさばいている〔五鉄〕の亭主・伝兵衛(でんべえ 40歳)に気をつかいながら、その息子・三次郎(さんじろう 15歳)と話している。

長谷川さま。先ほどのお勘定の、おつりです」
「先刻も申したとおり、それは、火盗改メの職をいただいている番町の大伯父からの、どのへのご褒美だから、遠慮はいらぬ。とっておきなさい。ご亭主。よろしいでしょう?」
亭主・伝兵衛の返事はそっけなかった。
「このたびかぎりにしておいくだせえ。三次は店のでえじな跡継ぎなんでね。岡っ引きの下働きをしている暇に、しゃものさばき方の手をあげてもらいてえんでね」
苦笑した銕三郎は、首をすくめている三次郎と顔を見合わせた。

(親父(おやじ)どのというのは、どの家でも、息子はあぶなっつかしいものときめている)

「〔初鹿野(はじかの)〕の音松は、この二ッ目之橋をわたって弥勒(みろく)寺のほうへ行ったということでやしたが、江戸での寝ぐらを、長谷川さまは、どこらあたりと推しおはかりで?」
〔五鉄〕を、三次郎に見送られてですぐ左、竪川(たてかわ)に架かる二ッ目之橋をわたりながら、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 33歳)が問いかけた。

竪川の水面(みずも)に浮いた月がゆれている。

小田原宿から箱根山道へのとば口、須雲川に架かる箱根石橋の川下の村---風速で生まれ育った権七は、村名を通り名にしている。
持ち前の度胸と知恵で、箱根山路の荷運び雲助の頭格にまでなっていたが、〔荒神(こうじん)〕の助太郎一味3名に大金で口説かれて関所抜けをさせた。
そのために箱根へいられなくなり、情婦(いろ)の須賀とともに2ヶ月前に江戸へきて、須賀に永代橋東詰で呑み屋をやらせているが、府内の地理にはまだ不案内である。

「〔軍者が従って行かなかったところからすると、そう遠くはなさそう---弥勒寺橋をわたった北森下町---というと、拙の学而塾の近くということになるが---そのすしこし先の南六間堀町あたりか。小名木(おなぎ)川向こうではあるまい。そこまで遠くだと、〔軍者〕が供をして行く」
「六間堀の北の八名川町とかは?」
「六間堀とか五間堀のような舟の便がある町とおもっておいたほうがいいようにおもうが---」

「〔軍者〕も一つところでやしょうか?」
「そうはおもえないのですよ。一つところに起居していれば、なにも〔五鉄〕へきてまで、打ちあわせることはない」
「そうしやすと、〔軍者〕は〔軍者〕で、〔初鹿野〕のとは別のところへひそんでいるとみてかかったほうが---」
「そうです。連絡がとりやすいということから考えると、竪川ぞいの相生町とか緑町かなあ。それはそれとして、日をおかずに2度も〔五鉄〕の2階で決めごとをしたということは、仕事の日が近いと見ておいて、間違いない」
「それまでに、きやつらの寝くらを見つけられるといいんでやすが---」
「なに。これから先は、火盗改メがする仕事ということですよ」

Photo
(二之橋北詰の赤○=〔五鉄〕 右緑○=五間堀の弥勒寺橋 
上緑○=六間堀に架かる北ノ橋 下緑○=五間堀の伊予橋
切絵図は上が西、下が東。左が南、右が北)

2人は、弥勒寺橋を渡って先の辻で別れた。
銕三郎は左へ、まっすぐに東行き、横川を目指してあゆむ。
権七は右への道をとり、六間堀に架かる北ノ橋をわたって堀ぞいに小名木川。そこから大川へ。
十三夜の月の光が道を白々と照らし、〔五鉄〕が借りた提灯の灯はなくてもよさそうな夜であった。


【参照】[〔初鹿野(初鹿野)〕の音松] (1)  (2) (3) (4) (5)

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