〔初鹿野(はじかの)〕の音松(7)
(それにしても、凄い迫力であった)
人通りがまったく絶えている北森下町を東へ、自宅のある三ッ目通りのほうへあゆみながら、銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)はあらためて、〔軍者(ぐんしゃ)と呼ばれている小男のことをおもっていた。
先刻の〔五鉄〕でのことである。
先に帰る大男の〔初鹿野(はじかの)〕の音松(おとまつ)を見送ってから戻ってきて、調理場へ、
「雪隠をお借りしますぜ」
じろりと入れ込みを見回してから、奥へ抜けた。
その時の5尺(1m50cm)そこそこの小男が、とつぜん、6尺(1m80cm)にも見えたのである。
道場主の高杉銀平師が、真剣勝負で怖がると、相手が巨大に見えてくる---だから、技(わざ)以上に肝(きも)を鍛えよ、と言うわけが、今日こそ、のみこめたと銕三郎はおもった。
銕三郎は、北国なまりのあるその小男の〔軍者〕が、20数年後に、密偵となってくれた〔舟形(たながた)〕の宗平だとは、まったく予想もしていない
もっとも、銕三郎が火盗改メに任じられた時、〔舟形〕の宗平は70歳を越していて、人柄も練れつくし、殺気など胸の中に閉じこめて外には見せないようになっていたが。
(あの迫力は、生きるか死ぬかの修羅場を、いくどもくぐってきた者だけが会得できるのであろう)
これから修行をつむ励みができた、と銕三郎はおもった。
そして、 〔軍者〕が経てきた人生を想像してみる。
北の国---というけれど、どのあたりであろう?
通り名が〔舟形〕と知っていれば、そういう地名を、あとで、父・宣雄か、火盗改メの高遠(たかとう 41歳)次席与力にでも訊くことができるのだが。
貧しい寒村の貧農の育ちであろう。
生きて産まれたことのほうが不思議と言ってもよいような境遇だったろう。
あの小男ぶりでは、幼いころから、ろくろくに食べさせてもらえなかったと見る。
吉宗が将軍になってから、財政立て直しをはかっての天領と呼ばれる幕府直轄地の年貢(ねんぐ)の取立てがきびしくなった。捨田離農も禁止された。
次男・三男は、そのかぎりではなかったから、気の利いたのは、悪の道に走った。
そうした連中の中で、〔軍者〕と呼ばれるまでにのしあがるには、人一倍ものの本を読み、人間観察を積み、知恵もめぐらせたろう。
とりわけ、あのとおりの小ぶりの躰なんだから。
(あの男、オオカミの牙と、キツネの知恵をもっているのだろうな。知恵くらべの相手として不足はない)
(〔五鉄〕から長谷川邸(切絵図は遠山左衛門尉) 途中、五間堀に架かる弥勒寺橋、伊予橋。池波さん愛用の近江屋板)
銕三郎は、五間堀にかかっている伊予橋をわたったことにも気づかないほど、小男に感情を移入しかかっている自分に、ぎょっとした。
(さて、どう仕掛けたものか---)
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