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2008.04.08

〔初鹿野(はじかの)〕の音松(8)

3日ほどおいて、六間堀と五間堀に面した深川の町々---北森下町、森下町、六間堀町、元町、三間町などの大家(おおや)たちが、時刻差をつけて、こっそりと大番屋(おおばんや 深川では蛸番屋といわれた)へ呼ばれた。

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(緑○=大家たちが大番屋へ呼ばれた深川の町々 黄〇=長慶寺)

一つには、この5年間に代替わりした店(たな)を書き出さすため。
も一つは、それらの店舗に、身の丈6尺(1m80cm)前後、30歳から40歳とおぼしい男が寄宿していおる様子はないか---を言上させるためであった。

呼びつけた役人は、火盗改メ・本役に任じている先手・弓の7番手組の与力・門田紋三郎(35歳)と同心・大林源吾(51歳)と名乗った。
聞き役となったのは大林同心で、役人らしからず、おだやかな笑顔を絶やさないで応対した。

弥勒寺橋南詰の大家・庄兵衛(60歳)が、自分が長年差配してきている表店(おもてだな)のうち、3年前に、履物屋から小間物やへ代替わりしたのがあるけれど、
「お話のあった大男が寄留しているかどうかまでは知りません。うちのばあさんは町内でも地獄耳といわれております。帰ってたしかめて---」
「あいや、庄兵衛。はじめに申したごとく、これはごくごく内密のお調べであるゆえ、帰宅してからも、漏らしてもらっては困るのである---というよりか、困るのはお身たちでな。火盗改メ方が探しているぐらいだから、凶悪な悪党ということでないでもない。お身たちの中のだれかが差(さ)したとその者どもが知れば、一家みな殺しの報復にでるやも知れぬ。くれぐれも他言は無用である」

庄兵衛はもとより、同席していた大家たちがふるえあがって口をとざしたのを見渡した大林同心は、
「繰り返す。口にしっかりと戸締りを、な」
と引きさがらせ、次の組を呼びこむ手配をした。

そうやって、3軒の代替わりの店が報告された。
代替わりが少なかったのは、この5年間、六間堀町や五軒堀ぞいの町々に大火がなかったせいもある。深川あたりの小商いの店は、火事にでもあうと、もう立ち上がれない店が多かった。

大家たちが報告した3軒は、火盗改メの手でひそかに見張られたが、大男が寄宿している気配はなかったので、早々と監視の手配が解かれた。

そのあとすぐに、竪川ぞい、〔五鉄〕から2丁ほど東の緑町2丁目の料亭〔古都舞喜(ことぶき)楼〕が灰色の装束に身をつつんだ盗賊の一団に押し入られた。
首領は、大男であった。小男もしたがっていた。

火盗改メ方のその後の調べで、深川東森下町の曹洞宗・長慶寺(切絵図の黄〇)に2年前から住み込んでいた寺男・徳造(とくぞう 42歳)が、犯罪後に行方知れずになったことが寺社方に届けられていることがわかかった。
寺側の申し立てによると、1ヶ月ほど前から、身長6尺たっぷりの従弟と称する30男が、徳造に与えられていた墓場の南隅の寺男小屋にとまっていたという。
徳造を紹介したのは、同じ曹洞宗で入谷(いりや)の正洞院の寺侍であったらしいが、火盗改メが行った時には、この男も姿を消していた。

ちゅうすけ注】深川森下町の長慶寺を、尾張屋板の切絵図は〔長桂寺〕としている。そのわけを解説しているのが平岩弓枝さんの『御宿かわせみ』(文春文庫)巻17『雨月』収録の[雨月]である。

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(青〇=長桂寺と弥勒寺 尾張屋板切絵図)

【参照】[〔初鹿野(はじかの)〕の音松] (1)  (2) (3) (4) (5) (6) (7)

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