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2008.07.21

明和4年(1767)の銕三郎(てつさぶろう)(5) 

下城してきた平蔵宣雄(のぶお 49歳 先手・弓の8番手組頭)が、銕三郎(てつさぶろう 22歳)を呼んだ。
中根伝左衛門(でんざえもん)どのの見舞いに行ってもらいたい」

中根伝左衛門正雅(まさちか 79歳 300俵)は、この正月に、老を告げて書物奉行筆頭を辞した。
昨秋以来、登城も休みがちだったらしい。
何しろ、老齢である。

「それほど、お悪いのでございますか?」
「そのようにも、耳にしておる。わかっておるであろうが、その前に、芝・新銭座の井上立泉(りゅうせん)どのに、補精の薬を調合していただいてお持ちするように」

中根伝左衛門には、宣雄はもとより、銕三郎もいたく世話になっている。
世話もそうだが、早世した嫡男が銕之助といい、銕三郎とおなじ「」の字だったこともあり、祖父ほども齢がはなれていたが、親しくしてもらった。

中根家は、もともと、大番の役番筋であった。
ということは、番衆は、駿府と大坂城の守衛の任につくこともある。
婿養子にむかえたニ代目の当主・金五郎重房(しげふさ)が大坂に勤務中、28歳の若さで卒した。

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(3代の当主とも養子。3代目・正庸に妻の離婚記録なし)

急遽、天野家の次男・大助(11歳)が養子となり、遺跡を継いだ。
大助がすなわち、伝左衛門老である。

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(天野家から養子入りの正雅と嫁入りし離縁された女子)

銕三郎は、老から、若くして寡婦となった養母の孤閨による性的不満からのいじめの体験を聞かされたこともあった。

参照】2007年10月16日[養女のすすめ] (3)

そんなことからもこころが通いあい、長谷川家の祖・紀伊守正長(まさなが)が守将だった田中城の城主の名簿も手配してもらった。

参照】2007年10月12日~[田中城しのぶ草] (21) 

そのときの旅で、銕三郎は、初めて男になった。相手は、後家になったばかりの芙沙(ふさ25歳=当時)であった。

【参照】2007年7月16日[仮(かりそめの)の母・お芙沙(ふさ)]

宣雄の2人目の養女・与詩(よし 6歳=当時)を受けとるために、銕三郎が駿府町奉行の朝倉家へ行くときにも、紅葉山の書物蔵から、朝倉家の家譜の写しを、中根伝左衛門からそっと渡されたこともあった。

【参照】2007年12月25,26日[与詩を迎えに] (5) (6)

この旅で、離縁を決心して芦ノ湯の湯治宿へ帰る途中の阿記(あき 21歳=当時)と知り合い、肌をあわせ、於嘉根(おかね)が生まれた。

(中根老は、甘いおもいでにかかわってこられる。縁むすびの神かも---)

銕三郎は、いい齢になっているくせに、おんなに対して、もうひとつ、だらしがない。いや、隙がありすぎるといおうか。その隙を、おんなは、かんたんに見破っている。

二日おいて、井上立泉医師からの朝鮮人参を台にした高価な薬もとどいたので、銕三郎は、逢坂横町の中根伝左衛門正雅の屋敷を訪ねた。

Photo
(牛込ご門外・逢坂横町の中根邸)

家婢(かひ)は、銕三郎を病室へ導くと、茶もださないで、さっさと消えた。
正雅の小鼻はほとんど落ち、薄い上布団のふくらみも薄い。
その姿は、孤独に死を待っているようで、養子・忠三郎正庸(まさつね 33歳)のことを訊くのもはばかられた。

立泉医師の薬を枕元へ置き、
「なんでしたら、火をお借りして、拙が煎じましようか」
銕之助どの。長生きはするものではありませぬな」
正雅は、あいかわらず、銕三郎を、死んだ嫡男の名で呼んだ。

「あれが、天野から迎えた嫁を離縁しましてな」
ぽつりと言った。
そのことは、5年前の話であった。
それが、昨日起きたことのような口ぶりであった。
「こらしめのために、家督をのばしてやりましたのじゃ」
離縁された前妻は、天野家での孫の次女だった。

後妻は、正雅の看病をきらっているらしい。

銕三郎は、盗賊〔狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 45,6歳=当時)の若い妾・お(しず 18歳=当時)とねんごろになり、それがばれて、勇五郎から、
「お武家方のお子が、人のもちものを盗っちゃあいけねえ。人のもちものでも、金ならまただゆるせる。だが、おんなはいけませんよ」
と、たしなめただけで放免してくれた話を、笑いながらした。

伝左衛門は、息もたえだえに、ひぇっ、ひえっと笑い声をたて、
「幕臣だったら、遠島ものですな。金なら切腹」
とつぶやいた。
そして、
「久しぶりに笑わせてもらった。銕之助どの、かたじけのうござった。いまの話、閻魔大王を笑わせてやりましょうわい」
目から一筋、涙がこぼれていた。

参照】2008年6月2日~ [お静という女] (1) (2) (3) (4) (5)
2008年6月7日[明和3年(1766)の銕三郎(てつさぶろう) 

ちゅうすけのつぶやき】2008年7月2日[ちゅうすけのひとり言(16) で触れた、1000名からの部下の渇水死をすくうために二股城を開城したことが、家康の逆鱗にふれ、その申しわけに三方ヶ原の合戦を死に場所えらんだ、中根平左衛門正照(まさてる)は、中根一族の出。
記録のために、『寛政重修諸家譜』から、中根家の由緒書を引いておく。

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