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2008年10月の記事

2008.10.31

〔伊庭(いば)〕の紋蔵

火盗改メ方の本役・本多采女紀品(のりただ 55歳 2000石)の捕り方同心筆頭・鳥越亥三郎(いさぶろう 48歳)の指揮で、同心4名、小者13名が、〔伊庭(いば)〕の紋蔵(もんぞう 32歳)一味の隠れ家---薬研堀北側の家を急襲した。

参照】本多采女紀品の最新情報は、[〔蓑火(みのひ)〕のお頭] (3)
本多采女紀品と銕三郎のかかわりは、2008年2月10日~[本多采女紀品] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) 
2008年2月20日~[銕三郎、初手柄] (1) (2) (3) (4)

紋蔵は、〔蓑火みのひ)〕の喜之助(きのすけ 46歳あたり)の配下であったが、今年の1月に破門されていた。

参照】〔伊庭〕の紋蔵と〔木賊(とくさ)〕の林造のかかわりは、[〔うさぎ人(にん)・小浪] (4)

破門の理由(ことわり)は、元旦の盗み(おつとめ)・神田鍋町の海苔問屋〔旭耀軒・岩附屋〕で、一味の働きをよそに、またしても、店主・又右衛門(52歳)の後妻・お(とも 28歳)の鏡台から白玉のかんざしを懐に入れたのが、喜之助お頭に知れたのである。
盗(おつとめ)みのたびに、玉類をあさるので、喜之助がいつも叱るのだが、その盗癖(?)はやまなかった。
盗品を故売するわけではなく、玉類に魅せられていたとしか、いいようがない。

参照】明和5年正月元旦未明の海苔問屋〔岩槻屋〕の事件は、[〔蓑火(みのひ)〕のお頭] (5) (6) 

紋蔵は、近江国神崎郡(かんざきこおり)の、大津宿に近い伊庭村の漁師の息子である。
父親にしたがって琵琶湖で漁をしていたとき、網に白玉をあしらった根付がひっかかった。
それ以来、玉のあやしい魅力にとりつかれ、けっきょく、盗みの道へ入った。

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』巻1[座頭と猿}で、〔夜兎ようさぎ)〕の角右衛門一味の〔尾君子びくんし)小僧〕こと徳太郎が、大坂の〔(くちなわ)〕の平十郎に借りられたので、飯倉3丁目で唐物の〔白玉堂〕をだしている紋蔵にあいさつに行く。この紋蔵の前身が〔伊庭〕の紋蔵である。

ということは、本多組の急襲のとき、どうしたわけか、紋蔵はその隠れ家に居合わせなくて、逮捕をのがれた。
深川・櫓下の娼家にでも居つづけていたか、押入れの奥に秘密の抜け道をつくっていたのであろう。
銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)の推察では、抜け穴説である。

武田信玄配下の軒猿(のきざる 忍びの者)の末裔を母親にそだてられた〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)が、〔蓑火〕一味の盗人宿や支配下の商人旅籠にかならず設ける抜け道を見しっており、薬研堀のそこにもしつらえたのであろう---これは、<事件後、strong>銕三郎がおと面談したときに、たしかめられた。
ただし、抜けでたら外側から封じるので、家の内側をいくら捜しても仕かけは見破れないと。

参照】[〔中畑(なかばたけ)〕のお竜〕 (1)  (2) (3) (4) (5)  (6) (7)  (8)

銕三郎は、自分だけ抜け穴から逃れ、〔蓑火〕一味を脱(ぬ)けてしたがってきた4人を、火盗改メに捕らえさせた〔伊庭〕の紋蔵のやり口は、卑劣で許せない---と、〔木賊(とくさ)〕の林造に告げ、
「あのような卑怯者と手を組んでは、元締の名がすたりましょう」
と説いた。
これがきめてとなり、林造も納得、〔木賊〕一家と〔蓑火〕との対立は、避けられることとなった。

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2008.10.30

ちゅうすけのひとり言(27)

またも、書きそびれをしてしまった。10月5日(日)午後の、〔SBS学苑パルシェ 静岡〕の[鬼平クラス]の報告である。
テキストは、文庫巻8[白と黒]。
ストーリーは、あらためて記すまでもなく、「下女泥」のお・おいま)と〔翻筋斗もんどり)〕の亀太郎の艶もの。

鬼平は、巣鴨本村の大百姓で実母の実家の当主・三沢仙右衛門と酒肴をともにした帰り、かつて高輪で捕り逃がした〔翻筋斗〕の亀太郎が、〔稲荷横丁〕の居酒屋からでてきたところで見かけた。

レクチャーは、いつものように、池波さんが手放さなかった切絵図・近江屋板[駒込・巣鴨辺]のカラーコピーに青ドットをうったのを配布し、で、土地勘をつける。

_360
(巣鴨・西北地域 左上から、熊野窪、本村、行人塚箭矢稲荷、子育稲荷)

上図の部分拡大
_360_2
(熊野窪・巣鴨本村の三沢家)

_360_3
(行人塚箭矢稲荷、子育稲荷霊感院)

ちゅうすけ注】熊野窪は、『鬼平犯科帳』巻4[(なご)の七郎]p18 新装版p19で、下痢に苦しめられながら三沢家へ金を借りにゆく辰蔵が、ここでつけ馬の剣客・上杉周太郎におぶさる。

鬼平は、筆頭与力・佐嶋忠介亀太郎の住まいの見張りを言いつける。佐島与力は虚無僧に変装p221 新装版p233 して見張りにでかける。

時代小説では、『鳴門秘帳』いらい、なにかというと虚無僧に変装するが、これは、きわめて危険---と強調したい。

中里介山『大菩薩峠 16 胆吹(いぶき)の巻』(富士見書房 時代小説文庫 1982.6.30)に寄せた巻末解説を転記する。

机龍之助と尺八---

『大菩薩峠』にはじつにさまざまな人物が、あたかも彩りとりどりの数百本の絹糸を組んだ組紐のように、現われては隠れ、去っては帰ってきます。その糸の縒れ方やからまり方のおもしろさを指摘するのは別の機会にゆずりましよう。
私は、この小説における音楽の使われ方に、中心を置きたいとおもいます。しかし、開巻の巡礼爺孫の鳴らす鈴の音からはじまり、三味線の伴奏で、

  夕べあしたの鐘の声
  寂滅為楽と響けども
  聞いて驚く人もなし
  花は散りても春は咲く
  鳥は古巣へ帰れども
  行きて帰らぬ死出の旅

と「間(あい)の山節(やまぶし)を唱うお玉(「間の山の巻」本文庫(2))、

  甲州出がけの吸付煙草
  涙じめりで火が附かぬ

と「山の娘」の行商の歌を唱うお徳(「白根山の巻」同前)、琴を弾くお銀様(「伯耆の安綱の巻」同(3))、即興の歌を唱う清澄の茂太郎と平家琵琶を弾き語る弁、そして越後獅子の一行(「安房の国の巻」同(6))---書きたてていったらきりがありません。

まあ、皆それぞれに小説の中で重要な情緒醸成の役割を果たしているのですが、私は、中里介山がわざわざ「鈴慕の巻」(同(11))と、一つの巻を独立させている、机龍之助と尺八についてまとめてみることにしました。
皇学館大学の岡部直裕教授は『小説に現われた尺八』(『季刊邦楽』第17号・昭53)で、龍之助が尺八を吹いている情景が初めて描かれるのは「間の山の巻」だとされていますが、本文庫ではすぐ次の「東海道の巻」(本文庫(2))になっています---

 一人の虚無僧が大湊を朝の早立にして、やがて東を指して歩いて行きます。これは机龍之助でありました。
 龍之助の父弾正は尺八を好んで、病にかからにぬ前は、自らもよく吹いていたものです。子供の時分から、それを見習い、聞き習った龍之助は、自分でも尺八が吹けるのでありました。

---実は、私の亡父も都山流の奏者でお弟子もとっていましたが、私自身はつい最近まで竹を手にしたことはなかたっので、この文章に「おや?」と思いました。
聞き覚えだけで「虚霊」(注・虚鈴とも綴る)の本手や「鶴の巣籠」が吹けるのかと首をかしげたのです。ことに、「鶴の巣籠(すごもり)」は、鶴の夫婦愛と親子の情愛を曲想としているので、龍之助が吹く曲としてはいかにもそぐいません(もっとも本式の十段では親鶴の死ぬ描写もあるが、普通は七段で終る)。
そう思っていたところで、介山の門下の柞木田(たちきだ)龍善氏の『中里介山伝』(読売新聞社)の昭和2年の項を読みました。

かいつまんで紹介しますと、介山が43歳だったその年の晩秋の夕方、早稲田鶴巻町通りを流している虚無僧と出合います。竹の調べの本格さ、心得ありげな身の構えに話しかけてみると、これが北大・造園科をでたばかりの農学士、高橋空山青年だったのです。

参禅10年、剣は山田次朗吉に師事して3段、そのほか槍、柔道馬術にも通じているというので、大いに親交を結び、介山の講演会のたびに一曲を吹奏させて聴衆を魅了したというのです。

空山氏には『普化宗史』(同刊行会)という研究書もあるほどで、虚無僧や尺八についての知識にはこと欠きません。翌3年、介山は早速「鈴慕(れいぼ)の巻」を執筆します。この「鈴慕」は、時の幕府に「鈴法」として届けられ、一般には「恋慕(れんぼ)」と呼ばれたといわれていますが、それはどんなものでしょう。

もともとこの「鈴慕」という曲は、唐代の禅宗の普化が、錫杖に鈴をつけ尺八を吹いて托鉢したという故事をしのび、鈴にみたてた禅師を慕ってつくられたものといい伝えられています。
いろんな編曲があって、「霧海箎鈴慕」「虚空鈴慕」「休愁鈴慕」「京鈴慕」「善成鈴慕」「意子鈴慕」「鈴慕流し」「巣鶴鈴慕」「吟龍虚空鈴慕」「波間鈴慕」などがあって譜面が相当に違います。

高橋空山氏がのちに語ったといわれているものの伝聞では、龍之助が白骨の湯で吹いたのは「葦草(いぐさ)鈴慕」だとか。これは、現在の青梅市新町の虚空院鈴法軒に伝えられている曲です。慶長18年(1613)に、川越領葦草の地にあった小院が現在地に移ったために、旧地の名を冠しているのです。
手元の譜面を導入部を写してみましょう---

ツ-ルレ-ツロ-・レ-ロ-、ツ-レ-リウ-ヒ-・ヒ-ヽヽヽヽヽ・ツヽレ-

---尺八をやらない人には解読の手がかりのない暗号文でしかありません。もっとも、介山だつて---
 「虚霊」は天井の音(おん)、「虚空」は空中の音、「鈴慕」に至ってはじめて人間の音です。
 行けども行けども地上の旅を行く人間の哀音、その何れより来って、何れに行くやを知らず、萩のうら風物さびしく地上に送られて行く人間が、天上の音楽を聞いて、これに合せんとするーあこがれすなわち「鈴慕」の音色ではないか(本文庫(11)p67)
---と比喩的にしか書いていません。しかし、いまの読者は虚無僧の吹く明暗(みょうあん)流の竹調べなどはほとんど耳にしません。聞くとしても、俗曲民謡の伴奏としての琴古か都山---でしょう。

「葦草鈴慕」がよほど気にいったかして、介山は「不破の関の巻」(本文庫(15))でも、関守に「我々、世捨て人にとって、鈴慕の曲ほど罪な曲はありません」としわせていますが、尺八の音であれ他の楽器であれ、聴く人の心理状態でこたえもし、あるいは希望をみつけることもできるのですから、読者に無理におしつけるのはどんなものでしょう。
それにしても、若い時代にちょっとかじった『大菩薩峠』ですが、改めて読みなおすと、原作の十倍もの注解が書けそうで、介山の知識に驚いています。

さて、佐嶋忠介の虚無僧への変身が危険というのは、虚無僧同士が行きあうと、自分が所属している寺に伝わる「鈴慕」の導入部を吹いて、身分を示すのがしきたりだった。
もし、吹けなかったら、偽者として捉え、奉行所へつきだされたからである。

ついて記しておくと、『鬼平犯科帳』で佐嶋与力のほかに虚無僧に扮するのは、

鬼平     [2-6  お雪の乳房] p246 新装版p261
        [17-5 鬼火] p209 新装版p215
小野十蔵  [1-1  唖の十蔵]p7 新装版p
山田市太郎 [2-6  お雪の乳房]p260 新装版p274 
        [4-4 血闘]p140p 新装版p146
沢田小平次 [6-7 のっそり医者]p262 新装版p274
酒井祐介  [11-2 土蜘蛛の金四郎]p73 新装版p76
大滝の五郎蔵[10-5むかしなじみ]p208 新装p219

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2008.10.29

〔うさぎ人(にん)〕・小浪(7)

小浪(こなみ 29歳)が〔狐火きつねび)〕に加わった経緯(いきさつ)というのは、ちょっと変わっていましてね」
狐火〕の勇五郎(ゆうごろう 48歳 初代)は、忠助がおぎなった新しい付きだしのそら豆の塩ゆでを一つつまみ、皮を飯台に置いてから話しはじめた。

6年前のことというから、宝暦12年(1762)、小浪は23歳の年増ざかり、勇五郎は42歳で脂がのりきってい、盗(おつと)めがおもしろいように運んでいた時期である。
浜松の銘酒〔天女の水〕の醸造元へ押しこんで、全員を縛りあげて一ヶ所へあつめた中に、小浪がいた。

_120配下のひとりが、耳元でささやいた。
「美形がいます」
勇五郎があらために行くと、おんなは縛られたまま、
「お頭ですか? しつけが手ぬるいですねえ」
と話しかけた。
「お前さんの内股でもさわった者(の)がいたかい?」
「ふん」
おんなは横をむいてしまった。

しかし、後ろ手にまわされている手の指を、勇五郎にだけ見えるように、おいでおいでをした。

引きあげるとき、配下たちがひとりずつ胸の下の急所につきをいれて気絶させるのだが、小浪だけはのこすように、〔瀬戸川せとがわ)の源七(げんしち 46歳=当時)にそっと指示しておいた。
小浪をのぞく全員が気絶したのをみとどけて、
「何が言いたい?」
と問いかけると、
「城下の町奉行所のお調べがおわる---そう、10日後の暮れ六ッ(午後6時)に舞坂宿(しゅく)の旅籠〔めうがや〕に、小頭ともども、小浪といっていらっしゃって---」
それだけつぶやいて、気絶したふりをして倒れた。

指定された日の昼すぎから、配下の気のきいたのの4,5人に〔めうがや〕のまわりを見張らせておき、捕り方がいないことをたしかめた上で、勇五郎源七小浪を呼び出した。
「すまないが、新居(あらい)宿までの舟の上で聞かせてもらう」
小浪はすなおに応じた。

「みなさん、言葉にそれぞれ、なまりがありすぎます。あれでは、押しこみ先に耳のいいのがいたら、何人かの出身がしれてしまいます。それぞれ、生国が発覚(ば)れないように、なまりをとりのぞくことが肝心です。それと、言葉をつかわないでも指令がとおるようにしないと---」
「お前さん、どちらの---?」
「北河内の〔堂ヶ原(どうがはら)〕のお頭のあと、〔帯川おびかわ)〕の源助(げんすけ 57歳=当時)お頭の下で3年、修行させてもらいました」
「おお、伊那のお方と聞いている、あの〔帯川〕のお頭の---」
「はい。2年前に一味をお解きになったので、いまは独り盗(ばたら)きです」
「あの醸造元へも?」
「ですが、そちらさんにさらわれてしまって---」
「悪かった。で、どうだろう、うちの配下たちのお国なまりを矯正してもらえるかな?」
「それには、別のお人がいましょう。あたしは〔うさぎ〕なら---」

_130長谷川さま。小浪もお(りょう)も、ともに美形です」
「認めます」
「どちらも、賢い。しかも、芯がつよい。が、こころねは、まるで異なります」
「はあ---?」
小浪は、おのが美形を存分に遣いこなすこころえがあります」
「おどのは?」
「美形を、まったく、意に介しておりません」
「---?」
「おなごには、きわめて珍しいことです。それだけに、こころねが真っすぐです。だから、ものごとがよく見えます」
「お逢いするのが、ますます、たのしみになってきました」

そろそろ、酒客のくる時刻になったらしく、忠助があいさつをして、板場へ引っこんだ。

銕三郎も潮時とみて、
「(狐火)のお頭。ついでのときに、〔蓑火〕のお頭へお伝えください。向島の料亭〔平岩〕へ押し入るのは、おやめなさったほうがお身の安全と。捕り方が手ぐすねをひいて、押しこみを待っております」
勇五郎の眼の光がまして、銕三郎を見つめた。


[〔うさぎ人(にん)・小浪] (1) (2) (3) (4) (5) (6) 

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2008.10.28

〔うさぎ人(にん)〕・小浪(6)

主要な用件が無事におわり、気がゆるんだのか、〔狐火きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 48歳 初代)と、〔瀬戸川せとがわ)〕の源七(げんしち 52歳)には、酒がほどよくまわっていた。

本所・四ッ目の通りに近い〔盗人酒屋〕である。

銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)は、もともとはたしなまなかったのだが、付きあう者たちのこともあり、このところ腕がややあがってきたとはいえ、だいじな場ではひかえている。
だから、さほどには呑んでいない。
たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ 46歳)は、これから店をやらなければならないので、酌をするばかりで、杯には手をふれもしていない。

話題が一段落したところで、銕三郎が〔狐火〕に問いかけた。
「お頭は、京都が本宅でしたね?」
勇五郎は、機嫌よく、
「さようですが---?」
「もし、よろしければ、京・荒神口で太物(木綿の着物)の店をだしていた〔荒神こうじん)〕の助太郎(すけたろう  49歳)という仁の、その後をご存じでしたら、お教えください」
「〔荒神」のが、どうかしましたか?」

「あの仁の、箱根の関所抜けを手伝ったために、職をうしなった知り合いがおりまして---」
「なんと。助太郎どん、関所抜けまでやりましたか。あは、ははは---」

参照】[於嘉根(おかね)という名の女の子] (1) (2)
[荒神(こうじん)の助太郎] (8) (9) (10)

「いまの住まいをご存じですか?」
「御所の東の荒神口ではないのですか?」
「店は抜け殻同然になっているのです」

源七どん。なにか耳にしているかな?」
「いいえ。一向に---」
どうやら、虚言をつかっている気配でもない。
「三島か沼津のあたりに別宅を構えているという噂はお聞きになっていませんか?」
「はて---」
銕三郎は、脈なし、とふんであきらめた。

長谷川さまは、なにゆえに、〔荒神〕ののことを?」
逆に、〔狐火〕のほうが訊きかえしてきた。
「〔中畑(なかばたけ)のお(りょう 29歳)どのがらみでおもいだしたものですから---」
「これは聞き捨てにできませんな。おがらみといいますと---?」
しばらくためらってから、銕三郎が答えた。
賀茂(かも 27,8歳=当時)というおんなおとこ(女男)に、ややを孕ませたらしいと聞いたもので---」
ぷっ、とむせた勇五郎が、
「失礼。おんなおとこにややを孕ませたというので、つい---で、そのややは、男の子、それとも---」
「そこまでは---」
「いや、他人ごとと笑ってはいけません。手前もおに産ませておりますからな。〔荒神〕のが知ったら、齢甲斐もなく---と笑っておるかも---」

ちゅうすけ注】ご推察のとおり、、〔荒神〕の助太郎賀茂に産ませた女の子が、のちに、2代目を襲名した〔荒神〕のおなつ)である。おは、おまさが忘れられなくて、未完[誘拐]で、おまさを攫(さら)わせた。このブログは、おまさの無事の救出をもって終わる予定である。20数年先の話なので、ゆっくりとすすめている。

「おどのには、ありえないと?」
訊きかえした銕三郎に、忠助が、2階への階段を気にしながら、
っつぁん。お頭の中には、ご存じの〔法楽寺ほうらくじ)の直右衛門(なおえもん 42歳)お頭のように、配下のおなごの躰を熟させて、おもうように操るお人も少なくはありません。しかし、〔狐火〕のお頭と〔蓑火〕のお頭、それに〔乙畑おつばた)のお頭は、それをなさらないということで、仲間内でとおっております」
(つまり、おは、囲われているだけで、盗みの道はしこまれていないということか)

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』文庫巻4[血闘]で、天明8年(1788)10月の初旬、30歳をすぎたおまさが10数年ぶりに火盗改メ・本役に任じられたばかりの平蔵宣以(43歳)を訪ねてき、「密偵」になることを申しでる。そのとき、おまさが属していたのは〔乙畑〕の源八(げんぱち)一味であった。が、じつは、これは2度目のお勤めで、おまさは17歳のときに父・忠助と死別するのだが、遺言のようなかたちで、「お前が盗みの道にはいるなら、おれやお(こん)さんとのかかわりから〔法楽寺〕のお頭の配下ということだろうが、躰を自由にされるのが嫌なら、〔乙畑〕のお頭のほうににつくんだ」と言いのこしたために、おまさは、最初のお頭として源八を頼った。

「お頭。おさしつかえなかったら、もう一つ---」
「なんですかな?」
小浪(こなみ 29歳)どのが、一味に加わった経緯(いきさつ)を---」


[〔うさぎ人(にん)・小浪] (1) (2) (3) (4) (5) (7)

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2008.10.27

〔うさぎ人(にん)〕・小浪(5)

「もう一つの件とは?」
「〔蓑火みのひ)〕の喜之助(きのすけ 46歳)お頭へ、〔木賊(とくさ)〕の林造(りんぞう 59歳)元締の恨みがいかないように、元締を説き伏せていただきたいのです」

狐火きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 48歳 初代)は、〔瀬戸川せとがわ)〕の源七(げんしち 52歳)が渡した切り餅(25両の包み)を銕三郎(てつさぶろう 23歳)の前へ押しやった。
「少ないですが、〔蓑火〕のと手前の、ほんのこころざしです。お受けください」

銕三郎は、手をふり、
「〔狐火〕のお頭。これはいけませぬ。親しくさせていただいていて、こういうことを申してはなにですが、父はお上からお役をいただいております。いわれのない金を受けとっては、父の職格に傷をつけることになります。この金がなくても、〔木賊〕の元締を説くことは、かなう、かなわないはともかく、やってみます。どうぞ、お下げください」

銕三郎は、懐紙をだし、切り餅にあてて押し返した。
懐紙は、金に手を触れてないというあかしである。
「なるほど。お父上の職格といわれるとひと言もございません。それでは、下げさせていただきます。たいへんに失礼を申しあげました。このことは、なかったことにしていただきますよう」
「ご承引(しょういん)くださり、かたじけのう---」
銕三郎が頭をさげると、〔狐火〕も飯台に額がつくほどに伏した。

狐火〕の勇五郎が、〔木賊〕の元締の説きふせに銕三郎をおもいついたのは、林造が御厩(おうまや)河岸で茶店をださしている小浪(こなみ)に漏らした銕三郎評によったのだそうである。
小浪が、長谷川銕三郎という若者が店へきたと寝ものがたりに名をだしたところ、林造は、小浪の太股を指でまさぐりながら、あの若者は、つつがなく伸びれば、将来の大器だ。お上のお役人の子にしては、珍しく私欲がなく、道理をわきまえていると言ったと。

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(栄里『婦美の清書』部分 小浪のイメージ)

さらには、あの若者が、お上の俸禄とりの家の嫡男でなければ、すぐにもうちに欲しい玉だ。あの男なら、〔木賊〕一家をりっぱにに束ねていける---と、べた惚れだったと。

あげくに、小浪に、
「あの若者の子を産んでくれれば、その子に〔銀波楼〕をゆずる」とも。

「とんでもない買いかぶりです。ただ、わが家は、父がまだ出仕するまえの冷や飯食いの時代に、知行地・上総(かずさ)国武射郡(むしゃこおり)寺崎(現・千葉県山武市)と山辺郡(やまべこおり)片貝(千葉県山武郡九十九里町)に、それぞれ100石と40石の新田を開き、家禄の400石を上まわる実収があります。しかも、父が先手・弓の8番手の組頭のお役料が1500石と、恵まれております。贅沢さえしなければ、生活の心配はありませぬ」

ちゅうすけ注】平蔵長谷川家の家禄は400石だが、実収は4公6民の幕府のしきたりにならって、4割が知行主・長谷川家のものだから、実収は160石前後。それにひきかえ、新田開発した150石は8割ちかくが長谷川家に入るから、家禄の石高よりも割りがいい。
なお、父・平蔵宣雄の先手組頭の役職1500石格も、実収の支給はその4割前後らしい。

_200「そうだそうですね。〔蓑火〕のところの小頭・〔五井(ごい)〕の内儀の縁者が、知行地の片貝にいたとか、わけがあったとか---」
「いや。もしかしたら、拙はそちらで生まれていたかもしれないのだそうです。はっ、ははは」
「はっ、ははは。小浪が言っておりましたよ。おんなたちがほおっておかないのだそうで---」
「それは、父の---」
と言いかけて、2年前のお(しず 18歳=当時)とのことをおもいだし、銕三郎は、あわてて、口をとざした。
狐火〕の勇五郎の前では、色恋のはなしは禁物であった。(歌麿『蚊帳の外の女』 お静のイーメージ)

参照】[お静という女](1) (2) (3) (4) (5)

[〔うさぎ人(にん)・小浪〕 (1) (2) (3) (4) (6) (7)


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2008.10.26

〔うさぎ人(にん)〕・小浪(4)

_100小浪(こなみ)さんが今助(いますけ)どんから聞きだしたところによると、〔蓑火みのひ)〕のお頭が放逐なさった、〔伊庭(いば)〕の紋蔵もんぞう)という男(の)が、〔木賊(とくさ)〕の林造(りんぞう)と組んで、なにごとかたくらんでいるらしいのです」

狐火(きつねび)〕一味の番頭(ばんがしら)格・〔瀬戸川せとがわ)の源七(げんしち 52歳)が、説明役を買ってでていた。
お頭の勇五郎ゆうごろう 48歳)に、肴の茄子の早漬けを、ゆっくり味あわせるこころづかいからである。

Img_20060310t075252051小浪(29歳)は、浅草・今戸一帯をとりしきっている香具師(やし)の元締・〔木賊〕の林造(59歳)のものとなった代償に、御厩(おうまや)の渡し場前に、小粋な茶店を買ってもらった。(御厩河岸の渡し『江戸名所図会』 練り絵師:ちゅうすけ)

その〔木賊〕一家の若い者頭格・今助(21歳)をたらしこみ、寝床で一家の内情をしゃべらせている。

ちゅうすけ注】〔蓑火〕一味を追放れた〔伊庭〕の紋蔵(37歳)は、『鬼平犯科帳』文庫巻2[(くちなわ)の眼]p225 新装版p238で、60がらみの唐物商〔白玉堂〕の紋蔵として登場している。紋蔵が唐物屋となった経緯(いきさつ)は、あとで。

もちろん、〔狐火〕の勇五郎が期待していたのはそんなことではなかったが、小浪とすれば、勇五郎の盟友ともいうべき〔蓑火〕の喜之助(きのすけ 46歳)にかかわることだから、聞き出さないわけにはいかないとおもったのであろう。

そのことは、〔狐火〕から〔蓑火〕へ通じ、小頭の〔五井ごい)〕の亀吉(かめきち 30歳前後)と〔尻毛しっけ)の長助(ちょうすけ 24歳)が蕨(わらび)宿からつかわされてきたのであった。

両国橋の西詰で、久栄(ひさえ 16歳)といっしょだった銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)が2人を見かけたとき、2人は薬研堀北側に設けられた紋蔵の盗人宿の出入りを見張った帰りだったことは、あとでわかった。

参照】[〔中畑(なかばたけ)〕のお竜〕 (2) (3)
[大橋家の息女・久栄(ひさえ)] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)

ついでに書いておくと、〔蓑火〕一味からは、4人が紋蔵についていたことが、このときの見張りで判明している。

「そういうわけで、〔蓑火〕のお頭はちゃんと手をおうちになっているのですが、できれば、〔木賊〕一家とはことを構えたくないからと、うちのお頭に相談なさっているのです」
「〔蓑火〕の喜之助どのも、江戸へ?」
「うちのお頭が江戸入りなさっているわけですから---」
「で、拙が呼ばれたのは?」
源七は、またも、勇五郎の顔を仰いだ。

勇五郎がうなずいて、茄子の浅漬けを飲み込んでから、
長谷川さまに、火盗改メのお役宅への投げ文(ぶふ)役をお引きうけいただきたいのです」
「投げ文役?」

じっさいは、銕三郎から、火盗改メの本役・本多采女紀品(のりただ)へ、〔伊庭〕の紋蔵一味の逮捕の出役をすすめてほしいというのだが、表向きは、投げ文があった形をとれば、〔木賊〕の林造の体面を傷つけることなく、たくらみを未然につぶせると考えらしい。

「拙が本多さまと---?」
長谷川さまは、ご自分が平塚の〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛(かんべえ 39歳)におっしゃったことを、よもや、お忘れではございますまい?」
(あっ、そういう繋がりもあるのか! しかし、この人びとの地下の連絡(つなぎ)の網目は、どうなっているのであろう? 恐しいばかりだ)

参照】[与詩(よし)を迎えに] (29) (37)
[明和4年(1767)の銕三郎 (9) (10)

たしかに、4年前、婚家をとびだした阿記(あき 21歳)をおどしにきた平塚宿の顔役・〔馬入〕の勘兵衛に、当時も火盗改メをしていた本多紀品の相談役と大きく出たことがあった。
そんなことまで、〔狐火〕の耳へ達していたとは---。
(そういえば、勇五郎は、妾の一人を小田原城下にお(きち)を囲っていたが、本妻の病死とともに、おとのあいだにできた〔又太郎とかいう男の子とともに京都へ移したと聞いたことがあった。とすると、お(しず 20歳)とややは、藤沢あたりに囲われており、こんどの入府は、そこからかもしれないな)

ちゅうすけ注】小田原城下のお又太郎のことは、『鬼平犯科帳』文庫巻6[狐火]p124 新装版p132

銕三郎は、承知するしかなかった。

「じつは、もう一つ、やっていただきたいことがあるのです」
狐火〕が言い、銕三郎に酌をした。


[〔うさぎ人(にん)・小浪] (1) (2) (3) (5) (6) (7)

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2008.10.25

〔うさぎ人(にん)〕・小浪(3)

「おさんにわたりをおつけになろうとしているわけをお聞かせください」
狐火きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 48歳 初代)に言われて、銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)は、 これまでの経緯(ゆくたて)を、隠すこととなく話した。

_100きっかけは、この〔盗人酒屋]の主(あるじ)の〔たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ 47歳)から、〔蓑火みのひ)〕の喜之助(きのすけ 46歳)の人柄を聞いたとき、3人の小頭---〔大滝おおたき)〕の五郎蔵、〔五井ごい)〕の亀吉、〔尻毛しっけ)〕の長助(一本立ち後は長右衛門)と、2人の軍者(ぐんしゃ)---〔神畑(かばたけ)〕〕の田兵衛(でんべえ 41歳)と〔中畑(なかばたけ)〕のお竜(りょう 29歳)がついていること。
はおんなおとこ(女男)で、男ぎらいらしいこと。(歌麿 お竜のイメージ)

参照】[〔蓑火(みのひ)のお頭] (2) (4) (6)
[大滝(おおたき)〕の五郎蔵 (1) (2)
参照】[〔中畑(なかばたけ)〕のお竜〕 (1)  (2) (3) (4) (5)  (6) (7)  (8)

そこまで話したとき、板場から忠助が顔をだした。
それまで、遠慮していたが、どうやら、平穏に話がすすみそうだとみきわめて、酒と肴をはこんできて、3人に酌をし、そのまま、長身をかがめて座に加わった。
おまさは、2階で手習いにはげんでいる。
肴は、刻んだ茄子(なす)を塩もみしただけのを山椒醤油で食すもので、夏らしく、さっぱりし風味であった。

「茄子を山椒醤油---とは気がつかなかった。冷酒がすすみそうだ」
勇五郎がほめると相好をくずし、砂町(江東区北砂町)からいい実(み)がはいったのでと首をすくめた。

銕三郎は、おの生地---甲斐国八代郡(やつしろこおり)中畑(なかばたけ)村まで出かけて素性を聞きこみ、母親が武田方の軒猿(のきざる 忍びの者)の子孫であったこと、父親・木こりの猪兵衛の先祖も武田の通信網---山のろし小屋の番人を兼ねていたことがわかったことも告げた。

参照】[〔中畑(なかばたけ)〕のお竜] (7) (8)

_100_2
雑司ヶ谷の鬼子母神(きしもじん)脇の料理茶屋〔橘屋〕忠兵衛が父・平蔵宣雄のふるい友人であるので、家族3人で食事をしたとき、そこの女中から、おという、甲斐の中道ぞいの村生まれで、辞めた女中(の)がおんなおとこであったと聞いたことから、もしや、おの相方ではなかろうかと、その行方を捜していること---(歌麿 お勝のイメージ)

参照】[〔蓑火(みのひ)〕のお頭] (7) (8)

(女中頭・お(えい 36歳)やお(ゆき 23歳)のことは、迷惑がおよんでは---と伏せた)

ざっと聞き終わった、勇五郎が、
「よくぞ、正直に話してくださいました。長谷川さまが、甲斐へのお旅の一件をおはぶきになっていたら、手前は長谷川さまを信じなくなるところでした」
脇の〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七(げんしち 52歳)が、安堵のうなずきをくりかえす。

「甲府勤番にまで、〔うさぎ〕がもぐりこんでいたとは---」
「あそこは、〔初鹿野はじかの)〕の音松(おとまつ 42歳)どんの地盤でしてな」
「睦んだこともない、おんなおとこのために、あやうく、命をおとすところでした。あは、ははは」
「おさんとは、いかな長谷川さまでも、睦めますまい。あは、ははは」

笑い終わると、銕三郎が言葉をつないだ。

去年の大晦日より、ことしの元旦と言ったほうがあたっているが、高輪の牛舎の松明牛さわぎと、神田鍋町の海苔問屋〔旭耀軒・岩附屋〕の盗難の件の関連は、火盗改メ方本役・本多采女紀品(のりただ 55歳 2000石)組も察してはいるが、その節におが使った海上の小舟から松明をつかって合図を継送したことまでは、まだ、調べがすすんでいないはずであること。
したがって、おには捜査の手がのびていない、と銕三郎が断言した。

参照】[〔蓑火(みのひ)〕のお頭 (5) (6) 

「山のろしの通信法など、おどのが会得している武田信玄公流の軍学について、いろいろ、質(ただ)してみたい---いや、教わりたい、それで、おどのを捜しているのです」
長谷川さまは、小舟による松明(たいまつ)の合図送りまで、見抜いておられましたか。〔狐火〕一味の軍者に、三顧の礼でお迎えしたいほどのものです。いや、冗談です。それでは手前が、長谷川さまをおさんにお引きわあせしてしんぜましょう」
「ほんとうですか?」
「はい。いま、おさんを、〔蓑火〕の喜之助どんから譲りうける話をすすめているところです。10日ほど、お待ちください」

銕三郎は、まるで安物の小説のように、ことがするすると運ぶのに、半分、あきれていた。
これまでの苦心が、まるで、悪夢を見ていたようでもあった。

神畑〕の田兵衛とのあいだが、ぎくしゃくしてきているらしい。

長谷川さま。おの件と、〔蓑火〕一味の小頭が香具師(やし)の元締・〔木賊(とくさ)〕の林造(りんぞう 59歳)となにやらたくらんでいることとは、別ごとでございますよ」

参照】[〔尻毛(しりげ)の長右衛門] (1) (2)
〔五井(ごい)〕の亀吉 (1) (2)


[〔うさぎ人(にん)・小浪] (1) (2) (4) (5) (6) (7)

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2008.10.24

〔うさぎ人(にん)〕・小浪(2)

大盗・〔狐火きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 48歳 初代)から、〔蓑火みのひ)〕の喜之助(きのすけ 46歳)一味と、おんなおとこ(女男)で軍師のお(りょう 29歳)のことを話しあおうと言われたばかりか、茶店〔小浪〕の女将・小浪(こなみ 29歳)が、〔狐火〕一味の{直(じき)うさぎ人〕の一人との暗示をうけた銕三郎(てつさぶろう 23歳)は、あまりのことに、しばらく、言葉がでなかった。

参照】茶店〔小浪〕の女将・小浪 (イ) (ロ) (ハ) (ニ) (ホ) (へ)

勇五郎は、ゆったりとかまえて、銕三郎の返事をまっている。
やっと、こころの準備ができた銕三郎が口にした言葉に、勇五郎は、声をあげて笑った。
「お頭。小浪は、〔木賊(とくさ)〕の若いのと、できておりますよ」
「それも、小浪の手練のうちです。あの女(こ)は、おのれの武器の効力の強さを、こころえすぎるほどこころえております」
「〔木賊〕の林造(りんぞう 59歳)のおんなになったのも、手管のうちですか?」

勇五郎がうなずいた。
長谷川さま。江戸の盛り場を縄張り(しま)にもっている香具師(やし)の元締のふところへあがりが大きく入ってくるのは、どことどことおふみになりますか?」
銕三郎が、浅草と両国広小路、上野広小路---をあげると、勇五郎が足した。
深川八幡宮の門前、音羽の護国寺の門前、芝の神明宮の門前、根津権現の門前、それに新宿と品川宿。

「金が舞うところには、いろいろな噂やおいしい話がころがっているものです。おいしい話といえば、美味しい料理屋もいいおんなもそろっています。お役人は、おいしい料理に目がありません。そこでもれこぼれたおいしい話を耳にしたおんなが話を金にかえます」
「〔雌(め)うさぎ人---」
「そうです。小浪は、そこに錘りをおろしました。自分は、ちょっと離れていて、魚が餌に食らいついてくるように仕掛けているんです」
「ほう---」
「ああいうところのおんなたちの弱みは、なんだとおおもいになりますか?」
「さあ---金かな」
「それもありますが、一番の餌は、男です。つぎに、美しくなること。金は、その次---」

小浪は、〔銀波楼〕の座敷女中にもぐりこんだ。
〔銀波楼〕は、林造の女房・お(ちょう 51歳)が、おなじ今戸にある高級料亭〔金波楼〕の向こうをはってやっている料理屋である。

_300
(今戸の料亭〔金波楼〕 『江戸買物独案内』)

_360
(今戸の料亭の夜景 小林清親)

真っ先に餌に食いついたのが、林造であった。
結果は、茶店〔小浪〕の開店である。
茶店には、なにかと、男たちが集まる。
引きあわせるのは、それほどの手間ではない。

いい男にばかりにめぐりあえるとはかぎらない。
その始末は、今助(いますけ 21歳)の手配で、〔木賊〕の若い者たちがつける。
おんなたちは、〔小浪〕から離れられなくなる。

銕三郎は、初めて、裏の世界をかいまみた気分になった。
(なか 34歳)が、みずから躰をよせてきたのも、あるいは、そういうことだったのかもしれない。

「それで---」
「おさんにわたりをおつけになろうとしているわけをお聞かせください」

[〔うさぎ人(にん)・小浪] (1) (3) (4) (5) (6) (7)

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2008.10.23

〔うさぎ人(にん)〕・小浪

銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)は、じっと待っていた。

ひとつは、お(ゆき 23歳)が、岸井左馬之助(さまのすけ 23歳)とともに、〔蓑火みのひ)〕一味の引き込みとおもえるお(かつ 27歳)を見つけたと連絡してくるのを。

_200
(清長 お雪と左馬之助のイメージ)

参照】[〔橘屋〕のお雪] (1) (2) (3) (4) (5) (6)

参照】〔お勝(かつ)〕というおんな] (1) (2) (3) (4)

_100またのひとつは、〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)が、御厩(おうまや)河岸の茶店〔小浪〕の女将に、銕三郎と会ってもいいと言(こと)づけてくるのを。(歌麿 お竜のイメージ)

参照】[〔中畑(なかばたけ)〕のお竜〕 (1)  (2) (3) (4) (5)  (6) (7)  (8)

さらには、そのことで、〔蓑火〕一味とつながりがあるらしい浅草・今戸一帯の香具師(やし)の元締・〔木賊(とくさ)〕の林造(りんぞう 59歳)が、なにがしかの連絡をしてくるのを。
林造は、木刀遣いを若い衆に指導している井関録之助(ろくのすけ 19歳)を連絡(つなぎ)をつけるにちがいなかろう。

ところが、意外なことに、高杉道場銕三郎を訪ねてきたのは、〔盗人酒屋〕のおまさ(12歳)であった。
よほど急いできたらしい。額に汗がうかんでいた。
「お父(と)っつぁんが、店をあける前に、お運びいただきたいって---」
「よし。井戸端で稽古の汗を拭いたら、すぐにゆく。おまさもいっしょに汗を拭くか?」
「見たいのですか? 残念でした、まだ、久栄(ひさえ)お師匠(っしょ)さんほどには、ふくらんでません」
「なんの話だ?」
「とぼけて---」
「こいつ、師をからかうか---」

四ッ目の〔盗人酒場〕へ着いてみると、なんと〔狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 48歳)と、その右腕・〔瀬戸川せとがわ)〕の源七(げんしち 52歳)であった。

参照】[〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七] (1) (2) (3) (4)

「あ、お頭。お久しゅう---」
長谷川さま。あいかわらず、ご達者のようで、なりよりです。お(しず 20歳)からもよろしゅうとのことでした」
「いや。その節は---」
「なに。あれが、女の子を産みましてな。わしにとっては初めてのおんなの子で、あれに似て、小町ぶりで、可愛ゆうて、可愛ゆうて---」
巨盗のお頭といわれる勇五郎が手ばなしであった。

参照】[お静という女] (1) (2) (3) (4)

若気のあやまちというか、銕三郎がお静とねんごろになったことが発覚(ば)れたのとき、勇五郎は、
「お武家方のお子が、人のもちものを盗っちゃあいけねえ。人のもちものでも、金ならまだゆるせる。だが、おんなはいけませんよ」
たしなめただけで、ゆるしてくれた。器量が大きいのだ。
以来、銕三郎勇五郎に頭があがらない。

「こんどのお下りは---?」
「いや。お盗(つと)めではないのですよ。江戸に置いている{うさぎ人(にん)〕の一人から、奇妙な鳴きがありましてね」
「〔うさぎ人}と言いますと---?」
「これは失礼。源七どん、長谷川さまに解き明かしてさしあげな」

盗賊の世界で、〔うさぎ人〕と呼ばれているのは、おなじ盗みでも、ぬすむものが耳に入るもの---いまの言葉でいうと情報である。うさぎは耳が長いから、それだけ聞き込みが多いはず、というところから名づけられた。
ふだんは、常の人とかわらず、ちゃんとした職業をもっているから、はた目には盗人には見えない。
〔眠り人(ねむりにん)〕とも〔聞きこみ人〕とも呼ばれることもある。

「〔うさぎ人〕は、大きく2つにわけられます。〔直(じか)うさぎ〕は、店なり職なりのための元金(もとがね)をすべてお頭から出してもらった〔うさぎ〕です。ご武家方でいう、直参です。お頭だけにむけ鳴きます。
もう一つは、〔独りうさぎ〕で、すべてを自分でまかなっておりますから、鳴きをとどけたお頭からその都度、鳴き賃をもらいます。〔独りうさぎ〕は、口合人(くちあいにん)とか〔嘗(なめ)め人〕を兼ねていることが多いかな」
「口合人とは?」
「盗人だけの口入れ屋とお考えください」

「〔狐火〕は、江戸には、何人の〔うさぎ人〕を?」
瀬戸川〕の源七はちらっと勇五郎の顔をうかがい、〔狐火〕がうなずいたのをたしかめて、
「〔直うさぎ〕が3人、ほかに7人の〔独りうさぎ〕と内々の約定をむすんでおります」
「そんなに---」
勇五郎が言葉を添えた。
「駿府に2人、名古屋に4人、大坂に3人---。お上(かみ)のお考え、世のなかの動き、金のあり場所などの、じつのままをこころえておくかどうかで、お盗(つと)めの成り加減が違ってきますのでね」

勇五郎は温顔に笑みをもらし、
「その〔直うさぎ〕から、〔蓑火〕の喜之助(きのすけ 46歳)どんのところの小頭がおかしい---といってきましてね」
「〔蓑火〕の喜之助といいますと---?」
長谷川さま。おとぼけになってはいけません。長谷川さまが、〔蓑火〕の喜之助どんとは面とおしずみで、あの組の〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう)どんに興をそそられていらっしゃることは、もう、筒抜けなんでございますよ」
「驚きました---」
「ですから、お互い、腹を割って話しあいませんか」 

ちゅうすけ注】〔狐火〕の勇五郎と〔蓑火〕の喜之助の両お頭がきわめて親しい間柄にあることは、池波さんも、『鬼平犯科帳』巻14[殿さま栄五郎]p120 新装版p123 で明かしている。

_100_3(ちょっと待てよ。いま、〔狐火〕はなんと言った? 〔中畑〕のおに興味をそそられている---と言ったよな)
銕三郎は、考えた。
中畑〕のおに関心があることを知っているのは、納戸町の長谷川家の老叔母・於紀乃(きの 69歳)と、その甥の甲府勤番支配・八木丹後守補道(やすみち 55歳 4000石)、配下の本多作四郎玄刻(はるとき 38歳)。

参照】[納戸町の老叔母於紀乃] (1) (2) (3)
八木丹後守補道は (A) (B) (C)
[本多作四郎玄刻] 2008年9月15日

それと---茶店〔小浪〕の女将だけのはず。
「あっ!」
(あの小浪(こなみ 29歳)が、〔狐火〕の〔直うさぎ人〕? まさか? しかし、小浪しか、いない!)(歌麿 小浪のイメージ)


[〔うさぎ人(にん)・小浪] (2) (3) (4) (5) (6) (7)

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2008.10.22

〔橘屋〕のお雪(6)

御厩(おうまや)の渡しは、大川の対岸の石原町の舟着きとを結んでいる。
いまからなら、四ッ目の〔盗人酒屋〕は、看板には、まだ、時間がある---南割下水ぞいに、四ッ目通りへ急いだ。

っつぁん。ここだここだ」
という声の主は、なんと、岸井左馬之助(さまのすけ 23歳)であった。
隣に、お(ゆき 23歳)が寄りそっている。

銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)が飯台の向かい側に腰をおちつけると、
「まだ、見つりませんのですよ」
が、自分の杯をほしてから、飯台ごしに渡し、なれた手つきで酌をしながら言った。
まわりの耳もあるから、さすがにおの名は伏せている。
このあたりの気づかいも、2年ごしの客座敷の商売で身についている。

「毎日、ご足労をかけて、申しわけなくおもっております」
銕三郎も、なぜだか、〔小浪〕でおの所在がしれてしまったことは隠した。

参照】〔お勝(かつ)〕というおんな] (1) (2) (3) (4)

_130「ほんと、お雪さんには、文字通りの足労だぞ、っつぁん。なにしろ、片道小1里(4kmたらず)を3往復だからな」
「すまぬ。で、見込みはどんなものかな?」
空とぼけた。
うそが下手な左馬之助は、おの顔としめしあわせた目くばせのあとで、
「あと、4、5日はかかるかもな」(清長 お雪のイメージ)

「そうか。頼むよ。ところで、左馬さん。(ろくのすけ 19歳)が、おどのが帰ってこないと心配していた。音沙汰だけはしてやったほうがいい」
「それも、そうだな。じつは、3往復目のおわりを、秋葉権現の隣りの料亭〔大七〕あたりにしているもので、あそこからだと、小梅村へ戻るより、押上の春慶寺のほうが近いので、な」
「それでは、明日にでも、おどのに、おどのの下着のたぐいを運ばせよう」
「なん刻(どき)ごろかな?」
「なん刻ならいい?」
「えーと、 午後の2回目の探索から帰ってくるのは---七ッ(午後4時)かな、おさん?」
「そうね---長谷川さま。おさんに洗いものをお願いしていいですか?」
「春慶寺では、洗いものまではむりでしょうからね」
(お(もと 32歳)こそ、いい面(つら)の皮だ)
銕三郎は、そのおもいも口にはしなかった。

は、日本橋室町2丁目の茶問屋〔万屋〕源右衛門(げんえもん 47歳)が女中に産ませた子・鶴吉(つるきち 7歳)を、小梅村の寮で乳母として育てている。
源右衛門の女房・お(さい 42歳)は家付きむすめで、鶴吉に家業を継がせることになるのを嫌い、香具師の元締・〔木賊(とくさ)〕の林造(りんぞう 59歳)に依頼して襲わせた。
いろいろあって、井関録之助が用心棒として住みついたはいいが、おとできてしまった。
銕三郎も、そのほうが録之助のためにいいと、みとめてしまっている。
中年増の後家が、男なしですむはずはないし、片や録之助は、貧乏ご家人が妾に産ませた子なので、父親の家には身のおき場所もない。
家禄を継げるはずもない代わりに、身持ちがどうのこうのと小普請与(くみ)頭に言われはしないが、精があまっている若い男のこと、道をふみはずさないともかぎらない。
まあ、両人には適切な解決策であった。

_130_3おまさ(12歳)が、新しい酒を運んできた。
兄(にい)さん。お父(と)っつぁんが、薩摩芋の梅干和え、召しあがりますかって---?」
「ちょうど、空きっ腹{だ。急いで頼む。ほかに2、3品---」
おまさ坊、ことらにも2人前---」
左馬之助が、おの意向をたしかめてから、便乗した。
おまさ坊じゃなく、おまさって呼びなおしてくださったら、ご注文をとおします」
おまささん、お願いします」
とっさに、おが言いなおした。
2人の呼吸は、早くも、ぴったりあっている。(清長 おまさのイメージ)

薩摩芋の梅干和えに、はいっている百合の根が香ばしかった。

が板場へ入り、おまさの父親で亭主の忠助(ちゅうすけ 45がらみ)につくり方を訊いている。
〔橘屋〕へ帰ったときに、板前に教えるつもりらしい。
(なるほど、こう気がまわるのでは、主人の忠兵衛どのも目をかけるわけだ。昼間逢ったのでは、真夜中にゆらゆら歩きをするとは、とてもおもえない)
これまで銕三郎は、おのお茶目な面しかみていなかった。
しかし、〔橘屋〕の女中頭のお(えい 36歳)から、夜行のことを聞かされ、おのまったく別の面をしったのだが、こう気がまわるのでは、嬰児を流したことも精神にこたえたろろ---同情するかたわら、左馬之助の相手としての評価もしていた。
左馬は、まだ、免許をとっていない。女房などはまだ早かろう)

左馬さん。おどのとは、どうなんだ?」
「どう? ---とは、どういう意味だ?」
「夜のことだが---」
「言ってもいいのか?」
「まあ---」
「だいたい、夜明け近くまで、眠らない」
「う---」
左馬は勘違いしている。ゆらゆら歩きのことを確かめたのだが、出事(でごと 交合)のことを答えている。ま、抱きあっていれば、ゆらゆら歩きもでまい)

板場から戻ってきたおが、
「芋を線切りにしてから湯煮するのがコツなんですって。その芋のいくらかとを裏漉しにしたものと、梅干も裏漉しにして摺り鉢でよく摺るんです」

[〔橘屋〕のお雪] (1) (2) (3) (4) (5)

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2008.10.21

〔橘屋〕のお雪(5)

「やっぱり---とは?」
銕三郎(てつさぶろう 23歳)が低い声で、お(えい 36歳)に反問した。
ここは、雑司ヶ谷の鬼子母神、一の鳥居脇の参詣人相手の小さな茶店である。
夕刻が近いので、参詣客はほとんど絶えているが、おがこの先の高級料理茶屋〔橘屋〕忠兵衛方の座敷女中頭なので、店のものも聞き耳をたてているかもしれない---銕三郎は、そう、こころくばりしたのである。

「あら、そうではなかったのですか?」
のほうが不審顔だった。
「おどのは、なにがやっぱり---と思ったのですか?」
「夜中のゆらゆら歩き---」
現代でいう、夢遊病のことか。
「いや。その沙汰は、寄宿を頼んだ家からは、いまのところ、うけていません」
「それでは、おのなにを---?」
「生まれた土地とか、家とか、〔橘屋〕で働くことになった経緯(ゆくたて)とか、仮親(身元引受人)といったことです」

 〔橘屋〕が酒を仕入れている霊巌島銀(しろがね)町3丁目の下り酒問屋〔尼屋〕の主(あるじ)・久兵衛の口ききで、おがやってきたのは、3年前、20歳の時であった。
〔尼屋〕の納め先の一つである麹町の蒲焼の老舗〔丹波屋〕から相談をうけたのだという。

_300
(霊巌島銀町の下り酒問屋〔尼屋〕 『買物独案内〕)

_300_2
(麹町4丁目の蒲焼の老舗〔丹波屋〕 同上)

_150
は、〔丹波屋〕の女将の姪だが、18歳の時に、京橋あたりの店で料理人をしている者の女房になった。
当初は、美貌と明るい性格に、夫も大満悦で、家での膳も、ほとんど亭主がつくってやるほどののぼせようであった。
それが、初めての子を流してから、おかしくなった---というのは、深夜に起き上がって、家の中をふらふらとさまよいはじめたのである。
亭主の話しかけには答えず、押さえつけても抵抗しない---しばらくすると、床に入って朝まで眠り、夜中のことはまるで記憶にない。
そんなことが半年もつづき、離縁となった。(清長[風呂あがり] お雪のイメージ)

〔丹波屋〕の女将から〔尼屋〕の久兵衛に相談があり、両人が仮親となって保証したので、〔橘屋〕忠兵衛が引き受けた。
それなりに美形だし、昼間の性格は明るく如才がなく、男とのことも経験しているので、座敷女中としてはうってつけであった。
世話をしたいという客も何人もあらわれたが、夜のことをうち明けると、みんな手をひいた。男たちは、夜の相手としてのぞんでいただけなのである

「なるほど。そういう過去をもっての、明るさだったのですな」
(それにしては、夜を共にすごしているはずの左馬がなにも言ってこないのは奇妙だ)

仕事がはじまるから、と帰っていったおを見送り、銕三郎は、おにも逢わないで茶店をあとにした。
_1503春慶寺の離れへ行き、左馬をたしかめたいが、おの時のように、おとのあられもない場面を目にするのは気にそまない。(国芳『葉奈伊嘉多』口絵 部分 お紺のイメージ)

永代橋東詰の居酒屋〔須賀〕へ寄り、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち)の顔をみようかとおもったが、日本橋川にそって歩いているうちに、虫がしらせたのか、三好町・御厩河岸の茶店〔小浪〕へ足がむいてしまった。

銕三郎を認めると、女将の小浪(こなみ 29歳)が嫣然と寄ってきた。
たった一度しか顔をあわせていないのに、さすがに客商売だ。
この店をだしてもらうまでは、どこでなにをしていたのか。
「ここへくれば、〔五井(ごい)の亀吉(かめきち)どのや今助(いますけ)どのと逢えるかとおもったので---」
「どちらからのお帰りですか?」
「わかりますか?」
「だって、裾にほこりが---」
「なるほど、鋭い」
銕三郎は、いったん表へでて、袴の裾のほこりをはらい、入りなおした。

_120「あら。そういう意味で申したのではございませんのに---」
「ところで、亀吉どのや〔尻毛(しっけ)の長助(ちょうすけ)どのは?」
「あれっきり、ですの。なにかご用でも---?」
「女将どのへ頼んでおけば、伝わるのですか?」
今助さんが、仲立ちしてくれましょう」
今助(21歳)は、浅草・今戸一帯の香具師(やし)の元締・〔木賊(とくさ)〕の林造(りんぞう 59歳)の若い者頭格である。
林造は表向きは今戸で、女房・お(ちょう 51歳)に〔銀波楼〕という料亭をやらせている。
小浪に店をださせているのも、女房は、自分の年齢を考えてあきらめ、承知していると聞いた。

今助どのは、毎日、あらわれるのですか?」
小浪が返事をしかけた時に、入ってきた中年増が、割りこんだ。
_150_3小浪さん」
「あら、お(りょう)さん。お(かつ)さんは、まだなんですよ」
「あたしのほうが、早く終わったもので---」
銕三郎は、まともに見ないようにしながら、おをうかがったとたん、おと視線があってしまった。
は、澄んだ黒目で軽く目礼をしただけで、小浪に、
「あれ、お借りできます?」
うなずいた小浪が、帯の間から鍵をとりだして渡す。
「向島のおのところへ、遣いをやってくださいな。あ、あちらではお(つた)でおつとめしています」

参照】〔お勝(かつ)〕というおんな] (1) (2) (3) (4)

「お話中の無作法、失礼申しました」
は、銕三郎に軽く会釈をして出て行った。
「きれいな人ですね」
「あれで、男嫌いなんですよ。もったいない」
(まちがいない。〔中畑(なかばたけ)のおだ)
しかし、きれいな顔を拝んだからといって、どうなるものでもない。
こだわってきたのは、おんなおとこ(女男)の筋道のついた考え方を、話しあっているうちに聞きとることであった。

おもいきって、小浪に暗示をかけてみた。
「女将どの。さきほどのおどのへ伝わるように、あとでやってくるらしいおどのとやらへ、伝言(ことづ)けてくださいませぬか」
「内容しだいでございますよ」
「なに、かんたんなことです。高輪沖の松明について、拙が話しあいたがっていると。逢ってくださる決心がついたら、日時と場所を、女将に伝えておいてくだされ---と」
「高輪沖の松明---でございますね」
「さよう。そう伝えていただけば、おどのにはわかるはず---」

日暮れが遅くなって、六ッ半(午後7時)が近いというのに、川面はまだ明るさがのこっている。
銕三郎は、〔小浪〕の前から渡しに乗りながら、苦笑していた。
(おstrong>雪と左馬の濡れ場にさけて〔小浪〕へ逃げたら、おという大魚にでくわし<た。
これも、お功徳かな)


[〔橘屋〕のお雪] (1) (2) (3) (4) (6)

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2008.10.20

〔橘屋〕のお雪(4)

長谷川先輩。おさんが、この2夜、帰ってこないのですよ」
銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)が、高杉道場の裏庭の井戸端で、上半身を裸躰にし、稽古でかいた汗を拭きとっていると、井関録之助(ろくのすけ 19歳)が声をかけた。

参照】〔橘屋〕のお雪 (1) (2) (3)

「2夜も帰ってこないとは、どういうことだ?」
「どういうことといわれても---おとといの朝、探索にでていったきり、音沙汰がないのです。うちへ泊まったのは最初の一晩だけ---」
「なぜ、もっと早く言わなかった」
「おさんには、岸井先輩がつき添っているわけでしょう? なにかあったら、岸井先輩から、長谷川先輩に連絡がいっているとおもって---」
左馬さんからは、なんの沙汰もをない」

左馬之助(さまのすけ 23歳)は、お(ゆき 23歳)につきっきりでお(かつ 27歳)の働きどころを捜しをしており、その間、道場の稽古も休むように、高杉銀平師の許しを得てある。

参照】〔お勝(かつ)〕というおんな] (1) (2) (3) (4)

を見つければ、その情人(いろ)の男役・〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)の手がかりがつかめるとふみ、おの顔をしっているおを、勤め先の〔橘屋〕忠兵衛から借りだしていたのである。
左馬と組ませたのは、猫にかつおぶしだったか---いや、猫はおのほうだ。これまでも、なんとなくおれのく気)を引いていたが、純情な左馬なら、手もなくおとされよう)

_140銕三郎は、自分のことは棚にあげている。

銕三郎のこれまでの女躰体験は、三島の若後家・お芙沙(ふさ 25歳=当時)のことからして、14歳の初穂を食べてみたいという彼女ののぞみだったのである。
風呂場で、芙沙も身にまとっていたものすっかり脱いで、背中を流してくれ、その背中に乳房がふれ、銕三郎のまだ芝生も生えそろっておらず、亀頭もみせていないものが、弓なりに痛いほど直立した。
芙沙は、仮(かりそめ)の母に甘えているとおもえと、少年の銕三郎に気づかいをみせてくれた。(歌麿[美人入浴] 芙沙のイメージ)

参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ) 

_16018歳のときの、人妻・阿記(あき 21歳)との出会いも、彼女のほうからいっしょに湯へはいりたいとのぞみ、共湯したのであった。
阿記は、背から銕三郎の太ももへ乗ってきた。
その尻の割れ目が、銕三郎のものを強く刺激した。(栄泉[水中流泳] 阿記のイメージ)

参照】2008年1月1日[与詩(よし)を迎えに (12) (13)

_150_2雷雨にずぶぬれの衣類を浴室で脱ぎすてたあと、雷光をさけて蚊帳の中で時をすごしていた2人に、近くに落ちたかおもうほどの音に、怖がったお(しず 18歳=当時)が抱きついてきた。
素肌にちかい形での抱擁だったから、19歳の銕三郎に手びかえろと言うほうがむりというものであった。
は、盗賊の首領〔狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 45歳=当時)の囲い女だったから、無事に終わったのが奇跡といっていい。(栄泉[ふじのゆき] お静のイメージ)

参照】2008年6月2日~[お静という女] (1) (2)

__150そういえば、お(なか 33歳=当時)---まだ改め名まえのお(とめ)だったが---とは、船酔いだというので、音羽の小料理茶屋の2階の蚊帳の中に伏せさせて気分がおさまるのを待っているうちに、初めて躰をあわせたのであった。
その時の銕三郎は22歳で、それなりに経験も経ていたが、なにしろおはむすめも産んでいるし、男との数も豊富らしかったから、青年にはわからない微妙なツボの手練まで教わることになlり、いまにいたっている。

参照】2008年8月7日~[〔梅川〕の女中・お松] (7) (8)

B_150
(おの手管に、たわいもなく、おちたはいいが、左馬のほうはしばらくおんなっ気から遠ざかっていたから、力みすぎて、荒々しく振舞っていたりしたら恥っさらしだが---いまごろは、春慶寺の離れでやにさがっているかな)。
まさしく、自分のことは棚にあげて---だ。
自分は、おの師範の成果で、いっぱしの皆伝持ちみたいにうぬぼれている。

左馬のぶきっちょを想像して、独り笑いがこぼれたらしい。
この道の、若い男のひとりよがりは手がつけられない。

「先輩。は、どうすればいいでしょう?」
録之助が訊いてきた。
_150_5銕三郎は、照れかくしに、
。おどのが帰ってこないのをいいことにして、お(もと 32歳)とたっぷりたのしんでおるな?」
「そんな無茶を言わないでください」

どれもこれも、春先の猫もどきにそのことばかりを考えている。
ま、若さの象徴というものかもしれない。

「着替えの下着などは、どうなっているのだ?」
「置きっぱなしです」
「それでは、まもなく戻ってくるだろう。なにも聞かないでおいてやれ」
銕三郎としては、男女の仲のことはそっとしておくにかぎる、と、左馬と〔物井(ものい)〕のお(こん 29歳)のことで悟っていた。
なまじ、気をつかいすぎたために、友情が冷えかかったのである。
躰の結びつきなら、いずれは離れる。

それよりも、気になったのは、おというおんなの素性について、なにもこころえていないことであった。
〔橘屋〕忠兵衛の目ききにかなったということで安心しきっていた。
目ききをされてから、2、3年はすぎている。あの齢ごろの2、3年は、変わりがはやく、大きく変わることもある。
とりわけ、客商売のおである。どんな客の誘いにのっているか、しれたものではない。

衣服をあらためると、雑司ヶ谷の〔橘屋〕へむかったが、女中頭のお(えい 36歳)の仕事時間前に行きつくために、両国橋の東詰から駕籠にのった。
浅草・今戸あたりの香具師(やし)の元締(もとじめ)・〔木賊(とくさ)〕の林造(りんぞう 59歳)のところの若い衆に木刀術を指南する手当てを、井関録之助から半分めしあげているので、困ることはない。

鬼子母神(一の鳥居)脇の茶店の小女に、呼び出し文をとどけさせた。
座敷着のおが、息をつかせながらなやってきた。
の身上がしりたいのだと告げると、眉をひそめたおが口にしたのは、
「やっぱり---」
ため息であった。

[〔橘屋〕のお雪]  (5) (6)


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2008.10.19

〔橘屋〕のお雪(3)

向島を隅田川ぞいに往還をはじめて3日目。
四ッ(午前10時)すぎ。
三囲(みめぐり)稲荷社(現・墨田区向島2丁目5)の社前。

612
(三囲稲荷社 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

向島・七福神の恵比寿と大黒天をまつっている。

江戸時代は、竹屋の渡しが、今戸橋ぎわから往復していた。
社地を白ギツネが3回まわったという伝説が社号となった。
余談をつらねると、社号を「ミツイ」と読み、三井財閥系の日本橋・三越本店の屋上に分祀されている。

「おさん。腰はけだるくないかな?」
「だって、左馬さんが飽きないんだもの」

_200一夜をともにしただけで、お(ゆき 23歳)と左馬之助(さまのすけ 23歳)は、親しさがすっかり深まった。
言葉づかいにも軽みがでている。
「腰がけだるいようなら、昼餉(ひるげ)をとったあと、部屋を借りてほぐしてあげようか?」
「それにことよせて、また---はげみたいんでしょ?」
「おさんの、せっかくの髪が、くずれなければな」
今朝、おは髪結いを呼び、ゆうべ、乱れるだけ乱れた髪を結いあげた。

は返事をひかえた。
「いい」と言ってしまうと、いかにも好きものとおもわれそうだったからである。
出しおしみは、おんなの手管の一つでもある。
しかし、躰は返事をしたがっていた。
ゆうべは、堪能するほど数をこなしたのに。
いちど堰が切れると、やはり、躰の芯がとめどなく欲しがる。
話題を変えた。

「三囲さんへ、お参りしていきませんか? 日に何度も前をお通りして、まだ、お賽銭をあげていないんですもの」
「若い美女が詣でると、白ギツネが憑(つ)くといわれているが、いいのかな」
「憑いたら、左馬さんに木の葉を小判にしてさしあげます」
「小判よりも、白い裸身のほうがありがたい」
「うふ、ふふふふ。すぐにそこへ結びいてしまうのね」
「あは、ははは」
他愛もない会話で遊びながら、鳥居をくぐったおが、左馬之助の袖を引いて、絵馬堂の蔭に身をかくした。

「どうした?」
_100_4「拝殿でしゃがんで拝んでい.る人、おさんみたい---」
「えっ?」

参照】〔お勝(かつ)〕というおんな] (1) (2) (3) (4)

そっとのぞき、声をひそめ、
「あのおんなか?」
「そうです。この近くにあった料亭は?」
「境内の北に〔平岩〕があるが---東へ帰ったら、〔武蔵屋〕と〔大七〕」

Photo
(三囲稲荷社の北隣りの料亭〔平岩〕 『買物独案内』)

Photo_2
(秋葉権現脇の庵崎の料亭〔武蔵屋〕 同上 文政7年(1824)刊)

_360
(向島の西区域 庵崎の〔大七〕〔武蔵屋〕、三囲稲荷北の〔平岩〕、諏訪明神脇〔大村〕=ただし、ここだけは小説中のり料亭)

「東は秋葉権現さん(現・秋葉神社 墨田区向島4丁目9)でしたね」
「千代世(ちよせ)稲荷も---あのあたりの料亭は、鯉が有名だよ。そうだ、きょうの昼餉は、あそこにしよう」
「のんきなこと、おっしゃってないで---立って、横顔が見えたら教えて。おさんが秋葉さんのほうへ帰ったら、危なくて、鯉どころではないでしょ」
「そう、おさんは料理茶屋〔橘屋〕で、料理は見飽きているんだったな」

やはり、お(かつ 27歳)であった。
陽光の下でみると、年増は年増である。
しかし、左馬之助は感想を口にしなかった。
ゆうべ、おが、ここ1年ほどのあいだに腹部ににうっすらあらわれたといって、新月のように細い浅い線を気にしていたからである。

尾行(つ)けると、おは〔平岩〕の裏口へはいった。
「鯉の洗い、これで、決まりましたね」

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』文庫巻20[高萩の捨五郎]で、鬼平彦十をつれて秋葉大権現の裏門の〔万常〕で鯉の洗いを食べていて、〔高萩たかはぎ〕の捨五郎を見つける。p176 新装版p182

615_360
(秋葉大権現の隣地の庵崎 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ
キャション 俗間、請地秋葉権現の辺(あたり)をしか唱ふれども定かならず。須崎より請地秋葉の近傍(ちかく)までの間、酒肉店(りょうりや)多くおのおの籞(いけす)をかまへ鯉魚(こい)を畜(か)ふ。酒客おほくここに宴飲す。中にも葛西太郎といへるは、葛西三郎清重の遠裔といひ伝ふれども是非をしらず。むさしやといふは、昔麦飯ばかりを売りたりしかば、麦計(むぎばかり)といふここにて麦斗(ばくと)と唱へたりしも、いまはむさしやとのみよびて、麦斗と号せしをしる人まれになりぬ)

「これじゃあ、もう、木母(もくぼ)寺くんだりまで行くことはなくなりました。よかった」
「ちょっと早いけど、〔大七〕か、あのあたりで生簀(いけす)をしつらえている料理茶屋で、鯉の洗いで午餐(ひる)をすませて、春慶寺へ帰ろう」
「ごほうびですね」
「秋葉さんから春慶寺へは、10丁(ほぼ1km)もないし、腰がけだるければ、舟という手もある」
「権現さんから舟?」
「曳き舟の水路だからね」
「おもしろそう。雑司ヶ谷あたりでは考えられません」
「屋形舟はないから、下腹のひだるさ(空腹)をいやすのは、部屋へ帰ってからに---」
左馬さんのほうこそ、辛抱できます?」

捜しものが片づいたせいか、躰がしりあったためか、2人とも軽口が一層はずみじめた。
長谷川さまには、おさんを見つけたことは、しばらく、黙っておきましょうね」
「そうしないと、おさんが雑司ヶ谷へ帰ってしまうからな。それにしても、っつぁんの勘ばたらきはすばらしい」
「昨夜のことも、もう、感ずかれているかも---」
「感づかれると、困るのかな?」
「いいえ。ちっとも。長谷川さまには、練達のお姉(あね)さんがついていらっしゃいますから---」
「おお、そっちの話も聞きたいな」

親しさが一気にすすむのはいいが、別れの時がきたら、どうなることやら。
いや、左馬之助もおの宿直(とのい)の夜、雑司ヶ谷へ足を運ぶことになるやもしれない。
押上(おしあげ)から鬼子母神(きしもじん)だと、片道2里(8km)近くはありそう。


[〔橘屋〕のお雪] (1) (2) (4) (5) (6)

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2008.10.18

〔橘屋〕のお雪(2)

初日は、成果がなかった。
しかし、べつの成果があった。
岸井左馬之助(さまのすけ 23歳)とお(ゆき 23歳)とのあいだは、若い者同士、遠慮の垣根がとれるのは、1日で足りたからである。

2日目の午後、おが着替え、頭には菅笠をのせて〔さなだや〕からでてきたとき、左馬之助がほめた。
「別人のようになったが、赤い笠紐が、よく似合う」
「笠なんて、この2、3年、かぶったことがありませんのに---」
「いや。おどののまぶしさがかくれて、親しみがました」

_360_4
(清長 菅笠のお雪のイメージ)

岸井さまには、相手変われど主(ぬし)変わらず---つまらなくお感じでしょう」
「相手変われど、主変わらずは、もてもてのおどののことであろう?」
「いいえ。わたしは、相手なしの、一人寝---でございます」
「おほどの美形が?」
「美形などと、お世辞を言ってくださったのは、岸井さまが初めて---お世辞でも、うれしい」
「相手なし---とは、まことかな?」
「まこと、に見えませんか?」

こうして、その夕べ、おは、小梅の寮に帰らなかった。

小梅の寮では、お(もと 33歳)と井関録之助(ろくのすけ 19歳)が四ッ(午後10時)まで、帯もとかずに待っていたが、入江町の鐘楼が四ッを打ったので、戸締りをし、どちらともなく寝着に着替え、やがて、その寝着もはだけてしまっていた。
録之助は、禁令を破ることに刺激が高まったのか、おの腰をもちあげてみたりして、興奮のかぎりであった。

[若き日の井関録之助] (1) (2---事故で工事中) (3) (4) (5)

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(北斎『縁結出雲杉』より イメージ)

長谷川さまのお言いつけをやぶってしまいましたね」
「おさんが止宿しているうちは---ということだったのだ。今夜は泊まっていない」
「そうですね---ああ、躰のもやもやが、すっきりと晴れました。ぐっすり眠れそう」

ところ変わって---。
押上の春慶寺の離れ---左馬之助が止宿している部屋である。
土ぽこりがひどかったので、おは庫裏(くり)の湯室をつかわせてもらい、髪を洗った。

櫛をいれている間も、左馬之助は待ちきれないで、おに、あれこれと悪戯をしかけている。

B_360
(歌麿『小町引』 イメージ)

このあとは、報じるまでもない。
が、
「おさんを見つけても、長谷川さまへお報らせるするのは、5日後にしましょうね。5日間は、ここで、こうして、ねっちりと---」

参照】〔お勝(かつ)〕というおんな] (1) (2) (3) (4)

この夜、5の日で、銕三郎(てつさぶろう 23歳)は、雑司ヶ谷の〔橘屋〕のいつもの離れにいた。
(なか 34歳)が、おのことで妬いている。
「おさんといっしょで、きてはくださらないかとおもちってました」
「ばかをいうものではない」
「でも、おさんが、あんなにうれしがっていたんですもの」
「それは、おどのの一人合点というもの」
「でも、若いこのほうがよろしいんでしょ?」
「出事(でごと 交合)の師範をしてくれるといったのは、だれだ?」
「意地悪ッ!」

_360_3
(国貞『恋のやつふじ』部分 イメージ)

は、背中からむしゃぶりついたが、裾は、もう、ちゃんと割っている。
指をのばして触れながら、銕三郎が、
「お(きぬ 13歳)だが、納戸町の老叔母の世話をしてもらおうかとおもっている」
「いいようになさってくださいな。あの子はあの子で、生きていけます」
「嫁入りまでは、そうもいかない。手習いも、芸事も、習わないといけまい。老叔母なら、面倒を見てくれよう」
「おより、わたしの面倒の見方を、さ、覚えてくださいな」

若い男たちのこの道の学習欲は、古今、とめどがない。
もちろん、おんなも飽きるということがないから、どっこいどっこいか。
姿態も千幻万化。
 

参照】 [〔橘屋〕のお雪] (1) (3) (4) (5) (6)


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2008.10.17

〔橘屋〕のお雪

「 〔橘屋〕どの。まことに身勝手なお願いをお聞きとどけくださり、かたじけのうございます。拝借したおどのは、7日のうちに、お戻しいたします」
銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)は、料理茶屋〔橘屋〕の主人・忠兵衛(50がらみ)に、こころをこめて頭をさげた。
忠兵衛は、手をふって、
「なんの、なんの。こころおきなくお役立てくだされ。7日といわず、10日でも半月でも---」

参照】〔橘屋〕忠兵衛は、 (A) (B) (C) (D)

(かつ 27歳)の面体を知っているということでは、女中頭・お(えい 36歳)のほうがしっかりしているのだが、まさか、座敷をとりしきっている彼女を借りるわけにはいかない。

参照】〔お勝(かつ)〕というおんな] (1) (2) (3) (4)

岸井左馬之助(さまのすけ 23歳)が、浅草・御厩(おうまや)河岸の舟着き場の茶店〔小浪〕で見かけた、女将と親しげな女が、もしかすると、巨盗・〔蓑火みのひ)〕の喜之助(きのすけ 46歳)の女軍者(ぐんしゃ)〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)の情人・お(かつ 27歳)かもしれないと、銕三郎は推量した。
いや、ひらめきともいえる思いつきであった。
銕三郎は、自分のひらめきを、あれこれ検討し、おは、向島の料亭で座敷仲居をしているとふんだのである。

参照】2008年8月29日~[〔蓑火(みのひ)〕のお頭]  (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)

参照】[〔中畑(なかばたけ)〕のお竜〕 (1)  (2) (3) (4) (5)  (6) (7) (8)

それで、おの面体をよく覚えている〔橘屋〕の座敷女中のうちから、お(ゆき 23歳)を借り、向島あたりを歩き、おをみつけてもらうことにしたのである。

はおもしろがり、忠兵衛の許しがでると、銕三郎と連れだち、いさんで本所へ向かった。
もっとも、銕三郎としては、おをひとりで歩かせるつもりはない。
久栄(ひさえ 16歳)の例もあった。
の顔を見たことのある左馬之助といっしょに探索させるようにした。

「な、左馬さん。おが働いている料亭が、両国橋の東詰の〔青柳〕とか、尾上町の〔三河屋〕や〔中村屋〕だったら、なにも、御厩の渡し舟に乗るわけがない。橋の東西どちらかで町駕籠をひろって〔小浪〕へくるはず。それが、わざわざ渡しできたということは、向島あたりから駕籠で石原町の渡し場まできて、舟で三好町へわたってきたと見る」
っつぁん。まさしく」

そういうわけで、左馬之助は、おと連れだって、お捜しをすることになった。
喜んだのは、左馬之助である。
足利で、盗賊の首領・〔法楽寺ほうらくじ)〕の直右衛門(なおえもん 40男)によって女躰のすみずみまで開拓されつくした〔物井(ものい)のお(こん 29歳)に、性の愉悦をあじあわされた左馬之助である。

参照】[〔物井(ものい)〕のお紺] (1) (2)

このところ、おんなっ気がきれ、飢えているところで、銕三郎から、
「おどのは、父の旧友のところの大切なおなご衆ゆえ、くれぐれも間違いのないように---」
と、きつく釘を打たれているが、それに従う気は、さらさらないみたいである。
若い男の性というものは、自制がききにくく、どうしようもない---と、昔からきまっている。

一方で、銕三郎は、火盗改メ・お頭の本多采女紀品(のりただ 55歳 2000石)を訪ね、本所・向島を廻っている同心・生方(うぶかた)三郎四郎(41歳)に、一帯の高級料理屋でこの3年前からここ半年までのあいだに新しく雇いいれた座敷女中の書きだしを、ひそかにとってもらった。
こういうところで働くおんなの出入りははげしい。
もちろん、〔橘屋〕のおのように、じっくりつとめている者も少なくはない。

じつは、銕三郎が、この1年前から半年間---と言ったら、紀品が、
「それでは、探索のねらいが見え見えで、銕三郎どのが目指す相手が気づいてしまう。ねらいをぼやかすために、3年前からということにしなさい。敵をあざむくには、まず見方から---ということもある」
助言してくれた。
たしかに、そのとおりだと、銕三郎は学習した。

本多采女紀品は、銕三郎が打ちあけるまで、探索のわけを訊くような野暮はしない。
話すべきところがくれば、きちんと話してくれ、助けが必要ならそれも頼んでくると信じている。
したがって、本多紀品の部下も、お頭の気質をのみこんでいて、銕三郎に余計な口だしはしない。
この紀品流の心遣いは、のちに銕三郎が火盗改メの長官になったときに、生かされ、配下や密偵からの信頼感が厚かったが、それは20年後の話。

木母(もくぼ)寺境内の〔植半〕と〔武蔵屋〕、諏訪明神脇の〔大村〕、請地・秋葉大権現社わきの〔大七〕と〔武蔵屋〕、それに三囲(みめぐり)稲荷社の北の〔平岩〕から、30数人を超える書きあげがあった。
という名の仲居はいなかった。用心して、名を変えているのであろう。

_360
(向島かいわいの料亭 上左端から時計まわりに大七、武蔵屋、平岩、大村、植半、武蔵屋)

が、小浪(こなみ)の住まいの仕舞(しもう)た屋を借りた日が休息日にあたっていた座敷女中を書きださせることも、探索をお勝にさとられると消えられるとふんで、やめた。

探索の巡廻は、この6軒の周辺を中心におこなうことになった。
片道30丁(ほぼ3km)。

左馬之助とおは、五ッ(正午)までに1回、そのあと暮れ六ッまでに2度、源森川北の水戸侯下屋敷の正門前から綾瀬川までの隅田川ぞいの道を往還した。
総距離5里(20km)---おんなのおには、けっこう、つらい。

正午までを1回にとどめたのは、夜の仕事が長い料亭の座敷女中の朝はおそいものと、おが言ったからであった。

_130_3も心得ていて、午後の往来には、その都度、着物を変えた。
赤いものの次には、紺の縞もの---。
着替えと休息には、源森川河口に架かる枕橋ぎわの蕎麦屋〔さなだや〕の座敷をかりることができた。
『鬼平犯科帳』巻2[蛇の眼]でおなじみの店である。
_130_2かぶりものも、頭巾であったり、ほこりよけの角(つの)かくしであったり、笠であったり---なるべく怪しまれないように意をもちいた。(清長[埃よけ角かくし] お雪のイメージ)

の宿は、枕橋から遠くない、茶問屋〔万屋〕の小梅村の寮を頼んだ。
乳母のお(もと 32歳)が、持ち主の源右衛門(げんえもん 47歳)の了解をえた上で、引き受けた。(清長[手ぬぐいかぶり] お雪のイメージ )

源右衛門は、おからの使いの者に、
長谷川さまの頼みごとは、どんなことでもお引きしなければならない」
と言ったという。

銕三郎は、寮に入りびたっている井関録之助(ろくのすけ 19歳)に、おが止宿しているあいだは、つらいだろうが、おとの睦みあいはひかえるように厳命した。
ところが---。


[〔橘屋〕のお雪]  (2) (3) (4) (5) (6)

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2008.10.16

ちゅうすけのひとり言(26)

[納戸町の老叔母・於紀乃 2](2008年10月6日)で、時の小普請組支配全員を譴責処分にまきこんだ、第4組の支配・長井丹波守尚方(ひさかた 38歳=当時 3030石)事件について、簡単にふれた。

事件そのものは、元文5年(1740)10月29日の『徳川実紀』を引用しておいたが、再録すると、永井丹波守の組下・嶋田八十之助常政(つねまさ 18歳)の知行地(武蔵国入間郡下浅羽村か?)の農民の男に、盗みか博打かの犯行があり、嶋田家では男を逮捕、手鎖にして吟味をすすめていた。
ところが、働き手の男の留置が長引いたため、親戚一統が、組支配の永井丹波守に、早期判決を陳情した。永井家は、その訴求をもっともと判断し、嶋田家に問いあわすことなく、裁決をしてしまった。

第一次裁判権は知行主にあることになっているのに、組支配が裁決したのは越権と幕府は断じ、同輩たちも意見を出さなかったのは怠慢とみなしたのである。

いや、永井丹波守が、間違って仕事をする気になったのが、裏目にでたともいえる。

まあ、それほど、小普請組支配の大身旗本というのは、不勉強というか、のんびりしていたために、一罰百戒の意味で、全員を拝謁ご遠慮の処分にしたのであろうと類推しているのだが。
ま、当事者の永井丹波守以外の7名にしてみれば、多分にとばっちりの感であったろう。

とばっちりをうけた支配を組順に並べると、、

第1組 大岡忠四郎忠恒(ただつね 57歳 2267石)
第2組 阿部伊織正庸(まさはる 39歳 2000石)
第3組 能勢市十郎頼庸(よりもち 50歳 2000石)
第5組 竹中周防守定矩(さだのり 52歳 2235石)
第6組 土屋平三郎正慶(まさのり 58歳 1719石)
第7組 長谷川内蔵助正誠(まさざね 45歳 4050石)
第8組 北条新蔵氏庸(うじつね 48歳 3400石)
     (年齢は元文5年=当時)

となる。

これを、組支配への発令年月日順(在職の期間順)に並べかえると、

享保16年(1731) 8月15日 大岡忠四郎忠恒
享保19年(1734)10月8日  能勢市十郎頼庸
享保20年(1735)6月11日  竹中周防守定矩
元文4年(1736)2月3日   土屋平三郎正慶
元文4年(1736)10月15日  阿部伊織正庸
元文5年(1740)2月28日   長谷川内蔵助正誠
元文5年(1740)6月6日   北条新蔵氏庸 

これは、『徳川実紀』の記載順と一致する。
要するに、先任順ということで、徳川幕府においては、原則的には、同職位の場合は、禄高や年齢ではなく、先任者を上位とみなすしきたりであったということ。
江戸城内での席順も、先任順であったのであろう。

この儀礼的しきたりは、今日の官庁では入省年次として、厳然とのこっているようにおもう。

さて、とばっちり組7名全員にたいする40日間の拝謁のさしひかえは、その後の昇進に影響があっかどうか、全員の『寛政譜』を記録のために掲出するので、銘々の咎め文と次ぎなる任地を、お確かめのほどを。
いまの役人の一罰百戒の譴責処分も似たようなものかも。


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大岡忠四郎忠恒の個人譜)


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能勢市十郎頼恒の個人譜)


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竹中周防守定矩の個人譜)


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土屋平三郎正慶の個人譜)


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阿部伊織正甫の個人譜)


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長谷川内蔵助正誠の個人譜)


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北条新蔵氏庸の個人譜)

ついでだから、事件の主の永井丹波守尚方の『個人譜』を再録しておこう。

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当時の小普請組支配は8名で、うち2名が甲府勤番支配に任じてられていた。
つまり、勤番支配も同罪とみなされて、処分をうけた。
勤番支配は任地にあり、永井丹波守に意見をいう物理的距離にいなかったと異議をいうのは、現代人でありすぎる。

ちなみに、この譴責の当時(元文5年=1740年)、長谷川久三郎(内蔵助)正誠は、勤番支配ではなかった。正誠が勤番支配に任じられたのは7年後の、延享4年(1747。この前年、第2長谷川家では銕三郎が生まれていた)である。


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2008.10.15

〔お勝(かつ)〕というおんな(4)

この夜も、〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 33歳)は、幕府の米蔵の1番蔵の北で、舟着き場の茶店〔小浪〕を見張っている。
銕三郎(てつさぶろう 23歳)の言いつけであった。

大川からの切れこみの堀が幾筋もあるために、蚊も多い。
彦十は、足や胸を掻きながら、それでもまじめに〔小浪〕から目をはにさなかった。

まもなく五ッ半(午後9時)になろうかとというころになって、ひっそりと近寄ってきた男が、閉まっている表戸を、こつこつと打った。

戸があいて、明かりが男を照らす。
(きのうの、若い男だ。ちきしょう、うまくやってやがる)
彦十は、ぴしゃりと頬の蚊をつぶした。

その音に、男がふりかえって、闇をすかし見た。
「ニャーオ」
彦十が首をすくめて、鳴いた。
「なんだ、猫の奴か」

男が入ると、戸が閉まり、あたりは、また、闇がもどった。
彦十が、蚊を追っているあいだに、われわれは、透明人間となって、〔小浪〕の中へ入ってみよう。

小座敷で、男が用意された酒を飲んでいる。
横で、小浪が手酌で杯を満たす。
「ねえ、今さん。あたしゃ、つくづく、いまのたつきがいやになっているのさ」
男は、今助(いますけ 21歳)らしい。
「がまん、我慢---うっかり、元締にさからってみねえ。簀巻きにされて、そこの大川へ放りこまれるぜ」
「だって、元締のあれは、もう、この2年、役たたずなんだよ」
「自分の持ち物は、だれでも、捨てがたいもんさ」
「こうして、つまみ食いされていてもかい?」
「このことは、秘密も秘密、大秘密だぜ」

待ちきれなくなった小浪が、裾を乱して、背から今助の上に乗っかり、出事(でごと)をはじめた。

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(国貞『恋のやつふじ』 イメージ)

とても、見てはいられない。
退散、たいさん。
と、まるでわれわれに聞かせるように、小浪が言った。
「元締ったら、きょうも、井関なんとか---ほら、さんたちにヤットウを師範してる---ってのの、友だちとやらの、岸井なんとやらを看視役にしたててさ---」

もう一軒、框(かや)寺(現・台東区蔵前3丁目22)裏の仕舞(しもう)た家へ忍びこんでみよう。

鍵をあけて入ってからのお(かつ 27歳)は、まるで新妻のように、かいがいしく台所に立って夕餉(ゆうげ)の支度にとりかかり、徳利の酒の量をたしかめたりしていた。
が待っていたお(りょう 29歳)は、半刻(1時間)経ってからやってきたのも、われわれが忍びこむ前のことである。

いまの2人は、たらいの湯で背中を流しあってから、床に横になり、お互いの秘所に近い内股や乳房を、ゆったりと愛撫しあいながら、話しあっている。

「お前、〔平岩〕での嘗(な)めは、うまくすすんでいるのかえ?」

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(向島 葛西太郎〔平岩〕)

どうやら、おは、向島・三囲(みめぐり)稲荷社の北隣りの料亭〔平岩〕へ引き込みに入っているらしい。

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』文庫巻5[兇賊]で、〔網切あみきり)〕の甚五郎(じんごろう)が鬼平を騙して出向かせた、向島・諏訪明神脇の料亭〔大村〕は、この〔平岩〕から10丁(1km)ほど北。

ということは、雑司ヶ谷の〔橘屋〕の座敷女中をしていたのも、引き込みだったのかもしれない。

「金蔵の蝋型をとる寸前まできてます。座敷仕事がいそがしいものですから---」
「間取り図は、〔蓑火みのひ)のお頭がほめてくださったよ」
「まあ、うれしい。これも、姉(あね)さんのご指導のたまものです。あっ、そこ、いい---」
甘え声で、身をすりよせる。

【参照】2008年8月29日~[〔蓑火(みのひ)〕のお頭]  (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)

は、いかにもいとおしげに片方の腕で抱いてやるのである。
そして、その指は、なめくじが這うようにねばっこく、やさしく、やすみなく動いていた。

「お前、〔橘屋〕のときみたいに、ほかの仲居とか芸者にちょっかい出してないだろうね」
「あのときは、姉さんから、3ヶ月も連絡(つなぎ)がなくて、さびしかったの」
「お盗(つと)めは、色事と違って、本気でかからないとね」
「姉さんとの、このことだって、本気です」

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(歌麿 [青楼辰の刻] 部分 イメージ)

突然、おが、おの躰の上にかぶさり、しっかりと抱きしめた。

の右の太股のをはさみ、自分の秘所を太股にぴったりつけて腰をはげしく動かす。
の顔が紅色に染まり、あえぎが大きくなった。

いかん。銕三郎がおに興味をもっているのは、このことではなく、おんな男のもののかんがえ方のはずである。
退出。

[〔お勝(かつ)〕というおんな] (1) (2) (3) 

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2008.10.14

〔お勝(かつ)〕というおんな(3)

「拙の顔は女将に覚えられているはずだから---」
「分かってますって---」
さん。これは、火盗改メの極秘の仕事です」
「分かってますって---」
相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 33歳)は、いとも気やすく請けおった。

彦十銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)のあいだがらは、いまでは、「さん」「銕っつぁん」と呼びあう仲になっている。

さんは、友だちの鹿(しし)どのといっしょの見張りだから、頼むほうもこころ強い。さんが居眠りをしても、鹿どのがしっかりしていようから---」
「こころやすそうに言わねえでくだせえ。でえじな、でえじな、ダチなんでやすから」
「それは失礼」

【参照】2008年5月16日~[相模(さがみ)〕の彦十] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12)


銕三郎は、幕府の米御蔵がならんでいる中でも、もっとも北側にあたる1番蔵の端の御厩の渡しの舟着き前の茶店〔小浪(こなみ)屋〕の女将の住まいをさぐってもらうように頼んだのである。
渡し舟が往復をやめる五ッ(午後8時)には、店の灯(ひ)もおとして帰るだろうから、そこを尾行(つ)ければ、住まいはすぐに知れる、と彦十におしえた。

翌日、稽古が終わるころ、彦十高杉道場へ、探索の顛末を告げにやってきた。
法恩寺門前の蕎麦屋〔ひしや〕へ彦十を誘った。
剣友・岸井左馬之助(さまのすけ 23歳)もついてきた。
物井(ものい)のお(こん 29歳)が身をかくしてからは、どことなく屈託がなくなって、なにかというと、銕三郎を頼りにする。
左馬之助は、桜屋敷のむすめ・おふさが嫁(とつ)ぎ、おが行方をかくしたいまは、おんなとのかかわりが絶えてもいる。

昨夜、彦十が張りこんだのだが、〔小浪〕の女将は、店の灯をおとし戸をしめても、店から帰る様子はなかった。
小半刻(30分)ほども見張っているうちに、若い男がやってきて、戸をこつこつと敲き、するりと入りこんだ。
しばらくすると、窓の灯が消えた。

「それからは、っつぁん。お定まりの茶番劇のはじまりでさあ」
さん。戸に耳をつけて聞いたのか?」
「念には念を、とおもってね---けっけけけ。ひでえ出事(でごと 性交)声で、とんだお耳の悦楽でしたよ」
(男が木賊(とくさ)の元締の林造(りんぞう 59歳)のところの若い者頭の今助(いますけ 21歳)でなければいいが---)

銕三郎は、ご苦労だが、今夜も張りこんで、こんどは、男のほうの住まいをつきとめるように頼んだ。
「いいともよ。でも、2晩つづけて、くるかなあ」
「若ければ、3番つづけてだろうと5番だろうと、へでもあるまい」
これは、左馬之助の無駄口。
岸井さん、〔ばん〕ちがいです。岸井さんがご想像しているのは、さしつ、さされつなんで、3局、5局と数えますんで---」
「〔きょく〕なら〔曲〕のほうが似合う。歓喜節1曲目、2曲目---」
左馬さん。おふざけはそれくらいにして---拙には、まじめな話なのだ」
「おれも、さんを手伝おうか? 尾行(つ)けるとなれば、女将のほうと、男のほうと、2人いたほうが重宝だ」

左馬之助が充分に乗り気らしいので、銕三郎は、女将は今戸の香具師(やし)の元締---〔木賊〕の林造の囲いおんなだと明かした。
「うっかりも手をだすと、簀巻(すま)きにされて大川へ、どぶんだ」
「それにしちゃあ、昨夜の若えのは、てえした度胸でやんすねえ」
彦十が感心している。(歌麿 小浪のイメージ)

左馬之助は、余計に好奇心をそそられたか、〔ひしや〕の前で銕三郎と別れると、春慶寺へ帰るふりをして、その実、石原町の舟着きから、三好町へ渡った。
袴をはき、2本刀を帯ているから、渡し賃は不要である。

しばらく、左馬之助を尾行してみよう。

_150_2幕府米蔵北の舟着き場の茶店〔小浪〕へ入っていった左馬之助は、茶を給仕した女将に、
小浪さんでしたね? なるほど、美形だ」
「あたしは小浪ですが、お初にお目にかかるお武家さまとお見かけしますが---」
っつぁん---いや、長谷川銕三郎の道場仲間でしてな」
名乗っておいて、つづけた。
「今戸の〔木賊〕の元締のところの若い衆にヤットウを教えてる、井関録之助というのも剣術仲間でな。以後、お見知りおきを---」

井関さまは存じませんが、長谷川さまは、つい、2、3日前に、お目もじいたしました。それが、なにか?」
「いやいや。長谷川が、たいそうな美形だから、いちど、拝んでこいと、こう言ったものですから、こうして、参上つかまつった次第---」
「ご冗談ばっかり---」
小浪は、伏せ気味の顔から艶な上目をつかって左馬之助を見つめる。
左馬之助は股間が熱くなった。

そのとき、渡し舟が着き、3、4人の客が入ってきたので、小浪はそちらに離れる。

客の中の一人、中年増---26,7に見える、顔のととのった、痩せ気味のおんなが、ついと小浪に寄りそい、
「今夜、お借りします」
うなづいた小浪が、帯のあいだから、何かを渡した。

左馬之助は、茶代を置いて、わざとゆっくりとした足取りで、そのおんなを尾行(つ)ける。
おんなが、蔵前の通りを横切り、框(かや)寺(現・台東区蔵前3丁目22)の裏手の仕舞(しもう)た屋の錠をあけて入っていったのをたしかめた左馬之助は、そのまま、大川橋のほうへ立ち去った。

だから、左馬之助がでていったあと、小浪が店の小女に文をもたせて遣いにだしたのは見ていない。
その文には、
「今夜は、〔蓑火みのひ)〕のところのお(りょう 29歳)さんと、お(かつ 27歳)さんが家を使うため、店で寝ますから、お越しにならならないで---」
と書かれていたことも、左馬之助は知らない。

参照】[〔中畑(なかばたけ)〕のお竜〕 (1)  (2) (3) (4) (5)  (6) (7)  (8)


[〔お勝(かつ)〕というおんな] (1) (2) (4)

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2008.10.13

〔お勝(かつ)〕というおんな(2)

不忍池(しのばずのいけ)の南岸---池之端町には、「松」の字のつく出合茶屋は〔松ノ家(まつのや)〕しかなかった。
火盗改メの本多采女紀品(のりただ )組の廻り方同心・今井金治郎(きんじろう 25歳)が、
「偽りを申すとためにならぬぞ」
おどしても、〔松ノ家〕のでっぷりと肥えた女将・お(きち 48歳)は、
「いいえ。おんな同士のお客さまを、おあげしたことはございませんです」
こういう商売を20年もつづけていると、たいていのことにはびくともしない。

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(明治40年ごろの池之端の出合茶屋のなごり。『風俗画報』下谷区之部1から部分)

「お役人さま。弁天島の〔松の実(まつのみ)〕さんのお間違いではございませんか?」
「弁天島にも、出合茶屋があったのか?」
「茶屋と申しましても、料理茶屋でございますが、ときどきは、おまんま刻(どき)をはずすと、部屋貸しもするようでございますよ」

弁天島は、上野の山の花園稲荷社の下からの土手の先端に弁財天社があるので、その名がある。

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(不忍池の弁天島 『江戸名所図会』部分 塗り絵師:ちゅうすけ)

「料理屋が2、3軒あることはしっていたが---」
今井同心は、首をかしげかしげ、銕三郎(てつさふろう 23歳 のちの鬼平)を誘(いざな)った。

〔松ノ実〕の亭主・与兵衛(よへえ 55歳)は、はじめは白(しら)をきっていたが、銕三郎が、それでは、弁天社の神職同道で火盗改メの役宅へ召還するしかないな---というと、途端に態度を変え、
「あ。思い出しましたでございます」
半年ほど前に、26,7のおんな同士の客に部屋を貸したと打ち明けた。

住まいと名を控えておるかと訊くと、
「なにしろ、1刻(2時間)ばかりのことでございますれば---」
「偽りを申すでない。その者たちが来たのは、料理の客が退(ひ)いた五ッ半(午後9時)すぎで、泊まったのであろうが」
「えーと、はい。そのとおりいでございます」
「ご亭主。そなた、隣の部屋で睦言(むつごと)を盗み聞いたであろう」
「とんでもございません。お客さまのことを盗み聞くなど---」

「ご亭主。これは、町方の隠し売女(ばいた)の調べではないのだ。盗賊改めの聞きこみである。わかっておろう?」
「申しわけございません」
「何を聞いた?」
「こんどからは、今戸のなんとやらいう元締の妾宅で会えることになりそうだ---とか」
「ふむ」
「美濃、日野のお菓子屋が、、赤坂に、また一軒できたとか、なんとか---」
「みのひのおかしやが、赤坂に---」
(〔蓑火〕のお頭が、(中山道)赤坂に安旅籠をまた一軒---)
「よう聞いておいてくれた。礼を言う」
「火盗改メのお役宅へのお呼びだしはご赦免ということに---?」
「うむ。今後とも、怪しい客の話を漏れ聞いておいてくれればな」

銕三郎は、今井同心を上野・山下の茶店へ誘い、酒を頼んだ。
長谷川さまは、今戸のなんとやらも、美濃、日野のお菓子屋---もお分かりになったのですか?」
「今戸のほうは、よくはわかりませぬが、美濃、日野のお菓子屋は、〔蓑火(みのひ)〕が、美濃の赤坂宿に安旅籠を、また、一軒増やしたのだと分かりました」
「〔蓑火〕は、喜之助(きのすけ)?」
「たぶん」
「どうして安旅籠を?」
「書留役の加藤半之丞(はんのじょう 30歳)どのにお尋ねください」

参照】2008年9月17日~[本多組の同心・加藤半之丞] (1) (2) 

[〔お勝(かつ)〕というおんな] (1) (3) (4)

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2008.10.12

〔お勝(かつ)〕というおんな

5の日だと、銕三郎(てつさぶろう 23歳)は、雑司ヶ谷の鬼子母神の一ノ鳥居の手前から左におれて、料理茶屋〔橘屋〕の離れへ直行する。
4棟ある手前から2つ目の離れが、仲居・お仲(なか 34歳)が宿直(とのい)にことよせて、銕三郎を待っている棟である。

しかし、今宵は、おと睦むのが目的ではないから、3人の仲居の寄宿先となっている、農家を改造した仕舞(しも)うた家に、仲居頭(なかいがしら)のお(えい 36歳)を訪れた。

参照】 〔橘屋〕の仲居たちの寮と宿直 

閉まっている表戸を敲くと、寝着になっていたお(なか 34歳)がしんばり棒をはずし、大仰な声で、
「あなた。なにかあったのですか?」
「驚かせてすまぬ。おどのにちと訊きたいことがあって---」

「おさん---」
が呼ぶと、いちばん奥の部屋から、これも寝支度をしていたおがでてきたが、銕三郎を認めると、あわてて部屋へとってかえし、寝着のうえに半纏(はんてん)をひっかけ、
「どういたされました---?」
「おのことで、たしかめたいことがありまして---。夜分、失礼とはおもいましたが---」

は、銕三郎を自分の部屋へとおし、敷かれていた布団を二つにおって席をつくった。
「おさん。お茶の用意をお願いします」
「いや、お茶はご無用に---」
「では、お冷やでも---」

は、寝酒にしている徳利から、湯のみへ注いで、おにもすすめた。
話し声をききつけたお(ゆき 23歳)も、酒がでているのを目にすると、自室から茶碗持参で、ものずきにもすわりこんだ。
も寝着に袖なしの甚平(じんべ)をひっかけているだけである。膝をくずして横すわりだから、乳房のふくらみも太ももの内側もまる見えである。いや、わざとそうしているらしい。
がやきもきしているが、銕三郎は、それどころではない。

「〔橘屋〕を辞めていったお(かつ 26歳=当時)ですが、それからどこへ行ったか、あてはありませぬか?」
「こういう、仲居しごとをいちど覚えてしまうと、堅気(かたぎ)づとめはできないとおもいますよ。〔橘屋〕ではたらいていたといえば、どこだって喜んで使うでしょうし---」
が全部言いおわらないうちに、おが口をはさんだ。
「そういえばお姉(ねえ)さん。いちど、上野の池之端の出合茶屋の話をしていたことがありましたでしょう?」
「出会茶屋? おは、おんな男のおんな役で、男には抱かれなかったのでは---?」

「出合茶屋へあがったからといって、男とおんなでなければならないことはありませんでしょう? 男同士だって、おんな同士だって、爺さんとわかいむすめとの組み合わせだって、おあしさえ払えば、あげてくれますでしょ」
は、なんでもはっきり言う。
「なるほど。拙は、あがったことがないので---」
「あら。あたしも、まだ---」
「おさん---!」
「はい。はしたないことを申しました。ごめんなさいませ。うふ、ふふふ」

「その出合茶屋の店名をもらしていませぬでしたか?」
「松風とか、松葉屋とか、なんでも、松の字がついていたような---」
これは、おである。

「おは、生まれは甲州の八代郡(やつしろこおり)と言っていませぬでしたか?」
「それは、決めるときに聞いております。甲府から駿府へ抜けるもっとも短い、中道ぞいの中畑(なかばた)とか、(なかばたけ)とか---」
「おお」
「それがなにか---?」
「いや。捜している者と同郷でして---」
「お(りょう 29歳)さん」
がつぶやいた。
「おりょう---って?」

「おの情人(いろ)です」
「あら。そういう相手がいるのに、お姉さんを口説いたのですか。まあ、いけすかない」
「おさん!」
「はい」

長谷川さま。もう遅いから、今夜はお泊りになりますか? それでしたら、離れを用意いたしますが---」
が気をきせた。
は、赤くなってもじもじしている。

「何刻(なんどき)でしょう?」
「そろそろ、四ッ(午後10時)かと---」
四ッには、江戸の街々の木戸が閉まる。
「では、ご厄介になろうかな」
長谷川さま。たまには、お相手をお替えになって、おの部屋はいかが?」
「おさんッ」
これは、おではなく、おであった。
は、赤い舌をだして、肩をすくめただけで、笑っていた。

「はいはい。おは、かわいそうに、今夜も独り寝でございます」
立った拍子に、胸元がゆるんで、かわいい乳房がこぼれた。
男には吸わせても、赤子には吸われたことがない、あざやかな赤みをした小さな乳首であった。
銕三郎は、見るともなく見てしまい、久栄(ひさえ 16歳)の乳首を想像していた。

離れに落ちつくと、おが、
「おさんが、いちどでいいから、こんなふうに寝てみたいと、言うんですよ」
絵をさしだした。

姉妹の蚊帳へ忍んできた男が、姉と睦んでいるのに、妹は気づきもしないで眠りこけている図あであった。

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(重信『柳の風』 イメージ)

「おどのが妹役をたのしむわけか?」
「はい」
「悪趣味にもほどがある。仮にも拙は、将軍家の武士だぞ」
「そのように伝えておきますう。うふ、ふふふ」
「は、ははは。忠兵衛どのも、たいへんなおんなどもをお使いだ」
忠兵衛(ちゅうべえ 50がらみ)は、料理茶屋〔橘屋〕の主人である。
銕三郎の父・平蔵宣雄(のぶお 50歳 先手・弓の8番手の組頭)と古くから親しい。

「わたしののぞみは、これです」

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(栄泉『春の淡雪』[墨田川] イメージ)

「真っ昼間にか?」
「はい。こんどの宿さがり日に、いけませぬか」
「隅田川で、人目につかぬところがあるか?」
「人目につくから、よけいに高ぶるのではありませんか」

「おんなという生き物は---」
(おんな同士だと、こうもあけすけに話しあっているのか)
「それより、お(きぬ 13歳)がうすうす、このことに気づいているようだ」

参照】2008年7月17日~[明和4年(1767)の銕三郎] (1) 

「かまいません」
「そうはいくまい」
「いまは、そのことは、忘れさせてくださいな」

銕三郎は、久栄(ひさえ 16歳)のことが忘れられなかった。


[〔お勝(かつ)〕というおんな] (2) (3) (4)


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2008.10.11

〔五井(ごい)〕の亀吉(2)

(〔五井ごい)の亀吉(かめきち 30がらみ)という男、なかなかに油断がならない)
銕三郎(てつさぶろう 23歳)は、人があふれている両国橋西詰の広小路から、柳原土手を神田川ぞいにあるきながら、先刻、亀吉が言ったことを反芻していた。

久栄(ひさえ 16歳)をどちらの密偵と見たのかと訊いたとき、「多分、火盗---」と言いかけた今助にかぶせて、
「わしらが、賭場へ行くものと見たのでしょうよ」
(うまく誤魔化した用慎ぶかさと手際のよさ---細面で小柄なところもふくめて、動物にたとえると、川獺かな)

銕三郎は、〔たずがね〕の忠助(ちゅうすけ 45歳前後)が、〔蓑火みのひ)〕の喜之助(きのすけ46歳)には、6尺(1.8m)近い大男の〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵(ごろうぞう 29歳)という小頭と、〔五井〕の亀吉という2番手の小頭がいる---と言っていたことをおもいだした。

参照】2008年8月30日[〔蓑火(みのひ)」の喜之助 (2)

(大男と小男の2人の小頭---〔蓑火〕は、どう遣いわけているのかにも、興味がわいた。
それと、〔神畑(かばたけ)〕の田兵衛(でんべえ 40歳)と〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)と呼ばれる2人の軍者(ぐんしゃ)。

そして、ふたたび、思案を〔五井〕の亀吉へもどし、
(アッ---)
と、、口の中でさけんだ。
亀吉に、こちらの姓をさらしたからには、これから、看視の目がそそがれると、観念すべきであろう。
ことの経緯を、久栄に告げるだけではすまなくなった。

和泉橋を北へわたったころには、陽はすでに落ちていた。
橋の北側、御徒町通り(和泉橋通りとも呼ばれる)に面した神田松永町で、蕎麦屋を見つけ、小僧に久栄あての文をことづけた。

まもなく、久栄が母親(30代なかば)をともなってあらわれた。
後添えとはいえ、55歳の大橋与惣兵衛親英(ちかふさ)とは、齢があまりにかけはなれすぎているように、銕三郎は感じたが、こだわらないことにして、あいさつを交わした。
とにかく、武家方のむすめが、暗くなってから、町屋の蕎麦屋で男にひとりで会うことはゆるされない。

母ごに丁寧にあやまってから、ことの次第を告げ、おまさ(12歳)への手習い師範をしばらく中止したほうが安全なこと、久栄自身の稽古のための外出もできたらひかえること、2人は当分会わないほうがいいことなどを話した。

「それでは、長谷川さまが、わが家へおあそびにいらしてくださいますか?」
「いいえ。拙には〔蓑火〕一味の看視がつくとかおもっておいたほうがよろしい。ですから、お屋敷を訪ねますと、久栄どのの正体があらわになってしまいます」
「なんだか、つまりませぬ」
母親が、たしなめた。

翌日の午後、銕三郎は、高杉道場からの帰り、〔盗人酒屋〕に忠助を訪ね、〔五井〕の亀吉に会ったことを告げた。
仕込みの手をやすめた忠助が、印象を訊いてきた。
「2番手の小頭をつとめるだけの才覚の主(ぬし)と見ました」
「才覚はともかく、人柄は?」
「目くばり手くばりに落ち度はない分、容赦しない気質かと」
「〔蓑火〕のお頭(かしら)の、汚れ役を一手に引きうけているという噂も耳にしました」
「汚れ役---をねえ」
銕三郎は合点がいった。

蓑火〕ほどの大きな組織になると、配下にもさまさまな経歴と考え方をする人間が集まっていよう。中には、ひと癖でおさまらず、ふた癖はおろか三癖もの持ち主もいよう。
その中には、一味の規律を守らない者もでてこよう。
始末は、きれいごとだけではすむまい。
汚れ役の出番はいくらもあろう。
(もし、あの者たちにとっておれが邪魔となれば、除かれよう。それが、久栄かもしれない)

「ところで、ご亭主。〔五井〕の亀吉と〔尻毛しっけ)」の長助(ちょうすけ)という、小頭の2番手、3番手が府内にあらわれたということは、ことが煮詰まってきているととっていいのかな?」
「香具師(やし)の元締の〔木賊(とくさ)〕の林造(りんぞう)と接しているところが気にいりやせんな。〔蓑火〕のお頭のやり口とおもえねえんでね」 
今助が言っていたとおり、博打あそびのつながり---?」
「〔蓑火〕ほどのとこの小頭ともなりゃあ、博打なんかにうつつをぬかしとるはずなんぞ、ありやせんですわい」


 


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2008.10.10

〔五井(ごい)〕の亀吉

「お武家さん。お帰(けえ)りになる前(めえ)に、ひとつだけ、お聞かせくだせえ」
五井ごい)〕の亀吉(かめきち 30前後)が、眉根を寄せて、訊いてきた。

(発覚(ばれ)たか。いよいよとなったらこやつを斬らねばなるまいが、そうなると、〔木賊(とぐさ)〕の林造(りんぞう 59歳)とのあいだがらがおかしくなる)

参照】2008年8月22日~〔木賊〕の林造 (A) (B) (C)

銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの平蔵)は、つとめて平静をよそおい、
「なんでしょう?」

長谷川さまとおっしゃいましたか?」
「さよう」
「間違っていたら、ご免こうむりやす。長谷川平蔵さまとおっしゃるお旗本は---?」
「拙の父だが---」
「やっぱり! 失礼いたしやした」
「父が、なにか---?」

亀吉がいうには、てめえは「呼び名(通り名)でお察しとおり、上総(かずさの)国市原郡(いちはらこおり)五井(現・千葉県市原市五井)の漁師の三男だが、女房・お衣知(いち 22歳)は、同じ上総でも山辺郡(やまのべこおり)片貝(かたがい 現・千葉県山武郡九十九里町片貝)の小百姓のむすめで、知行主が長谷川平蔵宣雄(のぶお 50歳)--すなわち、銕三郎の父だと。
長谷川家は、知行主としてはよくできており、もともとも幕府からの片貝の下賜地は180石であったが、村人とともに荒地を開墾して90石分ほど新田をふやし、2割にあたる18石分を村に渡したと。
村は、18石分のからあがりで、村の諸掛かりをまかかない、それぞれの農家の負担がその分助かっているとも。

「新田開発の指導は、父上がおやりになったもので---」
「そうだそうですね」
亀吉は、なにかをおもいだしたらしく、くっくくくと笑った。

「どうかしましたかな?」
銕三郎が、話の先をうながした。
「お殿さまにゃ、ないしょにしてくだせえよ。女房から聞いたのでやすが、じつは---」

_200海女(あま)をしていたお衣知叔母が、宣雄に惚れて、わりない仲になったのだと。(歌麿「海女たち」 イメージ)

「また、海女ですか---」

参照】2008年1月12日[与詩(よし)を迎えに] (23)

「おや、ほかにも?」
「いや。で、その海女は?」
「いまでは、15人の孫持ちだそうで---」
「はっ、ははは。父上のしっぽをつかみました」

「なんでも、もう一つの知行地---武射郡(むしゃこおり)の村長(むらおさ)のむすめもはらませたとか---」
「その村長のむすめが産んだ子が、拙です」
「や。これは、これは---」

小浪(こなみ 29歳)が横から笑いながら口をはさむ。
「そういたしますと、長谷川さまのお血筋は、おなごにお手がお早い---」
「女将さん。そうじゃあねえんで。うちの奴に言わせると、村のおんなたちが、むすめっこはおろか、年増たちもほっとかなかったんだと」
「こちらさまも、そうのようでございますね」
小浪は、流し目を銕三郎にくれた。
「村方での話ですよ。江戸のおんなは、しっかり者ばかり---」

銕三郎は、逃げるように、店を出た。
(しまった。亀吉の住まいを聞いておくんだった)
暮れるまでには、半刻(1時間)以上あった。

そのまま、店の前の御厩渡しの舟に乗った。
つづいて乗る者がいなかったので、対岸の石原町の舟着きでは、安心して両国橋へ直行し、和泉橋通りの大橋家へ向かったのである。

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2008.10.09

〔尻毛(しりげ)〕の長右衛門(2)

「お手間をとらせるもんじゃあ、ござんせん」
そう言って、香具師(やし)の元締(もとじめ)・〔木賊(とくさ)〕の林造(りんぞう 59歳)のところの若い者頭格・今助(21歳)が銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)を案内したのは、御厩(うまや)の渡しの舟着き前の、小粋な茶店であった。

参照】2008年8月22日~〔木賊〕の林造と今助 (A) (B) (C)

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』文庫巻1[浅草・御厩河岸]で、密偵・豆岩いわごろう 35,6)が出しているのが、その後に、火盗改メが買い取り、豆岩にまかせた、これである。

「元締の、コレがやっている店でして---そのおつもりで---」
今助が小指を立ててみせた。

先客があった。
尾行(つ)けていった久栄を、巧みにまいた2人づれである。

今助が2人を紹介する。
年かさ---といっても小柄だから若くみえるが25歳---は〔五井ごい)の亀吉(かめきち)、格下---といっても年齢は24歳だが---ふうのほうを〔尻毛しっけ)の長助(ちょうすけ のちの長右衛門)と。

亀吉は、細面の色の黒い小男だが、目であいさつをしただけで、あとはそっぽを向いていた。
長助のほうは、鉄之助の顔をまじまじと見つめ、記憶をたどっていたが、
「ああ、あのときのお武家さん---」
とおもいだした。
「美濃の尻毛(しっけ)村の生まれなのですが、この毛深さなもので、みんなが穿(うが)った気になり、〔しりげ〕と呼んでております」
そうは言い条、さほどに屈託していない。

「ご主人どのは、その後、お変わりなく?」
銕三郎は、長助の頭(かしら)の〔蓑火(みのひ)〕の喜之助(きのすけ)が巨盗であることは、〔盗人酒屋〕の主(あるじ)・〔(たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ 45歳前後)から聞いていたが、さも、大店の主人とおもっているように尋ねた。

参照】2008年8月29日~[〔蓑火(みのひ)〕のお頭]  (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)

【参照】 [〔盗人酒場〕の忠助] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7)

お頭---と言いかけた長助も気がついて、
「お---お蔭をもちまして、主人も達者にしております」
お店者のように答える。

「あの節は、みやこへおのぼりのようでしたが---いまは、どちらに?」
きわどい質問であったが、銕三郎はおもいきって口にしてみた。

「みやこからは、すぐに、蕨(わらび)宿に戻っております」
「ご無事でなによりでした。あのときにいただいたお教えは、肝に銘じていると、お伝えください」

「お2人は、面識がおありだったんで?」
今助が不思議がった。
「去年の春、主人のお供をして東海道をのぼったときに、六郷の渡し舟でごいっしょしてね。手前の主人がこちらへ煙草をすすめになすったが、こちらはおやりにならなくて---」
「あの節は、不調法で失礼しました」
「なんの、なんの。主人があとでお誉めしておりました。このごろの若いお武家に似合わず、お堅いお人と---」

長谷川さまは、手めえどものの、ヤットーの師範なのですよ」
今助が明かした。
亀吉兄ぃの言いつけでやしたが、先生のお顔を立てて、密偵のむすめは、放免しましたんで---」

「ほう。あのお女中が密偵と---。どちらの?」
銕三郎は、腹の奥で笑いながら、とぼけて訊いてみる。
亀吉が、不気味な目つきで銕三郎の顔をなめた。
「どちらの密偵か、それを吐かせようとしたとろへ、先生のお出ましで---」

「多分、火盗---」
今助がいいかけたのへ、亀吉がかぶせた。
「わしらが、賭場へ行くものと見たのでしょうよ」
「そりゃあ、うちの親分のお客人なら、手なぐさみもあり、です」
今助が巧みに引きとる。

女将らしい、30歳前の年増が、お茶を給仕にあらわれた。

_150今助と、いわくありげに目くばせをかわし、銕三郎に茶をすすめた。、
「小波(こなみ)と申します。〔木賊〕のお頭同様に、ごひいきに---」(歌麿 小浪のイメージ)
流し目がいかにも艶っぽい。
(〔木賊〕の林造は躰のほうが、そろそろ、いうことをきかなくなっている年齢(とし)ごろだが、このおんなの躰をなぐさめいるのは、今助? まさか? もし、そうだとすると、今助のしっぽをつかんだことになる。あとあと、使えそうだ)

銕三郎は、そんな気ぶりはちらっとも見せず、
「あのお女中を、なぜ、密偵と見破りましたか?」
銕三郎の問いかけには、亀吉が答えた。
_130「柳橋をわたったところから、ずっと尾行(つ)けてきたんでさあ」
「柳橋でお気がついたということですね」
(やっぱり、素人には無理なんだ)
「あの、大仰な頭巾でさあ。気がつかないほうがどうかしてる」
「あんな人目につきやすい頭巾すがたで尾行(つ)けたとすると、下(げ)のげの密偵ですな」
「まったく---」
亀吉が、意味ありげににやりとと笑う。

長居すると、うっかり、〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)の名をこぼしそうにおもい、
「いや。〔五井〕どの、〔尻毛(しっけ)〕どのの、せっかくのご詮議の邪魔をしたようで、まことに慙愧のいたり。どうか、軽率をお許し願いたい」

参照】[〔中畑(なかばたけ)〕のお竜〕 (1)  (2) (3) (4) (5)  (6) (7)


これで引きとるつもりであったが、なんと、〔五井〕の亀吉に引きとめられた。

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2008.10.08

〔尻毛(しりげ)〕の長右衛門

「あ、あれは長助
銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)がつぶやいたので、頭巾姿の久栄ひさえ 16歳)が、
(え?)
といった目で見上げてきた。
風が強い。
_260
(清長[風の強い日]部分)

〔盗人酒屋〕で、おまさ(11歳)の手習いをみてやった帰りで、銕三郎はいつものように久栄を和泉橋通りの大橋家まで送っていく途中であった。

両国橋を本所側から西へ渡りきったところで、その男の横顔をたしかめたのである。
男が橋の西詰を柳橋のほうへ曲がったとき、青々とした顎の剃りあとをさらした。

久栄どの。お願いしてよろしいか?」
「私にできることでした、なんなりと---」
「あの2人づれの行く先を確かめていただきたいのです」
「薄茶の極細縞の着物の男と、紺地に小紋をちらした男ですね。どちらがお目当てなのでしょう?」
「極細縞の、手の甲まで毛むじゃらの男のほうです。ただし、浅草の今戸橋より先へ行ったら、あきらめてください。経緯(ゆくたて)は、文にして、下僕にでも、そこの米沢町の裏道の、よみうり屋の紋次もんじ 25歳)というのに、拙あてとどけるようにことづけて---」
「わかりました。では、吉報をお待ちください」
久栄は、頭巾姿のまま、長助を尾行(つ)けにかかった。

男は、〔蓑火みのひ)〕の喜之助(きのすけ 46歳)の手下で、長助ちょうすけ 24歳)と呼ばれていた。
出会ったのは、東海海道・六郷(ろくごう)の渡し舟でいっしょになった。

136_360
(六郷の渡し場 『江戸名所図会』 塗り絵師]:ちゅうすけ)

銕三郎が、去年、阿記(あき 享年25歳)の病気見舞いに芦ノ湯へ向かっていたときのことである。
手の甲の指にまで目立つほどの毛がのびていたので、覚えていた。

参照】2008年7月25日 [明和4年(1767)の銕三郎] (9)

裾をなびかせて尾行(つ)けている久栄の後ろ姿を見て、銕三郎は、すぐに、
(危(や)ばい)
とおもった。あまりにも、近づきすぎている。

とっさに、久栄のあとを尾行(つ)けることにした。
長助と顔を会わせたことがあるので警戒されてはと、つい、久栄に頼んだが、16や17の素人むすめにさせることではなかった。

柳橋の篠塚稲荷(現・台東区柳橋1丁目)前をとおって、蔵前通りから鳥越橋を渡っても、久栄は振り返りもしない。

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』文庫巻9[浅草・鳥越橋]で、〔押切おしきり)〕の定七にだまされた〔風穴かざあな)〕の仁助が、女房・おひろを寝取られたとおもいこみ、首領〔傘山かさやま)〕の瀬兵衛を刺殺するのが、この鳥越橋。p202 新装版p210 

駒形堂もすぎた。

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(駒形堂 『江戸名所図会』 ぬり絵師・ちゅうすけ)

ちゅうすけ注】『剣客商売』の名脇役・長次おもとが出している酒飯店〔元長]は、この駒形堂の横手にある。

と、久栄が立ち止まって、きょろきょろとあたりを見回している。
その久栄を、着くずした若いのが3,4人、取かこんだ。
久栄は、首をふっている。
一人が、久栄の腕をつかもうとした。

銕三郎か走るように近寄り、
「お女中、どうかしましたか?」
声をかけた。
「あの---」
久栄の声は、震えてている。

男たちを見渡すと、その中に、今戸の香具師の元締・〔木賊(とくさ)〕の林造(りんぞう 59歳)のところの、今助(いますけ 21歳)がいた。
「おや。今助どのではありませんか。こちらのお女中がどうかしましたか?」
今助は、照れて、
長谷川先生がいらっしゃるたぁ、存じませんで---」
若い連中に去るように目で合図し、
「先生。ちょっと、そこの茶店まで、おつきあいくだせえ」

「わかりました。お女中。この今助どのは、拙の稽古仲間ですから、もう、何もおきません。どうぞ、お行きなさい」
久栄は、銕三郎とは赤の他人ででもあるように、丁寧に礼をのべて、三間町の方へ左へ曲がって行った。

今助どの。奇遇でしたな。では参って、話をうかがおう」


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2008.10.07

納戸町の老叔母・於紀乃(3)

銕三郎(てつさぶろう)どのは、おんなおとこ(女男)の睦あいをご存じかの?」
歯がまったくなく、風のぬけるのような声をさらに低め、にやりと笑った顔を、それでも赤らめながら、老叔母ろ・於紀乃(きの 69歳)が訊いた。
うんと年長でも、銕三郎(23歳 のちの鬼平)を、「どの」と尊称をつけて呼びかけるのは、嫡子だからである。嫡子は、いずれ将軍家の楯となる男子なのである。

「塾の悪童が春画を隠しもってくるのを覗いたことはありますが---」
「あれは、好きものの男どもの空想をほしいままにさせるためのものでの。ほんとうは、おんな同士の睦みあいは、男とおんなのそれよりも、もっと、もっと、情(なさ)けを通いあわせるものらしいの」

(世間の常識にさからっての性愛だから、不安とともに、信じあいが恍惚さをいっそう高めるのであろうな)
「叔母上は、どうしてご存じなのですか? まさか---?」
「このわちが、そのような好みをもったおんなに見えるかの?」
歯がないために、口のまわりは皺ばかり---の口をとがらせた。

「いいえ」
親指を西へ向けた於紀乃は、
「右隣りの三枝(さいぐさ )の登貴さまな---」
備中守守緜(もりやす 51歳 6500石)のご内室が---」
「ちがう、ちがう。 ご当代はご養子。そう、ご先代の斧三郎さまもそうであったが、19歳で卒され、奥方・登貴(とき 68歳)さまは、18歳からお独り身での」

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於紀乃の話を、ちゅうすけの解説もくわえながら手短にまとめると---。

三枝家は、掲示した「先祖書」にもあるとおり、仁明天皇の代というから、銕三郎の時代から920年ほども昔に、丹波の国から発した旧家で、ゆえあって甲斐国山梨郡(やましなこおり)能路の里に配流され、その子孫が武田信玄の傘下にあり、親類衆の扱いをうけていた。
長谷川家も因縁の深い田中城を守っていたときのことは、2007年6月1日~[田中城の攻防] (1) (2) (19)

家康が甲州・信濃を攻めたときも協力し、6000石級の大身旗本にとりたてられている。
5代目・丹波守守英(もりひで 享年47歳)には男子がなく、京の西洞院家・平松中納言時方(ときかた)の姫を養女に迎え、これに松平薩摩守の家臣の男子・守尹(もりただ)を養子として娶(めあ)わせた。
しかし、於紀乃の言ったように、守尹は養父・守英に先だって病歿した。
若い身ぞらで寡婦となった<strong>登貴は、貧乏公家の実家へ帰ることを拒否、広大な屋敷の一偶に別宅をたて、召し仕えにかしずかれて隠棲していた。

八木家から隣りの長谷川家へ嫁いてきた於紀乃とは年齢は一つ違いであったが、武家のむすめを蔑視し、つきあいを拒否、小間使いのむすめと情を深くかわしあっていたと。

_100「銕三郎どのよ。わが殿・久三郎どのが甲府で情けをかけた忍び者の家の小むすめのこともあったが、おんな男の〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)とかに興味をもったのも、隣りの登貴姫どののこともあったからよ。ふへッ、へへへ」(お竜のイメージ)
「左様でございましたか。それなれば、大月へまいって、おの母親のことを調べてもよろしいかと---」
「いや。そちらは、丹後守の組下で十分。わちがおんな男とまじわるわけではないのでの。ふへッ、へへへへ」

銕三郎は、ほっとするとともに、軍資金を絶たれて残念にもおもった。

「それで、登貴さまはご存命で?」
「今月はじめに、みまかられての---」

(競いあう主(ぬし)がいなくなり、それで、興も減じたというわけか---この年齢になって、ようやく、な。しかし、おれが追跡しているのは、おんな男のものをかんがえるすじ道は、おれたちと異なるのかどうか、ということなのだ。叔母ごの話でひとつは、世間常識への抗議ということはわかったが---)


ちゅうすけのつぶやき】長谷川銕三郎の成長の過程で、かかわりのあったさのざまな幕臣の周囲を仔細に見ているのは、そうすることにより、幕閣のような実権をもった人たちではなく、光があたることは少ない下の層も示すことで、江戸時代の一端に触れられるとおもうからである。
ぜひ、ごいっしょに散策していただければ、うれしい。

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2008.10.06

納戸町の老叔母・於紀乃(2)

「叔母上。讃岐守叔父上が、甲府勤番支配を仰せつかった節、伯母上もあちらへお住みになったのですございますか?」
銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)は、何気ない口ぶりで、於紀乃(おきの 69歳)に訊いてみた。
讃岐守叔父上とは、ここ、納戸町に広大な屋敷地を賜っている長谷川家の先代の当主だった・久三郎正誠(まさざね 4050石)で、5年前、明和元年(1764)に69歳で亡じている。
於紀乃は、その寡婦である。

「とんでもないわの。なぜに、わちが山流しにならねばならぬかの」
勤番支配は、3000石以上の大身幕臣で、小普請支配10人の中から2人があたる。
7年前(45歳)から小普請支配をしていた讃岐守正誠が、勤番支配を拝命したのは、延享4年(17)10月15日であった。
2歳だった、しかも家が赤坂の銕三郎と、納戸町に久三郎だったから、叔父が甲府へ赴任したときのことは、まったく記憶にない。
西丸・持弓の頭となって帰府した4年後のことにも霞のようなものがかっている。

讃岐守叔父上が勤番支配に赴任なされたとき、於紀乃伯母上はおいくつであったのですか?」
「わちが47での。殿は52。もう、男とおんなの間柄ではなかったのよ。くっ、くくく。ところが、殿は---」
「向こうで、男がよみがえられましたか?」
「くっ、くくく---紀乃の小うるさい目がとどかなくなったことをいいことにの」
いまとなっては於紀乃も、屈託なげな口ぶりで話している。

「そのおなごとは、その後---?」
「なんでも、おんなの子を産んだげな---そうじゃ、軒猿(のきざる)の家系のむすめとかいっておったような---」
「まさか---?」
銕三郎どのから、〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)のことを聞いたとき、わちも、まさか---とおもうての」

「年齢があいませぬ」
「そのとおり」
「すると、叔母上が拙を甲府へお行かせになったのは、そのことを調べさすためと---?」
「くっ、くくく。いのごろ気がついたかの」
「伯母上。調査賃が安すぎました」
「くっ、くくく---」

久三郎正誠の勤番支配の因について、書物奉行・長谷川主馬安卿(やすあきら 50歳 150俵)から、小普請組の頭として同役だった永井監物尚方(なおかた 38歳=当時)の先走った裁断の件がかかわっていそうだと、報せてきたので、銕三郎は、それも於紀乃に質(ただし)てみた。

「叔母上。讃岐守叔父上が、勤番支配を命じられたのは、永井丹波守さまの一件が因だったのでございますか?」

_360_2
(小普請支配・長谷川久三郎正誠おとがめ)

「なにをおっしゃるッ。元文5年(1740)の初冬の、永井さまにかかわるご譴責・40日間拝謁のおとどめは、わが殿だけがうけたのではありませぬぞ。ご同役の、大岡忠四郎忠恒 ただつね 57歳=当時 2267石余)さまも、阿部伊織正甫 まさはる 39歳=当時 2000石)さまも、ほかの4人の支配の方々も、みなさまが同じご譴責をおうけなになられのです」
「小普請お支配のみなさまが全員でしたのですか?」
「そのとおり。じゃによって、わが殿が甲府に山流しになったのは、永井さまの件とはまったくかかわりがありませぬ。だいいち、永井さまにおとがめがあってから、7年もあとのの発令でした」 
「ははあ---」

ちゅうすけ注】元文5年の永井監物尚方の事件というのは、『徳川実記』のその年の10月29日の記述にたしかに、こうある。

小普請支配永井監物尚方出仕をとどめらりれ。同職大岡忠四郎忠恒、能勢市十郎頼庸(よりちか 50歳=当時 2000石)、竹中周防守定矩(さだのり 52歳 2235石)、土屋午(平)三郎正慶(まさのり 58歳=当時 1719石)、阿部伊織正甫、長谷川久三郎正誠、北条新蔵氏庸(うじつね 48歳 3400石)、御前をとどめらる。
これは、、監物尚方が所属・嶋田八十之助常政(つねまさ 18歳=当時 2000石)が采地の農民ひが事せしにより、八十之助常政がもとにて鞠問(きくもん)し、手鎖つけをきしほど、農民の親戚等・監物尚方が宅にうたえ出けるを、八十之助常政にも問いたださず裁断せし事、忽略(そりゃく)の至りなり。
かつ、その処置も得ざりしかば、この後こころ入て相はかるへし、とて、かく仰付られしなり。

ここに列記されている大岡忠四郎忠恒ほか6名の小普請支配のそれぞれの『寛政譜』にも、同文の記述が記されているから、於紀乃の主張は正しいとおもう。

江戸幕府の役人の連座の珍しい例である。

参考
_360_6
_360_4

もっとも、嶋田八十之助常政は咎めを受ける立場にないから、彼の『寛政譜』はこのことについて、一字もふれていない。

参考

_360
(島田八十之助常政の個人譜)


ちゅうすけのつぶやき】長谷川銕三郎の成長の過程で、かかわりのあったさのざまな幕臣の周囲を仔細に見ているのは、そうすることにより、幕閣のような実権をもった人たちではなく、光があたることは少ない下の層も示すことで、江戸時代の一端に触れられるとおもうからである。
ぜひ、ごいっしょに散策していただければ、うれしい。

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2008.10.05

納戸町の老叔母・於紀乃

「甲府の丹後(たんご)からの飛脚便がとどいての。銕三郎どのも知りたかろうと存じたのでな---」
納戸町の長谷川家(4070石)の老後家・於紀乃(きの 69歳)が、ほとんど歯のないふがふが声で言い、書状を示した。

_360
(長谷川一門家系図 銕三郎=宣以 於紀乃=正誠夫人)

丹後とは、於紀乃の実家・八木家(4000石)の当主で、於紀乃には甥にあたる、丹後守補道(みつみち 55歳)のことで、この10年來、甲府勤番支配(役料1000石)を勤めている。
於紀乃に言わせると、支配とは言い条、実体は「山流し」同然と。

夫・讃岐守正誠(まさざね 享年69歳)を5年前に亡くし、毎日をこともなくすごしていて退屈していた於紀乃は、銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)がたまたま話した、巨盗〔蓑火(みのひ)〕の喜之助(きのすけ 46歳)の下で女だてらに軍者(ぐんしゃ)として盗(つと)めている、〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)に興味をもった。
多い目の旅費を銕三郎に与えて甲府へ行かせたが、満足する探索結果が得られないなかったので、甥の丹後守に書簡で言いつけて、再調査を依頼したのである。

その丹後守からの書状によると、中畑村の村長(むらおさ)・庄左衛門(しょうざえもん 55歳)は、銕三郎に話した以上のことは言わなかったという。以上というより、ありようは、以下であったらしいことを、銕三郎は文面から察した。

参照】[〔中畑(なかばた)のお竜] (7) (8)

新しい報らせは、おの母・お飛佐(ひさ 47歳)の居どころがわかったことぐらいであった。
4年前から大月宿の安旅籠〔桂屋〕又兵衛の飯炊きをしながら、住まいは別に借り、村の16になるむすめと同棲している。
むすめの親が、みっとともないからと、なんども掛けあいに行っているが、むすめのほうが帰るのを拒否しているかたちであるらしい。

「な、銕三郎どの。お飛佐は、このむすめとできておるのじゃろうて。女男(おんなおとこ)は血すじのような---」
「しかし、叔母上。お飛佐はおを産んでおります。おんな同士の睦みでは、ややはできますまい」
「それがの、とつぜん、おんなのほうがよくなるものらしい。紀乃は、もう、男もおんなもわずらわしいばかりとおもうがの」

(いつわりを申されるな。拙が訪れると、生き生きとなさるくせに)
しかし、銕三郎はそのことは口にしなかった。

「どうじゃかの、銕三郎どの。も一度、甲州路を歩いてみるかの?」
「せっかくですが、初目見(おめみえ)の予備面接が近いゆえ、そのような勝手は許されませぬ」
「残念じゃのう。この紀乃には、かんがえがあるのじゃが---」
「お考えとは---?」
「安旅籠の賃金で、一戸を構えられるはずはない。おからの仕送りがあるとにらんだ。そこいらをあたれば、おの居どころもしれように」
「ご明察です。丹後守さまへそのように文をお送りになったら、いかがでしょう?」
銕三郎は、下ぶくれの顔の丹後守のしかめ面をおもいうかべながらすすめた。

「いま、したためるゆえ、町の定飛脚屋へとどけてくだされ」
さすがに、公の継飛脚へ頼めとはいわなかった。

飛脚料として元文1分金をだした。

_100
(元文1分金 『日本貨幣カタログ』より)

_120_2江戸から甲府までの普通便(4日限)の書状の定飛脚の運賃は、銀6分(約50文)であったから、銕三郎は、返り道に飯田町の飛脚屋へ立ち寄るだけで、1200文ばかりの駄賃をえたことになる。
これは、3朱と200文。まさに濡れ手に粟。

ちゅうすけ注】横井時冬『日本商業史』(大正15年刊 原書房復刻 1982.4.10)によると、『江戸定飛脚仲間定則運賃』(大坂物価表よる)は、書状1包につき、
6日限  銀2匁
7日限  銀1匁5分
8日限  銀1匁
10日限  銀6分

これから換算し、江戸-甲府の定飛脚賃を試算した。


ちゅうすけのつぶやき】長谷川銕三郎の成長の過程で、かかわりのあったさまざまな幕臣の周囲を仔細に見ているのは、そうすることにより、幕閣のような実権をもった人たちではなく、光があたることは少ない下の層も示すことで、江戸時代の一端に触れられるとおもうからである。
ぜひ、ごいっしょに散策していただければ、うれしい。

コメントをお書き込みいただけると、とりわけ、嬉しい。

コメントがないと、o(*^▽^*)oおもしろがっていただいているのやら、
(*≧m≦*)つまらないとおもわれているのやら、
まるで見当がつかず、闇夜に羅針盤なしで航海しているようなわびしさ。

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2008.10.04

ちゅうすけのひとり言(25)

このブログのタイトル[『鬼平犯科帳』Who’s Who]は、史実の長谷川平蔵宣以(のぶため)と、小説の鬼平に関係する人物事典のつもりでつけた。

だから、『寛政重修(ちょうしゅう)諸家譜』や『柳営補任(ぶにん)』、『徳川実紀』などからの引用が多く、小説一辺倒の方からは、顰蹙をかってもいる。
しかし、長谷川平蔵のほんとうの姿を見るには、そうした煩瑣もいとうわけにはいかない。

時間があったら、『寛政譜』全巻、5200余家の大名・幕臣を洗って、今川家から徳川へ移った家のリストもつくってみたいとおもっている。
いまのところ、その一覧化したファィルには、今川家と瀬名家がおさまっているだけである。

瀬名というのは、静岡市東北地区の地名ともなっている。

この瀬名には、SBS学園パルシェの〔鬼平クラス〕でともに学んでいる中林さんが住んでいる。
中林さんは、その行動力を生かして、このブログの6年前に立ち上げたぼくたちのホームページ---
[『鬼平犯科帳』の彩色『江戸名所図会』井戸掘り人のリポート]に、
「藤枝宿の探索」
[岡部宿の探索]
[島田宿の探索]
の力作を寄せていらっしゃる。

その中林さんから、クラス開講当時、西奈誌編集委員会編『西奈 わが町』という大判の資料をいただいていた。

その中に「法永(ほうえい)長者の末裔 中川本家と隠居」と題した1ページがある。
法永長者が、長谷川平蔵の祖先であることは、いまでは鬼平ファン、周知のことであろう。

法永長者が、焼津市に組みこまれている衢区の豪族であったことは、しばしば、このブログでも紹介している。
長者は今川家の重臣でもあった。

その2,3代後裔が、『鬼平犯科帳』文庫巻3の「あとがきに代えて」の冒頭で、池波さんが書いている長谷川紀伊(きの)守正長である。

今川義元が桶狭間で戦死したあと、田中城の城主として送り込まれた。
まもなく、武田信玄の大軍に攻められて、300人が城を出、浜松の徳川の麾下にはいった。
姉川の戦いに参加したのち、三方ヶ原で、正長(37歳)と弟・藤九郎(19歳)とともに討ち死にしたことも何回も記している。

そのことを念頭において『西奈 わが町』の「法永長者の末裔 中川本家と隠居」の次の文章をお読みいただきたい。

「大化の改新」の中心となった藤原鎌足(かまたり)の十七代後裔小川次郎左衛門政平は、源頼朝に仕え、その子長教(ながのり)は、下野(栃木県)から駿河国坂本村(焼津市)に移った。
さらに六代後の小川正宣は、[法永長者]と呼ばれ、志太平野を治める小川(こがわ)城を築き、今川氏親が幼年時代(竜王丸)に、相続争いで母北川殿と世話になった富豪であった。

政宣の孫、長谷川紀伊守政長は、藤枝の田中城主も兼ねたが、三方ヶ原の合戦(1572)の際、徳川家康に味方し、弟政久とともに戦死した。

三男の惣次郎は、幼かったので、瀬名の光鏡院に入り、ここで学問を修めた。田中城の「中」と小川城の「川」をとって「中川」と姓を改めて郷士となった。

その子中川惣太夫が中川家の初代となり、子孫が、代々瀬名村の庄屋や名主を継いできた名門である。
中川宗家は、明治維新以後も、村長、県会議員、郡会議員等を輩出している。

Photo
中川本家の門 『西奈 わか町』より

中川家の隠居七代目の故中川雄太郎は、版画家として知られ、静岡県文化奨励賞(昭和42年度)を受賞した。
本家十八代、当主中川芳朗は光鏡院檀家総代をつとめている。

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伝説 沼の婆さん 中川雄太郎の版画 『西奈 わが町』より

ちゅうすけ注)長谷川紀伊守の諱名を正長としているのは『寛政譜』。政長の出典は未詳。


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2008.10.03

『孫子 用間篇』(3)

銕三郎(てつさぶろう 23歳)は、なおも『孫子』[用閒篇]にとりつかれている。

凡軍之所欲攻撃、城之所欲攻、人之所欲殺、必先知其守将左右謁者門者舎人之姓名、令吾閒必索知之。

これから攻めようとしている相手の軍隊にしても、攻め落としたい城にしても、暗殺したい重臣にしても、必ず、それらを守っている者や側近たち、謁見を取りしきっている者たち、門番の面々、雑役者などの詳細---姓名を事前に調べ、こちらの間諜によく教えこみ、その者たちの性格---たとえば金銭欲の度合い、女色への強弱、不平不満の有無などを探りだすこと。

ここで、ちゅうすけは、はたと、おもいあたった。
池波さんは、戯曲から小説に転ずるに先だって、『孫子』[用閒篇]を熟読していたにちがいない---と)。

というのは、池波さんに、『鬼平犯科帳』連載の前に、忍者ものの連作がある。

年賦をくってしらべてみると、まず、1960年(昭和35)上半期の直木賞を与えられた『錯乱』(新潮文庫『真田騒動』に収録)がそうだ。
英米スパイ小説だとスリーパーものと呼ばれる系統のもので、探索先に何年も十何年も、いや、2代3代と潜伏していて、ある日突然スパイとして目をさまして活動するという仕組み。

_100池波さんの忍者ものの長篇として、ぼくたちは地方紙に連載された『夜の戦士』(角川文庫)、『週刊新潮』に連載された『忍者丹波大介』(新潮文庫)を記憶している。

_100_2池波さんに忍者もの執筆の刺激をあたえたものとして、親しかった司馬遼太郎さんの、1959年に刊行された『(ふくろう)の城』(新潮文庫)や、同じ1959年に刊行されて忍者ものブームに火をつけた山田風太郎さん『甲賀忍法帖』(講談社文庫)なども見逃せない。

ついでに記しいておくと、短編集『忍者群像』(文春文庫)も、工夫を凝らしたそれぞれの筋書きが、いかにも池波さんらしいし、このあとの『鬼平犯科帳』の白浪ものの原型としても、『孫子』[用閒篇]の応用篇としても読める。

_100_4ただ、ちゅうすけは、最近、『孫子』[用閒篇]を熟読して、池波さんはこれを『鬼平犯科帳』の密偵たちの創作に適用しているようにおもえてならないのである。

それで、造語の達人・池波さんの盗賊用語を集めてみた。
用語が執筆順につくられていった過程を並べて、考察・推理してみるのも、ファンとすれば『鬼平犯科帳』研究の一つの楽しみであろう。

真(まこと)の盗賊のモラル
 一、盗まれて難儀するものへは、手を出さぬこと。
 一、つとめをするとき、人を殺傷せぬこと。
 一、女を手ごめにせぬこと。
           [1-4 浅草・御厩河岸]
仕事(つとめ)   [1-4 浅草・御厩河岸]

狗(いぬ)      [1-1 唖の十蔵]
勘ばたらき     [1-1 唖の十蔵]
手びき       [1-1 唖の十蔵]
急ぎ盗(ばたらき) [1-3 血頭の丹兵衛]
急ぎ仕事      [1-3 血頭の丹兵衛]
お盗(つとめ)    [1-3 血頭の丹兵衛]
かための盃     [1-3 血頭の丹兵衛]
盗賊宿       [1-5 老盗の夢]
盗(つとめ)ざかり  [1-5 老盗の夢]
鼠盗(ねずみばたらき)[1-5 老盗の夢]
遠国盗(おんごくづとめ)[1-5 老盗の夢]
急場の盗(つとめ) [1-5 老盗の夢]
つとめやすみ    [1-5 老盗の夢]
泥棒稼業(しらなみ)[1-5 老盗の夢]
盗(おつとめ)    [1-5 老盗の夢]
盗金(つとめがね) [1-5 老盗の夢]
貸しばたらき     [1-7 座頭と猿]
色事(いろごと)さわぎ[1-5 座頭と猿]

おさめ金(がね)) [2-6 お雪の乳房]

首領(かしら)   [3-2 盗法秘伝]
盗人宿       [3-2 盗法秘伝]
お目あて細見   [3-2 盗法秘伝]
女盗(にょとう)   [3-3 艶婦の毒]

引きこみ      [4-2 五年目の客]
ならび頭(がしら)  [4-7 敵]

支度金(したくがね)[5-2 乞食坊主]
盗金(あがり)    [5-3 女賊]
押し込み      [5-4 おしゃべり源八]
ひとりばたらき    [5-5 兇賊]

狐火札       [6-4 狐火]
連絡(つなぎ)    [6-4 狐火]
蝋型(ろうがた)錠前[6-4 狐火]

隠居金(いんきょがね)[7-2 隠居金七百両]
助(すけ)ばたらき  [7-3 はさみ撃ち]
女だまし       [7-3 はさみ撃ち]
現役(いきばたらき)[7-3 はさみ撃ち]
流れ盗(づと)め  [7-3 はさみ撃ち]
たらしこみ      [7-4 掻堀のおけい]
ききこみ       [7-4 掻堀のおけい]
盗み細工      [7-5 泥鰌の和助始末]

独(ひと)りばたらき[10-1犬神の権三]
盗(つと)めばたらき[10-1犬神の権三]
密偵(てのもの)  [10-1犬神の権三]
こそこそ盗(つと) [10-5むかしなじみ]

嘗役(なめやく)  [12-7二人女房]

ながれづとめ    [14-2尻毛の長右衛門]
固めの盃(さかずき)[14-2尻毛の長右衛門]
口合人(くちあい) [14-2尻毛の長右衛門]

鍵師(かぎし)   [15-1赤い空]
畜生ばたらき    [15-1赤い空]
蝋型(ろうがた)  [15-1赤い空]

盗金(ぬすみがね) [16-1影法師]
嘗帳(なめちょう)  [16-3白根の万左衛門]

ひとり盗(づと)め  [18-2馴馬の三蔵]

引退金(ひきがね) [21-5春の淡雪]
盗(つと)め人(にん)[21-2瓶割り小僧]

これらの用語---「盗(つと)めばたらき」を「忍びばたらき」のごとくに、「盗み」を「忍び」に置きかえ、閒者と共通するものを探してみるのも一興である。

ちゅうすけ注】「忍びばたらき」の一例は、『忍者群像』収録の[<[寝返り寅松]]p86。

ちゅうすけのつぶやき】長谷川銕三郎の成長の過程で、かかわりのあったさのざまな幕臣の周囲を仔細に見ているのは、そうすることにより、幕閣のような実権をもった人たちではなく、光があたることは少ない下の層も示すことで、江戸時代の一端に触れられるとおもうからである。
ごいっしょに散策していただければ、うれしい。

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2008.10.02

『孫子 用間篇』(2)

竹中先生ッ!」
雪駄(せった)を脱ぐのももどかしげに、銕三郎(てつさぶろう 23歳)が、教場の間へ飛びこんできたのを、読んでいた儒書から目をあげた竹中志斎(しさい 60歳)師が、とがめるように見据えた。
長谷川。騒々しいぞ。なにごとか?」

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「先生ッ。解けましたッ! 祝い酒ですッ、やりましょう!」
「落ちつけ。なにが解けたのじゃ?」
「[用間篇]ですッ! 『孫子』ですッ!」
「貸した『孫子』の[虚実篇]は、先日、戻してもらったが---?」
「違うんです。父から借りた[用間篇 第13]です」

志斎師は、銕三郎がどんと畳に置いた徳利を目にとめ、とりあえず、賄(まかな)いの老婆へ声をかけた。
「お種さんよ。酒の肴をつくってしてくれ。するめか小肴の陽干しを焼いたのでいいから---」
酒は志斎師の大好物である。

銕三郎は、自筆の[用間]の解義と、原文を師の文机に並べた。

因閒(いんかん)有り。内閒(ないかん)有り。 反閒(はんかん)有り。 死閒(しかん)有り。 生閒(せいかん)有り。 五閒倶(とも)に起こりて、其の道を知ること莫(な)きは、是(こ)れを神起(じんき)と謂(い)う。人君(じんくん)の葆(たから)なり。生閒とは、反(かえ)り報ずる者なり。因閒とは、其の郷人(きょうじん)に因(よ)りて用うる者なり。内閒とは---(以下略)

こちらは、銕三郎の解義である。

「間者には、5つの用い方がある。
以前からその地に住んでいる者を諜報者として取りこんだ間者を[因j間(いんじゃ)]という。
買収されたり、色仕かけで転んだ相手国の官吏が[内間(ないかん)]である。
相手国の間者に偽のネタをつかませるて逆利用すれば[反間(はんかん)]となる。
亡命を装って相手方へガセネタを売り込んむのを[死間(しかん)]というのは、いずれガセネタと判明されれば殺されるからである。
相手方へ侵入して情報をさぐりとり、無事に戻ってきてつぶさに告げる隠密が[生間(せいかん)]である」

長谷川。このくだりが抜かしてあるが---?」
志斎師が指摘した。

(有因閒 有内閒 有反閒 有死閒 有生閒) 五閒倶起 莫知其道 是謂神起人君の葆也

「間者同士が、お互いをしらないように相隔(へだ)てておけ---という意でございましょう? それはいいのです」
「どうも、長谷川の言っていることは、よう、分からん」
武田信玄公の軒猿(のきざる)たち、乱波(らっぱ)たちの使いようが見えてきたのです」

杯を置い志斎師がしみじみと言った。
長谷川は、自分が好きなことになると目がないからのう。儒学でも、このように熱が入るといいのじゃが---」
「先生。自分が好きなことをすすんでやり、それで伸びるのは、だれにとってもいいことではありませぬか?」
「それはそうじゃが、好きなことばかりやってはいられないのが世の中というものでな」
「先生は、儒学がお好きなのでございましょう?」
「儒学は好きじゃが、お前たちを教えるのが苦痛なのじゃ。はっ、ははは」
「申しわけもございませぬ。はっ、ははは」

いいご機嫌で帰ってきた銕三郎に、母・(たえ 43歳)が告げた。
「納戸町の於紀乃叔母どのから、明日にでも、立ちよってはくれまいか、と---」
「なにごとでございましょう?」
「使いの者は、しらなげでしたよ」
 
部屋へ戻っても、銕三郎がすることは、『孫子』[用間篇]のつづきの解義をつづけるだけであった。

王侯や将軍がもっとも親密にしなければならたいのは間諜である。また、報償ももっとも厚くすべきである。報告もきわめて秘密裡にうけること。
報告をうける側---王侯や将軍は、冷静かつ透徹した分析力をもっていないと、間諜の使い方を誤ろう。
おもいやりがなければ、間諜もその気になって働かない。
報告の中からことの軽重・真虚を選(よ)りわける判断力がなければ間諜を使っている意味がない。
それほどに、間諜の使い方、接し方、統率の仕方はむずかしい。
もし、間諜にすすめさせている秘密事項がほかの者に洩れたら、かかわったものはすべて死罪にして秘密をまもらなければならない。

故三之親、莫親於閒、賞莫厚於閒、事莫密於閒。非聖不能用閒、非仁不能使閒。非微妙不能得閒之実。密哉密哉 母所不用閒也。閒事未発閒、閒与所告者、皆死。

_100
信玄公や右府信長)公は、軒猿(のきざる)や細作(さいさく)たちに厚い恩賞を与えていたろうか?)
(〔蓑火みのひ)〕の喜之助(きのすけ 46歳)は、〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)にどれほどの分け前をわたしているのであろうか?)

参照】[〔中畑(なかばたけ)〕のお竜〕 (1)  (2) (3) (4) (5)  (6) (7)

ちゅうすけのつぶやき】長谷川銕三郎の成長の過程で、かかわりのあったさのざまな幕臣などの周囲を仔細に見ているのは、そうすることにより、幕閣のような実権をもった人たちではなく、光があたることは少ない下層の幕臣たちの生きざを示すことで、江戸時代の一端に触れられるとおもうからである。
ごいっしょに散策していただければ、うれしい。

コメントをお書き込みいただけると、とりわけ、嬉しい。

コメントがないと、o(*^▽^*)oおもしろがっていただいているのやら、
(*≧m≦*)つまらないとおもわれているのやら、
まるで見当がつかず、闇夜に羅針盤なしで航海しているようなわびしさ。

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2008.10.01

『孫子 用間篇』

「父上。武田方から東照宮さまに召された家柄で、お親しい方はおられませぬか?」
夕餉(ゆうげ)のあと、茶をすすりなから、息子の銕三郎(てつさぶろう 23歳)が、父・平蔵宣雄(のぶお 50歳)に尋ねた。
庭は暮れなずんでおり、風もないのに桜花が散っている。

甲州方からの方々でのう---」
宣雄は、先手・弓の組頭から、順番におもいうかべはじめた。
自分は、8番手・与力5騎、同心30人を預かっている。

顔、本国、本姓をおもいうかべては、消していく---。

弓1  松平源五郎乗道(のりみち 300俵)
弓2  赤井越前守忠晶(ただあきら 1400石)
弓3  堀 甚五兵衛信明(のぶあき 1000石)
弓4  菅沼主膳正虎常(とらつね 700石)
弓5  能勢助十郎頼寿(よりひさ 300俵)
弓6  遠山源兵衛景俊(かげとし 400石)
弓7  長谷川太郎兵衛正直
弓9  橋本阿波守忠正(ただまさ 300俵)

ついに、いた!

弓10  石原惣左衛門広通(ひろみち 475石)

_360_4
_360_6

石原どの(60歳)がおられるが---」
銕三郎は、父の相変らずの精密な記憶力に感心しながら、
「甲州軍団では、どの隊に属しておられたのでしょう?」
「さあ。なにしろ、200年も昔のことゆえなあ。軍記もの講釈師あたりなら存じおろうかの---いや、待て。いつであったか、芦田右衛門佐どのの信州先方衆の組頭だったと伺ったことがあるような」
「信州先方衆---芦田勢だと、佐久あたりのお方でしょうか?」

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』文庫巻8[明神の次郎吉]で、下諏訪から江戸へ向かう次郎吉(じろきち)は笠取峠の古たぬきと自称するが、その峠を江戸側へくだると芦田宿。

26360
(広重『木曾海道六十九次』笠取峠の松並木 峠の手前が芦田宿)

_100「どうかな? それはそうと、(てつ)は、何用があっての武田方調べかな?」
信玄公が座右からお離しにならなかった『孫子』について---」
「『孫子』のどの篇かの?」
銕三郎は、ちょっといいよどんだが、はっきりと、
「[用間]でございます」
「[用間]といえば、間者遣いの極意を説いた篇であったな。それをどうしたいのか?」
「読みたいのです」
「おろかなことを。大権現さまが公けの手で『武芸七書』を刊行されておる。番方(武官系)の家は、ほとんど蔵しておる」
「わが家にもでございますか?」
「とうぜん、ある。どこかにしまっておる」
(浅野裕一さん『孫子』講談社学術文庫)

武芸七書』には、『孫子』『呉子』『司馬法』『尉繚子(うつりょうし)』『李衛公問対』『三略』『六鞱(りくとう)』がふくまれる。

宣雄は、非番の日にでも納戸を探してみる、と言ったあと、
。[用間篇]じゃがな。初目見(おめみえ)の予備面接には出ないから、のめりこむでないぞ」
「さきほど、ご公儀が『武芸七書』を刊行されたとおっしゃいましたが---」
「ご公儀ではない。公刊なされたのは大権現さまじゃ。[用間篇]は別じゃ。読めば分がるが、詐術まがいのことをすすめておるゆえ、王道こそが尊い道とおもうておる儒家たちが、覇道というてきらう」

つまり、徳川家康も、間者(かんじゃ 諜報者 スパイ)をフルに活用していたということであろう。

父・宣雄が渡してくれた『武家七書』を自分の部屋へ持ち帰るが早いか銕三郎は、長谷川主馬安卿(やすあきら 50歳 150俵)に教わった、『孫子』の[用閒篇]を、もどかしげに探した。

「理をわきまえた王侯や戦略にも長(た)けた将軍たちが、つねに勝利を手するのは、諜報への配慮が万全だからである」と前書きの次に書かれている、「間者を用いる5つの法」を読むにおよび、飛び上がらんばかりに狂喜した。
じっさいに、無意識のうちに、文机をたたき、腕を突き上げていたのである。

「間者には、5つの用い方がある。
以前からその地に住んでいる者を諜報者として取りこんだ間者を[因閒(いんかん)]という。
買収されたり、色じかけで転んだ相手国の官吏が[内閒(ないかん)]である。
相手国の間者に偽のネタをつかませるて逆利用すれば[反閒(はんかん)]となる。
亡命を装って相手方へガセネタを売り込むのを[死閒(しかん)]というのは、いずれガセネタと判明されれば殺されるからである。
相手方へ侵入して情報をさぐりとり、無事に戻ってきてつぶさに告げる隠密が[生閒(せいかん)]である」

こう書きしたためた銕三郎は、その手控え帳と『武家七書』をあわただしくつかみ、途中の酒屋で徳利いっぱいの酒をあがない、北森下町の学而塾に竹中志斎(しさい)師のもとへ、走るようにいそいだ。

ちゅうすけのつぶやき】長谷川銕三郎の成長の過程で、かかわりのあったさjまざまな幕臣の周囲を仔細に見ているのは、そうすることにより、幕閣のような実権をもった人たちではなく、光があたることは少ない下の層も示すことで、江戸時代の一端に触れられるとおもうからである。


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