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2008.10.16

ちゅうすけのひとり言(26)

[納戸町の老叔母・於紀乃 2](2008年10月6日)で、時の小普請組支配全員を譴責処分にまきこんだ、第4組の支配・長井丹波守尚方(ひさかた 38歳=当時 3030石)事件について、簡単にふれた。

事件そのものは、元文5年(1740)10月29日の『徳川実紀』を引用しておいたが、再録すると、永井丹波守の組下・嶋田八十之助常政(つねまさ 18歳)の知行地(武蔵国入間郡下浅羽村か?)の農民の男に、盗みか博打かの犯行があり、嶋田家では男を逮捕、手鎖にして吟味をすすめていた。
ところが、働き手の男の留置が長引いたため、親戚一統が、組支配の永井丹波守に、早期判決を陳情した。永井家は、その訴求をもっともと判断し、嶋田家に問いあわすことなく、裁決をしてしまった。

第一次裁判権は知行主にあることになっているのに、組支配が裁決したのは越権と幕府は断じ、同輩たちも意見を出さなかったのは怠慢とみなしたのである。

いや、永井丹波守が、間違って仕事をする気になったのが、裏目にでたともいえる。

まあ、それほど、小普請組支配の大身旗本というのは、不勉強というか、のんびりしていたために、一罰百戒の意味で、全員を拝謁ご遠慮の処分にしたのであろうと類推しているのだが。
ま、当事者の永井丹波守以外の7名にしてみれば、多分にとばっちりの感であったろう。

とばっちりをうけた支配を組順に並べると、、

第1組 大岡忠四郎忠恒(ただつね 57歳 2267石)
第2組 阿部伊織正庸(まさはる 39歳 2000石)
第3組 能勢市十郎頼庸(よりもち 50歳 2000石)
第5組 竹中周防守定矩(さだのり 52歳 2235石)
第6組 土屋平三郎正慶(まさのり 58歳 1719石)
第7組 長谷川内蔵助正誠(まさざね 45歳 4050石)
第8組 北条新蔵氏庸(うじつね 48歳 3400石)
     (年齢は元文5年=当時)

となる。

これを、組支配への発令年月日順(在職の期間順)に並べかえると、

享保16年(1731) 8月15日 大岡忠四郎忠恒
享保19年(1734)10月8日  能勢市十郎頼庸
享保20年(1735)6月11日  竹中周防守定矩
元文4年(1736)2月3日   土屋平三郎正慶
元文4年(1736)10月15日  阿部伊織正庸
元文5年(1740)2月28日   長谷川内蔵助正誠
元文5年(1740)6月6日   北条新蔵氏庸 

これは、『徳川実紀』の記載順と一致する。
要するに、先任順ということで、徳川幕府においては、原則的には、同職位の場合は、禄高や年齢ではなく、先任者を上位とみなすしきたりであったということ。
江戸城内での席順も、先任順であったのであろう。

この儀礼的しきたりは、今日の官庁では入省年次として、厳然とのこっているようにおもう。

さて、とばっちり組7名全員にたいする40日間の拝謁のさしひかえは、その後の昇進に影響があっかどうか、全員の『寛政譜』を記録のために掲出するので、銘々の咎め文と次ぎなる任地を、お確かめのほどを。
いまの役人の一罰百戒の譴責処分も似たようなものかも。


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大岡忠四郎忠恒の個人譜)


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能勢市十郎頼恒の個人譜)


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竹中周防守定矩の個人譜)


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土屋平三郎正慶の個人譜)


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阿部伊織正甫の個人譜)


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長谷川内蔵助正誠の個人譜)


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北条新蔵氏庸の個人譜)

ついでだから、事件の主の永井丹波守尚方の『個人譜』を再録しておこう。

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当時の小普請組支配は8名で、うち2名が甲府勤番支配に任じてられていた。
つまり、勤番支配も同罪とみなされて、処分をうけた。
勤番支配は任地にあり、永井丹波守に意見をいう物理的距離にいなかったと異議をいうのは、現代人でありすぎる。

ちなみに、この譴責の当時(元文5年=1740年)、長谷川久三郎(内蔵助)正誠は、勤番支配ではなかった。正誠が勤番支配に任じられたのは7年後の、延享4年(1747。この前年、第2長谷川家では銕三郎が生まれていた)である。


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