『孫子 用間篇』(2)
「竹中先生ッ!」
雪駄(せった)を脱ぐのももどかしげに、銕三郎(てつさぶろう 23歳)が、教場の間へ飛びこんできたのを、読んでいた儒書から目をあげた竹中志斎(しさい 60歳)師が、とがめるように見据えた。
「長谷川。騒々しいぞ。なにごとか?」
「先生ッ。解けましたッ! 祝い酒ですッ、やりましょう!」
「落ちつけ。なにが解けたのじゃ?」
「[用間篇]ですッ! 『孫子』ですッ!」
「貸した『孫子』の[虚実篇]は、先日、戻してもらったが---?」
「違うんです。父から借りた[用間篇 第13]です」
志斎師は、銕三郎がどんと畳に置いた徳利を目にとめ、とりあえず、賄(まかな)いの老婆へ声をかけた。
「お種さんよ。酒の肴をつくってしてくれ。するめか小肴の陽干しを焼いたのでいいから---」
酒は志斎師の大好物である。
銕三郎は、自筆の[用間]の解義と、原文を師の文机に並べた。
因閒(いんかん)有り。内閒(ないかん)有り。 反閒(はんかん)有り。 死閒(しかん)有り。 生閒(せいかん)有り。 五閒倶(とも)に起こりて、其の道を知ること莫(な)きは、是(こ)れを神起(じんき)と謂(い)う。人君(じんくん)の葆(たから)なり。生閒とは、反(かえ)り報ずる者なり。因閒とは、其の郷人(きょうじん)に因(よ)りて用うる者なり。内閒とは---(以下略)
こちらは、銕三郎の解義である。
「間者には、5つの用い方がある。
以前からその地に住んでいる者を諜報者として取りこんだ間者を[因j間(いんじゃ)]という。
買収されたり、色仕かけで転んだ相手国の官吏が[内間(ないかん)]である。
相手国の間者に偽のネタをつかませるて逆利用すれば[反間(はんかん)]となる。
亡命を装って相手方へガセネタを売り込んむのを[死間(しかん)]というのは、いずれガセネタと判明されれば殺されるからである。
相手方へ侵入して情報をさぐりとり、無事に戻ってきてつぶさに告げる隠密が[生間(せいかん)]である」
「長谷川。このくだりが抜かしてあるが---?」
志斎師が指摘した。
(有因閒 有内閒 有反閒 有死閒 有生閒) 五閒倶起 莫知其道 是謂神起人君の葆也
「間者同士が、お互いをしらないように相隔(へだ)てておけ---という意でございましょう? それはいいのです」
「どうも、長谷川の言っていることは、よう、分からん」
「武田信玄公の軒猿(のきざる)たち、乱波(らっぱ)たちの使いようが見えてきたのです」
杯を置い志斎師がしみじみと言った。
「長谷川は、自分が好きなことになると目がないからのう。儒学でも、このように熱が入るといいのじゃが---」
「先生。自分が好きなことをすすんでやり、それで伸びるのは、だれにとってもいいことではありませぬか?」
「それはそうじゃが、好きなことばかりやってはいられないのが世の中というものでな」
「先生は、儒学がお好きなのでございましょう?」
「儒学は好きじゃが、お前たちを教えるのが苦痛なのじゃ。はっ、ははは」
「申しわけもございませぬ。はっ、ははは」
いいご機嫌で帰ってきた銕三郎に、母・妙(たえ 43歳)が告げた。
「納戸町の於紀乃叔母どのから、明日にでも、立ちよってはくれまいか、と---」
「なにごとでございましょう?」
「使いの者は、しらなげでしたよ」
部屋へ戻っても、銕三郎がすることは、『孫子』[用間篇]のつづきの解義をつづけるだけであった。
王侯や将軍がもっとも親密にしなければならたいのは間諜である。また、報償ももっとも厚くすべきである。報告もきわめて秘密裡にうけること。
報告をうける側---王侯や将軍は、冷静かつ透徹した分析力をもっていないと、間諜の使い方を誤ろう。
おもいやりがなければ、間諜もその気になって働かない。
報告の中からことの軽重・真虚を選(よ)りわける判断力がなければ間諜を使っている意味がない。
それほどに、間諜の使い方、接し方、統率の仕方はむずかしい。
もし、間諜にすすめさせている秘密事項がほかの者に洩れたら、かかわったものはすべて死罪にして秘密をまもらなければならない。
故三之親、莫親於閒、賞莫厚於閒、事莫密於閒。非聖不能用閒、非仁不能使閒。非微妙不能得閒之実。密哉密哉 母所不用閒也。閒事未発閒、閒与所告者、皆死。
(信玄公や右府(信長)公は、軒猿(のきざる)や細作(さいさく)たちに厚い恩賞を与えていたろうか?)
(〔蓑火(みのひ)〕の喜之助(きのすけ 46歳)は、〔中畑(なかばたけ)〕のお竜(りょう 29歳)にどれほどの分け前をわたしているのであろうか?)
【参照】[〔中畑(なかばたけ)〕のお竜〕 (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7)
【ちゅうすけのつぶやき】長谷川銕三郎の成長の過程で、かかわりのあったさのざまな幕臣などの周囲を仔細に見ているのは、そうすることにより、幕閣のような実権をもった人たちではなく、光があたることは少ない下層の幕臣たちの生きざを示すことで、江戸時代の一端に触れられるとおもうからである。
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コメント
おもしれー!!!
ってのが、昭和の名船頭のひとり、悪漢政の
口癖でございました。。。真似してみました。
投稿: えいねん | 2008.10.02 02:21
>einen さん
盗賊側の間者(情報将校とスパイ 嘗め役など)と、火盗改メ側の隠密、密偵の情報戦もあったとおもうのです。
それを、もっともらしく、考えてみています。
ご声援、身にしみます。
投稿: ちゅうすけ | 2008.10.02 03:20
投稿: tomoko | 2008.10.02 04:49