ちゅうすけのひとり言(25)
このブログのタイトル[『鬼平犯科帳』Who’s Who]は、史実の長谷川平蔵宣以(のぶため)と、小説の鬼平に関係する人物事典のつもりでつけた。
だから、『寛政重修(ちょうしゅう)諸家譜』や『柳営補任(ぶにん)』、『徳川実紀』などからの引用が多く、小説一辺倒の方からは、顰蹙をかってもいる。
しかし、長谷川平蔵のほんとうの姿を見るには、そうした煩瑣もいとうわけにはいかない。
時間があったら、『寛政譜』全巻、5200余家の大名・幕臣を洗って、今川家から徳川へ移った家のリストもつくってみたいとおもっている。
いまのところ、その一覧化したファィルには、今川家と瀬名家がおさまっているだけである。
瀬名というのは、静岡市東北地区の地名ともなっている。
この瀬名には、SBS学園パルシェの〔鬼平クラス〕でともに学んでいる中林さんが住んでいる。
[『鬼平犯科帳』の彩色『江戸名所図会』]井戸掘り人のリポート]に、
「藤枝宿の探索」
[岡部宿の探索]
[島田宿の探索]
の力作を寄せていらっしゃる。
その中林さんから、クラス開講当時、西奈誌編集委員会編『西奈 わが町』という大判の資料をいただいていた。
その中に「法永(ほうえい)長者の末裔 中川本家と隠居」と題した1ページがある。
法永長者が、長谷川平蔵の祖先であることは、いまでは鬼平ファン、周知のことであろう。
法永長者が、焼津市に組みこまれている衢区の豪族であったことは、しばしば、このブログでも紹介している。
長者は今川家の重臣でもあった。
その2,3代後裔が、『鬼平犯科帳』文庫巻3の「あとがきに代えて」の冒頭で、池波さんが書いている長谷川紀伊(きの)守正長である。
今川義元が桶狭間で戦死したあと、田中城の城主として送り込まれた。
まもなく、武田信玄の大軍に攻められて、300人が城を出、浜松の徳川の麾下にはいった。
姉川の戦いに参加したのち、三方ヶ原で、正長(37歳)と弟・藤九郎(19歳)とともに討ち死にしたことも何回も記している。
そのことを念頭において『西奈 わが町』の「法永長者の末裔 中川本家と隠居」の次の文章をお読みいただきたい。
「大化の改新」の中心となった藤原鎌足(かまたり)の十七代後裔小川次郎左衛門政平は、源頼朝に仕え、その子長教(ながのり)は、下野(栃木県)から駿河国坂本村(焼津市)に移った。
さらに六代後の小川正宣は、[法永長者]と呼ばれ、志太平野を治める小川(こがわ)城を築き、今川氏親が幼年時代(竜王丸)に、相続争いで母北川殿と世話になった富豪であった。
政宣の孫、長谷川紀伊守政長は、藤枝の田中城主も兼ねたが、三方ヶ原の合戦(1572)の際、徳川家康に味方し、弟政久とともに戦死した。
三男の惣次郎は、幼かったので、瀬名の光鏡院に入り、ここで学問を修めた。田中城の「中」と小川城の「川」をとって「中川」と姓を改めて郷士となった。
その子中川惣太夫が中川家の初代となり、子孫が、代々瀬名村の庄屋や名主を継いできた名門である。
中川宗家は、明治維新以後も、村長、県会議員、郡会議員等を輩出している。
中川本家の門 『西奈 わか町』より
中川家の隠居七代目の故中川雄太郎は、版画家として知られ、静岡県文化奨励賞(昭和42年度)を受賞した。
本家十八代、当主中川芳朗は光鏡院檀家総代をつとめている。
伝説 沼の婆さん 中川雄太郎の版画 『西奈 わが町』より
(ちゅうすけ注)長谷川紀伊守の諱名を正長としているのは『寛政譜』。政長の出典は未詳。
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コメント
投稿: tomoko | 2008.10.04 05:09
>tomoko さん
連日のお天気マーク、雪だるまマーク、ありがとうございます。
読んでいただいているのだとわかると、勇気が湧いてきます。
こんごとも、よろしくお願いします。
投稿: ちゅうすけ | 2008.10.04 07:56