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2008.09.15

本多作四郎玄刻(はるとき)

本多も、元服名(諱 いみなとも言う)が、かの、勇猛・忠勝(ただかつ)ご先祖のように「」で始まるとか、知恵者・正信(まさのぶ)老のように「」が頭にきていればたいした家柄ですが、小生のように、(げん)がついていては、まさに、幻滅・泡沫の本多であります。甲府勤番で塩漬けがつづいておりますが、諸兄のお引きたてで、早く帰府がかない、山猿どもからの餞別の勝ち栗をもって、この集いに出席がかないますよう---」

寛延元年(1748)4月3日に、先代の遺跡を継ぐことをゆるされた16人のうちの有志でつくった〔初卯の集い〕の最初の会食の夜、本多作四郎玄刻(はるとき 17歳=当時 200俵)の自己紹介である。

この、巧みに冗談を織りこんだあいさつに、平蔵宣雄(のぶお 30歳=当時)が「かなわない」と感じたことは、すでに述べた。
人に好かれる才能ともいえる。

参照】本多作四郎玄刻 2008年6月30日[平蔵宣雄の後ろ楯] (15) (16)

銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)が、このたび、甲府へきて逢った感じでも、目鼻が寄っていてその分、額が広く、いわゆる童顔が37歳までのこっており、人なつっこげな面体で、人びとに警戒心をもたせない風貌の持ち主であることを確認した。

ちゅうすけも、本多作四郎については、あれこれ考察している。
もちろん、ちゅうすけ作四郎観は、銕三郎とは別で、甲府勤番が3代つづた家の仁としてである。

中道往来の中畑村の探索から七ッ(午後4時)に甲府へ帰ってきたきょうも、作四郎は、昨日につづいて、銕三郎が宿泊している柳町通りの旅籠〔佐渡屋〕にあがりこんだ。

銕三郎は、寅松(とらまつ 17歳 掏摸(すり))を帳場へ行かせて、夕餉(ゆうげ)を頼ませた。
とうぜん、酒もいいつけた。
作四郎は、あたりまえのような顔で、盃を口にしている。

丹念に読んでいらっしゃるあなたのことゆえ、昨日、作四郎が同じこの部屋で、銕三郎に、
「自宅に招きたいのだが、後妻が臨月に近いので---」
と断った言葉に目をおとめになったはず。

いや、2008年6月30日[平蔵宣雄の後ろ楯](15)に掲げた彼の『個人譜』で、再婚している記録に目ざとく注視なさったかもしれない。

赤傍線を引き直して再掲する。

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(本多作四郎玄刻の2人の妻と息・玄仲の2人の妻)

最初の妻君は、やはり、勤番が2代目の加藤又八郎長清(ながきよ 59歳=明和5年 200俵)の長女---ということは、甲府生まれとみてよかろう。
同じ組屋敷で育ち、恋が実ったと書けば小説だが、残念、作四郎はお濠の脇の廓外裏佐渡町の組屋敷、勤番着任が遅れた加藤家が入った組屋敷は、これも廓外だが納戸町(現・甲府市北口)だったから、10丁(ほぼ1km)は離れていた。

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(甲府城下 青〇 左下=裏佐渡町 右上=納戸町 太白帯=甲州路
『甲州道中分間延絵図』解説篇より)

作四郎の17歳は、遺跡継承、とうぜん、嫁取りは早い。
そのときを18歳と仮定すると、寛延2年(1749)、舅・加藤又八郎は40歳---長女は18歳前後であったろう。
当時のむすめとしては、適齢期である。

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(加藤又八郎長清とその長女)

結婚してまもなく、嫡男・作十郎が産まれた。明和5年(1768)には19歳。
離婚の理由は不明だが、実家へ帰ってのち、武蔵孫次郎秀直(ひでなお 42歳=明和5年 220石)に嫁ぎ、『寛政譜』の記述にしたがうと「また、棄(すて)られる」

小説的な妄想を書くと、武蔵孫次郎は勤番としては2代目で、家督は遅くて35歳の遺跡継承。それまで妻帯していなかったふう。屋敷は作四郎とおなじ裏佐渡町だから、作四郎との離婚は、孫次朗との不倫とか。
まさか。
不倫が原因でないとしても、元夫・作四郎の家と同じ組屋敷へ再婚したのでは、顔が合うこともあったかも。このあたりも小説なら、書いてみるところ。

孫次郎は、「彼女を棄て」たのちは、正式には再婚していない。

本多作四郎の後妻は、同じ裏佐渡町の組屋敷に住む渡辺善四郎清(きよし 49歳 200石)の養女---というのは、善四郎の祖父の弟---つまり大叔父のむすめ。
嫁入りは20歳すぎか。

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(渡辺善三郎清とその養女たち)

臨月なのは、2人目の子。

この後妻の姉も、再婚して「棄てられ」ている。
再婚女性の離婚を、「棄てる」と書くのが『寛政譜』の常用用語なのかどうかは、まだ、あたっていない。
調べるとなると、加藤家渡辺家が幕府に呈出したオリジナル「先祖書」を、国立公文書館で借り出して、どう書いていたかまで見分しないといけない。
これをはじめ、ブログ3つをこなしているいまは、そんな時間がとれそうもない。

しかし、この用語法にドラマを感じるとともに、甲府勤番という狭い社会の中での人間模様を汲みとるのは、ちゅうすけの妄想癖が強すぎるからであろうか。
手元の『寛政譜』で、30~50家をあたってみると、きっとおもしろいドラマが見つかりそうな気もする。

甲府市の図書館ものぞいてみたくなってきた。


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