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2008年11月の記事

2008.11.30

三方ヶ原の長谷川紀伊(きの)守正長

長谷川家今川方から徳川家康の傘下に入った経緯(いきさつ)と、三方ヶ原の合戦で戦死したことは、もう、何回も書いている。

参照】2008年06月12日~[ちゅうすけのひとり言] (13) (14) (16) (17)
2007年4月6日[寛政重修諸家譜] (2)
[長谷川紀伊守正長の「於馬先」戦死をめぐる往復書簡
[三方ヶ原で戦死した長谷川紀伊守正長

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諏訪左源太頼珍(よりよし 62歳=明和5年 2000石)がらみで、新田次郎さん『武田信玄』(文春文庫)を読んでいることも、すでに報じた。
その『山の巻』に、三方ヶ原の合戦についてのおもしろい話が目にとまったので、転載してみる。

二股城を開城させた武田軍は、軍議に入った。
元亀3年12月18日(旧暦)のことである。

要点は次のごとくであったという。


(一) 浜松城を包囲して、持久戦に持ちこむことこそ当を得た戦法である。その理由として、
  (1)織田信長は現在約三千の兵を援軍として出して来ている。
     北近江の小谷城で、浅井、朝倉を相手に戦っている信長は
     これ以上の兵は出せない。
  (2)信長がこれ以上の援軍を寄こさないかぎり、
     包囲すれば、浜松城は必ず落ちる。
(ニ) 浜松城を包囲して、家康が降伏するのを待っていないで、このまま西上の軍を進めて、三河を攻撃すべきでる。その理由として、
  (1)三河を攻略すれば家康は事実上孤立する。
  (2)一路小谷城目ざして進軍して浅井、朝倉と力を合わせて
    信長を打ち破る。

これに対して、勝頼(27歳)が、家康(32歳)を浜松城からおびきだして叩く方法はないかと、提案した。
その具体策を信玄(52]歳)が求めたとき、真田昌幸(まさゆき 26歳)が、

「勝頼様のお申し様に賛成いたします。その策については、勝頼様かねてからのお考えのうちから、それがしが存じておりまするものの一つ二つを申し上げたいと思います。よろしゅうございますか」

と言ったというのである。
昌幸が説明した案は、武田軍が祝田村へ宿営するとみせかければ、家康は討ってでてくるから、反転して包み込んで撃滅するという、諸書の三方ヶ原戦記のとおりのものであるから、案そのものはどうでもいい。

「うまい」と、新田次郎さんに拍手を送ったのは、
「勝頼様かねてよりお考えの---」
と勝頼に花をもたせた言いようである。

これが、作家の創作であることは、間違いなかろう。
しかし、公務員として長く勤めた新田さんの、職場での自説の述べ方であったろうとも推測できる。
こういうもの言いをしているかぎり、敵はできまい。

武田信玄』4巻の、最高のヶ所と感心した。

なお、新田さんは、西上に参陣した武田側の勢力を、『甲陽軍鑑』から次のように引いている。

先衆七手 山県昌景(八百七十騎)、内藤昌豊(三百七十五騎)、小山田信茂、小幡信貞(五百騎)、真田信綱、高坂虎綱(八百騎)、馬場信春

二の手 勝頼、武田信豊、武田信光(信虎の庶子、上野介信友の子左衛門佐信光)、穴山信君、土屋昌次、望月信雅(信豊の弟)、跡部勝資
右脇備 小山田昌行 小宮山昌友、栗原左兵衛、今福丹波
左脇備 原隼人、相木市兵衛、安中左近、駒井右京(昌直)

これが、三方ヶ原での魚鱗の陣では、

最前線が小山田信茂隊、二列目の左翼が馬場信春隊、右翼が山県昌景隊。第三列の予備隊の左翼が内藤昌豊、右翼が武田勝頼。そして第四列目には信玄とその旗本隊。後備には穴山信君隊がいた。
兵団全体が魚のように細長く、各部隊が魚の鱗に相当するから魚鱗の陣というのである。

重層の陣立てである。
波状に徳川軍を攻撃したであろう。
長谷川紀伊守正長がどの武田軍と戦って戦死したかは、依然として解明できない。

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2008.11.29

〔橘屋〕忠兵衛

日中はまだ日ざしがきびしいが、陽がおちると、なんとなくしのぎやすくなってきている。
日没も、こころもち、早くなってきた。
六ッ半には、家々は灯を入れる。

銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)は、5の日なのを思いだし、雑司ヶ谷(ぞうしがや)の料理茶屋〔橘屋〕の女中・お(なか 34歳)と一夜をすごすために、宵の七ッ(午後8時)前に鬼子母神(きしもじん)の一の鳥居前を左へ曲がろうとした。

鳥居の柱のかげから、
長谷川さま」
声の主は、〔橘屋〕の女中頭・お(えい 36歳)であった。
「---?」
足をとめ、
(おに異変があったのか?)
即座に、そのことが浮かんだ。
そういえば、ここ、2度ばかり、5の日の通いを欠かしている。
中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)と妙なことになったので、なんとなくこだわるところがあり、足が向かなかった。

長谷川さまがお見えになったら、ご本邸のほうへご案内いたすようにと、旦那さまから言いつかり、こうして、お待ちしておりました。ご案内いたします」
旦那さまとは、〔橘屋〕の主人・忠兵衛(ちゅうべえ 50すぎ)のことである。

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(〔橘屋〕忠兵衛 『江戸買物独案内』 文政7年刊 1824) 
  
「こころえましたが、おになにか---?」
「旦那さまがお話しになりましょう」
それきり、黙ってしまった。
(悪い報らせだな)
銕三郎は、覚悟をきめた。

鬼子母神の参道へ入り、三の鳥居の先を右へ折れて境内をはずれた。

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(雑司ヶ谷・鬼子母神の参道に、二と三の鳥居が見える
『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ  )

〔橘屋〕忠兵衛の本邸は、そこから半丁も行かない木立の中に、前庭をひろくとっていた。

は、玄関で銕三郎を小間使いのおんなへ引きつぐと、会釈して帰っていった。
案内された部屋は、簡素だが、趣味のいい什器が置かれていて、忠兵衛の感性をうかがわせる。
この部屋にくらべると、おと寝る客用の座敷は、華やかすぎるように思える。

小間使いが茶菓を置いたのと入れ違いに、恰幅のいい忠兵衛が満面に笑みをうかべてあらわれた。
(どうやら、悪い話ではないらしい)

「組頭さま、ご内室さまには、お変わりはございませんかな」
忠兵衛は、父・宣雄が若かったときからの知り合いである---というより、忠兵衛が恩義を感じている。
「お蔭にて、どちらも、つつがなく---」
「重畳々々---」
忠兵衛は笑みを消さない。

「拙に、なにかお話が----?」
銕三郎のほうから、切りだしてみた。
「おお、そのこと、そのこと---」
忠兵衛は、いかにも思い出したように、わざとらしく真顔になって、語った。

要するに、銕三郎の口ききで雇いいれたお仲だが、店の古くからの馴染み客が、後妻にとたっての所望で、おも承知したので、嫁にだすつもりで、先方の家へ移ってもらったと。

「この20日ばかりのあいだのことですか?」
「そう、鳥が飛びたつように、ばたばたと運びましてな。ご紹介くださった銕三郎さまにお断りもしないで申しわけないことですが、おの先行きのことを推しはかると、この機をのがしてはと---」

参照】お仲が〔橘屋〕へ雇われた経緯 [〔梅川〕の仲居・お松] (4) (6) (7) (8)
[〔橘屋〕のお仲] (1) (2) (3) (4) (5) (6)  (7) (8)

「で、お(きぬ 13歳)はどうなりますか?」
長谷川家の女中として働いていたおを、銕三郎が納戸町の長谷川家(4050石)の老叔母・於紀乃(きの 69歳)の世話係に転じさせた。
「その娘(こ)も、いずれ、引きとって嫁にだしてもらうことになっております」
「それなら、拙から言うことはありませぬ」
「ご了解いただけましたか。かたじけのう---」
「こちらこそ、おこころづかい、重々、謝辞をのべます」
そう言いながら、銕三郎は、手の中の珠たま)を獲られたようなこころもちであった。
11歳も年上のおであったが、なんでも飾ることなく打ち明けられる、姉であり情婦でもあった。

帰り道、おを後妻にした男の名前も住まいも年齢も商売も聞いていないことに気づき、話が真実とはおもえなくなった。
が、すぐにおもいなおした。

(そうだ、徒(かち)目付の探索の目がおへおよばないうちにと、父上が忠兵衛どのへ頼んだことかもしれない。お目見(みえ)も近いことだし---)
そのことを告げられたら、おも承知せざるをえなかったろう。
(いまは、はいった先で、おが大事にされることを願うばかりだ)


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2008.11.28

ちゅうすけのひとり言(28)

諏訪左源太頼珍(よりよし 62歳 2000石 先手・鉄砲7番手組頭)にこだわりつづけている。

頼珍の【個人譜】は、2008年11月19日の この欄に掲示した。

そのとき、頼珍の本家である、安芸守頼忠(よりただ)について、宮城谷昌光さん『新三河物語』(2008)を引いておいた。
その一節を再録。

---武田勝頼(かつより)の外祖父にあたる諏訪頼重(よりしげ)が弟の頼高(よりたか)とともに武田晴信(はるのぶ 信玄)によって自害させられたあと、諏訪氏の血胤の本統は武田勝頼にあるとされた。
が、勝頼も亡くなったので、諏訪氏の嫡流は絶えてしまったが、庶流でもよいから諏訪氏をこの地で擁立したいと切望している遺臣や郷党がいた。
かれらにとって織田信長の急死とその後の河尻秀隆の横死は、諏訪氏再興と失地回復のためには絶好の機であり、諏訪一門である千野(ちの)昌房(まさふさ)は兵を糾合(きゅうごう)して、高島城を攻め取ってしまった。
すかさず、諏訪上社(かみしゃ)の大祝(おおふり)である諏訪頼忠(よりただ)を迎えて城主とした。頼忠は頼重の従弟である。

「頼重と弟・頼高が信玄にによって自害させられた」という、一行が心にのこったので、『寛政譜』の諏訪家の項をあらためて読みなおした。

寛政譜』によると、頼重の18代前の諏訪城主で鎌倉幕府に仕えた盛重(もりしげ)が初めて、諏訪姓を称したとある。それまでは、神代以来、神氏(かみうじ)であったと。

12代前の弘重(ひろしげ)の弟でなかなかの勇者であった頼重の名をもらったが、晴信(22歳 のちの信玄)によって自刃させられた。

さらに、『寛政譜』は、

刑部大輔頼重
武田信玄と境をあらそうことしばしばなりしかば、信玄偽りて親睦し、その妹を嫁す。天文十一年信玄また欺て頼重を招よせ、四月二十一日板坂にをいて自殺せしむ。法名道洪(どうこう)。そのまま信玄父子相続て諏訪を押領すること二十余年におよぶ。妻は武田陸奥守信虎が女。

寛政譜』を編纂した儒学者たちは、信玄の詐謀を是としていないような印象を受ける。
戦前に出た平凡社『日本人名大事典』(1937)も、『寛政譜』をほとんど孫引きしている。

スワヨリシゲ 諏訪頼重(~1542)
戦国時代に於ける信濃国諏訪の豪族。その先祖は八井耳命の孫五百建命より出づといふ。諏訪刑部大輔頼隆の子。父の後を継いで刑部大輔と称し、また安芸守ともいった。甲斐の武田信玄と境を争うこと数年に亙り、信玄は遂に策略を以ってこれと和し、配するにその妹を以ってし、一子を生ましめた。ここにおいて天文十一年(1542)(新暦)六月信玄に招かれて甲府に赴いたが信玄の臣板垣信形(方)のために擒(とりこ)にせられ、その七月四日その邸に於て自刃した。法号を道洪といふ。室は武田信虎の女、すなわち信玄の妹である。頼重の女は頗る美人であり、信玄の妾となって勝頼を生んだ。頼重歿するや諏訪氏の嫡流は絶え、信玄父子相継いで諏訪を押領すること二十余年に及んだが、頼忠出でて遺領を相続しえたのである。(桑田)

晴信(しんげん)がどういう虚偽を用いたか。
それを明らかにする文献をまだ目にしていない。

新田次郎さん『武田信玄』(文春文庫 1974.10.1)は、武田軍に攻められた頼重は、上原城に火を放ち、近くの出砦ともいえべき桑原城へ移ったが、従者のほとんどに去られ、生命の保証を条件に降伏、古府中へ護送された。

そして、自刃の場面---

---奥座敷には、切腹の座がつくられていた。真新しい。茣蓙(ござ)の上に敷かれた白絹が眼に痛かった。そこが、頼重の切腹の場所だった。
板垣信方は、板の間に、家来を従えて座った。
信方は彼の白絹を見るにしのびないように、瞑目(めいもく)して頼重が座につくのを待った。
頼重はいささかも足の乱れもなく、諏訪神社神官長(しんかんちょう)守屋頼真(よりざね)を従えて、切腹の座についた。頼重の白装束が、頼重の顔によく似合った。(中略)

頼重は諸肌(もろはだ)を脱ぎ、自らの脇差の鞘を払って、切先(きっさき)を酒につけてから、
「信方、切腹の作法をよく見ているがよい」
と叫んで割腹して死んだ。守屋頼真書留によると、

肴というのは脇差に候よと申せられ脇差を取りよせ、十文字に腹掻切(かきっき)り、三刀目(みかため)にて右の乳の下に突き立て、天目(てんもく)ほど繰(く)り落とし、やがて後ろに仆(たお)れ候、壮烈極(きわま)リ鳴き御最後に候。

とこの時の様子を書き残してある。
当時の切腹は鎌倉時代の遺風を伝え、いわゆる自刃(じじん)形式のものが多く、腹の皮にちょっと刀の先を当てると、うしろに刀をかまえている介錯人(かいしゃくにん)が首を切り落す後世の切腹とは様相を異(こと)にしていた。

文庫のあとがきで新田次郎さんは、『武田信玄』を『歴史読本』誌のために月30枚ずつ100回書きつづけたと、告白。

「百カ月間は長かった。この小説を書き出して以来百カ月間は常に私の頭の中に武田信玄があった。これほど長期間の拘束(こうそく)を受けたものは他になかった。飽きもせずに書き続けられたのは、私自身が武田信玄に惚れこんでいたからであろう」とも。

そういうことだと、池波さんは長谷川平蔵を20年近く書きつづけた。
惚れたどころではなく、「鬼平は、私自身だ」というおもいであったろう。

1912年生まれの新田次郎さんは、池波さんより11年齢上である。
直木賞も、新田さんのほうが5年ほど早かった。
連載も、信玄鬼平に4年ほど先んじている。

ある時期、2人は親交をつづけていた。
長谷川伸師が主催していた新鷹会のメンバーだったころである。
鬼平映画のプロデューサーだった市川久夫さんによると、3人は、白金台の長谷川邸での新鷹会がおわると、五反田駅あたりの喫茶店でさらに語りあったという。


参照】2008年11月19日~[諏訪左源太頼珍(よりよし)] (1) (2) (3)


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2008.11.27

諏訪左源太頼珍(よりよし)(3)

「村にも、お諏訪(すわ)さまがあります」
諏訪左源太頼珍(よりよし 62歳 2000石)に話がおよんだとき、お(かつ 27歳)が割りこんできた。
「そうだったね。村の諏訪明神さまの神職の佐々木さまに字をおそわったものです」
中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)が受ける。

千住大橋の上手(かみて)、新河岸川の芦の叢(くさむら)から屋根舟が大川へ出、橋場の渡しの向島側の舟着きで降りたとき、老船頭に過分すぎるこころづけをやったおが、その手で銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの平蔵)の手を引き、
「おも待ちわびていることでしょう。〔五鉄〕でいただいたしゃもの肝の甘煮で、軽くお口なおしをしませんか?」
その誘いで、須田(すだ)村の寓宅に立ち寄った。

蚊帳の中での酒盛りと、おとおの、生まれ育った村の思い出話を楽しんでいるうちに、四ッ(午後10時)をすぎ、泊まることになったのである。

中畑村(甲斐国八代郡(やつしろこおり  現・山梨県甲府市中畑(なかはた))へ諏訪明神が勧請されたのは、東日本を中心に全国に1万社はあるといわれている末社の中でも、かなり古い。

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(曽根丘陵にある中畑村のうちでも、さらに小高い丘の中腹に祀られている諏訪神社の末社)

祭神の建御名方命(たてみなかたのみこと)の性格のうち、狩猟神的なところをあがめたとおもわれる。
村の主業が狩猟、林業、果樹であったからである。
の名も、諏訪明神の「のぼり竜、くだり竜」に由来すると。

「お諏訪さまの、ちょうどいまごろの風追(かざおい)祭には、お巫子(みこ)さんもお勤めしたのですよ」
が遠くをみるように細めた双眸(まなざし)で言うと、
「おおねえさんのお巫子さんは、それはそれはきれいな、まるで天女のようなお巫子さんぶりでした」
の讃辞がつづいた。

「それが悪いほうへ転んだのです。氏子の代表のような家から、おとのあいだを咎(とが)めだてされ、お諏訪さまを汚したとそしられて、村にいられなくなりました」
「あの世話役、おおねえさんに、岡惚れしていて、肘てつをくっての意趣がえしだったんです」

銕三郎は、そえる言葉がなかったので、黙って杯を見ていた。

「ですから、わたしの独断で、諏訪さま方へ、引きこみを入れました」
「なるほど、そういう経緯(いきさつ)があったのですか」
銕三郎の言葉にうなずいたおが、
「そろそろ、お寝(やす)みにしませんか。蚊帳が一帳(ひとはり)しかないので、3人、一つ蚊帳になりますが、ご辛抱ください」

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(中畑地区の交通標識 Nakahata) 

ちゅうすけの冗談】中畑の信号には、Nakahata とある。平凡社『日本歴史地名大系 山梨県編』も、昭文社『ニューエスト山梨県都市地図』も、(なかばたけ)とルビをふっている。甲府市に編入した時点で(なかはた)になったのか、あるいは、巨人軍の中畑選手が活躍していたころに呼び方を変えたのか。

銕三郎が厠へ立ったすきに、おが釘をさした。
「お長谷川さまもいらっしゃることゆえ、はしたない真似をして、恥をかかせないでおくれよ」
「わかってますって---」

有明行灯の芯を低くしてから蚊帳へ入ってきたおに、銕三郎が告げる。
「明朝は、暗いうちに失礼します。いまごろは夜明けが早いから、七ッ(午前4時)には帰りますが、くれぐれも、起きだしたりしないように---」

を真ん中に、川の字に床についた。
不満気味だったおは、やはり、店での疲れがでたか、はやばやと寝息をたてる。

ひと眠りしたころ、おに指で腕をつつかれた銕三郎が目覚めると、目でおを見るようにうながした。
夏なので、ふとんも蹴とばし、太腿もなげだして眠りこけているおが、うすぼんやりと見えた。
(おんなも、大年増と呼ばれるようになると、自制がうすれて、大胆なものだな)
銕三郎は、いつだったか、こんな絵を示した、〔橘屋〕のお(なか 34歳)をおもいだして、内心で苦笑した。
そんな銕三郎の下腹に、おの指が触ったが、さすがに、それ以上には動かさなかった。

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(重信 『柳の嵐』 イメージ)

参照】2008年11月19日~[諏訪左源太頼珍] (1) (2) (付)

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2008.11.26

諏訪左源太頼珍(よりよし)(2)

私事を記すことをお許し願いたい。
というのは、諏訪左源太頼珍(よりよし 62歳 2000石)の拝領屋敷の本郷弓町についてである。
この仁が、先手・鉄砲(つつ)の7番手の組頭を、58歳の明和元年(1764)6月11日から、あしかけ5年ごしに勤めていることはすでに報じた。

(どうでもいいような正否を言いたてると、幕府の役職者の任免を記録した『柳営補任』は、頼珍の先手・組頭の発令年月日を、宝暦14年6月11日としている。宝暦は、14年の6月2日に改元となり、明和元年と改まっているから、『寛政譜』の記述のほうが正しいことは、正しい)

ついでに言うと頼珍は、2年後の明和7年の5月13日に、在職のまま64歳で卒(しゅっ)したことになっている。
日付けは公けに喪を発した日である。
在職のままの逝去だから、辞職願が聞きとどけられるまでには、1週間や10日の日時が必要なはずである。

屋敷があった本郷弓町---この弓町には、ここ30数年来、ちゅうすけも住んでいる。
同時代であれば隣組である。
というので、あわてて、近江屋板の切絵図をたしかめた。

ちゅうすけの住まいは、壱岐坂ぞいに屋敷があった松平帯刀信譲(のぶよし 享年27 5000石)の屋敷跡のマンション。帯刀から4代あとが切絵図に名が載っている美作守
壱岐坂については、文京区の標識が、駐車場をでた左に掲示されている。

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(壱岐坂由来の標識板)

書き写す。

「壱岐坂は御弓町へのぼる坂なり。彦坂壱岐守屋敷ありしゆえの名なりという。
按(あんずる)に元和年中(1615~1623)の本郷の図を見るに、この坂の右の方に小笠原壱岐守下屋敷ありて吉祥寺に隣れり。おそらくはこの小笠原よりおこりし名なるべし。」(改撰江戸志)
御弓町については「慶長。元和の頃御弓同心組み屋敷となる。」とある。(旧事茗話)

立ち止まっては、この標識板を読んでいる人を見かける。
余談だが、この坂をあがりきった先の手うちうどんの店〔高田屋〕が[一本うどん]を食べさせてくれる。

【ちゅうすけ注】2006年7月17日[一本うどん

向かいが、諏訪家の屋敷である。
いまは、東洋学園大学のビル校舎が新築された。その前は、東洋女子短大で、若いぴちびちした女子学生が坂をのぼって登校していたが、いまは男子学生が多く、授業について語りあっているのを聞いたことがないのは、まあ、どことも似たりよったりかも。

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諏訪家は2000石だから、屋敷地も1000坪はあったろう。東洋女子短大のころの校舎がすっぽりおさまっていた。
あの年ごろの女子学生は、都心に近い校舎だからこそ、地方からあこがれて受験したらしい。
郊外の校舎では、自分たちが住んでいる地方都市か町とかわらないからつまらないということらしかった。

旧・弓町---いまの文京区本郷1・2丁目の名物は、樹齢600年以上という巨樹・くすのきであろう。地上1mの幹囲が8.5mもあり、区内で最太という。

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告白すると、ちゅうすけが生まれたのは、日本海側の城下町T市の御弓町であった。
そんなこともあって、弓町には関心があった。
久生十蘭『顎十郎捕物帳』の主人公---仙波阿古十郎(せんばあこじゅうろ)の住まいも本郷弓町の乾物屋の2階だったが、と第1話[捨公方(すてくぼう)]を拾い(しゃれではない)読みしていると、なんとなんと、松平美作守が出てきたのには驚いた。
話はかわるが、田沼意次(おきつぐ)を主人公にすえた平岩弓枝さん『魚が棲む城』(新潮文庫 2004.10.1)の冒頭、意次が竜介(りゅうすけ)と呼ばれていたころの田沼家(700石)の屋敷も本郷弓町であった。出世後や失脚後の切絵図に載っているわけはないが---。

さて、ちゅうすけのマンションの向かいに屋敷があった諏訪家に、〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)は、〔狐火きつねび)〕一味の者がすでに引きこみに入りこんでいると言った。
これから、それらしい人物を、ちゅうすけは、東洋学園大学に登下校する、いまふうのだらしない服装と頭髪をつったてた若者の中から見つけださないといけない(冗談)。


参照】2008年11月19日~[諏訪左源太頼珍] (1) (3) (付)

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2008.11.25

屋根船

「どちらまででございますか?」
女中頭らしいのが、無表情に訊く。
男女2人づれの船宿客だと、それがもっともふさわしい表情だと、心得ている。

「須田(すだ)村の水神まで頼みたいのだが---」
銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)にかぶせて、お(りょう 29歳)が、
「屋根舟でお願いします。船頭さんはお年寄りのを---」

こんな時刻でも、大川(隅田川)を上下する船は少なくない。
この季節だから、屋根舟は、障子を取りはらって川風をいれている。
話し声は、船頭につつぬけなので、2人はほとんど話さないで、岸辺に点在する料亭の灯を眺めていた。
ひときわ、空が明るくなっているのは、新吉原であろう。

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(新吉原 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

須田村が近くなった。
船頭が、向島岸へ舟を寄せようとしかけたとき、おが、
「船頭さん。酒手をはずみますから、千住大橋の先までやってくださいな」
「待ちは、どれくらいになりやす?」
「小半刻(こはんとき 30分)---」
こういう客に、船頭は馴れている。

「五ッ半(午後9時)までに帰えしてくだせえ」
「そうします」

「家には、おが帰っていますから---」
が、つぶやいた。

千住大橋から先は、隅田川は荒川と名が変わる。
合流している新河岸川の河辺には、芦が茂っており、舟が入ると、人目に触れない。

ちゅうすけ注】『鬼平『犯科帳』文庫巻6[狐火]。
2代目〔狐火きつねび)〕をついだ又太郎(またたろう 32歳)と〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七(げんしち 60代)、、おまさ(33歳)が苫舟(とまぶね)で綾瀬川から大川へ出て、隠れた芦の叢(くさむら)は、木母(もくぼ)寺の近くp154 新装版p163
---だが、おは、橋場の渡しで戻ってくるおに見つかるのをおもんぱかって、もっと上流の芦叢を指定した。
文庫巻13[殺しの波紋]p59  新装版p61で、与力・富田達五郎が舟を入れさせたのは、橋場の渡しの先の枯れ芦の群れであった。
の指定は、もうすこし先の、もっと茂った叢であった。
やぼな注釈だが、新河岸川は、川越あたりから発している。
鬼平犯科帳』巻8[流星]で、〔鹿山(かやま)〕の市之助(いちのすけ)が、船頭・友五郎(ともごろう)を強要し、舟で盗品を運びこんだ廃寺は、新河岸川のここから3里(12km)ばかり川上にあった。

舟を乗り入れ、岸近くの芦にもやい綱で留めると、船頭は、すだれを半分おろし、
「たばこを吸ってきやす」
船室にあった行灯を持ち、
「灯かりがあると、のぞきにくる不心得者がいやすんで---」
舟を降りていった。
月明かりだけになった。

は、待ちかねていたように、銕三郎の指を導いた。
の下腹が、月の青白い光をうけて、天女の肌のようであった。

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(国貞 月光の舟上 イメージ)

「夢の中での出来事です」
は、夢を満喫していた。

うわ言のように、
(てつ)さま、銕さま、好き、好き---」
つぶやきながら、余韻をながびかせている。

「おどの、拙も忘れませぬ」
「おどのではありません。さまのおです。どのをつけられると、夢が醒めます」

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2008.11.24

〔蓑火(みのひ)〕一味の分け前

「〔五鉄〕さんのお支払い、よろしいんでしょうか? おあしなら、ありますのよ」
本所特有の、小禄のご家人の小さな敷地がつらなっている武家町の、まったまく人通りがない夜道だが、〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)は、背伸びして銕三郎(てつざぶろう 23歳)の耳元へ唇をよせ、声をひそめて訊いた。

「じつは、先日、火盗改メから新番の番頭へお移りになった本多さまから、お小遣いをいただいているのです。あれほどの支払いは、大丈夫です」
銕三郎も、おの耳朶(みみたぶ)に唇を触れなさせながら、言った。

参照】2008年11月6日[火盗改メ・長山百助直幡(なおはた) (3)

「わたしも、〔狐火きつねび)〕のお頭から支度金をいただいていますから、不自由はしていないんですよ」

参照】2008年10月25日[〔うさぎ人(にん)〕・小浪] (3)
銕三郎は、わざとのように、頭をおの唇へ傾ける。

「内神田のほうの仕事の分け前は、いかほどでしたか?」
蓑火(みのひ)一味は、大晦日・年越しの早朝、神田鍋町の海苔問屋〔旭耀軒・岩槻屋〕へ押し入り、大節季に集金したばかりの856両を奪った。

参照】2008年9月2日~[〔蓑火(みのひ)〕のお頭 (5) (6) (7) (8)

「あのときは、久しぶりの大かがりな仕事で、働いたのも30人をこえていましたから、軍者(ぐんしゃ)のわたしには20両---」
「意外に少ない---」
「〔蓑火〕のお頭が、半分おとりになるのです」
「安旅籠の買収資金として---?」

参照】〔蓑火〕一味の安旅籠 [中畑のお竜] (7) (8)
2008年9月16日~[本多組同心・加藤半之丞] (1) (2)

「ご存じなんですね。でも、それもありますが、〔蓑火〕のお頭は、一統の退(ひ)き金(がね 退職金)を積み立てておられるので---」
「ほう、隠居金(いんきょがね)をね。役つきの幕臣の隠居料の廩米300俵のようなものか」
「お武家方でも、隠居料がでるんですね」
「それを出さないと、死ぬまで家禄を継嗣にゆずりたがらない」

ちゅうすけ注】『寛政重修諸家譜』には、10人に1人ほどの割合で、300俵(換算・年に約3000万円)養老米の支給が記されている。いまの高級官僚が退職後に天下りをくりかえすのは、これほどの年金が出ないからかも。

耳朶の嘗めあいのかたちで会話がすすむ。

銕三郎の股間は、次第に膨張し、歩をすすめるたびに先端が袴にすれて、痛かゆくなりはじめた。
も、下腹が熱っぽくなってきているが、男のもののように膨張しないから、外ッ面は平静をよそおっていられるが、腰がだるくなり、足はこびが遅れてくる。

「お武家さまも、意外に勘定高いのですね」
「武家にかぎらない。欲のない人間のほうが少ない」
銕三郎の言葉づかいが、だんだんにくずれているのは、袴の内側の刺激のせいかも。

「吾妻橋の東詰で、駕籠をひろおう」
「いえ。駕籠では話がとおりません。いっそ、宿を---」
「それは、禁句」
「はい---」
とりかわした約束が、もう、あやしくなってきている。
の双眸が、いかにもうらめしげだ。
これが、性への執着というものかもしれない。

そのあと、おは、中ノ郷竹町の舟宿の前でへたりこんでしまった。
「やっぱり、猪牙にしよう」
銕三郎が脇に腕を入れて立たせるが、おは乳房を押しつけてもたれかかる。
時刻は、五ッ半(午後9時)ごろで、浅草につなががっている吾妻橋の東詰だけに、人通りは絶えていない。
人目にたちたくなかった。

銕三郎は、甘えるおをかかえるようにして、〔船宿・阿津真(あづま)〕と行灯が点っている玄関に立ち、
「舟を頼めるかな」

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(北本所・中ノ郷竹町 向こう岸・浅草材木町との間の竹町の渡し=青〇)


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2008.11.23

〔五鉄〕のしゃもの肝の甘醤油煮

「臓物鍋、はじめて賞味いたしましたが、夏にあいますね。おいしくいただきました」
「それはようございました。これからもご贔屓にお願いいたします」
上がってきた三次郎(さんじろう 18歳)も、銕三郎(てつさぶろう 23歳)の連れ---という以上の好意を、〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)に感じている。

こん炉をさげ、代わりに西瓜(すいか)を出した。
長谷川さま。お泊りになるのでしたら、用意をさせますが---」
三次郎の問いかけに、おがちらっと、銕三郎に視線を向ける。

「いや。こちらを須田(すだ)村へお送りする」
「送っていただけますの? まあ、うれしい」
の声は、ことばほどには弾んでいない。
「では、ごゆっくり---」
三次郎が下りていった。

「おどの。拙の本心も、泊まりたいのです。しかし、けじめというものがあります」
「わかっているつもりです」
「いつまでも、お知恵をお借りするためには、もう---」
「はい---」

降りると、三次郎が、油紙につつんだものを用意していた。
「しゃもの肝の甘醤油煮です。あすにでもご賞味ください」
が礼を言って受けた。
「あすの昼餉(ひるげ)が楽しみになりました」

板場をぬけて、猫道から相生町5丁目の裏通りへ出、そのまま東へ歩き、緑町1丁目裏通りとの境の道を北へ、武家屋敷の道へに入り、立ち止まった。

Photo
(二ッ目ノ橋北詰=青〇〔五鉄〕=相生町5丁目 その東=緑町1丁目)

これで、徒(かち)目付の下働き・徒押(かちおし)が〔五鉄〕を見張っていても気づくまい。
すこし遅れて、三次郎が無印しの提灯を点してあらわれ、銕三郎たちへ渡して引き返した。
つぎたし用の新しい蝋燭も5本、手渡された。

「にくいほどの心得ですね、三次郎さんは---」
と言ったおへ、
「ほんとうは、しゃもをおろすより、火盗改メの密偵をやりたがっているのです」
「怖いこと---」
「父親がゆるしませぬ。それに、密偵など、素人がやることではありますまい」
「わたしなら---?」
「超一級です」
長谷川さまが火盗改メにおなりになったら---わたし、密偵に使っていただくかも---」
「そのためにも、身をきよく---」
「ほんに---おほ、ほほほ」
「あ、ははは」

「でも、手をつなぐくらいは---」
「木戸がしまらないうちに、駒止橋あたりの船宿から、猪牙(ちょき)で行きましょう」
「いいえ。猪牙(ちょき)だと、話を船頭に聞かれます」
「歩くのですか?」
「小1里(4km)の道行きと、まいりましょう」
は、うれしそうであった。
しゃもの肝煮の油紙包みを左手に、右手で銕三郎の手をにぎっている。
二ッ目の通りから1本東の、武家の家々のとおりなので、辻番小屋の灯のほかは、明かりはまったくない。
銕三郎が右手にしている提灯の灯だけが、闇の中を北へゆっくりと動いている。

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2008.11.22

遠藤源五郎常住(つねずみ)

_100_2(りょう 29歳)が、身をよじって笑い転げてしまった。
銕三郎(てつさぶろう 23歳)の口からでた話だけに、よけいにおかしみが強いのだ。
畳をたたいて、うれしさをあらわしている。
足をばつかせたその勢いで、裾がひらいた。
それでも、白いふくらはぎを、銕三郎の視線にさらしたまま、背をふるわせ、声をあげて笑いつづけている。
すっかり気をゆるしてしまっている証拠で、外出用のほこり除けの揚げ帽子がくずれそうなほど。(歌麿 揚げ帽子 お竜のイメージ)

二ッ目ノ橋北詰の、しゃも鍋〔五鉄〕の二階の小座敷である。

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(〔五鉄〕の2階の間取り図 建築家:知久秀章画)

〔五鉄〕の一人息子・三次郎(さんじろう 18歳)が、新牛蒡(ごぼう)のササガキとしゃもの臓物を出汁(だしじる)で煮る鍋をみつくろってくれた。

ちゅうすけ注】この臓物鍋は、『鬼平犯科帳』巻8[明神の次郎吉]p104 新装版p111 に、「初夏、「熱いのを、ふうふうていいながら汗をぬぐいぬぐい食べるのは、夏の快味」と。おはほとんど化粧していないので、汗をかいて平気だと、三次郎は見きわめたのであろう。

参照】】〔五鉄〕の位置 2006年7月16日
〔五鉄〕の1階 2008年3月25日[盟友・岸井左馬之助] (2)
〔五鉄〕の1階パース [ちゅうすけのひとり言] (23)

ようやく笑いをおさめ、目尻の涙を懐紙でぬぐったが、双眸がしっとりと濡れており、29歳の年増の色っぽさが、増していた。
(「目病みおんなと風邪ひき男」とは、言いあてている。いまのおの涙目がそうだ)
銕三郎の、感想である。

4人の候補者(容疑者?)のうちの1人---かつて銕三郎がつながりをつけた遠藤源五郎常住(つねずみ 52歳 1000石 先手・鉄砲(つつ)の9番手組頭)の説明ついでに、柳橋の料亭〔梅川〕の仲居・お(まつ 30歳前=当時)の一件を話して聞かせたのである。

は、盗賊・〔初鹿野はじかの)〕の音松(おとまつ 35.6歳=当時)の情婦で、柳橋の料亭〔菊川〕の仲居に化けて引きこみに入っていた。
それで、好物の〔船橋屋〕の黄粉(きなこ)のおはぎに朝顔の種の粉をまぜたのをうまく騙して食べさせ、座敷でひどい下痢を演じさせた。

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(北斎 美人図 下痢に悩むお松のイメージ)

のこの失態で、〔初鹿野〕一味は、とりあえず江戸から去っていった。

参照】2008年8月10日~[〔菊川〕の仲居・お松] (9) (10) (11) 

「初鹿野村は、わたしの生まれた村から、それほど遠くはないんですよ」
は、甲州・八代郡(やしろこおり)仲畑村の育ちである。
初鹿野村は、隣の都留郡(つるこおり)も北の、甲州路ぞいといったほうがあたっている。
「さようでありましたな」
「ああ、長谷川さまは、村へいらっしゃったのでしたね」
「猿橋では、〔阿良居(あらい)〕方に宿をとりました」
「母が、猿橋宿の手前の大月の安宿で飯炊きをしていることも、ご存じなんですね」
の土地勘は、仲畑村が基点になっている。

「うむ」
「わたしが仕送りをしていることも---」
「------。いや。遠藤常住どのだが、父上から聞いたところでは、去年、不祥事があって、諸事、お控えのご様子らしい」
「不祥事とは---?」

銕三郎が語って聞かせる。
火盗改メに任じられた常住が、前任の細井金右衛門正利(まさとし 61歳廩米200俵)組が逮捕し、吟味未了だった賊を、誤認逮捕といって出牢させ、召し放したので、吟味を引きつぐことになっていた町奉行方から異議が出て、出仕(しゅっし)停止1ヶ月の処分を申しわたされたということであった。

参照】細井金右衛門正利は、2008年8月5日[〔菊川〕の仲居・お松] (5)
200年9月6日[火盗改メ・索引] (1)

ちゅうすけ注】常住は、出仕停止処分が解かれた翌日、火盗改メも解職された。もっとも、先手の組頭職のほうは、その後、70歳で卒(しゅっ)するまで、18年間つづけている。幕府の温情でもあったろうが、常住の諸方への手くばりも効いていた。

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(遠藤源五郎常住の個人譜)

「そのようなご事情がおありですと、遠藤さまは、お外しになったほうがすっきりいたしますね」
「となると、調べるのは、諏訪さまということになりますが---」
「はい。諏訪さまは、わたしが調べてさしあげると申しました」
「お手数をおかけします」
「なんでございますか、水くさい」
「そうでした。水でなく、湯のあいだがら---」
長谷川さまっ!」
は、下腹がにじんでくるのを、懸命にかくした。

ことのついでである、遠藤一門の大名家というのは、近江の三上藩主・胤将(たねのぶ 40歳=明和5年 1万石)。


参照】[宣雄の同僚・先手組頭] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9)

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2008.11.21

松前主馬一広(かずひろ)

_130_3本所・二ッ目ノ橋北詰のしゃも鍋屋〔五鉄〕で、ゆっくりと話しあう銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)と、女賊・〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)が交わす会話が気になるところだが、おが、向島・須田(すだ)村の寓居の湯殿でのことは、「わたしの一生の秘めごとです」と断言しているのだから、二度と同じような睦みごとはおきまい---そう割り切ったちゅうすけは、松前主馬一広(かずひろ 1500石)の調べにとりかかる。(歌麿『高名美人六家撰』 お竜のイメージ)

旗本の嫡男が、女賊と躰をたしかめあったとあっては、出世のさまたげどころか、放逐もまぬがれまい。
したがって、あのことは、鬼平ファンみんなで、口をつむぐしかない。

参照】2008年11月17日[宣雄の同僚・先手組頭] (8)

旅籠のむすめにややを産ませたとか、料亭の女中とねんごろになった---といったこととは、わけがちがう。
それなら、盗賊・〔狐火きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 45歳=当時)の愛妾・お(しず 18歳=当時)とのことはどうなのだ---とのつっこみもあろうが、おそのものが女賊であったわけではないから、知らなかった、で通しもできる。

参照】2008年6月2日[お静という女] (1) (2) (3) (4) (5)

先手・鉄砲(つつ)の17番手組頭の松前主馬一広(かずひろ)を、銕三郎に代わって調べていて、妙なことに気づいた。

番手(組屋敷)
(氏名 年齢 禄高 この年までの在職あしかけ年数)
17番手(市ヶ谷本村)
 松前主馬一広(かずひろ)      46歳 1500石 16年め

お気づきであろうか?
いや、なに、松前姓なら、蝦夷(えぞ)・松前藩の一族であろう---って??
そのとおり。
だが、妙というのは、そのことではない。もちろん、つながりはある。

妙なのは、明和5年(1768)夏、現在で、46歳という年齢である。
いや、46歳に不思議はない。生まれて、45年たてば、当時は数え齢で、だれだって46歳になる。

妙なのは、在職16年め、という記述である。
もし、この年数が、ちゅうすけのキーの打ちまちがいでなければ、30歳での先手組頭就任ということなる。

これまで先手組頭は、番方(ばんかた 武官系)の出世双六(すごろく)の「上がり」か、その一歩手前と、何度も書いてきた。
だから、30歳での組頭就任は、若すぎるし、事実とすれば、きわめて異例である。

今回の組頭リストは、『柳営補任』(東京大学出版会)に拠って、手っ取り早くつくった。
この史書には、誤記が少なくない。
(東大出版会は、誤記は誤記として、そのまま刊行している)。

それで、『寛政譜』を検(あらた)めてみた。

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(松前主馬一広の個人譜)

念を入れて、『徳川実紀』[惇信院殿家重)]宝暦3年(1753)10月9日の項を確かめてもみた。

この日、目付松前主馬一広先手頭となり、

と記されている。
30歳での就任は、ミス・タイプではなかった。

ほかに、こんな若さでこの役についた者がいるであろうか?
記憶にあるかぎり、いない。
長谷川平蔵宣以---すなわち、銕三郎も早かったが、それでも41歳であった。
ただし、平蔵は、目付からではなく、徒(かち)の組頭からである。

時間があれば、目付から先手組頭になった全員の就任時の年齢を調べればいいのだが、残念ながら、そんな時間をいまは持ち合わせていない。

それで、松前一広と同じく、宝暦年間(1751~771)のみをあたってみた。
この期間中に転出したのは34人。うち、先手組頭へは、松前一広のほかにはもう1人。
竹中彦八郎元昶(もとあきら 1000石)が57歳のとき。

ついでなので、やり手として名をのこしている(にえ)壱岐守正寿(まさとし 300石)も見てみた。38歳。若いことはずば抜けて若いが、一広にはおよばない。

いったい、一広は、なぜ、そんなに就任が早かったのか。

松前藩は、1万石高だが、実収ではなく、アイヌとの交易独占権のみ。
明和のころには、砂金採集高も細っていたから、けっして裕福とはいえなかった。

主馬一広の家は、2代目藩主公広(きんひろ)の3男が立てた支家(幕臣 2000石)の、そのまた分家の幕臣(1500石)である。
一広は3代目。
個人譜]での栄進ぶりを見るかぎり、才幹の持ち主であったと認めるしかない。
先手の頭は1500石高だから、足(たし)高はなしの、持ち勤め(もちだかづとめ)である。
格を求めて、とうぜんかもしれない。
前職が目付ということも大きい。
目付時代の仲間が現職に残っているかもしれない。
そこのところは、銕三郎に調べてもらうとして、有力な容疑者(?)であることは間違いない。

が、銕三郎がどう見るかは、別である。

そのこととは別に、ちゅうすけは、ある妄想にふけりはじめた。

松前藩は、アイヌから毛皮や鷹、鮭(さけ)、海鼠(いりこ)、鮑(あわび)、鰊(にしん)などを買いつけていた。
ちゅうすけ が目をつけたのは、鮑である。
清国との交易の支払いの金・銀が不足していたので、幕府は海鼠(いりこ)や鮑と鱶(ふか)のひれをあてていた。

側衆で老中格・田沼主殿頭意次(おきつぐ 50歳)は、そのほうを長崎奉行だった石谷(いしがや)備後守清昌(きよまさ 54歳 800石)に考えさせていてた。
松前藩に好印象を与えるために、一門の俊才・一広の栄進に、備後守の示唆があったのではなかろうか。

参照】2007年7月28日[田沼邸] (4)

もし、そういう裏があるのであれば、銕三郎が的を一広へ向けては、虎の尾を踏むことになりそうだが。


参照】[宣雄の同僚・先手組頭] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9)

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2008.11.20

仁賀保兵庫誠之(のぶゆき)

「4家のうちの、仁賀保家ですが---」
_130銕三郎(てつさぶろう 23歳)が声をひそめて語りかけている相手は、美形の〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)である。
場所は、御厩河岸の渡し舟場前の茶店〔小浪〕の小座敷。
いつもの揚げ巻の髪でなく、武家の内室ふうに結い、ほこり除けの揚げ帽子を巻いている。
銕三郎と逢うための、変装であった。

銕三郎とおは、別々の渡し舟でやってきた。
もちろん、おのほうがひと舟早いのを使った。
舟だと、岸を離れる寸前に飛びのれば、尾行(つ)けられるおそれが少ない。
また、茶店〔小浪〕のことは、徒(かち)目付の下働き・徒押(かちおし)たちも、まだ、気づいていないとおもわれる。

「じつは、廃絶になっているのです」
「廃絶?」

銕三郎が、書物奉行・長谷川主馬安卿(やすあきら 50歳 150俵)に、4家の名簿をだして、それぞれの家の祖が大名になった経緯が知りたいのだが---と頼んだら、安卿は怪訝な表情で言った。
仁賀保家? 大猷院家光)さまの時代---それも、たしか、寛永(1624~43)だったと記憶しているから、もう120年も昔のこと---」
「因(もと)は?」
「継嗣(あとつぎ)がなかったのです」

参照】2007年9月29日~[書物奉行・長谷川主馬安卿(やすあきら) (1) (2)

安卿が調べてくれたところによると、断家は、初代藩主・挙誠(たかのぶ 享年39歳)のときのことだという。
初代藩主とはいえ、仁賀保家は、信濃の太井から陸奥国由利郡(ゆりこおり)仁賀保郷へ移って領地とした家柄で、徳川からは、1万石の外様としてあつかわれていた。

挙誠は、遺言の形で、次弟・誠政(のぶまさ)に2000石、3弟・誠次(のぶつぐ)に1000石を遺贈していたため、遺領のうち、この3000石が仁賀保家にのこった。

ちゅうすけ注】仁賀保は、にかほ市となる平成17年まで、秋田県由利郡仁賀保町であった。

「お尋ねの、兵庫誠之どのは、1000石を遺贈された後に200石の加恩があった3弟・誠次どのの末---といいたいところですが、じつは、ご養子なのです」
「ほう---」
「われわれと同姓の長谷川甚五郎重行(しげゆき 享年59 両番 400石)どのの継嗣ぎでしたが、少年のころは多病で後継できず、18歳で養子に。あちらの長谷川は、美濃で、斉藤織田豊臣徳川と仕えを移しています。手前のところは、美濃から甲州ですが---」
「拙のところは、大和から駿州の今川です」
「そうでしたな」

仁賀保兵庫誠之が先手・鉄砲(つつ)の組頭に任じられたのは、今年---つまり、明和5年(1768)正月11日である。

「400石の実家から、1200石の家へ養子---という例はよくあるのでございますか?」
「さあ。そのようなことには、関心なくて---」
「養子になられた誠之さま---1200石の先へ婿に望まれたほどのお方ゆえ、よほどの美丈夫だったのでしょうね」
らしからぬ、妙な類推を口にした。
「さあ。いまや、59歳のご高齢ですからね」
23歳の銕三郎とすれば、父・宣雄(のぶお 50歳)より上は、高齢者である。
口にしてしまってから、
(いけない!)
臍(ほぞ)を噛(か)んだ。
29歳のおに、齢のことを意識させたくなかった。
が、おは、まるで、気にしていない。
自分が24,5歳に見られがちなことすら、気にもとめていなかった。
世間の思惑にふりまわされることがないほど、現実を見る力が強いのである。

「いささか立ち入る話になりますが、誠之どのの実家の長谷川一門へ、2000石のほうの仁賀保家から嫁入りされた姫がおられ、そのお口ぞえによるご縁とか。それに、美男子をお望みになった家付きのむすめごは、お子もなさないでお亡くなりになっています」
「すると、のちぞえのお方が---?」
「幾たりかのお子を---」
「お勝手向きも、たいへんそう」
「あっ、そうなりますか」

は、それがくせの、眉をひらいて、にんまりと微笑む。
「なりますね」
「しかし、大名家からの分家という枠からはずしてもよろしいような気はしますが---」
は、うなずいた。
「お3人になりますね。諏訪さまのお勝手向きの調べは、わたしのほうでやりましょうか?」
「なにか、手づるでも?」
「はい。一人、入れてあります」
「ほう---」

_130_2小浪さん。お酒、ください」
が、女将・小浪(こなみ 29歳)に声をかけた。

酒とつまみを給仕してきた小浪が、心得た表情で2人を看てから下がった。、
「まさか、湯殿でのこと、話してはいないでしょうね?」
「口が裂(さ)けても、洩らすものですか。わたしの一生の秘密ですもの。それに、小浪さんは、〔狐火(きつねび)〕の隠密ですよ」
「それにしては、意味ありげな目つきで見て行きましたよ」
「河岸を変えましょうか?」

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(「不二見の渡し」 『風俗画報』明治41年4月20日号 昇雲画)

「お米蔵の南はずれ、瓦町の不二見の渡しで、向こう岸の横網町へわたり、回向院の門前で待っています」
「夕焼けの富士のお山が、すてきそう」
「はぐれたら、二ッ目ノ橋北詰の〔五鉄〕というしゃも鍋屋です」
「はい。〔五鉄〕ですね」

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(仁賀保兵庫誠之の個人譜)

参照】[宣雄の同僚・先手組頭] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9)


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2008.11.19

諏訪左源太頼珍(よりよし)

「このうちで、諏訪さまのように、ご一門にお大名がいらっしゃるのは---?」
先手・鉄砲(つつ)組の組頭の名簿の中に、諏訪左源太頼珍(よりよし 62歳 2000石)の名があるのを見たお(りょう 29歳)が、こう、銕三郎に問うた。
それで、疑いのあった6名が、さらに次の4人にしぼられた。

参照】2008年11月16日[宣雄の同僚・先手組頭] (7)

番手(組屋敷)
(氏名 年齢 禄高 この年までの在職あしかけ年数)

番手(組屋敷)
(氏名 年齢 禄高 この年までの在職あしかけ年数)
7番手(麻布が前坊谷)
 諏訪左源太頼珍(よりよし)    62歳 2000石  5年め
9番手(小石川伝通院前)
 遠藤源五郎尚住(なおずみ)    52歳 1000石  3年め
15番手(駒込片町)
 仁賀保兵庫誠之(のぶざね)    57歳 1200石  1年め
17番手(市ヶ谷本村)
 松前主馬一広(かずひろ)      46歳 1500石 16年め

この4家の中から、勝手向きがもっとも裕福な家と、もっとも逼迫している家を探すことになった。

まずは、諏訪左源太頼珍である。

_120信州の古家・諏訪家が徳川に就いた経緯(ゆくたて)を、宮城谷昌光さん『新三河物語 下』(新潮社 2008.10.20)から引用する。
この小説は、なにしろ、ことし、もっとも感動して読み、いま、再読にかかっているほど、入れあげている。
たぷん、3読、4読するであろう。
4読以上している小説は、『鬼平犯科帳』と、宮部みゆきさん『本所深川ふいぎ草紙』(新潮文庫 1995.6.10)くらいと告白していい。
3読なら、100はくだらないが---。

本題へ戻る。
武田勝頼が自刃し、信長亡きあと、信州・諏訪郡には、川尻秀隆が受け取った。
以下、宮城谷さんの文章による(ブロク文向きの行替えはちゅうすけ)---

---諏訪郡は河尻秀隆の支配地であった。                  ’
 甲斐((かい)一国を与えられた秀隆であるが、甲斐には穴出梅雪(ばいせつ)の領地があり、それを秀隆が領有することができないので、かわりに信濃の諏訪郡をさずけられた。甲斐の古府中(こふちゅう)で政治をおこなった秀隆は、配下の弓削(ゆげ)重蔵を諏訪湖の束に位置する高島城にすえて、諏訪郡を治めさせた。
 ところが諏訪郡はなんといっても諏訪氏の本拠である。
武田勝頼(かつより)の外祖父にあたる諏訪頼重(よりしげ)が弟の頼高(よりたか)とともに武田晴信(はるのぶ 信玄)によって自害させられたあと、諏訪氏の血胤の本統は武田勝頼にあるとされた。
が、勝頼も亡くなったので、諏訪氏の嫡流は絶えてしまったが、庶流でもよいから諏訪氏をこの地で擁立したいと切望している遺臣や郷党がいた。
かれらにとって織田信長の急死とその後の河尻秀隆の横死は、諏訪氏再興と失地回復のためには絶好の機であり、諏訪一門である千野(ちの)昌房(まさふさ)は兵を糾合(きゅうごう)して、高島城を攻め取ってしまった。
すかさず、諏訪上社(かみしゃ)の大祝(おおふり)である諏訪頼忠(よりただ)を迎えて城主とした。頼忠は頼重の従弟である。
大久保忠世(ただよ)は高島城に乗り込んで、頼忠や昌房に面会して、
 「せっかく再興なさった諏訪家を頽落(たいらく)させてはなりませぬ。徳川をお侍みになり、上杉と北条の烈風をおしのぎなされよ」
と、懇々(こんこん)と説いた。

忠世に誠実さ見た頼忠は、徳川にしたがうことにした。

参考諏訪大社 

809
(諏訪大社 秋宮拝殿)

ここからは、『寛政重修諸家譜』の諏訪頼忠の項を現代文ふうになおして引く。

天文5年(1536)諏訪に生まれる。頼重が信玄に殺され、その武田家が諏訪を領するといえども、ふたたびその遺領を相続した。
天正10年(1582)、東照宮が甲州国を平均したもうたとき、大久保七郎右衛門忠世をして速やかにお味方に属すると仰せくださった。
その後、酒井左衛門尉忠次(ただつぐ)が来て、信濃国のものはことごとくわが下知にしたがうようにと布告した。
頼忠は、これを聞いて、われはすでに東照宮にしたがいたてまつっている。どうして忠次の命令をきかねばならないんだ、と同心しなかったが、忠次は、さらに屈服させよようとした。

ふたたび、宮城谷さんの小説から---

---忠世の調儀(ちょうぎ)は順調であった。
 ところが三千の兵を率いて伊那路を北上してきた酒井忠次(たたつぐ)が、七月十四日に諏訪にはいったことで、忠世の努力がそこなわれた。すなわち忠次は諏訪の諸豪族に、
 「信州はことごとく忠次が指揮するところである。諏訪傾忠も忠次に従うべし」
 と、触(ふ)れた。それをきいた頼忠は憤激した。
 「われは徳川どのの幕下に属すのであり、なんぞ忠次に従わんや」
 一朝(いっちょう)、高島城は火器と弓矢をならべて忠次の軍をこばむ城に変わってしまった。忠次は高島城を攻撃した。
---ばかな。
忠世は嚇怒(かくど)した。忠次のもとへ直行した忠世は、
「諏訪をひきっけて味方にしたのに、左衛門尉どのの口先が、ふたたび敵にしてしまった」
と、まともになじった
「何をいうか---」
忠次もけわしい口調でいいかえし、この口喧嘩(くちげんか)のすさまじさは、遠くできく者をおびえさせた。忠世は虫の居所(いどころ)が悪い。

先の引いた『寛政譜』だけからではなかろうが、小説家の想像力・創作力のすごさをおわかりいただけたろうか。

戦国時代のこと、これから紆余曲折があって、諏訪頼忠はふたたび本領を安堵され、子孫は明治まで高島(諏訪)藩3万石を治めた。

頼忠頼水(よりみず)-忠恒(ただつね)-忠晴(ただはる)ときて、忠晴の次弟・頼蔭(よりかげ)が1000石を分与されて分家、その3代目が頼珍である。

_360
_360_2
(諏訪左源太頼珍の個人譜)

さしたるエピソードの持ち主にはみえないが、使番をつとめているから、言語は明晰で、容貌もそれなりであったろう。
勝手向きのことは、本家の藩財政とともに、これから、だれかをやって調べさせよう。


参照】[宣雄の同僚・先手組頭] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9)


参照】2008年11月19日~[諏訪左源太頼珍(よりよし)] (2) (3) (付)

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2008.11.18

宣雄の同僚・先手組頭(9)

_180「蚊帳の中で呑みませんか。このあたり、沼が多いせいで、蚊がしげくって---」
(りょう 29歳は、湯殿ではなにごともなかったかのような取りすました顔で、蚊帳の中に、手ぎわわく酒と肴を行灯を運びこんだ。(歌麿 蚊帳の中 お竜の別のイメージ)

銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)は、照れかくしに、行灯をひきつけ、先手・鉄砲(つつ)組の組頭名簿から、家禄が1000石に満たない仁に抹線を引いた。

番手(組屋敷)
(氏名 年齢 禄高 この年までの在職あしかけ年数)

7番手(麻布が前坊谷)
 諏訪左源太頼珍(よりよし)    62歳 2000石  5年め
9番手(小石川伝通院前)
 遠藤源五郎尚住(なおずみ)    52歳 1000石  3年め
15番手(駒込片町)
 仁賀保兵庫誠之(のぶざね)    57歳 1200石  1年め
17番手(市ヶ谷本村)
 松前主馬一広(かずひろ)      46歳 1500石 16年め

4人のうち、遠藤源五郎尚住には、面識がある。
麻布・竜土町の屋敷を訪れけたことがあった。

参照】2008年8月10日~[〔梅川〕の仲居・お松] (6) (9) (11)

あとの3人は、いくら考えても、どの仁の顔もおもいうかばない。
そのはずである、会ったことがないのだから。

が言った、暮らし向きがもっとも裕福な家と、もっとも逼迫している家を、どういう手立てで調べるか、思案していると、
が入ってきて酒をすすめ、
長谷川さまがおいでになると、前もってわかっていましたら、なにかつくっておいたのですが---。こうみえても、料理の腕は、母親ゆずりで、たしかなんでよ。でも、ふだんは、お(かつ 27歳)が〔水鶏(くいな)屋〕さんのお下がりもので、おそい夜食をとるだけなんです」
菜は、胡瓜(きゅうり)の塩もみであった。

「いや、気がきかなかった。途中で、〔五鉄〕なり、〔平岩〕なりで、折箱でもつくらせるのでした」
「いいんです。長谷川さまがこんなものでご辛抱なさってくださるなら---」

銕三郎がさした杯を膳におき、
長谷川さま。この先手の組頭衆のことは、〔狐火きつねび)〕のお頭には、ないしょにしておいてくださませ。わたしどもの世界では、お頭のお指図のほかの盗(おつとめ)みは、ご法度なんです」

参照】2008年10月26日[うさぎ人(にん)・小浪] (4)

「心得ました、が、いま、お盗(おつとめ)み---と聞いたようですが---」
長谷川さまは、お仕置きをなさりたいのでしょう?」
「それはそうだが---」
「だったら、お宝を盗めば、先手のお頭のくせに、盗人にはいられたとの噂に、恥じ入るのではありませんか」
「ふーむ」
「お気にめしませんか?」
「いや---考えおよばなかったのです。それと、おどのに、危険がおよんでは気の毒---」
長谷川さま。おは、これでも軍者(ぐんしゃ)の端くれでございますよ」
「あい、分かり申した。はっははは」
「うっ、ふふふ」

「おどの。さきほどは、感激きわまりない体験をかたじけなく---」
「こちらこそ---生まれて、初めての経験でした」
「そのことですが、くれぐれも内密にお願いします。身勝手なことを申すようですが、お目見(みえ)直前の身なので---」
「それは、わたしの方からお頼みすることです。はしたないことをいたしてしまいました。おとこ嫌いで通してきましたのに---。自分の躰のおんなの部分を、長谷川さまと合わせてみたくて---。わたしは、一生の思い出として封印いたします。長谷川さまは、お忘れにになってくださいませ」

が仕事を終えて帰ってきたのを機に、銕三郎も退去した。
表まで送ってきたおが、銕三郎の手を握って引きよせ、唇をさっとあわせると、すぐに身を引いた。
新月で、明るくはなかった。

銕三郎は、分かっている遠藤尚住をのぞく3人の組頭の屋敷を、大伯父で、先手・弓の7番手の組頭・長谷川太郎兵衛正直(まさなお )の筆頭与力・竹内途之助(みちのすけ 46歳)に訊きだし、遠藤分を書き加えて、御厩河岸の茶店〔小浪〕の女将にあずけておいた。
が、そうしてくれと言ったのである。
とすれば、徒(かち)目付の下働きの徒押(かちおし)の目を気づかった。

7番手 諏訪左源太頼珍(よりよし)  2000石  本郷弓町
15番手 仁賀保兵庫誠之(のぶざね) 1200石  愛宕下神保小路
17番手 松前主馬一広(かずひろ)  1500石  裏猿楽町
9番手 遠藤源五郎尚住(なおずみ) 1000石  麻布竜土町


[宣雄の同僚・先手組頭] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) 

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2008.11.17

宣雄の同僚・先手組頭(8)

「いや、お(りょう)どのには、湯を借りるためではなく、知恵をお借りに参ったので---」
中畑(なかばたけ)〕のお(29歳)から、背中をお流しする、と言われた銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)は、われにもなくあわてた。

「ここへ、いらっしゃるまで、ずいぶんと汗をおかきなりましたでしょう? お躰が臭います。お流しなさいませ。あとになりますと、お(かつ)が帰ってきて、湯殿の私たちをみると、嫉(や)くでしょうから---」
(かつ 27歳)は、ここから、対岸の船宿〔水鶏(くいな)屋〕へ通っている。

参照】2008年11月2日[甲陽軍鑑] (2)

と同郷---甲斐国八代郡(やつしろこおり)の中畑村の生まれで、世間とちょっと異なる躰の関係になったので、いっしょに村を捨てて、11年がすぎた。

参照】お勝は、2008年9月13日[〔仲畑(なかばたけ)〕のお竜] (7) (8)

銕三郎は、この寓居の湯殿には思いでがある。
大盗・〔狐火きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 45歳=当時)に囲われたお(しず 18歳=当時)に、字を教えるために通ってきていた。
夕立がきた日、庭の洗濯物をとりこむので2人ともずぶぬれになり、湯殿で着替えたが、そのあと、蚊帳の中で躰が重なってしまった。

参照】2008年6月2日~[お静という女] (1) (2) (3) (4) (5) 

浴室は、40男の〔狐火〕が18歳のおとじゃれあうためにひろく普請しなおしてあったのを、おはそのまま使っている。
湯舟も、2人がいっしょに入れるほど、大きかった。

湯加減は、さきほどおがつかったままで、ぬるめではあったが、夏なので間にあった。

それとなく、脱ぎ場に目をやる。
ぱっと浴衣を落としたおは、湯文字もつけておらず、たちまち、素裸になった。
想像していたよりもはるかにゆたかな肉置(ししおき)で、べつのおがそこにいるみたいにおもえた。

入ってきたおは、湯をかけただけで、銕三郎に腰置きを示す。
背をさしだした銕三郎へ、訊いた。
「おさんにも、背中の垢(あか)こすりをしてもらわれましたか?」
「いや---」
(おとの情交のことを、〔狐火〕から聞いているらしいな。それなら、隠すこともない)

_180の垢こすりは、やさしく、それでいて、力強かった。
「剣術でお鍛えになっていることが、このぷりぷりしたすじでわかります」
上膊の丸みも、おんなおとこ(女男)とはおもえないほどである。
いや、銕三郎がおんなおとこの裸体をもみたのは、おが初めてではあったが。(栄泉『ひごずいき』 湯殿のお竜のイメージ)

ただ、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち)から、〔荒神(こうじん)〕の助太郎のややを生んだらしい、おんなおとこだった賀茂(かも)の、浅黒いごぼうのようだったという風姿を聞いていたので、おの裸も、なんとなく、そう想像していたのである。

参照】2008年3月27日[荒神の助太郎] (10)
2008年10月28日[うさぎ人(にん)・小浪] (6)

が、先刻、かわいらしい小さな乳首がついている豊かで白い乳房を目にいれて、かんがえをあらためた。

さらにいま目にした全裸の、腰の張りもかなりのもので、銕三郎は、もういちど、胸の中でつぶやいたものである。
(これで、おんなおとことは、もったいない)

ねじった手ぬぐいが、脇腹にのびてきた。
「あ、そこは、拙の手でもとどきますゆえ---」
「こうされるの、お嫌ですか?」
「いえ---ただ、くすぐったい」
「こちらを、お向きになって---前をお洗いします」

銕三郎は、躰の向きを変えた。
目の前に、おの白い裸体があり、両腿をあわせているのに、おさまりきらない黒い茂みがなまめかしく映った。
前にかけた手ぬぐいが、下からむくむくと盛りがる。

はそれには目もくれないふりで、左手で銕三郎の肩をおさえ、右手の手ぬぐいを首すじから胸へ上下させる。
そのひじが、狙ったように、銕三郎の手ぬぐいの支柱の先端に、ちょいちょいと触れる。
顔を真っ赤にして、耐える。

長谷川さま。男衆を見て、おの下腹が熱くなったのは、長谷川さまがはじめて---妙な気分です。29のこの齢まで、覚えがなかったことなのに---」

こらえきれなくなったおが、銕三郎の下腹の手ぬぐいを投げすて、尻を銕三郎の太ももに乗せた。
指で二、三度あたりをつけ、腰を沈める。
乳首を銕三郎の口にふくませ、両腕で銕三郎の首を巻いた。

腰がゆっくりと動きはじめた。
が、すぐに停めた。
自分からしかけるのは、手びかえたのである。

耳元でささやく。
「男の人のもの、生まれて初めて---弾みがあって、熱いのですね。伝わってきます」
「おどのに、申し開きができない」
「あれと、これとは、別、なんですから---」
意味のつかないことをつぶやく。

の仕草の意味が伝わり、いじらしさを感じた銕三郎は、湯舟で背をささえてから、尻をかかえてゆすぶってやりはじめた。
熱気がこもってきた。

[宣雄の同僚・先手組頭] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (9)  

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2008.11.16

宣雄の同僚・先手組頭(7)

先手・鉄砲(つつ)の組頭の、目ざす相手が9名に減った名簿を、銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)は、あいかわらず、鋭い目で睨んでいる。

番手(組屋敷)
(氏名 年齢 禄高 この年までの在職あしかけ年数)

2番手(牛込中里)
 松田彦兵衛貞居さだすえ)   61歳 1150石  2年め
4番手(四谷伊賀町)
 長山百助直幡なおはた)     57歳 1350石  4年め     
7番手(麻布が前坊谷)
 諏訪左源太頼珍よりよし)    62歳 2000石  5年め
9番手(小石川伝通院前)
 遠藤源五郎尚住なおずみ)    52歳 1000石  3年め
10番手(市ヶ谷本村鍋弦町)
 石野藤七郎唯義ただよし)     62歳  500俵  3年め
11番手(不明)
 浅井小右衛門元武もとたけ)   59歳  540石  4年め
13番手(市ヶ谷五段坂)
 曲渕隼人景忠かげただ)      63歳  400石  9年め
14番手(駒込片町)
 荒井十大夫高国たかくに)     60歳  250俵  3年め
15番手(駒込片町)
 仁賀保兵庫誠之のぶざね)     57歳 1200石  1年め
17番手(市ヶ谷本村)
 松前主馬一広かずひろ)      46歳 1500石 16年め

しかし、いくら睨みつけても、当人が、
(てまえでござる)
と、名乗りでてくるものではない。

目の奥に疲れを感じた銕三郎は、名簿を丁寧に折りたたんで懐にしまい、家を出た。
べつに、あてがあってのことではない。
気分転換のつもりである。

三ッ目通りを北へ、竪川に向かった。
三之橋をわたったところで足をとめ、一瞬、逡巡した。
右なら、〔たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ 46歳)がやっている〔盗人酒屋〕がある。おまさ(12歳)もいる。
忠助なら、遠江国見付での日本左衛門の逮捕さわぎと、出張った火盗改メの徳山組のことを教えてくれるかもしれない。
左だと、三次郎(さんじろう 18歳)が一人前に包丁をさばいているしゃも鍋屋〔五鉄〕がある。

銕三郎の足は、そのまま三ッ目通りを北へ向かう。
法恩寺橋通りを東に折れれば、高杉道場であるが、矩折しない。
業平橋筋も、曲がらない。この通りの先からは、井関録之助(ろくのすけ 19歳)がころがりかりこんている茶問屋〔万屋)の寮が近い。

北十間川につきあたった。
右だと、剣友・岸井左馬之助(さまのすけ 23歳)が寄宿している春慶寺。
しかし、銕三郎がとったのは、左であった。
北十間川の河口には枕橋が架かっている。
橋ぎわの信州そば〔さなだ屋〕で、左馬之助とともに〔中畑(なかばたけ〕のお(りょう 29歳)の相方・お(かつ 27歳)の働き場所をさがした、〔橘屋〕の女中・お(ゆき 23歳)が衣装替えをした。

ちゅうすけ注】〔さなだ屋〕は、『鬼平犯科帳』巻2[(くちなわ)の眼]で、鬼平平十郎を見かける舞台となった。

枕橋をわたった銕三郎は、なおも北をめざしている。
その先には、お(しず 18歳=当時)との思い出をつくった小家があり、いまは、〔狐火きつねび)〕の郎勇五(ゆうごろう)一味へ、軍者(ぐんしゃ)として移籍(トレード)されたおが住んでいる。

参照】2008年6月2日~ [お静という女](1) (2) (3) (4) (5)

銕三郎の思惑は、いつのまにか、おになっていたのである。

_130戸をたたくと、風呂あがりらしく、浴衣すがたのおが迎えた。
長谷川さま。どうなさいました?」
「知恵を借りたいのです」
「まあ。私ごときで、まにあいましょうか」
そいういながら、おはうれしそうに双眸を細めた。

部屋で、父・宣雄の同僚が、弓組の地位を狙って、銕三郎とおの関係をさぐっているらしいこと、先手組頭は番方のあがりに近い席であること、職格は1500石であること---などを話し、名簿をひろげた。

参照】2008年11月9日[西丸目付・佐野与三郎政親] (3)

のぞきこんだおの浴衣の襟元がはだけて、豊な乳房がこぼれた。
いや、わざと見せつけているのかもしれない。

長谷川さま。名簿から、1000石以下のお方は、消しましょう」
「なぜ?」
「申しては失礼かもしれませんが、500石の家禄のお武家さまが、1500石の高まで足していただければ、その上をお望みになるよりも、いまのお席大事とおかんがえになりましょう」
「なるほど。理です」

「そうしますと、のこるのは、松田さま、長山さま、諏訪さま、遠藤さま、仁賀保(にかほ)さま、松前さま---のお6方」
「だいぶ、しぼられてきました」
「このうちで、諏訪さまのように、ご一門にお大名がいらっしゃるのは---?」
さすがに、武田勝頼(かつより)を生んだ諏訪一族のことは、甲州生まれのおである、よくしっている。
遠藤仁賀保松前だが、それがどうかしましたか?」
「ご一門に、そういう家があれば、高望みをしがちでしょう?」
「ふむ---」

「ご4家の中で、お勝手向きがもっともご裕福なお家、もっとも逼迫しているお家をお探しになれば---」
「絵解きをしてくだされ」
「ご裕福なお方は、さらに上をお望みになりやすいもの。逼迫なさっていれば、貧すれば鈍す---と下世話に申します」
「いかにも---」
なんとも明快な推察である。

目をあげた銕三郎は、はじめて、おの豊かで白い乳房がこぼれているのに気づいたが、おんなおとこ(女男)とおもっているから、
(もったいない。これで、おんなおとこ、とはな)
その眼差しを、おは、微笑んで受け止めた。

内心の揺(ゆら)ぎをかくすために、訊いてみた。
「おどのは、どのようにして、そのような名察をえられますか?」
「簡単なことです。相手の立場になってかんがえるだけです」
「ふむ」
銕三郎は、またしても教えられた。

長谷川さま。湯をお使いになりますか。背中をお流しします」

[宣雄の同僚・先手組頭] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (8) (9) 

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2008.11.15

宣雄の同僚・先手組頭(6)

いまは新番組・6番手の組頭へ転出した本多采女紀品(のりただ 55歳 2000石)が、このあいだまで配下であった先手の鉄砲(つつ)組・16番手の筆頭与力・小村参次郎(さんじろう 52歳)に届けさせてくれた、明和5年(1768)初夏現在の、鉄砲組の組頭の名簿から、銕三郎(てつさぶろう 23歳)(は、65歳以上の老組頭には野心なしとみて、それらはずして、以下の10名をみずからの手で、別の紙へ書き写した。

(弓組・8番手の組頭の父・宣雄の瑕瑾(かきん)をあばきたてて、その地位にとってかわろうとする卑劣漢が、この10名の中にいる)
銕三郎の怒りの炎は、名簿を燃えあがらせるほどに高まっていた。

番手(組屋敷)
(氏名 年齢 禄高 この年までの在職あしかけ年数)

2番手(牛込中里)
 松田彦兵衛貞居(さだすえ)   61歳 1150石  2年め
4番手(四谷伊賀町)
 長山百助直幡(なおはた)     57歳 1350石  4年め     
7番手(麻布が前坊谷)
 諏訪左源太頼珍(よりよし)    62歳 2000石  5年め
9番手(小石川伝通院前)
 遠藤源五郎尚住(なおずみ)    52歳 1000石  3年め
10番手(市ヶ谷本村鍋弦町)
 石野藤七郎唯義(ただよし)     62歳  500俵  3年め
11番手(不明)
 浅井小右衛門元武(もとたけ)   59歳  540石  4年め
12番手(牛込榎町)
 徳山小左衛門貞明(さだあきら)  53歳  500石  2年め
13番手(市ヶ谷五段坂)
 曲渕隼人景忠(かげただ)      63歳  400石  9年め
14番手(駒込片町)
 荒井十大夫高国(たかくに)     60歳  250俵  3年め
15番手(駒込片町)
 仁賀保兵庫誠之(のぶざね)     57歳 1200石  1年め
17番手(市ヶ谷本村)
 松前主馬一広(かずひろ)      46歳 1500石 16年め

しかし、ことは、父に内緒でおこなわなくてはならない。
父・宣雄は、そのような讒言を、上ッ方のお歴々がおとりあげになるとはおもっておらず、復讐は慮外のことである。

銕三郎の双眸が、、名簿の文字の上いくどもいくどもをなぞる。

と、視線が、徳山(とくのやま)貞明にとまった。
この姓、なにやら、記憶がある。
そうだ、銕三郎が生まれた延享3年(1746)の翌年、大盗・日本左衛門こと浜島庄兵衛が京都東町奉行所へ自首してでたときの火盗改メが、徳山五兵衛秀栄(ひでいえ 57歳=延享4年当時)であった。

_100
ちゅうすけ注】われわれ池波ファンは、『おとこの秘図』(新潮文庫 上・中・下巻 1983.9.25)の主人公として親しんでいる。『おとこの秘図』は、『鬼平犯科帳』連載開始の8年後の1976年から足かけ3年にわたって『週刊新潮』に連載された。もっとも、元ネタは、その18年前(昭和34)に新鷹会の『大衆文藝』に掲載され、直木賞候補になった『秘図』(新潮文庫『賊将』に収録)。

翌日、銕三郎は、両国橋西詰・米沢裏町のしもた屋に、読みうり屋の〔耳より〕の紋次を訪ねた。
初瀬川(はつせがわ)さま。お久しぶりで---」
紋次は、銕三郎の姓が初瀬川だと、いまだに信じている。
いや、間違いではない。長谷川姓は、大和の初瀬川(はせがわ)ぞいに居をかまえていたことによる。

参照】2008年4月26日~[〔耳より〕の紋次] (1) (2)

徳山貞明と、徳山五兵衛秀栄の関係、五兵衛秀栄が火盗改メだったときは弓組か鉄砲組か、日本左衛門とのかかわりなどを知りたいと頼んだ。

紋次は、いとも簡単に、引き受けた。
「お安いご用でやす」
銕三郎に、いまのうちに恩を売っておけばあとで得をするというもくろみもあろうが、将来の大器とふんでいることのほうが真実に近い。

紋次のしらべは手早かった。

祖先は、美濃国大野郡(おおのこおり)徳山を領していた。
池波さんは、『秘図』では、加賀の豪族土岐(とき)氏の分れで、美濃国揖斐郡徳之山谷一帯を治めていた、と記す)
五兵衛直政(なおまさ)が家康から、3270石をもらい、その子・五兵衛重政(しげまさ)が2750石、弟・重次(しげつぐ)が500石で分家した。

重政は、本所石原に広大な屋敷地を拝領するとともに、本所奉行として開発に功があった。その息・重俊(しげとし)と秀栄が2代つづけて先手・鉄砲組頭のときに、火盗改メを役した。

日本左衛門一統の逮捕に遠州・見付へ向かったのは、鉄砲の20番手であった秀英組の与力・同心だが、左衛門は取り逃がしている。

参照】その取り逃がしに掛川藩の落ち度があったと、幼い藩主・小笠原内膳長恭(ながゆき)が陸奥・棚倉へ国替えを命じられたことは、2008年7月5日[宣雄に片目が入った] (1)
なお、このとき、逮捕を命じた寺社奉行の田中藩主・本多紀伊守正珍(まさよし 34歳=延享4年)については、2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2)

小左衛門貞明は、分家・重次から4代目。
住まいは、石原町の徳山屋敷内に、別棟を構えている。

_360
(本所・石原町の広大な敷地の徳山家)

銕三郎は、徳山貞明を、消し線を入れた。

Img617
_360
(徳山甲斐守貞明の個人譜)

ちゅうすけのつぶやき)】
徳山貞明は、本家からの養子て゜あった。その後ろ楯で、甲斐守・従五位下を受爵している。しかし、継嗣には恵まれなかった。長男が早逝、次男・三男も家督前に若逝。そんなことは予想もしていなかったので、2人の男子は養子に出してしまっていた。けっきょく婿養子をとっている。
それも、多くの先手・組頭の例にもれず、現職のまま逝くまで地位についていたからで---といえないこともない。両番の幕臣にとっては、先手・組頭の職位は、それほど、魅力的であったのであろう。


[宣雄の同僚・先手組頭] (1) (2) (3) (4) (5) (7) (8) (9) 

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2008.11.14

宣雄の同僚・先手組頭(5)

長谷川どのは、弓の組頭。先手は、鉄砲(つつ)よりも弓のほうが格が上。鉄砲組のお頭で、弓の組頭への組替えを狙っておられる方がいても不思議はない」
兄とも慕っている西丸・目付の佐野与八郎政親(まさちか 37歳 1100石)から言われた銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)は、
(卑劣漢め。詭計を暴(あば)いて、幕臣衆に顔向けできないようにしてやる)
と、立腹した。
自分のことは、棚にあげている。

参照】2008年11月9日[西丸目付・佐野与八郎政親] (3)

それ以上に、その立腹は筋違いというもの。
出世を欲するのは、役人ならば、当然である。
父・平蔵宣雄(のぶお 50歳 先手・弓組の8番手組頭)は、表向きは、出世競争に恬淡としているふうにしているが、そんなことはない。

数年前から、先手組頭になれば、一種の箔付き職ともいえる火盗改メ任じられることを予想し、仮牢や拷問部屋なども母屋からはなして設けられるようにと、400石の長谷川家には分不相応ともいえる、1248坪の屋敷地を手当てしている。

そのことは、銕三郎も気づいているから、20組ある鉄砲組のどの組頭が、徒(かち)目付に手をままわして、自分(銕三郎)の身辺を、下働きの徒押(かちおし)に嗅ぎまわらせているかと、父に訊くわけにはいかない。
また、訊いても、
「そんな詮索よりも、この機会に、(てつ 銕三郎)が身をつつしめばいいではないか」
といなすであろう。
宣雄という人は、そういう仁なのである。

思いあまった銕三郎は、ついこのあいだまで、先手・鉄砲の16番手の組頭をしていた本多采女紀品(のりただ 55歳 新番々頭 2000石)を表6番町の屋敷へ訪ねた。

銕三郎が、憤懣やりかたない、といった口調で、ことの次第を訴え、
「鉄砲組頭の方々の名簿をいただければ---」
黙って聞きおえた紀品は、目では笑いながら、
「ほかならぬ銕三郎どのの頼みゆえ、応じないわけにはまいらぬな」
と、筆頭与力・小村参次郎(さんじろう 52歳)から届けさせるが、
「出所については、くれぐれも内密にな。それと、軽挙はならぬぞ」
釘をさした。

数日後にとどいた名簿---

明和5年(1768)初夏現在の、鉄砲組の組頭---。
番手(組屋敷)
(氏名 年齢 禄高 この年までの在職あしかけ年数)

1番手(麻布谷町) 
 寺嶋又四郎猶包(なおかね)  80歳  300俵 11年め
2番手(牛込中里)
 松田彦兵衛貞居(さだすえ)   61歳 1150石  2年め
3番手(湯島天神苗木山)
 井出助次郎正興(まさおき)   70歳  300俵  9年め
4番手(四谷伊賀町)
 長山百助直幡なおはた)     57歳 1350石  4年め     
5番手(本郷森川宿)
 永井内膳尚尹(なおただ)     71歳  500石  8年め
6番手(四谷舟板横丁)
 鈴木市左衛門之房(ゆきふさ)  73歳  450石 15年め
7番手(麻布が前坊谷)
 諏訪左源太頼珍(よりよし)    62歳 2000石  5年め
8番手(麻布が前坊谷)
 有馬一馬純意(すみもと)     70歳 1000石  9年め
9番手(小石川伝通院前)
 遠藤源五郎尚住なおずみ)    52歳 1000石  3年め
10番手(市ヶ谷本村鍋弦町)
 石野藤七郎唯義(ただよし)     62歳  500俵  3年め
11番手(不明)
 浅井小右衛門元武(もとたけ)   59歳  540石  4年め
12番手(牛込榎町)
 徳山小左衛門貞明(さだあきら)  53歳  500石  2年め
13番手(市ヶ谷五段坂)
 曲渕隼人景忠かげただ)      63歳  400石  9年め
14番手(駒込片町)
 荒井十大夫高国たかくに)     60歳  250俵  3年め
15番手(駒込片町)
 仁賀保兵庫誠之(のぶざね)     57歳 1200石  1年め
16番手(小日向切支丹屋敷下)
 本多采女紀品(のりただ)       55歳 2000石  7年め
17番手(市ヶ谷本村)
 松前主馬一広(かずひろ)      46歳 1500石 16年め
18番手(牛込榎町)
 市岡左衛門正軌(まさのり)     75歳  500石 13年め
19番手(市ヶ谷五段坂)
 仙石監物政啓(まさひろ)       75歳 2700石 16年め
20番手(大塚御箪笥町)
 福王忠左衛門信近(のぶちか)    76歳  200石 15年め

銕三郎はすごい目つきで、まるで、その裏に当人がひそんでいるかのように、名簿を睨みつけながら思案をつくしていた。
j(まず、65歳以上ははずそう。いくらなんでも、その齢になって、組替えは望むまい)

(在職10年以上も、はずそう。それほど居つづけて、いまさらも、じたばたしてもどうなるものではあるまい)

その線引きで、寺嶋猶包、井出(いいで)正興、永井尚尹、鈴木之房、有馬純意、市岡正軌、仙石政啓、福王信近、そして松前一広の9名がはずれた。

さらに、本多紀品もはずして、のこるは半分の10名で、怪しいのは---

[宣雄の同僚・先手組頭] (1) (2) (3) (4) (6) (7) (8) (9) 

 
  

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2008.11.13

宣雄の同僚・先手組頭(4)

ことし購った小説本のうち、もっとも感動的だったのは、宮城谷昌光さん『新三河物語 上・中・下』(新潮社 2008.8.20~10.20)であったことは、しばしば書き、あちこちでしゃべった。
ついでだから新書で教えられたのは、深井雅海さん『江戸城 --本丸御殿と幕府政治』(中公新書 2008.4.25)。
文庫では、遅ればせながら、藤本正行さん『信長の戦争』(講談社文庫 2003.1.10)。

あたりまえのことだが、ぼくは幅の広い読書家ではないし、多読者でもない。

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さて。
新三河物語 中巻』の次のくだりに、頭をかしげた。
三方ヶ原の合戦で、徳川家康武田信玄の大軍に惨敗した翌年---元亀4年(1573)6月22日(この年の7月28日に天正と改元)。

---奥平氏の居城である亀山(かめやま)城から密使がでた。すみやかに浜松城へむかった。
この使者は、夏目五郎左衛門治員(はるかず)といい、主君である奥平貞能(さだよし)の意向を家康に伝えるのである。

武田信玄が卒したとみた治員が、父・貞勝(さだかつ)や兄・常勝(つねかつ)に反しても、家康の傘下へはいることを乞うためのもの使者であった。

---やはり信玄は死んでいたか。
 と、家康は素直に信じるような心のしくみをもっていないが、表情には感慨があった。夏目治員を観察した家康は、
「予に仕えよ」
いった。これは夏目治員を家臣にしたいというより、奥平家との盟約を復活させるために証人(人質)が要る、ということである。治員はすぐさまそれを察し、
 「それがしは主君に復命しなければなりません。次男の吉左衛門がお仕えいたします」
 と、述べ、次男を浜松に残して、首尾よく亀山城へもどった。
貞能の決意に詐祥はないと信じた家康は、八月二十日に、本領安堵と新恩三千貫文を記した誓書を与え、貞能の子の貞昌(のち信昌)に、築山殿とのあいだにできた亀姫を帰嫁させることを約束した。
 信玄さえ気をつかった奥平のような大族が武田に離叛したことは、徳川にとって東三河北部の失地回復のきっかけとなり、家康は機を逸することなく単独で、菅沼正貞(まささだ)の居城である長篠(ながしの)城を陥落させた。二つの川にはさまれた要害という点で長篠城と二俣城は酷似している。

参照】2007年6月2日[田中城の攻防] (2)
2007年7月13日[依田右衛門左信蕃(のぶしげ)]
2008年7月2日[ちゅうすけのひとり言] (16)
2004.12.20[〔伊砂(いすが)〕の善八]

はて、菅沼正貞武田方についていたのか?
ぼくの『寛政重修諸家譜』では、菅沼家々譜は[家康の駿府人質時代]随臣ファイルに入っているが---と、改めてみた。

三河国設楽郡(しだらこおり)長篠に住していた菅沼満成(みつなり 長篠菅沼)の5代目に正貞の名が見え、
「永禄12年東照宮の仰せをうけて作手(つくて)の奥平美作守貞能、一族刑部少輔某とともに遠州国金丸の砦を守り、のち武田信玄に属す」
とあった。

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宮城谷昌光さん『古城の風景1---菅沼の城 奥平の城、松平の城』(新潮文庫 2008.4.1) の野田城の項に、http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2004/12/post_4.html 

---城の略歴をいえば、永正五年(一五〇八年)正月に起工され、永正十二年(一五一五年)に竣工し、永正十三年(一五一六年)正月四日に、菅沼定則が家臣とともに入城した。定則が八年をついやして築いた城であると想えばよい。天正十八年(一五九〇年)に、定盈が関東に移封されたので、この城の寿命は畢わったといえる。かぞえ年でいえば、七十五年生きた城である。

この、定則(さだのり)との孫が定盈(さだみつ)で、野田菅沼と呼ぶ。

参照】菅沼定盈については、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8

一族は、田峯(だみね)の城にいた菅沼を本家としている。

ながながと大まわりをしたが、本命は、長谷川平蔵宣雄(のぶお 50歳)と同僚の、先手・弓の4番手の組頭の菅沼主膳正虎常(とらつね 54歳 700石)である。
任に就いたのは、2年前の明和3年(1766)11月12日だから、宣雄よりちょうど1年半おくれ。

定盈(さだみつ)の3男・主膳定成(さだなり)から始まる家祖は、多病につき、出仕をしなかった。
嫡男・九兵衛定堅(さだかた)は、紀伊大納言頼宣に仕えというから、かの国にくだったろうか。
4代目・定虎(さだとら)が、吉宗にしたがって江戸城入りをした紀州勢の一員となり、小納戸で400石。のち300石加恩。

定虎の葬地が、長谷川平蔵家と同じく四谷の戒行寺であるのも、縁というものか。

その息・主膳正虎常も出仕は小納戸から。そのあとは『個人譜』をお改めいただきたい。
その『個人譜』には、茶の湯に造詣が深いことが記されてもいるから、教養人であったのであろう。

そこのところは、宣雄も心得ていて、定虎のすすめる京唐津(きょうがらつ)の茶碗を求めたりしている。
もっとも、その道へは深入りしていない。
宣雄は、つねづね、息・銕三郎(てつさぶろう 23歳)に、
「わが家は、番方(ばんかた 武官系)の家柄ゆえ、風流のたしなみは、恥をかかない程度の、ほどほどでよい。それよりも、配下の衆の信をえることがなにより---」
と、教えていた。

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[宣雄の同僚・先手組頭] (1) (2) (3) (5) (6) (7) (8) (9) 

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2008.11.12

宣雄の同僚・先手組頭(3)

平蔵宣雄の同僚の先手・弓の組頭を、あと、2,3人、触れておく。

リスト(11月11日)の3番手の組頭---

堀 甚五兵衛信明(のぶあき) 59歳 1500石  9年め

を見た瞬間、鬼平ファンなら、鬼平の前任者だった堀 帯刀秀隆(ひでたか 1500石)の縁者とおもうであろう。
じつは、縁は、ほとんどうすい。

もっとも、系統は同じ「藤原氏 利仁流」だし、甚五兵衛信明の家も斉藤道三織田信長に仕えていたから、うんと遡れば多分、同根であろうが、『寛政譜』は、信明を巻第769に載せ、帯刀秀隆を巻第1403に置いている。

参照】2007年8月29日[堀 帯刀秀隆(ひでたか)]
2006年4月17日[堀 帯刀秀隆の任期(にんき)]
2006年4月17日[堀 帯刀の家系と職歴(しょくれき)]
2007年9月6日~[『よしの冊子]  (2) (5)


長谷川讃岐守正誠(まさざね 享年69)に嫁してきた於紀乃(きの 69歳=明和5年)の実家・八木家の分家が、信明の生家であるから、平蔵宣雄とも薄いうすい縁つづきといえようか。

参照】2008年10月5日~[納戸町の老叔母・於紀乃] (1) (2) (3)

八木家の本貫は、但馬国養父(やぶ)郡八木谷である。

まあ、こういうように血縁、類縁をたどれば、幕臣の8割はつながってしまう。
つながりにくいのは、ほかの家との婚姻をみとめられないとされていたというお庭番ぐらいかもしれない。
(じつは、お庭番の婚姻が、お庭番の家同士という言い伝えも、17家を調べてみると、そうでもないことがわかるのだが)。

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(先手・弓の3番手組頭の堀 甚五兵衛信明の[個人譜])

[宣雄の同僚・先手組頭] (1) (2) (4) (5) (6) (7) (8) (9) 


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2008.11.11

宣雄の同僚・先手組頭(2)

「おことは、たしか、西丸・書院番は、岡部伊賀守どのの組であったの」
3年前、明和2年(1765)4月某日、長谷川平蔵宣雄(のぶお 47歳=当時)が先手弓の8番手の組頭に昇格したとき、小石川七軒町(現・文京区千石1丁目)の屋敷へ、弓組の1番手組頭・松平源五郎乗道(のりみち 71歳=当時 300俵)へ挨拶の品を持参したときの言葉であった。

参照】2007年5月10日[岡部伊賀守長皓(http://onihei.cocolog 
nifty.com/edo/2007/05/post_5f1d.html)

なにしろ相手は、ふたまわりも年長の大先輩であったし、少禄とはいえ、大給(おぎゅう)松平の流れを組む滝脇(たきわき)松平の一族である。

参考】大給松平 http://www1.odn.ne.jp/usakun-castle/matudaira_015.htm
滝脇松平 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%A2%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC

しかも、いつも口を一文字にむすび、眉間に深いしわをつくっていた仁であった。

いっぽうの宣雄は、亡従兄・宣尹(のぶただ 享年35])を後継しての初出仕であったから、その西丸・書院番時代は、すれちがえは目礼するだけのあいだからでしかなかった。

参照】2007421~[寛政重修諸家譜] (17) (18)
2007年5月2日[『柳営補任(ぶにん)』の誤植

20年ぶりに合間見えてての第一声が、唐突な、
「おことは、たしか、西丸・書院番は、岡部伊賀守どのの組であったの」
であったのには、宣雄は、
「はい」
と応えたきり、しばらく二の句がつげなかった。

源五郎乗道は、いってみれば、徳川家の目付のような人であったと思いいたったからである。
先手の組頭としても、源五郎は、そのときが13年めであった。
宣雄は、徳川官僚組織のこわさを、そのときにも、つくづく、おもいしった。
松平を名乗る少禄の幕臣の中には、源五郎乗道のような役目を仰せつかっている者が少なくないとみる。

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(先手・弓の1番手組頭 松平源五郎乗道[個人譜])

[宣雄の同僚・先手組頭] (1) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9)

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2008.11.10

宣雄の同僚・先手組頭

長谷川どのは、弓の組頭。先手は、鉄砲(つつ)よりも弓のほうが格が上。鉄砲組のお頭で、弓の組頭への組替えを狙っておられる方がいても不思議はない」
だから、父・平蔵宣雄(のぶお 50歳)の落ち度にめを光らせている鉄砲組の組頭がいる---と、西丸・目付の佐野与八郎政親(まさちか 37歳 1100石)から教えられた銕三郎(てつさぶろう 23歳)は、新大橋で、
「与八郎お兄上。ここで戻ります。これから暗くなります。お足元にお気をおつけになって---」

供の小者にも、
「お兄上の足元を、よく、照らすようにな」
注意して別れたが、そのまま、三ッ目の屋敷へ帰る気にならなかった。
四ッ目の〔鶴(たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ 45歳すぎ)の〔盗人酒屋〕に行こうか、永代橋東詰の〔須賀〕へ顔を出そうかと思案したが、どちらの居酒屋も、徒(かち)目付の下働き・徒押(かちおし)がいるように思えた。

それで、押上の春慶寺の離れに寄宿している剣友・岸井左馬之助(さまのすけ 23歳)を呼びだして、どこかで飲むことにした。

夏なので、戸口を開けはなして夜風を入れている町屋の多い夜道を、竪川ぞいに東へ歩きながら、父の同僚の先手の組頭のだれかれをおもいうかべながら、父の席を狙いそうな仁を捜したが、残念ながら、登営前の銕三郎の知識では、ほんの2、3人しかうかばなかった。

銕三郎に代わって、ここで、宣雄の同僚の先手組頭を紹介しよう。
幕府の先手組は、宣雄宣以(のぶため 鬼平時代は弓の2番手の組頭)・辰蔵(たつぞう 家督後は宣義のぶのり のちに弓の8番手の組頭)は、弓組が10組、鉄砲組が20組、西丸に4組があった。

弓組でも、1番手と9番手は、〔駿河組〕の別名をもち、伝統があった。
鉄砲組の〔駿河組〕は、1番手と16番手の2組だけ---そう、うち16番手は本多采女紀品(のりただ 55歳 2000石)が、ついこのあいだまでお頭に就いていた組である---が同心が50人、ほかは30人ずつ。
家康が駿府にいたころからあった組だが、鉄砲の数がそれほど多くはなかったのであろう。
同心が50名というのは、そのころの名残なのかもしれない。

弓の4番手、5番手の異称は〔割組〕。
同じく6番手が〔新組〕

鉄砲の3番手が〔江戸組〕で、同心50人。

明和5年(1768)初夏現在の、弓組の組頭から、まず---。
番手(組屋敷)
(氏名 年齢 禄高 この年までの在職あしかけ年数)

弓組
1番手(駿河組 牛込山伏町) 
 松平源五郎乗通(のりみち)  74歳  300俵 16年め
2番手(目白台)
 奥田山城守忠祇(ただまさ)  60歳  300俵  6年め
3番手(四ッ目南割下水)
 堀 甚五兵衛信明(のぶあき) 59歳 1500石  9年め
4番手(割組 目白台)
 菅沼主膳正虎常(とらつね)  54歳  700石  3年め
5番手(割組 四谷本村)
 能勢助十郎頼寿(よりひさ)  67歳  300俵  2年め
6番手(目白台)
 遠山源兵衛景俊(かげとし)  61歳  400石  6年め
7番手(麻布竜土町)
 長谷川太郎兵衛正直(まさなお)59歳1470石  8年め
8番手(市ヶ谷本村)
 長谷川平蔵宣雄(のぶお)   50歳  400石  4年め
9番手(新組 関口・角筈)   
 橋本河内守忠正(ただまさ)   58歳  500俵  2年め
10番手(青山権田原)
 石原惣左衛門広通(ひろみち) 76歳  475石  3年め

このリストで気がついたことが2件。

まず、先手組頭は、番方(武官系)幕臣の終着駅かその一歩手前とはいい条、あまりにも高齢化しているということ。
先手組は、戦争となれば、真っ先を駆ける先頭軍団である。
もちろん組頭は騎乗であろうが、60代、70代で、戦闘のような荒れ仕事がこなせるであろうか。

第2件めは、弓組のような格式の高いところへ、長谷川宗家から太郎兵衛正直、支家から平蔵宣雄と、10人中2人も占めていれば、とうぜん、怨嗟の目がむこうということ。
つまり、平蔵宣雄は、狙われるべくして狙われたといえる。

銕三郎は、父の人格を尊敬しているから、そのことには気がまわらない。
父・宣雄は、組頭になって、
(とうぜん---)
と考えている。

ただし、自分の女性関係、交友関係が失点になっても仕方がないとは、自覚した。
これまで、みずからすすんでではないとしても、あまりに無頓着すぎた。
  
参照】長谷川太郎兵衛正直 2008年3月17日[ちゅうすけのひとり言] (9)
[明和2年(1765)の銕三郎] (3) (7)
[火盗改メ索引] (1)

2008年6月15日~[長谷川平蔵宣雄の後ろ楯] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16)  
2007年12月18日[平蔵宣雄の五分(ごぶ)目紙]

[宣雄の同僚・先手組頭] (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) 

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2008.11.09

西丸目付・佐野与三郎政親(3)

「粗飯(そはん)だが、供餐(きょうさん)していってくだされ」
平蔵宣雄(のぶお 50歳 先手・弓組の8番手・組頭)が、西丸目付・佐野与三郎政親(まさちか 37歳 1100石)にすすめた。

(てつ)。ご相伴して、酒のお相手を---」
言われて、銕三郎(てつさぶろう 23歳)も、相席している。
このところ、銕三郎の酒の腕は、機会が重なっているので、ほどほどにあがってきている。

生鰹節(なまり)と野菜の煮たのに、茄子(なす)の丸煮、白瓜(しろうり)の塩もみ、冷奴が、膳にならんだ。
銕三郎は、ちろりをとって、佐野与八郎の杯に注ぎなから、
(はて---?)
と、不審におもった。

先刻、与八郎政親は、銕三郎と〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)が、永代橋ぎわの居酒屋〔須賀〕で呑んでいるところを、徒(かち)目付の下働き(徒押 かちおし)が目にし、向島のおの住まいに看視がついたと言った。

参照】[西丸目付・佐野与三郎政親] (1)

徒目付は、目付の下支えをする者たちである。
役高200俵。本丸に40人、佐野のいる西丸に24人。
その者たちが使っている徒押はその倍以上の人員であるが、彼らの職務はお目見(みえ)から上の幕臣の理非の探索であって、よほどのことがないかぎり、町人にはおよばない。

とすると、おの住まいが見張られるはずはない。
(見張られているのは、おれ、なのだ、この銕三郎なのだ。
しかし、お目見もすんでいないおれが、なぜに?)

銕三郎が、与八郎に酌をしながら、その顔に目を向けると、与八郎がうなづいた。

晩餐が終わり、与八郎が席を立つまえに、すかさず、銕三郎が、
与八郎お兄上。新大橋まで、お送りいたしましょう」
佐野与八郎の屋敷は、永田馬場南横寺町(今の霞ヶ関裏手)にある。

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(緑○=佐野家の屋敷 議事堂裏手 1000坪ほど)

さすがに初夏で、表は、暮れなずんでいた。
海からの風が涼気と潮の香をはこんでくる。

銕三郎が並ぶと、与八郎は供の者に、後(おく)れてくるように言いつけた。

「お兄上。先刻のご注意は、徒(かち)のお目付衆が、拙の行状をさぐっておられるからなのですね?」
「察しがついたか。さすがだ。長谷川どのに落ち度が見つからぬための、苦肉の策(て)であろう」
「なにゆえの、落ち度さがしでございますか?」
銕三郎どのも存じおろうが、先手の組頭は、番方(ばんかた 武官系)出世双六(すごろく)のあがりの地位といえる。あとは、資質のすぐれたご仁のみが、役方(やくかた 事務方 行政官)となって遠国(おんごく)奉行へ転出なさる」

「しかし、父上は、組頭におなりになって、まだ、足かけ3年でございます。次のご出世までは、うんと間が---」
「そうではない。長谷川どのは、弓の組頭。先手は、鉄砲(つつ)よりも弓のほうが格が上。鉄砲組のお頭で、弓の組頭への組替えを狙っておられる方がいても不思議はない」
「ということは、拙の不埒(ふらち)が、父上の足を引っぱることに?」
「たくらむものがいるやも---な」

ちゅうすけ注】こうなると、ちゅうすけとしても、銕三郎の注意をうながすためにも、目付に手をまわした、あってはならない醜業をおこないそうな仁さがしに、協力しないわけにはいくまい。
ま、どこの世界にもいつの時代にも、同僚をおしのけて出世したい輩(やから)がいて、不思議はない。とりわけ、鬼平のころの幕府では、家禄が固定した閉塞状態がつづいていたゆえ、役高(職務手当)をねらったり、地位をすこしでもあげたがる幕臣が、少なくはなかったともいえよう。
清いばかりの世界など、小説の中にしかない。

銕三郎が、おと睦んだり、おと親しくはなしたりしたことは、徒目付の下働きによって、松平定信への報告書『よしの冊子(ぞうし)』に、次のように書かれれてもいる。

参照】[『よしの冊子』] (20)←橙色の番号をクリック

長谷川平蔵は、かつて手のつけられない大どら(放蕩)ものだったので---

参照】2008年8月9日~[〔梅川〕の仲居・お松] (8) (9) 
2008年8月14日~[〔橘屋〕のお仲]  (1) (2) (3) (4) (5) (6)  (7) (8)
2008年9月7日~[〔中畑(なかばたけ)のお竜(りょう)](1) (2) (3) (4) (5)  (6) (7) (8)

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2008.11.08

西丸目付・佐野与八郎政親(2)

佐野与八郎政親(まさちか 37歳 1100石)が任じられていたのは西丸の目付だが、目付全版について、松平太郎『江戸時代制度の研究』(初版 大正8年 校訂版 柏書房 1964.6.30)から、現代語訳にして抜粋してみる。

第11章 監察の制として、[大目付。附闕所物奉行]、[目付]、[徒(かち)目付と歩押(かちおし)つき小人及中間目付]の節に分けて書かれている。
とりあえず、[目付]の節---。

目付も、大目付と同じく、監察の任につく。もっぱら、幕臣を統率している若年寄の耳目となって政事の得失を糾察し、諸役人の非曲を弾劾する。とはいえ、その干渉は、奥向きと万石以上の諸侯にはおよばない。
本務としているのは、評定所への出座、万石以下の急養子の当否の検察、そのほか非常の検視、殿中の巡察と詮議を本務とする。
定員は、吉宗の時代に10人と定められて以降、定着した。西丸は別に3~4人と、規模・勤務人数の割に密度が高い。

目付の分掌は、俗に役当(やくあたり)と言って、座敷番、供番、評定所番、名代番、学問所および医学館廻り、米廩および囚獄廻り、勘定奉行宅立会い、諸普請出来栄え見分などの管務がある。
役当は、目付部屋付きの坊主が、前日にあらかじめこれを調査し、次に順をおってその分当を決めるのである(意味がとれない)。

別に、勝手係(予算・出納か)、日記係、外国係、海防係、大船製造係、開港係(上の4係は幕末の新設)などがあった。これの任命は老中。

座敷番は、年始・八朔の殿中儀席を整え、あるいは老・若の大名、旗本に上命を申達するにあたって、座席についての習礼の予行に任じ、奏者番・進物番とともに儀式の任にあたる。
年頭・拝賀の儀礼は次第・進行や格式がややこしいから、もしちょっとでも手落ちがあると、式が混乱するので、この番の者の神経のつかい方はなみたいていのものではない。

供番は、紅葉山や東叡山。増上寺の定式の啓行をはじめ、鷹狩り、川船へのお成りなど随従して。、一向を監督する。定員は2名。
お成りに随従しているとき、雨天であれば駕籠者、小人、黒鍬者、中間などに濡れ手当てを給してやる。
この供番の目付は、評所所の評定が開かれる日は、3奉行(寺社・町・勘定)の裁断に陪席する。

評定番は、単に列席するだけでなく、目安箱の出納、誓詞人の差し引きなどをする(誓詞人の差し引きの意味不明)。

火の口番は、消防の看視をする。出火があれば、昼夜の別なく出行して臨検し、定火消し、町火消し、大名火消しなどの勤怠を視察し、努力抜群の者には褒賞を推薦する。
火災には、火の口番以外の非番目付も居宅から遠くなければ、かなら騎馬で出場し、火勢によっては当番目付に注進すること。

勝手係は、将軍家の会計の経理あるいは勘定所の出納について、だいたいの協定に参与する。

日記係は、殿中の日常の事件やそのほかを記録することになっているが、実際は目付部屋つきの坊主が記録したものを監督している。

諸局が呈出する願書・伺い書・建議書などの文書は、老中・若年寄などが、当番目付へ下附して目付部屋で評議させる。議案の趣旨によつては大目付の参加を求める。
機密にわたる事件などは、それについての意見書の草案を所属の徒(かち)目付に起草させ、当番目付が一覧・添削、捺印し、名下のものから順次回覧し、異存がなければこれに下札(さげふだ 付箋)をつけて奥祐筆へまわし、老中・若年寄へ返達するのがふつうの手順である。

目付は、その職が百僚の規範たるべき地位にあるので、挙措はつねに法や規則にかなうように務める。

本番と称する当直の目付の登城は、大手門から入ると矩折し、歩道の規矩にしたがって歩む。決して近道して斜め横断はしない。諸門の衛士の下座にも目もくれず、玄関にいたると帯刀のまま式台へのぼる。このとき、当番の徒目付・組頭ならびに加番は左右に列して迎え、城内の保安に異常がないことを報告する。
虎の間の徒士番所前をすぎ、紅葉の間の前で、咳をする。書院番士がここに詰めているからである。
こうして、目付部屋の入り口へきて、はじめて帯刀を外し、前日の当番と引き継ぎを行う。

目付は布衣(ほい)の格で、役高は1000石。したがって、佐野与八郎は、持高勤(もちたかづと)めである。

参照】2007年6月8日[布衣(ほい)の格式]

目付は、おおむね、使番から選抜されるが、補任の予選は、同僚の投票である。その結果を若年寄へ上申し、さらに老中の認可をへて、将軍の面前で下命される。
ときには、将軍から候補者の内意が老中・若年寄へ告げられることもあるが、筆頭がうけたまわって目付部屋で評議し、熟議のすえに否となったら、その旨を老中へ進達して阻止するできるが、ま、たいていは台命にしたがってきた。

席次は、先手頭の次で、使番の上(幕末に変更があつたが、佐野与八郎の当時はこのまま)。

西丸の目付は、地位・役高はこれに準じているから、佐野与八郎も同職の投票によって選抜されたとみる。

佐野与八郎の在任は、足かけ11年におよび、安永6年(1777)7月26日に堺奉行が発令された。遠国奉行の中では、長崎奉行に次ぐ要職である。もちろん、このうえには京都町奉行(東西2人)、大坂町奉行(東西2人)がある。

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2008.11.07

西丸目付・佐野与八郎政親

与八郎お兄上、久びさでした。おもしろいお話でもございますか?」
銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)は、父・平蔵宣雄(のぶお 50歳)との打ち合わせが一段落したらしい書院へ顔をだし、客の佐野与八郎政親(まさちか 37歳 西丸・目付 1100石)へ、あいさつした。

ご記憶のいい方は、兄弟のいない銕三郎のために、兄代わりにと請うたのが、14年長の与八郎であったことを、覚えておられよう。

参照】2007年6月5日[佐野与八郎政親(まさちか)]
2007年9月28日[よしの冊子(ぞうし)] (27

去年の10月3日に西丸・小姓組番士から、目付に抜擢されてからは、役目がいそがしいのと、役目がら、ほかの幕臣との私的な交際はひかえるよう申しわたされているせいか、以前ほどには訪ねてこなくなっていた。

「おお、銕三郎どの。あるぞ。ありますぞ」

与三郎が話したのは、まず、側用人・田沼意次が、将軍・家治(いえはる 32歳)の声がかりで、所領の遠江国相良に城を築くことになったが、うわさでは、小さいながらも、その美しさは、鍬入れしたばかりで、もう、ささやかれているという、銕三郎も、すでに知っていることであった。

「そうそう。さるお役付き直臣の子息が、内室をむかえるというので、町方のおんなとのつづいていた縁を、無理矢理切ろうとしたところ、おんなが大川に身を投げての。まあ、行きあった舟に引き上げられて助かったが、そのことが徒歩目付の耳にはいり、いま、詮議の最中だ」
そう言って、与八郎は、もともと大きい目で、じっと銕三郎を見つめた。

与八郎お兄上。なぜにそのように、拙をご覧になりますか。拙には、無縁の出来事ではございませぬか」
「そうかの?」
「そうですとも---」
「永代橋ぎわのなんとやらいう居酒屋で、しばしば、大年増の美形と親しげに飲んでいる部屋住みがいると、お徒(かち)の下働き(徒押 かちおし)からご注進がきておっての、それで、長谷川どのに、大事にいたらないうちにと、伺った次第---」

その後、銕三郎が〔須賀〕で、〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)と2度ばかり話しあったのが、徒(かち)目付の下働きの目にとまったか、告げ口をした者がいるらしい。
(おの美形が目立ちすぎるのだ)

「おどののことなら、ご心配にはおよびませぬ。あの者は、おんなおとこで、拙とは、そういう関係にはなりませぬ」
銕三郎は、なぜか、むきになって言い訳をした。
与八郎は、にやりと気味の悪い笑みをもらし、
「いや、大事に至らない前の、杖です」

与八郎お兄上は、お目付におなりになってから、人が悪くおなりになりました」
「これ、佐野どのに対して、なんという口のきき方をする---」
「いや、銕三郎どのが、これから、気をおつけになれば、よろしいのです。銕三郎どの。あの美形の大年増の隅田(すだ)村の家にも目が光っておるので、こころえおきを---」

(そうか。これは、与八郎兄上の、精一杯の好意であったのだ。さっそくに、おに言って、〔狐火(きつねび)〕に連絡(つなぎ)をつけ、あれたちの住まいを替えなければ---)

〔須賀〕でおに目をつけた下働きが、その帰りを尾行(つ)けて、あの家に行きついたのであろう。
(さて、だれに言伝(ことづ)けたものか。その者も尾行(つ)けられようから、滅多な者はつかえない)

ちゅうすけ注】佐野与八郎は、その後、堺の奉行、大坂の町奉行---と順当に出世をし、田沼派とみられて役をしりぞいてから、平蔵宣以鬼平)が火盗改メ・本役を勤めていた45歳のとき、59歳で助役(すけやく)としてともに盗賊追捕の職に働いたこともあるご仁なので、鬼平ファンなら、ご注目をつづけられたい。
もっとも、そのときは与八郎ではなく、従五位下・豊前守に受爵しており、格は鬼平よりも上であったが、つねに平蔵をたてていたと、史書なある。それだけでも、人柄がしのばれる。

参照】[よしの冊子(さっし)] (17) (18) 

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(佐野家3代 政春・政隆・政親の家譜)

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2008.11.06

火盗改メ・長山百助直幡(なおはた)(3)

銕三郎どの。いろいろとお世話になった。組下の者たちの不行き届きは、許してほしい」
新番の組頭に任じられた本多采女紀品(のりただ 55歳 2000石)が、銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)に、ふかぶかと頭をさげた。
本多さま。とんでもございません。拙こそ、横からなにかとご公務のお邪魔をいたしまして、お詫び申します。どうぞ、これからも、お叱りくださいますよう---」
銕三郎も低頭した。

「ついては、これまでの骨折り賃といっては少なくてなんだが、ほんの志ゆえ、受けてもらいたい」
紀品が手文庫の中に用意していた紙包みを銕三郎の前へ置く。
「拙のほうこそ、束脩(そくしゅう 入門謝礼)もお納めもして
おりませぬ---」
長谷川どのには、営中でご了解を得ておる」

「それから、長山どののこと、不快な思いをさせて申しわけなかった。ま、両目が上ッ方(かた)にばかりと向いている平目(ひらめ)人間と割りきり、ほどほどに手伝ってやればいい。佐々木とかいった筆頭与力が、わが組の小村(筆頭与力)を熱心に口説いたのでな、われとしても聞き流すわけにはいかなんだ」
「はい、心得ております」
「しかし、銕三郎どの、そなたの鼻の鋭さと申すか、探索ぶりというか、そのこと、小村筆頭与力をはじめ、わが組の与力・同心どもにも浸透しておってな」
「首がすくみます」
「うむ。ところで、われは、すでに火盗改メ・本役はご免になっておるので、ここだけの話として洩らしてほしいのだが、神田鍋町の海苔問屋〔岩附屋〕に押しこんだ賊---首領が〔蓑火みのひ)〕の喜之助(きのすけ)とかの一統の、手がかりはつかめたかの?」

参照】2008年8月29日~[〔蓑火(みのひ)〕のお頭]  (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)

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銕三郎は、とっさに〔中畑(なかぱたけ)のお(りょう 29歳)の澄んだ双日眸をおもいうかべ、頭(こうべ)をふった。(歌麿 お竜のイメージ)

「なかなかに、手がかりもなく---」
「さようか。では、おとか申すおんな賊に、出会えたら、本多紀品がよろしく申していたと伝えておいてくれないか」
「あっ---」
「あは、ははは。よい、よい。われは、もう、お役目ご免の身と申したであろうが。このことは、小村筆頭と2人だけがしっている秘めごとでの」
「それでは、長山さまの組には---?」

参照】2008年11月1日~[『甲陽軍鑑』] (1) (2) (3)

「引き継ぐものか」
「恐れいりました」
長谷川どのにも、告げるものではない」
「かえすがえすも、恐縮」
「その紙包み、しまってくれ」

銕三郎の目には、紀品の躰が急に大きくなったように見えた。
(男は、このようにありたい)

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2008.11.05

火盗改メ・長山百助直幡(なおはた)(2)

長山百助直幡(なおはた 57歳 1350石)が、表六番町の本多邸を辞して、赤坂中町の自邸へ帰っていった。

与力筆頭・佐々木与右衛門(よえもん 50歳)は残って、別室で、本多組の筆頭与力・小村参次郎(さんじろう 52歳)などと打ち合わすために、引きさがった。

そのまま客間にいた銕三郎(てつさぶろう 23歳)は、こころやすだてに、当主・采女紀品(のりただ 55歳)にi訊いた。
長山さまの祖のお方は、大権現(家康)さまに、どういう大手柄がおありになったのでございますか?」
「うむ。じつは、三河以来の家柄ではなく---」
武田ですか?」
「いや。五代さま(綱吉)の、神田の館でお召しかかえになった」
そりきり、紀品は口を閉ざした。

したがって、ちゅうすけが代わって、銕三郎へ説明しよう。

深井雅海(まさうみ)さん『江戸城--本丸御殿と幕府政治』(中公新書 2008.4.25)は、2008年4月29日[〔盗人酒屋〕の忠助] (1)でも紹介した。

同書に[綱吉の将軍就任に伴う神田御殿家臣の幕臣化]という項がある。
いささか長めになるが、長山家にかかわる(?)ことだから、ま、いいとしよう。

徳川綱吉は、三代将軍家光の第四子として正保三年(1646)正月に生まれ、慶安四年(1651)四月、六歳のとき、父家光の死の直前に「厨(くりや)料」として一五万石を与えられた。
ついで、寛文元年閏(うるう)八月、一六歳のとき、兄の四代将軍家綱から一〇万石を加増されたニ五万石となり、上野(こうずけ)国館林(たてばやし)城主に就任した。
こうした「家門大名」が取り立てられた場合、将軍家から付属家臣がつけられるのが慣例であった。綱吉も、誕生直後から家臣をつけられているが、館林城主に就いた頃までには、少なくとも約ニ〇〇人の幕臣ならびに幕臣の子弟が付属している。

あることを調べるために、ちゅうすけが『寛政重修(ちょうしゅう)諸家譜』の全巻・全ページをチェックしたとき、
「神田の館において常憲院殿(綱吉)につかへたてまつる」
「桜田の館において文昭院殿(家宣 六代)につかえへたてまつる」
と書かれた幕臣がよく目についた。

深井さんの説にあるとおり、所領にふさわしい家臣(軍)団を整えるために、取りつぶしその他で禄をうしなっていた浪人たちの中から、有力な推薦者のある者が仕官できたのであろう。

再び、『江戸城--本丸御殿と幕府政治』。

綱吉が館林城主になった二~三年後には(『館林様分限帳』による家臣団は)一四一五人、将軍となる直前には二五一一人を数えることができる。このうち、御目見え以上の家臣の前歴を調べたのが表27である。

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幕府からつけられた家臣が六三%を占め、残りが新規召抱えであることがわかる。

長山家の祖が新期召抱えに入ることは、『寛政譜』に記されている。
ただ、解(げ)せないのは、2代目・弥三郎直利(なおとし)の、250俵からのたび重なる加増の理由である。
綱吉が江戸城入りしたのは、35歳のとき。
小姓組の番士から主の身辺の用を弁ずる小納戸となっていた弥三郎は34歳。
まさか、綱吉に男色の嗜好があったとはおもえないから、よほどに気にいられていたのであろう。
柳沢吉保(よしやす 享年57)の、家禄160石・廩米370俵から甲府城主・15万1200石の例もないではないが---。
直利は、ついには1350石を給されている。
理由を記した史料があれば、目を通したいものである。

本多紀品が、にがにがしげな口ぶり---
「三河以来の家柄ではなく---」
が、なんとなく<、わからないでもない。

もう一つの不思議は、武門の出かどうかもさだかでないのに、直幡が先手の組頭に任じられた理由である。
ものの本によると、本貫は加賀とあり、そちらで、武家であったのか。
先手組頭になる前の書院番で、与頭をつとめていたときの上司の番頭は、金田遠江守正甫(まさとし 在任49~59歳)で、偶然であろうが、番頭の期間は、直幡の与頭の期間と、ほとんど重なる。
上司・遠江守正甫は、そのあと大番の番頭へ転ずるが、栄転の前に、百助>直幡を先手の組頭へ推挙したとも推量できないこともない。

長谷川平蔵宣以(のぶため)の生涯を仔細に観察していると、歴史に名をなさないような幕臣の動きやさまざまな思惑めいたものが透けて見えてくるので、なかなかに、やめられない。

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ちゅうすけ注】長山家の拝領屋敷=緑〇は、綱吉のころにもかかわらず赤○=赤坂氷川明神社のそばに700坪前後。奇しくも長谷川家の最初の拝領地と近接している。


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2008.11.04

火盗改メ・長山百助直幡(なおはた)

銕三郎どの。こちらが、このたび、われの後任として、本役をお勤めなされる、長山どのです。お見知りおきをお願いしておきなされ」
本多采女紀品(のりただ 55歳 2000石)が、引きあわせた。

紀品は、明和5年(1768)4月28日づけで、先手・鉄砲(つつ)の16番手の組頭から、本丸の新番・組頭に栄転したのである。
ただし、この「栄転」という言葉には(?)がつく。
というのは、先手組頭は1500石高の格で、家禄が1500石に満たない、たとえば、銕三郎の父・長谷川平蔵宣雄(のぶお 50歳)のように、家禄が400石のばあいは幕府が1100石を足(たし)高をして、格式をはれるようにしてくれる。
もっとも、平蔵宣雄は、小十人の頭(1000石高)からの栄転であったから、実際に足(た)されたのは500石であった。

本多紀品は、家禄が2000石だから、1500石高の先手の組頭の場合は、足高はない。
こういうのを持高勤(もちだかづとめ)という。
裏ではともかく、表で言った不平が目付衆の耳にでもはいって上へ伝わると、つぎの出世がなくなる。

新番頭は2000石高なので、紀品は、ここでも持高勤であった。
新番は、本丸に6組、西丸に3組あり、紀品が拝命したの、本丸の6番手の組頭であった。
まあ、こまかいことをいうと、新番の組ごとの組衆は20人だから、先手16番手のときの与力10騎・同心50人より、配下が少ないだけ、下へ遣う物入りが少なくてすむということはある。
(先手の同心はほかどの組とも30人が定員だが、紀品が組頭であった鉄砲の16番手だけが、なぜか、20人も多く配属されていた)。

もう一ついうと、紀品の養父・内匠利英(としふさ 没年37)も、その養父・采女紀当(のりまさ 没年37)も、平(ひら)の書院番士のままで終わっているから、組頭にしろ番頭にしろ、持高勤めとはいえ、役付までいったのは紀品が能才だったともいえる。

参照】2008年2月9日~[本多釆女紀品] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) 

あとで、紀品銕三郎にこっそり洩らした愚痴は、
「火盗改メの長官(かしら)として渡されていた40人扶持(年におよそ18石強)がなくなると、ちと、つらい」
であった。
これは現物支給だから、1石2両2分とみて、年50両近い役職手当であった。もちろん、その半分は、小者や牢番の食費・手当てについえはしたが---。

舞台を表六番町の本多邸へもどす。

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(表六番町ぞいの本多邸)

長山百助直幡(なおはた 57歳 1350石)は、3年前に書院番の2番組の与頭(くみがしら 組頭とも書く 1000石高・布衣(ほい))から先手・鉄砲の4番手の組頭へ栄進した。
そして、去年の10月に火盗改メ・相役(あいやく)に補された。

参照】2008年9月6日[火盗改メ索引] (1)
[〔蓑火(みのひ)〕のお頭] (3) (5)

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(長山百助直幡の個人譜)

冬場の助役(すけやく)には、荒井十大夫高国(たかくに 59歳 250俵)がいたから、この時期、火盗改メは3人いたことになる。
異例ではある。

参照】2007年12月14日[宣雄、小十人頭の同僚] (5)
2008年9月4日[〔蓑火(みのひ)〕のお頭] (7)

長山直幡は、組の筆頭与力・佐々木与右衛門(50歳)を伴っていた。
本多紀品は、その佐々木与力へ顔を向けて、、
佐々木筆頭どの。こちらの銕三郎どのは、異能といっては失礼だが、犬も顔負けというほどに鼻のきくご仁でしてな」
「どのような臭いを---?」
「賊の臭いです」
「ほう」
長山が怪訝な、といった視線を、銕三郎へ投げかけた。

「いや。わが組は、銕三郎どのの鼻のおかげで、幾人もの賊を召し捉え.ることができたのです。4番手の長山組も、銕三郎どのとつながりをお持ちになっておおきになれば、成果がえられましょうぞ」
「これは、いいことをうかがいました。実を申しますと、本多番頭さまもご存じのように、わが組は、50年も前に火盗改メを辞して以来、この職務についておりませぬゆえ、追捕の経験をもったものが一人ものこっておりませぬ。長谷川どののお力を借りること、本多番頭さまより、ぜひ、お口ぞえを願いたく---」
佐々木与力は、こだわりなく、頭をさげたが、長山組頭は、あまり、おもしろくなさそうな表情であった。

それと察した本多紀品は、
佐々木筆頭どの。そのことは、のちほど、わが組の小村筆頭とお打ち合わせなされ」

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2008.11.03

『甲陽軍鑑』(3)

_100甲陽軍鑑(1)にあげた[ちくま学芸文庫]の現代語訳は、内容はすばらしいのだが、残念なのは、本篇[上巻に相当]のみらしいことである。
訳者・佐藤正英さんに、ご苦労ではあるが、つづいて末書([中巻]{下巻]に相当)もお訳しいただくことを望みたい(それには、[上巻]の売れ行き次第であろうから、当ブログにアクセスしてくださっている鬼平ファンの方がたも、注文・購入にご協力していただけると、版元も企画をすすめるであろう---冗談のような、補足を。当ブログにはアフリエイトはついていません。文庫が売れ行きとはまったく無縁です)。

_100_2小和田哲男さん『甲陽軍鑑入門』(角川ソフィア文庫)に、末書[上巻]に「信玄公五ッの御作法」の一部が収録されているので、非才をかえりみずに現代語訳を試みる。

信玄公五ッの御作法は、

1. 天命を晴信(法名・信玄)公は大事になさっていた。
例を記すと、武田の家は、新羅三郎公から晴信まで27代、弓矢をとって誉れのなかったお方はいなかった。さらに27代目の晴信公においては、その武名・勇名は、とりわけ、高くなった。
晴信公は31歳で法体におなりになり、機山・信玄・徳栄軒と、禅知識のように3ッの名をおつけになったわけは、代々久しく武田一門の地獄をおもんぱかられ、天道を大事におおもいになったからである。

2. 国持ちの大将衆と通じあうと、、こちらのお使い衆にその国の絵地図を描かせ、山・川・城のもよう、山の樹木の茂り具合、川の水位のあんばい、瀬の変化の仕よう、道路事情とその難所を土地のものから聞き取って報告させ、熱心に研究なさった(中略)。

_100_3ちゅうすけ注】『孫子』は[地形篇]を設けて、将たるものは地形をよく知り、それぞれの特性に対応した戦術を立て、さらには臨機応変すべきことを説いている。信玄が、絵図を描かせ、山・川の状態を報告させているのは、将たるものの務めであろう。
盗賊のお頭も、押しこみ先の家族や従業者の人数や間取りのほか、取引の動き、退路の確保など、配下の逃避の万全を調べつくしておかないと、手下衆もしたがってこまい。

3..戦陣にあたっては、動員部隊の規模、部隊の編成、合戦の陣形と始め方、退(ひ)くころあい---そういった戦いのすべてを、信玄公は秘密裡にすすめられた。最高軍議で発言できたのは、馬場美濃内藤修理山県三郎兵衛高坂弾正の4人にかぎられていた。
その軍議を傍聴できのは、土屋右衛門尉小山田兵衛尉曽根内匠三枝勘解由左衛門真田喜兵衛の5人にかぎられていた。

ちゅうすけ注】『孫子』は、
「兵者詭道(きどう)也
戦争は、敵をだますことである---と喝破している。古来から「謀(はかりごと)は密なるをもってと尊しとなす」とも、「謀(はかりごと)を帷幄(いあく)に廻(めぐらす)」ともいうごとく、軍略・作戦は絶対極秘でなければならないし、無情のものでもある。信玄の軍議の参加者がごく少数の重臣中の重臣にかぎられていたのは、むぺなるかなといえよう。
盗(おつとめ)みの計画も同然である。

4.武家に生まれ、武士の道を大事とおもっておられ、忠節・忠功にはげんだ者をそれ相応に賞された。一方で、功のない者には賞はなかった。その扱いの違いは、天と地ほどであった。
大身・小身にかかわらず、功のあった者への賞されようは、他国とはくらべものにないほどおこころがこもっていたから、これを見聞きした者がいずれも、忠節・忠功にはげむような仕組みにこころがけられていたのである。

ちゅうすけ注】〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)が、銕三郎(てつさぶろう 23歳)の問い、
「『軍鑑』からなにを学ばれましたか?」
に、即座に、
「一つは、将たるものの器量、一つは、働きに対する褒章の公平。一つは、人の強弱、重軽、信不信の見分け方、一つは、10戦ったら、勝ちは3っでも多すぎる。要は負けないこと」
と応じた、「働きに対する褒章の公平」が、これにあたてるのかも。

参照】[『甲陽軍鑑』 (1)

5.源信玄公は、物頭(ものがしら)を仰せつけた人に、一ッことをいく度もお尋ねになった。つねづね、なんについても、くどいぼと念をいれてお問い質(ただ)しになるのは、お館ではもちろん、ご普請場、あるいは配下の衆の親・兄弟の健康についても、いろいろとご質問になるのが、癖---というのは、それに及ばない者の負け惜しみであろう。
信玄公は、そうなさることで、その者の考えていることを聞きだしておられたのであり、また、親への孝行に意をつくしているかどうかを観じておられたのである。
とりわけ、役付の者---20人衆頭、・中間頭、小人頭までにも、そのようであったが、実は、その人物の知力、実の有無、忠・不忠のこころ、強弱、肌あい---などの各人各様の気質を、ご自分の目でたしかめておられたといえよう。

_100_4(おれは、まだ、おに及ばないところがある---)
銕三郎が、そう感じていたのを、おは観じとり、
(このおのこ(男)は、うまく育てば、とてつもない大器になる、見とどけたいものだ)
下腹のあたりが、熱くなっていた。
男に対して感じた、初めての経験であったから、おは、内心、あわてた。
しかし、表情にはださず、双眸の奥を光らせただけであった。

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2008.11.02

『甲陽軍鑑』(2)

甲陽軍鑑』から学んだことの第一に、〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)は、
---将たるものの器量。
をあげた。
たしかに、東海道・六郷の渡しで逢った〔蓑火みのひ)〕の喜之助(きのすけ 45歳=当時)お頭の器量は、将たるにふさわしい大きさ、肌あいの柔軟さであった---もっとも、そのときは、銕三郎(てつさぶろう 22歳=当時)は、煙草をすすめてくれた小柄な40男が喜之助とはしらなかったのであるが。

参照】[明和4年(1767)の銕三郎] (9)

孫子』にはなんとあったか?
冒頭に、こうある。

将者、智信仁勇厳也。

将たるものは、英智にすぐれ、部下に信頼されており、部下へのおもいやりが篤く、どんな事態にも勇気を忘れず、掟(規律)を守らせる厳しさを備えていなければならない。

蓑火〕のお頭が、言いつけを破った〔伊庭いば)〕の紋蔵 (もんぞう)を放逐したのも当然の処分である。
紋蔵にしたがって膝元を去っていった4人が火盗改メに捕縛されるのを、拱手して冷然と見ていたのも、うなずける。

しかし、〔中畑〕のおを、いくら盟友とはいえ、〔狐火きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう)へ譲りわたしたのは、どういう考えからであろう。
は、そのことには答えなかったから、銕三郎もあえて、深追いしなかったが---。

ただ、備前・岡山の浪人あがりの栄五郎(えいごろう 30がらみ)という名がおの口から洩れたことからの推測だが、その浪人の智力と胆力、それに剣の腕を〔蓑火〕が買っているらしい。
殿さま栄五郎〕とまで、尊称されているそうな。
軍者(ぐんしゃ)が3名になったようなものである。
3名はならび立たないと、昔から言われている。

それと、おは、お(かつ 27歳)のことで、珍しくドジをふんだ。
銕三郎がいた渡船場の茶店〔小浪〕で、うっかり、料亭〔平岩〕を推測させる地名を口走ってしまった。
引きこみにはいっていたおの所在を捜していた、銕三郎に〔平岩〕が発覚(バ)れた。
は退(ひ)かざるを得なかった。
は、雑司ヶ谷の料理茶屋〔橘屋〕もしくじっている。

参照】〔平岩〕の引きこみ失敗---[〔うさぎ人(にん)〕の小浪] (7)
[蓑火(みのひ)のお頭] (8)

は、自分から責(せ)めをとって身を退(ひ)くことを〔蓑火〕へ申し出たのであろう。
蓑火」の喜之助としても、掟ての手前、認めるしかなかった。

の言っていた、

---一つ。働きに対する褒章の公平---と。

〔公平〕ということでは、罰もそうでなければなるまい。
しかし、おの才智をおしんだ蓑火は、盟友〔狐火〕の勇五郎に、預けるような気持ちでゆずったのではなかろうか。

「これからも、逢えますか?」
と訊くと、おは、
「私のほうから、お願いします。〔狐火〕のお頭からも、長谷川さまとの連絡(つなぎ)を絶やさないように、申しつけられております」

は、綾瀬川河口の木母(もくぼ)寺に近い墨田村の、かつておが囲われていた寓居に住むようにいわれたらしい。
は、どこかの料亭に職をえるだろうが、あそこから通える料亭というと、木母寺境内の〔植木屋〕半左衛門---略して〔植半〕か〔武蔵屋〕清五郎であろう。

_300
(木母寺境内の料亭〔植半〕と〔武蔵屋〕)

しかし、〔平岩〕の女将・お(のぶ 45歳)が、すでにしゃべりまくっていると、どことも手びかえるであろう。
(明日にでも、女将に逢って口止めしておかねば。そうだ、ついでに、こんどのお(なか 34歳)の月一の紋日に、連れていってご馳走になることを約しておくかな。近くの隅田川の芦の茂みに舟を入れて、春画のとおりのことをやってみて、おを喜ばしてやるか)

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(栄泉『墨田川』 イメージ)

結句、おは、銕三郎の口ぞえで、墨田川際の寺島村から渡しで渡った対岸・橋場の船宿〔水鶏(くいな)屋〕に通うことになった。

参照】[お静という女] ()<

_100ちゅうすけ注】『甲陽軍鑑』にご興味がやお湧きになったら、大和田哲男さん『甲陽軍鑑入門』(角川ソフィア文庫 2006.11.25)をおすすめする。江戸初期から最近までの『甲陽軍鑑』の史料性についての変化、読みどころなどがやさしく説かれていて、さすが---とおもわせる。
大和田さんの長谷川家についての史料を駆使しての考察もすばらしいが、これは、日を改めて紹介しよう。

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2008.11.01

『甲陽軍鑑』

「『甲陽軍鑑』のおさらえ講の講中だったそうですね?」
あいさつを交わしおえたところで、銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)がきりだした。

_100(りょう 29歳)は、涼しげな瞳に笑みを添えて、
中畑(なかばたけ)村の庄左衛門さまをお訪ねになったそうですね」
その、深い渕のように澄んだ双眸は、視線を合わせた者のこころを吸いこむようであった。
肌は、青いといえるほどに透き通った白さであった。
(これは、まさに魔性のおんな。男だと腰が引ける。おなごなら、安心してよりかかるであろう)
銕三郎は、視線をそらさなかった。(歌麿 お竜のイメージ)

庄左衛門(しょうざえもん 55歳)は、甲州八代郡(やつしろこおり)、駿州への往還の中道ぞい、中畑村の村長(むらおさ)である。
銕三郎はこの春先に、甲府勤番士・本多作四郎玄刻(はるとき 38歳)の先導で、その村を訪ねた。
の生い立ちと、捨郷した理(ことわ)りを追うためであった。

参照】2008年9月7日~[〔中畑(なかばたけ)〕のお竜〕 (1) (2) (3) (4) (5)  (6)
とくに、(7) (8)

銕三郎は、巨盗の首領・〔狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 48歳)の手くぱりで、お(りょう)と対面している。
勇五郎は、〔蓑火(みのひ)の喜之助(きのすけ)と浅草・今戸一帯の香具師(やし)の元締・〔木賊(とくさ)〕の林造(りんぞう)との紛争の火種が、銕三郎の仲介(なかだち)で片づいたので、おとのつなぎを、〔小浪〕の女将・小浪(こなみ 29歳)にまかせて、上方へ去った。
とうぜん、〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七(げんしち 52歳)もしたがった。

小浪は、なんと、対面の場所として、向島・三囲稲荷社の北側の料亭〔平岩〕を指定したのである。

_360
(向島・三囲稲荷北隣の料亭〔平岩〕 尾張屋板)

〔平岩〕には、おの相方・お(かつ 27歳)が座敷女中として引きこみにはいっていたが、銕三郎が、警告したため、〔蓑火きつねび)一味は、押しこみをあきらめ、おを引きあげさせた。

「おどのが、〔蓑火〕一味の軍者(ぐんしゃ)を退(ひ)いて、〔狐火〕のお頭のもとへお移りになるのは?」
それには答えず、おは、
「わたしに、『甲陽軍鑑』についての、どのようなことをお訊きになりたいのでしょう?」
「『軍鑑』には、軒猿(のきざる 忍びの者)たちのことは書かれておりませぬな」
「書き手の高坂弾正(だんじょう 昌信)さまの役目ではなかったからでしょう。あの者たちは、真田安房守昌幸 まさゆき)さまがとりしきっておられましたから---」

「『孫子』には、たしか、[用閒篇(間者の用い方)]がありましたな」
「ありました。機山(きざん 信玄の別の法名)さまもとくとお読みになっておられたとおもいますが、『軍鑑』は、弾正さまがお書きになったものですから---」

参照】2008年10月1日~[『孫子 用間篇』 (1) (2) (3)

_100_2「もとへ戻して、『軍鑑』からなにを学ばれましたか?」
「一つは、将たるものの器量、一つは、働きに対する褒章の公平。一つは、人の強弱、重軽、信不信の見分け方、一つは、10戦ったら、勝ちは3っでも多すぎる。要は負けないこと」
「戦策ではなかったのですか?」
「それは、いつも異なりますゆえ---」
あいかわらず、おの表情は静かなままである。(『甲陽軍鑑』ちくま学芸文庫 佐藤正英・校訂/訳 2006.12.10)

〔平岩〕の女将・お(おのぶ 45歳)があいさつに入ってきた。
長谷川さま。このたびは、たいそう、お気にかけていただいたそうで、危うく難を逃れることができました。お礼の申しあげようもありません」
「え? 拙がなにか---?」
「今戸橋の〔銀波楼〕のお(ちょう 51歳)女将さんから、教えられて、もう、驚くやら、安堵するやら---」
「いや。〔平岩〕どの。お手配なさったは、火盗改メ・本役のお頭・本多采女紀品 のりただ)さまです。お礼はあちらへ---」

「どうぞ、存分にお召しあがりください。せめて、お召しあがりいただくことで、万分の一ほどもお報いできればと---」
女将は、そう言って下がった。
も、つづいて、頭を下げた。
「お(かつ 27歳)が危なかったところを、お救いくださったこと、あらためてお礼を申しあげます」
「いや。それより、おどの。〔狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 48歳 初代))のお頭を、よくよく助(す)けてあげてください」
銕三郎は、ついつい、口にしてしまつた。
というところを、〔狐火〕に代えたのであった。

参照】2008年10月29日[〔うさぎ人(にん)・小浪(こなみ)] (7)


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