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2008.11.19

諏訪左源太頼珍(よりよし)

「このうちで、諏訪さまのように、ご一門にお大名がいらっしゃるのは---?」
先手・鉄砲(つつ)組の組頭の名簿の中に、諏訪左源太頼珍(よりよし 62歳 2000石)の名があるのを見たお(りょう 29歳)が、こう、銕三郎に問うた。
それで、疑いのあった6名が、さらに次の4人にしぼられた。

参照】2008年11月16日[宣雄の同僚・先手組頭] (7)

番手(組屋敷)
(氏名 年齢 禄高 この年までの在職あしかけ年数)

番手(組屋敷)
(氏名 年齢 禄高 この年までの在職あしかけ年数)
7番手(麻布が前坊谷)
 諏訪左源太頼珍(よりよし)    62歳 2000石  5年め
9番手(小石川伝通院前)
 遠藤源五郎尚住(なおずみ)    52歳 1000石  3年め
15番手(駒込片町)
 仁賀保兵庫誠之(のぶざね)    57歳 1200石  1年め
17番手(市ヶ谷本村)
 松前主馬一広(かずひろ)      46歳 1500石 16年め

この4家の中から、勝手向きがもっとも裕福な家と、もっとも逼迫している家を探すことになった。

まずは、諏訪左源太頼珍である。

_120信州の古家・諏訪家が徳川に就いた経緯(ゆくたて)を、宮城谷昌光さん『新三河物語 下』(新潮社 2008.10.20)から引用する。
この小説は、なにしろ、ことし、もっとも感動して読み、いま、再読にかかっているほど、入れあげている。
たぷん、3読、4読するであろう。
4読以上している小説は、『鬼平犯科帳』と、宮部みゆきさん『本所深川ふいぎ草紙』(新潮文庫 1995.6.10)くらいと告白していい。
3読なら、100はくだらないが---。

本題へ戻る。
武田勝頼が自刃し、信長亡きあと、信州・諏訪郡には、川尻秀隆が受け取った。
以下、宮城谷さんの文章による(ブロク文向きの行替えはちゅうすけ)---

---諏訪郡は河尻秀隆の支配地であった。                  ’
 甲斐((かい)一国を与えられた秀隆であるが、甲斐には穴出梅雪(ばいせつ)の領地があり、それを秀隆が領有することができないので、かわりに信濃の諏訪郡をさずけられた。甲斐の古府中(こふちゅう)で政治をおこなった秀隆は、配下の弓削(ゆげ)重蔵を諏訪湖の束に位置する高島城にすえて、諏訪郡を治めさせた。
 ところが諏訪郡はなんといっても諏訪氏の本拠である。
武田勝頼(かつより)の外祖父にあたる諏訪頼重(よりしげ)が弟の頼高(よりたか)とともに武田晴信(はるのぶ 信玄)によって自害させられたあと、諏訪氏の血胤の本統は武田勝頼にあるとされた。
が、勝頼も亡くなったので、諏訪氏の嫡流は絶えてしまったが、庶流でもよいから諏訪氏をこの地で擁立したいと切望している遺臣や郷党がいた。
かれらにとって織田信長の急死とその後の河尻秀隆の横死は、諏訪氏再興と失地回復のためには絶好の機であり、諏訪一門である千野(ちの)昌房(まさふさ)は兵を糾合(きゅうごう)して、高島城を攻め取ってしまった。
すかさず、諏訪上社(かみしゃ)の大祝(おおふり)である諏訪頼忠(よりただ)を迎えて城主とした。頼忠は頼重の従弟である。
大久保忠世(ただよ)は高島城に乗り込んで、頼忠や昌房に面会して、
 「せっかく再興なさった諏訪家を頽落(たいらく)させてはなりませぬ。徳川をお侍みになり、上杉と北条の烈風をおしのぎなされよ」
と、懇々(こんこん)と説いた。

忠世に誠実さ見た頼忠は、徳川にしたがうことにした。

参考諏訪大社 

809
(諏訪大社 秋宮拝殿)

ここからは、『寛政重修諸家譜』の諏訪頼忠の項を現代文ふうになおして引く。

天文5年(1536)諏訪に生まれる。頼重が信玄に殺され、その武田家が諏訪を領するといえども、ふたたびその遺領を相続した。
天正10年(1582)、東照宮が甲州国を平均したもうたとき、大久保七郎右衛門忠世をして速やかにお味方に属すると仰せくださった。
その後、酒井左衛門尉忠次(ただつぐ)が来て、信濃国のものはことごとくわが下知にしたがうようにと布告した。
頼忠は、これを聞いて、われはすでに東照宮にしたがいたてまつっている。どうして忠次の命令をきかねばならないんだ、と同心しなかったが、忠次は、さらに屈服させよようとした。

ふたたび、宮城谷さんの小説から---

---忠世の調儀(ちょうぎ)は順調であった。
 ところが三千の兵を率いて伊那路を北上してきた酒井忠次(たたつぐ)が、七月十四日に諏訪にはいったことで、忠世の努力がそこなわれた。すなわち忠次は諏訪の諸豪族に、
 「信州はことごとく忠次が指揮するところである。諏訪傾忠も忠次に従うべし」
 と、触(ふ)れた。それをきいた頼忠は憤激した。
 「われは徳川どのの幕下に属すのであり、なんぞ忠次に従わんや」
 一朝(いっちょう)、高島城は火器と弓矢をならべて忠次の軍をこばむ城に変わってしまった。忠次は高島城を攻撃した。
---ばかな。
忠世は嚇怒(かくど)した。忠次のもとへ直行した忠世は、
「諏訪をひきっけて味方にしたのに、左衛門尉どのの口先が、ふたたび敵にしてしまった」
と、まともになじった
「何をいうか---」
忠次もけわしい口調でいいかえし、この口喧嘩(くちげんか)のすさまじさは、遠くできく者をおびえさせた。忠世は虫の居所(いどころ)が悪い。

先の引いた『寛政譜』だけからではなかろうが、小説家の想像力・創作力のすごさをおわかりいただけたろうか。

戦国時代のこと、これから紆余曲折があって、諏訪頼忠はふたたび本領を安堵され、子孫は明治まで高島(諏訪)藩3万石を治めた。

頼忠頼水(よりみず)-忠恒(ただつね)-忠晴(ただはる)ときて、忠晴の次弟・頼蔭(よりかげ)が1000石を分与されて分家、その3代目が頼珍である。

_360
_360_2
(諏訪左源太頼珍の個人譜)

さしたるエピソードの持ち主にはみえないが、使番をつとめているから、言語は明晰で、容貌もそれなりであったろう。
勝手向きのことは、本家の藩財政とともに、これから、だれかをやって調べさせよう。


参照】[宣雄の同僚・先手組頭] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9)


参照】2008年11月19日~[諏訪左源太頼珍(よりよし)] (2) (3) (付)

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