ちゅうすけのひとり言(28)
諏訪左源太頼珍(よりよし 62歳 2000石 先手・鉄砲7番手組頭)にこだわりつづけている。
頼珍の【個人譜】は、2008年11月19日の この欄に掲示した。
そのとき、頼珍の本家である、安芸守頼忠(よりただ)について、宮城谷昌光さん『新三河物語』(2008)を引いておいた。
その一節を再録。
---武田勝頼(かつより)の外祖父にあたる諏訪頼重(よりしげ)が弟の頼高(よりたか)とともに武田晴信(はるのぶ 信玄)によって自害させられたあと、諏訪氏の血胤の本統は武田勝頼にあるとされた。
が、勝頼も亡くなったので、諏訪氏の嫡流は絶えてしまったが、庶流でもよいから諏訪氏をこの地で擁立したいと切望している遺臣や郷党がいた。
かれらにとって織田信長の急死とその後の河尻秀隆の横死は、諏訪氏再興と失地回復のためには絶好の機であり、諏訪一門である千野(ちの)昌房(まさふさ)は兵を糾合(きゅうごう)して、高島城を攻め取ってしまった。
すかさず、諏訪上社(かみしゃ)の大祝(おおふり)である諏訪頼忠(よりただ)を迎えて城主とした。頼忠は頼重の従弟である。
「頼重と弟・頼高が信玄にによって自害させられた」という、一行が心にのこったので、『寛政譜』の諏訪家の項をあらためて読みなおした。
『寛政譜』によると、頼重の18代前の諏訪城主で鎌倉幕府に仕えた盛重(もりしげ)が初めて、諏訪姓を称したとある。それまでは、神代以来、神氏(かみうじ)であったと。
12代前の弘重(ひろしげ)の弟でなかなかの勇者であった頼重の名をもらったが、晴信(22歳 のちの信玄)によって自刃させられた。
さらに、『寛政譜』は、
刑部大輔頼重
武田信玄と境をあらそうことしばしばなりしかば、信玄偽りて親睦し、その妹を嫁す。天文十一年信玄また欺て頼重を招よせ、四月二十一日板坂にをいて自殺せしむ。法名道洪(どうこう)。そのまま信玄父子相続て諏訪を押領すること二十余年におよぶ。妻は武田陸奥守信虎が女。
『寛政譜』を編纂した儒学者たちは、信玄の詐謀を是としていないような印象を受ける。
戦前に出た平凡社『日本人名大事典』(1937)も、『寛政譜』をほとんど孫引きしている。
スワヨリシゲ 諏訪頼重(~1542)
戦国時代に於ける信濃国諏訪の豪族。その先祖は八井耳命の孫五百建命より出づといふ。諏訪刑部大輔頼隆の子。父の後を継いで刑部大輔と称し、また安芸守ともいった。甲斐の武田信玄と境を争うこと数年に亙り、信玄は遂に策略を以ってこれと和し、配するにその妹を以ってし、一子を生ましめた。ここにおいて天文十一年(1542)(新暦)六月信玄に招かれて甲府に赴いたが信玄の臣板垣信形(方)のために擒(とりこ)にせられ、その七月四日その邸に於て自刃した。法号を道洪といふ。室は武田信虎の女、すなわち信玄の妹である。頼重の女は頗る美人であり、信玄の妾となって勝頼を生んだ。頼重歿するや諏訪氏の嫡流は絶え、信玄父子相継いで諏訪を押領すること二十余年に及んだが、頼忠出でて遺領を相続しえたのである。(桑田)
晴信(しんげん)がどういう虚偽を用いたか。
それを明らかにする文献をまだ目にしていない。
新田次郎さん『武田信玄』(文春文庫 1974.10.1)は、武田軍に攻められた頼重は、上原城に火を放ち、近くの出砦ともいえべき桑原城へ移ったが、従者のほとんどに去られ、生命の保証を条件に降伏、古府中へ護送された。
そして、自刃の場面---
---奥座敷には、切腹の座がつくられていた。真新しい。茣蓙(ござ)の上に敷かれた白絹が眼に痛かった。そこが、頼重の切腹の場所だった。
板垣信方は、板の間に、家来を従えて座った。
信方は彼の白絹を見るにしのびないように、瞑目(めいもく)して頼重が座につくのを待った。
頼重はいささかも足の乱れもなく、諏訪神社神官長(しんかんちょう)守屋頼真(よりざね)を従えて、切腹の座についた。頼重の白装束が、頼重の顔によく似合った。(中略)
頼重は諸肌(もろはだ)を脱ぎ、自らの脇差の鞘を払って、切先(きっさき)を酒につけてから、
「信方、切腹の作法をよく見ているがよい」
と叫んで割腹して死んだ。守屋頼真書留によると、
肴というのは脇差に候よと申せられ脇差を取りよせ、十文字に腹掻切(かきっき)り、三刀目(みかため)にて右の乳の下に突き立て、天目(てんもく)ほど繰(く)り落とし、やがて後ろに仆(たお)れ候、壮烈極(きわま)リ鳴き御最後に候。
とこの時の様子を書き残してある。
当時の切腹は鎌倉時代の遺風を伝え、いわゆる自刃(じじん)形式のものが多く、腹の皮にちょっと刀の先を当てると、うしろに刀をかまえている介錯人(かいしゃくにん)が首を切り落す後世の切腹とは様相を異(こと)にしていた。
文庫のあとがきで新田次郎さんは、『武田信玄』を『歴史読本』誌のために月30枚ずつ100回書きつづけたと、告白。
「百カ月間は長かった。この小説を書き出して以来百カ月間は常に私の頭の中に武田信玄があった。これほど長期間の拘束(こうそく)を受けたものは他になかった。飽きもせずに書き続けられたのは、私自身が武田信玄に惚れこんでいたからであろう」とも。
そういうことだと、池波さんは長谷川平蔵を20年近く書きつづけた。
惚れたどころではなく、「鬼平は、私自身だ」というおもいであったろう。
1912年生まれの新田次郎さんは、池波さんより11年齢上である。
直木賞も、新田さんのほうが5年ほど早かった。
連載も、信玄は鬼平に4年ほど先んじている。
、
ある時期、2人は親交をつづけていた。
長谷川伸師が主催していた新鷹会のメンバーだったころである。
鬼平映画のプロデューサーだった市川久夫さんによると、3人は、白金台の長谷川邸での新鷹会がおわると、五反田駅あたりの喫茶店でさらに語りあったという。
【参照】2008年11月19日~[諏訪左源太頼珍(よりよし)] (1) (2) (3)
| 固定リンク
「200ちゅうすけのひとり言」カテゴリの記事
- ちゅうすけのひとり言(95)(2012.06.17)
- ちゅうすけのひとり言(94)(2012.05.08)
- ちゅうすけのひとり言(88)(2012.03.27)
- ちゅうすけのひとり言(90)(2012.03.29)
- ちゅうすけのひとり言(91) (2012.03.30)
コメント