諏訪左源太頼珍(よりよし)(2)
私事を記すことをお許し願いたい。
というのは、諏訪左源太頼珍(よりよし 62歳 2000石)の拝領屋敷の本郷弓町についてである。
この仁が、先手・鉄砲(つつ)の7番手の組頭を、58歳の明和元年(1764)6月11日から、あしかけ5年ごしに勤めていることはすでに報じた。
(どうでもいいような正否を言いたてると、幕府の役職者の任免を記録した『柳営補任』は、頼珍の先手・組頭の発令年月日を、宝暦14年6月11日としている。宝暦は、14年の6月2日に改元となり、明和元年と改まっているから、『寛政譜』の記述のほうが正しいことは、正しい)
ついでに言うと頼珍は、2年後の明和7年の5月13日に、在職のまま64歳で卒(しゅっ)したことになっている。
日付けは公けに喪を発した日である。
在職のままの逝去だから、辞職願が聞きとどけられるまでには、1週間や10日の日時が必要なはずである。
屋敷があった本郷弓町---この弓町には、ここ30数年来、ちゅうすけも住んでいる。
同時代であれば隣組である。
というので、あわてて、近江屋板の切絵図をたしかめた。
ちゅうすけの住まいは、壱岐坂ぞいに屋敷があった松平帯刀信譲(のぶよし 享年27 5000石)の屋敷跡のマンション。帯刀から4代あとが切絵図に名が載っている美作守。
壱岐坂については、文京区の標識が、駐車場をでた左に掲示されている。
(壱岐坂由来の標識板)
書き写す。
「壱岐坂は御弓町へのぼる坂なり。彦坂壱岐守屋敷ありしゆえの名なりという。
按(あんずる)に元和年中(1615~1623)の本郷の図を見るに、この坂の右の方に小笠原壱岐守下屋敷ありて吉祥寺に隣れり。おそらくはこの小笠原よりおこりし名なるべし。」(改撰江戸志)
御弓町については「慶長。元和の頃御弓同心組み屋敷となる。」とある。(旧事茗話)
立ち止まっては、この標識板を読んでいる人を見かける。
余談だが、この坂をあがりきった先の手うちうどんの店〔高田屋〕が[一本うどん]を食べさせてくれる。
【ちゅうすけ注】2006年7月17日[一本うどん]
向かいが、諏訪家の屋敷である。
いまは、東洋学園大学のビル校舎が新築された。その前は、東洋女子短大で、若いぴちびちした女子学生が坂をのぼって登校していたが、いまは男子学生が多く、授業について語りあっているのを聞いたことがないのは、まあ、どことも似たりよったりかも。
諏訪家は2000石だから、屋敷地も1000坪はあったろう。東洋女子短大のころの校舎がすっぽりおさまっていた。
あの年ごろの女子学生は、都心に近い校舎だからこそ、地方からあこがれて受験したらしい。
郊外の校舎では、自分たちが住んでいる地方都市か町とかわらないからつまらないということらしかった。
旧・弓町---いまの文京区本郷1・2丁目の名物は、樹齢600年以上という巨樹・くすのきであろう。地上1mの幹囲が8.5mもあり、区内で最太という。
告白すると、ちゅうすけが生まれたのは、日本海側の城下町T市の御弓町であった。
そんなこともあって、弓町には関心があった。
久生十蘭『顎十郎捕物帳』の主人公---仙波阿古十郎(せんばあこじゅうろ)の住まいも本郷弓町の乾物屋の2階だったが、と第1話[捨公方(すてくぼう)]を拾い(しゃれではない)読みしていると、なんとなんと、松平美作守が出てきたのには驚いた。
話はかわるが、田沼意次(おきつぐ)を主人公にすえた平岩弓枝さん『魚が棲む城』(新潮文庫 2004.10.1)の冒頭、意次が竜介(りゅうすけ)と呼ばれていたころの田沼家(700石)の屋敷も本郷弓町であった。出世後や失脚後の切絵図に載っているわけはないが---。
さて、ちゅうすけのマンションの向かいに屋敷があった諏訪家に、〔中畑(なかばたけ)〕のお竜(りょう 29歳)は、〔狐火(きつねび)〕一味の者がすでに引きこみに入りこんでいると言った。
これから、それらしい人物を、ちゅうすけは、東洋学園大学に登下校する、いまふうのだらしない服装と頭髪をつったてた若者の中から見つけださないといけない(冗談)。
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