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2008.11.13

宣雄の同僚・先手組頭(4)

ことし購った小説本のうち、もっとも感動的だったのは、宮城谷昌光さん『新三河物語 上・中・下』(新潮社 2008.8.20~10.20)であったことは、しばしば書き、あちこちでしゃべった。
ついでだから新書で教えられたのは、深井雅海さん『江戸城 --本丸御殿と幕府政治』(中公新書 2008.4.25)。
文庫では、遅ればせながら、藤本正行さん『信長の戦争』(講談社文庫 2003.1.10)。

あたりまえのことだが、ぼくは幅の広い読書家ではないし、多読者でもない。

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さて。
新三河物語 中巻』の次のくだりに、頭をかしげた。
三方ヶ原の合戦で、徳川家康武田信玄の大軍に惨敗した翌年---元亀4年(1573)6月22日(この年の7月28日に天正と改元)。

---奥平氏の居城である亀山(かめやま)城から密使がでた。すみやかに浜松城へむかった。
この使者は、夏目五郎左衛門治員(はるかず)といい、主君である奥平貞能(さだよし)の意向を家康に伝えるのである。

武田信玄が卒したとみた治員が、父・貞勝(さだかつ)や兄・常勝(つねかつ)に反しても、家康の傘下へはいることを乞うためのもの使者であった。

---やはり信玄は死んでいたか。
 と、家康は素直に信じるような心のしくみをもっていないが、表情には感慨があった。夏目治員を観察した家康は、
「予に仕えよ」
いった。これは夏目治員を家臣にしたいというより、奥平家との盟約を復活させるために証人(人質)が要る、ということである。治員はすぐさまそれを察し、
 「それがしは主君に復命しなければなりません。次男の吉左衛門がお仕えいたします」
 と、述べ、次男を浜松に残して、首尾よく亀山城へもどった。
貞能の決意に詐祥はないと信じた家康は、八月二十日に、本領安堵と新恩三千貫文を記した誓書を与え、貞能の子の貞昌(のち信昌)に、築山殿とのあいだにできた亀姫を帰嫁させることを約束した。
 信玄さえ気をつかった奥平のような大族が武田に離叛したことは、徳川にとって東三河北部の失地回復のきっかけとなり、家康は機を逸することなく単独で、菅沼正貞(まささだ)の居城である長篠(ながしの)城を陥落させた。二つの川にはさまれた要害という点で長篠城と二俣城は酷似している。

参照】2007年6月2日[田中城の攻防] (2)
2007年7月13日[依田右衛門左信蕃(のぶしげ)]
2008年7月2日[ちゅうすけのひとり言] (16)
2004.12.20[〔伊砂(いすが)〕の善八]

はて、菅沼正貞武田方についていたのか?
ぼくの『寛政重修諸家譜』では、菅沼家々譜は[家康の駿府人質時代]随臣ファイルに入っているが---と、改めてみた。

三河国設楽郡(しだらこおり)長篠に住していた菅沼満成(みつなり 長篠菅沼)の5代目に正貞の名が見え、
「永禄12年東照宮の仰せをうけて作手(つくて)の奥平美作守貞能、一族刑部少輔某とともに遠州国金丸の砦を守り、のち武田信玄に属す」
とあった。

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宮城谷昌光さん『古城の風景1---菅沼の城 奥平の城、松平の城』(新潮文庫 2008.4.1) の野田城の項に、http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2004/12/post_4.html 

---城の略歴をいえば、永正五年(一五〇八年)正月に起工され、永正十二年(一五一五年)に竣工し、永正十三年(一五一六年)正月四日に、菅沼定則が家臣とともに入城した。定則が八年をついやして築いた城であると想えばよい。天正十八年(一五九〇年)に、定盈が関東に移封されたので、この城の寿命は畢わったといえる。かぞえ年でいえば、七十五年生きた城である。

この、定則(さだのり)との孫が定盈(さだみつ)で、野田菅沼と呼ぶ。

参照】菅沼定盈については、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8

一族は、田峯(だみね)の城にいた菅沼を本家としている。

ながながと大まわりをしたが、本命は、長谷川平蔵宣雄(のぶお 50歳)と同僚の、先手・弓の4番手の組頭の菅沼主膳正虎常(とらつね 54歳 700石)である。
任に就いたのは、2年前の明和3年(1766)11月12日だから、宣雄よりちょうど1年半おくれ。

定盈(さだみつ)の3男・主膳定成(さだなり)から始まる家祖は、多病につき、出仕をしなかった。
嫡男・九兵衛定堅(さだかた)は、紀伊大納言頼宣に仕えというから、かの国にくだったろうか。
4代目・定虎(さだとら)が、吉宗にしたがって江戸城入りをした紀州勢の一員となり、小納戸で400石。のち300石加恩。

定虎の葬地が、長谷川平蔵家と同じく四谷の戒行寺であるのも、縁というものか。

その息・主膳正虎常も出仕は小納戸から。そのあとは『個人譜』をお改めいただきたい。
その『個人譜』には、茶の湯に造詣が深いことが記されてもいるから、教養人であったのであろう。

そこのところは、宣雄も心得ていて、定虎のすすめる京唐津(きょうがらつ)の茶碗を求めたりしている。
もっとも、その道へは深入りしていない。
宣雄は、つねづね、息・銕三郎(てつさぶろう 23歳)に、
「わが家は、番方(ばんかた 武官系)の家柄ゆえ、風流のたしなみは、恥をかかない程度の、ほどほどでよい。それよりも、配下の衆の信をえることがなにより---」
と、教えていた。

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