仁賀保兵庫誠之(のぶゆき)
「4家のうちの、仁賀保家ですが---」
銕三郎(てつさぶろう 23歳)が声をひそめて語りかけている相手は、美形の〔中畑(なかばたけ)〕のお竜(りょう 29歳)である。
場所は、御厩河岸の渡し舟場前の茶店〔小浪〕の小座敷。
いつもの揚げ巻の髪でなく、武家の内室ふうに結い、ほこり除けの揚げ帽子を巻いている。
銕三郎と逢うための、変装であった。
銕三郎とお竜は、別々の渡し舟でやってきた。
もちろん、お竜のほうがひと舟早いのを使った。
舟だと、岸を離れる寸前に飛びのれば、尾行(つ)けられるおそれが少ない。
また、茶店〔小浪〕のことは、徒(かち)目付の下働き・徒押(かちおし)たちも、まだ、気づいていないとおもわれる。
「じつは、廃絶になっているのです」
「廃絶?」
銕三郎が、書物奉行・長谷川主馬安卿(やすあきら 50歳 150俵)に、4家の名簿をだして、それぞれの家の祖が大名になった経緯が知りたいのだが---と頼んだら、安卿は怪訝な表情で言った。
「仁賀保家? 大猷院(家光)さまの時代---それも、たしか、寛永(1624~43)だったと記憶しているから、もう120年も昔のこと---」
「因(もと)は?」
「継嗣(あとつぎ)がなかったのです」
【参照】2007年9月29日~[書物奉行・長谷川主馬安卿(やすあきら) (1) (2)
安卿が調べてくれたところによると、断家は、初代藩主・挙誠(たかのぶ 享年39歳)のときのことだという。
初代藩主とはいえ、仁賀保家は、信濃の太井から陸奥国由利郡(ゆりこおり)仁賀保郷へ移って領地とした家柄で、徳川からは、1万石の外様としてあつかわれていた。
挙誠は、遺言の形で、次弟・誠政(のぶまさ)に2000石、3弟・誠次(のぶつぐ)に1000石を遺贈していたため、遺領のうち、この3000石が仁賀保家にのこった。
【ちゅうすけ注】仁賀保は、にかほ市となる平成17年まで、秋田県由利郡仁賀保町であった。
「お尋ねの、兵庫誠之どのは、1000石を遺贈された後に200石の加恩があった3弟・誠次どのの末---といいたいところですが、じつは、ご養子なのです」
「ほう---」
「われわれと同姓の長谷川甚五郎重行(しげゆき 享年59 両番 400石)どのの継嗣ぎでしたが、少年のころは多病で後継できず、18歳で養子に。あちらの長谷川は、美濃で、斉藤、織田、豊臣、徳川と仕えを移しています。手前のところは、美濃から甲州ですが---」
「拙のところは、大和から駿州の今川です」
「そうでしたな」
仁賀保兵庫誠之が先手・鉄砲(つつ)の組頭に任じられたのは、今年---つまり、明和5年(1768)正月11日である。
「400石の実家から、1200石の家へ養子---という例はよくあるのでございますか?」
「さあ。そのようなことには、関心なくて---」
「養子になられた誠之さま---1200石の先へ婿に望まれたほどのお方ゆえ、よほどの美丈夫だったのでしょうね」
お竜らしからぬ、妙な類推を口にした。
「さあ。いまや、59歳のご高齢ですからね」
23歳の銕三郎とすれば、父・宣雄(のぶお 50歳)より上は、高齢者である。
口にしてしまってから、
(いけない!)
臍(ほぞ)を噛(か)んだ。
29歳のお竜に、齢のことを意識させたくなかった。
が、お竜は、まるで、気にしていない。
自分が24,5歳に見られがちなことすら、気にもとめていなかった。
世間の思惑にふりまわされることがないほど、現実を見る力が強いのである。
「いささか立ち入る話になりますが、誠之どのの実家の長谷川一門へ、2000石のほうの仁賀保家から嫁入りされた姫がおられ、そのお口ぞえによるご縁とか。それに、美男子をお望みになった家付きのむすめごは、お子もなさないでお亡くなりになっています」
「すると、のちぞえのお方が---?」
「幾たりかのお子を---」
「お勝手向きも、たいへんそう」
「あっ、そうなりますか」
お竜は、それがくせの、眉をひらいて、にんまりと微笑む。
「なりますね」
「しかし、大名家からの分家という枠からはずしてもよろしいような気はしますが---」
お竜は、うなずいた。
「お3人になりますね。諏訪さまのお勝手向きの調べは、わたしのほうでやりましょうか?」
「なにか、手づるでも?」
「はい。一人、入れてあります」
「ほう---」
「小浪さん。お酒、ください」
お竜が、女将・小浪(こなみ 29歳)に声をかけた。
酒とつまみを給仕してきた小浪が、心得た表情で2人を看てから下がった。、
「まさか、湯殿でのこと、話してはいないでしょうね?」
「口が裂(さ)けても、洩らすものですか。わたしの一生の秘密ですもの。それに、小浪さんは、〔狐火(きつねび)〕の隠密ですよ」
「それにしては、意味ありげな目つきで見て行きましたよ」
「河岸を変えましょうか?」
(「不二見の渡し」 『風俗画報』明治41年4月20日号 昇雲画)
「お米蔵の南はずれ、瓦町の不二見の渡しで、向こう岸の横網町へわたり、回向院の門前で待っています」
「夕焼けの富士のお山が、すてきそう」
「はぐれたら、二ッ目ノ橋北詰の〔五鉄〕というしゃも鍋屋です」
「はい。〔五鉄〕ですね」
(仁賀保兵庫誠之の個人譜)
【参照】[宣雄の同僚・先手組頭] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9)
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