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2008.11.21

松前主馬一広(かずひろ)

_130_3本所・二ッ目ノ橋北詰のしゃも鍋屋〔五鉄〕で、ゆっくりと話しあう銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)と、女賊・〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳)が交わす会話が気になるところだが、おが、向島・須田(すだ)村の寓居の湯殿でのことは、「わたしの一生の秘めごとです」と断言しているのだから、二度と同じような睦みごとはおきまい---そう割り切ったちゅうすけは、松前主馬一広(かずひろ 1500石)の調べにとりかかる。(歌麿『高名美人六家撰』 お竜のイメージ)

旗本の嫡男が、女賊と躰をたしかめあったとあっては、出世のさまたげどころか、放逐もまぬがれまい。
したがって、あのことは、鬼平ファンみんなで、口をつむぐしかない。

参照】2008年11月17日[宣雄の同僚・先手組頭] (8)

旅籠のむすめにややを産ませたとか、料亭の女中とねんごろになった---といったこととは、わけがちがう。
それなら、盗賊・〔狐火きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 45歳=当時)の愛妾・お(しず 18歳=当時)とのことはどうなのだ---とのつっこみもあろうが、おそのものが女賊であったわけではないから、知らなかった、で通しもできる。

参照】2008年6月2日[お静という女] (1) (2) (3) (4) (5)

先手・鉄砲(つつ)の17番手組頭の松前主馬一広(かずひろ)を、銕三郎に代わって調べていて、妙なことに気づいた。

番手(組屋敷)
(氏名 年齢 禄高 この年までの在職あしかけ年数)
17番手(市ヶ谷本村)
 松前主馬一広(かずひろ)      46歳 1500石 16年め

お気づきであろうか?
いや、なに、松前姓なら、蝦夷(えぞ)・松前藩の一族であろう---って??
そのとおり。
だが、妙というのは、そのことではない。もちろん、つながりはある。

妙なのは、明和5年(1768)夏、現在で、46歳という年齢である。
いや、46歳に不思議はない。生まれて、45年たてば、当時は数え齢で、だれだって46歳になる。

妙なのは、在職16年め、という記述である。
もし、この年数が、ちゅうすけのキーの打ちまちがいでなければ、30歳での先手組頭就任ということなる。

これまで先手組頭は、番方(ばんかた 武官系)の出世双六(すごろく)の「上がり」か、その一歩手前と、何度も書いてきた。
だから、30歳での組頭就任は、若すぎるし、事実とすれば、きわめて異例である。

今回の組頭リストは、『柳営補任』(東京大学出版会)に拠って、手っ取り早くつくった。
この史書には、誤記が少なくない。
(東大出版会は、誤記は誤記として、そのまま刊行している)。

それで、『寛政譜』を検(あらた)めてみた。

_360_2
_360_3
(松前主馬一広の個人譜)

念を入れて、『徳川実紀』[惇信院殿家重)]宝暦3年(1753)10月9日の項を確かめてもみた。

この日、目付松前主馬一広先手頭となり、

と記されている。
30歳での就任は、ミス・タイプではなかった。

ほかに、こんな若さでこの役についた者がいるであろうか?
記憶にあるかぎり、いない。
長谷川平蔵宣以---すなわち、銕三郎も早かったが、それでも41歳であった。
ただし、平蔵は、目付からではなく、徒(かち)の組頭からである。

時間があれば、目付から先手組頭になった全員の就任時の年齢を調べればいいのだが、残念ながら、そんな時間をいまは持ち合わせていない。

それで、松前一広と同じく、宝暦年間(1751~771)のみをあたってみた。
この期間中に転出したのは34人。うち、先手組頭へは、松前一広のほかにはもう1人。
竹中彦八郎元昶(もとあきら 1000石)が57歳のとき。

ついでなので、やり手として名をのこしている(にえ)壱岐守正寿(まさとし 300石)も見てみた。38歳。若いことはずば抜けて若いが、一広にはおよばない。

いったい、一広は、なぜ、そんなに就任が早かったのか。

松前藩は、1万石高だが、実収ではなく、アイヌとの交易独占権のみ。
明和のころには、砂金採集高も細っていたから、けっして裕福とはいえなかった。

主馬一広の家は、2代目藩主公広(きんひろ)の3男が立てた支家(幕臣 2000石)の、そのまた分家の幕臣(1500石)である。
一広は3代目。
個人譜]での栄進ぶりを見るかぎり、才幹の持ち主であったと認めるしかない。
先手の頭は1500石高だから、足(たし)高はなしの、持ち勤め(もちだかづとめ)である。
格を求めて、とうぜんかもしれない。
前職が目付ということも大きい。
目付時代の仲間が現職に残っているかもしれない。
そこのところは、銕三郎に調べてもらうとして、有力な容疑者(?)であることは間違いない。

が、銕三郎がどう見るかは、別である。

そのこととは別に、ちゅうすけは、ある妄想にふけりはじめた。

松前藩は、アイヌから毛皮や鷹、鮭(さけ)、海鼠(いりこ)、鮑(あわび)、鰊(にしん)などを買いつけていた。
ちゅうすけ が目をつけたのは、鮑である。
清国との交易の支払いの金・銀が不足していたので、幕府は海鼠(いりこ)や鮑と鱶(ふか)のひれをあてていた。

側衆で老中格・田沼主殿頭意次(おきつぐ 50歳)は、そのほうを長崎奉行だった石谷(いしがや)備後守清昌(きよまさ 54歳 800石)に考えさせていてた。
松前藩に好印象を与えるために、一門の俊才・一広の栄進に、備後守の示唆があったのではなかろうか。

参照】2007年7月28日[田沼邸] (4)

もし、そういう裏があるのであれば、銕三郎が的を一広へ向けては、虎の尾を踏むことになりそうだが。


参照】[宣雄の同僚・先手組頭] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9)

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