よく気のつく人なら、前回のタイトルにくっついている(1a)を目ざとくみつけて、「いったい、なんなんだ?」とおおもいになったかもしれない。
いや、遊びがすぎると言われてしまうとそれまでなんだが、史実ふうでもあり、読み手の独断ふうでもあり、小説めかしてもおり、ルポふうでもあるこのブログ---つまり、なんでもありってこと。
で、小説ふうなら、虚構の世界だから、あれくらい、すっ飛んでもいいかな---と。
しかし、史実はおさえいていることは、おさえている。
初お目見えとか、家督相続とか、昇進とかの吉事の申し渡しのための召し状がくると、親類中に奉状をくばり、当主たちが麻裃で下城してくる当事者を式台で迎える習俗があったってことは、『徳川盛世録』(東洋文庫 1989.1.23)に書かれている。
書き手の市川正一さんは、幕府に仕えていた仁で、明治政府では民法編纂局の主要な吏員であったらしい。
さて、前回の、長谷川銕三郎(てつさぶろう 23歳)の初見を内祝いする席に、綾小路(あやのこうじ)静麻呂(しずまろ)卿の使者に扮して〔中畑(なかばたけ〕のお竜(りょう 29歳)とお勝(かつ 27歳)があらわれる突飛な趣向は、池波さん『雲霧仁左衛門』(新潮文庫)の七化けお千代から借りた。
いや、ちゅうすけ自身も、いささか酔狂がすぎたか---とは、自省していないこともない。
でも、ジェットコースター・ストーリー作家なら、あの程度の飛躍はふつうなんだが。
綾小路というお公卿(くぎょう)家も、じっさいにあった。
知行は200石。まあ、貧乏公卿。
その後裔と会話をかわしたこともある。
が、もすこしまともな線を、(1b)としてみた。
(a)がいいか、こちらの(b)のほうがお好みか、アクセスなさっているあなたのをご感想をコメント欄にいただけたら、望外のよろこび。
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明和5年(1768)12月5日、江戸城・山吹の間の椽頬(えんがわ)での、将軍家治による初見(しょけん)を無事におえた銕三郎(てつさぶろう 23歳)は、願い人の父・平蔵宣雄(のぶお 50歳 先手・弓の8番手組頭)、供侍・桑島友之助(とものすけ 35歳)などの供ぞろえたちと屋敷へ帰ってきて、驚いた。
宣雄が手配した奉札(ほうさつ 公儀からの吉事の召し状---銕三郎の初お目見---を知らせる廻状)を配られた親戚の当主たちが、麻裃姿でずらりと式台に並んで迎えてくれていた。
宣雄たちがあがると、口々に、
「ご祝着(しゅうちゃく)、ご祝着---」
と称えてくれたのはいいが、いちばん奥にひかえていたむすめが、
「ご祝事にございます」
と、顔をあげた。
久栄(ひさえ 16歳)ではないか。
さすれば、その横の初老の武士は父親・大橋与惣兵衛親英(ちかふさ 55歳 200俵 西丸・新番与頭(くみがしら))であろう。
【参照】2008年9月27日~[大橋与惣兵衛親英] (1) (2)
用人・松浦与助(よすけ 52歳 先代)が、したり顔で、
「大橋の与頭さまのお席は、殿の隣に、久栄さまを銕三郎さまとならべておきました。よろしゅうございましょうか?」
宣雄は、
(それでいい)
というように、うなずく。
会食の膳がしつらえてある客間へ一同を案内してから、銕三郎が父・宣雄を廊下の隅へいざない、
「どういうことでございますか?」
「妙(たえ 43歳)と相談して決めたことだ。いつまでも独り身でいては、世間体が悪い。痛くもない腹をさぐられもする。幸い、久栄どのは、妙の意にもかなっておる」
「しかし、拙の気持ちもお聞きにならないで---」
「久栄どのが嫌いなのか?」
「いえ。それは---」
「武家の嫁とりは、好いた、惚れた---ではすまぬ。それは、草双紙の世界の話じゃ」
銕三郎には、久栄への気持ちを、父と母はどこで見抜いたのであろう、と推量してみたが、どうにも訳がわからなかった。
まさか、〔五鉄〕の三次郎が告げ口したともおもえない。
(そうか、おまさ(13歳)とお絹(14歳)か)
【ちゅうすけ注】父・宣雄が、老僕・太作(たさく 62歳)にひそかに言いつけて、〔盗人酒屋〕の忠助(ちゅうすけ 40代半ばすぎ)とおまさ、それに永代橋ぎわの居酒屋〔須賀〕の亭主・〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 36歳)から、銕三郎のあれこれを聞きとっていることを、銕三郎は知らなかった。忠助も権七も、銕三郎が人の道をふみはずさないようにという宣雄の親ごころを年配者らしく汲みとり、久栄のことを善意からもらしていたのである。
【参照】2008年3月19日[於嘉根という女の子] (1)
宴会の席へ入ると、銕三郎は久栄に軽く目くばせして隣に座った。
主座・本家の長谷川太郎兵衛正直(まさなお 59歳 1450石 先手・弓の7番手組頭)になにごとか耳打ちしてから、宣雄は一同に酌をしてまわり、下座へ正座するや、横に銕三郎を呼んで座らせた。
きょうの初見が格別のこともなくに推移したこと、ご来駕に感謝していることを述べたあと、あらたまって、
「銕(てつ)の嫁ごに、大橋家の三女・久栄どのを申しうけることとなったので、あわせてご披露いたす次第---」
と報じた。
納戸町の大伯母・於紀乃(きの 69歳)の養子で、分家でもっとも家禄が高い久三郎正脩(まさひろ 58歳 4070石持筒頭)が訊いた。
「どのようなご縁かの?」
宣雄にうながされて、銕三郎は、久栄のほうを見ないようにしながら、
「納戸町の於紀乃・大叔母さまのお言いつけで、甲府へ行く途中、深大寺へ参詣したときにお会いしたのです」
「ほう。すると、わが家の於紀乃・母者が縁結びの神というわけかの?」
久三郎正脩が大きくうなずいたとき、久栄がすっくと立ち、銕三郎の横へぴたりと座って言いはなった。
【参照】2008年9月7日~[〔中畑(なかばたけ)〕のお竜〕 (2) (3)
「銕三郎さまは、大切なことをおぼかしです。深大寺で、ただ、お会いしただけではございませぬ」
久栄の頬に赤みがさしていた。
「供の者が財布を掏(す)られました。それで、姉の希望の深大寺蕎麦が求められなくて困っていたとき、銕三郎さまがおあしをお貸しくださいました。いいえ、それだけなら、嫁入りしようとまでおもいませぬ。その掏摸(すり)---〔からす山〕の寅松(とらまつ 17歳)が銕三郎さまにすっかり心服して、財布を返しに、からす山くんだりからから、わざわざ、出てまいったのです。掏摸まで心服させておしまいになるほどのお方だから、私の一生を託すのはこの方と、きめたのでございます。長谷川一門のみなさま、どうぞ、これからもよろしゅうお導きくださいますよう、お願い申しおきます」
【参照】2008年9月19日~[大橋家の息女・久栄(ひさえ)] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)
「なるほど。銕三郎は、むすめごのこころまで掏りとったか」
久三郎が、下手なしゃれをつぶやいた。
久栄が、久三郎をきっと見据え、
「納戸町の久三郎叔父さまでございますね。銕三郎さまがお掏りとりになったのではございませぬ。久栄のほうから乙女ごころをさしあげたのでございます」
「失言々々。取り消しますぞ。いやあ、わが家の於紀乃婆(ばば)さまよりしっかりしたむすめごだわ」
本家の太郎兵衛正直がとりなした。
「長谷川一門が今日(こんにち)あるのは、おなご衆がみなしっかりしているためでありますぞ。これで、平蔵どのもひと安心というもの。めでたやな、めでたやな」
その声を合図に、一同は裃をはずし袴(はかま)も脱いでそれぞれの供の者へわたし、くつろいで呑みはじめた。
ここからが、ほんとうの内祝いである。
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