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2008.12.10

銕三郎、初お目見(みえ)(8)

銕三郎(てつさぶろう)の23歳ぎりぎり---の明和5年(1768)12月5日の初見にことよせて、幕府のものの考え方の一端とか、しきたり、幕臣のこころがまえなどをさぐっている。

銕三郎といっしょに初見の席へ臨んだ33名の全員の顔ぶれがそろったところで、父あるいは後見者同伴で初見を終えた彼らは、何年後に家督して選手交替、出任したかを調べてみた。

なんと、ここでも、『徳川実紀』に記載組とそうでない組との違いが歴然としてきたので、驚いている。
そんなことに言及した論文を読んだことがなかったからである。
江戸は、つつけば、まだまだ、未知の習俗に行きあう。
この僥倖も、長谷川平蔵という一人の人物に拡大鏡をあて、そのすべてを推察していたことによる。
まさに、平蔵さまさまである。
もっとも、学会では、とるにたらないような個人を細見してなんになる---と侮蔑されるのが関の山であろうが。

徳川実紀』に氏名が銘記されている初見の衆---(い組)
右手の(00歳)は、家督時(遺跡を継ぐものも含む)の年齢。

柴田岩五郎勝房(かつふさ 18歳 2500石) (17歳)
曾我主水助造(すけより 22歳 4500石)  (35歳)
「造」には竹カンムリ
水谷兵庫勝政(かつまさ 25歳 3500石)  (44歳)
久松鉄之丞定安(さだやす 16歳 200俵) (34歳)
戸田万造光稟(みつつぐ 28歳 2500石)  (35歳)
近藤玄蕃政盈(まさみつ 21歳 300俵)  (29歳)
三浦左膳義和(よしかず 17歳 500俵)  (27歳)
奥田吉五郎直道(なおみち 20歳 300俵) (25歳歿)
長谷川銕三郎宣以(のぶため 23歳 400石)(29歳)
松平又太郎勝武(かつつぐ 20歳 500石) (23歳)
桑原主計盛倫(もりとも 23歳 500石)  (?)
佐久間修理孝由(たかよし 19歳 500石) (23歳)
松平九十郎崇済(たかまさ 齢不詳 1500石)(家督前歿)
鈴木甚三郎政恭(まさゆき 19歳 200俵) (30歳)
藤掛盈太郎永忠(なかただ 19歳 5000石) (20歳)
有馬熊五郎純昌(すみまさ 22歳 3000俵)(24歳)
水野兵庫忠候(ただもり 19歳 3200石) (24歳)

寛政重修諸家譜』から拾った初見の衆---(ろ組)
(同じ。年齢が若くなっているのは、家督が先だったから)

古橋文三郎久敬(ひさたか 19歳 150俵) (18歳)
滝川小左衛門唯一(これかず 28歳 100俵5口)(18歳)
高野鍋三郎直武(なおたけ 25歳 70俵5人扶持)(20歳)
堀弥七郎義高(よしたか 19歳 70俵3人扶持)(18歳)
太田十郎左衛門和孟(まさちか 37歳 150俵)(37歳)
 「孟」には肉月
山田銀四郎善行(よしゆき 26歳 150俵) (16歳)
諏訪源之丞頼紀(よりとし 39歳 150俵) (38歳)
諏訪五郎八正武(まさたけ 33歳 300俵) (32歳)
松井庄左衛門頎長(よしなが 22歳 150俵)(21歳) 
平田万三郎勝伴(かつとも 32歳 150俵) (30歳)
関根孫十郎良近(よしちか 32歳 200俵月5口)(30歳)
江馬寅次郎季寛(すえひろ 23歳 300俵) (22歳)
島崎一郎三郎忠儔(ただとも 28歳 300俵)(26歳)
小池主馬貞乗(さだのり 33歳 150俵)  (28歳)
倉橋五郎大夫景綱(かげつな 30歳 70俵5人扶持)(?)
小林金蔵従種(ときたね 34歳60俵2人扶持)(45歳)

記述を単純にするために、『実紀』組を(い組)、不採録組を(ろ組)として話をすすめたい。

幕臣の家禄というのは、人にき給付されているのでなくて、家に与えられているから、よほどの事情がないかぎり、その家では一人だけが給付を受けられる。

もっとも、長谷川平蔵宣以と息・辰蔵の例のように、宣以すなわち鬼平の死の4日前に、父のお蔭をもって辰蔵が書院番に召しだされて300俵の手当てを給されたが、それも平蔵の辞職願いが受理された16日かぎりであるから、幕府の出費は9日分だけであった。

話を戻して---。

(い組)の水谷出羽守勝久が、養子・勝政の初見から19年間、家督をゆずっていないのは、勝久が有能であったというより、矍鑠(かくしゃく)としていたからにすぎなかったとみる。いまでも、こうした仁は少なくない。

ついでだから記しておくと、幕臣には定年制はなかった。
老眼がすすむか、歯が多くかけるか、体調がすぐれなくなって致仕を願うのがふつうである。
しかし、自分の健康を過信している者は、辞職願いを書きたがらなかったようである。、

(い組)で(?)をつけているのは、松前一族から養子・盛倫を迎えた桑原家だが、養父・伊予守盛員(もりかず)が能吏で、76歳の寛政10年(1798)まで、長崎奉行やら作事奉行やら勘定奉行やらを歴任していためである。
幕府も、養子・光稟に同情したかして、初見から13年目、36歳の彼を小姓組に召しだしている。ふつうは、両番に召されると、父親の家禄とは別に300俵の俸禄がでるのだが、その件は『寛政譜』にはみられない。

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(桑原主計盛倫の[個人譜])

Photo
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(盛倫の実家・松前家での位置)

(ろ組)で目だっているのは、家督相続を先にすませてから初見を願っている者が多いことである。
その理由(わけ)を推察しているのだが、いまのところ、解けていない。
いずれ、明らかにしてみたい。

参照】[銕三郎、初お目見(みえ)] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7)

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