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2008.12.09

銕三郎、初お目見(みえ)(7)

銕三郎(てつさぶろう 23歳)とともに明和5年(1768)12月5日に、将軍・家治(いえはる)に初お目見(みえ)した幕臣の子たちは、30名であったとする『徳川実紀』は、氏名を17家分しか記していない。

ちゅうすけは、いっしょに初見の席につらなった29名の若者の中に、銕三郎と終生のつきあいをすることになった者がいるにちがいない、と見た。
いっぽう、『鬼平犯科帳』の読みの手の中には、銕三郎の初見が23歳と遅かったのは、10代後期から20代前半にかけての遊蕩が原因と、さかしらげに言うグループもある。
銕三郎の初見の年齢が遅かったかどうかは、それを証明するデータをださないかぎり、おもいつきでしかない。
データの一つが、いっしょに初見した全員の年齢であろう。

それで、『実記』に氏名が記載されている17名についての年齢は、(6)で公表した。
最も年少は、遅すぎ論者が言う7、8歳よりもはるか上の16歳。最年長は28歳、平均で20.9歳。
23歳の銕三郎は、とりたてて遅いというほどでもない。

しかし、残りの13名が気になる。
それで『寛政重修諸家譜』活字本の全巻約9000ページをあたって、全員を見つけだした。
ところが、13名ではなく、16人いた。合計だと33人。
ということは、『実紀』のあきらかな誤紀だが、これまで、みんな、30人を信じて疑ってもみないできたのである。
これは、『鬼平犯科帳』の史料調べの一大発見といっていい(言いすぎではあるが)。

理由は、これから列挙する仁たちの家格が低いので、『実紀』の編纂者もいい加減の考証ですませたということか。

〔西丸表祐筆〕古橋忠次郎忠信の養・文三郎久敬
  (ひさたか 19歳 150俵 実家100俵月5口)
〔細工頭〕滝川清左衛門貞倚の養子・小左衛門唯一
  (これかず 28歳 100俵月5口)
〔小十人〕高野熊之丞氏の養子・鍋三郎直武
  (なおたけ 25歳 70俵5人扶持 実家300俵)
〔小十人〕堀源之助高政の子・弥七郎義高
  (よしたか 19歳 70俵3人扶持)
〔小普請〕太田十郎和道の子・十郎左衛門和孟
  (まさちか 37歳 150俵)

ちゅうすけ注】和孟の「孟」には肉月がつくが辞書にない。

〔小十人〕山田藤蔵嘉言の養子・銀四郎善行
  (よしゆき 26歳 150俵 実家100俵月5口)
〔小十人〕諏訪源之丞頼雄の養子・源之丞頼紀
  (よりとし 39歳 150俵 実家500俵)
〔書院番〕諏訪庄兵衛正倫の養子・五郎八正武
  (まさたけ 33歳 300俵 実家750俵)
〔新番〕松井庄蔵長孝の養子・庄左衛門頎長
  (よしなが 22歳 150俵 実家100俵月5口) 
〔小普請〕平田弁次郎勝房の子・万三郎勝伴
  (かつとも 32歳 150俵)
〔西丸小十人〕関根勘十郎昌永の子・孫十郎良近
  (よしちか 32歳 200俵月5口)
〔大番〕江馬平左衛門次興の養子・寅次郎季寛
  (すえひろ 23歳 300俵 実家250俵)
〔小姓組〕島崎一郎兵衛忠要の子・一郎三郎忠儔
  (ただとも 28歳 300俵 実家250俵)
〔小十人〕小池五右衛門貞量の子・主馬貞乗
  (さだのり 33歳 150俵)
〔清水家用人〕倉橋武右衛門景平の養子・五郎大夫
  景綱(かげつな 30歳 70俵5人扶持)
〔膳所頭〕小林新蔵善従の子・金蔵従種
  (ときたね 34歳 60俵2人扶持 目見格)

最高齢は39歳とはねあがり、全体の平均年齢も24.2歳にあがった。

徳川実紀』がこれら16人の氏名を省略したのは、一つには家格・家禄が低いこともあるが、幕臣歴が短いための差別ということもかんがえられる。
多くは、甲府宰相から6代将軍となった家宣(いえのぶ)の桜田の館で召しかかえられ、藩主の江戸城入りで幕臣となった者、あるいは、8代将軍となった紀州侯・吉宗にしたがって二の丸入りし、そのまま幕臣へ横滑りした家の者たちである。

例を、長谷川平蔵宣雄(のぶお)の失を言い立ててその座---先手・弓の8番手の組頭---への組替えを狙っていると目される一人、諏訪左源太頼珍(よりよし 62歳 2000石)の縁者とおもわれる諏訪源之丞頼雄にとってみよう。

桜田の館に召された本家を最上段におき、支家4家の『寛政譜』を一覧に並び替えてみると、逆階段状になる。
つまり、支家ほど家の歴史が新しいために、家譜が短くなっている。
(そのことを確認するためだけの家譜一覧図だから、この場合は、読む必要はない。視覚的な了解だけ)

この諏訪家はまだ、階段の数が多いほうで、たいていは1段だけである。つまり、分家ができるほどの家禄ではないということ。
徳川実紀』からはずされている家のほとんどの家譜は、一段きりである。

ついでだから、諏訪源之丞頼紀の「個人譜」ほを掲出しておく。

_360
(諏訪源之丞頼紀の[個人譜])

この諏訪頼紀の記述にもある、家督願いを先にし、その後に初見を願う例も少なくない。
その場合、初見の年月日を『実紀』側で省略すねることもままあるらしい。
そうだと、『実紀』の記述だけで初見を勘案するのは危険がともなってくるということである。

参照】[銕三郎、初お目見(みえ)] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (8)


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