銕三郎、初お目見(みえ)(5)
明和5年(1768)12月5日の、水谷(みずのや )出羽守勝久(かつひさ 46歳 小姓組番頭 3500石)の養子・兵庫勝政(かつまさ 25歳 酒井家の出)や、わが息・銕三郎(てつさぶろう 23歳)の初見(しょけん)の話をこれ以上すすめることは危険---と感じた長谷川平蔵宣雄(のぶお 50歳 先手組頭)は、話題を、自然をよそおって転じた。
「出羽さまは、備中・松山城をお訪ねになりましたか?」
「いや、ない。お若い板倉美濃(勝武 かつたけ 34歳 奏者番)侯のお気をわずらわすのも難儀だし、ご公儀にもあてつかがましいと邪推---お、言葉をまちがえた、余計なお手数をかけるのも意に染みませぬの、でな」
板倉家(5万石)は、24年前の延享元年(1744)に、伊勢・亀山から松山藩へ移封してきていた。
勝武は、30歳のときに奏者番を命じられたほどだがら、明晰・能弁な若い藩主であったが、話題の主になったときには、不治の床に伏していた。
「出羽さまもご存じのようの、手前の母者(ははじや)は、水谷さまの騎下でございました」
「承知しておる。馬廻役を勤めていてくれたとか---」
「はい。それが、手前が17歳のころ、母者の父ごの看護に帰ったきり、行方がしれませぬ」
「それは遺漏」
「旧藩士の子孫の方々による、懐旧のお集まりは、お耳に達していないでしょうか?」
「そのような会合があれば、余も招かれるとおもうが---いや、用人に訊いておこう」
「よろしゅうにお願いいたします」
それから、寸余のあいだ雑談をし、長谷川父子は、水谷家を辞した。
帰途、宣雄が話した。
「松山藩が改易になった節、お上からのお達しで、城の受け取りにこられた赤穂藩のご重職・大石内蔵助良雄(よしお)どのは、それは作法にかなったみごとな指揮ぶりであったそうな」
「あの、泉岳寺に墓のある---旧・赤穂藩の方々の---」
「そうじゃ。ところで、水谷家の墓域も泉岳寺にあってな。奇縁というべきは、このこと」
「いかにも---でございます」
それから、宣雄は供の者に、すこし下がるように言いつけ、
「ところで、銕。初見がとどこおりなく終わったら、年内にでも、雑司ヶ谷の〔橘屋〕で内祝いをいたそうかの」
「あ、お父上。お礼の言上をぬかっておりました」
「ん。なんのことじゃ。知らぬぞ」
「はい。かたじけのうございました」
銕三郎は、また一つ、父・平蔵宣雄から人の扱い方を学んだ。
しかし、お仲が、かわいそうともおもったこともたしか。
【参照】2008年11月29日 [橘屋〕忠兵衛]
2008年8月15日~[〔橘屋〕のお仲] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)
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