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2008.12.06

銕三郎、初お目見(みえ)(4)

「そういえば、長谷川どののご本家・太郎兵衛正直(まさなお)どののご内室は、曽我家からお入りになられたのでしたかな?」
水谷(みずのや)出羽守(のち伊勢守勝久(かつひさ 46歳 3500石 小姓組番頭)が、長谷川平蔵宣雄(のぶお50歳 先手・弓の八番手組頭)へたしかめた。

「はい。支家の太郎左衛門孝助(たかすけ)さまの息女で於左兎(さと 54歳)伯母でございます」
「たしか、故・太郎左衛門(享年42=寛保2年)どのの祖は、包助(かねすけ 享年66=延宝4年)どの?」
「さようでございます。当代はご本家筋からのご養子で、権之丞彭助(ちかすけ 39歳)どのですが、いまだご出仕のお声がかかっておりませぬ。他事ながら、おこころのかたすみにでも---」
「相わかり申した。その件はその件として、こんど、初見のお声がかかった主水助造(すけより 30歳)どのご養父・若狭守どのは、じつは主水どのの実兄でござるのだが---」

ちゅうすけ注】主水助造の「造」には竹カンムリがあるが、辞書にないので。

若狭守助馬(すけかず 36歳 6500石)は、この年の春、西丸・小姓組番頭から本丸・書院番(6番組)番頭へ転じてきたが、西丸時代からきわめて引っこみ思案の無口な仁なので、
「この話を持ちかけるのもどうかと思っものでな」
「なんのお話でございますか?」

「婿どの。いい機会じゃ、銕三郎どののご賛同をとりつけなさるとよい」
義父からせっつかれた兵庫勝政(かつまさ 25歳)は、いかにも大名の子らしい、細い面高の顔を銕三郎(てつさぶろう 23歳)へむけ、
「お歴々の世継ぎの御曹司衆が一同に会する機会だから有志をつのり、師走の5日会を起案しろと、お義父(ちち)上が申されるのです」

5日と聞いて、銕三郎は、5の日ごとに逢引きをしていた雑司ヶ谷(ぞうしがや)の料理茶屋〔橘屋〕の座敷女中・お(なか 34歳)のことをちらっとおもいだしたが、表にはださなかった。
との、ねっとりとした夜の営みのあの手この手の記憶がよみがえった。

_300
(清長『梅色香』部分 お仲の夜のイメージ)

袴の下が、いささかうごめき、くすぐったくなった。
しかしおは、まるで銕三郎の初お目見の障(さわ)りにはならないとでもいうように、黙って〔橘屋〕から消えた。

「よき案と存じます。(てつ)、お手伝いを申しでなさい」
宣雄が、銕三郎をけしかけた。
銕三郎は、世間知らずの御曹司たちと会するのは気が重く感じたが、
「助人(すけびと)の端くれにお加えくださいますよう」
頭をさげた。

柴田どの、戸田どのには、すでにご賛同をいただいておっての。では、長谷川どのから西丸先手の松平どのへお話をとおしておいてくださるかな。じつをいうと、この話は、内密にすすめておりましてな。というのも、こたび、初見のお許しので家々のうち、半分は家格があまり芳しゅうしない衆なので、そちらへは、声をかけとうないのでござるよ」

戸田七内政友(まさとも 52歳 新番頭 1500石)の名が出たとき、平蔵宣雄は、咄嗟に、別のことにおもいを飛ばしていた。
(75年前の元禄6年(1693)---水谷家の松山藩主・勝美(かつよし)さまのご逝去にからめて、封地5万石を召し上げた、そのときの老中の戸田越前守忠昌(ただまさ 佐倉藩主 7万1000石 享年68=元禄12)侯にかかわりがあるのではあるまいな。そうだと、が與(く)みするのは危険だが---?)

参照】[銕三郎、初お目見(みえ)] (1) (2) (3) (5) (6) (7) (8)

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