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2008.12.08

銕三郎、初お目見(みえ)(6)

徳川実紀』の明和5年12月5日の初見を受けた面々のうち、10名は補記しながら紹介した。

〔寄合〕柴田左京勝満の末期養子・柴田岩五郎勝房
  (かつふさ 18歳 2500石 実家1702石)
〔書院番頭]曾我若狭守助馬の養子・主水助造
  (すけより 22歳 4500石 祖父のニ男)

ちゅうすけ注】主水助造の「造」には竹カンムリがあるが、辞書にないので。

〔小姓組番頭〕水谷出羽守勝久の養子・兵庫勝政
  (かつまさ 25歳 3500石 実家1万石)
〔普請奉行〕久松忠次郎定愷の養子・鉄之丞定安
  (さだやす 16歳 200俵 実家ほぼ700石)
〔新番頭〕戸田七内政友の養子・万造光稟
  みつつぐ 28歳 2500石 実家8万石)
〔留守居番〕近藤半次郎政房の嫡孫・玄蕃政盈
  (まさみつ 21歳 300俵)
〔留守居番〕三浦五郎左衛門義如の子・左膳義和
  (よしかず 17歳 500俵)
〔先手頭〕奥田山城守忠祇の養子・吉五郎直道
  (なおみち 20歳 300俵 実家1300石)
〔先手頭〕長谷川平蔵宣雄の子・銕三郎宣以
〔西城先手頭〕松平忠左衛門勝周の嫡・又太郎勝武
  (かつつぐ 20歳 500石)

さらに加えると、

〔目付〕桑原善兵衛盛員の子・主計盛倫
  (もりとも 23歳 500石)

とあるが、『寛政譜』では、松前筑前守順広(としひろ 51歳 1500石)の3男とある。
筑前守順広は、蝦夷の松前藩主の一族である。
たぶん、『実紀』の誤記であろう。

〔西丸書院番与頭}佐久間与一光雄の子・修理孝由
  (たかよし 19歳 1500石)
〔小姓組与頭〕松平仁右衛門近富の養子・九十郎崇済
  (たかまさ 齢不詳 1500石 実家5000石)
〔ニ丸留守居〕鈴木彦八郎茂正の子・甚三郎政恭
  (まさゆき) 19歳 200俵)
〔寄合〕藤掛采女永種の子・盈太郎永忠
  (なかただ 19歳 5000石)
〔寄合〕有馬百助純明の子・熊五郎純昌
  (すみまさ 22歳 廩米3000俵)
〔寄合〕水野源右衛門忠香の子・兵庫忠候
  (ただもり 19歳 3200石)

実記』は、この日、

初て見参するもの30人

としながら、氏名は上記の17人しかあげていない。
もちろん、他日の初見の氏名の列挙も、この程度の比率でしかない。

それで、実名を挙げられる者と挙げられない者にどのような差別がされているのか、『寛政譜』を時間の許すかぎり、めくってみた。
続群書類従完成会が復元した活字本は、22巻、延べほぼ9000ページもある。
かつて全ページあらためたら、6日かかった。
日数はいいとして、眩暈(めまい)におそわれた。
高齢者が再度挑戦するものではないとおもったが、欠けたままですますのも癪なので鋭意あらため、『実紀』に未記載の全員を見つけることにした。

名簿は、いささかの見解もあるので、明日、明らかにする。

参照】[銕三郎、初お目見(みえ)] (1) (2) (3) (4) (5) (7) (8) 

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