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2009年1月の記事

2009.01.31

駿府町奉行所で (3)

銕三郎(てつさぶろう 24歳)から、おもいもかけなく、盗賊に持ち去られたまれた金額はほんとうに400両だったのか---しかも、うち、200両は戻ってきたのではないか? と訊かれた〔五条屋〕の主人・儀兵衛(ぎへえ 45歳)は、気絶せんばかりに度をうしない、口もきけなくなった。

代わって番頭・吉蔵(よしぞう 58歳)が、ぺたりと畳に額をつけ、
「お役人さま。申しわけもございません。すべては、手前、吉蔵が差配いたしましたことで、旦那さまにはかかわりはございません」

「まあまあ、番頭どの。顔をおあげくだされ。ここは白洲ではありませぬ。拙としても、お2人の企(たくら)みを暴露(あば)くために、お呼びしたのではありませぬ」

儀兵衛の顔に血の気が戻ってきた。
「江戸のお役人さま。企みましたのは、吉蔵どんではありません。わたくしめが手くばりいたしましてございます」
決心したように言う。

「ご両人。声が高い。もそっと、小さな声で話しあいましょうぞ。外に洩れては、〔五条屋〕さんの生業(なりわい)がたちゆかなくなりましょう」
「いかがいたしますれば---?」
さすがに老練な番頭である、早くも、銕三郎が許してくれそうな感触を察して、のりだしてきた。

「番頭どの。それでは、ありのまま、お答えください。200両は戻ってきましたね?」
「いえ、戻ってきたのではございません。最初(はな)から、助太郎さんたちが持ち去ったのは200両だけだったのでございます」
「それが、〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう 50すぎ)との取り決めだったのですね?」
「はい。お礼のつもりでした」
「お礼といいますと---?」
「泥棒に入ってもらうお礼でございます。お店(たな)から失せた400両のつじつまをあわせるための---」

「ということは、盗難そのものが芝居だったと---?」
「はい。もっとも、助太郎さん一味は、ほんとうに勝手口の板戸を切って押し入り、旦那さまはじめ、店の者たちも気絶させて、こちらが用意した200両を、錠前を金鋸(かなのこ)で斬って持ち去りました」

「失せたという400両は、儀兵衛どのの外のご新造代わりのところへ---」
「お見通しのとおりでございます」
「そちらにも、お子が---?」
「はい。まことの旦那さまのお子がいらっしゃいます」
「すると、おどのが生んだお子は、先代の---?」
「そこまで、お調べでございましたか---」

儀兵衛が〔荒神〕の助太郎と知りあったのは、去年の秋、仕入れに上った京からの帰りに、大井川の手前、金谷(かなや)宿のとば口の菊川であったという。

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(菊川村→金谷宿 『東海道分間延絵図』部分 道中奉行製作)

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(大井川 『東海道名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

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(大井川 『東海道分間延絵図』部分)

突然の驟雨(はしりあめ)に、近くの軒に雨宿りしたところ、中で〔五条屋〕がどうとかこうとかの話し声がした。
呼ばれたと勘ちがいして、儀兵衛はおとないを乞い、
「手前が〔五条屋〕でございます」
と言うと、招じいれられた。

中には、3人の男と、ややを抱いたおんなが一人いた。

「男たちが、助太郎彦次(ひこじ 31歳)ともう一人、おんなは賀茂(かも 30すぎ)---」
「はい。もう一人の男は、半七(はんひち 25歳ほど)でございました。しかし、どうしてそれを---まるで、神業としかおもえませんが」
「拙のことは、どうでもよろしいでしょう。それで?」


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2009.01.30

駿府町奉行所で (2)

宴は、六ッ半(午後7時)に終わった。

一人になった銕三郎(てつさぶろう 24歳)は、自分にあてられている裏庭の離れの部屋へ戻り、名前を書き留めた懐紙をじっと見据える。

〔五条屋〕の内儀・お(せい 40歳)

横に、店主・儀兵衛(ぎへえ 45歳)
    囲いおんな(京都)
    番頭・吉蔵(よしぞう 58歳) 
    飯炊きおんな・お(すぎ 61歳)
    先代・儀兵衛(5年前に病没 享年62歳?) 

    辞めさされた小僧 春吉(しゅんきち 15歳=当時)
               丈太(じょうた 14歳=当時)   
    嫁に行った台所女中 お(さだ 21歳=当時)

父親が手をつけた召使い・おを、息子の嫁に?
それを知っていて内儀にしたのは、なぜ?
逆らえなかった理由(わけ)は---?
すでに、おんなができていたからでは---?

その女は、いまは? いまでも?
(すると、京都のおんなというのは虚言?)

父親とおは、ずっとつづいていた?

銕三郎は、疑念を打ち消そうとしたが、老舗の中には、外からは想像もおよばぬ濁った血が渦巻いているかもしれない---というおもいのほうが強かった。

いつだったか、〔盗人酒屋〕の忠助(ちゅうすけ 50前)が、〔法楽寺ほうらくじ)〕の直右衛門(なおえもん 40すぎ)に躰のすみずみまで開花されつくしたお(こん 28歳=当時)が、剣友・岸井左馬之助(さまのすけ 22歳=当時)とできてしまったとき、
「老練な男に仕込まれてしまったおんなは、その道からのがれることはできゃあしませんのさ」
と言ったことがあった。

参照】2008年8月27日~[物井(ものい)の紺] (1) (2)

の場合もそうではなかったか?
若い儀兵衛の女房になったものの、ものたりなくて、先代とつづたということはないか?
先代も、それを望んでいたのでは?

先代が5年前に歿した。
すると、おは、手代に手をつけはじめる。
初心(うぶ)な男を開眼させていく愉悦。
旅籠〔柚(ゆのき)木〕の女中頭が耳にしていた、安倍川べりの出合茶屋〔梅ヶ枝〕通いしているおの放縦な性の充足は、そのことと関係があるのでは?

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(北斎『ついの雛形』 お勢のイメージ)

銕三郎は、番頭を呼んで、〔五条屋〕に使いをだしてもらった。

儀兵衛吉蔵があたふたとやってきた。
「夜分、あいすみません。あす、お奉行にお目にかかる前に、どうしてもたしかめておきたいことがありまして---」

2人が不安げな目で銕三郎を見る
「ご当主どの。盗まれた金は---400両ではありませぬな?」
「えっ---それは---」
「200両は、戻ってきたのでしょう?」

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2009.01.29

駿府町奉行所で

駿府町奉行所へは、やっとのことで七ッ(午後4時)に着いた。
役人たちの退(ひ)き刻(どき)までに、ぎりぎりで間にあった。

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(駿府・町奉行所 笠間良彦『江戸幕府役職集成』より)

矢野弥四郎(やしろう 35歳)同心と竹中功一朗(こういちろう 22歳)見習いが待ちかねていた。
藤枝宿・伝馬町の問屋場から、七ッにはお会いできるとの文を、早飛脚に伝(こと)づけておいたのである。

「お宿はご指示のとおり、旅籠〔柚木(ゆのき)屋〕を避けて、〔大万屋〕清右衛門方にしておきました」
「かたじけのうございます。そこは6年前に世話になったことがあります」

参照】2008年1月5日~[与詩(よし)を迎えに] (16) (17) (18) (19)

「今夜は、中坊(なかのぼう)ご奉行のおこころづくしで、夕餉の宴をしつらえてあります。われらはいちど組屋敷へ帰って着替え、半刻(はんとき 1時間)ほどのちに伺いますから、それまでに湯でほこりをお落としおおきください」
矢野同心の言葉づかいが、こころなしか丁寧になっている。
田沼意次の名がでたために、中坊奉行が、よほどにきつく注意したにちがいない。
「お奉行は、明朝五ッ半(午前9時)に、なにはさておいても、長谷川どのをお待ちもうしているとのことでございます」

〔大万屋〕では、亭主の清右衛門と番頭が待ちかまえていた。

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(駿府城下 伝馬町(部分) 赤〇=大万屋  水色枠=本陣・旅籠)

奉行所から手がまわっているのだ。
番頭が6年前の銕三郎と気がついた。
「あ、あのときの鶯宿梅の---」
「その節は、いこう、お世話になり申した」

番頭が清右衛門になにごとか耳うちする。
おそらく、今宵の酒の銘柄のことであろう。
清右衛門がうなずく。

「それにしても長谷川さま。ご立派におなりで---」
番頭が感慨ぶかげに、銕三郎の上から下まで目をはしらせる。
この職業の老練者らしく、客5,000人の顔と名前を覚えているのである。

矢野同心と竹中見習いのほかに、河原頼母(たのも 53歳)筆頭与力もいっしょであった。
奥の〔三保松原〕の部屋には、膳が4つ、しつらえられていた。

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(広重 『東海道五十三次』 江尻 三保松原遠望)

銕三郎が、河原筆頭を首座に着かせる。

鶯宿梅を見て、河原筆頭は大満足の様子で、清左衛門としきりに話しこんでいる。
銕三郎などはどうでもよく、酒が飲めることがうれしいらしい。

竹中見習いが銕三郎の前に座をうつし、懐から6日前に渡した紙片をだして、説明をしようとすると、
功一朗。仕事の話は、あす、役所でやれ。この場は、相良築城のすすみ加減でもうかがえ」
「いや。お差し支えなければ、いま、簡単におうかがいいたしておきとうございます」
銕三郎の救いの言葉に。
「ざっと、だぞ」
矢野同心の頷首(がんしゅ)は、、不承ぶしょうであった。

銕三郎竹中見習いに渡して紙片には、こう書かれていた。
一、〔五条屋〕の内儀・お(せい 40歳)の実家と婚儀の経緯(ゆくたて)。ごくごく内密に。
一、〔五条屋〕へくる肥え汲みの百姓と、師走に牛車や汲み取り権を貸した相手、その経緯。
一、この3年間に〔五条屋〕を辞めた者と<そのわけ。番頭・吉蔵(よしぞう 58歳)に内緒で訊くこと。
一、この3ヶ月のあいだに夫婦と幼な子で道中手形をとった者。
一、寺にとどけている人別で、この3ヶ月のあいだに夫婦と幼な子で人別をよその地へ移した者。

竹中功一朗見習いはすでに、掛川から帰任した矢野弥四郎同心へ告げていることなので、要領翌話した。
かいつまんで書くと、
一、京小間物の〔五条屋〕の内儀は、奉公にあがっていた召使いだが、先代に気にいられて、儀兵衛の女房におさまった。生家は鷹匠の小者。先代のお手つきとうわさする者もいる。
一、〔五条屋〕の肥え汲みの権利をもっているのは、清水の馬走(まばせ)の百姓・吾平(ごへえ 40歳)。息子・三平(20歳)が賭場で金を借りた男にいいつかって、牛車と肥え桶を貸した。貸した肥え桶は、きちんと返された。
奉行所は、三平を仮牢に入れている。
一、この3年間に〔五条屋〕から暇をとった者は3人。嫁に行った台所女中・お(さだ 21歳)、小僧の2人は春吉(しゅんきち 15歳)と丈太(じょうた 14歳)。暇を出された理由(わけ)は、なんど言っても夜中の買い食い癖がなおらないこと。2人とも出は沓谷(くつのや)村の小作人のせがれ。いまは畑仕事を手伝っている。
一、この3年間に、人別を移した子持ちの夫婦はみあたらなかった。

銕三郎は、人名だけを懐紙に書きとめ、あとは、料理に専念した。


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2009.01.28

〔蓑火(みのひ)と〔狐火(きつねび)〕(2)

蓑火みのひ)〕の喜之助(きのすけ 47歳)の軍者(ぐんしゃ 軍師)の一人であった〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 30歳)が、盗賊仲間の盟友・〔狐火きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 49歳)にゆずりわたされたのは、〔蓑火〕の一味に、剣の腕のたつ〔殿さま栄五郎(えいごろう 30歳がらみ)が加わったからと、銕三郎(てつさぶろう 24歳)は承知している。

参照】2008年10月23日[うさぎ人(にん)・小浪] (
2008年11月2日 [『甲陽軍鑑』] (2)

そのおと、4日間も旅して、いっしょにいた。

田沼意次の封地である相良の築城を見たあとの焼津港までは、船旅であった。
駿府(静岡市)に近い清水港でなく、焼津をえらんだのは、別れてから掛川城下まで一人で帰るおに、東海道の難所の一つである宇津谷(うつのや)峠を越えさせたくなかったからであるが、銕三郎はほかの理由を言った。
「田中城と、長谷川家のご先祖が祀られている小川(こがわ)村の菩提寺にも詣でるために、焼津港がいいのです」
田中城も長谷川家に深い因縁があるが、もう一つ、前藩主であった本多伯耆守正珍(まさよし 60歳)侯への土産話のこともあった。

「ご先祖のお墓参りができるのって、いいですね」
は、故郷を捨てたし、母親ももう中畑村にいないので、10年以上も、生まれた村へは帰っていない。

が、もう一と晩、焼津港か小川村でいっしょにすごしたいと頼むので、銕三郎は、許した。
(もう、これきり、逢うことはあるまい)
そう、こころに決めたからである。
江戸へ帰れば、久栄(ひさえ 17歳)との婚儀が待っている。

翌朝、東海道口・水上(みずかみ)村まで、おを見送っていった。
が、重みのある紙包みを銕三郎の手ににぎらせ、
「旅籠代の足しにしてください」
「足りているよ」
「いいえ。掛川からここまでの、わたしの分です」
「そうか。では---」
は、振り返れば、駆け戻ってしまうとでもおもっているのか、そうしないで、島田宿のほうへ去った。

一人になると、大事なものを手放してしまった喪失感に襲われた。
乳首を吸ったり、湿った内股へ入ったことではない。
が洩らした言葉のはしばしが、砂地から水がしみでるように湧いてきたのである。。
つよく印象にのこったのは、おが生地の村長(むらおさ)のところでの『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』講で学んだ武田信玄公の言葉の中で、

---弓矢の儀、勝負の事、十分のうち、六分七分の勝ちは、十分の勝ちなり。八分の勝ちはあやうし。九分十分の勝ちは味方の大負けの下づくりなり。

がもっとも気にいっていると言ったことである。

18歳のおが、16歳のお(かつ)とのおんな同士の色事のうわさに追われるように村を捨て、中山道を放浪していて、熊谷宿で路銀がつきた。
そこの商人旅籠でおに枕さがしをやらしたのが発覚(ば)れたとき、安宿の持ち主が〔蓑火〕の喜之助で、配下に加えられた。

参照】2008年9月13日~[〔中畑(なかばたけ)〕のお竜] (7) (8)

喜之助は、お信玄公の軍法にくわしいこと、軒猿(のきざる 忍者)の末裔であることを知ると、軍者(ぐんしゃ)扱いをしてくれた。
盗賊仲間で名を高めるためには、押し入った先から奪うのは、「六分か七分」にとどめるといい、とおが告げると、喜之助はさっそくに採りいれた。

以後、〔蓑火〕に押し入られた大店(おおだな)で、その後、商売が立ち行かなくなったところは一舗(いっぽ)もなかった。
が言ったとおり、〔蓑火〕の喜之助は、盗賊界の名門となり、また、喜之助は盗人の聖人のようにあがめられた。
ある一味の頭など、蓑火稲荷を盗人宿の裏庭に祀って朝晩おがんでいるという噂もでた。

銕三郎は、2年前---明和4年(1767)---六郷で出会った〔蓑火〕の、あと20年もしたら大黒人形そっくりになりそうなほど顎がはった福々しい、温和な風貌をおもいだし、
(さもありなん)
合点した。

参照】2008年7月25日][明和4年(1767)の銕三郎] (9)

ちゅうすけ注】もっとも、盗賊の聖人にも泣き所はあった。大おんな好きである。母親がそうであったことによるらしい。
その性癖が遠因となり、『鬼平犯科帳』文庫巻1[老盗の夢]で自滅してしまう。

蓑火〕と比べると、狐火(きつねび)の勇五郎(初代)には、もうすこし生臭いところがあった。
考え方として、
一、盗まれて難儀するものへは、手をださぬこと。
一、つとめをするとき、人を殺傷せぬこと。
一、女を手こめにせぬこと。
これはきちんと守っている。

しかし、おが、信玄公の「六分七分」説を聞かせたところ、
「だんだんと、仕込みに金がかかるようになってきている。それに、若い者たちがいささかでも分け前の多いほうがよろこぶ時代にも向かっている。格好ばかりつけていてもなあ---」
苦笑したという。

銕三郎は、自分の目で見たことのある〔蓑火〕の喜之助と〔狐火〕の勇五郎(初代)と、おがぽろりぽろりと洩らした2人の断片をつなぎあわせて、自分に置きかえて考えた。

やがて勤仕することになる書院番士としては、〔蓑火〕型の、接する者の長所だけをみるようにしながら言動することになろう。
しかし、徒(かち)組の組頭なり、先手の組頭になったら、〔狐火〕方式で、その部署に求められている能力者を見抜いてあてがっていくことになろうか---と。

それにしても、「六分七分の勝ち」を頭にすすめたというのだから、おというおんなの才智は、どうなっているのか、もうすこし見極めてみたかったと、未練がのこった。
いや、未練などという軽い言葉ではいいあらわせないほど、その思いでがこころの襞(ひだ)に棲みつくことになるおんなであった。
しかも、そのことは、こんご、誰にも打ちあけることができない。
思いだすことさえ禁じられているともいえる。
(おれが役職に就いたときの軍者として、そばにいてほしいくらいなのだが---)


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2009.01.27

〔蓑火(みのひ)〕と〔狐火(きつねび)〕

掛川から相良、そして 相良港から便船で焼津への、〔中畑(なかばたけ)〕のお(りゅう 30歳)との旅のあいだの会話から、銕三郎(てつさぶろう 24歳)は、盗賊について、おもいもかけないほど多くの知識をえた。

もちろん、銕三郎から訊こうとしたことではないし、おも、仲間の秘密を教えるつもりはなかった。
ただ、つい、ぽろりともらした言葉のはしばしから、銕三郎が類推していった知識である。

盗(つと)めでむつかしいのは、狙った商店にいつ現金がたまっているかを見きわめることらしい。
商人は、現金のまま寝かしておくような間抜けなことはしない。
はげしく回転させ、その中で利をかせぎだしていく。

まあ、駿河町の越後屋三井呉服店がはじめた、掛け値なしの現金商売をならい、多くの店が「現金掛値なし」の看板をあげているが、店頭だけでのことが多く、常得意や客先への廻りのばあいは、どうしても節季払いになってくる。
江戸の大店は、地方卸しも少なくはなく、それらはほとんど年2回か3回の〆になりやすい。

だから、いつ、現金が金蔵にたまっているかを探り出すのが、軍者(ぐんしゃ)たちの腕の見せどころではある。
それには、店の手代以上の地位にある者を買収するか、色じかけでたらしこむか。
あるいは、引きこみをいれて調べるか。

それと、銕三郎が意外におもったのは、押しこむときよりも、金を奪って引き上げときのほうにより多くの注意をはらっていることであった。
押しこみが成功すると、つい、気のゆるみがでがちで、それで足がついたり、捕まったりするのだと。

そう言われてみると、武家の戦闘でも、勝ったにしろ、負け戦さにしろ、軍の引きどきがむずかしいと聞いている。
追ってくる敵を、適当にあしらいながら、なるべく損害を少なくするように退(ひ)くのは、よほどの戦さ上手でも工夫がいるらしい。

蓑火みのひ)〕の喜之助(きのすけ 47歳)は、その引き上げの手ぎわが、なみたいていの盗賊がおよばないほど綿密に練られているので、これまでいちども失敗がなかった。
そのコツは、退き道を3つ以上練りあげ、一味を3組にわけ、それぞれに気のきいた組頭をおき、3つの退路を使って引きあげさせている。
退(の)き道がはっきりしないうちは、盗めもしない。
もちろん、盗み金(つとめがね)も3つにわけて、盗人宿まではこぶ。

蓑火〕の頭にくらべると、〔狐火きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 49歳)のやり方は大胆でそういう綿密に計算はせず、配下たちにまかせているところが多いようにおもうと。
というのも、〔蓑火〕一味には、一から鍛えあげられた配下がほとんどで、頭の命令が絶対である。
引きかえ、〔蓑火〕から〔狐火〕へ移籍して歳月の浅いおではあるが、〔狐火〕では2人の息子がまだ育ちきっていないので、ほかで腕をみがいた手の者を期限つきで雇っているからのように見える。
もっとも、〔瀬戸川せとがわ)〕の源七(げんしち 53歳)とっつぁんは別だが。

そういえば、〔蓑火〕には実の男の子がいない。それだけに、したってきた若い子を育てるのであろう。

銕三郎は、自分の立場あてはめて考えてみた。

番方のなかでも毛並みのすぐれた両番(書院番士と小姓組番士)の家に生まれているから、つぎの役つきは、徒(かち)組頭か小十人組頭で、上がりは先手組頭---いずれにしても、親代々の組下の上にのっかることになるから、〔蓑火〕型でなく、〔狐火〕型に近い。
しかし、組下の者の信頼感からいうと、〔蓑火〕型のほうがまっとうな気もしないではない。
(ま、15年か20年先のことではあるが---)


参照】2008年8月29日~[〔蓑火(みのひ)〕のお頭] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)

2008年5月28日~[〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七] (1) (2) (3) (4)


_150ちゅうすけのつぶやき】これまでもあちこちに記したが、『鬼平『犯科帳』に登場している盗賊400余人の〔通り名(呼び名とも)〕のうち、ほとんどは生地とおもわれる地名だが、なかに16人、鳥山石燕(せきえん)『画図百鬼夜行』から、池波さんが採っている。
鳥山石燕は、長谷川平蔵とほとんど同時代に生きていた画家である。
百鬼夜行」は、その当時の日本人の心に棲んでいた妖怪像である。
だから、もしかしたら、史実の長谷川平蔵もその妖怪図を見ていたかもしれない。

同書を池波さんが愛好していることに気がついたのは、『剣客商売』巻2[妖怪・小雨坊]p203 新装p221で、『画図百鬼夜行』の書名を目にしたときである。
ただちに、区の図書館で同書を借りだしてしらべた。
結果、16人を探し出せた。
16人の中に、なんと、〔蓑火〕と〔狐火〕があった。

2枚の妖怪の絵を眺めてみて、池波さんが借りたのは〔通り名〕だけで、妖怪の性格ではないことがわかった。
しかし、読み手は、おどろおどろしい〔通り名〕から、それを名乗っている盗賊の性格まで連想しがちである。

そこで、この稿では、、『画図百鬼夜行』の絵とキャプション(添え書き)を明らかにして、2人の性格とは関係がないことを示そうとおもいたった。
語り部は〔中畑〕のおだが、彼女が生な形でお頭や組織のことを明かすはずがない。
彼女の言葉のはしばしを頼りに、銕三郎が組みたてたかたちをとった。

(注)絵には、妖怪をうきあがらせるために、若干の手をくわえている。

〔蓑火〕 田舎道などによなよな火のみゆるは、多くは狐火なり。この雨にきたるみの(蓑)の嶋とよみし蓑より火の出しは陰中の陽気か。又は耕作に苦しめる百姓の臑(すね)の火なるべし。

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蓑火〕は「耕作の苦しめる百姓の臑(すね)の火」ともあるが、喜之助は、信州・上田の造り酒屋の生まれで、百姓家の子ではない。
だから、臑の火からとった〔通り名〕ではない。


狐火〕 みんな知っているからであろう、キャプションはない。夜中、里近くまでおりてきた狐が啼く。「コンコン」ではなく、ぼくの幼年時代の記憶では「ギャーギャー」であった。啼き声に、雨戸をそっと開けてのぞくと、小さな炎がちらちらと動く。「ああ、狐火だ」と納得してまた寝床へ入ったものである。

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絵には狐が3匹描かれている。
2匹はいわゆる狐色の毛。真ん中の1匹は白---どうやら、これは雌らしい。
とすると、彼女をはさんでいる2匹は雄か。
狐火を口から吐いている2匹は、求愛の合図を送っているとしかおもえない。
そういえば、〔狐火〕の勇五郎は、小説の中だけでも3人の女性にそれぞれ子を生ませている珍しい子福者の盗人である。

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2009.01.26

憎めない盗賊たち

カテゴリーに[鬼平クラス]リポートを新設。
いまのところは、静岡で5年越しにつづいているSBS学苑パルシェだけですが、将来的には、通信教室もあり---かな。
いや、このブログが通信教室選科みたいなものだから、設けるとすると、初等科とか、映像科(ビデオ・CD)かな。

とりあえず、1月11日(日曜日)のSBS学苑パルシェの教室のリポート。

テキストは、『鬼平犯科帳』文庫巻9[鯉肝のお里
配布シートは、例によって、項目一覧と、江戸の煙管問屋と煙管師の広告(『江戸買物独案内』)。三ッ橋(江戸名所図会)。京橋・霊巌島の切絵図。お里がかぶっていた鴨頭巾に似た与作頭巾図。

今回とくに用意したシートが、[多彩で魅力的な女賊たち]リスト。

というのも、2008年12月20日にリスト化した、[憎めないS盗賊たち]に、女賊が1人もあがらなかったため。
(その後コメントで、みやこのお豊さんから、[艶婦の毒]のお豊と、[掻掘のおけい]があげられたが)。

2008年12月31日に掲示したリストに、SBS学苑パルシェであげられた女賊を加えると---

おふさ    [1-2 本所桜屋敷]---SBST学苑
〔蓑火(みのひ)〕の喜之助 [1-5 老盗の夢]
〔伊砂(いすが)〕の善八 [3-11 盗法秘伝]
お豊(とよ) またはおたか [3-3 艶婦の毒]---みやこのお豊さん
おまさ     [4-4 血闘]--- SBS学苑
みね    [4-5 おみね徳次郎]---SBST学苑
〔間取(まど)り〕の万三 [5-1 深川・千鳥橋]---tomo さん
〔鷺原(さぎはら)〕の九平 [5-5 兇賊]---tomo さん
〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七 [6-4 狐火]
〔浜崎(はまざき)〕の友五郎(友蔵) [6-5 大川の隠居] 
〔猿皮(さるかわ)〕の小兵衛 [7-3 はさみ撃ち]
〔掻掘(かいぼり)〕のおけい [7-4 掻掘のおけい]---みやこのお豊さん、SBST学苑
〔泥鰌(どじょう)〕の和助 [7-5 泥鰌の和助始末]---chanpon さん
〔鹿留(しかどめ)〕の又八 [8-2 あきれた奴]---chanpon さん
お仙    [8-5 白と黒]--- SBS学苑
〔雨引(あまびき)〕の文五郎 [9-1 雨引きの文五郎
鯉肝〕のお里  [9-2 鯉肝のお里] --- SBS学苑2人
〔泥亀(すっぽん)〕の七蔵〕 [9-3 泥亀]---chanpon さん
〔風穴(かざあな)〕の仁吉 [9-5 浅草・鳥越橋]---kayo さん
〔帯川(おびかわ)〕の源助 [11-3 穴]
[雨隠(あまがく)れ〕の鶴吉 [11-7 雨隠れの鶴吉]---kayo さん
〔尻毛(しりげ)〕の長右衛門 [14-2 尻毛の長右衛門]
    [14-2 尻毛の長右衛門---SBS学苑
〔馴馬(なれうま)〕の三蔵 [18-2 馴馬の三蔵]---kayo さん
〔針ヶ谷(はりがや)〕の宗助 [18-3 蛇苺]---kayo さん
しま   [20-1 おしま金三郎]---SBS学苑
〔高萩(たかはぎ)〕の捨五郎 [20-5 高萩の捨五郎]
〔蓮沼(はすぬま)〕の市兵衛 [21-4 討ち入り市兵衛

もっとも、人選には、リストに付されていた、池波さんの魅力的な素描の2,3行がきいたかもしれない。
たとえば、おみね[4-5 おみね徳次郎]には、
---〔法楽寺〕の直右衛門によって女躰が熟成。市ヶ谷八幡宮境内の料理屋〔万屋〕の女中。おまさの幼馴染。

〔掻掘〕のおけいには、
---ひとりばたらきの「たらしこみ」専門。40おんな。美(よ)いおんなではないが、なんともいえない色気。若い〔砂井(すない)〕の鶴吉を放さない。

お仙[8-5 白と黒]は、
---:下女泥。20そこそこで、色白のぽってりした豊満な躰つき。

[14-2 尻毛の長右衛門]は、
---おすみ(19歳。狆ころが髪をゆっている顔だが、泥鰌が百匹も棲んでいる躰の主)の母親。亭主・市之助が早死に後、〔尻毛〕の長右衛門の情婦になり、引き込みをつとめる。

といったぐあい。
クラスは男性ばかりではない。半分近くが女性。だから、男ごのみの女盗だけがあげられたわけではない。

ところで、アクセスしてくださっている方々には、盗賊あがりの密偵リストから、「憎めない密偵」「好きな密偵」をあげていただこうか。コメント欄に書き込んでください。


居酒屋〔豆岩〕   [1-1 浅草・御厩河岸]p10 新装p10
小房〕の粂八   [1-3 血頭の丹兵衛]p87 新装p92
又吉 粂八の配下 [13-4春雪]p229 新装p238
めし屋〔ぬのや〕弥市[2-5 密偵]p196 新装p207
〔相模無宿〕の彦十 [2-6 お雪の乳房]p255 新装p266
吉松        [2-6 お雪の乳房]p256 新装p269
伊助        [2-7 埋蔵金千両]p294 新装p310
升造        [3-1 麻布ねずみ坂]p27 新装p28
〔矢掛〕の仁七  [4-3 密通]p104 新装p108
おまさ       [4-4 血闘]p127 新装p133
伊三次       [4-5 あばたの新助]p179 新装p188
紋造        [4-6 おみね徳次郎]p226 新装p237
大滝〕の五郎蔵  [4-7 敵]p239 新装p251
舟形〕の宗平   [4-7 敵]p256 新装p269
夜兎〕の角右衛門 [5-6 山吹屋お勝]p230 新装p258
関宿〕の利八    [5-6 山吹屋お勝]p229 新装p242
源助        [5-7 鈍牛]p266 新装p279
音吉        [9-3 泥亀]p116 新装p121
〔岩舟〕の直蔵   [9-5 浅草・鳥越橋]p196 新装p205
雨引〕の文五郎  [10-1犬神の権三]p15 新装p14
五郎蔵配下の者   [10-5むかしなじみ]p198 新装p215
〔堀切〕の彦六    [12-1いろおとこ]p31 新装p33
扇屋〔平野屋〕源助 [13-2殺しの波紋]p68 新装p70
茂兵衛 平野屋の番頭[13-2殺しの波紋]p76 新装p81
岩吉        [13-3夜針の音松]p117 新装p121
馬蕗〕の利平治  [14-3殿さま栄五郎]p90 新装p92
仁三郎 腕利き   [15-4雲竜剣 流れ星]p168 新装p173
鹿蔵        [15-4雲竜剣 流れ星]p168 新装p173
元次郎       [15-4雲竜剣 流れ星]p175 新装p181
駒造        [15-4雲竜剣 流れ星]p175 新装p181
庄吉        [15-6雲竜剣 落ち鱸]p253 新装p262
直八        [15-7雲竜剣 秋天晴々]p31 新装p331
久平        [15-7雲竜剣 秋天晴々]p335 新装p347
蛸坊主〕の五郎  [16-1影法師]p37 新装p38
平吉        [16-3白根の万左衛門]p132 新装p138
老船頭:友五郎   [16-4火つけ船頭]p163 新装p171
宗六        [17-4鬼火 闇討ち]p175 新装p
由松        [17-5鬼火 丹波守下屋敷]p188 新装p193
鶴次郎       [17-7鬼火 汚れ道]p293 新装p303
為造        [19-5雪の果て]p235 新装p343
与吉        [20-1おしま金三郎]p19 新装p20
高萩〕の捨五郎  [21-2瓶割り小僧]p50 新装p53
千五郎       [21-6男の隠れ家]p257 新装p257
玉村〕の弥吉   [22-4迷路 人相書二枚]p107 新装p101
泥亀〕の七蔵   [22-4迷路 人相書二枚]p107新装p102
勝五郎       [22-10 迷路 高潮]p291 新装p276
〔平磯〕の太平   [23-1炎の色 夜鴉の声]p86 新装p83
砂井〕の鶴吉   [23-3炎の色 荒神のお夏]p163 新装p157
口合人〔佐沼〕の久七[24 女密偵女賊]p10 新装p10
仁助        [24-1相川の虎次郎]p147新装p140

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2009.01.25

ちゅうすけのひとり言(30)

2ヶ月ぶりの、[ちゅうすけのひとり言]である。

今朝まで、書くつもりはなかった。

突然、銕三郎(てつさぶろう 24歳 のちの鬼平)と、お(りょう 30歳)の、相良行きの道中記を書いてはいけない---と気がついた。
いや、もちろん、2人は、相良へ行く。

掛川城下から、下俣、南西郷村を経由、峠にかかって入山瀬をすぎ、山裾道を川久保郷から中(現・静岡県小笠郡大東町中)という村まで、3里(12km)も歩かないで一泊してしまう。

_360_2
(掛川=赤○ 中=青〇 相良=青〇 明治20年 参謀本部製)

もっとも、人目があるから、昼間っから抱きあいはしない。
猥褻(わいぜい)も色情も同居している江戸や城下町の掛川とちがい、穏やかな山裾(やまずそ)の僻村である。
そんな行為におよんだら、村人たちが目をむいてしまう。

歩きながらでは無理なさまざまなことを、じっくりと話しあいたかったのである。
焼津港か清水港にいると銕三郎が推察している口合人のこと。
荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう 55歳前後)の子を産んだ賀茂(かも 30歳すぎ)のこと。
その子が、ついこのあいだ、風邪がもとで、2歳で幼逝して、賀茂がいっとき狂乱したこと。
駿府に置かれている〔狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 47歳)一味のうさぎ人(にん 情報屋)のこと。

(かつ 28歳)がしくじった、駿府の両替商・〔松坂屋〕五兵衛(ごへえ 49歳)の好色ぶり。
(おがうまく雇われて早々、美貌に劣情を覚えた五兵衛が、瀬名川の西岸・「西田の落雁」は近江八景の「堅田の落雁」に比(ひ)されているほどの美景で、たまたま瀬名の旧家・中川家訪問という口実にことよせて供を言いつけ、帰りにいかがわしい酒屋で犯そうとした。

参照】2008年10月4日[ちゅうすけのひとり言] (25)

はねかえされた五兵衛は、いまだに歩行が困難なぎっくり腰。
武勇伝が有名になるとともにおは店にいられなくなって掛川へ移ったいきさつ。
狐火〕のお頭は、苦笑しながらもおの手落ちを叱ったという。

いや、このような他愛もない話はどうでもいい、好きあっている2人には大いに意味があろうが、はたの者にはなんの興味も湧いてこないし、ましてや2人が、あいまあいまに口を吸いあっては微笑んで見つめあうとなっては---。

ちゅうすけが書こうとしているのは、そういう無駄ごとではない。

_130そもそも、おを登場させたのは、銕三郎と躰をあわさせるためではなかった。(歌麿 お竜イメージ)
鬼平犯科帳』の未完・巻23[誘拐]で、おまさを誘拐させたらしい〔荒神〕のお(25歳=[炎の色]当時)は、あろうことか、おまさ(37,8歳=当時)に懸想してしまった。
は、おんなおとこ---つまり、レスビアンの立役(たちやく)、歌舞伎でいう、女形に対する男役である。

のこころの動きを理解するには、登場人物に立役のレスビアンが必要---そう思って造形にかかった。

男性同士で愛しあっている知り合いは5,6人いる.が、幸か不幸か、レスビアンの知り合いはいない。
それで、レスの女性のエッセイや小説を読んで、もの好きが想像しているようなものではなく、人と人の愛情関係にすぎないとわかった。

そういうことなら、多くのおんなが憧れ惚れるどころか、男も惚れこんでしまう銕三郎に、おが躰をゆるすことだってあろう---とおもった。
1個の人間対人間の信頼・愛情関係である。あって不思議はない。
だから、砂地に水がしみこむように、お互いが自然こ相手を受け入れたごとくに書いた。

とは言え、銕三郎は、両番(書院番士、小姓組番士)の家の嫡子として、将来、幕府の中間管理職が約束されている若者である。
いかに、無分別ざかりの年齢のときのことであろうと、盗賊の一味のおんなと知りながら、いつまでも情をかよわせ、躰をむすびあっていてはいけない。
悪意の耳打ち屋がしったら、お役ご免どころか、醜聞として記録がのこる。

銕三郎も、そのことは心得ていた。
も、自分に言いきかせ、あきらめる賢明さと自制ごころはもちあわせている。

だから、永代橋の上と下の別れの場を設定し、もう、顔をあわせることはないと、ちゅうすけは断定していた。

参照】2009年1月4日[明和6年(1769)の銕三郎] (

ところがである。

が、ひょいとあらわれた。
彼女の向こうには、おがいる。

魂は自然に惹(ひ)きあう。

2人は逢ってしまった。
とうぜん、火がついた。
は、おを喜ばせているときに得るものとはちがう、下腹の奥の臓腑がひとりでにうごめく感触に燃え、幸せ感を手の爪先、足の指1本々々にまで満たした。

_360
(北斎『ついの雛形』部分 お竜のイメージ)

本能と言いすててしまえば、それまでのこと。
だが、問う。こころからの愉悦に身をまかすことは罪悪であろうか。
道徳感は、最低限、ちゅうすけももちあわせてはいる。

銕三郎とおを抱きあわさせたことに、お叱りをうけるべきであろうか?

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2009.01.24

銕三郎、掛川で(4)

駿府へ帰る同心・矢野弥四郎(やしろう 35歳)と供の2人の小者を、東海道口まで見送りにきた銕三郎(てつさぶろう 24歳)に、
「ほんとうに、1人、おつけしなくて、よろしいのでしょうか?」
「おこころづかいだけで十分です。じつは、山越えして、相良へまわろうとおもってもおりますゆえ---」
「相良へ?」
「せっかくですから、田沼侯のご城下も拝見しておけば、なにかのときにお話があいましょうから---」

27_360
(広重 『東海道五十三次』 掛川宿 秋葉山遠望)

相良侯とおっしゃいましたが、さきごろ、ご老中格になられた主殿頭(とのものかみ)さまの、田沼さまですか?」
相良侯は、田沼さまと決まっておりましょう」
「ご存じなので?」
「父とともに、お招きをいただいております」
「これはしたり。存ぜぬこととはいえ、失礼のかずかず、お許しください」
「ご老中格なのは田沼さまで、拙ではありませぬ---」
「お帰りの節、かならず奉行所へお立ち寄りを。中坊(なかのぼう 左近秀亨 ひでもち 53歳 4000石)お奉行にも、このこと、言上しておきますれば---」
「あいわかりました。道中、お気をおつけになって---」
矢野同心は、きのう、〔京屋〕がくれた飾り櫛を、内儀へわたすときの空想で、半分うわのそらである。

_130_3矢野たちの姿が街道の松並木に消えるまで立ちつくし、宿の〔ねぢ金や〕治郎右衛門方へ戻ってみると、年増のたおやかな美人が待っていた。
(りゅう 30歳)である。
銕三郎とつれ立って歩くつもりで、武家の新造ふうに、淡い色の揚げ帽子をつけている。
それがよく似合っていて、銕三郎はおもわず見とれた。
視線を感じたおも、嫣然と微笑む。(歌麿 お竜のイメージ)

銕三郎の股間が熱をおびはじめる。

〔ねぢ金や〕を出て、
「どこに住んでおる?」
「駄目。お(かつ 28歳)がいます。ついていらしてください」

橋のたもとの瀟洒なしもた屋で、案内を乞うた。
川が見渡せる2階の部屋には、炬燵(こたつ)が置かれ、屏風のむこうに床がのべられている。
女中が引きさがると、銕三郎が脇ざしをぬく間も待たずに、立ったままむしゃぶりついて、口を吸った。
香ばしい髪脂と白粉の匂いで、銕三郎も興奮し、抱きしめた。
女中はこころえたもので、そっと茶菓の盆を押しこんで去る。

口を離して、袴をとるようにすすめ、自分も揚げ帽子をはずした。
銕三郎の膝にまたがって、また、口を吸う。
腰をうかせ、
「脚をのばしてください」
裾をはぎ、自分の裾もひろげ、太腿に乗り、秘部を接する。
「わたしの裾が、孔雀の尾羽のようにひろがっていますか」
「うん」
「小袖ででは、裾のひろがりが小さくて口惜しい。裾を引くのを着てくればよかった。まさか、こうなるとはおもわなかったんです」
「夢を見ているようだ」
「これが、孔雀です」
「孔雀は毒蛇でも平気でたべるそうな」
「諏訪さまのご神体はお蛇さまともいわれているんですよ。孔雀がいま食べていのは、毒蛇ではありません。おいしいお蛇さま。ほら、ぴくびく---」

はげしかった息づかいがおさまり、炬燵に並んではいってからも、鎌首をにぎっている。
「明日は、江戸へお発ちですか?」
「山越えして、相良へまわろうかと---」
「相良になにか---?」
「お城づくりがすすんでいるはず。もっとも、いまのところは、堀の石垣の石組み普請だろうが---」
「お供、しようかしら。相良まで、どれほど?」
「峠を入れて、5里(20km)ほどかな」
「決めました。お供します。ご迷惑?」
「いや。拙はうれしいが、〔狐火(きつねび)〕のほうはいいのか?」
「おが、まだ、実(じつ)をとっていないのです」
(なんだ、狙いは〔花鳥(かちょう)〕なのか)
口まで出かかったが、呑みこんだ。

勘よく察したおが、
(てつ)さま。おつとめの話は、なし。このことに熱中しましょ。諏訪さまが逢わせてくださったのですもの」
銕三郎は、
(どうして、躰がこんなに求めあうのか)
不思議な気分を味わっていた。
(なか 34歳=当時)と、お(しず 18歳=当時)とのときにはむさぼるようなところがあったが、おとのは、ゆったりとした春のような気持ちよさであった。
にも、同じような気分が湧いていた。
(躰があうということは、こういうことなのかもしれない。これまでの、おとのことはなんだったのだろう)

だからといって、この関係がつづくものでないことは、2人とも十分にわきまえいる。
そこが、浮世のむずかしさであろう。

肌と肌をもっと接したい。
たまらず、先に、おが脱いだ。
乳首を、銕三郎の舌がまさぐる。


ちゅうすけの与太ばなし】このときの駿府町奉行・中坊(なかのぼう 左近秀亨 ひでもち 53歳 4000石)は、[平成の鬼平]との異称をたてまつられた中坊公平(こうへい)氏の先祖筋にあたるのではないかとかと推察している。そう、バブルの産物処理の住宅金融債権管理機構の債権回収で辣腕をふるい、のち責任をとって弁護士を廃業した人。

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2009.01.23

銕三郎、掛川で(3)

長谷川どの。〔京(みやこ)屋〕で、まっすぐに勝手口へ行かれたのには、なにか手がかりでもあったためですかな?」
訊いたのは、駿府町奉行所探索方の同心・矢野弥四郎(やしろう 35歳)である。
銕三郎(てつさぶろう 24歳)が、〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう 55歳前後)一味と思われる賊に襲われた、掛川城下・中町の小間物の〔京屋〕を改めたいと望んだので、駿府から同行して、旅籠〔ねぢ金や〕治郎右衛門方で、迎えを待っている。

今夕は、掛川藩の町奉行所の与力・町井彦左衛門(ひこざえもん 45歳)が2人を肴(さかな)町の料亭〔花鳥(かちょう)〕でもてなしてくれることになっているのである。

「手がかりと申しましても、荒神松しかございませぬ。荒神松は、炊きどころの竈(かまど)の上に祀る縁起もの。盗賊が〔荒神〕の助太郎一味であれば、勝手口の戸から---とかんがえてみただけでございます」
「それだけの手がかりで、あの穴のからくりをお見破りになったのですか?」
「駿府の〔五条屋〕は、切りひらかれておりました。〔京屋〕は、そう申しませぬでした。それで、からくりを考えてみたのです」
「感服つかまつりました」
矢野同心がそう言ったとき、町井与力が来たと、女中が告げた。
与力は、武光某(31歳)という探索方の同心を伴っていた。
町井彦左衛門が、掛川藩の重役につながった一族であることは、〔ねぢ金や〕治郎右衛門から、すでに耳にいれている。
料亭〔花鳥〕も、町井一族とつながりがあるらしい。
武光同心も、掛川藩では古い家柄の一族の末らしかった。

座敷は、さすがに高級料亭らしく、調度品も凝っている。
2人は、上座をすすめられた。
いちおうは辞退してから、2人は座についた。
いってみれば、銕三郎長谷川家も、駿府在勤の矢野同心も直参(じきさん)の身分だから、はばかることはないのである。

武光同心が、主客と町井与力に酌をしてまわり、銕三郎に、
「店(たな)の者たちの疑いが晴れたと、〔京屋〕がたいそう、喜んでおりました。さすがは江戸の火盗改メ方と、もっぱらの評判でございます」
「駿府からの道々、矢野どののご指導があったればこそ、です」
銕三郎は、矢野同心に華をもたせる。

_100そのとき、新しい座敷女中が3人、銚子を捧げてはいってきた。
中の一人は、とびぬけての美形であった。
(かつ 28歳)である。(歌麿 お勝のイメージ)

は、銕三郎の向かって左隣りの町井与力の前について酌をする。
銕三郎は、あえて無視し、係りになった女中にだけ話しかけた。

しばらくして、女中たちが座を変えた。
は、銕三郎をとばして、右隣りの矢野同心の前へ移った。

銕三郎も、おを無視した。

やがて、お銕三郎の前に着く。
「お(みや)と申します」
「ほう。おどのですか。長谷川です」

銕三郎が立った。
「厠(かわや)をお借りしたい」
「こちらでございます」
がみちびく。

廊下を渡ったところで、
「駿府の両替町ではなかったのか?」
「ご存じでしたか? 〔松坂屋〕には、いられない事情ができまして---」
「お(りょう 30歳)どのもいっしょか?」
がうなずく。
「会いたいと伝えてくれないか。〔ねぢ金や〕に宿泊している。こんやは、駿府町奉行所同心の矢野どのがいっしょだが、明日には矢野どのは駿府へ発(た)ち、拙はのこる」
「わかりました」

座敷へ戻ると、お(みや じつは、お)は、またも町井与力の前に座り、もう、動かなかった。


参照】2008年9月13日[中畑(なかばたけ)〕のお竜] (7)
2008年10月12日~[〔お勝(かつ)〕というおんな] (1) (2) (3) (4)
2008年11月25日[屋根船
2008年11月27日[諏訪左源太頼珍(よりよし)] (3)
2009年1月1日~[明和6年(1769)の銕三郎] (1) (2) (3) (4) (5)

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2009.01.22

銕三郎、掛川で(2)

長谷川どの。すっかり戸締りしていた〔京(みやこ)屋〕へ、賊はどうやって入ったのですか? 二階の格子をすりぬけたとか---」
矢野弥四郎(やしろう 35歳 駿府町奉行所同心)が銕三郎に話しかけている。
中町に店がある小間物の〔京屋〕は、奉行所からものの2丁と離れてはいない。

「戸締りを確かめてみないと、なんとも---」
「ごもっとも、ごもっとも」
矢野同心は、口ではそう言ったものの、内心では、銕三郎が密室の謎をどう解くか、興味津々(しんしん)である。
自分が町奉行所の捕り方の同心であることを忘れているようであった。

〔京屋〕へ着くと、先に帰されていた店主・新兵衛(しんべえ 52歳)と番頭・卯蔵(うぞう 46歳)が店先まで迎えに出てきた。
新兵衛が、
「粗茶でも---」
と言うのを、のちほど、と謝した銕三郎が、
「番頭どの。勝手口へ通じている猫道がありましょう? ご案内ください」

卯蔵の導きで、躰をななめにしがら通りぬけて、勝手口の板戸の前でじっとみつめていた銕三郎が、左隅のある箇所を指でこそげた。
土の粉が落ちたあとに、小蟻が通れるほどの小穴が見えた。
「これは?」
銕三郎が、番頭に訊いた。
「さあ、はじめて目にしました。いつできたものか---」
「厠(はばかり)を借りた男があけたのですよ」
「えっ? なんのために?」
「内側の落とし桟をあげるためです」
「こんな小さな穴で?」

銕三郎が説明した。
穴から糸を通した針を内側にむけて落とす。
針が落ちたところは、落とし桟木が落ちる凹になっている。
針をとりあげ、糸を切ると2本の糸が外と内をむすぶ。
内がわの2本の糸を開きぎみにして、凹の側面に続飯(そくい)でとめる。
桟木が落ちても、外の糸をひけば桟木はあげられる。
ふつうは、落ちた桟木に横から三角桟木をかませて固定するのだが、この家のは、そこまで用心していない。

「いや、〔京屋〕さんの手落ちではありませぬ。三角桟木がかませてあったら、賊は、板戸を切りあけて桟木をはずしたでしょう。駿府の〔五条屋〕でやったように---」
銕三郎は、矢野同心の顔をみた。
矢野同心がうなずいたので、番頭の卯蔵は、救われたといった表情になって緊張を解き、
「お役人さま。いまのお言葉を、主人とご新造にも聞かせていただけませんか」
真顔になって頼んだ。

奥の部屋へ案内されながら、銕三郎矢野同心へそっとささやく。
「桟木やぶりの仕掛けは、矢野どのからご説明くださいませぬか」

帰りぎわに、番頭が奉書につつんだものを、矢野銕三郎に、それぞれ手渡した。
「ありがとうございました。これで、お店(たな)の中には、賊に内応した者がいなかったことが分明いたしました。これまで、疑心暗鬼(ぎしんあんき)で、鬱陶しゅうなっておりましたのが、いっきに晴れわたりましてございます。ほんのお礼の気持ちで---」

宿で改めると、鼈甲に象嵌細工をほどこした高価な飾り櫛であった。
(はて。久栄どのへの土産はこれでできたが、母上へのほうはなんとしたものか)

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2009.01.21

銕三郎、掛川で

金谷(かなや)では、旅籠〔松屋〕忠兵衛方で草鞋(わらじ)を脱いだ。
ここでも、銕三郎(てつさぶろう 24歳)は、夕餉(ゆうげ)の前に、50すぎの顔色の黒い、細身の男と、つれそっている2歳ほどの幼な子をつれた痩せたおんなのことを訊いたが、亭主は頭をかしげるばかりであった。
「もうすこし、手がかりがごいませんと、なんとも雲をつかむようなお話で---」

翌朝は、五ッ(午前8時)に発(た)った。
あいかわらずの晴天つづきであった。
金谷から掛川は、3里11丁(約13km)。

小夜(さよ)の中山を越えて、夜啼松(よなきのまつ)があった跡へさしかかったとき、同心・矢野弥四郎(やしろう 35歳)が松に刺激を受けたか、昨日の金谷への道中に洩らしたのと同じことを、また口にした。
長谷川どの。小職(しょうしょく)には、〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう)が、自分の身元が知れるのに、なにゆえに、わざわざ、荒神松を置いていったのか、どうしても合点がゆかないのですよ」
助太郎を捕えてじかに訊問しても、本心を述べるとはかぎりませぬ。人のこころの本音(ほんね)など、つまるところは、推察するしかないのです」
銕三郎の返事も、昨日と同じであった。

ちゅうすけ注】夜啼松は、樹皮を煎じた湯が赤子の夜泣きに効くと、諸人が削り取ったため、銕三郎のころには、わずかに根だけが残っていたという。銕三郎の答えは、「本根(ほんね)」を「本音」にかけたのだが、矢野同心につうじたかどうか。

むしろ、2人の供をしている奉行所の小者がわかったとみえて、顔をみあわせ、こっそりうなずきあっていた。

新坂(にっさか)の茶店でひと休みし、四ッ半(午前11時)に掛川城の下にある町奉行所へ着いた。

27_360
(掛川城下 『東海道分間延絵図』 道中奉行制作)

小者が門番に刺を通すと、奉行自らが出迎えにあらわれ、用部屋へ案内した。

_360
(掛川城・天守閣)

あいさつが終わりったところで、控えていた例繰方(れいくりかた)に、銕三郎が訊く。
「掛川城下の町屋では、火除け(ひよけ)のお守りに、荒神松を使いますか?」
「秋葉さんの神札を掲げております。荒神松というのは、聞いたことがありませぬな」

吟味所には、一昨年被害にあった小間物屋〔京(みやこ)屋〕新兵衛(しんべえ 52歳)と番頭・卯蔵(うぞう 46歳)、それに町名主が呼び出されていた。

一件の留書帳を手に、矢野弥四郎が聞き取りをはじめ、掛川藩の書役(しょやく)が口述を書き取ってゆく。
「賊は、九ッ半(午前1時)に、侵入してき、店と家の者9人の急所を突いて気絶させて縛り上げたことに相違ないな」
「相違ございません」
「全員、気絶しいていたゆえ、賊の員数はわからなかったことに相違ないな」
「相違ございません」
「戸締りはきちんとしていたゆえ、どこから、どうやって侵入してきたかわからないとな?」
「はい」
「いまもって?」
「はい」

「賊は、鉄鋸(かねのこ)で金蔵の錠を切りあけたのに相違ないな」
「お留め書きいただいているとおりにございます」
「相違ないのだな」
「相違ございません」
「賊に奪われた額は、530両に相違ないな」
「相違ございません」
「賊は、表戸のくぐり戸から去っていった?」
「そこの戸じまりだけが解けておりましたゆえ、そのようにおもいました」
「ふむ。長谷川どの。なにか?」

「では---。ご当主、京屋という屋号はいつからですか?」
「先代からでございます」
「先代からというと、何年前からですか?」
「ええ、お待ちねがいます---」
予期していなかった問いかけに、新兵衛が指を折って勘定し、番頭に耳打ちして、
「23年にあいなります」
「23年前といえば、ご藩主は、太田侯でしたか」
「あ、丁度、館林からお国替えでお移りにおなりになった年でございます」

「番頭どの。この3年のうちに、いまの屋号のことで、話しかけてきた者はなかったですか?」
「ございませなんだとおもい---いや、お一人ございました」
「どんな者でしたか?」
「はい。50がらみの、色の黒い、小体(こてい)な---」
「男ですな?」
「はい」
「京なまりがあった?}
「話しているうちに、すっかり京ことばになりました」
(なんと、無用心な---)

「厠(かわや)を貸しませんでしたか?」
「あ、貸しました」
「大きいほう? 小さいほう?」
「大きいほうだったとおもいます。少しくかかりましたから。なんでも、痔を患っていてと---申しわけございません、尾篭(びろう)なことを口にしました」

「賊が押し入ったときから、どれほど前のことでしたかな?」
「---前の日でございました」

「これだけです」
銕三郎は、書役に合図をするように、頭をさげた。

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2009.01.20

銕三郎、三たびの駿府(13)

竹中さま。矢野さまと拙は、明朝六ッ(午前6時)に掛川へ向かいます。その留守中に、以下のことをお調べおきくださいましょうか?」
銕三郎(てつさぶろう 24歳)が、駿府町奉行所の見習い同心・竹中功一朗(こういちろう 22歳)に紙片をわたす。
伝馬町でも南のはずれにある旅籠〔柚木(ゆのき)屋〕の奥の間である。

一、〔五条屋〕の内儀・お(せい 40歳)の実家と婚儀の経緯(ゆくたて)。ごくごく内密に。
一、〔五条屋〕へくる肥え汲みの百姓と、師走に牛車や汲み取り権を貸した相手、その経緯。
一、この3年間に〔五条屋〕を辞めた者と<そのわけ。番頭・吉蔵(よしぞう 58歳)に内緒で訊くこと。
一、この3ヶ月のあいだに夫婦と幼な子で道中手形をとった者。
一、寺にとどけている人別で、この3ヶ月のあいだに夫婦と幼な子で人別をよその地へ移した者。

「しかと、承りました」
一読して功一朗が、ふところへ納めた。
「わしたちは、3日もしないで戻ってくる。それまでにすませておけ。言っておくが、小者にまかせたり、手先に言いつけてやらせるんじゃないぞ」
矢野弥四郎(やしろう 35歳)同心が、先輩らしく念を入れた。
「はい。肝に銘じまして---」
「いまの若いのは、返事だけは格好をつけているがな---はっ、ははは」
矢野さま。拙もまだ、若い者のうちに入っておりますが」
銕三郎が、功一朗をかばって軽く抗議する。
「これは失礼つかまつった」

食事がすむと、2人ははやばやと帰っていった。
膳をさげにきた女中に頼んだ、
「女中頭どのに、手がすいたら、来てもらいたい」

半刻(はんとき 1時間ばかり)して、40がらみの女中がやってきた、
「お(はん)と申します。なにか、ご用でございましょうか」
銕三郎は江戸の火盗改メのゆかりの者と身分をあかし、
「これから訊くことを、誰にも口外しないでくださるか?」
念をおす。
がけげんな表情でうなずいた。

「おどのは、ここへ住みつきですか? 通い?」
「住みつきですが、自分の家はこの近くにあります。むすめが髪結いをやっております」
「それで、お髪(ぐし)がみごとに結(ゆいあがっているのですな」
「お上手ばっかり。でも、むすめの腕をおほめいただいて、うれしゅうございます」
「ご息女のところへは、何日おきに??」
「3日ごとでございます。お昼すぎの手すきのときに」

「ご息女のところには、いろんな話が集まっていましょうな」
「おんな客のたのしみは、噂話の交換ですから---」
(うさぎ人(にん)にぴったりの職業---)

「呉服町の小間物屋〔五条屋〕で買いものをしたことがありますか?」
「とんでもございません。私どもには手の出ないような上等のお品ばかりのお店です」
「あそこのご内儀のことを、ご息女のところで、なにか耳にしていませぬか?」

_260_2「なにか---とおっしゃいますと?」
「色ごとのような---」
「ご存じでございましょう? 店の手代とそういう店へ行っていることは---」
「その店の名が知りたかったのですよ」
「安倍川べりの弥勒(みろく)にある〔梅ヶ枝(うめがえ)屋〕だそうですよ」
「そうそう、〔梅ヶ枝屋〕〔梅ヶ枝〕。さすがに〔柚木屋〕いちばんのおどのだ」(北斎『万福和合神』 お勢のイメージ)

「おだてても、こんなおばあちゃんだから、夜伽はいたしませんよ」
「それは残念。はっ、ははは」
「うふっ、ふふふ。本気にしますよ」
「いや。明朝、早いのでな。ところで、もう一つ訊いていいかな」
「いよいよもって、ひとり寝はできませんよ」

「このごろ、江戸から流れてきた年増のいいおんなで、雇い主が口説いたがなびかなかったって、艶消しの話を耳にしていませぬか?」
「あら、両替町の〔松坂屋〕五兵衛さんのことが、もう、江戸までとどいているんですか?」
「〔松坂屋〕といえば、両替商の?」
「いやですよ、このお武家さん、鎌をかけていらっしゃる---」

「すまないが、番頭さんを呼んできてくださらぬか。その前に、おどの。いい話をいろいろとありがとう。ほんの寸志だが、おさめてくだされ。その、添い寝は、戻りの泊まりの夜までお預けということに、な」


参照】2009年1月8日~[銕三郎、三たびの駿府]()  () () () () () () () () (10) (11) (12

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2009.01.19

銕三郎、三たびの駿府(12)

「こちらは、竹中功一朗(こういちろう 22歳)同心見習いです」
矢野弥四郎(やしろう 29歳)同心が紹介した。
駿府町奉行所には与力が6人、同心は40人いるが、清水港の船手組や水主(かこ)などの管理も兼ねているので、手一杯で、臨時仕事ともいえる盗賊探索には、なかなか手がさけない。
銕三郎(てつさぶろう 24歳)の要請に、やっと、見習いを用立てたといったところであるらしい。
見習いのほとんどは、親が同心勤めをしている家の子がおおく、無給に近い。

ところは、伝馬町の西のはずれの旅籠〔柚木(ゆのき)屋〕で、規模はきのうまでの本陣〔小倉〕からみれば格段に落ちる。畳もけばだっているし、へりの当て布もところどころ光っている。
しかし、銕三郎の指定であった。

お互いのあいさつのやりとりが終わると、銕三郎がまず、〔五条屋〕の板戸の落とし桟が破られた件について説明した。

落とし桟の仕組みと位置を、あらかじめ下見した者がいる。
〔五条屋〕の勝手口の板戸の落とし桟は、ふつうと違い、下方にしかけられており、桟は板戸がすべる敷居に落ちる仕掛けになっているから、下見をしないでは、それがわからない。
賊は、落とし桟をあける部位だけを正確に切りあけているのだから、内通者がいたとは断じがたい。
下見をした者といえば、押し入りの3日前に肥(こ)え汲みがきている。
いつもの百姓家の者が風邪で寝込んでいるので代わりにきたといって、謝礼の大根を竃の横へ運んだという。
そのときに内側から戸締りの落とし桟の仕組みと位置をたしかめ、出るときにその部位をしめす印を、板戸の表側に木炭かなにかつけたらしい。
「そのことは、板戸を修理した出入りの大善の留吉(とめきち 21歳)が証言しています」

矢野同心は、いまさらのように銕三郎の探索の手ぎわのよさにおどろいている。
銕三郎の推理に初めて接した竹中見習いは、興奮をかくさない。

「肥え汲みは、手ぬぐいで頬かむりをしており、台所方のおんな衆も、50すぎの、色の黒い、魅力の薄い男だったということしか覚えておりませぬ。それはそうでしょう。肥え汲みなどに興味を持つ町のおんななど、いるはずがありませぬ」
佐野竹中も、もっとも---と合点した。

「しかし、その男が〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう 50歳すぎ)当人となると、話は別です」
改めて、2人がすわり直し、冷えてしまっている猪口の酒をながしこんだ。

銕三郎は、説明をつづけた。
一味の頭(かしら)ともいえる助太郎自身が肥え汲みに化けて板戸のからくりを調べたということは、一味の人手が少なかったとみる。
もちろん、助太郎は、自分の目と勘にたよりがちな頭ではある。
襲った賊は8人ほどか。
表には見張りが2人。

〔五条屋〕が奪われた金子(きんす)は600両なにがし---ここでも銕三郎は、〔五条屋〕が金額をふくらませたことは打ちあけない。

分け前を一人50両ずつくばると、頭の手に残るのは100両になってしまう。これでは、次の盗(つと)めの支度金にもならない。
そこで、こう考えてみた。
荒神〕の助太郎の手のものは、2人ぐらいかと。

1人は、6年前に小田原で見かけた、小頭格の彦次(ひこじ 31,2歳)であったろう。

参照】2007年12月28日[与詩(よし)を迎えに] (
ちゅうすけのつぶやき】もう1人の助太郎の子飼いの配下は、『鬼平犯科帳』巻22[炎の色]に登場する〔袖巻(そでまき)〕の半七(はんしち)か、〔夜鴉(よがらす)〕の仙之助(せんのすけ)だったかもしれない。まあ、〔五条屋〕のおなご衆が犯されていなかったところをみると、〔夜鴉〕の一味入りはこのずっとあとかも。
いずれにしても、2人の年齢が書かれていないので、判断不能でせある。

あとは、流れづとめを7人。
流れづとめなら、分け前が30両でも、拘束されるのが押し入り前後の10日ばかりだから、文句は出まい。
次ぎの一味を手伝いに行って、また10日で2,30両が手に入る。
もちろん、それには、仕事を紹介してくれる口合人(くちあいにん)への謝礼が2両は入り用であろう。

口合人は、助太郎からも、助っ人1人につき3両はとっていよう。
両方からの分を合わせると1人5両の7人だから35両(1両はいまの金に換算して、すくなくとも15万円に相当する)。

その口合人だが、掛川の件と〔五条屋〕の件をあわせて考察してみると、清水か焼津(やいづ)にいるようにおもえてしかかたがない。
つまり、この口合人は、船で盗(つと)め人くばりをしているようだ。
「これは、いそぐことはない。矢野さまと竹中さまがじっくりと探索なさればいいでしょう」

さて、〔荒神〕一味ですが、〔五条屋〕での600両のうち、33両の7人分の231両は、ながれづとめ人と口合人に消えた。
残りの369両のうち、一味の2人に40両ずつとして80両。
というのは、〔荒神〕一味の仕事は、年に1件と控えめだから、一味の者は、40両で1年暮さなけならない。

助太郎は、残った280両を、次ぎの仕込みにあてるのだが---」
ここまで言って、銕三郎は口をつぐんだ、
280両と計算をしてみせたが、じつは200両は偽りの金額である。
助太郎の手元に残っているのは、80両にすぎない。
これで、1年、持ちこたえられるか?
助太郎は、一仕事終えるごとに、賀茂(かも 30歳すぎ)と2歳ほどの子を連れて居を移している。その費(つい)えも馬鹿にならないはずだ。


参照】2009年1月8日~[銕三郎、三たびの駿府]()  () () () () () () () () (10) (11) (13

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2009.01.18

銕三郎、三たびの駿府(11)

河原筆頭与力さま。宿をお替えいただけませぬか?」
江戸の火盗改メ・長山組の与力・佐山惣右衛門(そうえもん 36歳)と同心・有田祐介(29歳)が引きあげるのを、駿府町奉行所の前で見送った銕三郎(てつさぶろう 24歳)が、筆頭与力・河原頼母(たのも 53歳)に頼んだ。

「本陣・〔小倉〕平左衛門で、なにか不調法でも---?」
「そのようなことは、なに一つございません。食事よし、風呂は湯加減よし、番頭・女中もそつなし---。下世話な肌合が恋しくなりましただけで---」
「わかり申した。矢野、もそっと西寄りの旅籠を、夕刻までに手配するように---」
河原筆頭が、横の矢野弥四郎(やしろう 35歳)同心に言いつけた。

_360_2
(駿府の旅籠通りの伝馬町 赤○=〔小倉〕 西寄りの旅籠は(

矢野同心は、掛川藩の重役から返書が来しだい、銕三郎と東海道をのぼることになっている。
昨日、駿府町奉行・中坊左近秀亨(ひでもち 53歳 4000石)の名で、掛川藩の城代・太田外記資隣(もとちか 62歳)へ急便で、一昨年の師走に城下でおきた小間物屋の盗難について、聞き取りの同心ほかを伺わせたいから、諸事よろしく、との公式な書状を送った。

駿府と掛川は約12里(48km)だから、公用の早飛脚だと半日もしないでとどく。
藩主・太田備後守資愛(すけよし 31歳 5万石)は、在府中である。
城代・外記資隣は藩主の親戚にあたる。

ちゅうすけ注】太田一族で幕臣となった資武の末・運八郎資同(すけあつ)は、平蔵宣以(のぶため)が火盗改メの任についていた寛政4年(1792)8月、先手・鉄砲の11番手---平蔵の弓の2番手に次いで火盗改メの経験の多い組の組頭に着任(30歳 3000石)。翌月火盗改メ・助役(すけやく)を拝命し、平蔵に「いろいろご教授を」と頼み、「そっちの組子に聞いたら」と言われ、大むくれして若年寄に平蔵の非を訴えた。詳細は[よしの冊子(ぞうし)]↓ 
その息・運八郎資統(すけのぶ)は、松平太郎『江戸時代制度の研究』に、平蔵中山勘解由とともに3名火盗改メにあげられているが、その業績は未詳。
2007年10月5日[よしの冊子(ぞうし)] (33
2006年10月16日~[現代語訳『江戸時代制度の研究・火盗改メの項] () () (


矢野同心は、銕三郎を詮議部屋へ導いて、言われていた呉服町の〔五条屋〕の下女・おばばについて、調べた結果を告げた。

は、駿河国庵原郡(いはらこおり)押切原村小作農家の生まれ。14歳のときに、奉公にあがっていた大久保某(幕臣大身 6000石 とくに名を秘す)の3男に性的暴行をうけ、知行主のはからいで、仙洞御所付となった大久保一郎右衛門忠義(ただよし 50歳=当時 1200石)に預けられて京へのぼって役宅の下女として6年間働いた。
そのときに、上方風の荒神松を見おぼえたと。
「仙洞御所といえば、荒神社に近いですからね」
銕三郎は、なに気なしに口にした。

「補任(ぶにん)をたしかめたところ、大久保忠義どのは、享保8年(1723)にたしかに仙洞御所付として赴任されておりました」
「享保8年といえば、46年も前のことですな」
(〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう)は、まだ、5,6歳の子どもだ)

大久保忠義の帰任とともにおは駿河へ戻り、忠義から城代へおの身柄が預けられ、口をきく者があって〔五条屋〕の飯炊きとして雇われ、今日(こんにち)いたっているとも。
亭主と名のつくほどの者はおらず、そのあたりは適当にこなしていたらしいが、悪いうわさはなかった。
明けて61歳だから、いまは男よりもと、寝酒に親しんでいるらしい。

「なるほど。疑う余地はなさそうですな」
銕三郎はつっこまない。

「新しい宿がきまりましたら、きちんと封をして、本陣・〔小倉〕の帳場へ預けておいてください。ちょっとした用たしがすんだら、伝馬町へ荷をとりに帰りますから。今夜、その新しい宿で夕餉(ゆうげ)をごいっしょいたしましょう」
そう言いおいて、銕三郎は町奉行所を辞去した。

〔五条屋〕の近くの蕎麦屋で、店の小女に番頭・吉蔵(よしぞう 58歳)への伝言を持たせて、待つ。
やってきた吉蔵に、賊が切りあけた落とし桟の切り口をふさいだ大工の名前と住まいを聞いた。
「七軒町の棟梁・大善こと、善兵衛(ぜんべえ 50歳)のところの為吉(ためきち 21歳)って若い者(の)でした」
と応えると、棟梁への紹介状を書かせ、七軒町への道順を教わる。
七軒町は、2丁とない近間であった。

銕三郎が大善を訪ねると、3丁先の本通りの太物〔和泉屋〕の隠居所の建て増しに行っていると、女房が西を指さした。

〔和泉屋〕で善兵衛に紹介状を見せて、為吉を庭の片隅へ呼んで訊いた。
「切りあけられた板戸の、表側のそこのあたりに、印のようなものはついていなかったかな」
「そう言われますと、あれがそうかな」
「なにか?」
「落とし桟から3寸(10cm)ほど右手に、木炭でつけたようなかすかな汚れがありました」

銕三郎は、為吉と棟梁に口止めし、そこを去った。
(店の中に手引きした者がいるのか、それとも、賊の一味の誰かが下見をしてつけた印か?)


参照】2009年1月8日~[銕三郎、三たびの駿府]()  () () () () () () () () (10) (12) (13

1_360
2_360_2
(京都御所・仙洞付となった大久保一郎右衛門忠義の個人譜)

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2009.01.17

銕三郎、三たびの駿府(10)

佐山さま。〔五条屋〕は、店主・儀兵衛、番頭・吉蔵とも、ほどほどに恐れいらせておきましたから、江戸の火盗改メの面目は立ったとおもいます」
本陣・〔小倉〕平左衛門方で待っていた与力・佐山惣右衛門(そうえもん 36歳)へ、銕三郎(てつさぶろう)が口頭すると、同心・有田祐介(ゆうすけ 29歳)が、いかにも、自分の手柄のように言葉をそえた。
「いや、儀兵衛などは、熱をだして寝込んでしまっておりましてな。番頭も真っ青でした。はっははは」

「では、明日あたり、江戸へ戻れるかな」
佐山与力の胸のうちは、
(こんな田舎の町奉行所などにつきあっていられるか)
であった。

「町年寄に言いつけて、ちかごろ、引越しをした50すぎの男と30すぎの子持ちの夫婦ものの行方を追ったところで、いまごろは遠江か三河、あるいは諏訪谷あたりへ隠れこんでいましょう。町奉行・中坊(なかのぼう)さまへは、そのように助言なされるとよろしいかと---」
火盗改メの出役(しゅつやく)を要請したのは、中坊左近秀亨 ひでもち 53歳 4000石)である。
そちらが納得すれば、いちおうの役目は果たしたことになる。
いまごろは、〔五条屋〕から、町奉行の内与力(うちよりき)のところと、筆頭与力・河原頼母(たのも 53歳)のところへこころづけがの金子(きんす)がとどき、これ以上の詮議はご無用にと申し入れていよう。
火盗改メがつっこめば、もっとくさいものが暴(あば)かれる。

A_150「ところで、長谷川うじ。上方と東国の荒神松の違いをどうしてご存じでしたか?」
そこはさすがに与力の貫禄である。
こんどの出役調べの勘どころとなった荒神松の知識を問うた。(江戸の荒神松売り 喜多川守貞『近世風俗誌』)
そのくせ、「長谷川どの」でなく、あいかわらず、「長谷川うじ」と、軽くみている。

「さ、そのことです。拙がまだ幼かったころ---さよう、7歳か8歳でしたろうか」
銕三郎が荒神松にまつわる思い出を話した。

父・母、下僕や小間使いたちと南品川へ潮干狩りに、そのころ屋敷のあった築地から舟で行き、潮が満ちて料理屋らしいところで休んだときのことである。

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(品川潮干狩 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

「父は、一人っ子の拙の健康と知識のために、そういうところへ、よく、連れだしてくれたのです。父も一人っ子でしたから、一人っ子の淋しさをよくわかってくれておりました」

せっかく南品川まできたのであるから、千躰荒神堂へお参りしてこようということで、参詣した。

110
(南品川・海雲寺境内の千躰荒神堂 『江戸名所図会』
塗り絵師:ちゅうすけ)

そこで母・(たえ 27歳=当時)が、境内の仮店で売っていた荒神松を求めた。
それは、江戸風の、短い一枝きりの松であった。

そのとき、父・宣雄(のぶお 34歳)が、20代のころに遊んだ京阪の荒神松の話をしてくれた。

佐山さまも有田さまもお覚えでございましょう。先日、さつた峠のしば口の倉沢村の〔休み茶店・柏や〕の亭主が父のことを話に出しました。あれは、父が家督前の自由な身柄のとき、見聞をひろめようと、上方へのぼった往還で立ち寄ったためでございます」
「しかし、よほど、印象にのこるようなことがないと---」
「さあ。それは、亭主から聞いてはおりませぬ。それよりも、荒神松でございます」
「おお、それそれ---」

父・宣雄が話してくれたのは、京阪の荒神松の大きさであった。
黒松の去年のびて三本枝になっている先端が本旨から、どうしても3尺近くになる。
それに榊の小枝をそえて売っていたと。
もっとも、温暖な上方では松の成長が順当なせいもあったろう。
「だから、江戸の荒神松の3倍もの丈のもの商うことになるのだ絵解きしてくださいました」

A_260
(京坂の荒神松売り 喜多川守貞『近世風俗誌』)

「ご立派なお父上ですな」
「子ども扱いでなく、いつも、一人前の男とみなして扱ってくださいました」

「それにしても、よくも覚えておられましたな」
有田同心が感心した声をあげた。
「一人前扱いされていると、子どもごころにもわかると、真剣に聞くものでございます。ところで、佐山さま。拙はいますこし残って、掛川城下まで、念を入れてみようかと考えておりますが、いかがでございましょう?」
「わかり申した。明日、河原筆頭与力どのに申し入れて、旅費や滞在費を持たせよう」


参照】2009年1月8日~[銕三郎、三たびの駿府]()  () () () () () () () () (11) (12) (13

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2009.01.16

銕三郎、三たびの駿府(9)

長谷川どの。〔五条屋〕が、奪われた金子(きんす)を水増ししていると、どうしてお気づきになりましたか?」
先に駿府町奉行所の脇門からでて、追手(おうて)橋の向こうで何食わぬげに待っていた有田祐介(ゆうすけ 29歳)が、間を置いて現われ合流した銕三郎(てつさぶろう 24歳)に質(ただ)した。

つづいて辞去してくるはずの佐山惣右衛門(そうえもん 36歳)与力を待つことなく、とりあえず2人で、呉服町が人宿(ひとやど)通りと交差する角店の小間物屋〔五条屋〕を、実地検分に訪れる手はずになっている。

南の呉服町のほうへ歩きながら、銕三郎が推理の源(もと)を披露した。
本多采女(うねめ)紀品(のりただ 56歳 2000石)が、新番々頭に昇進する前---2度目の火盗改メ・お頭(かしら)の任に就いていたとき(明和4年8月10日~同5年4月28日)---掛川城下で、盗賊に押し入られた小間物商の竈(かまど)の上に、荒神松が打ちつけられていた事件が報告された。
その事件を聞いた銕三郎は、主犯は〔荒神(こうじん)〕の助太郎とおもわれると、本多紀品へ申しつたえ、留書帳を改めさせてもらった。
その店の京での仕入れ先が〔小間物屋〕久兵衛方であったことも、頭の隅にとまっていた。
あつかっているものをそのまま屋号にしている奇抜さが、印象にのこったのである。
その犯行の仔細を、〔五条屋〕の番頭・吉蔵(よしぞう 58歳)は、同業・姉妹店ということで聞きおよんでいるはずである。
それなのに、荒神松を見て、〔荒神〕一味の犯行であるらしいことを、町奉行所へは知らなかったふりをした。

「つまり、〔荒神〕一味が逮捕されるのを、なるべく引きのばそうとしたのです。奪われた金額が嘘だったことが発覚(ばれ)ないように考えたすえと、拙は見ました」
「恐れ入った推察。なるほど、謎解きをしていただくと、もっともな---」
本多さまが、拙を信用して、留書帳をお見せくださったのが源(みなもと)です。いまごろは、吉蔵から仔細を聞かされた儀兵衛が、真っ青になっておりましょう」

2人が〔五条屋〕へ入ると、番頭・吉蔵がすっとんできて、店主・儀兵衛が突然に発熱し、寝こんでしまっていると告げた。
銕三郎が、店のほかの者たちに聞こえぬように、ささやく。
「安堵されよ。金子(きんす)のことは、訊かないことにしたし、忘れもした」

奥の部屋に通されると、儀兵衛の内儀・お勢(せい 40歳)があいさつにでてきた。
なるほど、儀兵衛が京におんなをつくりそうな、柄が大きいだけで、まだ40歳というのに、性的な魅力に欠けた女性(にょしょう)であった。
「肝心のときにお役に立ちませず、申しわけもございません」
抑揚のない声で、とおりいっぺんに述べると、あとは吉蔵にまかせて引き退がってしまった。
儀兵衛は入り婿ではなさそうだから、どこかの老舗から嫁(とつ)いできたのであろうが---)

「番頭どの。師走には、何日ごろから集金にまわりましたか?」
「10日ごろからでございます」
「京への送金は?」
「27日に〆て、28日に為替を組む予定にしておりましたが、ああいうことでございましたから、半期、待っていただくように申し入れましてございます」
「奪われた金額すべてが、支払い分だったのではないでしょう?」
「お察しのとおりでございます」
「送金するのは、いくらだったのです?」
「〔小間物屋〕さんと、京扇の〔近江屋〕さんをあわせて200両ちょっと---」
「では、100両余は、〔五条屋〕さんの貯め金(がね)?」
「お恥ずかしいことでございます。5年で、やっと---」
(げにも、おんなというのは、金食い虫よ。2,3年でこの店の10年分の稼ぎを食ってしまっている)
おもったが、銕三郎は口にはださなかった。

「荒神松はのこしてありますかな?」
「験(げん)が悪いといって、旦那さまがお捨てになりました」
「2尺(60cm)を越す枝だったとか?」
「はい。もう少しで3尺はあろうかと---」
「番頭どのは、京で見たことがおありでありましょう」
吉蔵は、ちょっとためらってから、うなずいた。

「そのように長い荒神松は、駿府城下では売っておりませぬな」
「見かけたことはございません」
「まあ、黒松は東海道の並木もそうだし、駿河の海岸には防風のためにどこにでも植わっておるから---」
「しかし、お役人さま。荒神松にできるような若枝ぶりと長い松葉のものは、そうそうは見かけませんが---」
「そう、若枝は梢(こずえ)のほうに多いから。番頭さん。賊はどこで手にいれたとおもいますかな、2年前に、掛川城下のご同業の店に残された荒神松もふくめて---」
吉蔵は、またも肩をふるわせ、顔面蒼白となった。
(もう、この方には、嘘はとおらない)
観念したふうであった。


参照】2009年1月8日~[銕三郎、三たびの駿府]()  () () () () () () () (10) (11) (12) (13

ちゅうすけアナウンス】駿府城下の旅籠街、本陣〔小倉〕の所在図を、上の() に追加しました。

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2009.01.15

銕三郎、三たびの駿府(8)

「拙の、ここでの聞き取りは、これだけです。ご店主と番頭どのに、くれぐれもこころがけていただきたいのは、いま、お話しくださったことは、ここを出たら、いっさい、お洩らしにならないように。まずくすると、お命にかかわりましょう。と申すのは、賊どもは、口封じをやりかねません」
銕三郎(てつさぶろう 24歳)がそう言うと、〔五条屋〕の店主・儀兵衛(ぎへえ 45歳)と番頭・吉蔵(よしぞう 58歳)がふるえあがったのはとうぜんとして、駿府町奉行所の同心・矢野弥四郎(やしろう 35歳)までが眉根をよせた。

佐山惣右衛門(そうえもん 36歳)与力と有田祐介(ゆうすけ 29歳)同心も、もっともな注意---とでもいうように、大きくうなずいた。
2人は、江戸の火盗改メ・本役の長山組から出役(しゅつやく)してきている与力と同心である。

佐山さま。なにか?」
銕三郎の問いかけに、
「いや、ない」
佐山与力が応え、有田同心も頭(こうべ)をふった。

矢野さま。お2人を、奉行所の表門でなく、私用の脇口からそっと、お帰しください。ご両人、こころえておいでであろうが、すこし、遠回りしながら、尾行(つ)けている者がいないか、確かめつつお帰りなされ。われわれは、昼前に、客を装って参るゆえ、台所の使用人たちの目にもふれないように、奥の部屋へご案内くだされ。よろしいな。すべては平常どおりの顔でやることです」
儀兵衛吉蔵は、平(へい)つくばって礼を述べた。

と、銕三郎がとってつけたように、
「2人そろって帰っては、目立ちすぎましょう。まず、ご店主から---」

儀兵衛矢野同心に導かれて出ていくと、
「番頭どの。儀兵衛どのにも、奉行所にも言わないから、ほんとうのことを答えていただきたい。盗まれた金子(きんす)は、600両余に間違いないのかな?」
吉蔵が急所を衝かれたように、びくっと肩をふるわせ、しばらく思案している。
銕三郎は、凝視したまま、黙って待った。

耐えきれなくなった吉蔵が、打ちあけた。
盗まれたのは400両に欠けるが、帳簿に200両余の穴があいていたので、盗難をいいことに、被害金額をふくらませたと。
しかも、200両余の遣いこみをしたのは店主・儀兵衛で、上方へ仕入れに一人で行くようになってから、京におんなができ、それへの手当て金だったと。

「3年分?」
「さようでございます。申しわけございません」
「謝ることはありませぬ。いまの言葉は、番頭どのの忠義心に免じて、われわれ3人、聞かなかったことにします。ところで吉蔵どの。もう一つ、打ちあけてはくれますまいか」
「なんでございましょう?」
「番頭どのは、儀兵衛どのが一人で京へ仕入れに行くようになる前は、先代といっしょに20年近くも京へ上っていましたね?」
「はい」
「京の荒神松のことも、見聞きしていましたね?」
またも、吉蔵が肩をびくつかせた。

「賊が竈(かまど)の上に打ちつけた荒神松を見て、〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう)一味と察しながら、しらぬふりをしたのは、助太郎が捕まると、200両余の上乗せが発覚(ばれ)るとおもったからですね?」
「まったくもって、申しわけがございませんでした」
吉蔵がひれ伏す。

矢野同心が戻ってみえます。面(おもて)をあげて、ふだんどおりになされ」
躰を直した吉蔵を、開いた板戸から矢野がうながした。

吉蔵が部屋をでていくと、銕三郎が、
「さて、儀兵衛が、黒い顔の男をおもいだすかどうかが、探索の別れ道です」
銕三郎のつぶやきに、有田同心が訊く。
「もし、出逢っていなかったら?」

「〔荒神(こうじん)〕の助太郎が駿府より東---さしあたって、江尻、興津、蒲原あたりの盗人宿かしもた屋にひそんでいたか、あるいは、この城下に住んでいたか---」
「なぜ、そうおかんがえに?」
「〔五条屋〕の戸締り、間取り、金蔵のことなどをさぐりだすには、近間でないと---」
「配下の者が調べたとも---」
「そうもいえますが、〔荒神〕の助太郎という盗賊は、自分の目と勘を大切にする男なのです」
銕三郎の頭の中では、10年前、箱根の芦ノ湖の風景を写し描いていた助太郎の姿がうかんでいた。
(あの男は、〔ういろう〕でも、おのれの目で確かめていた)

参照】2007年7月14日[〔荒神〕の助太郎] (1)
2007年12月28日[与詩(よし)を迎えに] (8)

長谷川どの。吉蔵が奪われた金子を隠していると、どうして推察がついたのですかな?」
佐山与力が訊いたとき、矢野同心が戻ってくる足音を聞きつけた銕三郎は頭をふって、答えるのをひかえた。


参照】2009年1月8日~[銕三郎、三たびの駿府]()  () () () () () () () (10) (11) (12) (13

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2009.01.14

銕三郎、三たびの駿府(7)

「ほかに、なにか?」
河原頼母(たのも 53歳)筆頭与力が、あとは矢野弥四郎(やしろう 35歳)同心へまかしたいらしく、熱意のない口調で訊いた。
駿府町奉行所の用部屋である。

江戸から出役(しゅつやく)してきている、火盗改メ・本役の長山組(先手・鉄砲(つつ)の4番手)の与力・佐山惣右衛門(そうえもん 36歳)が、有田祐介(ゆうすけ 29歳)の顔をうかがい、つづいて銕三郎(てつさぶろう 24歳)の目をとらえた。

「いま、有田さまがお手になさっている取調べ留書帳の写しをおつくりいただけましょうや。江戸ほ立ち帰りますときには、お戻しいたします」
銕三郎の言葉を引き取った有田同心が、
「いや。われわれの出張(でば)り記録帳に添付しなければならぬため、返戻はできませぬな。さよう、おこころえおきいただきたい」

席を詮議部屋へ移し、腰掛(こしかけ)所で待たされていた〔五条屋〕の店主・儀兵衛(ぎへえ 45歳)と番頭・吉蔵(よしぞう 58歳)が呼びこまれた。
儀兵衛は、胃でも患っているのか、痩せぎすで冴えない顔色をしていた。
反対に、吉蔵はでっぷりと肥えて二重あごであった。

「承知のとおり、お3方は、江戸の火盗改メのお役人衆である。お尋ねには、つつみかくさずお応えするように」
矢野同心が、紋切り口調で言う。
2人は、平伏して承知した。

まず、有田同心が訊く。
「留書帳に、賊は、九ッ(午後12時)に侵入してきたとあるが、店内の火の見廻りは、なんどきの決まりになっておるかな?」
江戸ではたいていの大店(おおだな)は、就寝前の小僧たちが〔火の用心〕といいなから、戸締りや勝手口とか部屋の灯の安全を確かめてまわる。
「さしてひろくもない店でございますから、屋内の〔火の用心}まわりは、やっておりませぬ」
儀兵衛の答えを、すばやく吉蔵がおぎなった。
「店の者たちは、八ッ(午後10時)には寝床に入るようにしつけてございます」

「ということは、九ッは寝入りばなということか?」
「さようでございます」
吉蔵が答えた。

「手代や小僧たちは2階に寝ていたと記されているが、番頭どのの寝所は?」
銕三郎が訊く。
「帳場の奥の三畳の間でございます」
「竈(かまど)の勝手口からいちばん遠いということですか?」
「さようでございます」
「女中たちは?」
「竈のある板の間の次ぎの部屋でございます」
「女中たちが賊に襲われている音がきこえませなんだか?」
「齢とともに、耳も遠くなっておりますのと、寝酒のせいで---申しわけございません」
「いや、そうでしたろう」

銕三郎は、質問を変えた。
「京扇は、番頭どのが---?」
答えたのは、儀兵衛であった。
「それは、手前の代になりましてから、新たに加えましてございます」
「何年前からですか?」
「先代が歿しました、5年前からでございます」
「利幅が大きい?」
「いえ。小間物の仕入れ先の〔小間物屋〕久兵衛さんからすすめられましたもので---」

「その問屋は?」
「先々代から---」
「いや、店の場所を訊いております」
「麩屋町蛸蛸薬師通下ルにございます」
「どのあたりですか?」
「三条大橋と四条大橋のあいだで、鴨川の西岸から3丁ばかり西へはいります」

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(赤○=『小間物屋〕久兵衛 『京都買物独案内』)

「それなのにも屋号が〔五条屋〕というのは?」
「恐れいります。判官さんと弁慶で有名な橋ゆえ、お客さまに仕入れ先を京都とおもっていただくには、四条屋よりも〔五条屋〕と、先々代がかんがえたようでございます」
「〔小間物屋〕久兵衛方から荒神口は?」
「荒神口は、三条大橋よりもさらに北で、仙洞御所の近くと伺っておりますが、行ったことはございません」

「そうそう、ご当主に扇をすすめられた理由(わけ)は?」
「〔小間物屋〕さんのお嬢が、扇子問屋〔近江屋〕佐兵衛さんへ嫁入りなさり、そのご縁ですすめられたのでございます」

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(赤〇=扇子問屋〔近江屋〕佐兵衛 『京都買物独案内』)

「すると、店の改造費を、〔近江屋〕がいくらか持った?」
「お見通しのとおりで---半分、持っていただきました」
「そのときに、改造を請け負った大工の棟梁は?」
「これは、ずっと、うちに出入りしております〔大善〕さんでございます」

銕三郎が、矢野同心にだけ見えるように横を向いて目くばせした。
すぐに向きなおって、
「仕入れもご当主どのが自ら?」
「はい。当初は、見習いがてら、番頭・吉蔵さんといっしょにのぼっておりましたが、番頭さんも60歳に近くなりましたので、ここ3年は、手前ひとりで上っております」

「上り下りは、もちろん、東海道ですね?」
「はい」
「京都の宿は?」
「東海道につながっております三条大橋をわたったところの、〔いけだ屋〕惣兵衛方にきめております」

ちゅうすけ注】三条大橋の江戸より、白川にかかる橋を西へ入ったところにあるのが『鬼平犯科帳』文庫巻3[艶婦の毒]で鬼平が逗留した、父・宣雄ゆかりの旅籠〔津国屋〕。

「東海道の旅籠で、50から55歳くらいで、黒い顔色でやや小柄、言葉にかすかに京なまりがあり、画帳をもった男から、親しく話しかけられたことはありませぬか? もしかしたら、痩せぎすの30前後のおんなといっしょだったかも。いや、おんなは赤子づれだったかな」
「はて?」
「いま、ここで思いださなくても、2,3日考えておもいだしたら、どこの宿場であったか、あるいは道中の茶店であったか、教えていただきたい」
銕三郎の、役人の口調とはとてもおもえない、やわらかな問いかけに、儀兵衛吉蔵も、すっかりこころをひらいていた。


参照】2009年1月8日~[銕三郎、三たびの駿府]()  () () () () () () () (10) (11) (12) (13


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2009.01.13

銕三郎、三たびの駿府(6)

「なにしろ、与力が6騎しかいないので---」
わざわざの出役(しゅつやく)の礼を述べたあと、言いわけをした駿府町奉行の中坊(なかのぼう)左近秀亨(ひでもち 53歳 4000石)は、あとを、筆頭与力・河原頼母(たのも 53歳 80俵)へふってしまった。

すっかり禿げあがったて光っている頭に、もうしわけのような小さな髷(まげ)を、ちょこんとのせている。汗もでていないのに懐紙で額をぬぐうのと、扇子を2,3骨開いてはまた閉じるのが、町奉行の癖のようである。

矢野同心が聞き取りました覚え書きは、ここに。〔五条屋〕の店主・儀兵衛(ぎへえ 45歳)と番頭・吉蔵(よしぞう 58歳)は、腰掛(こしかけ)所へ呼びだしてありますゆえ、のちほど、お聞き取りなさってください」
河原与力がそう言ったとき、中坊町奉行が、
「あとは、よしなに」
席を立って、出て行った。
(おれの素性も確かめもしないで。あれではやる気があるのかどうだか---)
銕三郎(てつさぶろう 24歳)は、駿府町奉行が高級役人のひとつの通過職席であることを、見せつけられたおもいであった。

「なにか、ご質疑は?」
河原与力の言葉を待っていたように、町奉行所方の調書をぱらぱらと眺めていた有田祐介(ゆうすけ 29歳)が、火盗改メの同心の威厳を示すのはこのときとばかり、
「使用人が11名とありますが、犯行後に辞めていった者はありましたか?」
(引きこみのことを訊いているな。むだだ。賊は、竈(かまど)の土間につながる板戸を切って侵入しておる。引きこみが落とし桟をあけたのではない)
銕三郎は断じたが、黙っていた。

「奪われたのは、640両余とあるが、金種は訊きだされましたかな?」
「それは---」

「賊が引きあげたとおもわれる道筋の辻番所は、怪しい者たちを見ては---?」
「この府内には、辻番所はありませぬ」
「なんと?」
「お大名屋敷がございませぬ。武家といったら、勤番衆と町奉行所の者だけなのです」
「そうでありましたな」

銕三郎が、ゆったりと訊いた。
「ご城下に、荒神さまを祇(まつ)っている寺院か神社がございますか?」
「城下にですか? 存じませんなあ。火伏(ひぶせ)のお札は、伊豆・韮山の竈社のものを配っております。それと、遠江の秋葉さんのお札---」

「賊が竈の上に打ち付けていった荒神松ですが、大きさはどのていどのものでございましたか?」
河原筆頭与力も、矢野同心も、銕三郎の顔を見つめたまま、絶句した。

控えていた別の同心が腰掛所へ走った。
帰ってきて、
「3尺(90cm)ほとであったそうです」
「お手数をわずらわせますが、その松の小枝を、荒神松と申し立てたのは誰か、もう一度、儀兵衛とやらに確かめていただけませぬか?」

「飯炊きのおばばあだったとか」
矢野さま。おの身請け人を調べておいていただけますか? 生まれそだった土地、働いたことのある土地、連れそった男のこと---」
「承知つかまつった」

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(中坊左近秀亨の個人譜)


参照】2009年無1月8日[銕三郎、三たびの駿府]() () () () () () () () (10) (11) (12) (13


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2009.01.12

銕三郎、三たびの駿府(5)

5日目の七ッ(午後4時)前に、駿府城下の町奉行所へたどりついた。
筆頭与力・河原頼母(たのも 53歳)が待っていた。
「ご足労でありました。お奉行へのお目どおりは明日(みょうにち)ということにして、今夕はゆるりとお疲れをお癒しなさいますよう」
矢野弥四郎(やしろう 35歳)同心が、それほど遠くない伝馬町の本陣・〔小倉〕平左衛門方へ案内した。
ここでの宿は、駿府町奉行所持ちとのとりきめになっている。

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(駿府城下・伝馬町の西側 赤○=本陣〔小倉〕 水色=旅籠)

さすがに駿府の本陣である。規模からして、6年前に銕三郎(てつさぶろう 24歳)が養女・与詩(よし 6歳=当時)を迎えにきたときに泊まった〔大万屋〕とは、だいぶにちがう。

参照】2008年1月5日[与詩(よし)を迎えに] (16) (17) (18) (19) (20)

夕餉(ゆうげ)にでた酒も、地元で一番の銘酒・鴬宿梅(おうしゅくばい)であった。
有田さま。この酒は、なみなかでは手にはいりませぬ銘酒です」
「しからばば、賞味を---」
有田同心は、口にふくんでしばらくころがしてから嚥下し、
「うむ。さすがに駿府一---のどへの流れがちがいますな。鼻へ抜ける馨りに白梅の蕾(つぼみ)がかくれています」

相伴していた矢野同心が、
長谷川どのは、以前にも府中へ?」
「6年前に、朝倉仁左衛門景増(かげます 61歳=当時 300石 1000石高・役料500石)さまのニ女・与詩(よし 6歳=当時)をわが家の養女に迎えるために---」
「覚えております。あのときの---。内与力(ないよりき)のどのが、ことのほかよくできた若者とほめちぎっておられたのは、そちらでございましたか。奇縁です。荒神松盗人事件の掛りは、手前でございます」
「ほう」
有田同心がのりだしてきた。
有田どの。ここは酒の席です。仕事のことは明日、役所にて---」
矢野同心に佐山与力が相槌をうつ。
「さよう。明日、々々」

朝倉さまは、拙が与詩を引き取った2ヶ月たたないうちにお亡くなりになったとか」
銕三郎の言葉に、矢野
「手前の次男が生まれた日ですから、しかと覚えております。宝暦13年の5月5日でした。江戸への届けなどで、公式には17日となっておりますが---」
「それでは、拙がお訪ねしてから、1ヶ月にも欠けます」
「長く伏せっておられましたから、すべては筆頭与力さまが取り仕切っておられました」
言ってしまってから、酒のはずみで余計なことまでをしゃべりすぎたと思ったのであろう、矢野同心は、明朝五ッf半(午前9時)にお迎えにあがると約して帰っていった。

手酌で呑んでいる有田同心を残して、佐山与力と銕三郎はそれぞれの部屋へ引き上げた。

銕三郎は、主人の平左衛門(55歳)と一番番頭・恭助(きょうすけ 62歳)に部屋へきてもらい、あれこれ訊いた。
駿府に住んでいる人の数、人別の厳緩、戸数、木戸番小屋の数、盗賊に入られた〔五条屋〕の評判などなど。
とりわけ、念入りに確かめたのが、貸家を持っている家主たちの家業と、彼らを束ねている町年寄の人柄であった。


参照】2009年無1月8日[銕三郎、三たびの駿府]() () () () () () () () (10) (11) (12) (13

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2009.01.11

銕三郎、三たびの駿府(4)

4泊目の泊まりは、蒲原(かんばら)の〔木瓜(もっこう)屋〕忠兵衛方であった。

夕餉(ゆうげ)の膳に、1本ずつ徳利がのっておるので不思議がっていると、主人の忠兵衛があいさつに現われ、その 祝意とわかった。
忠兵衛は、与力・佐山惣右衛門(そうえもん 36歳)、同心・有田祐介(ゆうすけ 29歳)の順をまちがえることなく酌をしてから銕三郎(てつさぶろう 24歳)の前にぴたりと止まり、
長谷川さま。朝倉の於姫(ひー)さまのおむつは、もう、とれましてございましょう」
と笑った。

_120ちゅうすけ注】市岡正一『徳川盛世碌』(東洋文庫 1989.1.20)に、寄合級のむすめは「於姫」と書いて「ひー」と呼ばしたとある。それ以下は「於嬢」。

与詩(よし)も明けて12歳の生意気ざかりですから---その節は、お手数をわずらわせました」

参照】20081月13日[与詩(よし)を迎えに] (24)

2人の、気のおけないやりとりを佐山与力は、なにごともにもったいをつけたがる自分の組頭・長山百助直幡(なおはた 58歳 1350石)とくらべて、大違いだとおもっている。
(20年後にでも、銕三郎どのが組頭となってきてくれれば、組の雰囲気もかわるのだが---)

先手・鉄砲(つつ)の4番手は変則で、ほかの組にはだいてい10人いる与力が、5人しかいない。
それだけに、すべてにもったいをつけたがる長山直幡のような組頭だと、手不足の与力はたまったものではない。
このたびの駿府行きにしても、佐々木筆頭与力は、同心2人にして、佐山与力は出役させないように計っていたが、直幡が組の威厳を示すため、強引に佐山の派遣をきめたのである。

忠兵衛が引き下がると、待っていたかのように、佐山与力が自分の膳の徳利をもって銕三郎の前へ坐りこみ、
「長谷川うじのお顔のひろいのには、ほとほと感じいり申した。本多組の筆頭与力どのが、長谷川うじを強くご推薦くださった理由(わけ)が、よっく呑みこめ申した。駿府でもよろしくお願い申しますぞ」

つられたように、有田同心も座を立ってき、こちらは銕三郎からの酌をうけながら、
「なにしろ、わが鉄砲の4番手が火盗改メの任についたのは72年ぶりです。盗賊の探索方など、ひとりも存じてはおりませぬ。ご指導のほど、お願いいたします」
そういいなから、また受けている。

翌日、さつた峠の手前の倉沢村で、〔休み陣屋・柏や〕でお茶にすると、亭主・幸七(こうしち 65歳)がまがった腰をのばしのばし、
長谷川さま。お久しゅう。お父上は、お達者で?」
あいさつに出てきた。
「先手・弓の8番手の頭(かしら)をつとめております」
「まあ、夢で鉢巻を---それは重畳(ちょうじょう)」
6年ぶりなのに、耳がすっかり遠くなってしまって、すべてがとんちんかんな受けをする。

「おも、ばばあになりましてのう---あわび採りは、もう、やれません」
とか、
「だから、股ぐらのも、すっかり、干しあわびですよ、ふぁ、ふぁ、ふぁ」
ふぁ、ふぁ、ふぁは、歯抜けの笑い声であった。

参照】2008年1月12日[与詩(よし)を迎えに] (24)

さつた峠を越えながら、有田同心が、
長谷川さま。おとは、何者です? 〔柏屋〕の女房どので?」
「さあて、拙にも合点がまいらぬのです。何者でしょうか」
銕三郎は、すっとぼけた。
(そんな詮索よりも、盗賊の詮索に専念したら---)
そう言ってやりたかった。

2人とも、銕三郎に、すっかり、おんぶにだっこの形になりつつあった。
(府中では、しっかり明察しないとな)
銕三郎は、難所をこなしながら、自分をいましめている。

もっとも、さつた峠では、佐山与力も有田同心も、音(ね)をあげないで登っている。
佐山さま。きつくはありませぬか?」
「なに。長山組頭の、坂の多い赤坂中ノ町の屋敷への行きかえりで、すっかり鍛えられての」
有田同心も言った。
「火盗改メのお役についてから、毎日の市中見廻りで、芝や三田の坂をこなして、すっかり健脚になりました」

鉄砲(つつ)の4番手は、長山組頭の前の雨宮権左衛門正方(まさかた 享年58歳 1505石)の時代が足かけ12年つづいた。
雨宮組頭の屋敷は表猿楽町だから坂に面していた。しかし、火盗改メには任じられなかったから、組下が屋敷を訪ねるのは節季のあいさつだけで年のt6度ほど。足ぞなえにはならなかった。

ことのついでに記しておくと、雨宮武田系の姓である。


参照】2009年無1月8日[銕三郎、三たびの駿府]() () () () () () () () (10) (11) (12) (13

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2009.01.10

銕三郎、三たびの駿府(3)

「お芙沙どの。人の目については、〔樋口屋〕の人気(じんき)にさわりましょう」
銕三郎(てつさぶろう)が、でっぷりと肉のついたお芙沙(ふさ 35歳)の肩を押して、躰を離す。
多恵(たえ 7歳)どののお顔を見るのではなかったのですか?」
「今夜は、乳母の家へ泊りに行かせてあります」

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(赤○=-本陣〔樋口〕、青〇=第2本陣〔世古〕 前は東海道
三島市観光協会のバフンレットより)

2人は、暗い道を、さらに北へたどった。
「世古本陣方の女中を辞め、加茂社の近くに住んでいたおんなおとこ---賀茂(かも 32歳)とかいいましたか、あれたちが消えた経緯(いきさつ)をお話しくださいませんか」
銕三(てっさ)さま。道行きをしながらでは話しずらいのです。この先に落ち着いて休める家があります。そこでなら---」

茶房ふうのその亭は、男女に逢引きの場を供するのを商いとしているようであった。
品のいい老女がこちらに視線を止めないで案内した離れの、部屋の屏風の向こうには、すでに床がのべられてい.る。
「おささ(酒)と、なにか箸休めを---」
うなずいた老女が去っても、お芙沙は頭巾をとらなかった。

「このようなところを、よくご存じですね」
「本陣とはいえ、宿屋です。いろんなお客さまの要求をかなえるのが、わたしの才覚でございます。でも、来たのは初めて---」

「三島大社の裏の家はどうなりました?」
と訊こうとしてあやうく、銕三郎は言葉をのんだ。
それを口にした瞬間、10年前の2人に戻ってしまう。
(お芙沙は、いまは人妻で、母でもあるのだ)

【参照】2007年7月16日~[仮(かりそめ)の母・芙沙(ふさ)] () (

賀茂さんたちのことですが---」
銕三郎の手をとったまま、ひそめた声で語ったお芙沙によると---。

仙次(せんじ 20歳=当時)たちの張りこみに気づいた〔荒神こうじん)〕の助太郎(すけたろう)と賀茂は、たいしてなかった所帯道具をそのままにして、ふっと姿を消したという。
(やはり、素人の張りこみは無理だ)
銕三郎は、この失敗から学ぶとともに、その後、父・宣雄(のぶお 51歳)が火盗改メの任についたときまでに、どうすれば熟練した張りこみができるかを考察しつづけた。
尾行にしても、久栄(ひさえ 17歳)にやらせて失敗している。これも銕三郎の研究課題であった。

参照】2008年10月8日[〔尻毛(しりげ)〕の長右衛門] (1)

仙次の報せに、芙沙がかけつけて改めたら、赤子用のものは一つものこっていなかったが、押入れの隅に、でんでん太鼓が忘れられていた。
「産み月まで、まだ、あと、2ヶ月はあったんですよ。よほど、待ちこがれていたんでしょうね、賀茂さん」
「あと、2ヶ月---ということは、6月---の、夏生まれの子」

老女が、襖のむこうから徳利と小皿の乗った盆を押し入れたとき、お芙沙が声をかけた。
「お湯桶はたっていますか?」
襖の向こうから老女が、
「いますぐになさいますか? それとも、後刻?」
「のちほど」
「そのときは、そこにある鈴を振ってお報らせくださいませ」
老女は、下駄の音をわざとたてて去っていった。

頭巾をぬいだお芙沙が酒をすすめ、自分も杯をさしだし、ひといきに呑みほす。
さらに、催促した。
「以前は、呑みませんでしたね」
「主人が、中風で寝こんでから、飲まないでは眠れなくなったのですよ」
「丈夫そうに見たが---」
「なにが丈夫なものですか。気も頭も躰もあのほうも弱くて、強いのはやきもちばかり---」

参照】2008年1月15日[与詩(よし)を迎えに] (26)

なおも手酌で杯を干しつづけるお芙沙に、
「思い出は、そっと、大切に、のこしておきましょう」
「いやです。単彩だけで描き終わったあの夜の危な絵に、今夜はたっぷれりと色を盛るのです。思い出を、さらに、さらに濃くするのです」
「いけませぬ。亭主どののためにも、多恵どのためにも、なりませぬ」

芙沙は、銕三郎の膝に泣き伏す。
その背中を、銕三郎は、幼な子をあやすように、いつまでもさすったいた。 

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(国貞『春情肉婦寿満』部分 芙沙のイメージ)

気持ちも股間も、平静さをたもっていられるのが銕三郎には、われながら不思議におもえた。
(いちだんと、大人になったということかな?)

参照】2009年無1月8日[銕三郎、三たびの駿府]() () () () () () () () (10) (11) (12) (13

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2009.01.09

銕三郎、三たびの駿府(2)

「いえ、小田原宿までお供をいたしやす」
洋次(ようじ 22歳)は言い張った。
梅沢の村はずれの押切橋の東詰である。
銕三郎は(てつさぶろう 24歳)は、むりやりこころづけをつかませ、荷をうけとった。

勘兵衛(かんべえ 41歳)お頭にくれぐれも、よしなに---」
洋次は、何回も振り返ってはお辞儀をして引き返して行った。

ちゅうすけ注】東海道・押切川の東側、梅沢村の茶店は、『鬼平犯科帳』文庫巻7[雨乞い庄右衛門]で、庄右衛門しょうえもん)を殺しに梅ヶ嶋へ行く配下の定七さだひち)と市之助いちのすけ)を、それとしらない庄右衛門ががよもやま話でかなりのときをすごす。p21 新装版p22

長谷川さま。その荷をわたくしがお持ちしましょう」
長山組の準小者頭・吾平が申し出たが、銕三郎は断る。
「ご親切はありがたい。しかし、この橋の向こうに、箱根荷運び雲助の仙次(せんじ 22歳)が来ています。荷はその者が持ちます」
それが、またまた、佐山惣右衛門(そうえもん 36歳)与力と有田祐介(ゆうすけ 29歳)を感服させてしまった。

小田原では脇本陣の〔小清水屋〕伊兵衛方に草鞋をぬいだ。
参勤交代のすくない時期なので、本陣〔保田〕利左衛門方もすいているが、先手組の出役(しゅつやく)の身分では与力や同心は泊まれない。
銕三郎が14歳のとき、本多伯耆守正珍(まさよし 駿河・田中前藩主 4万石)の用件での旅で宿泊できたのは、父・平蔵宣雄(のぶお 51歳)の手配がきいていたからである。

参照】2007年7月14日[〔荒神(こうじん)〕の助太郎] (1)
2007年12月17日[与詩(よし)を迎えに] (7)

夕飯の席に、銕三郎仙次を呼んで、酒好きの有田同心の相手をさせた。
佐山与力も銕三郎も、明朝の箱根越えをおもんぱかって、ほとんど控えたからである。

適当なころあいに切りあげた仙次へ、
「誰かに、明朝、われらよりも先に、この手紙を関所の足軽小頭・内田内記(ないき)どのと、三島宿の本陣・〔樋口〕の女主人へとどけてもらいたい」
2通の書状を託した。

翌朝---。

箱根山道は、裏庭の階段の上り下りの鍛錬の成果がはやくもあらわれたように、これまででいちばん楽に感じられた。
いや、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 36歳)の教え---上りは、なるべく踵(かかと)をつけないように---を守ったのがよかったのかも。

参照】2008年12月25日[銕三郎、一番勝負] (5r)

銕三郎の山道のこなし方に目をとめた仙次が、うれしそうに言った。
「〔風速〕のお頭ゆずりでやすな]

畑村宿のめうが屋仙右衛門の屋敷の前を通りすぎるとき、芦ノ湯村の阿記(あき 没年=25歳)とのことがおもいだされた。

Up_270
(国芳『江戸錦吾妻文庫』 阿記のイメージ)

参照】2007年12月30日~[与詩(よし)を迎えに] (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15)

仙次も気をつかって、話しかけるのを控えている。

関所の江戸口の門番一人が、仙次の姿を認めるや、番所へ走った。
副役(そえやく)・伊谷彦右衛門と、足軽小頭・打田内記が出迎えに、いそいで出てきた。

佐山与力が恐縮してあいさつを述べた。
銕三郎は、用意していた舟橋屋織江の羊羹を小田原藩の2人へ渡すと、一行は番屋で茶菓子をふるまわれた。
あと、箱根宿の脇本陣〔川田〕角右衛門方で、昼食まで馳走になった。

相伴していた打田小頭が、銕三郎に訊く。
権七めは、達者にしておりましょうか?」
「はい」
長谷川太郎兵衛(たろうべい 60歳)さま---あ、長谷川どのの伯父ごさまでございましたな---あのとき、火盗改メのお頭であった長谷川さまのお手くばりで、権七は箱根へ戻ってもよくなりましたのに、江戸の水が性(しょう)にあいましたのか、あしかけ5年、向こうへ居座ったまま---」
嘆息する打田内記
打田さま。こんどの駿府行きは、権七どのかかわりで---」
「そのように、ご書状でうかがいました」

横から、有田同心が口をはさむ。
権七かかわりと申しますと?」
「〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう)の人相をしっているのが、いま、話にでました権七どのと、拙でして---」
銕三郎内田小頭も、権七が〔荒神〕の助太郎の関所抜けに手を貸したことは、あえて言わなかった。

「それは奇特---」
権七どのが店から手がぬけられれば、いっしょにとおもって声をかけてみましたが、2月ならば---と断られまして---」

参照】2008年3月2日[〔荒神〕の助太郎] (8) (10)

銕三郎の口ぶりから事情を察した打田小頭が、話題を変えてくれたので、権七の関所ぬけのことにまでは話題がおよばないですんだ。

三島宿でも、脇本陣・〔世古〕郷四郎方へ、向かいの本陣・〔樋口屋〕伝左衛門方から、でっぷりと貫禄のついた女将・お芙沙(ふさ 35歳)が、番頭に小さな角樽(つのだる)をもたせてやってき、佐田与力たちを、またも驚かせた。
芙沙は、
長谷川さまだけでも、うちへお泊まりねがいたいのですが、お役目なら、いたし方がございません。せめて、与詩(よし 6歳=当時)ちゃんといっしょ寝した、うちの多恵(たえ 7歳)にもお顔をお見せくださって、与詩ちゃんのお話でも聞かせてやってくださいませ」

参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・芙沙(ふさ)]
2008年1月20日[与詩(よし)を迎えに] (30)

芙沙の言葉に、佐山与力がすすめる。
長谷川どの。女将の望みをかなえてさしあげなされ」

番頭を先に帰しておいた芙沙は、表の東海道へ出ると、向かいが自分の家なのに、左手の暗がりへ銕三郎を引きこみ、
「しばらく、歩きましょう」
手をつないだまま、暗い道を山手のほうへ導く。

本陣の女主人・お芙沙としては、宵の口とはいえ、亭主や宿泊客でもない銕三郎と歩いているところが土地の者の目にふれると、噂になりかねない。
ぬかりなく、用意をしていた頭巾をで、顔を隠した。
阿記さまがお亡くなりになったこと、風の頼りにお聞きしました。ご愁傷さまでございました」
「運命でしょう」
「お子さまがおありだったとか---」
「拙の母方の田舎へ、養女にやりました」
「わたしも、銕三(てっさ)さまのお子がほしかった」
意識したようにに10年前の、高まったときの呼び名を口にしている。

「その節は、ありがとうございました。夢ごこちでした」
「思い出してくださっているんですね」
「一生、わすれないでしょう」
「うれしい」
芙沙が、躰をあずけてきた。
おもった以上に豊満なのが、厚く着こんだ着物の上からでも分かった。

【参】() () () () () () () () (10) (11) (12) (13

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2009.01.08

銕三郎、三たびの駿府

長谷川さま。お久しぶりでごぜえます」
馬入川の西・平塚側の舟着きで、銕三郎(てつさぶろう 24歳)の一行を出迎えたのは、ところの顔役・〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛(かんべえ 41歳)であった。

参照】2008年1月31日[与詩(よし)を迎えに] (37)

銕三郎は昨日の朝、江戸を発(た)ち、今朝、戸塚宿を早く出た。
先手・鉄砲(つつ)4番手の長山組の与力・佐山惣右衛門(そうえもん 36歳)、同心・有田祐介(ゆうすけ 29歳)それに供の小者3名がいっしょである。

銕三郎から、それぞれを引きあわされた勘兵衛は、江戸の火盗改メの与力・同心と口がきけたというので、もう、得意になって、
「それはそれは。火盗改メのお役人衆でごぜえましたか。すぐそこの鄙(ひな)びた料理屋の〔榎(えのき)屋〕で、お茶を用意させておりやす。一服なさっていってくだせえ」
周囲の耳にちゃんと入るように馬鹿でかい声で招じて、先に立った。

長谷川うじ。えらい男をご存じですな」
さすがの佐山与力も、筆頭与力・佐々木与右衛門(よえもん 52歳)から言いふくめられてはいたが、銕三郎の顔の広さを目(ま)のあたりに見て、感にたえたようにつぶやく。

「いえ。ちょっとした行きがかりで---」
と照れたとき、
長谷川さま。お荷物をお持ちしやす」
「お、洋次(ようじ)どの。いやま、小頭格におのぼりですかな?」
「へえ。おかげさんで---」

参照】2008年7月25日[明和4年(1767)の銕三郎] (10) (12)

藤沢宿の問屋場(といやば)から、〔馬入〕の勘兵衛あてと、小田原の荷運び雲助・仙次(せんじ 24歳)あて、早便を仕立てておいたのである。

〔榎屋〕では、勘兵衛の妾・お(まん 32歳)も、きちんと化粧をし、女中たちをしたがえて待っていた。
ここでも勘兵衛は、一行を大声でお---というより、女中たちと別室にひかえている子分たちへ聞こえるように、
「こちらが、江戸の火盗改メでご与力をお勤めの佐山さま、こちらは、ご同心の有田さま---」
と披露(ひろう)したものである。
これで、勘兵衛の地元での株が、いちだんとあがろうというもの。

茶菓子のほかに、酒も整えられており、おの強いすすめを断りきれず、左党の有田同心がうけている。

そもそも、銕三郎が一行に加わることになった経緯(ゆすたて)は、こういうことであった。

師走も大晦日に近い夜、駿府・呉服町の京下(くだ)りの小間物を商っている老舗〔五条屋〕へ賊が押し入り、800余両を奪った。
退散ぎわに、竈(かまど)の上の壁に、新しい荒神松を打ちつけて行った。

参照】2009年1月4日[明和6年(1969)の銕三郎] (

半年前に着任したばかりの駿府町奉行・中坊(なかのぼう)左内秀亨(ひでもち) 53歳 4000石 役料500石)から、そのような習癖をもった賊の問いあわせをかねて、捜査の出役(しゅつやく)を請うた書状が、火盗改メ・本役の長山組へ送られてきた。

じつは、長山組も、元禄8年(1696)以来70数年間、火盗改メの経験が絶えていた。
依頼をうけた佐々木
筆頭与力は頭をかかえ、前任・本多組の筆頭与力・小林参次郎(さんじろう 53歳)へ相談をもちかけたところ、
(賊は〔荒神(こうじん)〕の助五郎(すけごろう )一味のようにおもえるが、その賊のことは、長谷川銕三郎どのが偶然に面識があるらしいので、出役の中にお加えになってはいかが---)
との本多紀品の助言がそえられた回答があった。

佐々木筆頭与力が、旅費・謝礼を駿府町奉行所側が負担するのであれば、銕三郎に要請してみてもいいと言ってやったところ、駿府側が持つ---との返事がきた。

_100(お竜(りょう 30歳)は、なぜ、〔五条屋〕の盗難をしっていたのか)
推察していて、〔狐火きつねび)〕一味のうさぎ人(にん 情報屋)が駿府にいるのでは---)
銕三郎は、おもいいたった。(歌麿 お竜のイメージ)

だから、出役の中に加わる話がきたときには渡りに舟と、一も二もなく引きうけた。
(もしかしたら、おが潜んだのは、駿府かもしれないではないか)
逢ってどうこうではなく、おの軍学を習(さら)えたい---銕三郎は、駿府行きをそう、正当化していた。


参照】2009年1月8日~[銕三郎、三たびの駿府] () () () () () () () () (10) (11) (12) (13


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2009.01.07

明和6年(1769)の銕三郎(7)

「そのことは、せっかくだが、洩らしてはならないことになっておる」
本多伯耆守正珍(まさよし 60歳 田中藩・前藩主 4万石)が、にべもなく断った。

長谷川平蔵宣雄(のぶお 51歳 先手・弓の組頭)と同道していたのは、坂本美濃守直富(なおとみ 36歳 1700石)である。
六郷家(600石 両番筋)の次男で、18歳で坂本家(1700石 寄合格)へ養子にはいった。
もっとも、家を継いだのは養父が歿した54歳のときだから、本多正珍侯を訪れたときは、役なしの寄合であった。

直富本多侯を訪れた用向きは、宝暦5年(1755)9月18日に、西丸・新番頭に準じられていた実家の父・六郷下野守政豊(まさとよ 50歳=当時)と、兄・紀伊守政寿(まさひさ 22歳=当時)が任を解かれた件の理由(わけ)を、当時の月番老中であった正珍侯に洩らしてもらえるかもと、かすかに望みをかけていたのであった。
その望みは、あっさり絶たれた。

「手前が実家を出ましたのは18歳のときで、解任はその5年後のことでございました。父も兄も、坂本の者となっているからには、かかわりのないこと---と、すげなく言われて参りましたので、もしや、ご老公から洩れ承れますれば、と浅はかに考えました。浅慮の段、平にひらに、お許しくださいますよう---」
美濃どのとやら。実父どのや賢兄どのが口を閉ざしていることに、容喙(ようかい)など、おこがましいとおもわっしゃれ。これは、予も、実父どのも実兄どのも、墓場までこのままも持っていくまでの事件である。そこもとは、さっぱりと、忘れっしゃい」
「は、そのように---」
長谷川どのも、聞かなかったことに、な」
「承りました」
宣雄も、平伏した。

美濃どの。これだけは申しておこう。実父どのや実兄どのの科(とが)ごとではない。実父どのが支配されていた新番組配下の者にかかわることであった。ただ、お上のお怒りが深うての」
「かたじけないお言葉、肝に銘じましてございます」
直富は、さらに平伏した。

ちゅうすけが下司(げす)のかんぐりをするに、六郷下野守とともに、先任の準番頭格・山本豊前守正胤(まさたね 46才=当時 300石)も同時に処分されているのは、両組にかかわることであったろう。
しかも、両者は番頭ではなく、準であり、その上には番頭がおり、下には与頭(くみがしら 組頭とも記す)がいる。にもかかわらず、いずれも処分をうけていない。
つまり、山本六郷は、トカケのシッポ切りであったのかもしれない。
で、その事件が、将軍世継ぎの家治室の五十宮が産んだ千代姫懐妊にまつわる風評を、組下の者が話しあっているのが徒(かち)目付の耳にでもはいったのかも。

ちゅうすけ注】後学の士のためにメモをのこしておく。
『徳川実紀』宝暦5年9月18日 西城奥勤新番頭格山本豊前守正胤、六郷下野守政寿。職うばはれ寄合となり、拝謁とどめらる。その故さだかならず。
また、このときの西丸の新番の番頭は、1番組は高井飛騨守奈直碁熙(なおひろ 47歳 2000石)。2番組頭は柳生播磨守久寿(ひさとし 55歳 500石)であった。久寿は、家治の世継ぎ・家基の剣術指南役も兼ねていた。

_120ついでに、前出・市岡正一『徳川盛世碌』(東洋文庫 1989.1.23)から引く。

旗本の家格は武役(ぶやく)の階級によりてこれを分かち、その家柄に種々の別ありしといえども、大約両番席(小姓組・書院番組)の者をもって一等となす。両番はー持高(もちだか)二千ハ百石より廩米(りんまい)三百俵までなり。そのつぎを大番席(おおばんせき)となす。持高ニ千石未満、廩米ニ百俵までなり。その次を小十人(こじゅうにん)とす。およそニ百俵以下、百五十俵までなり。

とあって、新番組が脱落している。
新番頭の役高は2000石。大番頭は5000石格、小十人頭は1000石格だから、その中間におこう。

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2009.01.06

明和6年(1769)の銕三郎(6)

(てつ)、書物奉行の長谷川主馬安卿(やすあきら)どのの居宅へ、年始がてらに参上して、伺ってきてほしいことがある」

田中藩・前藩主であった本多伯耆守忠珍(ただよし まさよし 60歳 4万石)への年始をすました夕餉の席で、父・平蔵宣雄(のぶお 51歳)から命じられていた銕三郎(てつさぶろう 24歳)は、本所・石原町(現・墨田区石原2丁目)の長谷川家の客間にいる。

安卿は51歳 150俵。もっとも、書物奉行の役料は400俵だから、250俵の足(たし)高を得ている。

参照】2008年9月29日[書物奉行・長谷川主馬安卿(やすあきら

安卿が非番の日---と指定してきたのは、明和6年1月11日、すなわち、今日であった。
用件は、、前もって書状にしたためて、下僕・太作(たさく 62歳)が5日も前にとどけている。

「お尋ねの、14年ほど前、宝暦5年(1755)9月18日、西城の奥勤め新番頭格・山本豊前守正胤(まさたね) 46歳=当時 300石)どのと小姓組番士であったご子息・出羽守正虎(まさとら 23歳=当時)どの、同職格・六郷下野守政豊(まさとよ 50歳=当時 600石)とともにそのご子息・紀伊守政寿(まさひさ 22歳=当時)も職を免じられて拝謁をとめられた件の原因(もと)ですが、どの記録にも記載されておりませぬ。お役に立てず、こころ苦しいかぎりです」
「ご奉行としての、ご推量はかないませぬか?」
長谷川組頭どのこそ、正しいご推察をなさるでしょう」

銕三郎が報告すると、宣雄は、
「そうか。むつかしいことになってしまったの。16日のご馳走が喉をとおらぬわ」
考えこんでしまった。

山本、六郷両家の出仕停止は、2ヶ月におよんでいたことは、長谷川主馬安卿が推量の手がかりにと、つけ加えてくれたが、銕三郎には見当もつかなかった。

当時の西丸の主は家治で、20歳であった。
前年末、閑院宮直仁親王のむすめ五十宮を正室に迎えていたが、新番頭格であった2人の咎(とが)と、この西丸の大奥の慶事とは関係はあるまい。
五十宮の女官として随伴してきた阿品局(おしなのつぼね)に手をつけて、男子・貞次郎を産ませたのは、むしろ家治であった。

あるいは、4日前の9月14日に家事不行き届きの科(とが)で西城側申次を罷免になった戸田土佐守忠胤(ただたね 47歳 7000石)にかかわりがあるのではなかろうか。

もっとも、山本豊前、六郷下野の分別ざかりの年齢---46歳、50歳と、出仕遠慮2ヶ月をあわせて考えると、宣雄の推理---戸田邸での下僕たちの賭博が原因かもしれない。

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(DNAは、正胤が養子にきたことで変じているはずだが、隔世遺伝か、それとも、女性のほうがDNAを伝える確立が高いのか)

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(一門の者賭博が明らかかになると、出仕停止ではすまない。流島である。下僕のそれだとこの程度かも。しかし、新番頭に準ずる者2家というのが、どうにものみこめない。番士の賭博の不正であろうか)

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2009.01.05

明和6年(1769)の銕三郎(5)

(あのことも、訊いておくべきであった)
このところ、長谷川銕三郎(てつさぶろう 24歳)は、ためいきをつくことが多くなった。
中畑(なかばたけ〕のお(りょう 30歳)が、いずことも告げないで旅立ったせいである。

は、もともとは本拠を中山道の諏訪宿に置く巨盗・〔蓑火みのひ)〕の喜之助(きのすけ 47歳)一味の軍者(ぐんしゃ 軍師)であったが、去年の秋、〔狐火きねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 49歳)にゆずりわたされた。

参照】2008年10月26日~[〔うさぎ人(にん)〕・小浪] (1) (2) (3) (4)

京都に本拠(をかまえている〔狐火〕が、新しいお盗(つと)めの仕込みをするために、おと妹分のおかつ 28歳)を呼びよせた。

もちろん、仕込みの場所が京都とはかぎらない。
狐火〕は、小田原にも妾宅をおいていたし、銕三郎といわくのあったお静(しず 21歳)を東海道筋のどこかに囲っているはずである。

いや、銕三郎が、おに訊きそんじたと悔しがっているのは、盗賊たちが「付け火盗(ばたら)き」と称している、放火のどさくさにまぎれて行う盗法についてであった。
の流儀ではなく、〔蓑火〕一味のもうひとりの軍者・〔神畑(かばたけ)〕の田兵衛 42歳)が好んでいるやり方であるらしい。
去年の元旦の朝、〔蓑火〕一味が神田鍋町の海苔問屋〔旭耀軒・岩附屋〕を襲ったとき、高輪・牛町の牛車の牛たちの角に松明をくくりつけて放ち、目くらましをやってのけたのも、田兵衛の考案であった。
あのときには、深川と下谷でも付け火をして、火盗改メの裏をかいた。

参照】2008年9月2日~[〔蓑火(みのひ)〕のお頭] (5) (6)

ただ、銕三郎がおに訊いておきたかったのは、付け火役に選ぶのは、どういう人柄の者かということであった。
下手をすれば大火になりかねないし、焼け死ぬ者もでかねない。
火の手がはやく見つかれば、付け火した者が町のものに捕まる危険もある。
そのあたりの見きわをつけられる才覚の男を選びだすのは、どこに目をつけるのか。
いや、男とはかぎるまい。おんなのほうが炊事しごとで、火を使い馴れているかもしれない。

が、ちらと洩らしてくれたのは、先手・鉄砲(つつ)の7番手組頭---諏訪左源太頼珍(よりよし 63歳 2000石)の本郷・弓町の屋敷へ、引きこみを入れているというと、奥祐筆・橋本喜平次敬惟(ゆきのぶ 48歳 150俵)の若侍を買収しているということであった。
引きこみを入れる身代のみきわめ方の片鱗は、それでもわかった。

さらに、銕三郎が類推したのは、近江商人たちが江戸へのと商用にもっぱら使っている中山道の商人宿での会話から、押しこみ候補の商舗を選ぶということであった。

銕三郎にとっては、貴重な端緒であった。
3年後、江戸の半分が焼ける---目黒・行人坂の大火---のとき、火盗改メ・本役をつとめていた父・平蔵宣雄(のぶお 54歳)の頭脳・目・手・足となって、放火犯人逮捕の大手柄をもたらしている。
この事件の経緯(ゆくたて)は、このブログのずっと先にくわしく述べる。

ついでにいうと、おとこおんなのおの躰と気持ちを知ったことにより、26年後に、〔荒神(こうじん)〕のお(なつ 25歳=当時)に誘拐されたおまさを救いだした手順も、のちのちのお愉しみである。

とにかく、このごろの銕三郎の頭を占めていたのは、おの隻言半句(せきげんはんく)を反趨し、めくばせ身ぶりの意味を推察することであった。

もっとも、そのついでに、おの白い肌、豊な乳房のわりには赤ん坊に吸わせたことのない小さな乳首、くびれた腹部、形よく茂った恥毛とその奥の熱い泉をなつかしんだのは、若さのせいで、仕方がない。
のほうだって、おでは得られなかった、銕三郎の振り棒で鍛えたたくましい腕の筋肉、ばねのきいたよく動く腰、直立してはいるが弾力にとんだそのものを、子宮のあえぎを感じながらおもいおこしていることであろう。

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2009.01.04

明和6年(1769)の銕三郎(4)

(てつ)さま。〔荒神(こうじん)〕の助太郎の消息がお分かりになったら、どうなさいます?」
寝床の中で、〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 30歳)が、銕三郎(てつさぶろう 24歳)の乳首を小指の先ではじくようにもてあそびながら訊いた。
銕三郎が伝授料を払い終わっての、けだるいひとときであった。

「見かけたのか?」
銕三郎が、おもわず身をおこす。
「風が入りますから、伏せったままでお聞きくださいませ。いいえ、見かけたのではありません。ご府中でのお盗(つと)めの手順が、〔荒神〕組のそれのようにおもえるだけですが---」

参照】[〔荒神〕の助太郎] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)

駿府(静岡)城下・呉服町の小間物の老舗〔五条屋〕が襲われた。
店は、人宿(ひとやど)通りとの角にあり、呉服町通りに面した側では京から仕入れた簪(かんざし)などの装身具のたぐいを、人宿通り側では京扇と袋ものを商っていた。
賊たちは、人宿通りから通じている猫道の台所口の戸締りの落とし桟(さん)のところを、鋭利な刃物で小さく切りとり、桟をあげて侵入した。

戸板を切りひらくときに濡れ手ぬぐいを何枚もかさねてあてて戸板を湿らせ、音を消しているのと、全員の胃の下の急所を棒で突いて気絶させてから、金蔵の鉄の錠前を金鋸で切り破っているところ、竃(へっつい)の上に新しい荒神松を飾って引きあげたところが、それである。

「ややを背負った女賊はいなかった?」
「〔瀬戸川(せとがわ〕の代役からは、そのことは聞いていません」
「〔瀬戸川〕の源七どのは、いま、江戸に?」

参照】[〔瀬戸川〕の源七] (0) (1) (2) (3) (4)

「そのことは、さまでも、あかすわけにはまいりません」
「そうであったな。いや、せんないことを訊いてしまった。許せ」
「いいのです」

いきなり、おがかぶさってきて、耳元で、ささやいた。
(かつ 28歳)ともども、しばらく、江戸を離れます。お頭からのお指しずです。どこへ行くかは、お訊きにならないでください。胸がいたみますから」

「いつ、発(た)つ?」
「明朝---」
「四谷口か。本郷追分か。それとも高輪口か?」
高輪口、を口にしたとき、上に乗っていたおの下腹がかすかに揺れたのを、銕三郎は感知した。

「どのぐらいのあいだ、ご府内を留守にする?」
「多分、あのお方に、ややがおできになったころ」
「そうか。おの軍学を、もっと習(さら)っておきたかった」

翌朝---明け六ッ(午前6時半)すぎ。
永代橋の上で、手をふっている銕三郎に、小舟の上からおとおも手拭いをふって応じていた。

舟が橋をくぐると、銕三郎は、川下側の欄干へ移って、なおも手をふった。
も橋の上の銕三郎の姿が石川島岸にもやっている帆船群と木立にさえぎられるまで、懸命に手拭いをはためかせ、そのまま双眸にあて、しばらく嗚咽していた。
そのことを、銕三郎はしらなかった。
杭上で休んでいた都鳥が怪訝そうなに眺めているだけであった。

050_360
(永代橋 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

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2009.01.03

明和6年(1769)の銕三郎(3)

裏の小じんまりした庭に植えられたいる南天の赤い実にも、夕闇がかぶさりかかっている。
七ッ(午後4時)すぎであろう。

「お(りょう)どの。先刻のお先手組頭の名前ぞろえだが、明細の末に、小さな〇やら△、×の印がついていたのは?」
「ちょっとしたこころ覚えですから、お気になさらないで---」
_150
(30歳)は、薄い肌着を羽織り、ちろりを燗するために立ちながら、銕三郎(てつさぶろう 24歳)の問いかけをはぐらかそうとした。
「そう言われても、気にかかるものは気にかかる」(清長 お竜のイメージ)

名前書きした紙を引き寄せ、坐りなおした銕三郎は、真剣に眺めいっている。
「そんな怖い顔をなさらないで。お風邪を引きます。掻巻(かいまき)を---」
「うむ」

「燗がつきました。お受けになって---」
自分も掻巻に腕を通したおが、すすめるが、銕三郎は杯も手にとらず、注視している紙から目を放さない。

「では、お教えしますが、伝授料をお払いくださいますか?」
「拙が払えるほどの高ならば---」
(てつ)さまなら、お払いになれます」
「では、払います」

明和6年(1769)初春現在の、弓組の組頭。
番手(居屋敷)
(氏名 年齢 禄高 この年までの在職あしかけ年数)

弓組
1番手(小石川七軒町) 
 松平源五郎乗通のりみち)  75歳  300俵 17年め
2番手(神田元誠願寺)
 奥田山城守忠祇(ただまさ)  61歳  300俵  7年め
3番手(芝愛宕下三斉小路)
 堀 甚五兵衛信明(のぶあき) 60歳 1500石 10年め
4番手(下谷御徒町)
 菅沼主膳正虎常(とらつね)  55歳  700石  4年め
5番手(木挽町築地門跡後)
 能勢助十郎頼寿(よりひさ)  68歳  300俵  3年め
6番手(市ヶ谷加賀屋敷)
 遠山源兵衛景俊(かげとし)  62歳  400石  7年め
7番手(一番町新道)
 長谷川太郎兵衛正直まさなお>)60歳1470石  9年め
8番手(南本所三ッ目通)
 長谷川平蔵宣雄(のぶお)   51歳  400石  5年め
9番手(田安二合半坂下)   
 橋本河内守忠正(ただまさ)   59歳  500俵  3年め
10番手(市ヶ谷清泰院殿上地)
 石原惣左衛門広通(ひろみち) 77歳  475石  4年め

明和6年(1769)初春現在の、鉄砲組の組頭---。
番手(居屋敷)
(氏名 年齢 禄高 この年までの在職あしかけ年数)

1番手(小川町火消屋敷通り) 
 寺嶋又四郎猶包(なおかね)  81歳  300俵 12年め
2番手(南本所菊川町)
 松田彦兵衛貞居さだすえ)   62歳 1150石  3年め
3番手(小石川門内)
 井出助次郎正興(まさおき)   71歳  300俵 10年め
4番手(赤坂築地中ノ町)
 長山百助直幡なおはた)     58歳 1350石  5年め     
5番手(一番町堀端)
 永井内膳尚尹(なおただ)     72歳  500石  9年め
6番手(四谷刈豆店)
 鈴木市左衛門之房(ゆきふさ)  74歳  450石 16年め
7番手(本郷弓町)
 諏訪左源太頼珍よりよし)    63歳 2000石  6年め
8番手(本所南割下水)
 有馬一馬純意(すみもと)     71歳 1000石 10年め
9番手(麻布竜土下)
 遠藤源五郎尚住なおずみ)    53歳 1000石  4年め
10番手(駿河台下)
 石野藤七郎唯義ただよし)     61歳  500俵  2年め
11番手(下谷池端七軒町)
 浅井小右衛門元武>(さだあきら)   60歳  540石  5年め
12番手(石原片町)
 徳山小左衛門貞明(さだあきら)  54歳  500石  3年め
13番手(小石川白山鶴ヶ声久保裏通)
 曲渕隼人景忠かげただ)      64歳  400石 10年め
14番手(高田牧野備後守上地)
 荒井十大夫高国たかくに)     61歳  250俵  4年め
15番手(愛宕下神保小路)
 仁賀保兵庫誠之のぶざね)     58歳 1200石  3年め
16番手(牛込山伏町)
 石尾七兵衛氏紀(うじのり)      60歳 2200石  2年め
17番手(小川町裏猿楽町)
 松前主馬一広かずひろ)      47歳 1500石 17年め
18番手(裏六番町方眼坂)
 市岡左衛門正軌(まさのり)     76歳  500石 14年め
19番手(本所林町4丁目)
 仙石監物政啓(まさひろ)       76歳 2700石 17年め
20番手(四谷伝馬町3丁目裏通)
 福王忠左衛門信近(のぶちか)    77歳  200石 16年め

「早く、絵解きしてほしい」
「ま、おささ(酒)でもお召しあがって---」

は、じらすように、酒をすすめる。
銕三郎が、杯も手にとらないで、書付を注視しているので、あきらめたか、
「お組頭衆のお勝手向きです」
「なに?」
「お内証のお具合---」
「どうして、そんなことが分かるかな?」

(てつ)さまは、師走のお初お目見(みえ)に、お役つきのどなたとどなたへお礼廻りをなさいました?」
「ご老職(老中)、ご少老(若年寄)衆と、月番のご奏者番であった久世(くぜ)出雲侯---」
「それだけでございましたか?」
「いや。奥祐筆の組頭のお2人にも---」
2人の組頭とは、臼井藤右衛門房臧ふさよし 58歳 150俵)と橋本喜平次敬惟ゆきのぶ 48歳 150俵)である。

参照】2008年12月17日[「久栄の躰にお徴(しるし)を---」] (2)

「お礼の品は、どなたにお渡しになりましたか?」
「用人どのへ---」
「これで、お分かりでございましょう?」
「えっ?」
「先手組のお頭衆の役高は1500石---といいましても、お内証の具合はさまざま。奥のご祐筆さまへのお届けもののお値打ちもそれぞれ」

「なんと、用人どのに手をまわした?」
「いいえ。その下の者でも、音物(いんもつ 贈り物)手控え帖をのぞけます」
「〇は?」
「算用にかなり長(た)けたといいましょうか、見得よりもお内証にいつわりのないお家。長谷川さまはお〇」

が打あけたのは、ほぼ10年分の節季々々の音物の質量が、豊年と不作の年にあわせて増減させている家が〇なのだと。
家禄以上に見得を張ったものを、知行地の成りものの出来いかんにかかわらず贈ってくる家が×。
頼みごとのあるときだけ持参する家は△。

ちゅうすけのことわり書き】現存していらっしゃるお家も多いはず。さしさわりがあろうかと、〇、△、× 印を削りました。

「あきれた、軍者(ぐんしゃ)どのだ」
「ほ、ほほほ。さ、おささ(酒)を召して、伝授料をしっかりおはらいくださいませ」
掻巻を脱ぎすてたおが、床に横たわった。

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2009.01.02

明和6年(1769)の銕三郎(2)

「火種がどこかにあるはずですが---」
火鉢をつついたが見つからなかったか、お(りょう 30歳)は掘炬燵から火種を七輪へ移し、消し壷からおき炭をのせ、炭箱から備長を器用に組んで、薬缶をかけた。

手提げからだした紙片を、銕三郎(てつさぶろう 24歳)の前にひろげる。
30人の先手組頭の、明和6年(1769)現在の年齢、家碌、在任年数が書きこまれていた。

ちゅうすけ注】組頭は、西丸の4人を加えると総勢で34人だが、西丸はこんどのことにはかかわりがない。

「どうやってこれを?」
銕三郎が問いかけると、ついと肩を寄せ、
さまは、が軍者(ぐんしゃ)だってことをお忘れでございますか?」
「忘れてはいないが、あまりにみごとな手際(てぎわ)ゆえ---」
「須原屋(版元)の武鑑(ぶかん)は、だれでも求められます」
「それはそうだが、居屋敷は、武鑑には載っていない」
「裏の手はいくらもございます」
「うーむ」
本多采女紀品(のりただ 56歳 2000石)の後を引き継いだ石尾七兵衛氏紀(うじのり)の名もきちんとあげてある。

明和6年(1769)初春現在の、弓組の組頭から、まず---。
番手(居屋敷)
(氏名 年齢 禄高 この年までの在職あしかけ年数)

弓組
1番手(小石川七軒町) 
 松平源五郎乗通のりみち)  75歳  300俵 17年め
2番手(神田元誠願寺)
 奥田山城守忠祇(ただまさ)  61歳  300俵  7年め
3番手(芝愛宕下三斉小路)
 堀 甚五兵衛信明(のぶあき) 60歳 1500石 10年め
4番手(下谷御徒町)
 (菅沼主膳正虎常 とらつね)  55歳  700石  4年め
5番手(木挽町築地門跡後)
 能勢助十郎頼寿(よりひさ)  68歳  300俵  3年め
6番手(市ヶ谷加賀屋敷)
 遠山源兵衛景俊(かげとし)  62歳  400石  7年め
7番手(一番町新道)
 長谷川太郎兵衛正直まさなお>)60歳1470石  9年め
8番手(南本所三ッ目通)
 長谷川平蔵宣雄(のぶお)   51歳  400石  5年め
9番手(田安二合半坂下)   
 橋本河内守忠正(ただまさ)   59歳  500俵  3年め
10番手(市ヶ谷清泰院殿上地)
 石原惣左衛門広通(ひろみち) 77歳  475石  4年め

明和6年(1769)初春現在の、鉄砲組の組頭---。
番手(居屋敷)
(氏名 年齢 禄高 この年までの在職あしかけ年数)

1番手(小川町火消屋敷通り) 
 寺嶋又四郎猶包(なおかね)  81歳  300俵 12年め
2番手(南本所菊川町)
 松田彦兵衛貞居さだすえ)   62歳 1150石  3年め
3番手(小石川門内)
 井出助次郎正興(まさおき)   71歳  300俵 10年め
4番手(赤坂築地中ノ町)
 長山百助直幡なおはた)     58歳 1350石  5年め     
5番手(一番町堀端)
 永井内膳尚尹(なおただ)     72歳  500石  9年め
6番手(四谷刈豆店)
 鈴木市左衛門之房(ゆきふさ)  74歳  450石 16年め
7番手(本郷弓町)
 諏訪左源太頼珍(よりよし)    63歳 2000石  6年め
8番手(本所南割下水)
 有馬一馬純意(すみもと)     71歳 1000石 10年め
9番手(麻布竜土下)
 遠藤源五郎尚住なおずみ)    53歳 1000石  4年め
10番手(駿河台下)
 石野藤七郎唯義ただよし)     61歳  500俵  2年め
11番手(下谷池端七軒町)
 浅井小右衛門元武(もとたけ)   60歳  540石  5年め
12番手(石原片町)
 徳山小左衛門貞明  54歳  500石  3年め
13番手(小石川白山鶴ヶ声久保裏通)>(さだあきら
 曲渕隼人景忠かげただ)      64歳  400石 10年め
14番手(高田牧野備後守上地)
 荒井十大夫高国たかくに)     61歳  250俵  4年め
15番手(愛宕下神保小路)
 仁賀保兵庫誠之のぶざね)     58歳 1200石  3年め
16番手(牛込山伏町)
 石尾七兵衛氏紀(うじのり)      60歳 2200石  2年め
17番手(小川町裏猿楽町)
 松前主馬一広かずひろ)      47歳 1500石 17年め
18番手(裏六番町方眼坂)
 市岡左衛門正軌(まさのり)     76歳  500石 14年め
19番手(本所林町4丁目)
 仙石監物政啓(まさひろ)       76歳 2700石 17年め
20番手(四谷伝馬町3丁目裏通)
 福王忠左衛門信近(のぶちか)    77歳  200石 16年め

ちゅうすけのおすすめ】諱(いみな)のオレンジ色の[ひらな]をクリックで「寛政譜」があらわれる。

銕三郎さま。お父上を陥(おと)しいれようと、徒(かち)目付に依頼した疑いの筆頭の諏訪(左源太頼珍)さまですが、去年の夏ごろから、咳こみがはげしくなって、勤仕もままならないご様子にございます。引きこみに入れております者の言い分では、弓組への昇格をたくらむこともおぼつかない容態のようで---」
「ふーむ。諏訪どのの線もきえたとなると---徒押(かちおし)が動いているというのは---」
「そのことでございます。推察いたしましたが、幻(まぼろし)のような---」
佐野与八郎(政親 まさちか 38歳 西丸・目付)兄上どのが嘘(いつわり)を申されるはずはないのだが---」
「どなたかが、さまの身辺をきれいになされようと---」
「父上が? まさか---」

「いまの、このありさまも、まさかにあたりませんか?」
「おどのとのことまで? 父上はご存じないとおもうが---」
「じっさいにはご存じでなくても、大橋さまとのご婚儀のさしさわりになることを、すべて断ちきるお考えだったのではございませんか?」
銕三郎は、雑司ヶ谷の料理茶屋〔橘屋〕の座敷女中・お(なか 35歳)の不自然な消え方におもいあたった。

「ありうる」
「でございましよう? つまりは、徒押などはまぼろしなのでございます。だれも、わたしたちの後ろを尾行(つ)けてはいなかったのです」

沸いた湯で、おが茶を淹(い)れた。
「お茶より、邪気ばらいに、酒(ささ)になさいますか?」
「うん」
薬缶にちろりが入れられた。

大橋のお嬢さまとのご婚儀、おめでとうございます」
「祝ってくれますか?」
「あたりまえでございます。しかし、そのことと、このことは別---」
「なに?」
の右手がそろりと銕三郎の胸へはいり、左腕が首にまわった。

銕三郎は、またも、父・平蔵宣雄の深慮遠謀を教えられた。
教訓は、「おのれが言うよりも、他の人間の口から出た言葉のほうを、人は信じやすい」であった。

300

新河岸川の葦の中での屋根船のときのように、おは、揚げ帽子をつけたままで銕三郎をいざなった。(歌麿『歌まくら』部分 お竜のイメージ)
武家の奥方になっている気分にひたれるらしい。
もっとも、船の中でより、安定した姿態がとれた。

が、高まりはじめると、揚げ帽子はおろか、着物まではいでいた。

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2009.01.01

明和6年(1769)の銕三郎

長谷川先輩。使いの者が参っております」
寒稽古中の銕三郎(てつさぶろう 明けて24歳)へ取りついだのは、弟のように面倒をみてやっている滝口丈助(じょうすけ 15歳)であった。

ちゅうすけ注】滝口丈助という高杉道場の同門者は、『鬼平犯科帳』巻18[おれの弟]に登場する。
30俵2人扶持の貧しい御家人の次男に生まれ、家督することはできないので、将来は剣客として生きていくか、どこかへ養子に入るしかない。
14歳の夏に入門して、剣客の道を選んだ。
長谷川銕三郎との年齢差は、原作に書かれたとおりだと、10数歳ほども離れていないと辻褄があわない---というのは、史実の平蔵宣以(のぶため)は、寛政7年(1795)年に50歳で病没している。
したがって、明和6年には24歳。
ファンの夢をこわすようなバラしだが、平蔵が病没した寛政7年の初夏の物語は、文庫巻12[密偵たちの宴]なのである。
それ以降の物語では、鬼平は齢をとるわけにはいかない。つねに50歳。
おれの弟]に、丈助は40歳に近い---とある。
その差を11~12歳とすると、明和6年の丈助は、12歳ほどにしなければ平仄(ひょうそく)があわなくなるが、えいっと、目をつぶって15歳に加齢させた。

この厳寒の中、汗を拭きふき出てみると、浅草の元締・〔木賊(とくさ)〕の林造(りんぞう 60歳)のところの顔見知りの若い者・才蔵(さいぞう 18歳)であった。
井関録之助(ろくのすけ 20歳)に振り棒の遣い方を習っている。
「なにごとかな?」
_100
小浪姐ごから言(こと)づけでやす」
小浪(こなみ 30歳)は、お厩河岸の渡舟場の前で茶店をやっている、〔木賊〕の林造元締の囲いおんなである。(歌麿 小浪のイメージ)

「ほう?」
「お手がすいたら、お越しいただきてぇと---」
小浪どのが?」
「いえ---」
今助?」
_100_2
「そうじゃあねえんで。おりょう)ってすかした年増(すけ)から発した言(こと)づけなんでやす」
「ご苦労であった。あと、2,3合、手合わせをすませたら参ると伝えておいてもらいたい」

(おどの、なに用であろう?)
自身が現われては、道場での銕三郎の立場がおかしくになるとおもんぱかってのことではあろうが---。(歌麿 お竜のイメージ)

ちゅうすけ手控え】高杉道場の同門者
[1-2 本所・桜屋敷]    岸井左馬之助  谷五郎七
[3-6 むかしの男]      大橋与兵衛(久栄の父親)。
[5-2 乞食坊主]       井関録之助
                 菅野伊助
[7-5 泥鰌の和助始末]   松岡重兵衛(剣客。道場の食客。50歳前後)。
[8-3 明神の次郎吉]    春慶寺の和尚=宗円
[8-6 あきらめきれずに]   小野田治平(多摩郡布田の郷士の三男。
                 不伝流の居合術)
[12-2高杉道場三羽烏]   長沼又兵衛 盗賊の首領。
[14-1 あごひげの三十両]  先輩:野崎勘兵衛。
[14-4 浮世の顔]       小野田武吉(鳥羽3万石の家臣)
                 御家人:八木勘左衛門(50石取り。麻布・狸穴に住む)
[15-1 赤い空]p37      堀本伯道(師:高杉銀平の試合相手)
[15-2 剣客医者]         〃
[16-6 霜夜]         池田又四郎(兄は 200石の旗本)。行方知れずに
[18-5 おれの弟]p171     滝口丈助
[20-3 顔]           井上惣助
[20-6 助太刀]p222      横川甚助(上総・関宿の浪人)

裏庭の井戸で、双肌(もろはだ)ぬぎなになって躰を拭いた。
に逢うのに、汗くさい匂いは、なぜか、憚(はばか)られた。
わざと、ゆっくり、入念に汗をぬぐう。
井戸水が暖かく感じられ、寒気の中、肌にこころよい。

大川をを横切るお厩河岸の渡しの、本所川の舟着きは、入り堀に架かっている石原橋北詰である。
舟がでるぎりぎりまで、何気ないそぶりで尾行(つ)けている者がいるかどうか、影をさがす。
跳び乗る。
ぐらりときた舟のゆれに悲鳴もあがったが、武家姿の銕三郎に、文句をつける乗客はいなかった。

(そういえば、屋根舟からこっち、おどのにはごぶさたであったな)
ずいぶん長く逢っていないようにおもえた。
久栄との婚儀の話がすすんでいて、つい、忘れていたともいえる。
久栄との婚前の旅の企ては、小浪から筒抜けになっていることであろうな)

_120中畑(なかばたけ)〕のおは、茶店〔小浪〕に、ひとりきりで待っていた。
連れ立って歩くこともかんがえて、武家の内儀ふうに、揚げ帽子をかぶっている。

茶を運んできた小浪が、
「内密のお話なんでしょう? 家の鍵をお貸しします」
目で笑いながら、鍵をおに渡す。

が先に立って蔵前通りをわたり、框(かや)寺(現・台東区蔵前3丁目22)の裏手の仕舞(しもう)た屋の錠をあけた。

519_360
(左:石清水八幡宮 右:正覚寺--通称・榧寺
『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

ふり返り、銕三郎をうながした。
は意識していないだろうが、銕三郎には、その料(しな)がぞくっとするほど艶(いろ)っぽくおもえた。

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