« 先手・弓の2番手(3) | トップページ | 先手・弓の2番手(5) »

2009.04.10

先手・弓の2番手(4)

偶然とはいえ、浅草田原町(たはらまち)1丁目の質舗〔鳩屋〕長兵衛方を、2番目の賊が襲ったとき、来あわせたのが先手・弓の2番手の奥田組であったことには、運命のようなものを感じる。

前にも書いたが、長谷川平蔵家は徳川幕府体制のなかでは毛並みのいい両番(書院番と小姓組)の家柄とはいえ、7代目の宣雄(のぶお 47歳=明和2)の代になってはじめて役つきに引きあげられた。
それまでの6人の当主は、両番ではあっても、平(ひら)のままで終わっていた。

宣雄は、番方(武官系)でも最上位に近い先手組、しかも、格が上の弓組の8番手の組頭にまで抜擢された(その後、役方(行政)系の京都西町奉行)。
本家の太郎兵衛正直(まさなお 61歳=明和7)も、本家の歴代の当主では、初め役席についた。先手組頭としては弓の7番手の組頭であった。

この太郎兵衛正直、7番手の組頭を15年間も務めた安永5年(1776)12月に、突然、2番手へ組替えになったのである。
奇妙な人事移動であった。
弓の2番手の組頭・土屋帯刀守直(もりなお 43歳=安永5 1000石)iは、2日前に目付からこの組の組頭へ昇格したばかりで、諸方への挨拶まわりがおわらないうちの、火盗改メを下命され、同時に組替えをいわれた。
寛政譜』をあたってみても、役目上に落ち度があった形跡はない---いや、常識的にいって発令2日で落ち度など、あるわけはない。

2番手も7番手も、与力は10人、同心は30人と、差はない。

唯一考えられるのは、7番手は、前の組頭・長谷川太郎兵衛正直が、14年間に2度、火盗改メを勤めている。
組頭が火盗改メにつくと、与力、同心にも加役手当てがはいる。
それをあてこんでの、火盗改メの組頭を呼びこむという例は、ないわけではない。

ちゅうすけ注】平蔵宣以(のぶため)の火盗改メの前任、堀 帯刀秀隆(ひでたか)が役についていたとき、2回も組替をやっている。そのときに秀隆の用人がふところにいれた賄賂は80両と100両であったとうわさされている。

とにかく、長谷川家は、弓の2番手への実績が、本家の太郎兵衛によって開かれたとみなしておこう。

奥田摂津守忠祇(ただまさ)から長谷川平蔵宣以までの、先手・弓の2番手の組頭のリストを掲げておく。


奥田山城守忠祇( 300俵)
  先祖は越後から尾張へ移り、松永弾正につかえ、
  のち織田右府に属し、また豊臣太閤に。
  大和国畑に蟄居していたのを、関ヶ原のときに
  家康に召される。

61歳 宝暦13(1763)年3月15日 御小納戸頭取より
71歳 安永2(1773)年正月11日 御持頭
    (1791年歿。享年93歳)

赤井越前守忠晶( 700石)
  先祖は丹波国を領す。明智光秀に追われ、遠江国に
  逃げる。大久保忠世の推挙で家康につかえる。

47歳 安永2(1773)巳年正月11日 小十人頭より
          同月20日 火盗改メ
48歳 同 3(1774)年 3月20日 京都町奉行
    (1790年歿。享年64歳)

菅沼藤十郎定亨(2020石)
  先祖は三河国野田で育ち、額田郡菅沼の婿になる。
  一族が武田についたが、定亨の始祖は家康旗下に。

 45歳 安永3(1774)年3月20日 西丸御目付より
 47歳 同 5(1776)年12月12日 奈良奉行
      (1778年、奈良にて歿。享年49歳)

土屋帯刀守直(1000石)
  先祖は武田家に仕え、秋山、のち武田家臣の金丸
  を継ぐ。信玄とときに武田の臣・土屋と改む。
  伝手を頼り駿河国今泉村の清見寺にいたのを鷹狩り
  にきた家康に認められる。

 39歳 安永5(1776)年12月12日 御使番より
    同     12月14日 (弓7番組へ)
               長谷川太郎兵衛と組替え
               同日  火附盗賊改メ加役
42歳 同 8(1779)亥年正月15日 大坂町奉行

長谷川太郎兵衛正直(1450石)
  始祖は今川義元に仕え駿河国小川から田中城へ移り
  のち、家康に使えて三方ヶ原で討ち死。

54歳 宝暦13(1763)年8月15日 御徒頭より
                  (弓7番組へ)
   同   10月13日 火盗改メ加役
   同  14(1764)年5月3日 加役御免
56歳 明和2(1765)年4月朔日 定加役
    同  3(1766)年6月朔日 加役御免
67歳 安永5(1776)年4月 日光御供
   同  (1776)申年12月14日 他組より
                 (土屋帯刀組へ)組替え
 69歳 同 7(1778)年 2月24日 御持頭
    (1792年歿。享年83歳)

贅 越前守正寿( 300石のち 400石)
  始祖は家康、のち紀伊家につかえる。
  吉宗に従い、御家人に。

37歳 安永7(1778)年2月28日 御小姓頭より
39歳 同 8(1779)年正月15日 火附盗賊改メ加役
44歳 天明4(1784)年7月26日 堺奉行
    (1795年、堺にて歿。享年55歳)

横田源太郎松房(1000石)
 祖先は武田信玄と勝頼の足軽大将、武田滅亡後に、
 家康のとき、甲斐の士とともに芦田小屋を守る。

41歳 天明4(1784)年7月26日 西丸御目付より、
                  火附盗賊改メ加役
    同   10月15日 前田半右衛門と組替え
42歳 同 5(1785年11月15日 御作事奉行)

前田半右衛門玄昌(1900石)
 始祖は美濃国出身で織田信忠に仕え、前田玄以(丹波
 亀山)は豊臣の5奉行の1人。

50歳 安永8(1778)年2月20日 小十人頭より
56歳 天明4(1784)年10月19日 横田源兵衛と組替え
   同 6(1786)年 7月8日 卒(享年58歳)

谷川平蔵宣以( 400石)
41歳 天明6(1786 )年7月26日 西丸御徒士頭より
 42歳 同 7(1787 )年5月 組召し連れ相廻るべき旨
      (天明の騒擾・打ち壊しの鎮圧部隊に)
   同   6月 一統御免
   同   11月より増加役
43歳 同 8(1788)年 4月29日御免
   同     10月2日定加役
50歳 寛政7(1795) 5月16日 病気につき願いのとおり
             火附盗賊加役御免。
   同     5月19日卒(享年50歳) 
           (ただし、事実は5月10日卒)


参考】2009年~4月3日[用心棒・浅田剛二郎] () () () (


2009年4月7日[先手・弓の2番手] () () () (


|

« 先手・弓の2番手(3) | トップページ | 先手・弓の2番手(5) »

018先手組頭」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 先手・弓の2番手(3) | トップページ | 先手・弓の2番手(5) »