先手・弓の2番手(5)
館(たち)伊蔵(いぞう 53歳)筆頭与力が指揮して、侵入して打ち倒された賊8人を田原町(たはらまち)のすぐ西に広い境内を有している臨済宗の名刹・金竜寺へ、看視の小者をつけてあずけるの見とどけたかのように、読みうり屋の〔耳より〕の紋次(もんじ 26歳)があらわれた。
「長谷川の旦那---」
夜っびいて開けている、駒形堂脇の菜飯屋へ、浅田剛二郎(ごうじろう 32歳)、岸井左馬之助(さまのすけ 25歳)、井関録之助(ろくのすけ 20歳)ともども案内した。
賊と対決した3人に、格闘の経緯を訊き終えたところで、銕三郎(てつさぶろう 25歳)が口をはさんだ。
「紋次どの。まず、格闘の時刻を2刻半(5時間)ほど遅らせないと、版元に迷惑がおよぶ」
「なんで?」
「先手・弓の2番手の組頭・奥田摂津守さまが指揮されて、お馬先で召し取られたことなっておる。そう書かないと、かの組からとんでもないことでいいがかりがつけられる」
【参照】お馬先召し捕りについては、2006年6月12日[現代語訳『徳川時代制度の研究」] (1)
「奥田の殿さまの紋どころは?」
「なにゆえに家紋が?」
「騎馬の奥田さまの勇姿の陣笠と羽織にでっかく描かせやすんで---」
「それはありがたい。しかし、家紋は大きめの武鑑なら、先手組頭の項に載っておるはず」
「さいでした。あとで調べて、絵師に伝えておきやす」
ついでだが、奥田山城守忠祇(ただまさ 66歳 300俵)の家紋は、丸に横二引両であった。
「そういたしやすと、浅田さん、岸井さん、井関さんの3剣豪の活躍どころはどこにすればよろしいので?」
「屋内でそれぞれが賊2人ずつ倒したが、逃げた2人を、奥田組が召し捕ったとでもしておいてくれませんか」
「承知しやした」
その読みうりが発売されたが、売れ行きはかんばしくなかったらしい。
紋次がぼやいた。
「長谷川の旦那。お役人の落ち度なら町びとはよろこんで読みますが、賊を召し取るのは役目であって、面白くもなんともないんでやすよ」
「そういうことであろう。しかしな、紋次どのよ。なにごとも、二番煎じは興奮しないものよ」
「でも、二匹目の泥鰌(どどょう)をすくわぬ馬鹿、三匹めの泥鰌をねらう馬鹿---って言いやすぜ」
「泥鰌と泥棒を、いっしょにしては、なあ」
大売れはしなかった読みうりだったが、左馬之助と録之助を名ざしでの用心棒の引きあいが、今助(いますけ 22歳)と権七(ごんしち 37歳)のもとへ、どっときた。
高杉銀平師は、岸井左馬之助には許可しなかった。
道場をゆずるつもりだったのかもしれない。
録之助には許しがでた。
もっとも、夜をあけるのでは、茶問屋〔万屋〕との契約に反するというお元(もと 34歳)の強い異議がとおって、けっきょく、録之助も用心棒の2重稼ぎはできなかった。
30おんな相手のこってりした夜に、いささかうんざりした録之助の顔が見えるようでもある。
お雪(ゆき 23歳当時)以来、自分の膝っ小僧を抱いて寝ている夜の多い左馬之助に言わせると、
「ぜいたくを言うな」
であろうが---。
【参照】2008年8月21日 [若き日の井関禄之助](1) (2) (3) (4) (5)
2008年10月17日[〔橘屋〕のお雪] (1) (2)a>
(3) (4) (5) (6)
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