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2009.04.03

用心棒・浅田剛二郎

浅田どのとやら。このたびの処置、おみごとでござった」
火盗改メ・本役の松田彦兵衛組の筆頭与力・土方万之助(まんのすけ 51歳)が、姓を呼んで、ほめた。
銕三郎(てつさぶろう 25歳)が横目で見ると。浅田剛二郎(ごうじろう 32歳)は、袴のほころびを気にしながら、頭をさげてかしこまっている。

年があらたまり、松がとれたころあいに、土方筆頭からの差紙(さしがみ 呼びだし状)が、浅草田原町(たはらまち)の質商〔鳩屋」と、松田家(1150石 先手・鉄砲(つつ)の2番手・組頭)の隣りの長谷川邸へとどいた。

昨年の暮れに、〔鳩屋〕へ押しいった盗賊・〔浮塚(うきつか)〕の甚兵衛(じんべえ)一味5人を、血をみせないで逮捕した浅田用心棒へのねぎらいの言葉と、その経緯を読み売りに売りこんで、火盗改メ・松田組の市井の声をいささか高めた銕三郎へのほめ言葉をかけるための呼びだしであった。

当夜、浅田用心棒は、太刀の鞘と棟(峰ともいう)で盗賊たちを気絶させたあと、縄でしばりあげて、夜明けを待った。
明るくなってから事態をしった町(ちょう)役人が、火盗改メの役宅---すなわち、松田組頭の屋敷へとどけたのである。

出勤してきた土方筆頭は、町奉行所でなくて、火盗改メ・本役の役宅へとどけたことを大げさな言葉で賞し、同心2名に小者数人をつけて、賊を受けとりにやった。

松田組の吟味で、首領・〔浮塚〕の甚兵衛は、 〔通り名(呼び名ともいう)〕のとおり、武蔵野国埼玉郡(さいたまこおり)浮塚村(現・埼玉県越谷市増林)の生まれで、若いときから江戸へ流れでてき、門跡(もんぜき 東本願寺)の寺男を隠れ蓑に、悪事をかさねていたことが判明した。

土方筆頭は、甚兵衛を伝馬町の獄へ送りこんだあと、一件の取調べ控え書を北町奉行所へまわし、月番の若年寄・水野壱岐守忠見(ただちか 41歳 上総・北条藩主 1万5000石)へもとどけておいた。
若年寄からは奥祐筆を経へ、褒賞の言葉はあったが、賞金の下賜はなかった。

したがって、土方筆頭与力も報奨金をつつまず、
「お頭も、大儀のよし、申しておられた。こんごとも、はげむように---」
筆頭与力としては、若年寄からの褒賞の言葉があったことを伝えただけでも、恐懼(きょうく)感激せよ---というつもりであろうが、浅田剛二郎とすれば、笠間藩士時代ならともかく、市井で浪人ぐらしをしている身とすれば、言葉などより実入りのほうがありがたい。
しかし、一応はありがたくうけたまわったという形をとった。

銕三郎へは、
「町方の安堵におおいに支えとなった。お頭も喜んでおられた。今後とも、側面からの助(す)けを、よろしゅうに---」
これだけであった。
(ま、今助(いますけ 26歳)と権七(ごんしち)の商いがふえ、左馬さんと(ろく)の実入りがつづいたのであるから、よし、とするか。言葉で飯がくえるほど、世の中、甘くはないよ、土方さん)


参考】2009年2月17日~[隣家・松田彦兵衛貞居] () () () () () () () (

2009年~4月3日[用心棒・浅田剛二郎] () () (

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