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2009.03.19

菅沼摂津守虎常

「これは攝津守さま。異なところでお会いいたしました」
長谷川平蔵宣雄(のぶお 51歳)が挨拶をおくった、墓域から現われた武家は、先手・弓の4番手の組頭・菅沼摂津守虎常(とらつね 55歳 700石)であった。
場所は、四谷須賀町の戒行寺。
菅沼家は、先代から、ここを葬地としている。

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(菅沼摂津守虎常の[個人譜])

長谷川どのもこちらが香華寺でしたか」

菅沼虎常には、この年(明和6年 1769)の9月22日に火盗改メ・助役が発令されていた。
したがっていた30近い武士夫妻を、
「倅の次郎九郎定昌(さだまさ 28歳)とその連れ、それに、手前の老妻です」
定昌は、3年前から中奥の番士として出仕している。

「遅れましたが、これは息・銕三郎宣以(のぶため 24歳)と嫁の久栄(ひさえ 17歳)、それに、内の者です」
「ほう。こなたが銕三郎どのでしたか。相役の松田彦兵衛)どのから、おうわさは聞いておりますぞ。わが組の筆頭与力・村越増五郎(ますごろう 48歳)へ通じておきますゆえ、いちど、役宅へお遊びにおいでなされ」
名前のでた火盗改メ・本役の松田彦兵衛貞居(さだすえ 62歳 1150石)は、長谷川家の隣家で、継婦・於千華(ちか 34歳)と久栄が親しくしている。

菅沼親子が去ってから、招じられた庫裏で久栄銕三郎に告げた。 
菅沼さまのお屋敷は御徒町筋で、実家(さと)に近い、藤堂佐渡守高敦 たかあつ 伊勢・久居藩 5万3000石)さまの上屋敷の角(かど)向かいです。ぜひ、お出向きになってごらんなさいませ」
「これ。嫁ごどの。ただでさえ捕り物に熱をあげている(てつ)をあおってはなりませぬぞ」
宣雄が、笑いをふくんだ声でたしなめた。
茶目で明るい久栄が、好ましくて仕方がない風情なのである。
が、悋気まじりに、つねづね、
「殿さまは、久栄が来てから、若返りなされたようで---」
と冷やかすので、宣雄は大いに困惑しているふうを演技しては、ごまかしている。
そのくせ、月代(さかやき)をあたったあとなど、ひそかに手鏡にむかってにやついたりしているのである。

住持の日選師(にっせん)も、温和な目で、嫁・舅のたくまざるじゃれあいを黙視していたが、
「さて。ご用向きの、円了院どのの年忌の日取りですが---」
円了院とは、宣雄の養父---といっても、じつは従兄--・権十郎宣尹(のぶただ 没年34歳)で、暮れが21回忌にあたる。

参照】2007年5月2日[『柳営補任』の誤植] 

ちゅうすけ注】諸記録は、権十郎宣尹の逝った日を、寛延元年正月10日としている。戒行寺の霊位簿もそうなっているらしい。
しかし、幕府などへの諸届けのことも考えると、忌報は年末年始はに遠慮しよう。それで、12月大晦日ぎりぎりに歿したものを、正月10日としてととどけこともかんがえられないではない。
とりわけ、宣雄の末期養子の手続きをとどこおりなくすますには、歿日を遅らせる必要もありそうにおもえる。

「ご住持。菅沼家は、いつから当寺に---?」
長谷川さまはご同役ゆえ、とくとご承知のこととおもいますが、わが檀徒になられた菅沼家は、ご当代の摂津守さまの親御どの・日審(にっしん 主膳正定虎 さだとら 没年66歳)さまが、有徳院吉宗)さまに近侍して紀州藩邸から江戸城へお入りになりましたゆえ、新しく、当寺を葬地にお選びになりました」
「なるほど」

菅沼一門の中には、同じ四谷ながら舟町にある曹洞宗・全勝寺を選んだ家や、高田の保善寺などを供養寺としている家もある。
定虎に、戒行寺へ決めさせたのは、吉宗に従った重鎮・加納遠江守久通(ひさみち 若年寄 没年76歳)であったかもしれない。
いや、日選師の政治力をたたえておこう。

参照】[菅沼摂津守虎常] (2) (3) (4)

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