久栄のおめでた(4)
「若奥方さま。ようこそ、おわたりくださいました」
雑司ヶ谷の料理茶屋〔橘屋〕の主人・忠兵衛(50歳すぎ)は、豊頬に笑みをみせて、久栄(ひさえ 17歳)にあいさつした。
なんと、1年前まで、お仲(なか 34才=当時)の宿直(とのい)の夜ごとに、銕三郎(てつさぶろう 23歳=当時)が泊まりにきていた部屋である。
(忘れろ、というこころづかいかな)
銕三郎は、そっと忠兵衛の顔色をうかがうが、かれはそしらぬ顔で、久栄にやさしげな目を向けている。
その忠兵衛の斜めうしろには、女中頭・お栄(えい 37歳)が静かにひかえている。
「婚儀のお祝いもの、かたじけなく---と、篤く述べるようにと、父上からくれぐれもいいつかっております」
久栄が、武家育ちらしく、かしこまった口調で礼を述べる。
こういうときの久栄は、17歳の新妻とはとてもおもえない、しっかりした言葉づかいである。
「とんでもないことでございます。長谷川さまとは兄弟同然のあいだがらゆえ、謝辞などにはおよびません。こんごとも、叔父の家とおぼしめして、しっかりとおわたりくださいますよう---」
忠兵衛は、細い目をいっそう細めて、久栄にそそぐ。
そこへ、お雪(ゆき 24歳)が折敷(おしき)に伊勢えびの剥き身を運んできた。
「若奥方さまが、お悪阻(つわり)はまだ、とうかがっており、帳場が、酢のものを多めに調理させていたしたようでございます」
お栄が口をそえる。
(危ない。お雪が口をすべらせなければいいが---)
銕三郎の懸念をよそに、お雪は2人に配膳すると、そしらぬ表情で引きさがる。
【参照】2008年10月11日[お勝というおんな] (A)
2008年10月22日[〔橘屋〕のお雪] (6)
久栄が箸をおろすと、忠兵衛は、それをしおに引きさがった。
あとは、無難に、お栄が応酬する。
食事が終わったころあいに、忠兵衛があらわれ、銕三郎を離れの外へいざなった。
「あの部屋でお寝(やす)みいただくのもはばかられますので、手前の家に寝所を用意いたしました」
「ご配慮をどうも。ところで亭主どまの。お仲とのこと、久栄に告げて、さっぱりしたほうがよろしいかとも---?」
「なりませぬ。そのために、この離れを用意いたしました。お仲とのことは、夢のなかでのあだなしごととお割り切りなさいまし」
【参照】2008年8月14日~[〔橘屋〕のお仲] (1) (2)
2008年12月29日[〔橘屋〕の忠兵衛] (A)
忠兵衛は、女房に浮気の現場へ踏み込まれ、上布団をはがれた亭主の科白---
「しっかり見さだめろ。まだ、半分しか入っておらん」
それで女房は、悋気と勘気をおさめたという笑い話を引き、
「山の神どのというのは、しらなければしらないで安心しているものなのですよ」
世慣れた男としての教訓をたれた。
その夜。
〔橘屋〕から、忠兵衛の提灯にみちびかれた2人は、鬼子母神の裏手ぞいに忠兵衛の屋敷の、布団が並んで敷かれた客間へ案内された。
「今夜はひかえよう」
用意されていた寝着に着替えて横になるとき、銕三郎が久栄の耳もとでささやく。
「はい」
おとなしく自分のふとんにはいった久栄が、すぐに銕三郎の横へ入ってき、その手をとって腹へたくりり寄せ、
「ほら、ややがご馳走によろこんでいます」
銕三郎の指は、蜘蛛が這うようにもぞもぞと、もっと下へ移っていった。
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