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2009.01.07

明和6年(1769)の銕三郎(7)

「そのことは、せっかくだが、洩らしてはならないことになっておる」
本多伯耆守正珍(まさよし 60歳 田中藩・前藩主 4万石)が、にべもなく断った。

長谷川平蔵宣雄(のぶお 51歳 先手・弓の組頭)と同道していたのは、坂本美濃守直富(なおとみ 36歳 1700石)である。
六郷家(600石 両番筋)の次男で、18歳で坂本家(1700石 寄合格)へ養子にはいった。
もっとも、家を継いだのは養父が歿した54歳のときだから、本多正珍侯を訪れたときは、役なしの寄合であった。

直富本多侯を訪れた用向きは、宝暦5年(1755)9月18日に、西丸・新番頭に準じられていた実家の父・六郷下野守政豊(まさとよ 50歳=当時)と、兄・紀伊守政寿(まさひさ 22歳=当時)が任を解かれた件の理由(わけ)を、当時の月番老中であった正珍侯に洩らしてもらえるかもと、かすかに望みをかけていたのであった。
その望みは、あっさり絶たれた。

「手前が実家を出ましたのは18歳のときで、解任はその5年後のことでございました。父も兄も、坂本の者となっているからには、かかわりのないこと---と、すげなく言われて参りましたので、もしや、ご老公から洩れ承れますれば、と浅はかに考えました。浅慮の段、平にひらに、お許しくださいますよう---」
美濃どのとやら。実父どのや賢兄どのが口を閉ざしていることに、容喙(ようかい)など、おこがましいとおもわっしゃれ。これは、予も、実父どのも実兄どのも、墓場までこのままも持っていくまでの事件である。そこもとは、さっぱりと、忘れっしゃい」
「は、そのように---」
長谷川どのも、聞かなかったことに、な」
「承りました」
宣雄も、平伏した。

美濃どの。これだけは申しておこう。実父どのや実兄どのの科(とが)ごとではない。実父どのが支配されていた新番組配下の者にかかわることであった。ただ、お上のお怒りが深うての」
「かたじけないお言葉、肝に銘じましてございます」
直富は、さらに平伏した。

ちゅうすけが下司(げす)のかんぐりをするに、六郷下野守とともに、先任の準番頭格・山本豊前守正胤(まさたね 46才=当時 300石)も同時に処分されているのは、両組にかかわることであったろう。
しかも、両者は番頭ではなく、準であり、その上には番頭がおり、下には与頭(くみがしら 組頭とも記す)がいる。にもかかわらず、いずれも処分をうけていない。
つまり、山本六郷は、トカケのシッポ切りであったのかもしれない。
で、その事件が、将軍世継ぎの家治室の五十宮が産んだ千代姫懐妊にまつわる風評を、組下の者が話しあっているのが徒(かち)目付の耳にでもはいったのかも。

ちゅうすけ注】後学の士のためにメモをのこしておく。
『徳川実紀』宝暦5年9月18日 西城奥勤新番頭格山本豊前守正胤、六郷下野守政寿。職うばはれ寄合となり、拝謁とどめらる。その故さだかならず。
また、このときの西丸の新番の番頭は、1番組は高井飛騨守奈直碁熙(なおひろ 47歳 2000石)。2番組頭は柳生播磨守久寿(ひさとし 55歳 500石)であった。久寿は、家治の世継ぎ・家基の剣術指南役も兼ねていた。

_120ついでに、前出・市岡正一『徳川盛世碌』(東洋文庫 1989.1.23)から引く。

旗本の家格は武役(ぶやく)の階級によりてこれを分かち、その家柄に種々の別ありしといえども、大約両番席(小姓組・書院番組)の者をもって一等となす。両番はー持高(もちだか)二千ハ百石より廩米(りんまい)三百俵までなり。そのつぎを大番席(おおばんせき)となす。持高ニ千石未満、廩米ニ百俵までなり。その次を小十人(こじゅうにん)とす。およそニ百俵以下、百五十俵までなり。

とあって、新番組が脱落している。
新番頭の役高は2000石。大番頭は5000石格、小十人頭は1000石格だから、その中間におこう。

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