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2009.01.06

明和6年(1769)の銕三郎(6)

(てつ)、書物奉行の長谷川主馬安卿(やすあきら)どのの居宅へ、年始がてらに参上して、伺ってきてほしいことがある」

田中藩・前藩主であった本多伯耆守忠珍(ただよし まさよし 60歳 4万石)への年始をすました夕餉の席で、父・平蔵宣雄(のぶお 51歳)から命じられていた銕三郎(てつさぶろう 24歳)は、本所・石原町(現・墨田区石原2丁目)の長谷川家の客間にいる。

安卿は51歳 150俵。もっとも、書物奉行の役料は400俵だから、250俵の足(たし)高を得ている。

参照】2008年9月29日[書物奉行・長谷川主馬安卿(やすあきら

安卿が非番の日---と指定してきたのは、明和6年1月11日、すなわち、今日であった。
用件は、、前もって書状にしたためて、下僕・太作(たさく 62歳)が5日も前にとどけている。

「お尋ねの、14年ほど前、宝暦5年(1755)9月18日、西城の奥勤め新番頭格・山本豊前守正胤(まさたね) 46歳=当時 300石)どのと小姓組番士であったご子息・出羽守正虎(まさとら 23歳=当時)どの、同職格・六郷下野守政豊(まさとよ 50歳=当時 600石)とともにそのご子息・紀伊守政寿(まさひさ 22歳=当時)も職を免じられて拝謁をとめられた件の原因(もと)ですが、どの記録にも記載されておりませぬ。お役に立てず、こころ苦しいかぎりです」
「ご奉行としての、ご推量はかないませぬか?」
長谷川組頭どのこそ、正しいご推察をなさるでしょう」

銕三郎が報告すると、宣雄は、
「そうか。むつかしいことになってしまったの。16日のご馳走が喉をとおらぬわ」
考えこんでしまった。

山本、六郷両家の出仕停止は、2ヶ月におよんでいたことは、長谷川主馬安卿が推量の手がかりにと、つけ加えてくれたが、銕三郎には見当もつかなかった。

当時の西丸の主は家治で、20歳であった。
前年末、閑院宮直仁親王のむすめ五十宮を正室に迎えていたが、新番頭格であった2人の咎(とが)と、この西丸の大奥の慶事とは関係はあるまい。
五十宮の女官として随伴してきた阿品局(おしなのつぼね)に手をつけて、男子・貞次郎を産ませたのは、むしろ家治であった。

あるいは、4日前の9月14日に家事不行き届きの科(とが)で西城側申次を罷免になった戸田土佐守忠胤(ただたね 47歳 7000石)にかかわりがあるのではなかろうか。

もっとも、山本豊前、六郷下野の分別ざかりの年齢---46歳、50歳と、出仕遠慮2ヶ月をあわせて考えると、宣雄の推理---戸田邸での下僕たちの賭博が原因かもしれない。

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(DNAは、正胤が養子にきたことで変じているはずだが、隔世遺伝か、それとも、女性のほうがDNAを伝える確立が高いのか)

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(一門の者賭博が明らかかになると、出仕停止ではすまない。流島である。下僕のそれだとこの程度かも。しかし、新番頭に準ずる者2家というのが、どうにものみこめない。番士の賭博の不正であろうか)

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