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2009年2月の記事

2009.02.28

銕三郎、ニ番勝負(3)

東軍流の斉藤道場は、和泉橋の北詰から2丁とない、神田松永町にあった。
松永町からさらに1丁も北行すると、新妻・久栄(ひさえ 17歳)の実家の大橋与惣兵衛親英ちかふさ 56歳 300俵 西丸・新番与頭(くみがしら))の居宅である。

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(緑○=神田松永町の斉藤道場 和泉橋通り)

久栄長谷川家の嫁となる前は、おまさ(13歳)の手習いをみてやっていたあとの久栄を、和泉橋とおりの大橋家まで、よく送り、途中の竪川や神田川の川岸の並木にもたれて、口を吸いあったものである。

迎えてくれた斉藤五郎左衛門兼継(かねつぐ 68歳)は、細身の体形で、総髪は真っ白であったが、さすがに眼光はおとろえていなかった。
高杉銀平ぎんぺい 63歳)師より3つか4つ齢上に見える。
高杉さんはお達者かな」
さすがに声は枯れているが、よくとおった。
「はい。斉藤先生にくれぐれもよろしゅうお伝えするようにと、仰せつかりました」

高杉さんと試合ったのは、もう30年以上も前のことだ」
「うかがったことはございませぬが---」
形原(かたはら 松平)紀伊守(信岑 のぶみね 42歳=当時 奏者番 5万石)侯が、まだ丹波笹山藩主のころで、な」

東軍流の同門で、篠山藩の師範をしていた川崎源助の口ききで、鍛冶橋内の上屋敷・内庭で、他流の遣い手との御前試合がおこなわれた。
斉藤勝継の相手は一刀流の高杉銀平で、双方が構えた瞬間に、斉藤は小手をとられていた。

「むしろ、ここちよい負けであったのですよ。いや、昔ばなしをしていても、せんない。高杉さんからの文面によると、備前・岡山の浪人が遣っているのが東軍無敵流とか---」
「拙が聞きましたのは、東軍流ということでございましたが、わが師が、備前・岡山の浪人ならば、東軍無敵流であろうと申されまして---」
「そこまでご推察とは、さすがに高杉さん。もちろん、入江姓を名乗って東軍流を伝える者もおることはおり申す。その浪人者の姓は、なんと?」
「それが、〔殿との)さま〕栄五郎としか---」
「ふざけた〔呼び名〕を使う仁じゃな。東軍無敵流の教えているのは坂口八郎右衛門(はちろうえもん)といったが---」

斉藤五郎左衛門によると、東軍流がどちらかというと正攻法の剣術なのに対し、それから別かれた坂口八郎右衛門は独自に槍術と居合を加えたと。
まさか、江戸の町中で槍を遣うわけにはいくまいから、
「その、栄五郎とやらが遣うとすれば、居合ではなかろうかのう」

居合なら、高杉師から仕込まれてもいるし、道場の食客・小野田治平(じへい 40歳前)からも、かなり教わっている。

ちゅうすけ注】小野田治平は、武蔵国多摩郡(たまこおり)布田(ふだ)五ヶ宿の郷士の3男で、不伝流の居合術の秘伝を銕三郎(てつさぶろう 24歳)や岸井左馬之助(さまのすけ 24歳)に教えたと、『鬼平犯科帳』巻7[あきらめきれずに]にある。
布田五ヶ宿は、掏摸(すり)の〔からす山〕の寅松(とらまつ 18歳)が住まいから1里20丁(6km強)ばかり府中寄りである。
(そういえば、寅松銕三郎久栄の婚儀に借り衣装の紋付袴でかけつけてきたことを書きわすれていたなあ)

出村町の道場へ戻り、斉藤五郎左衛門の言葉を伝えると、高杉師は、さっそくに小野田治平を呼んで、居合のはずし方を銕三郎へ伝授するように頼んでくれた。


参照】2009年2月26日~[銕三郎、二番勝負] () () 
2008年12月21日~[銕三郎、一番勝負] () () () () (

参考】2009年2月17日~[隣家・松田彦兵衛貞居] () () () () () () () () 

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2009.02.27

銕三郎、ニ番勝負(2)

(てっ)つぁんの旦那。〔蓑火みのひ)〕一味のおおかたは、あきらめて〔蕨屋〕を引きはらったようでやす」
相模さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 34歳)が鼻をうごめかして、銕三郎(てつさぶろう 24歳)に告げた。

銕三郎小浪(こなみ 30歳)へ、月番少老(わかどしより)・加納摂津守久周(ひさのり 60歳 伊勢・八田藩主 1万石)が、先手組はじめ番方(武官系)へ市中見廻りを命じたことを教えた3日目である。

[〔うさぎ人(にん)・小浪] (1) (2) (3) (4) (5) (8) (7)

伊勢屋への押しいることを、とりあえず見合わせた〔蓑火〕の喜之助(きのすけ 47)一味が江戸での盗人宿とおもえる南本所の商人旅籠〔蕨屋〕から姿を消した---と告げているのである。
「でもね、旦那。〔殿との)さま栄五郎(えいごろう)って浪人者は、まだ腰をすえてやがるみてえですぜ」
「ほう。今度は、なにをたくらんでいるのかな」
「何者でやす?」
備州・岡山の浪人---と教えると、
「そういやあ、そんな奴が軍者(ぐんしゃ 軍師)としてへえったって、聞いたような気がしやす」

栄五郎が〔蓑火〕の喜之助知恵袋となったために、〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 30歳)が〔狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 49歳)へゆずられたという経緯(ゆくたて)は、彦十にはまだ話していなかった。
そこへ、仕込みが一段落した三次郎(さんじろう 19歳)が、板場から顔をだ゜し、冷や酒を彦十の前に置いた。
「おっ。(さぶ)公、気がきくようになったでねえか。ごっつおさんだぜ」

彦十の裏長屋は、〔五鉄〕の脇の二ッ目ノ橋を南へわたっ右折、竪川ぞいに2丁ほど行った弁天社裏である。
〔蕨屋〕は川をはさんだ北側---相生町1丁目にあった。
どの。一息ついたら、見張りをたのみます」
「合点。まかしておいておくんなさい」

銕三郎は、両国橋をわたり、蔵前通りから三好町の〔小浪〕へ急いだ。
女将の小浪は、浅草一帯の香具師の元締・〔木賊(とくさ)〕の林造(りんぞう 60歳)に、御厩河岸の茶店を買わせていた。

蓑火〕の小頭・〔尻毛しりげ)〕の長助(ちょうすけ 27歳)たちが〔蕨屋〕を引きはらったことをたしかめると、小浪が声をひそめて、
「東軍流とかの遣い手の栄五郎って浪人者が、まだ残っているんですよ。長谷川さまに訊きたいことがあるらしいのです。お気をおつけになってください」
「訊くって、刀で訊くのですかな」
「どうも、そうらしゅうございます」
「ご忠告、かたじけなく---」

翌日、高杉銀平ぎんぺい 63歳)師の前に、銕三郎がいた。
「先生。東軍流の秘太刀をご存じでしょうか?」
「どうしたのだ?」

師の問いかけに、備州・岡山の浪人と、近々、決闘することになりそうだと、〔蓑火〕一味との経緯を打ち明けた。
「岡山の浪人なら、東軍流も坂口某が流祖の、東軍無敵流を修行している者かもしれぬぞ」
「無敵流といいますと---?」
「いや。わしもよくは知らぬ」
高杉師はそう言い、添え状をしたためてやるから、御徒町に東軍流の道場をかまえている斉藤五郎左衛門どのに会って教えを乞うてみるがよい、とすすめられた。

参照】『剣客商売』文庫巻7[決闘・高田の馬場]に、東軍流の道場主・斉藤五郎左衛門が試合の審判として出ているので、名を借りた。
岡山の東軍無敵流の始祖は坂口八郎右衛門勝清である(綿谷 雪・山田忠史『武芸流派大事典』)

【参照】2009年2月26日~[銕三郎、二番勝負] (
2008年12月21日~[銕三郎、一番勝負] () () () () (


参考】2009年2月17日~[隣家・松田彦兵衛貞居] () () () () () () () () 

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2009.02.26

銕三郎、二番勝負

日暮れ前に銕三郎(てつさぶろう 24歳)は、〔相模(さがみ)〕の彦十を、料亭〔片蔵屋〕の玄関隣の部屋に呼んだ。
部屋の向かいは、幕府の米蔵の一番倉の壁で、〔片蔵屋〕の屋号のゆえんである。

路地をはさんで、左は舟着き場茶店〔小浪〕。
つまり、左を見張っていれば゜、〔小浪〕に出入りする人が見張れる。
話は、火盗改メ方の松田組の筆頭与力・土方万之助(まんのすけ 50歳)から〔片蔵屋〕へこっそりと通してもらった。

_100そうしておいて銕三郎は、何食わぬ顔で〔小浪〕へ入っていった。(歌麿 小浪のイメージ)
女将の小浪(こなみ 30歳)に目くばせをし、席につく。
茶を運んできた小浪に、ささやいた。
「大事な話があるからと、〔木賊(とくさ)}のところの小頭・今助(いますけ 22歳)どのへ、使いをだしていただきたい」
合点した小浪が、下働きの老爺やへ言いつけ、小女には、店を閉めるように命じた。

「拙は、他用があるので、今助どのを待つけにはゆきませぬ」
銕三郎は、今助自身で、〔蓑火(みのひ)〕一味の小頭の一人・〔尻毛(しりげ)〕の長助(ちょうすけ 27歳)へ、伝えてほしい。
蓑火〕と名書きをした投げ文により、火盗改メの組だけでなく、先手の非番の10組、両番(書院番、小姓組)の非番の20組に、これから2ヶ月のあいだ、夜廻りの達しがでたと、父・平蔵から聞いた。
もし、〔蓑火〕一味がこの2ヶ月のあいだに仕事(つとめ)を予定しているなら、かならずといっていいほど網にかかるはずだから、見合わせたほうがいい。
「浅草諏訪の紙問屋の〔伊勢屋〕へ投げ文したのは、〔蓑火〕を騙(かた)った偽者とおもうが---」

そう言いおいて、銕三郎は、とも綱を解いたばかりの渡し舟に飛び乗り、対岸・石原橋の舟着きから四ッ目の〔盗人酒場〕へ直行した。

非番の先手組や書院番などの番方(武官系)に、火盗改メの補助をするようにとの達しは、このときにかぎらず、しょっちゅう下されていることは、『徳川実紀』にも記録されている。
このことを、徳川幕府の役職解説の諸書はほとんど抜かしている。

もちろん、実際の達しは、月番少老(若年寄)の加納遠江守久堅(ひさかた 60歳 伊勢・八田藩主 1万石)の名で出た。
ついでに記しておくと、加納家吉宗の左腕として紀州藩から幕府入りし、久堅は2代目である。
のちに、死の床にあった平蔵宣以(のぶため)に、将軍・家斉(いえなり)が見舞いとして下賜した、大陸渡来の 高貴秘薬瓊玉膏(けいぎょくこう)をあずかったのが、養子で3代目の久周(ひさのり)である。

参照】2006年6月25日[寛政7年(1795)5月6日の長谷川家

小半刻(こはんとき 1時間)かそこらで、彦十が入ってきた。
隅っこの飯台から、銕三郎が手をふる。
腰をおろした彦十が、すぐに飯台ごしに身をのりだし、耳元でささやいた。
「おどろきましたぜ。今助ってんでやすか、あの若え者(の)。富士見の渡しで横網町飛び地へ着き、あっしの寝ぐらの川向こう、相生町1丁目の商人宿〔蕨屋〕へへえったとおもいなせえ」
「うむ。おもった」
「それっきりでさあ」
「でかした、どの。大手柄だ。ま、呑んでくれ。ついでに、あすから3日ほど、〔蕨屋〕を見張ってほしい、と頼みたいところだが、命が危ない。これは、左馬(さま 24歳 岸井左馬之助)に頼もう」
「さいですか。命がけだと、ねえ---」
彦十は、おまさ(13歳)が気をきかせて、とりあえず運んできた冷や酒に、もう、目がなかった。


参照】2008年12月21日~[銕三郎、一番勝負] () () () () (

参考】2009年2月17日~[隣家・松田彦兵衛貞居] () () () () () () () () 

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2009.02.25

隣家・松田彦兵衛貞居(9)

「3夜つづきで、〔伊勢屋〕という屋号の店ばかりに警告予告を投げ入れた真意は?}
銕三郎(てつさぶろう 24歳)がつぶやいた。

火盗改メ方の本役の役宅、隣家・松田彦兵衛貞居(さだすえ 62歳 1150石)の組の筆頭与力・土方万之助(まんのすけ 50歳)から示された投げ文をおもいだしてみたのである。

押し入る---と告げられた店は、
23日が、浅草諏訪町の紙問屋・伊勢屋伝兵衛方。
24日が、本郷2丁目の結納物所・伊勢屋市兵衛方
25日が、上野新黒門町の乾物問屋・伊勢屋善兵衛方

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(それぞれ実在した店だが、池波さんに習い1字変えてある。
ご子孫が現存なさっていては失礼だから。『江戸買物独案内〕)

ところも、
・浅草諏訪町
・本郷2丁目
・上野新黒門町
と、ばらばらなら、業種も、
・紙問屋
・結納物所
・乾物問屋
と、こちらもつながりが匂わない。

共通しているのは、〔伊勢屋〕という屋号のみである。
とはいえ、
 江戸名物 伊勢屋 稲荷に 犬の糞
との「い」の字づくし川柳がからかっているように、〔伊勢屋〕を名乗っている商店は、江戸にはそれこそ、1町内に2,3軒ではきかない。
808町だと、2,424店。まあ、名ざされた大店(おおだな)だけでも300軒はくだるまい。

ちゅうすけ注】余談だが、20年以上も前、ちゅうすけは3年ほどかけて、朝のさんぽをかね、23区内の稲荷社を探索したことがあった。2000社ほどをリスト化して専用ワープロに打ち込んだ。このうち、1000社は、江戸時代からつづいて鎮座しているものであった。もちろん、武家屋敷内にあって維新後、町内に寄進されたり、屋敷地を買った家に引き継がれたものも少なくなかった。

手元の紙に、あらためて、
・浅草諏訪町
・本郷2丁目
・上野新黒門町
と記し、江戸の大地図と見くらべた。

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(文政大江戸図・部分 山下和正『地図で読む江戸時代』より
青〇は上から本郷2丁目、新黒門町、諏訪町)

「おかしい」
火事の多い冬場の助役(すけやく)がいるときの火盗改メ本役の管轄範囲は、日本橋から北になる。
しかし、いまは晩夏だから、日本橋以南を警備担当する助役は発令されていない。

ちゅうすけ注】この年(明和6年)、火盗改メの助役・菅沼摂津守虎常(とらつね 55歳 700石 先手・弓の4番手組頭)が任についたのは9月25日であった。

ところが、予告された3店は、日本橋川の北に、たて1列に並んでいる。
ということは、地図上で任意に選んだとしかおもえない。

「ねらいは---?」
目くらましだとすると、なんのために?

反対方向---日本橋から南の地区、日本橋通りか、京橋、銀座の店に押しこむつもりではないのか。
それにしても、的がひろすぎる。
もうすこし、的をしぼることはできないのか。
それも、この2、3日のうちに。

三好町の茶店{小浪〕を見張ったとして、さて、都合よく〔尻毛しりげ)〕の長吉(ちょうきち 27歳 のちの長右衛門)や〔駒屋こまや)〕の万吉(まんきち 35歳前後)があらわれるか。

あらわれたとして、狙う店へ連絡(つなぎ)に行くか?

〔小浪〕を昼夜見張るには、4、5人必要だが、そんな手くばりはとてもできない。
高杉道場へ稽古へきいるのは旗本の子弟がほとんどだから、尾行などには馴れていない。
居酒屋〔須賀〕の〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち)には夜の店がある。
さしあたりは、彦十(ひこじゅう)一人だが---。

(みみ)より〕の紋次(もんじ 26歳)を使う手はどうだ。

「これから10日のあいだの夜。
火盗改メが捕り物を演じる
---網を張っているのは日本橋のまわり---
先手組、書院番組、御小姓組も手ぐすね」

といった内容の読み売りを刷らせるのはどうか?
あるいは---

「〔伊勢屋〕を狙う盗賊〔蓑火〕一味
 300軒の〔伊勢屋〕まわりに
先手組、書院番組、御小姓組が一斉に張り込み」

いや、だめだ。
賊たちは、紋次を生かしてはおくまい。


参考】2009年2月17日~[隣家・松田彦兵衛貞居] () () () () () () () (


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2009.02.24

隣家・松田彦兵衛貞居(8)

しかし、〔尻毛(しりげ)〕の長吉(ちょうきち 27歳)にしても、女将・小浪(こなみ 30歳)にしても、なんというあけっぴろげな応対であろう。
策をこころに秘めている銕三郎(てつさぶろう 24歳)は恥ずかしくなった。

武家同士では、このように腹から相手に打ち解けることはない。
失点をしないか、どこかで足をすくわれるのではないか、裏を読むことに気をつかっている。

こんどの件を依頼してきた、隣家の松田組の土方万之助 まんのすけ 50歳)筆頭与力でしてもそうだ。
(拙に頼んだことを、組頭の松田彦兵衛貞居(さだすえ 62歳 1150石)どのに報告しているかどうか、わかったものではない)
うまくゆけば自分の手柄にし、まずければ他人のせいにしてしまう。

まずかったら、町人は体面にこだわることなく、すっぱりと謝るだろう。

町人---そういえば、これまで躰のかかわりができた4人の女性たち---14歳のときの三島宿のお芙沙(ふさ 25歳前後-当時)、芦ノ湯小町で縁切り前だった人妻の阿記(あき 21歳=当時)、盗賊に囲われていたお(しず 18歳=当時)、雑司ヶ谷の料理茶店の座敷女中だったお(なか 34歳=当時)---みんな、自分の意思で肌をあわせた。

参照】2007年7月17日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)]
2007年12月31日~[与詩(よし)を迎えに] (11) (12) (13) (14) (15) (41)
2008年6月2日~[お静という女](1) (2) (3) (4)
2008年8月6日~[〔梅川〕の女中・お松] (6) (7)


まてよ。武家のむすめ・久栄(ひさえ 17歳)も、婚儀の前に処女のしるしをくれると言った。
そういえば、父上・平蔵宣雄(のぶお 26歳)を誘って、知行地・上総国武射郡(むしゃこおり)寺崎村(現・千葉県山武市寺崎)の庄屋のむすめであった母上・(たえ 20歳)が、拙を身ごもったが、母上も元はといえば、里人。

いや、そういえば、父上だって、部屋住みが産ませた、また部屋住みの、2重の厄介者だったではないか。
(つまり、拙には里人の血と、厄介者の濃い血が流れているということなんだ。気ばることなんか。ありはしない)

しかし、こんどの〔蓑火みのひ)〕一味の件は、先方から---というより、〔殿(との)さま〕栄五郎と称する浪人から、知恵くらべの挑戦状をつきつけられたようなものなのだ。
武士の格式のどうのこうの話ではない。
受けて立たなければ、男が廃(すた)る---と、力むことはないが、知恵くらべ、やってやろではないか。

銕三郎は屋敷へ戻ると、久栄(ひさえ 17歳)に、ちょっと母屋へ行って、与詩(よし 12歳)と世間話でもしていてくれ、と言い、父ゆずりの『孫子』をぱらぱらとめくった。

最初に目に入ったのが、[虚実篇]---

  先んじて戦地に処(お)りて敵を待つ者は佚(い)っし、
  後(おく)れて戦地へに処(よ)りて戦いに趨(はし)る者は労す。
  善く戦う者は、人を致すも人に致されず。

「遅れて---のう」

参照】2008年10月1日~[『孫子 用閒篇』] (1) (2) (3)

つまり、投げ文の日付は、遅らすためのものなのだ。
前々日か、前夜に、油断をみすまして押し入るということか。

どこへ?

しかし、間にあうか?


参考】2009年2月17日~[隣家・松田彦兵衛貞居] () () () () () () () 


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2009.02.23

隣家・松田彦兵衛貞居(7)

高杉道場からの帰り、銕三郎(てつさぶろう 24歳)は、かねておもいついていた、御厩河岸・船着き前の茶店〔小浪〕へ出かけた。

石原橋の乗り場の渡し舟で、まっすぐに御厩河岸へ着く。

まだ七ッ半(午後5時)をすぎたばかりで、大川は陽を照り返して、白波がひかっいてるというのに、厚化粧で小じわをかくした辻君が3人も同舟していた。
(生活がかかっているのだ)
武士は渡し賃がただ、というのことさえ気がひけた。

_100
女将・小浪(こなみ 30歳)には、さすがに目尻にすずめの足跡さえない。
苦労の質がちがうらしい。(歌麿 小浪のイメージ)

参照】2008年10月23日~[〔うさぎ人(にん)・小浪] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7)

案の定、かねて顔なじみの〔尻毛しりげ)〕の長吉(ちょうきち 27歳 のちに独立して長右衛門)がきていた。
蓑火みのひ)〕の喜之助(きのすけ 47歳)のところの小頭(こがしら)の一人である。
もう一人の30歳半ばらしい新しい顔を、長吉が、
「〔駒屋こまや)〕の万吉(まんきち)っつぁんでやす」
と紹介した。
万吉は、どこかの大店の番頭といってもとおりそうな温和な顔つきで、きわめて地味なものを着ていた。
「お初にお目にかかります。上州生まれの万吉と申す田舎者でございます。長吉どん同様によろしゅうお願い申します」
あいさつぶりも、馬鹿丁寧で念がいっている。

ちゅうすけ注】〔蓑火〕一味の〔駒屋万吉は、『鬼平犯科帳』巻14[尻毛の長右衛門]p73  新装版p75に、喜之助がたっぷりたした退き金(ひきがね)で、生まれ故郷上州・妙義山の麓で旅籠をいとなんでいるとある。
蓑火〕は、商人旅籠をあちこちに持って情報源としていたから、のち、その一つをまかされて仕法を身につけたのであろう。

これだけの幹部級が江戸に来ているということは、投げ文の予告も虚言ではあるまい---銕三郎は腹の中でそうおもいながら、軍者(ぐんしゃ 軍師)が代わり、新たに浪人〔殿とのさま栄五郎が加わったことに注目していた。

長吉どの。〔蓑火〕どのも江戸へくだってきておいでですか?」
長吉は、ちらっと万吉を気にしながら、
長谷川さまのお隣が、火盗改メの任にお就きになったそうですな」
「そのようですが、拙とはかかかりはありませぬ」

小浪が、お茶を給仕しながら、
「〔尻毛〕のお人はん。長谷川はんは、つい、せんまで、花嫁ご寮はんと、〔狐火きつねび)〕のお頭がお持ちの寺嶋のお家で、あまぁい毎日をすごしていやはりましたんどすえ」
「それは存じませんで、失礼いたしやした。いずれ、お頭と相談して、お祝いを---」
「いや、お置きください。寺嶋村の家の件も、お(りょう 30歳)どのがたってと勇五郎どのにおすすめになったので、つい、甘えてしまったようなものなのです」

小浪が、すごい流し目くれて、
長谷川の若はん。せっかくの初めての夜が、温泉の宿でのうて、花嫁ご寮はんも、うらめしゅうおもうてはりましたんとちがいますか」
「おすすめの、木更津往還の船旅ができなくて、こころ残りでした」
銕三郎も、軽く受けながす。

たしかに、寺嶋村での初夜の久栄は、なにかを気にしているふうであった。
しかし7日目あたりから、ほのぐらい湯場での肌あわせもすすんで愉しむようになっていた。

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(梅里 湯場でのたわむれ イメージ)

(いかん。いまは〔蓑火〕に集中し、栄五郎のやり口の手がかりなとつかまねば---)
「掛川城下で聞かせてもらいましたが、おどのの信玄流の軍学には、心をすっかりうばわれましたよ」
長助が乗ってきた。
「おや、お姐(あね)さんはいま掛川にお住まいですか。狙いどころに、内通者をつくる姐さんの腕もすごかったなあ。でも、もっとすごい術(て)が---」
長吉どん」
万吉が袖をひいた。
気づいた長吉が口をとざす。

(もっとすごい術(て)だと?)


参考】2009年2月17日~[隣家・松田彦兵衛貞居] () () () () () () () 

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2009.02.22

隣家・松田彦兵衛貞居(6)

--ぜひ、お助力をいただきたい。
隣家の火盗改メ・松田彦兵衛貞居(さだすえ 62歳 1150石)の筆頭与力・土方万之助(まんのすけ 50歳)からの使いとして、同心見習・友田由里之進(ゆりのしん 20歳)が長谷川家の玄関に立った。

秋口に入ったというのに、昼間はまだ暑いので、水浴びのあと浴衣がけで新妻・久栄(ひさえ 17歳)の膝を枕に耳掃除をさせていた銕三郎(てつさぶろう 24歳)は、老下僕(ろうげぼく)の太作(たさく 62歳)に、あとで伺うと言わせたが、友田見習は、杓子定規に納得しない。
「同道ねがいたい」
式台の前で粘っているという。

着替えて内庭から玄関にまわってみると、友田見習があまりに初々しいので、
「お待たせしました。ところで、友田どのは、いつからご出仕で?」
「おととい---からでございます」
まる顔の頬を紅潮させて答える。

隣家の与力詰め部屋では、土方筆頭が待ちかねていた。
「かような投げ文がありましてな」
3枚の紙片を、さも危険なものをわたすように、さしだした。
「23日の九ッ半(深夜1時)に参上。 蓑火」
「24日の九ッ半(深夜1時)に参上。 蓑火」
「25日の九ッ半(深夜1時)に参上。 蓑火」
1日ずつずらして、達筆でしたためられていた。

土方筆頭によると、
23日づけのは、浅草諏訪町の紙問屋・伊勢屋伝兵衛方。
24日づけのは、本郷2丁目の結納物所・伊勢屋市兵衛方
25日づれのは、上野新黒門町の乾物問屋・伊勢屋善兵衛方
へ、それぞれ投げこまれていたという。

「23日といいますと、あと7日後ですが---」
「いたずらでござろうか?」
「いや。そうではないでしょう。〔蓑火みのひ)〕という盗賊の一味の名は、聞いたことがあります。たしか、前の前の火盗改メ方・本多采女紀品(のりただ 56歳 2000石)がご本役のときに、神田鍋町の海苔問屋〔旭耀軒・岩槻屋〕へ押し入った賊が〔蓑火〕であったやに聞いております」

参照】2008年8月29日~[〔蓑火(みのひ)〕のお頭]  (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)
2008年10月24日[うさぎ人(にん)]・小浪 (2)

「明日にでも、本多どののところへ人をやってたしかめさせよう」
「それがよろしゅうございます。 小村筆頭与力(彦次郎 ひこじろう 53歳)どのが一件をご存じです」

「だれかが〔岩槻屋〕の一件から、〔蓑火〕の名をかたったとか---}
「いえ。〔岩槻屋〕の件が〔蓑火〕一味の仕業らしいということは、本多組の外には洩れていないはずです」
(あぶない、あぶない。拙が〔蓑火〕一味としったのは、別の筋からであった)

「それにしても、なんのために予告をしてきたのか?」
松田組の衆との知恵くらべのつもりかも」
「知恵くらべ---こしゃくな」
「まことに」
神妙らしく言ったが、銕三郎は、腹では笑っている。

投げ文のこの達筆は、〔中畑(なかばたけ)〕のお(りゅう)に代わって〔蓑火〕一味の軍者(ぐんしゃ 軍師)となった備前・岡山の浪人・〔殿(との)さま栄五郎とやらの手筋であろうか。

「はかりかねていることがあるのでござる」
「なにでしょう?」
「日付だが、23日当夜か、暦が変わって翌24日になったばかりの九ッ半か?」
「2晩とも、こちらに警備させるための目くらましということも---」
「さすれば、24日は、諏訪町と本郷の2店に出張ることになる---」
(3店とも、本役の秋口からの縄ばりを指定してきている。これは、助役(すけやく)組も日本橋から北へ出張らせるための策かもな。したが、いまはまだ、助役は発令されていないはず---)
銕三郎は意見を述べなかった。

ちゅうすけ注】この年、火盗改メ・助役に、菅沼主膳正虎常(とらつね 55歳 700石)が発令されたのは、(旧暦)9月25日であった)

「いや、蓑火が賊の名と知れただけでも、ご足労願った甲斐があったというもの。今後とも、ご存じのことは、お明しのほどを---」
(まるで、拙が盗賊一味とつながりでもあるような口ぶりではないか。失礼な---)


参考】2009年2月17日~[隣家・松田彦兵衛貞居] () () () () () () () 

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2009.02.21

隣家・松田彦兵衛貞居(5)

「父上。ご高察いただきたきことがございます」
銕三郎(てつさぶろう 24歳)が、父・平蔵宣雄(のぶお 51歳)に進言した。
「なにかの?」
宣雄は、番方(武官系)の最上位格ともいえる、先手・弓の8番手の組頭に、4年前から就いている。
8番手は、与力5騎、同心30人。
組屋敷は、市ヶ谷本村町---尾張藩の広大な藩邸の向かいである。

「父上が、火盗改メに任じられますと、三ノ橋通りのこの屋敷が役宅となります」
「組頭の家が役宅となるのは、とうぜんのことじゃ」
「組の人たちは、ここへ通うことになります」
「あたりまえじゃ。なにが言いたい?」

隣家の火盗改メのお頭・松田彦兵衛貞居(さだすえ 62歳 1150 鉄砲(つつ)の2番手・組頭)のところで新妻・久栄(ひさえ 17歳)が訊いてきたところでは、組屋敷から遠いために、雨の日などはことのほか病欠者が多いことを延べ、
「父上の組の組屋敷からここまで、片道だけで1万232歩、1里と20丁(約6km強)あります」
「測ったのか?」
「はい」

1里20丁といえば、日本橋から品川宿の手前の高輪あたり。
中山道だと板橋宿の手前の巣鴨庚申塚あたり。
甲州街道なら、四谷の先、新宿の手前。

「大儀であったな。それで?」
「父上が火盗改メを拝領されましたときには、組の者が全員がそろってここへ通ってこなくていいように、組屋敷から2,30丁のあちこちに支所を設けておけば、欠勤する者はあるまいと愚考いたしました」

「支所---辻番所を借りるわけにはいくまい」
「寺に話をつけるのです。寺なら、いたるところにあります」
「ふーむ。しかし、わが組は、与力が5騎---ふつうの組の半分じゃ」
「隣家の松田どのの組も5騎です」
「それはそのとおりじゃが---」
「同心衆は、ほかの組同様、30名おります。しかも、火盗改メに下命されると、ご家人衆から10名ほどは補充できると聞いております。ご高察いただきたいのは、そこ、でございます。いまから父上の組の同心衆の中から、4、5人、与力なみの仕事ができる者を練成して、支所の与頭(くみがしら)心得に仕立てるのです」

「言うはたやすいが、俸禄が同じままでは、納得すまい」
「いえ。人間は、俸禄だけで動くとはかぎりませぬ。まかしてやれば、肩書で働く者もおりましょう」
「かんがえておこう。ご苦労であった」

宣雄が火盗改メに任じられたのは、このときから2年後の明和8年(1771)10月17日であった。
このときの発令は、助役(すけやく)で、本役には中野監物清方(きよかた 49歳 300石)がいた。

銕三郎の案は、このときには採用されなかったが、中野清方が任期中に病没したので、宣雄がそのまま本役によこすべりしたときに用いられて大手柄につながったが、これは、これから3年先の話である。

参照】2007年9月13日[『よしの冊子』] (12

参考】2009年2月17日~[隣家・松田彦兵衛貞居] () () () () () () () 

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2009.02.20

隣家・松田彦兵衛貞居(4)

「1万と飛んで219、1万と220---231---1万と飛んで232歩」
声をだして銕三郎(てつさぶろう 24歳)は、自宅の門にの前で、ぴたりと両足をそろえて止まった。
(うむ。1里とほぼ20丁(約6.3km強---1刻(とき 2時間)に小半刻(こはんとき 30分)ほど欠ける)

父・宣雄が組頭をしている市ヶ谷本村町の先手・弓の8番手の組屋敷の門前ら、南本所・三ッ目の自邸までの距離を、自分の足で測ったである。
10,232歩---ふだんから、1歩を2尺(60cm)にきめていた。
もっとも、〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 30歳)と掛川城下から相良まで旅をしたときは、歩幅を4割方落としたし、いまも、久栄(ひさえ 17歳)とつれだって歩くときもそうしている。

父が火盗改メを下命されたときの、組下たちの通勤距離をしるための計測であった。

若夫婦の起居の場となっている離れへ入ると、久栄が待ちかまえていて話そうとした。
「お隣りの於千華(ちか 34歳)さまにお訊きしたところによりますと---」
「待て。汗まみれだから、井戸で水を浴びてくる」
久栄は、犬がおあずけを命じられたときのような、うらめしげな目つきをしたが、すぐに新しい下帯をわたし、
「先刻、太作(たさく 62歳 下僕)が湯殿(ゆどの)に水を張はっておりました。あちらになさりませ。お召しものも運んでおきます」
「いっしょに、どうだ?」
「まだ、陽が高うございます」
「寺嶋村の家では、日中でも、いっしょに浴びたではないか」
「ここでは義母(はは)上や、下の者の目がございます。お置きください」
久栄のちっちゃな乳首が恋しゅうての---」
「夜までおあずけでございます。う、ふふふ」
「はっ、ははは」

隣家・松田彦兵衛貞居(さだすえ 62歳 1150石)---が組頭に就いている、先手・鉄砲(つつ)の2番手の組屋敷は、神楽坂上の先、酒井修理大夫忠貫(ただつら 22歳 小浜藩主 10万3500石)侯の藩邸を囲んでいる矢來(やらい)下である。
そこから役宅となっている松田邸までと、市ヶ谷本村町から長谷川邸までの距離は、ほとんど差がない。

「やはり、毎日お通いになるのは、きついらしく、雨降りの日などは、お休みをおとりなさる同心の方が少なくないとおっしゃっていました」
久栄が、隣家の奥方・於千華から訊きだしてきた実情に、銕三郎は、きょうの歩数(ほかず)調べを思いつき、この往復は難儀であろうと推量した。
「雨が降ったからといって、盗賊は休まないし、賭場も閉じない」
舌うちをした。

父・宣雄が火盗改メを拝命したら、勤務を1(宿)直2日制にすれば、1往復省けるから、欠勤者も減るであろうと、銕三郎はかんがえた。
それには、宿直(とのい)の部屋を増設しておいたほうがいい。
(それと、食事の炊き出し設備だな。暑い時期に3、4食の手弁当だといたみやすい。宿直番には、晩、翌朝、昼飯をだしてやれば、よろこばれよう)。

ちゅうすけ注】銕三郎は、自分が先手組頭になるときは、弓の8番手を引き継ぐつもりでいる。たしかに、そういう例は多い。現に、辰蔵(のちの山城守宣教 のぶのり)は、弓の8番手の組頭になっている。
ところが、鬼平は、弓の2番手の組頭となった。これは、大伯父・太郎兵衛正直(まさなお)が移った組であった。
弓の2番手の組屋敷は、先日、銕三郎が〔傘山(かさやま)〕の弥兵衛のことで訪問した目白台であるから、1万232歩ではおさまらず、片道2万歩(8km)はゆうにある。
もっとも、池波さんもそのことには気づいたわけではなかろうが、役宅を清水門におき、組屋敷には四谷坂町をえらび、木村忠吾のような同心でも欠勤しないように配慮はした。


参考】2009年2月17日~[隣家・松田彦兵衛貞居] () () () () () () () 

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2009.02.19

隣家・松田彦兵衛貞居(3)

久栄(ひさえ 17歳)。お隣りの奥方・於千華(ちか)どののところへご機嫌うかがいに行くのは、この次はいつかな?」
ある朝、銕三郎(てつさぶろう 24歳)が、竹中志斉(しさい)師の学而(がくじ)塾へでかける支度をしながら、新妻・久栄(ひさえ 17歳)に訊いた。
「なにか?」
「うむ。松田彦兵衛貞居 さだすえ 62歳)どのの、先手・鉄砲(つつ)の2番手の組屋敷は、牛込・矢来(やらい)下の中里町のはずだ。その組屋敷からお隣りまで、往路に何時(なんとき)ほどかかっているか、それについて、組子たちはどうおもっておるか、さぐってきてもらいたい」

A_360
(鉄砲の2番手組屋敷 神楽坂上・小浜藩屋敷の矢来下)

聡明な久栄は、
「かしこまりました。きょうにでも、おとないを入れておきます」

先夜、舅(しゅうと)の先手・弓の8番手の組頭・平蔵宣雄(のぶお 51歳)に、そろそろ、火盗改メの下命がくだりそうだと告げてから、銕三郎はなにごとか思案しているふうで、寝間でも、ふっとひとり言を洩らすようになった。

昨夜も睦ごとのあと、うっとりと余韻にひたり、気をとりなおして下紙をまとめた久栄が手水(ちょうずに)に立つと、
「1刻(いっとき 2時間)かなあ」
とつぶやいた。
「え? 半刻(はんとき 1時間)ちょっとでしょ」
「いや、そのことではないのだ」
睦みあいの時間ではなかった。

それで、今朝の言葉で、舅の組の組屋敷・市ヶ谷本村町から三ッ目の長谷川邸までの通勤時間を暗算しているらしいとわかった。

火盗改メの役宅は、お頭の屋敷が兼用される。

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』では、池波さんは、火盗改メの役宅が清水門外と決めて、物語をすすめている。
じつは池波さんも、お頭の拝領屋敷が役宅を兼ねるしきたりであることは熟知していた。

鬼平犯科帳』の連載が始まる1年半前に、『小説新潮』に発表された短編[看板](のち、[白浪看板]と改題して角川文庫『にっぽん怪盗伝』に収録)。新潮文庫『谷中・首ふり坂』では[看板]のままで、「本所二ッ目にある火付盗賊改方頭領・長谷川平蔵の役宅]としている。

森下町の塾から、そのまま、外堀にそって市ヶ谷へ向かった。
弓の8番手の組屋敷は、尾張藩の広大な上屋敷下の道をはさんで向かい---四谷台地の南端下にある。
与力5騎、同心30人がひとつところに住まっている。

A_360_2
(弓の8番手組屋敷 尾張藩邸向かい 市ヶ谷本村町)

火盗改メに任じられていない先手組30組の日常の役目は、江戸城の内側にある、蓮池、平河口、梅林坂、紅葉山下、坂下の5門の交替警備である。
つまり、勤務場所が江戸城内だから、市ヶ谷本村町の組屋敷からは、市ヶ谷門を経由して約25丁たらず、小半刻(30分)もみておけば足りる。
しかも勤務は組ごとに交替だから、夜勤を入れても月のうち10日も通えばすむ。
しかし、お頭が火盗改メの下命をうけると、南本所三ッ目まで、ほとんど毎日通うことになる。

あと、先手組の任務はもう一つ、将軍が上野・東叡山や増上寺の廟へと参詣するときの寺域の警備があるが、年に幾度もあるわけではない。

梅雨前のきびしい陽ざしで、組屋敷に着いたころには、だいぶ汗ばんでいた。
午後の組屋敷のまん中の道には人けがなかった。
奥に遊び場でもあるのであろう、子どもたちの声がしている。
.
脇の井戸を借りて躰を拭こうと曲がったら、向こうから声をかけられた。
同心の雨宮三次郎(24歳 30俵3人扶持)であった。
組子たちの勤務場所は、先に記したとおりに江戸城内だが、宣雄が組頭に就いてから満4年になるし、なにかのときには屋敷へもきているので、面識がないわけではない。
とくに雨宮同心は、おない齢なので、会えば口をききあう仲であった。

「やあ、雨宮さん。非番ですか?」
「食あたりで、欠勤したのです。手前一人が欠けても、どうってことないのですよ。銕三郎どのこそ、何用ですか?」
「納戸町の叔父貴の家まで用事があって、つづいて一番町の大伯父の家へ行く途中、あまり汗がひどいので、躰を拭かせてもらおうとおもって---」

納戸町の長谷川久三郎正脩(まさひろ 59歳 4070余石 持筒頭)は、長谷川本筋の3家の中でももっとも高禄を食んでいる。
一番町新道の長谷川太郎兵衛正直(まさなお 61歳 1450余石 先手・弓の7番手組頭)は、本家の当主である。

銕三郎どの。新婚のご気分はいかがですか?」
「うむ。嫁となってしまうと、むすめ時分とはがらりと変わる。おんなは化け物よな」
「やはり---手前の思惑も似たりよったりでした」
雨宮さんは、何年目で?」
「4年目です。根がはえてます」
「はっ、ははは」
「あ、いけない。根が歩いてきました。では、失礼」


参考】2009年2月17日~[隣家・松田彦兵衛貞居] () () () () () () () 

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2009.02.18

隣家・松田彦兵衛貞居(2)

高杉道場での稽古を終えた銕三郎(てつさぶろう 24歳)が帰宅すると、待ちかまえていたように新妻の久栄(ひさえ 17歳)が、
「お隣りの松田(彦兵衛貞居 さだすえ 62歳)さまの於千華(ちか 34歳)さまとお話ししてきました」
於千華というと?」
「あら。新三郎(しんざぶろう 10歳)坊やのお母上さまでございますよ」
「あの甘ったれ坊主、新三郎というのか」
「お隣りの坊やのお名前もご存じじゃなかったのでございますか?」
「向こうは1150石を鼻にかけて、こちらの400石を見下しておるので、つきあいはほとんどなかった」

「でも、於千華さまのご実家・堀田頼母一興 かずおき 23年前歿=56歳) さまは5000石ですが、於千華さまはそんなことはわれ関せずで、いこうさばけたお方でございました」
「たしか、3人目の奥方ではなかったか?」
「そう、おっしゃっておりました。ご当主・彦兵衛殿さまが50歳のときに、23歳で嫁(とつ)がれたのだそうです」
「1人目の奥方も2番目の方も、わが家がここへ越してくる前に亡くなっており、そのお子たちも若くして逝かれていた。拙たちが越してきたとき、いま名前のでた新三郎とかいう坊は、ぴいぴい、よく泣いておった」

「お舅(しゅうと)どのがこちらへの地所をお求めになったのは5年前と、母上からうかがっておりますから、新三郎坊やは、当時、5歳---」
「そうなるかの。よその家のことにはかかりあわらない家風ゆえ、気にとめたこともなかったが---。ところで、なんといって伺ったのだ? 母上もご存じか?」
「このたび、隣りに嫁に参りました久栄と申します---とごあいさつをしたら、奥へ招かれました。もちろん、母上にはご了解をいただきました。母上は、ご自身は山家(やまが)そだちで口上もままならぬゆえ、よろしゅう辞を通してきてたもれ、とおっしゃって---」

久栄の口にかかったら、いかなる気むずかし屋でも、相手にならずばなるまい」
「ええ。お隣りのお殿さまは62歳におなりとかで、夜のことはすっかりご無沙汰らしく、於千華さまは、夜がむなしゅうてむなしゅうて---とお嘆きで、わたくしがうらやましい、と---」
「そんなことまで話しあったのか?」
「うちは毎夜だと申しあげました」
「おいおい、そのような内輪のことまで---」

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(清長 部分 久栄のイメージ)

「うち解けないと、火盗改メのお頭の奥向きとしてのこころがまえが訊けませぬ」
「なに?」
「お舅どのにご下命がくだるのは、目にみえていますから---」
「だれがそんなことを?」
「ご本家の太郎兵衛大伯父さまです」
「ふーむ。大伯父が、久栄にそんなことをお洩らしになったか---」
「わたくしが、よほどにのん気者にお見えになったのでございましょう」

「ところで、於千華どのと申されたか、隣家の奥方。なにゆえに、30も齢が違う松田どのへ嫁(か)されたのだろう?」
「脇腹の、しかも、あまりお勝手(家計)のよくないえお家の出の方であったそうで---その上、ご当主のお父上が亡くなられ、居ずらくなられたとか。そうそう、片方のおみ足がすこしお悪いこともあって、婚期が遅れていたとおっしゃっていました」

「火盗改メの内実を調べてくれるのはいいが、くれぐれも深入りをしないように。それと、いま話してくれたことを、父上にも母上にも、あまり話さないほうがいい」
「承りました」
久栄は、ちょろっと舌をだしてから、いたずらを見つかった子どものように微笑んだ。
銕三郎は、その頬を指でついて、
「こいつ」

夜。
久栄が言った。
「お隣りに広言したとおりのこと、はたしましょう、幾重にも---」

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(松田彦兵衛貞居の固人譜)


参考】2009年2月17日~[隣家・松田彦兵衛貞居] () () () () () () () 


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2009.02.17

隣家・松田彦兵衛貞居

寺島村での新婚の7夜を終えた銕三郎(てつさぶろう 24歳)と新妻の久栄(ひさえ17歳)が、三ッ目通りの長谷川邸へ戻ってみると、おどろくようなことがおきていた。

隣家・松田彦兵衛貞居(さだすえ 62歳 1150石)が、火盗改メ・本役についていたのである。
前任・長山百助直幡(なおはた 58歳 1350石)は、明和6年6月13日に本役を解かれて平常の先手・鉄砲(つつ)組の4番手としての任務に復し、同日づけで同じく鉄砲組の2番手の組頭・松田彦兵衛が火盗改メの重責を引き継いだ。

長山組の筆頭与力・佐々木与右衛門(よえもん 52歳)から、銕三郎のことを申しおくられていた松田組の筆頭与力・土方万之助(まんのすけ 50歳)が、銕三郎の帰館を待ちかまえていたように、使いをよこしてきた。

額ぎわから髷(まげ)をのせたあたりまですっかり陽にやけた頭をさげた土方与力は、
「わが組も与力が6人と手薄のうえ、30年このかた、このお役に就いておらんので、ほとんどの組子が未経験という始末。なにぶんにも、ご支援願いたい」
「隣家同士ですから、できるかぎりのお手伝いをこころがけますが---」
「お手当てのことはご心配なく---」
「それもありますが、拙はご公儀から任じられてはおりませぬゆえ、捕り物には加わるわけにはまいりませぬ。お含みおきくださいますよう」
「ごもっとも、ごもっとも」

銕三郎は組頭の松田自身が顔を見せないことに、いささかの危惧の念をいだいたが、とにかく、隣家ということで、助力することにして、父・平蔵宣雄(のぶお 51歳 先手・弓の8番手組頭)に報告した。
「隣家のことゆえ、頼まれれば 引きうけざるをえまい。したが、隣家ゆえ、失敗はゆるされないぞ。こころしてたずさわれ」

余計な風聞をたてるからそういうことになるのだ、と叱られるのを覚悟していた銕三郎は、予想に反したいましめの言葉に安堵した。

寝間で久栄に父の言葉を聞かせると、
「舅(しゅうと)どのは、そなたさまの性分をよくご存じなのでございますよ」
早くも、舅どの、そなたさまと、17歳の新妻らしくない、5年も8年も添いとげた古女房じみた言葉でうけられたので、銕三郎が唖然として、久栄の顔を見直した。
(女房になってしまうと、かくも変わり身があざやかになるものか)

が、抱いてみると、やはり新婚1ヵ月すぎの、幼稚な身応えしか示さない新妻であった。
もっとも、銕三郎も、初手から教えこむことはひかえている。
新夫婦のために離れが増築されたとはいえ、母屋へまで派手な睦み声がもれるのは、いくらになんでも早すぎよう。

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(嘉永4年の南本所・近江屋板より。赤○=遠山家下屋敷、青〇=松田家
遠山家は下屋敷として長谷川平蔵宣以の孫から購入 近江屋板)

_120ちゅうすけ注】滝川政次郎先生『長谷川平蔵 その生涯と人足寄場』(朝日選書 1982.1.20)に、

「平蔵にとって由緒の深い本所の屋敷は、本所二ッ目(ママ)のどこであるか、またその屋敷跡は現在どうなっているか。私はそれを突きとめたいと思って、その調査を京橋図書館の安藤菊二郎氏に依頼した。安藤氏は熱心に江戸の切絵図を調べて、その場所を突きとめ、屋敷地は現在江東区菊川三丁目十六番地となっていることを報告してくださった。(略)

次に掲げる絵図は、『本所深川地図』と称するものであるが、これは明和元年以後のものとみえて、横川三之橋通角屋敷に「長谷川平蔵」と明記せられている」

ちゅうすけ注】なお、上記書の中公文庫版(1994.7.10)には図版は省略されているから要注意。
人文社の復元尾張屋板の切絵図も遠山金四郎の屋敷となっている。

_360_2
(赤〇=長谷川平蔵(宣雄?)、青〇=松田彦兵衛)


参考】2009年2月17日~[隣家・松田彦兵衛貞居] () () () () () () () 


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2009.02.16

寺嶋村の寓家(4)

しばらくは、親指の太さほどの一本うどんを箸で口にあう長さに切ることに専念している〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七(げんしち 53歳)は、お(りょう 30歳)のことを放念したかにみえた。

「いや、なんとも歯ごたえのあるうどんで。、噛めばかむほど、味がしみでてきよります」
「お気にいっていただいたようで、なによりでした」
「しかし、なんですな。わっちも齢で、奥歯が3本ほど欠けておりますので、難儀はなんぎでやす」
「あ。そこへは気がまわらず、申しわけない」
「いえいえ。初物をいただけるのは、ありがたいことで---」

源七は、新しい酒を注文し、銕三郎に酌をしてから、
「おどんが言ってましたが、近く、おめでただそうで---」
「おどのにお会いになったのですか?」
「江戸へくだってくるさに、掛川で---」
「再来月あたりの吉日に婚儀です」

「ご免」
源七は背を向け、なにやらもぞもぞとやっていたが、坐りなおし、
長谷川さま。このことを、〔狐火(きつねび)〕のお頭が聞いたら、どんなにかよろこびましょう。お頭に代わり、お祝辞をのべさせていただきやす。これは、〔狐火〕からのお祝いの気持ちです。お納めのほどを」

金包みを押しだした。切り餅(25両)であった。
源七どの。お気持ちだけはいただいておきます。こちらは困ります」
「あ、言葉をまちがえました。〔狐火〕からではなく、おさんからということで、ぜひとも、お納めください」

参照】2009年1月29日[〔蓑火(みのひ)と〔狐火(きつねび)] (2)
2009年2月1日[駿府町奉行所で] (4)

銕三郎があくまで押しもどしたか、おからというこことで受けたか、ちゅうすけはしらない。
まあ、あとあとのことを考えると、ここで受けては、いけない。
しかし、おからの5両はありがたく頂戴しているので、これも、おからとおもえば、固辞することもなかろうか。

参照】2008年6月2日~[お静という女](1) (2) (3) (4) (5

ただ、ちゅうすけとしては、銕三郎に、こう訊かせたい。

源七どの。その紙包みを示唆したのは、おどのですか?」

源七は、ちょっと躊躇してから、
「軍者(ぐんしゃ)・おどんがすすめてくれやしたのは、婚儀のお2人に、寺嶋村の寓屋をひと月、お貸ししてさしあげては---と」
源七どのもお人がわるい。それをお会いしたしょっぱなに明かしてくだされば、恥をかかずにすみもしたものを---」
「---恥?」
おまさ に妬(や)きごとを吐かせずにすみました」
「ご勘弁を。おどんのことを、おまさ坊はしってはいないとおもいこんでいましたで---」

ということで、明和6年(1769)4月(旧暦)の吉日に婚儀をおえた銕三郎久栄(ひさえ 17歳)は、ままごとのようなハネムーンを、銕三郎には思い出の多い、寺嶋村の寓家でおくった。
もっとも、蚊が多い土地ゆえ、蚊帳は吊りっぱなしで、それをいいことに、銕三郎は、なにかというと、久栄を蚊帳に誘いこんだらしい。

_360
(清長 寺嶋村の寓家での久栄のイメージ)

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2009.02.15

寺島村の寓家(3)

「このごろの子どもがかんがえていることは、見当もつきません。あっしらが子どものころは、よその家で飯を食わせてもらうなどというときには、親の許しをもらってからにしたもんです」
いっしょに歩きながら、〔瀬戸川せとがわ)〕の源七(げんしち 53歳)が嘆息まじりにこぼした。
連れて入府した〔狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 49歳)お頭の子・又太郎(またたろう 11歳)が、源七に問うこともなく、〔盗人酒屋〕のおまさ(13歳)のところへ泊まると宣言したことにあきれているのである。

ちゅうすけ注】源七にしても、銕三郎(てつさぶろう 24歳)にしても、このときから13年後、24歳のおまさが、22歳の又三郎をはじめて男にしてやることになろうとは、予想だにしなかったろう(もっとも、又太郎が22歳まで女躰しらずだったというのも、納得しかねるが---)。

鬼平犯科帳』文庫巻9[狐火]は、寛政3年(1791)---平蔵宣以46歳、おまさ35歳 又太郎こと2代目〔狐火(きつねび)〕の勇五郎33歳、源七75歳のとき事件である。

ただ、〔狐火〕が寛政3年というのは、『犯科帳』の事件の季節を追っていくとそうなる---というだけで、途中で長期連載化しているので、池波さんのこころづもりでは、おまさは32,3歳かもしれない。{狐火]の執筆時、だれも事件年譜を、まだ、つくっていなかった。

源七どのは、藤枝の生まれでしたな?」
銕三郎は、わかっているのに、わざと訊いた。
「藤枝宿の在の瀬古郷の、小作人のせがれでやす」
源七どのが育ったころとちがい、江戸や京の町人の子らは、一度や二度の食事をふるまわれたからといって、いちいち、親には告げませぬ。それだけ世間にゆとりがあり、ぜいたくになっているのですな。もっとも、武家の子はそうはいきませぬ。親がきちんと礼を述べないと、節度をわきまえない輩と、後ろ指をさされます」
「盗人のあっちがいうのもなんですが、礼節がうしなわれて、いやな世の中になっちまいましたなあ」

日本橋・菊新道(きくじんみち)の〔山城屋〕へ帰るという源七は、三ッ目通りの長谷川邸の前で、
「このままお別れするのもなんでやすから 簡単に夕餉(ゆうげ)をおつきあいくださるわけには参りやせんか?」
「参りましょう。一本うどんなどどうです?」
「それは珍しい---」

長谷川邸から海福寺門前の一本うどん〔豊島屋〕までは6丁ばかりの距離である。
小名木(おなぎ)川ぞいに西行きし、高橋(たかばし)を南へわたったところが万年町2丁目で、海福寺門前。

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(海福寺 左手・門前〔豊島屋〕 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

小部屋を頼んだ。
窓越しに、永寿山海福寺の有名な石門が見える。
境内には武田信玄ゆかりの九層の石塔も安置されている。
「軍鶏なべでもよかったのですが、季節がいささか---」
銕三郎が言うと、
「初物を食べると寿命が3年のびるといいます。一本うどんはまだ試みたことがありません。3年長生きさせていただきましょう」
源七は、さすがにそつがない。

まず、酒がきた。
一本うどんは、客の注文をうけてから、太いので芯まで茹であがるのに小半刻(しはんとき 30分)近くかかる。
「寺嶋の寮ですが、お使いになるのでしたら、いつでもどうぞ。留守番の(しげ)婆さんに、そう申しておきます」
「かたじけない。その節は、お借りします」
「あの寮に、おまさどんはなにか不満がありげでしたが---?」
「剣友の左馬(さま 24歳)には、あきらめるように言っておくつもりです」
銕三郎は、あくまでもしらをきった。

「お(りょう 30歳)どんですが---」
「は?」
(相良行きが発覚(ば)れたか)
銕三郎が緊張したとき、つごうよく、一本うどんが運ばれてきた。

Ipponudon
(〔豊島屋〕ならぬ〔高田屋〕に再現してもらった一本うどん)

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』文庫巻7[掻掘のおけい]p110  新装版p115には、こう、ある。

深川・蛤(はまぐり)町にある名刹(めいさつ)〔永寿山・海福寺〕門前の豊島(としま)屋で出す〔一本饂飩(うどん)は、盗賊改方の長官・長谷川平蔵が少年のころから土地(ところ)では知られたもので、
「おれが、本所・深川で悪さをしていた若いころには、三日にあげず、あの一本うどんを食いに行ったものだ」
などと平蔵、むかしをなつかしんで深川見廻りの若い同心たちへ語ったこともあった。

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2009.02.14

寺島村の寓家(2)

「例の〔荒神(こうじん)〕のお人の噂ですが、京師ではまったく耳にしませんが---」
瀬戸川せとがわ)〕の源七(げんしち 53歳)が声をひそめて、又太郎またたろう 11歳)とおまさ(13歳)をうかがう。
又太郎は、銕三郎(てつさぶろう 24歳)と源七のことはまったく気にしていない様子で、真剣な表情でおまさ(13歳)との会話に余念がない。

「こっちへの途中、藤枝宿で、〔牛尾うしお)の太兵衛(たへえ 39歳)お頭---あ、名前は聞かなかったことにしておいてくだせえ」
「聞かなかった」
「なんといいましても、あっしも、藤枝在の出なもんで、宿場に草鞋をぬいでいながら、お頭にごあいさつもしねえでしらんぷり、というのもなんでやすから」
「そういうものかもな---」

「で、ごあいさつついでに、〔荒神〕のお人のことを、〔牛尾〕のお頭にも、それとなくうかがってみたのでやす。そしたら、あそこの若い---三之助さんのすけ)とかいいましたかなあ、その若いのが、風のたよりだけど、去年の師走あたりに、駿府で盗(おつとめ)をなさったとかいうのですよ」
「なるほど」
銕三郎は、知らぬふりをきめこんだ。

ちゅうすけ注】〔牛尾〕の太兵衛のことは、『鬼平犯科帳』巻9[泥亀すっぽん)]に、藤枝宿で呉服太物屋〔川崎屋太兵衛〕が仮の姿として描かれている。24年後の寛政5年(1793)12月の事件である〔泥亀〕では、中風で逝ったことになっているが。
〔通り名(呼び名とも)〕の〔牛尾〕は〔潮(うしお)〕が転じた地名であることが多いそうで、海底が盛り上がったときに閉じ込められた塩水が湧く土地につけられると。
静岡のSBS学苑パルシェの〔鬼平クラス〕の村越一彦さんによると、藤枝市の青山八幡神社の裏手が「潮」村であったと。池波さんは、太兵衛をその村の出身のつもりで名づけたのかもしれない。

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(藤枝宿 左;瀬戸川 右端下:青山八幡神社
『東海道分間延絵図』 道中奉行制作)

「ただ、〔荒神〕のお人が生ませたおんなの子が、秋口に病死して気落ちなさったらしく、ずいぶん弱気な仕事(おつとめ)だったと---」
「弱気な?」
「流れづとめの者にも声をかけねえで、身内の衆2人だけをおつかいだったらしいんで」

荒神〕の死んだおんなの子の話題がでたついでに、銕三郎は、お(しず 23歳)が産んだという〔狐火(きつねび)〕の勇五郎の子のことを訊いてみた。
なんと、去年の春に、風邪がもとで死んだというではないか。
銕三郎は、お(しず 23歳)の悲しみの深さをおもいやったが、口にはしなかった・。

641c_180ちゅうすけ注】おの最初の子を病死としたのは、文庫巻6{狐火}に登場する、荒川・新宿(にいじゅく)の渡し場・亀有の茶店で店を手伝っているおの忘れがたみ・お(ひさ)の齢が、17,8とあるからである。[狐火]は、寛政3年(1791)---いまの明和6年(1769)から22年後の事件である。あと5年後に生まれた第2子か第3子にしないと平仄があわない。
という名も、なんとなく、健康に育てという親の願いがこもっているようにもおもえる。

ことのついでに、源七は、又太郎は小田原での妾が産んだ子で、本妻が逝ったので、いまは母とともに京都に呼ばれ、本妻の遺児・文吉といっしょにも育てられているが、なんにでも好奇心を示す又太郎とちがって、文吉は自分の中にとじこもりがちで、父親のこともさほどに敬っていないようだと話した。
文吉坊という子は、実の母ごが3つのときに亡くなり、小田原からのお姐(あね)さんに育てられてる、それも気にいらないらしいんで、〔狐火〕のお頭も、手をやいとられやす」
「その文吉という本妻の子は、幾つです?」
又太郎坊より20日遅れの生まれでやすから、おない齢の11で---」
又太郎坊との仲は?」
「あんまりうまくねえみてぇで---」
「拙はひとり子ですが、腹ちがいの兄でも弟でもいてくれたらと、おもいます」

さて---と、源七が腰をあげたとき、又太郎が意外なことを言った。
源七おじ。坊、帰らへんえ」
「え?」
おまさ姉(いと)はんのとこに泊まる」

「なんてことを---」
あわてて声をあらげた源七に、板場からでてきた亭主・忠助(ちゅうすけ 50歳前)が、
源七どん。子ども同士の話しあいだ、きょうのところは大目に見てやんなせえ」

又太郎とすると、きちんと相手をしてくれる同じ齢ごろの友だちに出会ったのは、初めてだったのであろう。
おまさも、気にいった者には、おもいやりの情をかけるおんなの子であった。


参照】2007年7月14日~[〔荒神〕の助太郎] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10)

2009年1月8日~[銕三郎、三たび駿府へ]()  () () () () () () () () (10) (11) (12) (13

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2009.02.13

寺嶋村の寓家

「おや、源七(げんしち)どの。 いつご出府に?」
銕三郎(てつさぶろう 24歳)が声をかけた相手は、まさしく、〔瀬戸川せとがわ)〕の源七であった。
記憶では、お頭の〔狐火きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 49歳)より4つ齢上のはずだから ことし53歳---それにしては、めっきり白髪がふえている。

〔盗人酒屋〕の八ッ半(午後3時)で、店は開店前。
源七が坐っている飯台の前には、おまさ(13歳)が姉さんぶった口調で、10歳ほどの男の子と話している。

長谷川さま。こちらは、お頭のお子の又太郎坊です。11歳におなりです」
「そうですか。銕三郎です。おまさの手習いの師匠です」
又太郎どす。お世話さんになります」
京都弁で挨拶をすると、銕三郎には興味をしめさず、おまさへ、深川の八幡宮は石清水(いわしみず)八幡宮とどっちが大きいか、などと質問をあびせることに余念がない。

「子づれの仕事(おつとめ)とは、また、かんがえましたな」
「そんなんではありません。坊が、どうしても江戸が見たいというので、くだってきたのです」
「それだけのことで、わざわざ---」
「お頭が、世間はひろく見ておくものだとお考えなので---」
「世間だか、獲物の店だか---」
長谷川さま。めったなことを---」
「口がすべった。許されよ」

源七は、この江戸見物には、寺嶋村は離れすぎているので、あの寓家には泊まっていない。
いつもの定宿の日本橋・菊新道(きくじんみち)の〔山城屋〕に草鞋をぬぎ、諸々を見物しており、きょうは五百羅漢に参詣した帰りだと。

参照】2008年5月28日~[〔瀬戸川〕の源七] (1) (2) (3) (

「それでは、向島の、お(りょう 30歳)どのたちが住まっていた家は、いまは空いていると?」
銕三郎は、うっかり、「お(しず)さん」、といいかけて、あやうく、「おどのたち」でとどまった。
こころなしか、源七の表情が動いたようにおもえた。
狐火〕の勇五郎の妾だったおとは、因縁がある。

参照】2008年6月2日~[お静という女](1) (2) (3) (4) (5
2007年3月6日[初代〔狐火(きつねび)〕の勇五郎]

いや、あの寓家で睦みあったのはおとばかりではない。
事情があって、〔蓑火みのひ)〕の喜之助(きのすけ)から〔狐火〕の勇五郎へゆずられた、〔中畑(なかばたけ)〕のおとも、その家の湯屋で情事をもったことがある。

それは、去年の夏前であった。

参照】2008年11月16日~[宣雄の同僚・先手組頭] () () (
2008年11月25日[屋根船]

「寺嶋村の寓屋のことで、なにか?」
訊いた源七の声に、おまさ又太郎の話しかけを制し、真正面から銕三郎を瞶(みつめ)てきた。
「どうされているのかとおもっただけで---」
おまさは勘がするどい。とくに、久栄(ひさえ 17歳)を恋敵のようにおもっているからな)

「お使いになるのでしたら、留守番の(しげ)婆さんにそうおっしゃればいいように、手はずをとっておきます」
「ああ、留守番を置かれましたか」
「空き家のままだと、無用心ですから」

銕三郎は、久栄との最初の躰あわせ、便船でわざわざ木更津くんだりまで行かなくても、もっと近間で---と考えないでもなかった。
しかし、おまさに黒い眸(ひとみ)で凝視されると、婚儀前に乙女(おとめ)のしるしをくれるという久栄に、これまで2人のおんなを抱いた家で---というのは、あまりに不謹慎というか、久栄にすまない気がしたのである。

「剣友に岸井左馬之助(さまのすけ 24歳)という男がおりまして、押上の春慶寺に寄宿しておるのですが、居を移したいとか言っているもので---」
銕三郎は、おまさの手前、苦しい言わけをした。
(てつ)兄さん。それはいけません。高杉道場に遠くなりすぎます」
おまさがするどい声でさえぎった。
「いかにも---」
銕三郎は、しどろもどろになった。
源七が、おまさ銕三郎の表情のうごきをうかがうように見くらべ、なにか言いかけようとして、言葉を呑んだようであった。

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2009.02.12

一橋治済の陰謀説

SBS学苑パルシェの[鬼平クラス]でともに学んでいる村越一彦さんが、相良史料館がつくっている『田沼意次侯の話』という、本文4ページほどのパンフレットのコピーを全員にくださった。

一読、「一橋治済(はるさだ)の陰謀」とでもタイトルをつけたいような、公けの組織のバンフにしては、ずいぶんおもい切った文章が活字(ワープロ)になっているとおもった。
今後、検証していかないといけないが、鬼平ファンとしては、「そうだ、そうだ」と賛成もしたい項目が多々あるので、その該当ページの全文を引用させていただく。


(田沼侯の政策に対する家柄・門閥派の反発の)その上さらに、安永2年(1773)に一橋家に豊千代君(後の家斉公)生誕の時点から、徳川家の世嗣問題の騒動に巻き込まれていたことに気付かずにいたことが、致命的な打撃となった。

1. 安永4年(1775) 一橋家治済公の口添えにて田安定信侯幕府決定として奥州白河藩松平家の養嗣として田安家を出る。この計画をしたのは田沼侯であるような思いを定信侯に植え付けたため、生涯、定信侯は意次侯を目の敵にして恨んでいた。

2. 安永8(1779)家治公世嗣家基公、狩りの途中発病にて急死。この時代、隠密が大変暗躍したので、鳥頭(とりかぶと)等の毒物を食物に混入したのではないかと言われている。

3. 天明元年(1781) 一橋家斉公(9歳) 将軍家治公の養嗣となる。

4. 天明3年(1783)浅間山噴火、死者2万余人、天明大飢饉5年連続この年最高となる。意知若年寄拝命。

5. 天明4年(1784)意知侯殿中にて佐野善左衛門政言に斬り付けられ、そのために翌4月2日死亡。35歳。
  ※ 原因については、系図を返さなかったとか、栄達を頼んだが果たされなかったからというが、実際は若くて優秀な意知を除くために佐野に斬らせたのだと考えられる。長崎出島のオランダ商館長チチングが出府したとき江戸の街に、
  「鉢植えて梅か桜と咲く花を、誰たきつけて佐野に切らせた」
という狂歌が取り沙汰されていたと、オランダに掃ってから日本誌に思い出としてローマ字で書いてあったとのこと。

6. 天明5年(1785)松平定信侯溜間詰となる。老中にする一橋公の下準備と思われる。実に計画的なことが解る。

7.天明6年(1786) 8月28日 反田沼派御三家・御三郷、譜代の門閥等刃物をつきつけ、無理やり将軍の命令だとして病気届を出させ、一挙に政権を奪い、老中罷免の上、2万石を召し上げられる。
同年9月8日家治公死去(51歳)が発表される。ところが徳川悪五代史には8月20日と書かれている由で、意次侯が罷免された時にはすでに将軍は死去されていたということがハッキリしてくるわけである。

8.天明4年(1784)4月 家斉公(11歳)11代将軍となり、定信侯6月に老中首座となり、父家済公の大御所政治が始まる。
民間の間に隠密による流言飛語が大々的に流され、あたかも大悪人であったかのごとく印象付け、田沼派の徹底的な追放を行った。
意次侯蟄居、、3万7千石召し上げ、孫意明1万石にて奥州下村へ移封も相良城没収される。
その後城は取り壊された。普通の考え方からすれば当然お家断絶のケースの筈である。しかし断絶にならなかった。

以上のように一橋治済公の仕掛けた罠に、関係のあった大名等すべてが知らぬ問に踊らされて、一橋公の天下を作るのにを力を貸してしまったのだと思われてならない。

    -------------------------------------------------------

いずれ、地元在住の篤学の郷土史家の手になる弾劾文の気配が濃いが、このように断言してしまっていいかどうかはともかく、田沼意次の再評価は、もっとすすんでしかるべきであるとおもう。
しかし、史料の多くが抹消されているので、遅々としてすすむまい。

地元在住の篤学の郷土史家の手になる弾劾文---と書いたが、たとえば、「田沼派の徹底的な追放を行った」という1行も、言いすぎではないかという反論もないではない。

たとえば、長谷川平蔵宣以---すなわち、われらが鬼平だが、田沼時代に先手組頭に41歳という若さで抜擢されている。
よしの冊子』によれば、田沼にへつらいともおもわれかねないこともやっている。田沼派の末端にいたともいえそうである。その平蔵が、松平定信政権になっても先手の組頭を罷免されていないのだから、「徹底的な追放」という表現はいいすぎと揚げ足をとられかねない。

もちろん、定信が火盗改メとして飼い殺しにしたという見方もできる。
定信とおなじ久松松平の一人---松平左金吾定寅との対立などをみて、ちゅうすけはむしろ、この説に与しているが。

それにしても、上掲のきめつけは、仔細な検分を要しよう。

参照】2007年11月27日~[一橋治済] () () () ()  
2007年11月24日~[田沼意次その虚実] () () () () (

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2009.02.11

〔高畑(たかばたけ)〕の勘助(10)

「本来なれば、長山お頭からじきじきにお礼を述べるべきところ、先月より、伏せっておられての、代わって、小職からお渡しいたす」
先手・鉄砲(つつ)の4番手、長山百助直幡 なおはた 58歳 1000石)組の筆頭与力・佐々木与右衛門(よえもん 51歳)が、かたわらの与力・佐山惣左衛門(そうざえもん 36歳)をうながした。
佐山与力とは、10日ほど前に、いつしょに駿府へ出張っているので、気ごころはしれている。
たいていの人間には、好き嫌いの感じを持たないように---いや、持っても顔にはださないようにしている銕三郎(てつさぶろう 24歳)であるが、長山組頭は丑寅(うしとら 北東=鬼門)に近い。
仮病であろうが、顔があわなくてよかったと、内心、ほっとしている。

参照】2008年11月8日~[火盗改メ・長山百助直幡多(なおはた)] () () (

佐々木筆頭にうながされた佐山与力が、そんな銕三郎のこころのうちを斟酌しないで、用意していた紙包みを膝前へ置いた。
「少ないが、こたびの〔春色(しゅんしょく)〕の佐平(さへい 30がらみ)の逮捕に対するわが組の寸志、お受けくだされ」
佐々木筆頭が言葉をつないだ。

春色〕の佐平は、谷中(やなか)八軒町の大東寺の住職・日現(につげん)が、千駄木坂下に囲っていた妾・お(せん 22歳)をつまみ食いし、鐘撞堂の建立金の集まり具合やその収納箇所まで訊きだし、〔高畑(たかばたけ)〕の勘助へ流していた。

A_150佐平を思い出したのは、彦十(ひこじゅう)である。
もっとも、彦十に言わせると、2年前、流れづとめの佐平を、常陸・土浦藩(9万4000石 藩主・土屋能登守篤直 あつなお 42歳=当時)の深川・小名木川ぞいの下屋敷の賭場で会った男だと思いださしてくれたのは、だち(友だち)の雄鹿であったそうな。(鹿図 柴田義重氏)

同郷ということで、誘ってくれた〔狩野かりの)〕の九平(くへい 36歳=当時)の配下・〔酒匂(さこう)〕の与六(よろく 29歳=当時)が、こんどのお盗(つと)めのために一味に加わった〔春色〕の佐平どんだと引きあわされた。

ちゅうすけ注】〔狩野〕の九平は、銕三郎鬼平と呼ばれるようになった『鬼平犯科帳』文庫巻6[網虫のお吉]に登場。

その夜、彦十はまったく目がでなかったが、佐平はばかづきしたので、こん畜生と、覚えていたのである。
「〔春色〕とは、また、変わった〔通り名(呼び名とも)〕でねえか」
与六が絵解きをした。
「貸した春本でその気になったおんなの躰を自由にしてしまい、金のありかやなんやら訊きだした仔細を、諸方のお頭に売っていなさるのさ。それでついた〔通り名〕だが、佐平さん自身も気にいってござる」
「看板代わりでさあ」
佐平がしゃあしゃあと言った。 

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(北斎 廻り貸本屋〔春色〕の佐平のイメージ)

の家を張っていた長山組が捕えて痛めつけて吐かせた〔傘山(かさやま)〕の盗人宿を急襲したが、もぬけの空であった。
佐平は、伝馬町の牢へ移されたその夜に、窒息死させられた。
傘山〕一味の手がまわったのであろう。

銕三郎への紙包みには、3両入ってたいたが、うち1両ずつを、〔耳うち〕の紋次(もんじ 26歳)、〔相模〕の彦十、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち)にわたしたので、銕三郎の手元にはなにも残らなかった。
権七は遠慮したが、彦十紋次は当然のような顔でふところへしまった。
銕三郎は、
権七どの。おちゃんの晴れ着代です」
と無理やり押しつけた。

足を病んでいる〔傘山〕の弥兵衛(やへえ 40がらみ)に代わり、大東寺への押し入りを差配したのも〔高畑(たかばたけ)〕の勘助(かんすけ)と、佐平が白状した。
脅しの科白は、弥兵衛が健在であることを暗示するための、勘助によるわざとの詐言(さげん)であった。
もっとも、本物の弥兵衛勘助の身の丈の大差はだましようがないので、寺僧たちに目隠しをほどこしたのだと。


ちゅうすけのことわり】谷中八軒町の大東寺の寺号、および住持・日現は架空。

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2009.02.10

〔高畑(たかばたけ)〕の勘助(9)

谷中(やなか)八軒町の大行寺の日現(にちげん 44歳)に、あまりいい印象を受けなかった銕三郎(てつさぶろう 24歳)は、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 37歳)の〔須賀〕へむかう途中、下谷(したや)新寺町で、善立寺(ぜんりゅうじ)の前を通りかかったので、住職・日顕(につけん 47歳)師の顔が見たくなった。

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(下谷・新寺町の善立寺=緑○ 昭和期に足立区梅田1丁目へ移転)

日顕師には、芝・二葉町の田中藩(駿河国益津郡 4万石)中屋敷で、前藩主・本多伯耆守正珍(まさよし 60歳)侯に引きあわされ、その後、3,4度、訪れている。
善立寺は本多家の江戸での菩提寺で、上屋敷で歿した在府の奥方や幼児たちが葬られている。

(験(げん)なおしに、また、『法華経』の〔十如是(じゅうにょぜ)〕の講釈でも聴いてゆくかな)

参照】2008年4月16日~[十如是〕 () () (

「御師(おんし)にうかがいます。こちらと同じ宗派の寺院が、鐘楼(しょうろう)の建立資金に、見積もりの倍の寄進を集め、どの寺でもやっていることと申しておられますが、まことにさようなことがはびこっておるのでございますか?」
日顕師の両眉の尻毛はますますのび、その先端は眦(まなじり)よりもっと下に垂れている。
修行の結果の温顔は、いつものとおりである。

「日蓮宗の僧徒といっても、いろいろでしてな。現世の慾を捨てきれぬのもいて、はじめて悪人成仏(あくにんじょうぶつ)の救いが達せられるのですよ」
「拙には、いまだよく、呑みこめませぬが、御師がそうおっしゃるのであれば、如是本末究竟等(にょぜほんまつくきょうとう)---その結果の実相と割り切ります」

しばらく清談して気がおさまった銕三郎は、両国橋西詰の読み売り屋で〔耳より〕の紋次(もんじ 26歳)に、大行寺の日現和尚がおんなを囲っている噂はないか、内密に調べてくれるように頼んだ。
「まだ、〔傘山かさやま)〕一味にこだわっておられるのですか?」
紋次はあきれ顔をしたが、なるほど、読み売り屋とすれば古いネタは、かかとの切れた藁草履(わらぞうり)みたいなもので、商売ものにはなるまい。

参照】2009年2月3日~[〔高畑(たかばたけ)〕の勘助] ( () () () () () () () () (10

永代橋東詰の居酒屋〔須賀〕で権七に、大行寺の住持・日現の昼から八ッ半(午後3時)までの外出先の見張りができるかと訊き、引き受けてもらった。
六ッ(午後6時)から五ッ半(午後9時)までの張り込みは、〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 34歳)が引き受けた。

2日目には、千駄木坂下の妾宅が割れた。
紋次によると、法受寺門前の茶店で茶汲みをしていたおんな(22歳)という。

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(三崎 法受寺 蛍沢 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

ちゅうすけ注】法受寺は明治期に三遊亭円朝師匠により『牡丹灯篭』の舞台に擬せられたが、戦後、足立区東伊興4-14へ移転再興。

「ひと皮むけた、しもぶくれの艶っぽいおんなですよ」
彦十が、昼間、その妾宅へやってきて、しばらく出てこない廻り貸本屋のいい男に、どうも見覚えがあるという。


ちゅうすけのことわり】谷中八軒町の大東寺の寺号、および住持・日現は架空。


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2009.02.09

〔高畑(たかばたけ)〕の勘助(8)

「ご坊。すぐ裏の寛永寺の鐘が刻(とき)を、あまねく告げておりますのに、なにゆえに、わざわざ、鐘楼を建立なさろうとなされたのでしょうか?」
谷中八軒町の大東寺に刺(し)を通した銕三郎(てつさぶろう、24歳)は、応対にあらわれた日現(にちげん 44歳)に、まず問いかけたのである。

「寛永寺さんが天台宗であるから、などとはつゆ、こだわっておらん。寛永寺さんのさすがの鳧鐘(ふしょう)も、鋳造から100余年をけみして、音(ね)に弱まりがきておっての。凡夫どもはしかとは気づいてはいないが、愚僧の耳へは、まもなく寿命がつきると訴えておる」
「鐘にも寿命がございますか?」
「万物は寿命を運命づけられておる。寿命をもたないのはこの世にただ一つ、仏法のみ」

ちゅうすけ注】土井利勝が寄進した寛永寺の鐘の気力がおとろえかけていたことは史実らしい。銕三郎が大東寺を訪ねてから20余年後の、寛政2年(1790)に子孫の下総国古河藩主・土井利和(としかず 7万石)がふたたび寄進している。火盗改メをしていたのちの平蔵宣以(のぶため 45歳=当時)は、この故事をどう感じていたろう?

「拙も凡夫のひとりであることを自覚させられました。寛永寺さんの鐘の音に、悲鳴を聞きわけることができませずにおりました。もっとも、拙の家は南本所ゆえ、日ごろ聞いておりますのは、入江町の鐘撞堂がしらせてくれる刻時ですが」
日現は、僧職にも似合わない不適な笑みをもらし、
「お手前も、長鯨(鐘)の建立に寸志を捧持(ほうじ)られるがよい」

「のちほど---。鐘楼建立の見積もりの倍の冥加金(みょうがきん)をお集めになりました理由(わけ)は?」
「これだから俗衆は度しがたい。仏門では、それはあたりまえのことでな。拙寺にかぎったことではない」
「極楽分と、地獄分ですかな」
欲深いことを平気で口にする俗っぽい和尚に、不快をおぼえた銕三郎は、つい、余計な言葉を吐いてしまった。

日現も言いすぎたとおもったらしく、
「触頭(ふれがしら)の法恩寺の庫裡どのからは、当山にひそむ賊との内通者をあぶりだしてくださるとのことであったが---」
用件をきりだした。
「ひそんでいるか否かをたしかめるように、とのことでありました」
「そういうことでよろしい」

「賊はどこから侵入しましたか?」
「救いを求める諸人(もろびと)がいつにても詣でられるように、山門を閉めたことはない。賊はどこからでも入れるな」
「見積もり額が170余両であったことを知っておられるのは、どなたととどなたでしすか?」
「さて。愚僧と執行(しぎょう 執事の僧)---それに、見積もりをさせた棟梁のところの者---」
棟梁は、黒門町の大喜---喜作とわかった。

「とりあえずのところは、これくらいでよろしいとおもいます。のちほど、執行どのにお逢いして帰ります」
「執行は、いま、京じゃ。ここの本寺である大圀(だいこく)寺さんへ、宝物の曼荼羅(まんだら)をお返しにつき添っていっておるのでな」
「お帰りになりましたころに、また、お伺いさせていただきます。あ、も一つ---押上の春慶寺さんも日蓮宗ですが、こちらとは?」
「春慶寺? あそこの親寺は、妙見堂と星降(ほしくだ)り松でしられている柳島村の法性寺(ほっしょうじ)さんであったな。池上村の本門寺が本山の---」

ちゅうすけ注】柳島村の本性寺(妙見堂)は、『鬼平犯科帳』巻1[唖の十蔵]で捕り物がおこなわれるし、春慶寺は岸井左馬之助の寄宿先である。
池上の本門寺は、文庫巻9[本門寺暮雪]で、山門つづきの石段で鬼平が〔凄い奴〕と決闘をしている。


ちゅうすけのことわり】谷中八軒町の大東寺の寺号、および住持・日現は架空。

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2009.02.08

〔高畑(たかばたけ)〕の勘助(7)

ちゅうすけ注】明和6年(1769)から17年後の天明6年7月26日に、先手・弓組の2番手の組頭に、長谷川平蔵宣以(のぶため 41歳)が任じられたのは史実である。
ただし、2番手の組屋敷は、ずっと目白台であって、小説の四谷坂町ではなかった。池波さんが坂町に置いた経緯も推察はついているが、まあ、小説は小説、史実は史実として寛容にあつかおう。

参考】2007年9月26日[『よしの冊子』] (25) (11)
2006年9月29日通勤時にマーケット調査

翌朝、銕三郎(てつさぶろう 24歳)は、目白台へ出向いた。
江戸川橋をわたり、音羽9丁目の手前から目白坂をのぼる。

江戸川橋の舟着きから、船酔いしたお(とめ のちおと改名 33歳=当時)を休ませて、割りない間柄になってしまった休み所は、目白坂下からつい目と鼻の先であった。

参照】2008年8月7日~[〔梅川〕の仲居・お松] http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2008/08/post_8312.html (8) (9)

2年前の出来事が、遠い昔のことのようにしかおもえないのは、青年期の性のゆえんか。それとも、そのあとに知った〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳=当時)の印象が強すぎたからか。

参照】2008年11月16日~[宣雄の同僚・先手組頭] (7) (8) (9)
2008年11月25日[屋根舟
2009年1月24日[銕三郎、掛川で] (4)

先手・弓の2番手の組屋敷は、目白坂を登りきった関口台町の右手にあった。
関口台町の青物(野菜)店で訊くと、筆頭与力・(たち)伊蔵(いぞう 52歳)の家は、北辺(よ)りの奥から2軒目とのこと。

ついでだから、分かっている2番手の、館伊蔵のほかの、史実の与力たちの氏名を列挙しておく。
脇屋清吉
岡田勇蔵
高瀬円蔵
服部儀一郎
菊田儀一朗
小島与太夫
萩原藤一郎
吉岡左市
   不明1名

鬼平犯科帳』の長谷川組は、
与力10名、同心約40名。[6-1  礼金二百両]
与力8騎、同心45名。[11-4 泣き味噌屋]
平蔵の着任以来、与力 2名、同心 7名が殉職[8-2 あきれた奴]

筆頭与力
佐嶋忠介(52歳 [浅草・御厩河岸])
      [1-1 唖の十蔵]など132 話/164話
与力
村松忠之進 [1-2 本所・桜屋敷]
天野甚造  [1-3 血頭の丹兵衛]など14話
三浦助右衛門[8-4 流星]
天野源助  [11-4 泣き味噌屋]など4 話
天野源右衛門[12-6 白蝮]
小林金弥(30歳)[15-4 流れ星]など14話
秋元惣右衛門[9-7 狐雨]p276 など 2話
左右田万右衛門[11-4 泣き味噌屋]
遠山猪三郎 [12-6 白蝮] 3話
石川金助  [12-6 白蝮]
今井友右衛門[15-1 赤い空]
古川伝八郎 [15-1 赤い空] 2話
馬場綱太郎 [16-3 白根の万左衛門]
田村市五郎 [16-5 見張りの糸]
佐々木徳五郎[17-4 闇討ち] 2話
堀口忠兵衛 [17-7 汚れ道]
原為之助  [18-4 一寸の虫]
金子勝四郎 [19-5 雪の果て] 3話
岡島新三郎 [21-3 麻布一本松]


与力は200坪から300坪の屋敷をもらい、冠木門を構えている。
碌高は、200石に乗ずることの組の与力数の大縄地を、240石から160石までに格づけして分ける。
筆頭与力は、とうぜん、最高の石数をとる。

銕三郎がおとないを乞うと、若い家士(かし)が中庭に面した書院らしき部屋へ通してくれた。
筆頭が、そそくさとあらわれた。
年齢にしては、髪は薄く白くなっているが、表情は好々爺然としいて、微笑みをたやさない。
貫禄よりも、人柄で御する仁らしい。
袷の上に茶色の袖なし十徳(じっとく)のようなものを無造作に羽織っている。

「お父上から、盗賊探索にいたく長(た)けておられるとか、聞きましたが---」
受け取った手土産をすぐわきにどけて、話しかけてきた。
「素人(しろうと)の真似事でございます」
「どのようなことをお答えすればよろしいのかな? じつは、われらの組が火盗改メの役をはずれて足かけ12年あまりになります。盗賊の顔ぶれも大きく変わってきておるとおもうゆえ、お役にたてるかどうか」

銕三郎は、谷中八軒町の大東寺の件は伏せて、〔傘山(かさやま)〕の弥兵衛(やへえ 40がらみ)についての記録がのこっているかと訊いてみた。

「おお、そのようなこともあろうかと、例繰方(れいくりかた)のような掛かり同心であった白石友次郎(ともじろう 60歳)を呼んでおります。まもなく参じましょう」
筆頭が言いおわらないうちに、先刻の若侍が白石隠居を案内してきた。

久闊を叙しあったあと、〔傘山〕の弥兵衛に話題が移ると、持参していた風呂敷包みから、角が反りかえった帳面を何冊もとりだし、
「その、〔傘山〕の弥兵衛とやらいう盗賊は、いま、何歳ほどですかな?」

銕三郎が、しかとは分からないが、40歳から45歳ほどかも---と答えると、
「45歳とみて、12年前。小笠原兵庫信用(のぶもち 在任51~53歳 2200石)さまのころですな。第5集です」
いちばん新しい留書帳を手にとってしばらくめくっていたが、
「ございました、ございました。宝暦6年(1756)の暮れ---ほれ、筆頭どの、本郷のうなぎ縄手の西仰寺が薬師本堂の建て替え費用の210両を盗まれた一件がございましたろう? おぼえておいででございましょう?」
筆頭は、あいまいにうなずいて、
「そのころ、それがしは、筆頭ではなく、若年寄衆への連絡(つなぎ)役であったから、捕り物にはあまりかかわっておらなかった」
「さようでございましたな」

長谷川うじ。このときに、手下の一人が本郷・駒込片町の先手・鉄砲(つつ)の14番手の組屋敷前の辻番所で捕まり、われらが組へ連行され、吐きましたのですよ。頭領は、越中国新川郡(しんかわこおり)小見(おみ)郷生まれの〔傘山〕の弥兵衛(30がらみ)、小頭は羽後国仙北郡(せんぼくこおり)小貫高畑(おぬきたかばたけ)村生まれで通り名を〔高畑〕の勘助(かんすけ 30がらみ)---と記しております」
「人相なども記されておりますか?」
「ご存じのように、人相書きは、主殺し、親殺しでないと書きませぬ」

「お待ちください。弥兵衛は身の丈、5尺8寸(174cm)、太りぎみ。勘助のほうは5尺(150cm)、痩せて小顔---とあります}
(5尺---勘助? 昨日の梅屋敷の男、たしか勘助と名乗ったが---)

白石どの。〔傘山〕の〔通り名(呼び名)の由来は、記されておりませぬか?」
「えーと、これかな。出生地の小見郷の南側に笠ヶ岳(かさがだけ)があり、それにちなんだ〔通り名〕らしいですな。あ、お待ちを---近くの村(上滝(かみたき))の出身の〔傘山〕の瀬兵衛(せべえ)というのと、兄弟分の仲だとあります」
「〔傘山〕の瀬兵衛?」
「越中から木曾、飛騨、信濃あたりを仕事場にしているらしく、われわれが任についておりましたときには、江戸へは姿を見せてはおりませなんだ」

「なに、せっかく写しておいた留書帳がお役にたって、控え甲斐があったというものです」
「最後に、もう一つ、お教えください。うなぎ縄手の西迎寺が奪われた金子が210両というのは、いささか少なすぎるようにおもえますが---」
「薬師堂一つならそんなものでしょう。もっとも、寺側が善男善女から集めた金は、倍の420余両だったそうです。で、〔傘山〕一味は、引き上げるとき、建立費の倍ふっかけて善男善女をだますのはけしからん。が、善男善女に免じて、必要な半金210両はのこしておいてやると、言ったとか」

参照】越中国上新川郡の部分地図 赤○=笠ヶ岳 緑〇=小見郷 
青〇右から布目、上滝、松倉  明治23年(1890)製。

__360
布目は、巻14[尻毛の長右衛門]で、19歳のおすみと睦みあって一味を抜ける〔(布目ぬのめ)〕の半太郎とその父親の生地。
松倉は、巻12[いろおとこ]で同心・寺田又太郎殺害を手伝った〔松倉まつくら)〕の清吉の古里。ただし、この者は中新川郡立山町松倉の出ともおもえる。
上滝は、巻9[浅草・鳥越橋]で、女房・おひろを寝取られたと思いこんだ〔風穴かざあな)〕の仁助に刺殺される樵(きこり)あがりのお頭〔傘山かさやま)〕の瀬兵衛の生地に見立てた。
ほかにも、かつての新川郡の出身とおもえる者たちには、巻12[いろおとこ]の女賊おせつとその縁者・〔山市やまいち)の市兵衛、巻7[泥鰌の和助始末]の〔泥鰌どじょう)〕の和助
巻12[いろおとこ]の神子沢(みこのざわ留五郎などもいるが、切り取った地図内ではみつけることができなかった。
地元の鬼平ファンの方のご教示を待つ。


ちゅうすけのことわり】うなぎ縄手の西迎寺の寺号は架空。

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2009.02.07

〔高畑(たかばたけ)〕の勘助(6)

「〔傘山(かさやま)〕のお頭がどないかしやはりましたんか?」
御厩(おうまや)河岸前の茶店〔小浪〕の女将でもあり、さる盗賊の〔うさぎ人(にん)でもある小浪(こなみ 30歳)が、とつぜん、上方弁で訊き返した。

銕三郎(てつさぶろう 24歳)は、ちらっと久栄(ひさえ 17歳)の顔色をうかがったが、わたしにはかかわりのない話題---とでもいうように、大川に目をむけて、船の下り上りをみているので、安堵して話した。

谷中八軒町の大東寺に押し入って、
「おれたちが〔傘山}の弥兵衛(やへえ 39歳)一味だったからこそ、ここにある340両を根こそぎでのうて、半分の170両をのこしておいてやんだぜ。ご坊、これに懲りて、鐘撞堂の建立の見積もり額の倍も集めるちゅう業突(ごうつく)張りは、もう、いっさい、やめとけ」
と説教をして去った---と銕三郎が、読み売り屋の〔耳より〕の紋次(もんじ 28歳)の言葉をそのまま伝えると、小浪が首をかしげて、
「越中生まれのお方らしゅう、用心深い〔傘山〕のお頭が、さような派手な科白をお吐きならはりはりまっしゃろか?」
_100小浪どのは、〔傘山〕のを、ご存じ?」
「お目にかかったことはおへんけど、〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵(ごろぞう 29歳)はんから、お人柄をうかがってますよって---」(歌麿 小浪のイメージ)

「〔大滝〕の五郎蔵---〔(たずがね)〕の(助 ちゅうすけ 50歳前)さんから、〔蓑火(みのひ)〕の喜之助どのの配下の小頭筆頭と聞いたことのある仁かな?」
「そうどす」

大滝〕の五郎蔵が感心して話したところによると、〔傘山〕の弥兵衛はあるとき、配下の者すべてに自由に使っていいと言って1両ずつわたし、10日後に、どう使ったかを答えさせたという。
それによって、親分・子分の縁をきることになる者、いつまでものこしておきたい者をみわけたというのである。

故郷元(くにもと)の親へ送ったという者が上。
貯めたという者が中の上。
おんなを買ったと答えた男と衣類に費ったのが中の中。
溜まっていた店賃(たなちん)を清算した者と、友だちと酒盛りをしたのは中の下。
博打に使った輩は下。
そういう格づけだったと。

「お金(たから)のありがたみィがわかってへん、下と中の下の盗人(つとめにん)は、ほどのう、畜生ばたらきに手ェそめると、いわはったいうのどす」
「ふーむ」

参照池波さんの金銭感覚について。2008年1月25日[〔荒神〕の助太郎] (5)
銕三郎の時代の貨幣について。2008年6月5日[お静というおんな] (4)
2006年10月21日[1両の換算率

「それほど堅実味の塊のような〔傘山〕のお頭が、わざわざ、探索の十手先を一味に向けさせるようなお説教をなさるとは思えないのです」
たしかに、銕三郎にも割り切れなかった。
久栄がぽつんと洩らした。
「理由(わけ)があったのでしょう、元気だってことを示す---」
「え?」
「足を病んでいるって、おっしゃいませんでした?」
「そうか」

神田・和泉橋通りの大橋家へ久栄を送りとどけた銕三郎を、家では父・宣雄(のぶお 51歳 先手・弓8番手の組頭)が待ち構えていた。
火盗改メの経験がもっとも豊富な、先手・弓の2番手の筆頭与力・(たて)伊蔵(いぞう 52歳)が、明日は非番なので、目白台の組屋敷で五ッ半(午前9時)に待っている、役すじの話でもあろうから、同じ組屋敷で、同心筆頭の杉田牛之助(うしのすけ 58歳)と、いまは隠居の身だが例繰方が長かった白石友次郎(ともしげろう 60歳)もひかえさせておく、とのことであった。

「父上。ありがとうございました。明日、時刻までに、かならず、伺います」

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2009.02.06

〔高畑(たかばたけ)〕の勘助(5)

〔盗人酒屋〕へ帰りつくまで、久栄(ひさえ 17歳)は、もう、婚前の旅のことには、まるでこころにおもってもいないように、触れなかった。
_130_2しかし、敏感なおまさ(13歳)は、梅屋敷での久栄の問いかけから、おまさにとってみるととんでもない計画を、久栄銕三郎(てつさぶろう 24歳)兄にもちかけていることを察してしまった。(清長 おまさのイメージ)
それで、帰路は、会話がはずまない。
久栄としてみれば、おまさに引導をわたしたつもりの問いかけでもあったわけである。
(手習い師範も、これまでだわ)
久栄は、こころの奥で、そう決めていた。

_130_3〔盗人酒場〕におまさが入ると、銕三郎はいつものように、和泉橋通りまで久栄を送るつもりで、竪川ぞいに西へ歩き始めた。
銕三郎さま。お願いがございます」
「---?」
「御厩(おうまや)河岸の〔小浪〕という茶店に、久栄をお連れくださいませ」
「〔小浪〕へ?」
「よく、いらっしゃっていますのでしょう。わたしもお仲間へお加えくださいませ」(清長 久栄のイメージ)

銕三郎は、内心、ぎょっとした。
女将の小浪(こなみ 30歳)とはそういう関係にはなっていない。
しかし、〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 30歳)との逢引きの場を借りたことがある。

参照】2009年1月1日[明和6年(1769)の銕三郎] (1) (2) (3) (4) (5)

久栄は、処女(おとめ)の勘で察しをつけたか。いや、そんなはずはない。察されるほど、頻繁には逢っていない)

三ッ目の橋のたもとの船宿から舟を仕立てた。
御厩河岸につくまで、久栄は黙りこくっている。
それが銕三郎を不安にしたが、自分から話しかけるのはひかえた。

舟着きについた。
銕三郎が先に降り、手を伸ばして久栄の下舟を助(す)ける。
久栄は、大仰によろめき、抱きついた。
その襟元から、久栄の躰の香りがふきでた。
かぐわしい処女(おとめ)のそれであった。
銕三郎は、離れるのが惜しかったが、引き離す。
小浪の視線を感じた。

_130_4
小浪はさすがに世なれており、余計なことは口にしないで、
「いらっしゃいませ」
言ったきり、銕三郎との間合いをはかっている。

「こちらは---」
銕三郎のことばだけで、すべてを察し、
「お妹さまですか?」
とぼけた。(歌麿 小浪のイメージ)

「いや、嫁ごになってくださる---」
「おめでとうございます。挙式はいつでございましょう? あら、ご注文を承るのを忘れて---あたしとしたことが---」
「いつもの、お茶を---」

茶を2つ、腰掛けに置いて、
小浪と申します。長谷川さまにご贔屓---というより、なにかとお教えをいただいております」
久栄と申ます。ふつつか者ですが、よろしくお見知りおきください」
さすがに武家のむすめである、あいさつに無駄がない。

「夜は、何刻(なんどき)までお仕事でございますか?」
「終わりの渡し舟が帰ってくる、六ッ半(午後7時)に仕舞いますが、それほど遅くにお出ましでも?」
「いいえ。ただ、お見かけしたところ、こちらには、お湯わかしの設備はあっても、お炊事のお竈(かまど)を見かけませぬので、別にお住まいがおありかと---」
「鋭いお見通しでございますこと。蔵前通りのむこうに、家を借りてございます。夕餉(ゆうげ)は、近くの老婆がつくってくれておりますのよ」
「はしたないことをお訊きしました。お許しください」
長谷川さま。久栄さまは、いい奥方におなりになりますわ」
(おれにとっては、それどころではない。いまからこれでは、ほかのおなごに目もくれられなくなりそうだ)

「立ち入ったことを尋ねてよろしいかな?」
「なんでございましょう?」
「〔木賊(とくさ)〕のお頭がお住まいほうへ見えたときの、酒の肴は?」
「前もって、使いがきますから、そのときは、老婆へも使いに走ってもらいます」
「なるほど---」
これで久栄は、2人が怪しいかかわりをもっていないことを納得したか、席を立ちかけた。
それを手で制した銕三郎が、
小浪どの。〔傘山(かさやま)〕の弥兵衛(やへえ 40がらみ)と申す盗人(つとめにん)のことを、なにかご存じではなかろうか?」

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2009.02.05

〔高畑(たかばたけ)〕の勘助(4)

谷中八軒町の大東寺の日現(にちげん)和尚の指定も明日だし、父・宣雄(のぶお 51歳 先手弓の8番手組ー頭)に頼んだ先手・弓の2番手の筆頭与力の紹介も夕刻に父が下城を待たないと、どうなるかわからない。

それで、高杉道場での稽古が終わると、銕三郎(てつさぶろう 24歳)の足は自然に、四ッ目通りの〔盗人酒屋〕へ向かった。
久栄(ひさえ 17歳)による、おまさ(13歳)の手習い日にあたっている。

(お(りょう 30歳)と4晩もともにしてきたすぐあとというのに、はずかししげもないことだ)
竪川で餌の小魚をあさっているかもめの舞いを見ながら、銕三郎は苦笑した。
(あのかもめたちより、おれのほうが、よほどに貪欲だ)

参照】2009年1月24日[銕三郎、掛川で] (4)
2009年1月25日[ちゅうすけのひとり言] (30)
〔盗賊酒場〕では、ちょうど、手習いが終わったところであった。
銕三郎さま。お帰りなさいませ」
久栄は、あいかわらず、微笑み顔に言葉にまさるものを伝える。
(てつ)兄(にい)さん。久栄師匠(おっしょ)さんと、柳島の梅屋敷が見納めどきだから、これから出かけようとしていたところ。兄さんもどう?」
おまさが、甘え声で言ってから、久栄をみて、ちょろりと舌を出した。
おまさは、銕三郎久栄との婚儀の話がすすんでいることをしっているが、つい、忘れるのである。
それほど、銕三郎は、おまさにとって、この2年間で、近しい存在になっている。

「よし。行こう」
返事してからがたいへんであった。
日よけのかぶりものはどうするの、着て行くきものはこれでいいか、持ち物は---と、四半刻(しはんとき 15分)はたっぷりさわいだ。
そのさわぎが、おんなたちには、とてつもなく楽しいらしい。

久栄おまさが手をつないで並んで歩く後ろから、銕三郎が手持ちぶさたな顔でついてゆく。
こういうときのおまさは、これが13歳の小むすめかとおもうほど、ませていて意地がわるい。
久栄を、銕三郎と語りあわさせないのである。

_300
(歌麿 遊行・部分 久栄とおまさのイメージ)

柳島村の梅屋敷は、〔盗人酒屋〕から竪川ぞいをほぼ1丁(約100m)東行し、横十間川に架かる旅所橋をわたって北へ折れ、亀戸天神社の境内をぬけたその先の普門院の隣りにある。

595_360
(梅屋敷 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

ことしの見納め---と考える人たちか少なくないのであろう、梅屋敷はけっこうにぎわっている。
梅の芳香で、むせかえるようでもあった。

3人は、半まわりしてから茶店で甘酒を頼んだ。
すすっていると、店の前がさわがしくなった。
喧嘩らしい。
店者らしい40男と連れの10歳ほどの男の子とその母親らしい30おんなが、3人ばかりの荒(あ)らくれに囲まれていた。
身の丈5尺(150cm)ほどの小柄な40男が、男の子と母親をかばってしきりに謝っているが、荒くれたちは承知しない。

しかし、銕三郎の目から見ると、小男ながら腰の据え方、足の構え方が尋常でなく、荒らくれたちよりも数段できそうだった。
しかし、小男は、表情も変えずに謝るばかり。
そして、懐に入れた手で器用に小粒をとりだし、懐紙につつんで握らせた。
荒らくれたちは、狙いどおりの得物を手にしたので、悪態をつきながら去って行った。

40男と男の子連れが茶店に入ってき、銕三郎の隣に腰をおろしたので、
「ご難でしたね」
声をかけると、小男は恐縮し、
「見苦しいところをお目におかけてしまいまして、どうぞ、ご免なさって---」
「拙には、あの者たちなら、手もなくおひねりになると見えましたが---」
「とんだお眼鏡ちがいでございます」
「いや---」
「いいえ。この坊の前では、どうぞ、ご放念を---」
「なるほど。銕三郎といいます」
「あ、勘助と申します」

それきり、勘助は男の子と話しはじめて、銕三郎を避けるそぶりであった。
男の子に、
『若---」
弥太さま---」
と呼びかけているのが耳に入ったが、そのときは気にもとめなかった。

ちゅうすけ注】これが、〔高畑(たかばたけ)〕の勘助、〔傘山(かさやま)〕の2代目・弥太郎との出会いである。
もちろん、銕三郎は〔高畑〕の勘助とも知らないし、弥太郎のことも、成長して25歳で〔傘山〕の2代目を継ぐとおもいもしなかった。
勘助のほうも、銕三郎と名乗った若ざむらいが、20年近くのちに鬼平となることも予想だにしなしい出会いであった。
弥太郎の父・弥兵衛の足が使えないために、右腕の勘助が、一人息子の弥太郎弥兵衛の生母を連れての梅看(うめみ)であった。

勘助に突き放されたかたちで、行き場のなさそうな表情の銕三郎に、ふっくらとした微笑みをうかべた久栄が、
銕三郎さま。お願いしておきました行き先、お決めくださいましたか?」
問いかけて、銕三郎をあわてさせた。
「いや、まだ---」
(なんというおなごであろう。大切にしてきた処女(おとめ)のしるしをくれる旅を、こんなところでせかすとは---)


ちゅうすけのことわり】谷中八軒町の大東寺の山号、および住持・日現は架空。

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2009.02.04

〔高畑(たかばたけ)〕の勘助(3)

「盗賊が自ら、〔傘山(かさやま)〕の弥兵衛(やへえ)一味だと名乗ったと?」
あまりに意外な所業(ふるまい)に、銕三郎(てつさぶろう 24歳)がおもわず訊きかえした。
「おれたちが〔傘山}の弥兵衛一味だったからこそ、ここにある340両を根こそぎでのうて、半分の170両をのこしておいてやんだぜ。ご坊、これに懲りて、鐘撞堂の建立の見積もり額の倍も集めるちゅう業突(ごうつく)く張りは、もう、いっさい、やめとけ」---とも、去りぎわに説教したというんでさあ」
耳より〕の紋次(もんじ 26歳)が、石川五右衛門役者の声色まで使って説明する。
「説教が商べえの坊主が、逆に、盗賊に説教されたんじゃ、絵にもならねえって、だち(友だち)が言ってますぜ」
{だち]とは、彦十の胸の中に棲んでいる大鹿である。

「すると、〔傘山〕一味を名乗った賊は、鐘撞堂の見積もり額まで、ちゃんと調べていたことになるが、それにしても、一味の名を告げるとは、たいした度胸だ」
銕三郎がつぶやくように言って、もう一つ、訊いた。

「賊は、寺の衆を、縛っただけでありましたか?」
「みんな、目隠しをされたそうです」
「ふーむ---」
(どこやら、辻褄があわないところがあるようだ)

紋次は、読み売りの書き手らしく、よく聞きだしている。
その才能を、銕三郎は買っており、諜者の一人として遇している。
紋次のほうも、銕三郎の将来を見込んでいた。

軍鶏なべをつつき終わって紋次を帰してから、銕三郎彦十を伴い、四ッ目通りの〔盗人酒屋〕をのぞいた。
さいわい、客が引いたところで、おまさ(13歳)が皿や猪口を片づけていた。
さん。手がすいていたら、話にのってくれませぬか?」
銕三郎と〔(たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ 50前)は、おたがい、〔さん〕〔さん〕と呼びあう約束になっている。

「〔傘山〕の弥兵衛という盗人の頭をしっていますか?」
さん〕〔さん〕と呼びあう仲になっても、銕三郎の丁寧な言葉づかいは改まらない。
「名前だけは---」
忠助がうなずくと、銕三郎が、紋次から聞いたことをかいつまんで伝え、
「どう、おもいますか?」
「〔傘山〕のお頭らしくねえですな」
「ほう?」

「それに、〔傘山〕のお頭は、1年めえの浦和宿でのお盗(つと)めのときに、うっかり釘を踏みぬいたあとが膿(う)んで、とうぶん、押しこみにをじかには采配なさらねえと伝わってきておりまして---」
「ふむ。弥兵衛に息子は?」
弥太郎坊ですね。まだ10歳にもおなりではござんせん」
「しかし、偽者にしては---」
「そうなんで。半金残したというところは、いかにも、〔傘山〕のお頭ならおやりになりそうな---。しかし、説教というのは、どうも---。なんでも、ひどいはずかしがり屋で、緊張なさると、どもるくせがおありになる方と聞いておりますので---」

屋敷へ戻ると、老僕・太作(たさく 62歳)が、大東寺の住職・日現(にちげん)の返事をもらってきていた。
「あさっての昼過ぎに---ということでございました。それも、ご当人は顔も見せず、役僧がとりついだだけでございます」
(ずいぶん失礼だな。触頭をとおして頼んできておきながら、2日後がいいとか、昼どきをはずすとは---)
銕三郎は、いささかむっとしたが、それは太作のせいではない。

父・平蔵宣雄(のぶお 51歳)の部屋の灯がついていたので、許しを得て、
「先手組の中で、もっとも火盗改メの経験が豊富なのは、どの組でございましょうか?」
「経験豊富ということでは、なんといっても弓の2番手---だが、この10年がところは、お役がまわっていないが---」
「その、弓の2番手の筆頭与力の方か、同心筆頭の方にお引きあわせいただくわけにはまいりませぬか?」
「明日登城して、弓の2番手がどの門を警備しているか、問い合わせてみよう。それで、よいか?」
「よろしくおねがい申します」
「ところで、。婚儀が近い。いつまでも火盗改メ代理なんか、気どっていてはならぬぞ」
「心得ましでございます」

目をあげて、父・宣雄の髪に、白い筋が条も増えているのに気がついた。


ちゅうすけのことわり】谷中八軒町の大東寺の寺号、および住持・日現は架空。

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2009.02.03

〔高畑(たかばたけ)〕の勘助(2)

駿府・掛川での〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう 50すぎ)の盗(つと)めのもようを話して聞かせると、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 36歳)は、〔五条屋}での仕事ぶりに、とりわけ興味を示した。

長谷川さま。〔五条屋〕をたったの200両ですませたというのが、あっしには、どうも、〔荒神〕の助太郎らしくねえようにおもえるんでやすが---」
「2歳になるかならないかのむすめが病死したらしい。それで、急に金が必要になったのかも---」
銕三郎がそういうと、この店の女将のお須賀(すが 31歳)がしみじみと言った。
「あのお賀茂(かも 30すぎ)さんのお子が亡くなったんですか。かわいそうに---。さぞ、気落ちしていなさるでしょう」
権七須賀夫婦にも4歳になるおがいる。
だから、幼な子を失った悲しみは痛いほどわかる。
は、銕三郎(てつさぶろう 24歳)が名付け親である。

参照】2008年7月8日[明和4年(1767)の銕三郎 (4)

谷中八軒町の日蓮宗・大東寺の盗難にかかわることになりそうだから、
「そのときには手を貸していただきたい」
「昼間はあいてますから、なんなりと---」
権七はこころよく引きうけた。

銕三郎は、二ッ目ノ橋北詰の軍鶏なべ屋〔五鉄〕へ行き、息子の三次郎(さんじろう 19歳)に、誰か、竪川ごしの弁天宮裏・八郎兵衛屋敷のうら長屋に住む〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 34歳)を呼びに行かせてくれないか、と頼んだ。
〔五鉄〕から彦十の裏長屋まではものの1丁もない。
洗い場仕事の爺さんが行ってくれた。

「おう、お帰(けえ)りなせえ。っつぁんのいねえ江戸は、灯が消えたみてえで、寒々としてやした。大川土手の桜がやっとほころびたとおもったら、やっぱり、っつぁんのお帰りだった」
相模も山里のなまりだが、あいかわらず、言うだけはこと大げさだ。

参照】相模(さがみ)〕の彦十] (1)  (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12)

「だち(友だち)の、なには元気ですか?」
「若芽どきだってんで、ぴんぴんでさあ」
彦十は胸の底に、大鹿を1頭飼っている。

両国橋西詰、米沢町裏手の読み売り屋にいるはずの、〔耳より〕の紋次(もんじ 26歳)を連れてきてほしいと頼むと、
の字。いっぺえもってきてくんな」
三次郎に催促した。
彦十どの。それは、紋次兄いが来てからしっしょに---」
「ほい、ざんねん」
彦十が走りでて行く。
両国橋の東詰は、〔五鉄〕から2丁と離れてはいない。
東詰までは、さらに橋長の96間(173m 約2丁にすこし欠ける)が加わる。

「谷中八軒町の大東寺について、このごろの話題を聞かせてほしいのです」
銕三郎の言葉に、さすが職業がら、紋次の言葉にはよどみがない。
「本家すじにあたる、京・本圀(ほんこく)寺の日達(にちだつ)ってえれえ坊さんが描いたとかいう曼荼羅(まんだら)を持ってきて、師走の15日から2月の14日までご開帳して、押すなおすなの参詣人を集めたってことはご存じでやしょう?」
銕三郎は、鍋で煮えたっている軍鶏をすすめ、酒を注いでやりながら、
「いや、一向に。そういったことにはとんと気がまわらなくて---」
「じゃあ、集まった喜捨の半分を、「傘山(かさやま)〕の弥兵衛(やへえ)一味に盗まれたってことも?」
「耳にしていないから、紋次どのに、わざわざお越しねがった次第で---。いま、〔傘山〕の弥兵衛一味と言われましたか?」
「盗賊が、そう、名乗りましたんで---」

_130ちゅうすけのおすすめ】紋次が口にした〔傘山〕の弥兵衛は、『鬼平犯科帳』巻7[盗賊婚礼]に名前だけ登場。
同篇では、弥兵衛の右腕だった勘助が、出羽・高畑(たかばたけ)生まれで、駒込富士前町の小料理屋〔瓢箪屋(ひょうたんや)〕の老亭主となって一味をとりしきり、2代目・弥太郎を助けている。
この出羽・高畑を『旧高旧領取調帳』をデータベース化したdatabaseで、「高畑」と入れて検索しても、ヒットしない。
それで、同書『東北編』(近藤書店)をあらためみると、羽後国・仙北郡に小貫高畑とあった。
郵便番号帳』で、秋田県大曲市小貫高畑で、「オ」の項にあったから、小貫は「おぬき」と読むらしい。
さて、歴博によるデーターベース化された『旧高旧領取調帳
http://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param
パソコンに登録しておくと、『鬼平犯科帳』の盗賊たちの〔通り名(呼び名)〕の検索がはかどるのでおすすめ。


ちゅうすけのことわり】谷中八軒町の大東寺の山号、および住持・日現は架空。

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2009.02.02

〔高畑(たかばたけ)〕の勘助

「10日ぶりだな。っつぁんがあらわれ次第、奥へ顔を見せるようにと、先生から言われている」
駿府から帰った翌日、久しぶりに出村町の高杉道場へ稽古にきた途端に、剣友・岸井左馬之助(そまのすけ 24歳)から伝えられた。

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(横川べり 高杉道場 法恩寺 法恩寺橋)

いまでは、銕三郎(てつさぶろう 24歳)と左馬之助は、師範代心得格と言ってよい。

「先生は、どうなさったのだ?」
「お風邪でな。居室に伏せておられる」
「鬼の霍乱(かくらん)だな」
「しっ! 聞こえるぞ」
たしかに、道場と居室とは、板戸1枚でしきられているきりであった。

首をすくめた銕三郎が、板戸の外から許しをえて、道場主・高杉銀平(ぎんぺい 64歳)の居室へ入ってみると、師は額に濡れ手拭いをのせて寝ていた。

「昨日の夕刻に戻りました。お風邪とは存じませず、お見舞いにも馳せ参じませず、申しわけありませぬでございました。お水を代えてきます」
銀平には家族がいない。
朝晩の食事だけ、近所の農家の老婦がきてつくっている。

手桶の水を新しい井戸水に入れかえ、手拭いをしぼりなおした。
「すまぬ」
「さきほど、左馬から、ご用と聞きましたが---」
「うむ。前の法恩寺のご住職に乞われてな。帰府そうそうでなんだが、頼まれてやってくれぬか?」
「何用でございましょう?」
銕三郎への頼みごとじゃ。盗賊ごとに決まっておるわ。ごほっごほごほ---」
「あっ、先生--」
師の背中をさすり、咳がおさまるのを待って、
「法恩寺に盗賊が---」
師は首をふりながら、また咳こんだ。

「風邪が感染(うつ)ってはならぬ。法恩寺へ、はよう、行け」
「はい」

道場を出て、向かいの法恩寺の脇門から入り、庫裏で案内を乞うた。

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(左:出村町の中に高杉道場 右手:法恩寺の脇門と境内
『江戸名所図会』法恩寺通り 部分 塗り絵師:ちゅうすけ)

小僧が、住職の居間へ導く。
顔見知りの住職が、頼みごとを説明した。

平河山(へいかさん)法恩寺は、日蓮宗にして花洛(からく)本圀寺の触頭(ふれがしら)、江戸三箇寺の一員である。 (略)当寺は太田大和守資高(すけたか)道灌の孫なり。

ものの本に、こう、あるほどの格式の名刹である。

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(「押上 法恩寺」 全景 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

当寺と同宗で縁の深い谷中の大東寺に、先日、盗賊が押し入り、鐘撞堂建立(こんりゅう)のために10年ごしに集めた喜捨が狙われたのである。
盗賊を捕らえたところで、盗(と)られた金は戻ってはこないであろうが、盗賊の手引きをした不埒(ふらち)者が寺内にいないかどうかを調べてほしいというのが、先方の和尚の願いであると。

「火盗改メがすることではございませぬか?」
「それがの、火盗改メは、寺社奉行の領域であるとゆうて、なかなか、腰をあげぬのじゃそうな」
「おかしゅえございます。火盗改メは、町方が容喙(ようかい)できないところでも、探索できる権限をもっておるはずでございますが---」
「理法どおりにいかないのが、この世の常でな」

やりとりがあって、銕三郎は、一応、かかわってはみるが、それには、ご住職から大東寺の和尚どのへの送り状を書いていただきたい、と頼むと、そそくさと達筆でしたためてくれた。

銕三郎は、法恩寺の住職の紹介の書状に、「いつ訪れればよろしいか」という問い合わせた文をもたせて、老僕・太作(たさく 63歳)を谷中八軒町の大東寺の日現(にちげん 44歳)和尚のところへやった。

そうしておいて、自分は永代橋際の居酒屋〔須賀〕へ足をはこんだ。
亭主として板場にこもっている〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 37歳)の顔が見たくなったのである。
「お帰りなさいませ。1ヶ月ぶりでございますね」
女将のお須賀(すが 31歳)が先に声をかける。
「1ヶ月も経ってはいないでしょう、半月ちょっと---」
「待つ身には、3日が3歳(みとせ)といいますから---」
権七どんになぐられます、はっ、はははは」

その声を聞きつけて、権七が板場からあらわれた。
仙次(ぜんじ 24歳)のやつ、お役に立ってくれましたか?」
権七も3年前まで、箱根山道の荷運び雲助の頭格をしていた。
「またまた、仙次どのにお世話をかけました。どんどん、いい若い衆になり、いまでは権七お頭のりっぱな後釜です」
「えっ、へへへ。あっしの後釜におさまるには、まだまだ---でしょうがね」

「関所の打田(うちだ 45歳)小頭が、権七お頭のことをなつかしがっておられました」
「小頭の面子(めんつ)をつぶしましたからなあ」
「それは、もう、帳消しだっていわれてましたよ」
「ありがたいことです」

参照】2008年3月23日[〔荒神〕の助太郎)] (8)

しぱらくを箱根での四方山(よもやま)を話しでつぶして、
「じつは、〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう 50すぎ)一味がらみの探索だったのですよ」
「あいつ、まだ、やってやがったんで?」

ちゅうすけのことわり】谷中八軒町の大東寺の山号、および住持・日現は架空。


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2009.02.01

駿府町奉行所で (4)

「あの者たちが盗賊と知れましたとき、とっさに、てまえの方から、報奨金200両で、うちの店を襲ってもらう芝居をおもいついたのでございます」
〔五条屋〕の旦那・儀兵衛(ぎへい 45歳)が、穴でもあったら入りたげな風情で告白した。

「掛川城下の〔京(みやこ)屋〕の盗難が暗示となったのですね?」
「はい。あなたさまが〔京屋〕へ再探索に行かれたと聞き、この数日は生きたこころちがいたしませんでした」

「店主どの。番頭どの。今宵、耳に入れましたことは、拙の胸の奥深くしまって、外に洩らすものではございませぬゆえ、安心してお眠りなされ。
されど、若年の拙が口をはさむのもどうかとおもいますが、お内儀のお(せい 40歳)どのは、香華寺の住職どのととくと相談なさり、先代の七回忌を機(しお)に、寺の門前の花屋でも買って与えるなりなんなり、とにかく〔五条屋〕からお出しになることですな。禍いの根は切ってしまわねば---。
さらに、どちらのお子を世継ぎにするかは、店主どのと番頭どのが談合され、親類衆への根回しは番頭どのに、もうひと汗かいてもらうのですな---」

来たときの不安顔とはうって変わり、晴れやかな顔で2人が帰っていったあと、銕三郎(てつさぶろう 24歳)は、考えこんでいた。

芝居もどきの押し入りを200両で引きうけた〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう 50すぎ)が、〔五条屋〕出入りの肥え汲み・馬走(まばせ)村の吾平(ごへえ 40歳)にまで手をまわしてまぎらわしい偽装をした企図である。
その一方では、犯行は〔荒神〕一味と宣言するように荒神松を置いて消えている。

そうか、あの者ら一味にとっては、芝居ではなかったのだ。
あくまで、仕事(おつとめ)のこころづもりであたったのだ。
だから、仕事を終えると、金谷宿に近い菊川村の盗人宿を引きはらっている。

(お(りょう 30歳)がいてくれたら、この筋書きが読めたものを--)
4夜5昼をともにしたおは、今夜は寝間にはいない。

翌朝六ッ半(午前7時)というのに、〔五条屋〕の番頭・吉蔵(よしぞう 58歳)がやってき、いろいろな配慮のお礼といい、紙包みを置いていった。
開けてみると、鼈甲に貝の象嵌で菊花をしあらった飾り櫛であった。
(これで、母上への土産ができた)
掛川の〔京(みやこ)屋〕がくれた紙包みの横に置いたとき、久栄(ひさえ 17歳)へと決めていた紙包みの手触りが重くなっていることに気がついた。

不審におもい、あらためて包みをひらくと、櫛のほかに小判が2枚入ってい、
---ご婚儀、祝着 
と書いた紙片が添えられていた。
(おめ、いつのまに? しらぬふりをしながら、妬いていたんだ)

銕三郎には、齢上のおのこころ遣いが身にしみた。

五ッ半(午前9時)のちょっと前、銕三郎は駿府町奉行所の表門に立つ。
予告が通じてあったらしく、すぐに通された。
矢野弥四郎(やしろう 35歳)同心と竹中功一朗(こういちろう 22歳)見習いが迎えた。

内座の間らしい部屋に案内された。
江戸からきたときより、扱いが格上げされている。

町奉行・中坊(なかのぼう 左近秀亨(ひでもち 53歳 4000石)は、筆頭与力・河原頼母(たのも 53歳)をしたがえて着座した。
銕三郎が、昨夜の宴の礼を述べると、笑顔をつくり、
「いや。多用のためごいっしょできずに残念。して、いつ、江戸へ?」
「昼すぎにもと、こころづもりをしております」
「任期も3年ほどとこころえているゆえ、帰任したら、駿河台の屋敷へあそびに参られよ」

それ以上に話すこともなく、
矢野さまとの打ち合わせもございますれば---」
銕三郎のほうから、辞去のあいさつをした。
(こういうときのために、4000石級を満足させらる、どうでもいい話題をもっていないといけないな。たとえば、鴬の初音の聞き分け方とか、桜の花樹の種類とか---、おのお得意、信玄公の七分勝ちのことでもよかったかも---)

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