【ちゅうすけ注】明和6年(1769)から17年後の天明6年7月26日に、先手・弓組の2番手の組頭に、長谷川平蔵宣以(のぶため 41歳)が任じられたのは史実である。
ただし、2番手の組屋敷は、ずっと目白台であって、小説の四谷坂町ではなかった。池波さんが坂町に置いた経緯も推察はついているが、まあ、小説は小説、史実は史実として寛容にあつかおう。
【参考】2007年9月26日[『よしの冊子』] (25) (11)
2006年9月29日通勤時にマーケット調査
翌朝、銕三郎(てつさぶろう 24歳)は、目白台へ出向いた。
江戸川橋をわたり、音羽9丁目の手前から目白坂をのぼる。
江戸川橋の舟着きから、船酔いしたお留(とめ のちお仲と改名 33歳=当時)を休ませて、割りない間柄になってしまった休み所は、目白坂下からつい目と鼻の先であった。
【参照】2008年8月7日~[〔梅川〕の仲居・お松] http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2008/08/post_8312.html (8) (9)
2年前の出来事が、遠い昔のことのようにしかおもえないのは、青年期の性のゆえんか。それとも、そのあとに知った〔中畑(なかばたけ)〕のお竜(りょう 29歳=当時)の印象が強すぎたからか。
【参照】2008年11月16日~[宣雄の同僚・先手組頭] (7) (8) (9)
2008年11月25日[屋根舟]
2009年1月24日[銕三郎、掛川で] (4)
先手・弓の2番手の組屋敷は、目白坂を登りきった関口台町の右手にあった。
関口台町の青物(野菜)店で訊くと、筆頭与力・館(たち)伊蔵(いぞう 52歳)の家は、北辺(よ)りの奥から2軒目とのこと。
ついでだから、分かっている2番手の、館伊蔵のほかの、史実の与力たちの氏名を列挙しておく。
脇屋清吉
岡田勇蔵
高瀬円蔵
服部儀一郎
菊田儀一朗
小島与太夫
萩原藤一郎
吉岡左市
不明1名
『鬼平犯科帳』の長谷川組は、
与力10名、同心約40名。[6-1 礼金二百両]
与力8騎、同心45名。[11-4 泣き味噌屋]
平蔵の着任以来、与力 2名、同心 7名が殉職[8-2 あきれた奴]
筆頭与力
佐嶋忠介(52歳 [浅草・御厩河岸])
[1-1 唖の十蔵]など132 話/164話
与力
村松忠之進 [1-2 本所・桜屋敷]
天野甚造 [1-3 血頭の丹兵衛]など14話
三浦助右衛門[8-4 流星]
天野源助 [11-4 泣き味噌屋]など4 話
天野源右衛門[12-6 白蝮]
小林金弥(30歳)[15-4 流れ星]など14話
秋元惣右衛門[9-7 狐雨]p276 など 2話
左右田万右衛門[11-4 泣き味噌屋]
遠山猪三郎 [12-6 白蝮] 3話
石川金助 [12-6 白蝮]
今井友右衛門[15-1 赤い空]
古川伝八郎 [15-1 赤い空] 2話
馬場綱太郎 [16-3 白根の万左衛門]
田村市五郎 [16-5 見張りの糸]
佐々木徳五郎[17-4 闇討ち] 2話
堀口忠兵衛 [17-7 汚れ道]
原為之助 [18-4 一寸の虫]
金子勝四郎 [19-5 雪の果て] 3話
岡島新三郎 [21-3 麻布一本松]
与力は200坪から300坪の屋敷をもらい、冠木門を構えている。
碌高は、200石に乗ずることの組の与力数の大縄地を、240石から160石までに格づけして分ける。
筆頭与力は、とうぜん、最高の石数をとる。
銕三郎がおとないを乞うと、若い家士(かし)が中庭に面した書院らしき部屋へ通してくれた。
舘筆頭が、そそくさとあらわれた。
年齢にしては、髪は薄く白くなっているが、表情は好々爺然としいて、微笑みをたやさない。
貫禄よりも、人柄で御する仁らしい。
袷の上に茶色の袖なし十徳(じっとく)のようなものを無造作に羽織っている。
「お父上から、盗賊探索にいたく長(た)けておられるとか、聞きましたが---」
受け取った手土産をすぐわきにどけて、話しかけてきた。
「素人(しろうと)の真似事でございます」
「どのようなことをお答えすればよろしいのかな? じつは、われらの組が火盗改メの役をはずれて足かけ12年あまりになります。盗賊の顔ぶれも大きく変わってきておるとおもうゆえ、お役にたてるかどうか」
銕三郎は、谷中八軒町の大東寺の件は伏せて、〔傘山(かさやま)〕の弥兵衛(やへえ 40がらみ)についての記録がのこっているかと訊いてみた。
「おお、そのようなこともあろうかと、例繰方(れいくりかた)のような掛かり同心であった白石友次郎(ともじろう 60歳)を呼んでおります。まもなく参じましょう」
館筆頭が言いおわらないうちに、先刻の若侍が白石隠居を案内してきた。
久闊を叙しあったあと、〔傘山〕の弥兵衛に話題が移ると、持参していた風呂敷包みから、角が反りかえった帳面を何冊もとりだし、
「その、〔傘山〕の弥兵衛とやらいう盗賊は、いま、何歳ほどですかな?」
銕三郎が、しかとは分からないが、40歳から45歳ほどかも---と答えると、
「45歳とみて、12年前。小笠原兵庫信用(のぶもち 在任51~53歳 2200石)さまのころですな。第5集です」
いちばん新しい留書帳を手にとってしばらくめくっていたが、
「ございました、ございました。宝暦6年(1756)の暮れ---ほれ、筆頭どの、本郷のうなぎ縄手の西仰寺が薬師本堂の建て替え費用の210両を盗まれた一件がございましたろう? おぼえておいででございましょう?」
館筆頭は、あいまいにうなずいて、
「そのころ、それがしは、筆頭ではなく、若年寄衆への連絡(つなぎ)役であったから、捕り物にはあまりかかわっておらなかった」
「さようでございましたな」
「長谷川うじ。このときに、手下の一人が本郷・駒込片町の先手・鉄砲(つつ)の14番手の組屋敷前の辻番所で捕まり、われらが組へ連行され、吐きましたのですよ。頭領は、越中国新川郡(しんかわこおり)小見(おみ)郷生まれの〔傘山〕の弥兵衛(30がらみ)、小頭は羽後国仙北郡(せんぼくこおり)小貫高畑(おぬきたかばたけ)村生まれで通り名を〔高畑〕の勘助(かんすけ 30がらみ)---と記しております」
「人相なども記されておりますか?」
「ご存じのように、人相書きは、主殺し、親殺しでないと書きませぬ」
「お待ちください。弥兵衛は身の丈、5尺8寸(174cm)、太りぎみ。勘助のほうは5尺(150cm)、痩せて小顔---とあります}
(5尺---勘助? 昨日の梅屋敷の男、たしか勘助と名乗ったが---)
「白石どの。〔傘山〕の〔通り名(呼び名)の由来は、記されておりませぬか?」
「えーと、これかな。出生地の小見郷の南側に笠ヶ岳(かさがだけ)があり、それにちなんだ〔通り名〕らしいですな。あ、お待ちを---近くの村(上滝(かみたき))の出身の〔傘山〕の瀬兵衛(せべえ)というのと、兄弟分の仲だとあります」
「〔傘山〕の瀬兵衛?」
「越中から木曾、飛騨、信濃あたりを仕事場にしているらしく、われわれが任についておりましたときには、江戸へは姿を見せてはおりませなんだ」
「なに、せっかく写しておいた留書帳がお役にたって、控え甲斐があったというものです」
「最後に、もう一つ、お教えください。うなぎ縄手の西迎寺が奪われた金子が210両というのは、いささか少なすぎるようにおもえますが---」
「薬師堂一つならそんなものでしょう。もっとも、寺側が善男善女から集めた金は、倍の420余両だったそうです。で、〔傘山〕一味は、引き上げるとき、建立費の倍ふっかけて善男善女をだますのはけしからん。が、善男善女に免じて、必要な半金210両はのこしておいてやると、言ったとか」
【参照】越中国上新川郡の部分地図 赤○=笠ヶ岳 緑〇=小見郷
青〇右から布目、上滝、松倉 明治23年(1890)製。
布目は、巻14[尻毛の長右衛門]で、19歳のおすみと睦みあって一味を抜ける〔(布目ぬのめ)〕の半太郎とその父親の生地。
松倉は、巻12[いろおとこ]で同心・寺田又太郎殺害を手伝った〔松倉(まつくら)〕の清吉の古里。ただし、この者は中新川郡立山町松倉の出ともおもえる。
上滝は、巻9[浅草・鳥越橋]で、女房・おひろを寝取られたと思いこんだ〔風穴(かざあな)〕の仁助に刺殺される樵(きこり)あがりのお頭〔傘山(かさやま)〕の瀬兵衛の生地に見立てた。
ほかにも、かつての新川郡の出身とおもえる者たちには、巻12[いろおとこ]の女賊おせつとその縁者・〔山市(やまいち)の市兵衛、巻7[泥鰌の和助始末]の〔泥鰌(どじょう)〕の和助、
巻12[いろおとこ]の神子沢(みこのざわ)留五郎などもいるが、切り取った地図内ではみつけることができなかった。
地元の鬼平ファンの方のご教示を待つ。
【ちゅうすけのことわり】うなぎ縄手の西迎寺の寺号は架空。
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