十如是(じゅうにょぜ)(その2)
「住職さま、お教え、ありがとうございます。学而(がくし)塾でも、[往(おう 過去)を彰(あき)らかにして來(らい 将来)を察す。顕を微(ほのか)にして幽(ゆう 原理)を闡(ひら)く](易経)---闡幽(せんゆう)は、隠れているものを明らかにすると教わりました」
「おみごと」
善立寺(ぜんりゅうじ)の日顕師(にっけん 40すぎ)は、口ではほめたが、銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの鬼平)のさかしらげともいえる応答に、一抹の危惧を感じていた。
父・宣雄(のぶお 47歳 先手・弓の組頭)が気づいて、
「方丈さま。お許しを。銕三郎めは、予審のことに追われておりまして---」
「いまの答辞なれば、予選はまちがいなしでござろうよ」
「ご寛恕、かたじけのう---」
宣雄は、ほっとして、頭をさげた。
幕臣の子の予審とは、将軍にお目見(めみえ)する前に、若年寄の出座のもとにおこなわれる口頭試問と武芸の筋をはかられる予備試験のようなものである。
銕三郎は、それを理想主義がすぎる観念論と軽視しきってきており、なかんずく、儒書の解義を不得手としていた。
「銕三郎はお目見がまだであったな。齢からいうと、ちと、のんびりであるな。ま、予審もあろうが、暇をつくって、日顕師から学ぶがよかろう」
本多侍従正珍(まさよし)は、とりつくろってやり、
「先刻の盗人のことだが、捕縛の手がかりは、なにか、考察がついておるのかの?」
「善立寺のご住職のお教えの、最初の如是相(にょぜそう)---自分ではあたっておりませぬ。火盗改メのお頭に頼んで、押しいられた緑町2丁目の料亭〔古都舞喜(ことぶき)楼から、ことのありていを、じかに訊きとってみようかとおもいつきました」
「いまの火盗改メの頭(かしら)は、銕三郎の本家の仁じゃったな?」
宣雄が恐縮して応える。
「先手・弓の7番手の長谷川太郎兵衛正直(まさなお 57歳 1450石)でございます。お見知りでございましょうか?」
「会ったことはないとおもう。田中城の元城主の子孫ということで、いちど、引見しておきたいものよのう」
銕三郎が、ここぞと口をはさんだ。
「大伯父も、よろこびましょう」
日顕師は、善立寺の墓域に葬られている若くして逝った側室の年忌の日取りを決めると、退出した。
帰りぎわに、
「長谷川の若どの。いつにてもお待ちしておりますぞ」
と、お世辞を忘れなかった。
ふと思いついた銕三郎が老公に訊く。
「本多家の香華寺は、門跡(東本願寺)の塔頭(たっちゅう)の徳本寺では?」
「菩提寺が一つでなければならぬということもあるまい。内室が側室と同じ墓域に眠ることを嫌うこともある。は、ははは」
【ちゅうすけ注】本多家の菩提寺は、銕三郎が指摘したとおり、浅草の東本願寺の塔頭(たっちゅう)の一つであった徳本寺(現・台東区西浅草1丁目)であったが、墓は、いまは青山墓地に移っている。徳本寺には、田沼山城守意知(おきとも)を斬傷させて死にいたらしめた佐野善左衛門政言(まさこと)の墓もある。
なお、池波さんが葬られている西光寺(現・台東区西浅草1丁目)も、元は東本願寺の塔頭であった。
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