銕三郎、二番勝負
日暮れ前に銕三郎(てつさぶろう 24歳)は、〔相模(さがみ)〕の彦十を、料亭〔片蔵屋〕の玄関隣の部屋に呼んだ。
部屋の向かいは、幕府の米蔵の一番倉の壁で、〔片蔵屋〕の屋号のゆえんである。
路地をはさんで、左は舟着き場茶店〔小浪〕。
つまり、左を見張っていれば゜、〔小浪〕に出入りする人が見張れる。
話は、火盗改メ方の松田組の筆頭与力・土方万之助(まんのすけ 50歳)から〔片蔵屋〕へこっそりと通してもらった。
そうしておいて銕三郎は、何食わぬ顔で〔小浪〕へ入っていった。(歌麿 小浪のイメージ)
女将の小浪(こなみ 30歳)に目くばせをし、席につく。
茶を運んできた小浪に、ささやいた。
「大事な話があるからと、〔木賊(とくさ)}のところの小頭・今助(いますけ 22歳)どのへ、使いをだしていただきたい」
合点した小浪が、下働きの老爺やへ言いつけ、小女には、店を閉めるように命じた。
「拙は、他用があるので、今助どのを待つけにはゆきませぬ」
銕三郎は、今助自身で、〔蓑火(みのひ)〕一味の小頭の一人・〔尻毛(しりげ)〕の長助(ちょうすけ 27歳)へ、伝えてほしい。
〔蓑火〕と名書きをした投げ文により、火盗改メの組だけでなく、先手の非番の10組、両番(書院番、小姓組)の非番の20組に、これから2ヶ月のあいだ、夜廻りの達しがでたと、父・平蔵から聞いた。
もし、〔蓑火〕一味がこの2ヶ月のあいだに仕事(つとめ)を予定しているなら、かならずといっていいほど網にかかるはずだから、見合わせたほうがいい。
「浅草諏訪の紙問屋の〔伊勢屋〕へ投げ文したのは、〔蓑火〕を騙(かた)った偽者とおもうが---」
そう言いおいて、銕三郎は、とも綱を解いたばかりの渡し舟に飛び乗り、対岸・石原橋の舟着きから四ッ目の〔盗人酒場〕へ直行した。
非番の先手組や書院番などの番方(武官系)に、火盗改メの補助をするようにとの達しは、このときにかぎらず、しょっちゅう下されていることは、『徳川実紀』にも記録されている。
このことを、徳川幕府の役職解説の諸書はほとんど抜かしている。
もちろん、実際の達しは、月番少老(若年寄)の加納遠江守久堅(ひさかた 60歳 伊勢・八田藩主 1万石)の名で出た。
ついでに記しておくと、加納家は吉宗の左腕として紀州藩から幕府入りし、久堅は2代目である。
のちに、死の床にあった平蔵宣以(のぶため)に、将軍・家斉(いえなり)が見舞いとして下賜した、大陸渡来の 高貴秘薬瓊玉膏(けいぎょくこう)をあずかったのが、養子で3代目の久周(ひさのり)である。
【参照】2006年6月25日[寛政7年(1795)5月6日の長谷川家]
小半刻(こはんとき 1時間)かそこらで、彦十が入ってきた。
隅っこの飯台から、銕三郎が手をふる。
腰をおろした彦十が、すぐに飯台ごしに身をのりだし、耳元でささやいた。
「おどろきましたぜ。今助ってんでやすか、あの若え者(の)。富士見の渡しで横網町飛び地へ着き、あっしの寝ぐらの川向こう、相生町1丁目の商人宿〔蕨屋〕へへえったとおもいなせえ」
「うむ。おもった」
「それっきりでさあ」
「でかした、彦どの。大手柄だ。ま、呑んでくれ。ついでに、あすから3日ほど、〔蕨屋〕を見張ってほしい、と頼みたいところだが、命が危ない。これは、左馬(さま 24歳 岸井左馬之助)に頼もう」
「さいですか。命がけだと、ねえ---」
彦十は、おまさ(13歳)が気をきかせて、とりあえず運んできた冷や酒に、もう、目がなかった。
【参照】2008年12月21日~[銕三郎、一番勝負] (1) (2) (3) (4) (5)
【参考】2009年2月17日~[隣家・松田彦兵衛貞居] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) 9)
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