〔梶ヶ谷(かじがや)〕の三之助
『鬼平犯科帳』文庫巻9に所載の[泥亀(すっぽん)]で、〔泥亀〕の七蔵のかつてのお頭〔牛尾(うしお)〕の太兵衛一味の小頭の1人。もう1人は〔牛久保(うしくぼ)〕の幸兵衛。
(参照: 〔泥亀〕の七蔵の項 )
(参照: 〔牛尾〕の太兵衛の項)
(参照: 〔牛久保〕の幸兵衛の項)
年齢・容姿:どちらも記述されていない。推定だと40後半。
生国:駿河(するが)国城東郡(じょうとうごうり)比木(ひき)村梶ヶ谷(現・静岡県御前崎市比木)。
「梶ヶ谷」は、現地名としてはのこっていない。比木の丘陵地帯の縄文遺跡の名称である。
〔牛尾〕の太兵衛の出身を、大井川西ぞいの旧・金谷町牛尾とみたので、駿河国で「梶ヶ谷」を探した。
ついでだが、比木が含まれていた浜岡町は2004年4月1日に御前崎町と合併して市制を敷いた。
探索の発端:〔泥亀(すっぽん)〕の七蔵へ、〔牛尾〕の妻娘の窮状をきかせた〔関沢(せきざわ)〕の乙吉から、ことの次第を聞きとった密偵・伊三次が、鬼平へ報告。
(参照: 伊三次の項)
結末:捕縛した〔関沢(せきざわ)〕の乙吉が持っていた50両を、〔泥亀〕の七蔵へ持たせて御油まで届けさせたが、〔梶ヶ谷(かじがや)〕の三之助と〔牛久保(うしくぼ)〕の幸兵衛たちの行方は、けっきょく、知れずじまい。
つぶやき:縄文遺跡の地名を「通り名(呼び名)」に? との疑問ももっともだが、遺跡があったところが「梶ヶ谷」だったからその名が冠されたのであろう。とすると、土地の人びとはその谷間を「梶ヶ谷」と呼んでいたはず。
旧・浜岡町地区には遠州灘に面して「浜岡砂丘」と呼ばれる美しい砂丘があり、漁舟が並んでいた。漁師たちは天候と風向き、海流には細心の注意をはらう。〔梶ヶ谷(かじがや)〕の三之助が〔牛尾(うしお)〕の太兵衛の小頭として企画面を担当したのも、漁師時代に身につけた細心の注意力のたまものだったろう。狙った商店の間取り、金蔵の位置と鍵、使用人の数、見張りをはりつける位置や退出口、木戸の位置、月の満ち欠け具合など、三之助の計画には疎漏がなかった。
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コメント
お尋ねの比木は、御前崎市比木です。
字名の梶ヶ谷は、現在は使われておりません。
投稿: 御前崎市役所 | 2005.07.18 17:02
>御前崎市役所さん
ご連絡、ありがしうございました。
投稿: ちゅうすけ | 2005.07.18 17:05