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2009.02.10

〔高畑(たかばたけ)〕の勘助(9)

谷中(やなか)八軒町の大行寺の日現(にちげん 44歳)に、あまりいい印象を受けなかった銕三郎(てつさぶろう 24歳)は、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 37歳)の〔須賀〕へむかう途中、下谷(したや)新寺町で、善立寺(ぜんりゅうじ)の前を通りかかったので、住職・日顕(につけん 47歳)師の顔が見たくなった。

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(下谷・新寺町の善立寺=緑○ 昭和期に足立区梅田1丁目へ移転)

日顕師には、芝・二葉町の田中藩(駿河国益津郡 4万石)中屋敷で、前藩主・本多伯耆守正珍(まさよし 60歳)侯に引きあわされ、その後、3,4度、訪れている。
善立寺は本多家の江戸での菩提寺で、上屋敷で歿した在府の奥方や幼児たちが葬られている。

(験(げん)なおしに、また、『法華経』の〔十如是(じゅうにょぜ)〕の講釈でも聴いてゆくかな)

参照】2008年4月16日~[十如是〕 () () (

「御師(おんし)にうかがいます。こちらと同じ宗派の寺院が、鐘楼(しょうろう)の建立資金に、見積もりの倍の寄進を集め、どの寺でもやっていることと申しておられますが、まことにさようなことがはびこっておるのでございますか?」
日顕師の両眉の尻毛はますますのび、その先端は眦(まなじり)よりもっと下に垂れている。
修行の結果の温顔は、いつものとおりである。

「日蓮宗の僧徒といっても、いろいろでしてな。現世の慾を捨てきれぬのもいて、はじめて悪人成仏(あくにんじょうぶつ)の救いが達せられるのですよ」
「拙には、いまだよく、呑みこめませぬが、御師がそうおっしゃるのであれば、如是本末究竟等(にょぜほんまつくきょうとう)---その結果の実相と割り切ります」

しばらく清談して気がおさまった銕三郎は、両国橋西詰の読み売り屋で〔耳より〕の紋次(もんじ 26歳)に、大行寺の日現和尚がおんなを囲っている噂はないか、内密に調べてくれるように頼んだ。
「まだ、〔傘山かさやま)〕一味にこだわっておられるのですか?」
紋次はあきれ顔をしたが、なるほど、読み売り屋とすれば古いネタは、かかとの切れた藁草履(わらぞうり)みたいなもので、商売ものにはなるまい。

参照】2009年2月3日~[〔高畑(たかばたけ)〕の勘助] ( () () () () () () () () (10

永代橋東詰の居酒屋〔須賀〕で権七に、大行寺の住持・日現の昼から八ッ半(午後3時)までの外出先の見張りができるかと訊き、引き受けてもらった。
六ッ(午後6時)から五ッ半(午後9時)までの張り込みは、〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 34歳)が引き受けた。

2日目には、千駄木坂下の妾宅が割れた。
紋次によると、法受寺門前の茶店で茶汲みをしていたおんな(22歳)という。

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(三崎 法受寺 蛍沢 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

ちゅうすけ注】法受寺は明治期に三遊亭円朝師匠により『牡丹灯篭』の舞台に擬せられたが、戦後、足立区東伊興4-14へ移転再興。

「ひと皮むけた、しもぶくれの艶っぽいおんなですよ」
彦十が、昼間、その妾宅へやってきて、しばらく出てこない廻り貸本屋のいい男に、どうも見覚えがあるという。


ちゅうすけのことわり】谷中八軒町の大東寺の寺号、および住持・日現は架空。


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