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2009年3月の記事

2009.03.31

〔風速(かざはや)〕の権七の口入れ稼業(2)

浅田うじの流派は?」
「一刀流杉浦派と申しても、ご納得いきますまい。唯心一刀流の一派でござる」
銕三郎(てつさぶろう 24歳)の問いかけに、浅田剛二郎(ごうしじろう 31歳)が応える。

浅田浪人は、いかめしい名前に似合わず、いかり肩ではあるが、痩身で、背も高くはない。
なにより、目が澄んでいて、やさしげである。
小浪(こなみ 30歳)が出した茶をおしいそうにただいて口へはこぶさまも、作法にかなっている。

「どちらで、杉浦派をお学びに?」
脇から、取りもち役の井関録之助(ろくのすけ 20歳)が言葉をはさんだ。
「杉浦流は、古藤田俊定(としさだ)師から、わが師のご実父・杉浦三郎太夫正景(まさかげ)先生へ伝わり、そこで一派となったのでござるゆえ、とうぜん、笠間で修行しました」
「笠間といえば、牧野越中守 貞長 さだなが 39歳 8万石)侯の---?」
これは、岸井左馬之助(さまのすけ 24歳)である。
左馬之助は、はやくも、剛二郎の唯心一刀流の腕と試合をしたくて、むずむずしている様子をかくさない。

浅田浪人は落ち着いたものである。
「お蔵番をつとめておりましたが、妻のことで家中の者とあらそいができ、相手にひどい怪我をさせましたので、扶持をはなれて、江戸へ参りました」
今助(いますけ 22歳)が引き取った。
浅田さんの内室が、てめえの姉貴なんでやす」
「それで、今助どのが、浅田うじのお世話を---?」
「さいです」
銕三郎は、剛二郎が浅草寺の奥山で蝦蟇の油売りをしていたことも、今助とのかかわりも納得した。

「じつは、田原町(たはらまち)の質屋〔鳩屋〕への口を見つけてきたのですが、身元がたしかなご浪人でないとと、きびしく言われました。いわれてみれば、あっしの素性は、香具師の小頭。元締にしても堅気とはいえません。それで、長谷川さまにおすがりを---」
「いや。拙もまだ部屋住みの身、身元引きうけは無理です。ただ、こころあたりはあります。酒亭〔須賀〕のご亭主の権七(ごんしち)どのです。権七どののことは、長谷川の本家で、先手・弓の7番手の組頭、太郎兵衛正直(まさなお 61歳 1450石)が保証します」

経緯(いきさつ)を、湯釜のところから小浪が、不安げに気をくばっていたが、銕三郎が受諾したのを見定め、そっと肩をおろした。
小浪は、〔木賊(とくさ)〕の林造(りんぞう 60歳)の持ちものだが、その子の今助ともできているらしい。どう決着がつくのやら)
銕三郎は、市井のそういう生ぐさいもつれも、あるていどはわかっているつもりだが、やはり合点がいかない。
いかないといえば、浅田浪人が漏らした、藩をでるほどのもめごとになったという妻の行跡についても想像がおよばない。


参照】2009年3月30日[〔風速(かぜはや)〕の権七のの口入れ家業」] () () (

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2009.03.30

〔風速(かざはや)〕の権七の口入れ稼業

長谷川先輩、相談にのってくれませんか?」
高杉道場の弟弟子・井関録之助(ろくのすけ 20歳)が、銕三郎(てつさぶろう 24歳)を法恩寺門前の茶店{ひしや〕へ誘って、切りだした。

「お(もと 33歳)にややができてしまった---というような話には、のれないぞ」
「そんな浮いたことではありませぬ」
30俵2人扶持の最低に近いご家人の、しかも妾腹にできた録之助は、家に居場所がなかったが、ひょんなことから日本橋・室町の茶問屋〔万屋〕の源右衛門(げんえもん 48歳)が、7年前に女中に産ませて男の子・鶴吉(つるきち 8歳)が、乳母のおと暮らしている小梅村の寮へころがりこんで、おとできてしまっている。

参照】2008年8月22日~[若き日の井関録之助 () (2) () () (

「今戸(いまど)の元締・〔木賊(とくさ)〕の林造(りんぞう 60歳)がらみの話なんです」

録之助が持ちかけた相談というのは、〔木賊〕一家の小頭・今助(いますけ 22歳)からきた話で、浅草寺の奥山で蝦蟇(がま)の油を売っている浪人・浅田剛二郎(ごうじろう 31歳)に用心棒としての腕があれば、田原町1丁目の質屋〔鳩屋〕に推薦したいのだが、剣術の腕前を鑑定してほしい、ついでに、保証人にもなってもらいたい---といわれたというのである。
つまり、銕三郎浅田浪人の剣の腕試しをしてほしいが、どうであろうかと。

「先生のお許しがいるな」
「だから、先輩に相談しているのですよ」
銕三郎は、高杉銀平(ぎんぺい 64歳) 師から皆伝を許され、しかも信用が篤いことを見抜いての相談というより、頼みなのである。

録之助も剣の腕のほうは、稽古試合なら銕三郎に3本に1本は勝てるほどに上達しているのだが、私生活が私生活だけに、信用という点がもう一つといえようか。

「その浅田うじとやらは、信用できるのか?」
「そのほうは、今助が太鼓判をおしています」
今助そのものの信用はどうなのだ?」
「ご存じでしょうが、あれは、元締が脇につくった子なんですよ。もう5年もすれば、縄張り(しま)を引きつぐことになっています」
録之助は、林造に頼まれて、〔木賊〕の身内の若い連中に、振り棒の使い方などを教えているから、一家の内情にくわしい。
ときには、匕首(どす)の指南もしているようだ。

今助は、林造元締の庶子だったのか?」
「だから、あの若さで小頭をはっていられるんです」
「〔銀波楼〕の女将・お(ちょう 53歳)は、今助の生まれを知っているのか?」
「もちろんですよ。しかし、おにすれば、自分が子をつくれなかったのだから、認めるしかなかったようです」

「わかった。明日、先生にお伺いをたててみる」
「ありがとうございます」
「で、さんには、この件でいくら、入るのだ?」
{そんな---」
「ただ働きってことはあるまい」
「---3両(約50万円)」
「2両よこせ」
「きびしい!」
左馬(さま 左馬之助 24歳)にもひと口かまさないといけまい」


参照】2009年3月30日[〔風速(かぜはや)〕の権七のの口入れ家業」] () () (

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2009.03.29

ちゅうすけのひとり言(32)

宮城谷昌光さんの『風は山河より 全5巻』(新潮社 2006.12,1)の目を洗うほどの巨細な検証、それをふまえた心情の推理に、呆然としなからを読みすすめた。

これほどの細微をうがった筆致であれば、もしかして、武田の大軍との三方ヶ原(みかたがはら)の合戦で戦死した、長谷川紀伊守(きのかみ)正長---平蔵宣以の祖---の新資料もあろうかと、期待をふくらませて第五巻[三方原合戦]の章へすすんだ。

_130信玄は軍を南下させて浜松城の方角にむかわせ、三方原台地の北部を横断する道を選定した。むろん三方原台地の南端に城を構えている家康を挑発するためである。
家康は挑発に乗った。
「多勢でわが屋敷の背戸(せど 裏口)を踏み切って通ろうとする者がいるのに、屋敷のなかにいて、でてとがめぬ者があろうか」
と、吼(ほ)えた家康は、いくさには多勢も無勢もなく、
---天道(てんとう)次第。(『三河物語』)
と、天にむかっていい放ち、目をつりあげて出撃した。徳川勢八千と織田勢三千が家康の指麾に従って北上した。
この日、雪であった。

ここまでは、諸書と大差なく、新知識というほどのものはない、
いや、篭城をしないで撃ってでて、平地で決戦をするのがが松平の---あるいは三河の武門たちの戦い方の定法と、宮城谷さんがこれまで幾度となくくりかえして指摘してきた戦術である。

武田軍は三方原台地の東端にあたる大菩薩(だいぼさつ)から坂路を登り、都田川に近い祝田(いわいだ---ただしくはほうだ)におりるという予定の行動をとった。最初から十全の布陣を家康にみせてしまうと、家康がかならず気おくれするので、信玄は平兵を停止させず、あえて軍の脇腹や背をみせて、徳川勢に襲わせやすいようにした。信玄の兵術のこまかさは、本陣を祝田への下り口まで移動して、
---これから坂をおりる。
と、みせかけたことである。

_100読みはかなり正鵠(せいこく)をうがっているし、表現もいかにも宮城谷さんのものである。
大和田哲男さん『三方ヶ原の戦い』(学研M文庫 2000.11.21)は、三方ヶ原が最近は「三方原」とつづられ、読み方も「みかたはら」になってきていると警告。 

背をみせて坂をおりる兵をうしろから襲え勝てる。兵術の常道である。それゆえ家康は寡兵であってもあえて両翼をひろげて鶴翼の陣を形成して追撃をおこなった。
---きたか。
信玄は会心の笑みを浮かべたであろう。孫子の兵法にあるではないか。
---人を形(かたち)せしめて我(われ)に形なければ、即(すなわ)ち我は専(あつ)まりて敵は分(わ)かる。
相手にはっきりとした形ょとらせて、こちらに形がなければこちらは集中するが敵は分散する。武田軍は大軍であるが、いわば魚鱗の陣であるのでかたまって一つである。

三方ヶ原の戦記はいくつも読んできた。
しかし、宮城谷さんのような喩(たと)え方をした文章はない。
さすがに古代の戦国もの古典にくわしい作家は、手なれたものである。

だが、ちゅうすけが求めているのは、孫子の解説でもなければ、戦いのかけひきでもない。
長谷川紀伊守正長が、徳川方のどの武将の麾下(きか)にあって先手を勤めたかを知る手がかり、そして、どのように戦死したかである。
その答えは、『風は山河より』からは得られなかった。

たぶん、記載はあるまいとおもったが、念のためと、『徳川実紀 第1篇』(吉川弘文館 1981.10,1)の[東照宮御実紀付録]の該当年をたしかめてみたが、長谷川紀伊守の名はどこにもみあたらなかった。
田中城の守将であれば、あのころの徳川陣営ではかなりの遇し方をされたとおもうのだが、あるいは、引きつれていった配下の人数がすくなかったか。
これからの研究課題が一つふえたともいえる。


これまでの[ちゅうすけのひとり言]
()内のオレンジの数字をクリックでリンクします。

31) 田沼意次の重臣2人

30) 駿府の両替商〔松坂屋〕五兵衛と引合い女・お勝
29) 〔憎めない〕盗賊のリスト
28) 諏訪家と長谷川家
27) 時代小説の虚無僧と尺八
26) 小普請方・第4組の支配・長井丹波守尚方の不始末
25) 長谷川家と駿河の瀬名家
24) 〔大川の隠居〕のモデルと撮影
23) 受講者と同姓の『寛政譜』
22) 雑司が谷の料理茶屋〔橘屋〕忠兵衛
21) あの世で長谷川平蔵に訊いてみたい幕臣2人への評言

20) 長谷川一門から養子に行った服部家とは?
19)  『剣客商売』の秋山小兵衛の出身地・秋山郷をみつけた池波さん 2008.7.10
18) 三方ヶ原の戦死者---夏目次郎左衛門吉信 2008.7.4
17) 三方ヶ原の戦死者---中根平左衛門正照 2008.7.3
16) 武田軍の二股城攻め2008.7.2

15) 平蔵宣雄の跡目相続と権九郎宣尹の命日 2008.6.27
14) 三方ヶ原の戦死者リストの区分け 2008.6.13
13) 三方ヶ原の戦死者---細井喜三郎勝宗 2008.6.12
13) 三方ヶ原の戦死者---細井喜三郎勝宗 2008.6.12
11) 鬼平=長谷川平蔵の年譜と〔舟形〕の宗平の疑問 2008.4.28

10) 吉宗の江戸城入りに従った紀州藩士たち---深井雅海さんの紀要への論 ]2008.4.5
) 長谷川平蔵調べと『寛政重修諸家譜』 2008.3.17
) 吉宗の江戸城入りに従った紀州藩士の重鎮たち) 2008.2.15
)長谷川平蔵と田沼意次の関係 2008.2.14
) 長谷川家と田中藩主・本多伯耆守正珍の関係 2008.2.13

) 長谷川平蔵の妹たち---多可、与詩、阿佐の嫁入り時期 2008.2.8
) 長谷川平蔵の妹たちの嫁ぎ先 2008.2.7
) 長谷川平蔵の次妹・与詩の離縁 2008.2.6
) 煙管師・後藤兵左衛門の実の姿 2008.1.29
) 辰蔵が亡祖父・宣雄の火盗改メの記録を消した 2008.1.17

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2009.03.28

〔墓火(はかび)〕の秀五郎・初代(6)

新しく燗をしたちろりを片手に、板場から出てきた〔たずがね)の忠助(ちゅうすけ 45歳前後)が、もう片方の手の紙づつみをひらいたのを示し、
(てつ)さん。6両(約100万円)つつんでいたよ」
〔盗人酒場〕ではめったに拝むことがない小判が6枚、まぶしく光っている。

銕三郎から切り餅(25両の包み)を戻された〔墓火(はかび)〕の秀五郎(ひでごろう 50がらみ 初代)が、「この場の酒代」といって忠助に押しつけていった金子である。

「酒代(さかて)を横取りしてすまないが、(ひこ 34歳)どのと左馬(岸井左馬之助 24歳)さんに2両(約32万円)ずつ、お手柄賃としてやってもらえまいか?」
彦十が「ひえっー、2両!」と奇声を発した。

「なに、もとはさんへの身代金---じゃなく、お助け金(がね)---いや、これもちがうな---」
「お父っつぁん、お礼金(おれいがね)!」
おまさが横から助(す)ける。
「そう、そのお礼金がわりにおいていったのものだから、さんがおもいどおりに分けてくだせえ」

笑みいっぱいに2両ずつ受け取った彦十左馬之助に、銕三郎が、
「ところでご両人。盆と正月がいっしょにきたところで、申しわけないが、事件が早く片づいたのだから、先渡しした日当8日分の2分(約8万)ずつ、拙に返しなさい」

_60
2人が、忠助に小判をこのごろ出回るようになった南鐐(なんりょう)2朱銀にくずしてもらう。
彦十には、2朱銀が8枚・計2分しかわたらない。
忠助どん。あとの2分は?」
「これまでの付けを、帳消しに---。これでも、はしたはお負けしときやした」
「ひゃあ---憎いほど、そつがねえ」
頭をかいたく彦十を、おまさが、しっかりとたしなめた。
「商売は商売、つきあいはつきあい」
おまさ坊は、所帯持ちのいいご新造になるぜ」

「しっかりしすぎていて、だれかさんに、ふられています」
おまさが、ちらりと銕三郎をみる。

銕三郎は、聞かなかったふりを装い、杯を口からはなして、
「それから、さん。1両はおまさへ、〔墓火〕に酒を献じた褒美に」
「わぁ、うれしい。冬の着物が買えます。これまでの、揚げをおろしても、短くなってしまっていて---」
母親を亡くしているおまさは、むすめになっていく自分を、自分で育てている。

「さて、残った1両で、お疲れさま宴(うたげ)のやりなおしといこう」

しばらく、注ぎ注がれつがあって、
さん。秀五郎お頭だが、あれほど身内おもいの仁が、どうして〔墓火〕などというおどろしげな〔通り名(呼び名)ともいう〕をつけたのでしょう?」
「悪いことをしていても、ときにはいいことがしてみたくなる---それが人間というやつでやす。身内にやさしいからといって、いつも、だれにもやさしいとはかぎりやせん。げんに、仲間を差した〔蛭田(ひるた)〕の善吉(ぜんきち)---仏になったときの午造(うまぞう)は一味から仕置きをうけています。命じたのは〔墓火〕のお頭でやす」

みんな、しんみりしたとき、銕三郎が訊いた。
さん。だちは、このごろ、どうです?}
「元気いっぱいでさあ」
「蝦夷から、帰ってきたのかな?」

_360
(奈良公園の鹿 写真:Hideki Fujita さん 絵葉書の部分)

「へえ。嫁さんをつれて---いやね、恥ずかしがって、嫁さんを連れてはあらわれねえんでやすが---そういやあ、お(すえ 45歳)っていいやしたか、あの、〔墓火〕のところの婆さん---」
さんはないだろう。〔笹や〕のお(くま 46歳)どのと齢ごろはいっしょだよ」
「おがやってきたとき、岸井さんに尾行(つ)けさせなって、知恵をつけてくれたのも、だち(友だち 雄鹿)でさあ」
左馬之助
は、異なことを聞くといったような目つきで彦十を見た。

参照】2008年3月23日~[〔墓火(はかび)〕の秀五郎] () () () () (

参照】2008年3月19日~[菅沼摂津守虎常] (1) (2) (3) (4)


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2009.03.27

〔墓火(はかび)〕の秀五郎・初代(5)

「お(すえ 45歳)を放免してもらったので、菅沼組がつつんでくれた礼金は、戻したのだよ」
銕三郎(てつさぶろう 24歳)の言い分に、さも、惜しいそうな表情をしたのは〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう)であった。

「じゃあ、(てつ)っつぁん。日1朱(約1万円)の留守番賃はわっちらも返さないといけやせんね」
彦十は、しぶしぶ、ふところへ手をいれかけた。
さん。それにはおよばない。2人とも、日当以上のみごとな働きをしてくれた。約束どおり、存分にやってくれていい」
「悪いな、さん」
岸井左馬之助(さまのすけ 24歳)は、さすがにこころえて、同情の言葉だけは口にした。

四ッ目ノ通りの〔盗人酒屋〕である。
のれんをだす前の時刻なので、客は3人だけである。
とりあえず、おまさ(13歳)が酒と牡蠣(かき)のたまり煮の酒菜を運んできた。
牡蠣のおいしくなった季節である。

strong>左馬之助がつきとめた〔墓火(はかび)〕の秀五郎(ひでごろう 50がらみ)の盗人宿をあずかっていたおは、組糸師としてりっぱに生計(たつき)をたてていた。
組糸は、服飾のほか、太刀の下げ緒や柄の巻紐と用途はひろかった。

_360
(組糸師 『風俗画報』明治32年2月10日号 塗り絵師:ちゅうすけ)

の獄送りをふせいだ銕三郎だが、彦十たちとの約束を守り、きょうは〔盗人酒屋〕で労をいたわっている。

亭主でおまさの父親の〔たずがね)の忠助(ちゅうすけ 47,8歳)も板場から、ちりめん雑魚の山椒煮を盛った小どんぶりをもって、ひょっこりあらわれ、
「あっしからの差し入れのつもりで---おまさ。酒の燗をみておいてくれ」
と、飯台に座りこんだ。

「いやあ、さん。いいことをなさいましたよ」
情のこもった声でほめた忠助に、
「父上から、味方にしなくていいから、敵をふやすな---と教えられているもので」
銕三郎がけろりと応じる。

「そうだ。久栄(ひさえ 17歳)さんもはいってもらおう。おまさ坊。誰か、使いを頼めないか」
左馬之助をさえぎって、銕三郎が、
「いま、悪阻(つわり)なのだよ」
「それはめでたい。生まれてくるややに祝杯をあげよう」

そのとき、どこかの店主のようにでっぷりした大柄で目の細い50がらみの男と、これも糸ほどの目だが背丈はある20歳前後の青年のうしろに、なんと、おがついてはいってきた。

は、彦十を見てはっとしたようだが、だまっている。
「これは〔墓火〕のお頭---」
さっと立った忠助が、年配の男へあいさつを送った。

忠助どん。長谷川さまはどちらで---?」
墓火〕のお頭と呼びかけられた男が問いかける。
「こちらのお武家さまでやす」

墓火〕は、おの命が助けられた礼を丁寧に述べ、ふところから分厚い紙づつみを飯台におき、
「ほんの気持ちでございます」
「いや。礼はお言葉で十分です。幕臣の嫡子としての拙の立場もあり、せっかくのお志ですが、こちらは、いただくわけには参らないのです。どうか、お直しください」

「これは気がつきませんでした。お立場もごさぜえましょう。それでは---」
と若いほうに目くばせすると、こころえて、ふところから別の紙づつみを忠助へ手渡した。
忠助どん。それは、酒肴料です。手前にささ(酒)を一口、くださらんか」

忠助おまさにいいつけ、新しい杯と燗ができているちろりを運んできた。
おまさが注いだ杯を一気にあけ、
忠助どんのところの酒は、いつも甘露だ。そうそう、長谷川さま。お末の息子の秀九郎でござえます。お見知りおきを---と申すのもなんですが、こんどのことをいちばん喜んだのがこいつです」

ちゅうすけ注】この日の秀九郎が、その後に〔墓火〕を襲名、 『鬼平犯科帳』文庫巻〔谷中・いろは茶屋〕で顔をみせた。2代目〔墓火はかび)〕の秀五郎である。

秀九郎どのとやら。長谷川銕三郎です。お母上は、放免されて当然なのです。盗(つと)めにはかかわりがないのですから。いつまでも孝養をつくしてあげてください」
秀九郎は、黙って頭をさげた。
が目頭をおさえていた。

銕三郎は正面して、
「〔墓火〕のお頭。後学のために、ひとつお教え願えますか」
「なんでございましょう?」
「粕壁から、どうすればこのように早く本所へ着けるのですか?」
「は、はは。そのことでごぜえますか。粕壁に住んではいねえのですよ。もっと江戸に近いところに居をおいておりましてな。いずれは、生まれた故郷(ふるさと)の畳の上で往生させていただこうとおもっとりますが---」
「なるほど」
「お楽しみのところを、お邪魔しました。これで、失礼いたします」

墓火〕の秀五郎父子たちが出ていった。

「さすが、大首領だ」
左馬之助が感嘆の声をあげ、銕三郎がうなずいてから言った。
「居は、四ッ木か梅田あたり---」
忠助が咳こんだ。

_360
(武蔵国葛飾郡四ッ木村、梅田村あたり)

参照】2008年3月23日~[〔墓火(はかび)〕の秀五郎] () () () () (


参照】2008年3月19日~[菅沼摂津守虎常] (1) (2) (3) (4)


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2009.03.26

〔墓火(はかび)〕の秀五郎・初代(4)

銕三郎(てつさぶろう 24歳)は、火盗改め・助役(すけやく)の組頭・攝津守虎常(とらつね 55歳 700石)の筆頭与力・村越増次郎(ますじろう 48歳)に手をまわしてもらい、浅草阿部川町の〔佐江戸(さえど)〕の仁兵衛(にへえ 31歳)が住んでいた裏長屋を借りた。

さっそくに、〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 34歳)と、その護衛役として岸井左馬之助(さまのすけ 24歳)が入居した。
所帯道具は、仁兵衛のものがそのまま残っていたので、布団をもう一組、損料屋から借りるだけですんだ。
墓火(はかひ)〕一味は、もしかすると、仁兵衛の逮捕も、牢内での自裁も気づいていないのではなかろうかと、彦十が言ったが、銕三郎はそれに賛意をしめさず、
「もう、知っているとおもっておいたほうがいいが、こちらは、仁兵衛がことは、まったく聞かないで空き店(だな)を借りたという態(てい)でいること」
「さいですか」

「それから、どの。連絡(つなぎ)の者は、千住方角か、北本所あたりから来るとおもっておくこと」
「承知しやした。が、なんで?」
「〔盗人酒屋〕の忠助どんの読みです」
「そういえば、忠助どんの店にも、しばらく、ご無沙汰しておりやす」
「この件が片づいたら、馳走しょう」
「待ってますぜ」

左馬之助には、くれぐれも彦十から目をはなさないようにと、念をおした。
墓火〕一味のことゆえ、彦十を攫って口をわらすこともを杞憂していたのである。
もちろん、銕三郎は、〔墓火〕の秀五郎(ひでごろう)がどういう首領かもしらない。
しかし、酒薦印づけ職の〔蛭田(ひるた)〕の善吉(ぜんきち)こと、午造(うまぞう)の殺し方から想像して、相当に手荒い一味とふんだのである。

ところが、彦十たちが移り住んだ3日目に、45,6の齢かっこうの老婦が訪ねてきた。
応対にでた彦十をみて、家を間違えたとおもったか、いったん戸口から外へ出、あらためて入ってきて、
「あの、どなたさんでしょう?」
「あっちは、3日めえに越してきた、太郎吉ってもんですが、だれにご用で---?」
おんなは、返事もあいさつもしないで、引きかえした。

彦十は、機転をきかせ、左馬之助に尾行(つ)けてもらった。
正解であった。
おんなは、御厩河岸で渡し舟にのったのである。
もし、彦十だったら、そこで尾行を見破られたろう。
左馬之助は、おんながきたときに顔をみられていない。
だから、渡し舟に乗りあわせても、尾行者とまでは気がまわらない。
左馬之助は、何くわぬ顔で、しきりに首をかしげているおんなを横目で観察した。

おんなが入っていったのは、北本所の中ノ郷竹町のしもた屋であった。

_140_2菅沼組に捉えられたのは、〔墓火〕の秀五郎の妾としては用ずみの、お(すえ)であった。
もっとも、44,5歳のおを、用ずみなどと呼んだということを、弥勒寺門前の茶店〔笹や〕の主・お(くま 46歳)が耳にしたら、それこそ怒りくるって、素っ裸になり、
「用が足せるか、たせないか、抱いてみてからいえ」
と怒鳴るであろう。
ま、裸躰はともかく、顔の皺をみると、柳原の夜鷹などよりも齢をくっていることはたしかだから、用をたしたがる男は滅多にいないとおもうが---。(歌麿『寄辻君恋』 美しすぎる夜鷹のイメージ)

それはともかく、村越筆頭が紙づつみを銕三郎の前においたとき、
村越さま。捉えてから申しあげるのもなんですが、おを釈放さなさる手だてをおかんがえいただけませぬか」
「なんと---?」
「おを拷問におかけになると、仁兵衛の二の舞を演じましょう。さらに申せば、おは盗賊の首領の妾であったことはありましたが、盗みに加わったという証拠はございませぬ。詮議が評定所までもちあがると、菅沼摂津守さまに傷がつくやもしれませぬ」

村越筆頭から銕三郎の申し分を聞いた菅沼組頭は、
「もっともである」
と、おを召し放つにあたって、
「命びろいをしたのは、長谷川銕三郎どのという部屋住みの若衆のお蔭であることを忘れるな」
と言い渡した。


参照】2008年3月23日~[〔墓火(はかび)〕の秀五郎] () () ()  () (


参照】2008年3月19日~[菅沼摂津守虎常] (1) (2) (3) (4)

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2009.03.25

〔墓火(はかび)〕の秀五郎・初代(3)

同心・田口耕三(28歳)とは、両国橋の東詰で別かれた。
銕三郎(てつさぶろう 24歳)は、竪川ぞいに三ッ目ノ橋まで行き、屋敷へ帰ると断ってから、
田口さま。〔佐江戸(さえど)〕の仁兵衛(にへえ 31歳)が、御厩河岸の渡しを使っておいて、深川の同郷の者と会っていると、わざわざ小浪(こなみ 30歳)に告げているのは、〔墓火(はかび)〕一味の盗人宿(ぬすっとやど)を隠すためかともおもわれます。もしやしたら、盗人宿は---竪川(たてかわ)ぞいの相生町、もしくは北本所の番場町あたりにあるのかもしれませぬ。あのあたりの辻番所なり木戸番をおあたりになってみてはいかがでしょう?」
「一つの目安ですな」
田口同心は、回向院のほうへ向かった。

それを見さだめた銕三郎は、一ッ目ノ橋を南へわたり、弁天社裏の裏長屋で〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 34歳)を呼び出し、二ッ目ノ橋東詰の軍鶏なべ〔五鉄〕へ誘った。

入れこみの奥の卓で、まず、酒をすすめ、
「命がけの仕事があるのだが---」
「こんな命でよければ(てつ)っつぁんに差しあげまさあ」
力む彦十に、
「いや。むざむざとは死なせはせぬ。左馬(さま 之助 24歳)さんが 守護をする」

仕事は、浅草阿部川町の法成寺脇、〔佐江戸〕の仁兵衛が数珠職として住んでいた裏長屋に、新たな店子として浪人・岸井左馬之助とともに引越し、訪ねてきた者を尾行(つ)けて行き先をつきとめることで、手当ては日に1朱(約1万円)ときまった。

銕三郎のもくろみは、仁兵衛が捕縛されてからまだ7日夜と経ていない。
〔墓火〕一味の中には、仁兵衛の捕縛を知らされていない者もいるはず、と推察したのである。

<とりあえずの手当て1分(約4万円)をstrong>彦十へ渡し、鍋は彦十に残し、三次郎(さんじろう )には、彦十にあまり呑ませるなと言いおいて、押上の春慶寺へ向かった。

春慶寺の離れから、岸井左馬之助と連れだち、四ッ目ノ橋に近い〔盗人酒場〕へむかう。
道中、火盗改メ・助役(すけやく)の組頭・菅沼摂津守(虎常 とらつね 55歳 700石)のところの筆頭与力・村越増次郎(ますじろう 48歳)からたのまれた、酒薦印づけ職・午助(うますけ 34歳)の口封じの殺し捜しの一件に、用心棒がいるのだと話した。

「新妻をほったらかして、捕り物にうつつを抜かしていていいのか?」
その左馬之助の耳へそっと、
「じつは、久栄が身ごもったらしい」
「らしいって---さん」
「いや。で、ちと、控えめに---と、母者から言われてな」
「そういうこともあるんだ」
一人暮らしをしている左馬之助には、夫婦の機微は、まだ、察しがつかない。

〔盗人酒屋〕には、客が幾客もいて、〔(たずがね)〕の忠助は板場へこもりっきりで、客席のほうは、おまさ(12歳)がひとりできりもりしていた。

ちろりと肴を配膳したおまさに、
「いいか?」
銕三郎が、目で板場を指した。
「ちょっとのまなら」
左馬之助の相手をおまさにまかせ、板場へ入った。

「〔墓火〕のところの〔佐江戸〕のが、菅沼組の牢内で、舌を噛み切って果てた」
低い声でささやく。
忠助は、包丁の手もとめずに、
「見事な---いまどき、筋の通ったのが少なくなりやしたからねえ」

佐江戸〕のを吐いた嘗役(なめやく)もどきの軽い者(の)が、助役方の見廻り地内の地獄谷で口封じをされたこと、菅沼組としては、町方への意地もあって、いきにえを一人あげないではすまないことを、手短に話すと、銕三郎を見ないで忠助がつぶやくように言う。

「粕壁から江戸へのとば口は、北千住のほかに、四ッ木から向島の筋もありやすからねえ」、
銕三郎は、忠助の背中をぽんと叩いて、板場をでた。
見送った忠助が、初めて、小さく笑った。

参照】2008年3月23日~[〔墓火(はかび)〕の秀五郎] () ()  () () (


参照】2008年3月19日~[菅沼摂津守虎常] (1) (2) (3) (4)

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2009.03.24

〔墓火(はかび)〕の秀五郎・初代(2)

あとさきもなく、ずばりと、〔墓火(はかび)〕の秀五郎という名に耳覚えはないか、と鉄五郎(てつごろう 24歳)から訊かれたもので、場数をふんでいるさすがの小浪(こなみ 30歳)も、とっさに視線を動揺させた。

銕三郎は見のがさない。
「何かご存じのようですな」
ちらっと同心・田口耕三を気にしてから、小浪が頷(うなず)いた。

「ついさきごろ、お縄になった〔佐江戸(さえど)の仁兵衛(iにへえ 31歳)はんが、渡しの帰り舟のついでに、お茶を召しがてら、お休みにならはりました」
仁兵衛も、小浪も盗(つとめ)にかかわりがあるおんなだと、においで感じとっていたらしい。
もちろん、直裁に素性をうちあけたわけではない。
おもて向きは、あくまで阿部川町の裏店で数珠職をよそおっていた。

だが、あるとき、ふっと、
「この冬場の火盗のお頭に、菅沼摂津とおっしゃる方が発令になったそうですな」
とつぶやいて、小浪の眸(め)の動きを確かめるようにうかがったという。
「そやけど、このあたりィは、定役(じょうやく)はんのおかかりどすよって---」
そう受けると、合点したように、
「深川あたりの見廻りが濃くなりそうで---」
「ほな、深川にィも、納め先がおますのんですか?」
「いや。品(ぶつ)の納めは新寺町だが、同郷の知り合いが深川におりましてな」
ふっと笑いをもらし、それきり、黙ったという。

田口同心がせきこんで、
「知り合いは、深川のどこと---?」
問いかけたのを、京都弁でさらりと流した。
「そないお言いやしたかて、聞いてェしまへんのどす」

_100銕三郎が、お代わりを頼んで、新しい茶がきたとき、
「〔佐江戸〕という通り名が知れたのは---?」
小浪ははっとしたようであったが、あっさりと打ちあけた。
「連れのお人と見えたときに、通り名で呼びかけあってはったし、粕壁のお頭---というのんも耳にしましたよって、〔墓火〕のお頭のとこのお人やなあと---」

「その連れの男というのは---?」
またしても田口同心が口をはさむ。
「男はんてはゆうてはらしまへんえ。おなごはんどした」
「女賊---齢のころは?」
{40を3つか4つもすぎてはりましたやろか」

銕三郎が引きつぐ。
「石原橋からの帰り舟で着いたようでしたか?」
「いいえ。そのときは、舟は着いてえしまへん」
「では、蔵前通りから?」
「そないおもいました」
「その女性(にょしょう)ときたのは、初めて?」
「初回きりどした」

そのおんながなにかの職人ふうであったことがわかっただけで、銕三郎と田口同心はあきらめて、切りあげた。

渡し舟を対岸の石原橋の舟着きで降り、両国橋のほうへ幕府の竹蔵前の河岸道を歩きながら、銕三郎が、
田口さま。小浪どのは拙の大切な伏せ綱(ふせづな 間者)です。くれぐれも、他言はご無用にお願いしておきます」

ちぢみのように細かく波立っている大川の水面に視線を投げながら、
「心得ましたが、まさか、長谷川どののこれでは?」
田口同心が小指を立てた。
「とんでもない。あの人には、怖い後ろ楯がついています」
「ほう」
浅草、今戸をとりしきっている香具師の元締の〔木賊(とくさ)〕の林造(りんぞう 60歳)と告げた。
「人を殺(あやめ)ることなぞ、なんともおもっていない輩ですから、お気をつけください」


参照】2008年3月23日~[〔墓火(はかび)〕の秀五郎] () () () () (

参照】2008年3月19日~[菅沼摂津守虎常] (1) (2) (3) (4)



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2009.03.23

〔墓火(はかび)〕の秀五郎・初代

菅沼組の筆頭与力・村越増五郎(ますごろう 48歳)から、酒薦印づけ職・午造(うまぞう 35歳)を殺害した〔墓火(はかび)〕の秀五郎(50がらみ)一味の探索をたのまれた銕三郎(てつさぶろう 24歳)は、この事件を担当している与力と同心への顔つなぎを、まず、提案した。

参照】2008年3月19日~[菅沼摂津守虎常] (1) (2) (3) (4)

「ごもっとも」
早速に、椎名陽介(42歳)与力と田口耕三(28歳)同心が呼ばれた。
じっさいに、遺体の検分に立ちあったのは田口同心である。
椎名与力は、先役・仁賀保組から引きついだ、〔墓火〕かかわりの手控え帳を見せてくれた。

それによると、午造に刺された〔佐江戸(さえど)〕の仁兵衛は、浅草阿部川で数珠づくり師に化けていたところを捉えられた。

_360
(数珠職 『風俗画報』明治28年11月10日号 塗り絵師:ちゅうすけ)

仁賀保組のきびしい拷問にも口をわらず、3日目の夜、舌を噛んで自裁したと。
ついでに書いておくと、呼び名の〔佐江戸〕は、武蔵国都筑郡(つづきこおり)の村名である(現・横浜市都筑区佐江戸町)。

仁賀保組の小者が、佐江戸村まで身元調べに出張ったが、けっきょく、生家はわからなかった。
法恩寺の住職の話では、30年ちかくも前に村を捨てた何軒かのうちの一家かもしれないということでおさまったという。
遺骸は、罪人ゆえに鈴の森に捨てられた。
そのことを聞いたとき、銕三郎は顔色にはださなかったが、こころの中で合掌して成仏わ祈っていた。

辞去するとき、田口同心が町廻りにでるというので連れだち、三味線堀から蔵前のほうにあるいた。
火盗改メ・助役(すけやく)の菅沼組の受け持ちは日本橋から南と、深川・本所だから、田口同心は、きょうはどうやら、深川あたりの見回りをするつもりらしい。

陽は照っていたが、北風がきびしかった。
田口どの。そこらでお茶でも---」
誘うと、<田口strong>耕三同心は、けっこうですな、と応じた。

三好町の茶店〔小浪〕へ入った。
_100
田口同心の着流しに2本差し姿から、火盗改メと早くも察した小浪(こなみ 30歳)は、ふつうの客なみのあつかいをきめこんだ。
銕三郎が首をふって、
小浪どの。こちらは、いいのですよ」
田口耕三のほうは、ぼうっとして、小浪の美貌にみいっている。

銕三郎には茶を、田口の湯呑みには酒を注いでだした小浪に、田口を引きあわせ、
「見廻りが深川・本所のときは、寄ってあげてください。女将どの。よろしく」
田口同心は、ぴょこりと立って、不器用にあいさつをし、湯呑みの中味が酒としると、また感心しきりであった。

小浪どの。〔墓火〕の秀五郎というご仁に、耳覚えはありませぬか?」
銕三郎が、あまりに自然に訊いたので、田口同心はまたも目を見はった。


参照】2008年3月23日~[〔墓火(はかび)〕の秀五郎] () () () () (

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2009.03.22

菅沼摂津守虎常(4)

長谷川どのは、仁賀保内記さまのところの筆頭与力・大竹治兵衛(じへえ)どのをご存じかな?」
問うたのは、先手・弓の4番手、この9月下旬から冬場の火盗改メ・助役(すけやく)を命じられた菅沼組の筆頭与力の村越増五郎(ますごろう 48歳)である。

仁賀保内記とは、この3月まで火盗改メ・助役を務めていた先手鉄砲(つつ)の15番手の組頭・誠之(のぶゆき 60歳 1200石)がこと。

銕三郎(てつさぶろう 24歳)が応じた。
「いえ。お会いしたのは、与力の津山作之進(さくのしん 52歳)さまでした」
津山与力には、1番勝負で胴に棟撃ちをくらわせた浪人・千田某のことで差し紙(よびだし状)をもらって会った。

参照】2008年12月21日[銕三郎、1番勝負] () () () () (

「おそらく、その津山与力どのから大竹筆頭どのへ報告があがったのでござろう。大竹筆頭からのご推薦のほかにも、長山百助直幡 なおはた)さま組の佐々木筆頭与力どのからも、長谷川どのに助力をいただくようにといわれておりましたな」
「身にすぎたご推薦です。拙は、摂津組頭さまからあそびにこい---とお誘いをいただきましたもので、図々しくまかりでました」
「お頭からも、そう、うかがっておりました」

大竹筆頭が持ちかけた頼みごとは、 殺された酒薦(さかごも)印(いん)づけ職の午造(うまぞう )の犯人捜しであった。
殺人は火盗改メの任ではなく、町奉行所の受け持ちでは---銕三郎が不審を述べると、村越筆頭は苦笑しながら、仁賀保組から引きついだ密偵なのだと打ちあけた。
午造というのも密偵になったときにつけた仮の名で、捕縛されたときは、〔蛭田(ひるた)〕の善吉(ぜんきち 33歳=当時)であったと。

「〔蛭田〕という〔通り名(呼び名)〕からも察しがおつきでしょうが、武蔵国埼玉郡(さいたまこおり)の代官支配地・下蛭田村の小農の3男で、幼いころからの絵ごころを買われて、越後の酒薦印づけ屋へ引きとられたらしいのですが、賭けごとに手をそめたために追い出されて行きづまっていたところを、蛭田に近い粕壁村(現・埼玉県春日部市)出の盗賊の首領・先代の〔墓火はかび)〕の秀五郎(ひでごろう)にひろわれたらしいのです」

参照】『鬼平犯科帳』ファンなら、〔墓火〕の秀五郎という名を目にしただけで、文庫巻2[谷中・いろは茶屋〕で、娼妓おに、ぽんと10両わたして「この金を好きな男(ひと)のためにつかっておくれ」と言った50男を思いうかべよう。
そう、「人間という生きものは、悪いことをしながら善(よ)いこともするし、人にきらわれることをしながら、いつもいつも人に好かれたいとおもっている---」との人生訓を垂れた〔川越さん〕である。
谷中・いろは茶屋]の〔墓火〕は2代目で、銕三郎の時代のそれは初代である。

午造は、もちろん、もともとが印づけ職だから、盗みの技(わざ)などはもっていない。
墓火〕が目をつけたのも、酒薦印づけの手練であった。
江戸では、料亭などが縁起と景気づけに、自店の屋標(店紋 マーク)と店名を描いた薦樽を店前に積みあげることが流行っていた。
善吉への注文はとぎれることはなかった。
善吉は、料亭となじみになって、内証(ないしょう)の重軽、出入り客のふところ具合を〔墓火〕一味へ報らせ、押し入り当日は見張りにたっていたのである。

だから、簡単に捕まった。
で、連絡(つなぎ)の〔佐江戸(さえど)〕の仁兵衛(にへえ 31歳)を差して罪をゆるされ、名を午造と変えたが、生活(たつき)はあいかわらず酒薦印づけをしていた。
午造のゆえんは、「蛭田」---「ひるた」---「昼だ」---昼(正午)は午(うま)の刻(こく)としゃれたのである。
住まいも粕壁とは方角が逆の、東海道すじの高輪・車町の裏長屋に変えた。
まあ、酒樽薦印づけ仕事は、ひろげた薦を載せる台があれば、薦の四隅をとめ、あとは絵ごころ次第だから、裏長屋の居職ですむ。

_360_2
(酒薦印づけ職 『風俗画報』明治29年10月20日号
塗り絵師;ちゅうすけ)

これで〔墓火〕一味の目をごまかせるとふんだ、火盗改メ方の読みが甘かった。

居職とはいえ、印づけをしおわった薦を大八につんで元請けのところか酒屋へとどけたり、注文主の披露祝いに招かれたりで顔をさらすこともないではない。
しかも、酒薦印づけという特殊な職業である。
墓火〕一味としては、網をせばめやすい。

午造の遺体が発見されたのは?」
「二本榎の細川越中どのの中屋敷のはずれ、樹木谷の草むらで---」
昼でも鬱蒼とくらい樹木谷は、語呂合わせで、地獄谷の異称がある。

「拙がお手助けすることは?」
「いうまでもない。午造の口を封じた〔墓火〕一味の尻っ尾をつかんでいただきたい」
「町方の十手持ちのような仕事ですな」

山椒】2008年3月19日~[菅沼摂津守虎常] (1) (2) (3)

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2009.03.21

菅沼摂津守虎常(3)

1_100宮城谷光昌さん『古城の風景 1  菅沼の城、奥平の城、松平の城』(新潮文庫 2008.4.1)に、

以前、野田菅沼氏を小説にする、と私がいったとき、「小説新潮」の編集長であったMさんは、しきりに、
「宗堅(そうけん)寺」
を気にして、三重県長島町(現・桑名市)の役場に問い合わせしていた。それはとりもなおさず、
---菅沼定盈(さだみつ)を書くにちがいない。
と、Mさんがおもったからである。たしかに、定盈は天正(てんしょう)十八年(1590)に関東にはいった徳川家康に随(したが)って、上州阿保(あぼ いまの地図では埼玉県内)1万石をさずけられ、そこで隠居し、のちに嫡子(ちゃくし)の定仍(さだより)とともに伊勢の長島へ移り、慶長(けいちょう)九年(1604)七月十八日に亡(な)くなった。

没年は63歳(数え齢)であった。

_130_3宮城谷さんが小説にした菅沼氏は、東三河の野田城に本拠を置いていた、いわゆる野田菅沼の三代記で、『風は山河より 全5巻』(新潮社 2006.12..1~)となって結実している。

四谷戒行寺の墓域前で、銕三郎(てつさぶろう 24歳)に、
「こなたが銕三郎どのでしたか。相役の松田彦兵衛)どのから、うわさは聞いておりますぞ。わが組の筆頭与力・村越増五郎へ通じておきますから、いちど、役宅へお遊びにおいでなされ」
と誘いをかけた、先手・弓の4番手組頭・菅沼摂津守虎常(とらつね 55歳 700石)の家筋は、この野田・菅沼定盈の3男がたてた家系である。

それで、『寛政重修諸家譜』の定盈のくだりを読んでいて、「これは---」という記述に目がいった。

永禄11年(1568)というから、定盈が27歳のときである。
家康軍の先手となって浜松を攻め落とした。
そのあと---、

馬伏塚(まふしづか)の小笠原美作守某、中泉東宝井の渡り西が崎に出張するのとき、大須賀五郎左衛門康高(やすたか)につづいて川を渡し、敵数騎をうちとる。

地元の人たちが馬伏塚(まむしづか)と読んでいる城址は訪れたことがある。
いまは袋井市に合併されているが、当時は磐田郡浅羽町であった。

鬼平犯科帳』文庫巻11に[]というユーモラスな話が収録されている。もと首領・〔帯川おびかわ)〕の源助(げんすけ)にしたがって引退し、京扇の店〔平野屋〕の番頭におさまっているのが〔馬伏まぶせ)の茂兵衛(もへえ)である。

とんだところで、菅沼一門と『鬼平犯科帳』がつながったので、しばし、苦笑した。
いや、歴史を読むということは、こういうつながりで深まっていく---といっておこう。
長谷川平蔵宣雄(のぶお)・宣以(のぶため)を、なめるように調べているのも、こういう出会いが楽しいからである。
通りいっぺんに読み過ごしていては、時間(人生)がもったいない。

ついで記しておくと、池波さんが直木賞をとって3年目、『鬼平犯科帳』の連載をはじめる5年前---1963(昭和38)年、40歳のときの短編に『鳥居強(すね)右衛門』がある(『小説新潮』3月号)。

長篠城に籠もった奥平貞昌(さだまさ)の配下の強右衛門が、武田勝頼の大軍に包囲されたのをかいくぐって岡崎城へたどりつき、帰りにつかまって城内の者たちへ真実をつたえて磔になるというのがあらすじである。

100池波さんは、この短編を書くにあたっての観点を、[時代小説について]と題したエッセイに、

いまの若い人たちは、強右衛門の名をきいても、どんなことをした男か、ピンとこないだろうが、私どもの少年のころ強右衛門の忠勇無双の物語は誰でも一度は耳にしたことがある筈である。
武田の大軍にかこまれた長篠(ながしの)城を脱出し、織田・徳川の援軍を乞いに敵中を突破、見事に役目を果たした上、尚も、援軍を待ちこがれる城中の味方へこのことを知らせるため、危険をおかして只ひとり城へ引き返す。そして、ついに武田軍にとらえられる。
武田方は、強右衛門を城の前へ引き出し「もう援軍は来ないから、あきらめて降伏するように---」と言わせようとする。その通りにすれば、お前を武田方へ引き取り出世させてやるというのだ。一も二もなく強右衛門は承知をする。そしていざというときになると、「援軍はそこまで来ているから、いま少しの辛抱である。心を合わせてがばってくれ」と叫ぶのである。(略)

忠義というモラルが、今では通用しなくなっている。私自身でさえも、ただ殿様のため、味方のために何のおそれもなく命を投げ出せたという男を書く気にはなれない。
私が〔強右衛門〕を書こうと思ったのは、戦国時代に生きた男たちの姿を出来るかぎり深くさぐってみようと考え、そこから、なぜ強右衛門があのような見事なふるまいを行ったのかを考えてみたいと思ったからだ。

じつは、この長篠城は、『古城の風景 1  菅沼の城、奥平の城、松平の城』によると、永正(えいしょう)5年(1508)に、菅沼満成(みつなり)の子・元成(もとなり)が築いたものとある。
いわゆる、長篠菅沼家である。
正貞(まさただ)が、武田方に小諸の牢に幽閉されて疑われて死ぬのだが、牢内で夫人が産んだ子が正勝(まさかつ)で、家康に召され、のち、紀伊大納言頼宣に付属された正勝がその人である。

つまり、きのう、SBS学苑〔鬼平クラス〕の安池さんが、紀州へ行ってからの系譜がみたいとおもっている、田沼意次(おきつぐ)つながりの、あの菅沼なのである。

話を鳥居強右衛門にもどす。
宮城谷さんは、強右衛門を磔にして鑓で刺し殺させた武田勝頼について、心に彩(あや)のない武将となじり、強右衛門を「敵ながらあっぱれ」と放免していれば、後世、それを称える者が輩出していたろうにと。

山椒】2008年3月19日~[菅沼摂津守虎常] (1) (2) (4)

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2009.03.20

菅沼摂津守虎常(2)

2008年3月4日の[田沼意次(おきつぐ)の父]は、SBS学苑〔鬼平クラス〕でともに学んでいる、安池欣一さんの研究リポートであった。

安池さんは、.『南紀徳川史 第5冊』をあらため、田沼意次の実父・意行の、その父は、紀伊藩士・菅沼半兵衛の倅で、同じく紀伊藩士・田代七右衛門のところへ養子にはいった専左衛門重意(しげおき)であろう---との推察を記していた。

紀伊侯へ出仕するとき、田代の「」と、菅沼の「」をあわせて田沼を名乗ったとも。

それで、『寛政重修諸家譜』はすでにお調べであろうとおもったが、念のために『寛政譜』の菅沼一門のページと、その180年ほど前に編まれた『寛永諸家系図伝』の菅沼家のページのコピーを送った。

コピーの到着を告げ、
「送っていただいた 『寛政譜』のコピーの4ページ目にある、巻第三百五の「菅沼満成正勝」のこの続きがしりたいです。紀州藩の家臣ですから対象外ですね」
とのメールがきた。

満成正勝は、三河国設楽(しだら)郡長篠(ながしの)に住した、いわゆる長篠菅沼の一門である。
半兵衛の名を初めて称した正勝は七代目で、武田勝頼の麾下にあったが、その後、家康の陣営に加わって2500石を給され、紀伊大納言頼宣(よりのぶ)に配されて和歌山へ去った。

_360
(半兵衛正勝の個人譜)

安池さんのいうとおり、紀州家の家臣となった半兵衛正勝以後の家譜は、当家が吉宗に従って江戸城へ勤仕しないかぎり、『寛政譜』には載らない。
もっとも、『寛政譜』編纂部署の求めに応じて、家譜を呈出したことはかんがえられる。
もしかしたら、国立公文書館の奥ふかく、所蔵されているかもしれないが、田沼意次を調べた人で、半兵衛菅沼家の上呈草稿の存在を明かした人は、まだ、いない。

_130宮城谷昌光さん『風は山河より 全5巻』(新潮社 2006.12..1~)は、野田菅沼家に光をあてた大河小説である。
いま、その中に手がかりをさがしている。

参照】2008年3月19日~[菅沼摂津守虎常] (1) (3) (4)


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2009.03.19

菅沼摂津守虎常

「これは攝津守さま。異なところでお会いいたしました」
長谷川平蔵宣雄(のぶお 51歳)が挨拶をおくった、墓域から現われた武家は、先手・弓の4番手の組頭・菅沼摂津守虎常(とらつね 55歳 700石)であった。
場所は、四谷須賀町の戒行寺。
菅沼家は、先代から、ここを葬地としている。

1_
12_360
13_360
(菅沼摂津守虎常の[個人譜])

長谷川どのもこちらが香華寺でしたか」

菅沼虎常には、この年(明和6年 1769)の9月22日に火盗改メ・助役が発令されていた。
したがっていた30近い武士夫妻を、
「倅の次郎九郎定昌(さだまさ 28歳)とその連れ、それに、手前の老妻です」
定昌は、3年前から中奥の番士として出仕している。

「遅れましたが、これは息・銕三郎宣以(のぶため 24歳)と嫁の久栄(ひさえ 17歳)、それに、内の者です」
「ほう。こなたが銕三郎どのでしたか。相役の松田彦兵衛)どのから、おうわさは聞いておりますぞ。わが組の筆頭与力・村越増五郎(ますごろう 48歳)へ通じておきますゆえ、いちど、役宅へお遊びにおいでなされ」
名前のでた火盗改メ・本役の松田彦兵衛貞居(さだすえ 62歳 1150石)は、長谷川家の隣家で、継婦・於千華(ちか 34歳)と久栄が親しくしている。

菅沼親子が去ってから、招じられた庫裏で久栄銕三郎に告げた。 
菅沼さまのお屋敷は御徒町筋で、実家(さと)に近い、藤堂佐渡守高敦 たかあつ 伊勢・久居藩 5万3000石)さまの上屋敷の角(かど)向かいです。ぜひ、お出向きになってごらんなさいませ」
「これ。嫁ごどの。ただでさえ捕り物に熱をあげている(てつ)をあおってはなりませぬぞ」
宣雄が、笑いをふくんだ声でたしなめた。
茶目で明るい久栄が、好ましくて仕方がない風情なのである。
が、悋気まじりに、つねづね、
「殿さまは、久栄が来てから、若返りなされたようで---」
と冷やかすので、宣雄は大いに困惑しているふうを演技しては、ごまかしている。
そのくせ、月代(さかやき)をあたったあとなど、ひそかに手鏡にむかってにやついたりしているのである。

住持の日選師(にっせん)も、温和な目で、嫁・舅のたくまざるじゃれあいを黙視していたが、
「さて。ご用向きの、円了院どのの年忌の日取りですが---」
円了院とは、宣雄の養父---といっても、じつは従兄--・権十郎宣尹(のぶただ 没年34歳)で、暮れが21回忌にあたる。

参照】2007年5月2日[『柳営補任』の誤植] 

ちゅうすけ注】諸記録は、権十郎宣尹の逝った日を、寛延元年正月10日としている。戒行寺の霊位簿もそうなっているらしい。
しかし、幕府などへの諸届けのことも考えると、忌報は年末年始はに遠慮しよう。それで、12月大晦日ぎりぎりに歿したものを、正月10日としてととどけこともかんがえられないではない。
とりわけ、宣雄の末期養子の手続きをとどこおりなくすますには、歿日を遅らせる必要もありそうにおもえる。

「ご住持。菅沼家は、いつから当寺に---?」
長谷川さまはご同役ゆえ、とくとご承知のこととおもいますが、わが檀徒になられた菅沼家は、ご当代の摂津守さまの親御どの・日審(にっしん 主膳正定虎 さだとら 没年66歳)さまが、有徳院吉宗)さまに近侍して紀州藩邸から江戸城へお入りになりましたゆえ、新しく、当寺を葬地にお選びになりました」
「なるほど」

菅沼一門の中には、同じ四谷ながら舟町にある曹洞宗・全勝寺を選んだ家や、高田の保善寺などを供養寺としている家もある。
定虎に、戒行寺へ決めさせたのは、吉宗に従った重鎮・加納遠江守久通(ひさみち 若年寄 没年76歳)であったかもしれない。
いや、日選師の政治力をたたえておこう。

参照】[菅沼摂津守虎常] (2) (3) (4)

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2009.03.18

久栄のおめでた(4)

「若奥方さま。ようこそ、おわたりくださいました」
雑司ヶ谷の料理茶屋〔橘屋〕の主人・忠兵衛(50歳すぎ)は、豊頬に笑みをみせて、久栄(ひさえ 17歳)にあいさつした。

なんと、1年前まで、お(なか 34才=当時)の宿直(とのい)の夜ごとに、銕三郎(てつさぶろう 23歳=当時)が泊まりにきていた部屋である。
(忘れろ、というこころづかいかな)
銕三郎は、そっと忠兵衛の顔色をうかがうが、かれはそしらぬ顔で、久栄にやさしげな目を向けている。
その忠兵衛の斜めうしろには、女中頭・お(えい 37歳)が静かにひかえている。

「婚儀のお祝いもの、かたじけなく---と、篤く述べるようにと、父上からくれぐれもいいつかっております」
久栄が、武家育ちらしく、かしこまった口調で礼を述べる。
こういうときの久栄は、17歳の新妻とはとてもおもえない、しっかりした言葉づかいである。

「とんでもないことでございます。長谷川さまとは兄弟同然のあいだがらゆえ、謝辞などにはおよびません。こんごとも、叔父の家とおぼしめして、しっかりとおわたりくださいますよう---」
忠兵衛は、細い目をいっそう細めて、久栄にそそぐ。

そこへ、お(ゆき 24歳)が折敷(おしき)に伊勢えびの剥き身を運んできた。
「若奥方さまが、お悪阻(つわり)はまだ、とうかがっており、帳場が、酢のものを多めに調理させていたしたようでございます」
が口をそえる。
(危ない。おが口をすべらせなければいいが---)
銕三郎の懸念をよそに、おは2人に配膳すると、そしらぬ表情で引きさがる。

参照】2008年10月11日[お勝というおんな] (
2008年10月22日[〔橘屋〕のお雪] (

久栄が箸をおろすと、忠兵衛は、それをしおに引きさがった。
あとは、無難に、おが応酬する。

食事が終わったころあいに、忠兵衛があらわれ、銕三郎を離れの外へいざなった。
「あの部屋でお寝(やす)みいただくのもはばかられますので、手前の家に寝所を用意いたしました」
「ご配慮をどうも。ところで亭主どまの。おとのこと、久栄に告げて、さっぱりしたほうがよろしいかとも---?」
「なりませぬ。そのために、この離れを用意いたしました。おとのことは、夢のなかでのあだなしごととお割り切りなさいまし」

参照】2008年8月14日~[〔橘屋〕のお仲] () (
2008年12月29日[〔橘屋〕の忠兵衛] () 

忠兵衛は、女房に浮気の現場へ踏み込まれ、上布団をはがれた亭主の科白---
「しっかり見さだめろ。まだ、半分しか入っておらん」
それで女房は、悋気と勘気をおさめたという笑い話を引き、
「山の神どのというのは、しらなければしらないで安心しているものなのですよ」
世慣れた男としての教訓をたれた。

その夜。
〔橘屋〕から、忠兵衛の提灯にみちびかれた2人は、鬼子母神の裏手ぞいに忠兵衛の屋敷の、布団が並んで敷かれた客間へ案内された。

「今夜はひかえよう」
用意されていた寝着に着替えて横になるとき、銕三郎が久栄の耳もとでささやく。
「はい」

おとなしく自分のふとんにはいった久栄が、すぐに銕三郎の横へ入ってき、その手をとって腹へたくりり寄せ、
「ほら、ややがご馳走によろこんでいます」
銕三郎の指は、蜘蛛が這うようにもぞもぞと、もっと下へ移っていった。

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2009.03.17

久栄のおめでた(3)

一の鳥居の手前で、久栄(ひさえ 17歳)が駕籠を降りた。
片手で腹をおさえながら、もう一方の手を横へのばして伸びをする。

そのあいだ、銕三郎(てつさぶろう 24歳)は、〔橘屋〕の知った顔の座敷女中に出会わないかと、あたりに気くばりながら、
「ややに、変わりはないか?」
久栄へ、いたわりの言葉をかけることを忘れない。
母・(たえ 44歳)から、動揺と冷えがお腹(なか)の赤ん坊によくないと、きつくいましめられたのである。

参道の欅は、早くも、半分ちかくの葉が色を変えはじめていた。
旬日のうちに、参道ぞいの酒肉店(りょうりや)は、大量の落ち葉の掃除に、毎朝、おわれるであろう。

鬼子母神(きしもじん)は、子授け、安産、子育ての功徳がいわれているインドの女神である。
この女神から生まれたのが、美と繁栄の吉祥天(きっしょうてん)といわている。
その下を行き来している参詣者は、さすがに女性が多い。

398_360
(鬼子母神と法明寺(右上方) 『江戸名所図会』
塗り絵師:ちゅうすけ)

参道の右側には、茶店や食べ物屋が軒をつらねている。
10月8日13日までの会式(えしき)には、こんな人出ではすまない。
堂内には、大がかりな機械(からくり)を仕掛けて人寄せをし、そのさまは、

 群集して、稲麻のごとし。

とものの本に書かれている。

399_360
(10月の会式 『江戸名所図会』塗り絵師:ちゅうすけ)

鬼子母神を祀っているのは、日蓮宗の寺院が多い。
雑司ヶ谷の鬼子母神堂も、日蓮宗の法明寺の子院である。
住職は、ふだんは、法明寺に住持している。

しかし、町飛脚便で銕三郎・久栄の参詣をこころえた〔橘屋〕忠兵衛が、法明寺へ布施したとみえて、寺僧が待っていた。
身の丈5寸ほどの本尊の前で安産祈願の経をあげた。
銕三郎には、

 「もし、人、天の中に生まれれば、勝妙の楽を浮け、もし、仏前にあらば、蓮華のなかに化生せん」

という箇所だけが聞きとれた。

ついてに記しておくと、長谷川家の香華寺・戒行寺も日蓮宗である。
戒行寺の本山は、身延の久遠寺と、ものの本にある。

座敷で茶をすすめられた。
境内の樹齢500年以上という子授け銀杏(いちょう)の太幹を、深夜、人目をさけて抱き、題目をとなえると子がさずかるとの奇縁を話したあと、寺僧は、
「奥方さまは、すでにお子が授かっておられますから---」
と笑った。

_100退去ぎわに寺僧は、お守りを久栄に渡し、帯締にでもさげておくようにとの言葉をそえた。
写真のお守りは、いまのものであるが、鬼子母神の「鬼」の字を形づくっている上の「田」に角(つの)のようについている「ノ」がない。
「仏に角はございませぬ」
と、いまの法明寺の住持・近江師に教わった。

ただ、都内にのこっている唯一の市電の駅「鬼子母神」は「鬼」の字のままである。
切符の印刷など、すべてから「ノ」を取り去るには、億という額を要するゆえ、手つかずのままのこしてあるとも。

一の鳥居の編額からは「ノ」が除かれている。

参照】〔〔白峰(しらみね)〕の太四郎の項
〔掘切(ほりきり)〕の次郎助の項

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2009.03.16

久栄のおめでた(2)

(てつ)さま。お願いがございます」
久栄(ひさえ 17歳)があらたまって、夫・銕三郎(てつさぶろう 24歳)の前に三つ指をついた。

「冬の着物でもほしくなったかな」
「いいえ。ややが無事に生まれますように、雑司ヶ谷の鬼子母神(きしもじん)さまへお連れいただきたいのです」
「鬼子母神は、雑司ヶ谷までゆかずとも、入谷(いりや)にもあるが---」

銕三郎としては、鬼子母神の隣の料理茶屋〔橘屋〕の座敷で、座敷女中をしていたお(なか)の宿直(とのい)の夜を、一年以上も合歓(ごうかん)していたこともあり、そこへ久栄と参詣に行くのは、なんともはばかられた。

「お母上にご相談したら、〔橘屋〕のご亭主・忠兵衛どのへ頼めば、夕餉(ゆうげ)のあと、一泊くらいは計らってもらえるとか、おすすめくださいました」
「母上が、さように---?」
「はい。お料理が、ぜいたくだけれど、たいへんにおいしいとも、おすすめいただきました」
「うむ。考えておこう」
「悪阻(つわり)がはじまらぬ前がいいとも、おっしゃいました」
「それもそうだな。悪阻では、せっかくの料理が胃の腑に納まらなくなる。では、明日にでも、忠兵衛どのへ、便をつかわそう」
「うれしゅうございます。2人きりの外での夜は、寺嶋村のあの家以来---」

けっきょく、銕三郎久栄に押し切られた。
(いくらなんでも、母者(ははじゃ)は、おれがおと睦んでいたことまでは、洩らしておられまい)

そういえば、おに仕込まれた性戯を、まだ、ほんの2,3しか、久栄に与えていない。
夫婦(めおと)の床技は、小出しにほどこしていても、妻のほうが快楽のむさぼり方を自然に会得してしまうもの、とおの忠告を守ってきた。

その日がきた。
父・宣雄(のぶお 51歳)が贔屓にしている菊川橋のたもとの船宿〔あけぼの〕から舟を頼んだ。
横川から小名木川へ出、高橋(たかばし)をくぐると大川。

_130は〔橘屋〕の座敷名である(そのときは、まだ、お 33歳)で、南本所・弥勒寺の塔頭(たっちゅう)・竜光院前の五間堀から舟にのった。
刺客の目をさえぎるために、おは夜鷹ふうに手拭いをかむっていた。(歌麿『寄辻君恋』 お留のイメージ)


_130_2武家の初々しい新造らしい薄紅色の揚げ帽子が、久栄にはよく似合っている。(清長 久栄のイメージ)

大川から日本橋川へはいり、江戸橋、日本橋をくぐっても、久栄は端然と銕三郎の顔をみつめていて、左右に眸(め)を散らさない。
銕三郎も、過去の連想を断ち切っていた。
一石橋、常盤橋、神田橋、一橋橋、俎板(まないた)橋でも、久栄のその姿勢は変わらなかった。

ちゅうすけとしても、気がひけるのだが、おの名を出したてまえ、2年前の参照ファイルだけは引いておく。
参照】2008年8月6日~[〔梅川〕の仲居・お松] () () (

江戸川橋のたもと桜木町で舟を降りたが、久栄は船酔いもしていなかった。
音羽町9丁目の角の駕籠屋で久栄が乗ると、勢いよく、目白坂をのぼってゆく。

のぼりきったところの右手が、先手・弓の2番手の組屋敷である。
奥田山城守さま組方衆の組屋敷でございましょう?」
駕籠の中から、声をだした。
「さよう」
応えたものの、
(いつのまに、奥田山城守忠祇(ただまさ 67歳 300俵)どののことを、どのようにして探索したのものか。これでは、もしかすると、〔橘屋〕でのおとのあいだのことも調べつくしているのかもしれないぞ)

銕三郎の思惑を読んだように、久栄が言った。
奥田さまは、舅(しゅうと)どのとご同役でございます。失礼があってはなりませぬゆえ、実家(さと)の父に、弓組の組頭衆のあれこれを教わりましたのです」

行く手に鬼子母神の森が見えてくると、銕三郎の緊張はいよいよ高まった。

参照】2008年8月14日[〔橘屋〕のお仲] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)

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2009.03.15

久栄のおめでた

(てつ)どの。久栄さんは、もしやして、おめでたではないのかえ?」
母・(たえ 44歳)が、私塾・学而(がくじ)塾へ出かけるために、離れから内庭を抜けようとした銕三郎(てつさぶろう 24歳 のちの鬼平)を呼び止めた。

久栄(ひさえ 17歳)は、嫁してきて3ヶ月がすぎ、夜中、灯(あ)かりなしでも手さぐりをしないで厠へ行けるようになっていた。

「あ。そういえば---」
「そういえば、って、月のものは---」
「ですから、それがないので、毎夜---」
「あきれたこと。月のものが止まれば、ややができたに決まっているでしょう」
「むすめのころ、ないこともあったと言うものですから---」
「いつからない---いえ、それは久栄の口から聞きましょう」

そういうことで、長谷川家では、その晩、赤飯を炊いて、おめでたを祝った。
父・宣雄(のぶお 51歳)も、わざわざ、
「祝いの膳ゆえ、奥も、久栄もともに---」
と、膳を書院へ運ばせた。

久栄。丈夫な子を、たのむぞ」
「明日から、2,3日、お実家(さと)帰りをなされては?」
も、久栄の躰をいたわるように言った。

「ありがとうございます。しかし、実家へは帰りとうはございませぬ。このまま、さまといてはなりませぬか」
「ならぬということはありませぬが、ややの腰が定まるまで 夜のことは控えぎみになされませぬと---」
「お母上が、さまをお身ごもりなりましたときも、実家へお渡りになりましたのでございますか?」

は、軽く笑いにごまかしながら、
どのが宿ったのは、実家にいたときです。殿さまが、知行地の一つである寺崎の新田開拓の監督においでになっていて、村長(むらおさ)であったわたくしの家の離れに、ずっとお泊りになっておられまして---」
「あら。ご婚儀なし---でございましたの?」
「婚儀もなにも---」
「これ。奥、人聞きのわるいことを話すでない---」
「いいえ。久栄はもう、長谷川の嫁なのです。隠すことありませぬ」
は、毅然と突っぱね、宣雄は、てれ笑いですませた。

「あのときは、わたくしのほうから離れへ押しかけたのですよ。そうでもしないと、殿さまは、言い寄る村の後家でおすましになりそうでしたゆえ---」
「これ。---」
「わたくしが、湯もじもつけない浴衣一枚で押しかけましたのに、殿さまときたら、本から目を離そうろとなさらないので---」
「もう、いいではないか。20何年もむかしのことじゃ」
「ですから、むしゃぶりついて---」
「よさないか。そんな話をしては、若い者が、今夜も張りきるぞ」
「おっほほほ。ほんに、わたくしまで、芯が熱くなってきて---」

参照】2007年6月12日[神尾(かんお)五郎三郎春由(はるより)]
2008年10月10日[〔五井(ごい)の亀吉] (

C_360
(歌麿『ねがいの糸口』 20数年前の夜のイメージ)

離れでの会話を盗み聞いてみる。
「お父上にも、火がついたみたいでしたよ」
「いいではないか。まだ、お若いのだ」
「------」
「------」
「------ う、ふん」
「---む」
「ややに、あいさつをしてやってくださいまし」
「こんにちは、赤ちゃん、拙が父だよ、ってか。よし、まいろう」

_360
(清長 久栄のイメージ)

虫の声がはげしくなり、その先は聞こえなくなった---ということにしておこう。


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2009.03.14

東京都の出身と不明の盗人

さて、[盗賊 Who's Who] とでもいうべき紳士録(?)の棹尾(とうび)を飾るのが、江戸とその近郊生まれとおぼしい数十名の盗人たち。

もっとも、江戸生まれだからといって、潔いとはかぎらない。
潔いのは、おまさだけかも。
おまさの父・〔(たずがね)〕の忠助と母・お美津も、下総国印旛郡佐倉の在---酒々井(しすい)村(現・・千葉県印旛郡酒々井町酒々井)の出とふんでいるが、おまさ自身は、江戸で生まれている。
ただし、江戸のおんなの例で肌は透き通るように白いとはいいがたい---らしいのだが、それだと、母親を江戸生まれと見なければならないので、このあたり、池波さんの筆のすべりとしておこう。

おまさ梶 芽衣子さん)は、〔鬼平クラス〕を引率して京都の撮影所を見学したときに記念撮影をして、そばでしみじみと拝顔したが、そんなに浅黒い肌とはおもわなかった。
さんは東京生まれ。

_360

ついでに、鬼平さんと彦十さんとも。

_360_2

_360_3


いや、本題、ほんだい。

東京都の出身の盗人
不明
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なお、不明者について、おこころあたりがありましたら、コメント欄へご教示ください。

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2009.03.13

香川、愛媛、福岡、佐賀の各県出身の盗人

盗人の大票田の東京をのこして、ついに九州まできた。

四国も九州も、江戸へ遠いので、さすがに、火盗改メかかわりの盗人は少ない。

香川県の出身の盗人
愛媛県の出身の盗人
福岡県の主審の盗人
佐賀県の主審の盗人
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明日は東京と不明分。

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2009.03.12

兵庫、鳥取、島根、岡山、広島の各県出身の盗人

西のほう生まれの盗人は、活躍(?)の場がどうしても名古屋以西になりがちなので、火盗改メとのかかわりが、薄くなるようだ。

あるいは、池波さんの土地勘が薄いのかもしれないのが、そのゆえんかもしれない。

もっとも、なかには、[]の奇特にヒーロー---〔帯川(おびかわ)の源助のように、長野県出身で上方で盗(おつとめ)をしていたのもいるし、[はさみ撃ち]の〔猿皮(さるかわ)〕の小兵衛のように、西国でかせぎまくっておいて江戸に薬種屋をひらいているのもいる。

兵庫県の出身の盗人
鳥取県の出身の盗人
島根県の出身の盗人
岡山県の出身の盗人
広島県の出身の盗人

 ↑ 色変わりの県名をクリックで、その県出身と思われる盗賊が見られます。
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ちゅうすけ は、鳥取市が生地だし、甥一家は倉敷で育っている。
中国地方の鬼平ファンの方のコメントが、どっと、ほしいところ。


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2009.03.11

滋賀、京都、大阪、奈良、和歌山の各県出身の盗人

滋賀県生まれの盗賊は、静岡県や長野県に次いで多く書かれている。
それというのも、池波さんは、『鬼平犯科帳』を立ち上げる前、甲賀忍者ものを書いていた。
その取材の課程で、地名を記憶にとどめたのであろう。
代表的なのは、〔小房〕の粂八、〔大滝〕の五郎蔵。

もちろん、京都も、毎年末に骨休めしていたところだから、親しみもとりわけ深かったろう。
もっとも、父・宣雄の墓は、千本出水の華光寺にはない。葬儀をしただけとの文書があり、遺骨は江戸の戒行寺へ葬られた。
史実は史実として、小説にしたがって足を運んでもみたが。

滋賀県の出身の盗人
京都府の出身の盗人
大阪府の出身の盗人
奈良県の出身の盗人
和歌山県の出身の盗人

上の色代わりの県名をクリックで呼び出せます。最上段左端の[戻る]をクリックで元の画面に。

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2009.03.10

福井、岐阜、静岡、愛知、三重の各県出身の盗人

小説の盗人だって、観光資源なんだって、スイスで教えられた。
シャーロック・ホームズといっしょに滝壺へ落ちた---なんていったっけ、あの悪人---そうそう、モリアーティ---あの場所も観光名所だ。

ベルギーのリエージュ---メグレ警視の作家--ジョルジュ・シムノンの生誕地だけど、15,6歳のシムノンが人生や芸術などを論じていた、指物屋の2階にも、標識札が貼られていた。

地方自治体は、『鬼平犯科帳』からも、観光資源を抽きだしたらいい。墨田区だけに利を得さしめることはない。

きょうは、東京に次いで多く、盗賊の〔呼び名〕として使われている静岡県も紹介。
静岡県が多いのは、家康かかわりの小説の現地取材の回数がおおかったせいであろう。

福井県の出身の盗人たち
岐阜県の出身の盗人たち
静岡県の出身の盗人たち
愛知県の出身の盗人たち

 ↑ 色変わりの県名をクリックで、その県出身と思われる盗賊が見られます。
見終わったら、画面左上方の 「戻る」 をクリックで、一つ前ののページへ戻ります。
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2009.03.09

神奈川、山梨、長野、新潟、冨山の各県出身の盗人

明治30年代に出た吉田東伍博士『大日本地名辞書』(冨山房)が、池波さんの書斎にあるのを見つけ、ひょっとしたら、盗賊の呼び名は、これに拠っているのではなかろうか---と思いついた。
明治に出たこの辞書についての池波さんの弁。

たとえば、故吉田東伍博士の著書〔大日本地名辞書〕のごときは、手垢のつくまで使用させてもらつてたいるが、ページをひらくたびに、この念の入った、ほとんど半生をかけてなしとげられた業績の恩恵を身にしみて感ぜずにはいられないのだ。([時代小説について] 朝日文芸文庫『池波正太郎自選随筆集 2』)

それから、同『辞書』を捜した。(その課程で、80万円分ほどの蔵書を神田の某古書店(南〇堂書店)に騙りとられたのもいまとなっては苦笑ものである。やはり、その南〇堂書店は、古書組合を除名されたらしい。蔵書を売るときには、南〇堂は注意マーク)。

けっきょく、『辞書』は自宅から3kmほどのところにある区の図書館が所蔵していた。

330名ほどの盗人の出身地がこれで特定できた。
地方自治体の担当の方々のお世話にもなった。
自ら出向いていって確認したこともあった。

そしておもった。うまく使えば観光資源になると。

ま、とりあえず、、ともにお愉しみいただきたい。

神奈川県の出身の盗人
山梨県の出身の盗人
長野県の出身の盗人
新潟県の出身の盗人
富山県の出身の盗人
石川県の出身の盗人

 ↑ 色変わりになった県名をクリックで、見られます。
見終わったら、画面左上方の 「戻る」 をクリックで、一つ前ののページへ戻ります。
恐れずに、画面中のダイダイ色文字(関連人物)のクリックで、鬼平プロムナード(気まま散歩)をお愉しみください。

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2009.03.08

茨城、栃木、群馬、埼玉、千葉の各県出身の盗人

6~7年前、ホームページで[『鬼平犯科帳』と彩色『江戸名所図会』]というのを立ち上げた。
親しいデザイナーがタイトル・ページやレイアウトを担当してくれた。

しかし、礼をしないわけにはいかない。
そのお礼が、だんだん、負担になってきたときに、ブログが登場してきた。
これなら、ほとんど自分でやれる。

ただ、ブログの短所は、日記形式だから、過ぎた記事はほとんど読まれない。
それで、過去の記事にリンクを張ることをひこころがけるようにした。
というのは、データ中心のブログだから、うもれさせにはもったいないから。

こんどの盗人の出生地復活シリーズもその一つの試みである。

県名の色変わり((ダイダイ色)の県名をクリックすると、その県生まれとおぼしい盗人が
ぞろりと現われるしかけ。

茨城県出身の盗人
栃木県出身の盗人
群馬県出身の盗人
埼玉県出身の盗人
千葉県出身の盗人

さあ、↑ をクリックしてお確かめを。

元の画面へ戻るには、最上段に近い左端[戻る]をクリック。

該当県のご出身とかお住まいの方、コメントをお願いします。
掲出の県の方でなくても、ご感想をお書きこみください。

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2009.03.07

宮城、秋田、山形、福島の各県出身の盗人

2004年12月20日から4年2ヶ月---1500日以上、1日もやすまずに書きつづけてきた。
べつに、弱音を吐くわけではない。
資料調べを徹底したい。
それで、当初の1年数ヶ月つづけた、盗賊の出生地調べを振り返っていただきながら、そのすきに資料調べを、と考えた。
で、1日に4~5県ずつにリンクをはり、該当県に縁のある方には、その土地の思い出をコメントしていただき、そうでない方には『鬼平犯科帳』のおさらいをして、その篇や盗賊についてのご感想をコメントしていただくことに。

色変わり(橙色)している下の県名をクリックすると、その県の出身とおもえる盗賊が、ぞろっとでてくるしかけ。

鬼平犯科帳』は、いってしまうと、盗(と)られる商店、盗(と)る盗賊、それを捕(と)らえる火盗改メのお話である。
捕られる盗賊の人間性にも池波さんの配慮が及んでい、そのために並みの白浪ものを超えたおもしろさが生まれている。
そのあたりをお愉しみください。

宮城県出身の盗人
秋田県出身の盗人
山形県出身の盗人
福島県出身の盗人


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2009.03.06

蝦夷への想い

明和6年(1769) 8月18日の『徳川実紀』には、こう、記録されている。

西城宿老(注:老中)。板倉佐渡守勝清(かつきよ 64歳 上野・安中藩主 2万石)本城の列となる。
所司代・阿部飛騨守正允(まさちか 54歳 武蔵・忍藩主 10万石)西城の宿老となり豊後守とあらたむ。
_100御側用人・田沼主殿頭意次(おきつぐ 51歳 遠江・相良藩主 2万石)、加判の列に準じられ、侍従に任じ、加秩五千石を賜ひ、諸老とともに祗候すべしと命じらる。昵近(じっこん)の職兼る事故(もと)の如し(訳:側(そば)用人の職はそのまま兼ねよ。 肖像画)。

2万石の城持ち大名であった意次は、さらに5000石加増され、老中格で、待遇や権限が老中並みとなっわけで、しかも、側用人も兼任という異例さであった。

慶祝のあれこれが一段落した晩秋の宵、意次は久しぶりに清談を愉しみたいからと、木挽町(こびきちょう)の中屋敷に、長谷川平蔵宣雄(のぶお 51歳)・銕三郎(てつさぶろう 24歳)父子と、本多采女紀品(のりただ 56歳 新番頭 2000石)、佐野与八郎政親(まさちか 38歳 西丸・目付 1100石)のコンビを招いた。

参照】2007年7月25日~[田沼邸] (1) (2) (3) (4)
2007年2月28日[平賀源内と田沼意次]

銕三郎は、意次からの婚儀祝いにとどけられた源内焼の皿の礼を述べたのち、しばらく、本多紀品たちの話を、興味ぶかく聞いていた。

と、意次が、とつぜん、声をかけてきた。
銕三郎。このごろ、変わった捕りものの話はないかの?」
「はっ---変わっていますかどうか---拙が手先のように使っております者が、蝦夷(えぞ)の鹿が現われたと申しております」
「ほう。蝦夷の鹿が、両国広小路の見世物小屋にでも出たかの?」
「いえ。ほんもののエゾジカではございませぬ」

銕三郎は、〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 34歳)が幻視したという雌鹿の話をしたが、本所・深川の悪業ご家人・木村惣市父子のことは伏せた。

参照】2008年3月5日「雌エゾジカ

「その、彦十という者は、蝦夷となにかかかわりでもあるのかの?」
意次が、いたく関心を示したので、宣雄があわてて、たしなめる。
。はしたない小者のことなど、田沼さまのお耳へお入れするでない」
「いや。大いに感じておる。そのような下じもの者までが、蝦夷に気をそそられているというところが、なんとも時代らしい」

意次は、これは内密のことだが---と前置きして、オロシヤという北の大国の軍船が、蝦夷の近海にまで出没しているという書き上げが、松前藩からご用部屋へとどいていることを打ち明けた。
「その彦十とやらの幻視にエゾジカが現われたほど、ことは急なのじゃ。銕三郎彦十が、雌鹿にかぎらず、もし、蝦夷のなにかを幻視したら、かならず、予のところへとどけてくれるように」

銕三郎は、意次の政治家としての勘の鋭さを、さすが、と感じた。
真の政治家とは、庶民の潜在意識の中から未来をすくいとり、政策に反映させる準備を早めにしておくのが才能である。
工藤平助(へいすけ)の『赤蝦夷風説考』が板行されたのは、このときから14年後で、さらに意次が、勘定奉行・松本伊豆守秀持(ひでもち 56歳=天明5年 500石)に命じて、蝦夷地調査隊を派遣させたのは16年後であった。

参考】2007年7月29日~[石谷備後守清昌] (1) (2) (3)

2007年8月2日[松平武元後の幕閣
 

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2009.03.05

雌エゾジカ

「いってえ、どうなっちまってるんだよう」
相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 34歳)は、竪川(たてかわ)に架かる一ノ橋の欄干にもたれて満潮になってきた川面に浮かんでいる都鳥を見るともなく見ながら、さきほどから同じ呟きをなんども洩らしている。

聞きとがめた通りがかりの番頭ふうの40男が、
「どうかなさいましたか?」
と訊いたら、彦十はぎょろりと目をむき、
「てめえなんぞに、わかってたまるか。この馬鹿野郎ッ」
怒鳴られた番頭ふうは、鼻白んで、そそくさと立ち去った。

彦十の悩みには、〔馬鹿野郎〕が関係している。
相談相手のだち(友だち)が、ここのところ、まったく姿を見せなくなっているである。

だち〕と言っても、人ではない。
雄鹿である。
それも、彦十の生地である相模国足柄上郡斑目(まだらめ)村(現・神奈川県南足柄市斑目)の森の奥に生息している雄鹿である。
いまは、彦十の胸の奥に棲んでいる。

参照】2008年5月21日~[相模(さがみ)の彦十] (6) (7) (8)
2008年10月31日[伊庭(いば)の紋蔵(もんぞう)]

そのだちに、相談したいことができているのだ。
なのに、いくら呼んでも、雄鹿が姿をみせないのである。

相談したいことというのは、両国橋東詰脇の入り堀に架かる駒止橋ぎわの水茶屋の茶汲み女・お(ぎん 15歳)にかかわることであった。

は、この春からその水茶屋につとめていた。
家は、回向院東の松坂町の裏長屋で、叩き大工の父親が仕事先の屋根から落ちて大怪我をし、働けなくなった。
家には弟と妹が3人いる。
ととのった小顔が評判になり、彦十も贔屓客の一人であった。
というより、彦十は、幼いときに洪水で死にわかれた妹のようにおもわれ、親身に支援した。

ところが、そのおが行方がわからなくなり、5日も断りもなしに店を休んでいる。
松坂町の長屋にも帰っていない。
それで、事情を訊くために、だちの雄鹿を呼び出すのだが、いっこうにあらわれてくれないので、弱りきっていたのである。

竪川の都鳥が羽音をたてて、いっせいに飛び立った。

_180水しぶきの向こうから、鹿が一頭、姿をみせた。
角がないから、雄鹿のだちではない。

雌鹿は、訴えるような悲しげな目で、彦十をみつめている。
「おめえさん、どこから来なした?」
「蝦夷(えぞ)です」
「蝦夷---って、陸奥(むつ)の海の向こうの蝦夷かえ? それでうしろに雪が積もっているんだな」
「はい」
「そのエゾジカのおめえが、なんでここに---」
「助けてほしいのです」
「助ける?」
「あたしは、斑目(まだらめ)のゆう)さんと割りない仲になったのです。ところが、エゾジカのおきてで、本土の雄(おす)と情を通じたというので、牢にいれられてしまいました。ゆう)さんは、牢のまわりをぐるぐるまわっていますが、どうにもならないのです」

そう告げると、雌鹿は消えた。

彦十はエゾジカの暗示に気がついたが、躰がふるえた。
は、土地(ところの)の悪業ご家人・木村惣市(そういち 50歳近い)の息子---源太郎(げんたろう 30歳近い)に拐(かどわか)されたのだ。
そういえば、水茶屋で、おにしつこくからんでいる源太郎を幾度か見かけたことがあった。

彦十は、三ツ目通りの長谷川家へ急いだ。

ちゅうすけ注】ここから先は、『鬼平犯科帳』文庫巻22[迷路]p301 新装版p285 からを読みなおしてください。

が無事に救いだされたことは、書くまでもない。

ちゅうすけのひとり言】阿寒湖のそばに住んでいる、ネット友だちの numapy さんに、鹿の写真を頼んでおいたら、エゾジカの雌の写真がeメールでとどいた。
角のある雄鹿の写真は、春になったら奈良へ撮影に行く予定をしているが、もっと東京に近いところで撮影できそうな場所をご存じでしたら、このコメント欄へお教えいただくとありがたいのですが。

ちゅうすけのムダ口】上記[迷路]のミス・プリを記録しておく。p343 新装版p327

この事件は、平蔵の父・長谷川宣雄が〔西の丸・書院番頭〕という御役目についていただけに、幕府も捨ててはおけず、とりあえず平蔵は父の屋敷に置いて謹慎を命じられた。

---とあるが、宣雄が書院番を勤めた史実はない。番頭は、3000石以上の大身幕臣の席である。400石の宣雄が命じられわけがない。
当時、宣雄は、〔西丸・書院番士〕から〔小十人頭〕を経て、先手・弓の8番手の組頭(1500石格)であった。

何かの拍子に「」の字が混入してしまったのであろう。

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2009.03.04

田沼意行の父

SBS学苑の〔鬼平クラス〕と田沼主殿頭意次(おきつぐ 51歳=明和6年)の話題がでたついでに、同〔くクラス〕でいつも啓発してくださる安池欣一さんから、かねてお預かりしていた研究ノートを転載させていただく。
(ことわっておきますが、SBS学苑の〔鬼平クラス〕は、ふだんはもっとくだけた話を交わしています)


田沼意行(もとゆき)の父について
1. 『寛政重修(ちょうしゅう)諸家譜』(以下『寛政譜』)

田沼家の欄
「・・・・・・男次右衛門吉次はじめて紀伊頼宣卿につかえ、其子次右衛門吉重、其子次右衛門義房相継紀伊家に歴任し、義房のち病により、辞して和歌山城下の民間に閑居す、これを意行が父とす。

意行 重之助 専左衛門主殿頭 従五位下

父次右衛門義房仕官を辞するの時、意行は叔父田代七右衛門高近が許に養はれ、後紀伊家に於て召れて有徳院殿に仕へたてまつり、享保元年(1716)(江戸)城にいらせたまうのとき御伴の列にありて御家人に加へられ、・・・・・・」

これによりますと、田沼意行の父は次右衛門義房であり、「田代七右衛高近が許に養はれ」とあることから、田代家の養子になったと理解されます。

2..『南紀徳川史』第5冊

田代角兵衛の箇所につづく「田沼専左衛門重意 初名専之助」のところで「専左衛門ハ田代七右衛門重章之養子実ハ菅沼半兵衛倅之処由緒有之七右衛門養子に被 仰付御伽二被 召出田代之一字卜菅沼之一字トヲ取リ田沼卜名乗家之紋ハ田代之常紋七曜ヲ用ヒ侯様被 仰付後御小姓五十石ニテ 有徳院様 公儀御相続之節御供二被 召連正徳六年(1716)六月二十五日御小姓三百俵諸大夫・・・・」

これによりますと、
重意 初名専之助」は『寛政譜}』と一致しませんが、内容からいって田沼意行のことと考えられます。
・『寛政譜』の田代七右衛門高近と、ここの田代七右衛門重章とは同一人と考えられます。
・上からの命令で田代七右衛門の養子になったようで、田沼家の紋は田代家の紋を用いることとなったと記載されています。

3.『南紀徳川史』第12冊

財政に関する「歴世経済之大略」の有徳公のところで、
「此比奉行役に田代七右衛門あり宝永五子年(1708)九月淡輪新兵衛跡奉行を被命四百石に御加増(初伊都郡御代官八十石にて元禄六年(1693)十月御勘定頭に拝任同七年二月添奉行打込勤三百石と成り後主税頭公御勝手役又御本家御勝手奉行を経て如本記)同七年閏八月江戸詰中病死會計在職十八年也(七右衛門養子を田沼専左衛門と云有徳公御供にて公儀へ被召出則田沼玄蕃頭の祖先也)」

ここでは田代七右衛門としか書かれていなくて、田代七右衛門高近なの:か田代七右衛門重章之なのかはわかりません。ただし、田沼専左衛門が田代七右衛門の養子であることは書かれています。

4.後藤一朗著『田沼意次』付録の「田沼家系図」

田沼意行の父吉房のところには、

次右衛門仕紀州家享保15年(1730)6月18日華法名-峰玄枝居士葬江戸駒込勝林寺」

これによりますと
次右衛門書房の祖父・父は和歌山に墓地がありますが、吉房は江戸に埋葬されている。
・享保15年(1730)6月18日卒で田沼意行と同じ寺に埋葬されている。
意行吉房を江戸に引取ったのではないでしょうか。享保15年というと意行43歳であり、吉房は60歳を越えていたのではないでしょうか。

参照】2007年11月15日[駒込の勝林寺(しょうりんじ)]

疑問点
後藤一朗氏は『田沼意次』のなかで、
吉房は病弱のため比較的早く退官し、剃髪したという」
「1734年(享保19)冬、父意行、病にたおれ、危篤状態に陥ったとき、龍助を枕辺に招き、・・・・・これより家の紋を改め、七面様の七曜紋をいただき、わが家紋と定めよ。と遺言した.。
これにより今まで丸に一'だった家紋を七曜星に改めた」
と書かれている。家紋は南紀徳川史によれば、宝永2年(1705)頃七曜にしたと書かれてあるのに対して、後藤氏は享保19年(1734)としている。後藤氏はこの話を何により得たのでしょうか。

_360

ちゅうすけは、安池さんの疑問に答える原資料をもちあわせていない。
藤田覚さんの『田沼意次』(ミネルバ日本評伝選 2007.7.10)は、『寛政譜』の田沼家分から引いておられ、田沼家が書き上げた原文は引用されていない。
いや、国立公文書館に田沼家が書き上げ家史原文が残されているかどうかも記されていない。

ということは、『南紀徳川史』を参照した安池さんの調査のほうが、意行にかんかるかぎり、周到といえようか。

そういえば、藤田さんの上掲書は、意行に(もとゆき)とふられているルビは誤りらしいからと、(おきゆき)説をおとりになっていることを付記しておく。


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2009.03.03

ちゅうすけのひとり言(31)

各所の文化センターの〔鬼平クラス〕は、1ヵ所だけ残して、閉鎖した。
長かったのは、江東区の「鬼平熱愛倶楽部」と朝日カルチャーセンターが月2回で10年。
学習院大学生涯学習センターが5年。
自分でもあきれるほど、よくも、つづけた。

残しているのは、静岡駅ビルの7階で、月1回、第1日曜日の午後1時から開いているSBS学苑パルシェのクラス。
SBSとは、経営母体が静岡新聞静岡放送であるから。

つづけているのは、長谷川平蔵の祖先が、駿河国志太(しだ)郡小川(こがわ)の豪族で、今川義元の没後、田中城(現・藤枝市)城主に任じられ、武田信玄軍に攻められて徳川家康の陣営に入った史実で、まだ、解明できないことがあるので、ついでに県立中央図書館へ史料を読みに通いたいから。

徳川陣営に属した長谷川紀伊守正長(まさなが)、弟・藤九郎が戦死したのは三方ヶ原の戦いだが、その戦死の模様もいまのところ、はっきりしていない。それも、できれば調べつづけたい。

参照】2008年7月2日[ちゅうすけのひとり言] (16)

ついでにいうと、平蔵宣以(のぶため 家督前の銕三郎 てつさぶろう)を引き立てたのが田沼主殿頭意次(おきつぐ)と推定しているのだが、その意次の城地・相良(現・牧之原市)も、静岡県内である。

田沼意次の評価は、最近、徐々にであるが、変わりつつあるとはいえ、政敵によってこれまた史料が抹消されたかして、非常に少ない。
パルシェの〔鬼平クラス〕では、できるかぎり、田沼意次のことにも触れて、ともに学んでいる方々に、目をひらかせていただいている。

参照】2007年11月20日[相良の浄心寺
2007年11月13日[相良の平田寺] 
2007年11月11日[相良の遺跡地図
2007年11月8日[相良の大沢寺
2007年11月7日[相良の般若寺
2007年11月6日[相良史城址の松樹
2006年12月7日[相良城の請け取り

その一人、村越一彦さんの名は、これまでも幾度かあげている。
きょうは、相良城の普請奉行であった三好四郎兵衛と、城代・倉見金太夫が、同地の飯津和気之(いつわけの)神社へ寄進した灯篭について取材なさったことから話をすすめたい。

_360_3
(相良城下の飯津和気之神社と拝殿左右の灯篭)

_250Photo

〔ミネルバ日本評伝選〕シリーズの1冊に、藤田覚さん『田沼意次』(2007.7.10)がある。
このなかの「第1章 権力掌握の道のり」の〔幕府権力の掌握」の項に、幕府の上層部と姻戚関係をむすんだ例に、村越家があがっている。

勘定奉行(注・石谷清昌)のみならず、江戸の町奉行の両名も、意次とつながっていた。北町奉行の曲渕景漸(かげつぐ)は、養子に出た実子が意次の用人井上寛司(かんじ)の娘と結婚している。p57

調べてみると、なるほど、景漸(2000石)の長子・兵庫正綏(まさちか)が庶子のため家を継げず、村越三十郎正芳(まさよし 1200石 西丸・書院番士)の養子にでており、井上寛司のむすめを嫁にし、のち離縁している。
離縁の時期は、意次が失脚した天明6年(1786)であろう。

参照】2006年12月9日[田沼意次の上奏文]

参照】2007年5月30日~[本多紀品と曲渕景漸] () (
2007年8月30日[曲渕甲斐守景漸(かげつぐ)]

ただ、藤田さんの書き方は不正確で、まず、村越正芳が井上寛司のむすめを養女にむかえ、正芳が51歳で致仕し、婿にきた兵庫正綏(22歳)に家督をゆずっているのである。
井上寛司のむすめをいつ養女にしたかは不詳だが、養父・三十郎正芳がそのために引き立てられた形跡は、『寛政譜』からはうかがえない。

むろん、共学の村越一彦さんと、村越家との縁はさだかでない。
単に三河・駿河の縁だけかもしれない。

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360_2
(曲渕兵庫を婿に迎えた村越家の養女になった井上伊織のむすめ)

つづいて、藤田さんは、

老中らの政策立案を助ける重要な役割を果たした奥祐筆(おくゆうひつ)と姻戚関係を持っていた。

安永2年(1773)に組頭にすすんだ植村弥三郎利安(としやす 53歳=昇進時 150俵)のことであろう。
息・猪十郎利言(としのり)が、意次の臣・倉見三太夫のむすめを後妻に迎えている。
石灯篭の寄進者の一人、相良城代の倉見である。
再婚のせいかどうか、利言は、安永2年(1773)、28歳のとき、小十人の組子から小姓組にひきあげられ、のち膳奉行、2年後には船手に転じ、布衣をゆるされている。
これには、田沼効果があったかもしれないが、膳奉行の格が確かめられないので、はっきりしたことはいえない。
意次の失脚後降格されたことは『寛政譜』からはわからない。

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(意次家臣・倉見三太夫のむすめを後妻に娶った上村利言)

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(お祓いを受ける船神輿 飯津和気之神社)

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(船神輿の渡御 飯津和気之神社)
撮影者:村越ー彦さん


 

 

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2009.03.02

〔殿(との)さま〕栄五郎

「よく、やられた」
小野田治平(じへい 40歳前後)が、銕三郎(てつさぶろう 24歳)の酌をうけ、面高(おもだか)の細い目をいっそう細めて称讃した。

3夜前、浪人盗賊・〔殿との)さま〕栄五郎(えいごろう)の居合をかわしえた事件の顛末の報告と教導のお礼に、小野田食客と剣友・岸井左馬之助(さまのすけ 24歳)を、銕三郎が本所二ッ目ノ橋際の軍鶏なべ〔五鉄〕へ招待しているのである。

というのも、今回の〔蓑火(みのひ)〕一味の〔伊勢屋〕襲撃を未然にふせげたので、隣家の火盗改メ・松田彦兵衛貞居(さだすえ 62歳 1150石)の筆頭与力・土方万之助(まんのすけ 50歳)から、金一封が出た。
「お手前の手くばりで、予告された日の押し入りは回避できたが、賊をとらえたわけではないので、お上からのお褒めはござらん。したがって、これは、小職のこころざしとしての才覚でござってな---」
土方筆頭は、もったいをつけてわたしてよこした。
(ふざけるんじゃないよ。賊に襲われないほうが手柄が大きいはずではないか。お上は間違っている)
銕三郎は思ったが、この例で、論功行賞は派手な解決に厚いことを肝に銘じた。

1両のうち、半分の2分(1両=16万円換算て8万円は〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 34歳)へ、見張り賃としてわたしずみである。
1分(4万円相当)は、あの夜、栄五郎に斬り裂かられた袂のつくろい賃として、新妻・久栄(ひさえ 17歳)の口をふさいだ。
今夜の軍鶏なべは、三次郎さんじろう 19歳)に、これでまかなってくれと、残りの1分を先払いしておいて、2階へあがっているのである。

「いえ。小野田さんのご師範の成果です」
銕三郎は、また、酌をする。
小野田剣客は、酒は嫌いではないから、注がれればいくらでも呑む。

「どんなふうに抜きましたな」
左馬之助が立って、栄五郎の剣筋を実演してみせる。
「鞘の引き出し方が、わが不伝流とはいささか異なり、短かすぎる気味があるが、それが東軍無敵流かも---」
「その浪人、背丈が5尺1寸(153cm)ほどの小柄だったので、短く見えたのかもしれません」
左馬之助は逆に、5尺7寸(170cm強)もある、当時としては大柄な躰形をしている。

「斬りあげてきたのを、っつぁんは、左足をひいてかわしておいて、抜く手もみせずに相手の親指を斬っていました」
小野田さん。胴などを斬ってしまうと、あと始末が面倒だし、足を狙っても一生、うらまれます」
「さすがに、よく気づた」
「一瞬の判断でした」
「おみごと。うらみを残しては、あとを引く---」

しかし、〔殿さま〕栄五郎は、終生、銕三郎---いや、のちの長谷川平蔵宣以(のぶため)---鬼平をうらんだ。
蓑火みのひ)〕の喜之助(きのすけ)はともかく、一味の盗人たちは気づかなかったが、左手の親指の先をなくしてからの栄五郎の太刀筋は、鋭さを失っていたからである。

_100銕三郎は、高杉師にはもちろん、左馬之助にも、小野田治平にも洩らさなかったが、栄五郎の指を落とすことで、〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 30歳)の無念を晴らしてやったつもりである。(歌麿 お竜のイメージ)

あ、このこと、久栄に、つゆ悟られてはならないのは、言わでもがな---ご同席の貴公もお含みおきを。

参照】2009年1月25日[ちゅうすけのひとり言] (30)
2009年1月23日~[銕三郎、掛川で] (3) (4)
2008年11月25日[屋根舟(やねぶね)}
2008年11月17日~[宣雄の同僚・先手組み頭] (7) (8) (9)
2008年11月7日~[『甲陽軍鑑』] (1) (2) (3)
2008年9月7日~ [〔中畑(なかばたけ)〕のお竜〕 (1) (2) (3) (4) (5)  (6) (7) (8)

参照】2009年2月26日~[銕三郎、二番勝負] () () () (
2008年12月21日~[銕三郎、一番勝負] () () () () (


参考】2009年2月17日~[隣家・松田彦兵衛貞居] () () () () () () () () 

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2009.03.01

銕三郎、ニ番勝負(4)

「盗賊一味の浪人が使う居合とな?」
小野田治平(じへい  40歳前後) が、細い目をさらにせばめて銕三郎(てつさぶろう 24歳)に問いかけた。

「はい。その防ぎ手を考案いたしたく---」
「仕手(して)役は、この左馬めが勤めますゆえ、ご教授を---」
岸井左馬之助(さまのすけ 24歳)も脇からたのんだ。

不伝流居合の遣い手の小野田によると、その浪人が、これまでたびたび商店に押しいってきているとすると、刃先が天井や欄間にあたらないように、太刀を縦にはふるわず、横に遣ってきていよう。
したがって、咄嗟の斬りあいにも、横遣いをするはずである。
銕三郎どのは、横から切り上げてくる太刀を撥ねあげ、斬りかえす技を会得なされ」

実際に、真剣を腰に切り上げてみせた。
三度、模範を示したあと、左馬之助にやらせ、鯉口のひねりかげんや右手の握り方まで、勘どころを何度も口伝した。
もちろん、左馬之助も一刀流の皆伝を許されている上、高杉師から居合術も伝授されているので、会得は早い。

銕三郎
左馬之助と刃をつぶした太刀で、夕暮れまで、抜いては受け、斬り上げては撥ねかえして左手をうつ稽古をつづけた。

汗びっしょりになって刀を収めた2人を、
「だいぶ、コツがのみこめたようだ。明日には、新工夫を加えるように---」
小野田治平が、細い目に笑みをたたえてはげました。

左馬さん。夕餉を食べによらないか?」
銕三郎が誘うと、
「願ってもないこと。春慶寺での精進料理がつづいていて、そろそろ、---とおもっていたところだ」
左馬之助が、一も二もなく応じた。

高杉師小野田食客へ挨拶をすませた。
横川の東ぞいを新辻橋へ向かいながら、話すことは、居合についてであった。
左馬さん。右手で太刀をすべらせ、左手を添えるのはどのあたりかな?」
左馬之助が立ちどまり、左手で腰の鞘をひねり、右手で見えない剣をぬきざま空を斬りあげてから、左手を添える態(てい)をしてみせた。

「拙が撥ねたときは、左手は、やはり、柄にかかっていず、構えなおしたときだな」
「そうなる---」
「うむ」
夕暮れの幕(しばり)が横川にも降りてき、水面が黒ずんでいる。

異変は、牧野遠江守康満(やすみつ 信濃・小諸藩主 1万5000石)の下屋敷前の辻番所をすぎたところで起きた。

辻番所のあかりがとどかなくなった下屋敷の陰から、小柄な影が、すっと出てきて、2人の前に立った。
長谷川どのは、どちらかな?」
「拙だが---」

「備州・岡山の浪人、川崎栄五郎(えいごろう)でござる」
「おお。そなたが---」
「お手くばりのお礼を申しのべる」
と言うより先に、太刀が風を切ってきた。
銕三郎は、左足を引いてかわすとともに、抜いた、

一撃を仕そんじた栄五郎が、柄に左手をゆっくりとそえた---瞬間。
ぱっと踏みこんだ銕三郎が、相手の左の親指を斬り、そのまま体あたりをして、駆けぬけた。
栄五郎が向きを変えたときには、左馬之助も、その背後で抜いていた。

川崎うじとやら。好意でしたことのお礼がこれか」
銕三郎が、正眼にかまえたままで言う。
「好意だと? とんだ恥さらしであったわ」
「それは、そちらが、火盗改メをみくびって、投げ文などをしたからだ」
「しゃらくさい」
「指の手当てをなされよ。われらは、このことをなかったことにするゆえ」

栄五郎の親指からは血が吹き出ていた。
第一関節から先がなくなっていたのである。

栄五郎が舌うちして刀を鞘の戻し、指を、懐紙でおさえたまま、北へ去っていった。


参照】2009年2月26日~[銕三郎、二番勝負] () () () 
2008年12月21日~[銕三郎、一番勝負] () () () () (


参考】2009年2月17日~[隣家・松田彦兵衛貞居] () () () () () () () () 

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