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2009.03.04

田沼意行の父

SBS学苑の〔鬼平クラス〕と田沼主殿頭意次(おきつぐ 51歳=明和6年)の話題がでたついでに、同〔くクラス〕でいつも啓発してくださる安池欣一さんから、かねてお預かりしていた研究ノートを転載させていただく。
(ことわっておきますが、SBS学苑の〔鬼平クラス〕は、ふだんはもっとくだけた話を交わしています)


田沼意行(もとゆき)の父について
1. 『寛政重修(ちょうしゅう)諸家譜』(以下『寛政譜』)

田沼家の欄
「・・・・・・男次右衛門吉次はじめて紀伊頼宣卿につかえ、其子次右衛門吉重、其子次右衛門義房相継紀伊家に歴任し、義房のち病により、辞して和歌山城下の民間に閑居す、これを意行が父とす。

意行 重之助 専左衛門主殿頭 従五位下

父次右衛門義房仕官を辞するの時、意行は叔父田代七右衛門高近が許に養はれ、後紀伊家に於て召れて有徳院殿に仕へたてまつり、享保元年(1716)(江戸)城にいらせたまうのとき御伴の列にありて御家人に加へられ、・・・・・・」

これによりますと、田沼意行の父は次右衛門義房であり、「田代七右衛高近が許に養はれ」とあることから、田代家の養子になったと理解されます。

2..『南紀徳川史』第5冊

田代角兵衛の箇所につづく「田沼専左衛門重意 初名専之助」のところで「専左衛門ハ田代七右衛門重章之養子実ハ菅沼半兵衛倅之処由緒有之七右衛門養子に被 仰付御伽二被 召出田代之一字卜菅沼之一字トヲ取リ田沼卜名乗家之紋ハ田代之常紋七曜ヲ用ヒ侯様被 仰付後御小姓五十石ニテ 有徳院様 公儀御相続之節御供二被 召連正徳六年(1716)六月二十五日御小姓三百俵諸大夫・・・・」

これによりますと、
重意 初名専之助」は『寛政譜}』と一致しませんが、内容からいって田沼意行のことと考えられます。
・『寛政譜』の田代七右衛門高近と、ここの田代七右衛門重章とは同一人と考えられます。
・上からの命令で田代七右衛門の養子になったようで、田沼家の紋は田代家の紋を用いることとなったと記載されています。

3.『南紀徳川史』第12冊

財政に関する「歴世経済之大略」の有徳公のところで、
「此比奉行役に田代七右衛門あり宝永五子年(1708)九月淡輪新兵衛跡奉行を被命四百石に御加増(初伊都郡御代官八十石にて元禄六年(1693)十月御勘定頭に拝任同七年二月添奉行打込勤三百石と成り後主税頭公御勝手役又御本家御勝手奉行を経て如本記)同七年閏八月江戸詰中病死會計在職十八年也(七右衛門養子を田沼専左衛門と云有徳公御供にて公儀へ被召出則田沼玄蕃頭の祖先也)」

ここでは田代七右衛門としか書かれていなくて、田代七右衛門高近なの:か田代七右衛門重章之なのかはわかりません。ただし、田沼専左衛門が田代七右衛門の養子であることは書かれています。

4.後藤一朗著『田沼意次』付録の「田沼家系図」

田沼意行の父吉房のところには、

次右衛門仕紀州家享保15年(1730)6月18日華法名-峰玄枝居士葬江戸駒込勝林寺」

これによりますと
次右衛門書房の祖父・父は和歌山に墓地がありますが、吉房は江戸に埋葬されている。
・享保15年(1730)6月18日卒で田沼意行と同じ寺に埋葬されている。
意行吉房を江戸に引取ったのではないでしょうか。享保15年というと意行43歳であり、吉房は60歳を越えていたのではないでしょうか。

参照】2007年11月15日[駒込の勝林寺(しょうりんじ)]

疑問点
後藤一朗氏は『田沼意次』のなかで、
吉房は病弱のため比較的早く退官し、剃髪したという」
「1734年(享保19)冬、父意行、病にたおれ、危篤状態に陥ったとき、龍助を枕辺に招き、・・・・・これより家の紋を改め、七面様の七曜紋をいただき、わが家紋と定めよ。と遺言した.。
これにより今まで丸に一'だった家紋を七曜星に改めた」
と書かれている。家紋は南紀徳川史によれば、宝永2年(1705)頃七曜にしたと書かれてあるのに対して、後藤氏は享保19年(1734)としている。後藤氏はこの話を何により得たのでしょうか。

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ちゅうすけは、安池さんの疑問に答える原資料をもちあわせていない。
藤田覚さんの『田沼意次』(ミネルバ日本評伝選 2007.7.10)は、『寛政譜』の田沼家分から引いておられ、田沼家が書き上げた原文は引用されていない。
いや、国立公文書館に田沼家が書き上げ家史原文が残されているかどうかも記されていない。

ということは、『南紀徳川史』を参照した安池さんの調査のほうが、意行にかんかるかぎり、周到といえようか。

そういえば、藤田さんの上掲書は、意行に(もとゆき)とふられているルビは誤りらしいからと、(おきゆき)説をおとりになっていることを付記しておく。


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コメント

つまらないこだわりを、お気に留め置いていただいて恐縮しております。その後、あまり勉強をしておりませんが、言訳がましくこのごろ気にしていることをお知らせさせていただきます。

南紀徳川史で田沼意行の実父としている菅沼半兵衛について。
宮城谷昌光氏の「古城の風景 Ⅰ」の「長篠城」の項に

「長篠菅沼家の嫡流は、元成から俊則、元直、貞景、正貞とつづく。正貞のとき、すなわち、天正元年(1573年)に、徳川家康によって城が攻められ、正貞はさほど戦うことなく退去した。武田は正貞が徳川に通じていると疑い、信州の小諸に幽閉した。・・・・・あわれなことに正貞は牢死し、夫人が男子を産んだ。牢内で生れたのが正勝であり、武田が滅んだあと、家康に謁見し、のちに紀伊の頼宣(家康の十男)に仕えた。」

とありますが、この菅沼正勝が代々「半兵衛」を名乗っています。この家が田沼意行の実父の家ではないかと推測してなにか確認する方法はないかと思案しております。

投稿: 安池欣一 | 2009.03.04 10:50

>安池 さん
『寛永譜 巻3』(完成会)の菅沼の項をみましたが、半兵衛は載っていませんでした(コピー後送)。
宮城谷さんが『古城の風景 1』(新潮文庫)に記していらっしゃるような記述は、『寛永譜 巻3』には見当たりません。
宮城谷さんは、関係する『市(町)史』をご覧になったのではないでしょうか。
とすると、そういう地誌をそなえている愛知県の大きな県立図書館か、額田郡内のいずれかの図書館へ読みに行くしかないでしょうか。

投稿: ちゅうすけ | 2009.03.04 13:25

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