ちゅうすけのひとり言(31)
各所の文化センターの〔鬼平クラス〕は、1ヵ所だけ残して、閉鎖した。
長かったのは、江東区の「鬼平熱愛倶楽部」と朝日カルチャーセンターが月2回で10年。
学習院大学生涯学習センターが5年。
自分でもあきれるほど、よくも、つづけた。
残しているのは、静岡駅ビルの7階で、月1回、第1日曜日の午後1時から開いているSBS学苑パルシェのクラス。
SBSとは、経営母体が静岡新聞と静岡放送であるから。
つづけているのは、長谷川平蔵の祖先が、駿河国志太(しだ)郡小川(こがわ)の豪族で、今川義元の没後、田中城(現・藤枝市)城主に任じられ、武田信玄軍に攻められて徳川家康の陣営に入った史実で、まだ、解明できないことがあるので、ついでに県立中央図書館へ史料を読みに通いたいから。
徳川陣営に属した長谷川紀伊守正長(まさなが)、弟・藤九郎が戦死したのは三方ヶ原の戦いだが、その戦死の模様もいまのところ、はっきりしていない。それも、できれば調べつづけたい。
【参照】2008年7月2日[ちゅうすけのひとり言] (16)
ついでにいうと、平蔵宣以(のぶため 家督前の銕三郎 てつさぶろう)を引き立てたのが田沼主殿頭意次(おきつぐ)と推定しているのだが、その意次の城地・相良(現・牧之原市)も、静岡県内である。
田沼意次の評価は、最近、徐々にであるが、変わりつつあるとはいえ、政敵によってこれまた史料が抹消されたかして、非常に少ない。
パルシェの〔鬼平クラス〕では、できるかぎり、田沼意次のことにも触れて、ともに学んでいる方々に、目をひらかせていただいている。
【参照】2007年11月20日[相良の浄心寺]
2007年11月13日[相良の平田寺]
2007年11月11日[相良の遺跡地図]
2007年11月8日[相良の大沢寺]
2007年11月7日[相良の般若寺]
2007年11月6日[相良史城址の松樹]
2006年12月7日[相良城の請け取り]
その一人、村越一彦さんの名は、これまでも幾度かあげている。
きょうは、相良城の普請奉行であった三好四郎兵衛と、城代・倉見金太夫が、同地の飯津和気之(いつわけの)神社へ寄進した灯篭について取材なさったことから話をすすめたい。
(相良城下の飯津和気之神社と拝殿左右の灯篭)
〔ミネルバ日本評伝選〕シリーズの1冊に、藤田覚さん『田沼意次』(2007.7.10)がある。
このなかの「第1章 権力掌握の道のり」の〔幕府権力の掌握」の項に、幕府の上層部と姻戚関係をむすんだ例に、村越家があがっている。
勘定奉行(注・石谷清昌)のみならず、江戸の町奉行の両名も、意次とつながっていた。北町奉行の曲渕景漸(かげつぐ)は、養子に出た実子が意次の用人井上寛司(かんじ)の娘と結婚している。p57
調べてみると、なるほど、景漸(2000石)の長子・兵庫正綏(まさちか)が庶子のため家を継げず、村越三十郎正芳(まさよし 1200石 西丸・書院番士)の養子にでており、井上寛司のむすめを嫁にし、のち離縁している。
離縁の時期は、意次が失脚した天明6年(1786)であろう。
【参照】2006年12月9日[田沼意次の上奏文]
【参照】2007年5月30日~[本多紀品と曲渕景漸] (1) (2)
2007年8月30日[曲渕甲斐守景漸(かげつぐ)]
ただ、藤田さんの書き方は不正確で、まず、村越正芳が井上寛司のむすめを養女にむかえ、正芳が51歳で致仕し、婿にきた兵庫正綏(22歳)に家督をゆずっているのである。
井上寛司のむすめをいつ養女にしたかは不詳だが、養父・三十郎正芳がそのために引き立てられた形跡は、『寛政譜』からはうかがえない。
むろん、共学の村越一彦さんと、村越家との縁はさだかでない。
単に三河・駿河の縁だけかもしれない。
(曲渕兵庫を婿に迎えた村越家の養女になった井上伊織のむすめ)
つづいて、藤田さんは、
老中らの政策立案を助ける重要な役割を果たした奥祐筆(おくゆうひつ)と姻戚関係を持っていた。
安永2年(1773)に組頭にすすんだ植村弥三郎利安(としやす 53歳=昇進時 150俵)のことであろう。
息・猪十郎利言(としのり)が、意次の臣・倉見三太夫のむすめを後妻に迎えている。
石灯篭の寄進者の一人、相良城代の倉見である。
再婚のせいかどうか、利言は、安永2年(1773)、28歳のとき、小十人の組子から小姓組にひきあげられ、のち膳奉行、2年後には船手に転じ、布衣をゆるされている。
これには、田沼効果があったかもしれないが、膳奉行の格が確かめられないので、はっきりしたことはいえない。
意次の失脚後降格されたことは『寛政譜』からはわからない。
(意次家臣・倉見三太夫のむすめを後妻に娶った上村利言)
(お祓いを受ける船神輿 飯津和気之神社)
(船神輿の渡御 飯津和気之神社)
撮影者:村越ー彦さん
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コメント
地元ならではの情報で大変興味深く読ませていただきました。
当時の政略結婚や役職の昇降の様子がよくわかります。
ちゅうすけさんにとってSBSの「鬼平クラス」は貴重な存在ですね。
ご健康お大事に末永く続きますように。
投稿: みやこのお豊 | 2009.03.03 08:26
>みやこのお豊さん
そうなんです。
長谷川平蔵家の祖は、駿河の小川(おがわ)郷の豪家ですし、なんといっても徳川の直参です。
しかも、いままでの歴史観は、政治的な面が中心でした。
われわれ素人がかかわっていくのは、これまで未開拓だったしもじもの層を観ていくことで、学者さんたちの研究を補っていけるとおもうのです。
『寛政譜』にしても、よほどのことがないがぎり、1000石以下の幕臣には目をかけてこなかったでしょう。しかし、こうして光をあててみると、新しい発見があるんですね。
空想の湧きます。これが、素人の江戸学の一つの方法だとおもいます。
投稿: ちゅうすけ | 2009.03.04 07:24