田沼意次の上奏文
天明6年(1786)10月5日から蟄居中の田沼意次が、翌7年5月15日に上奏文を呈した。
『相良町史』(相良町 1993.9.28)に、意次の人間像をよく示したものとしてそれを読み下したものが掲出されているので、引用する(漢字は若干ひらいた)。
源意次、謹んで大元帥尊の宝前に白(もう)します。
意次の父意行は有徳院様(吉宗)が天下を御相続のときに紀州より供奉し、ことに御高恩を蒙って一家を興しました。
意次はいまだ若年の節、有徳院様に拝謁を奉り、以来、惇信院様(家重)浚明院様(家治)に仕え奉り、莫大の御高恩を蒙り、あまつさえ老中に補せられ、大禄を下賜され、将軍様の御慈恵は月々に厚く、年々に重くなるばかりです。
将軍家の御慈恵の高きこと嶽のごとく、深きこと海のごとくです。
しかればすなわち、昼夜心力を尽くして御高恩の万の一を報じ奉らんと欲するほかに他事はありません。
天下の御為を存じ奉り、いささかも身の為を致さざるところは、上天日月の照覧するところであり、神明仏陀同じく共に明知したまう也。
しかるに去る(天明6年)秋、御不予のときに一日にわかに(家治様の)御機嫌穏やかならざる趣を告げる人がありました。
しかるといえども意次はあえて御不審を蒙るべきことは身に覚えなく、昨日までも御機嫌うるわしくはいらせらるるところに、たちまち、御不興の御容躰は意次の傾運の致すところで、是非におよばざる次第にて、身の不肖を恨むほかなく、しかしながらたとえ一旦に、御不審を蒙り奉るといえども後日誤りなきをもってこれを言上せば、御明察の上、再び御機嫌うるわしき御時節も御座あるべきと存じ奉るところに、かたわら頻りに老中職を辞すべき旨勧める者がありました。
故によんどころなく病と称してと職を辞し奉りました。ときに、浚明院様(家治)にいささかの御別慮なく願いの通り職を免じしめられ、かつ慎みの儀には及ばざる旨 台命を蒙りました。
しかるに親族縁座、あるいは義を絶ち縁を絶ち、かつてそのゆえを知ることなくして止みました。
唯、浚明院様御在世久しく天道偽りなきの道理にもとづき、意次は私心をすてて忠精をはげみ、いかでか顕れざらん哉と(浚明院様の)御長久を祷り奉るところに、 終に 崩御され、意次は胸間割くがごとく、寝食共に廃すること数日、病を懐にし、その後 御当代(家斉)より俸禄を減じられたまうこと、意次の何んという不幸か、さらに覚悟せざるところであります。
しかるといえども在職のとき、粉骨砕身して天下の御為にならんと欲するといえども、凡慮のおよばざるところが間々在ったか。
かえって御為にならざると相響いたか薄運の致すところで、御為にならざるは嘆いてもなお余ることです。
かつまた小事といえども一存で取り計らったことはなく、必ず同席と相議して 上聞に達し、しかるに意次の一人の所為となるは如何なる災難でしょうか。
仰ぎ願わくは大元帥尊、ほかには悪を降伏して、忠勤怠りなく操を顕はし、内には慈悲を垂れて秋毫も欺がざる志を照らし、すみやかに 御廟に拝謁し、かつ 御当代の尊顔を拝し奉り、再び親族相和し予を誹り、予を悪(にく)む人、意次毫厘も虚妄せざる趣を明知し、世の雑説を捨て、怨親平等之思いを成さしめ賜えと、誠惶誠志 敬して白(もう)す。
天明七年未五月十五日 源意次稽首三拝
悲痛の感、ひしひしと迫る。
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