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2009年4月の記事

2009.04.30

お竜(りょう)からの文

「銕(てつ)兄(にい)さん。お父(とっ)つぁんが、文(ふみ)を預かっているから、ついでのときに立ち寄ってくださいって---」
おまさ(14歳)が、陽ざしの強い中を急いできたのか、額の汗を拭きふき、高杉道場の玄関で告げた。

_100「どこからの文だ?」
少女からおんなの面ざしと躰つきに変わりはじめているおまさなので、銕三郎(てつさぶろう 25歳)は、妹をあしらうような、ふっきらぼうな口調になる。
なんとなく照れくさいのである。(清長 少女おまさのイメージ)

「おりょう(竜)とだけ、だって」
「おから? はて?」
おまさの手前、わざととぼける。
おまさは疑うように目つきで瞶(みつめ)てくる。
そんなときのおまさは、気持ちだけはもう、一人前のおんなになりきっている。
おんなの勘は、男とおんなのあいだのことにかけては、するどい。

銕三郎は井戸端で双肌をぬいで稽古の汗を流し、おまさ銕三郎の躰を目にいれないようにしながら、冷水で手ぬぐいを冷やした。
冷やした手ぬぐいを袂から入れ、片方の手で襟元をおさえ、ふくらんできている乳房のあたりの汗を拭いているのがいじらしい。

おまさは、竜という字が読めるのか?」
「馬鹿にしないでください。兄さんといっしょに萩寺の竜眼寺へ行ったでしょ」

参照】2008年6月14日[明和3年(1766)の銕三郎] (

並んで歩いているといっても、こころなしか離れぎみのおまさに、
(そうだった。萩看に行ったころは、おれも若く、おまさも幼く、手をつなでいても人目が平気だった)

_100_2(りょう 31歳)は、初代・〔狐火きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 50歳)一味の軍者(ぐかんしゃ 軍師)格で、京都へ呼ばれた。
最後に会ったのは、掛川城下で計りごとをめぐらせているときであった。(歌麿 お竜のイメージ)

参照】2009年1月25日[ちゅうすけのひとり言] (30

手紙には、いま、どこにいるとも書いてなかった。

(しず 22歳)の最初に産んだ女の子が、この春先に悪い風邪で逝ったこと。
はもとより、お頭・勇五郎の落胆もかなりのものだが、おはまだ若いのだから、またさずかればいいと慰めていること。

参照】 [お静という女](1) (2) (3) (4) (

なにかの便りで、あなたさまの奥方に男のお子ができたことをしり、ひそかに成長を祈念していること、

参照】2009年4月22日[嫡子・辰蔵の誕生] (

(かつ 29歳)がまたも、名古屋で失敗(しくじ)ったので、〔狐火〕一味にいられなくなりそうなこと---などをしたためたあとに、

参照】2008年10月12日~[お勝というおんな] () () () (
2009年1月23日[銕三郎、掛川で] (
2009年1月28日[〔蓑火(みのひ)〕と〔狐火(きつねび)〕 (

名古屋で、〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう 50すぎ)を見かけたこと。

参照】2007年7月14日[〔荒神(こうじん)〕の助太郎] () () () () () () () () () (10) 

連れの30がらみの痩せぎすのおんながお賀茂(かも)ではないかとおもうが、大きな腹をしていたことが書いてあった。

おしまいの文句を報らせるていで、これまであきらめていた文を寄こしたと、銕三郎は、おの気持ちを察してやった。
しかも、〔狐火〕の一味の者でもある小浪(こなみ 31歳)をとおさないで、面識のない〔盗人酒屋〕の〔たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ 50がらみ)気付にした気持ちもいじらしかった。

参照】2008年10月23日~[〔うさぎ人(にん)・小浪] (1) (2) (3) (4) (5) (6)  (

_100_3小浪を避けたのは、おんな同士の意地から、無意識のうちに、銕三郎小浪を近づけたくないとおもったからのようだ。
おんなおとこのおにすると、一瞬、自分の気持ちが自分で納得できなかったのではなかろうか。
(歌麿 小浪のイメージ)

参照】2009年4月30日~[お竜(りょう)からの文] () () () 

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2009.04.29

先手・弓の組頭の交替

明和7年(1779) 6月2日。
先手・弓の1番手の組頭に14年間在職していた・松平(滝脇)源五郎乗通(のりみち 76歳 300俵) が老年を理由の隠居願いが認められけられ、致仕した。

後任は、天野伝四郎富房(とみふさ 67歳 700石)で、小姓組・1番手の与頭(くみがしら 組頭とも書く)からの出世であった。
1000石格の小姓組与頭を14年間勤めての、やっとの先手組頭といえようか。

天野家といえば、竹千代と呼ばれていた6歳の家康今川方の人質として行くときに、戸田弾正少弼宗光(むねみつ)・正直(まさなお)父子の詭計によって織田信秀に売られたときも、のちに今川方の人質として駿府へ送られたときも、5歳年長の三之助(のちの康景 やすかげ)は、小姓としてしたがった。
富房は、この天野本家の庶流の末である。

宮城谷昌光さん『風は山河より 第三巻』(新潮社 2007.1.30)に、戸田五郎正直が渥美半島の田原城から竹千代を船に誘ったときを、

「さあ、竹千代どの、お乗りください。扈従(こしょう)のかたがたは、そこもととそこもとと---」
 正直は阿部徳千代と天野三之助のほかひとりの小姓をえらんで乗船させ、金田与三右衛門などの数人の供奉の人々を同乗させると、あとのかたがたはほかの船へお乗りください、といわんばかりに、おもむろに手をあげ、自身は配下の者と船尾へ移った。

このあと、詭計に気づいた三之助は、竹千代に異変を耳打ちする。
さすが、5歳の年長者であった。
 
竹千代の熱田での幽閉は2年つづいた。

新しい先手・弓の組頭を列記し、天野伝四郎の個人譜を掲げておく。

新任のあいさつの席を、体調がすぐれないからと、しきたりを破り、麻布飯蔵中町の自邸に近い宮下町の料亭〔車屋〕でもよおすという異例さであったが、富房の76歳という年齢をおもんぱかって、表立っては、だれも苦情はいわなかった。

むしろ、着任ちょっとで卒したことのほうをあわれんだというほうがあたっている。

天野富房の着任時の先手・弓の組頭

1番手
 天野伝四郎富房(とみふさ)  76歳       700石    

2番手
 奥田山城守忠祗(ただまさ)  67歳   4年  300俵

3番手
 堀甚五兵衛信明(のぶあき)  61歳   5年  1500石

4番手
 菅沼主膳正虎常(虎常)    56歳   4年  700石

5番手
 能勢助十郎頼寿(よりひさ)   69歳   3年  300俵
  
6番手
 遠山源兵衛景俊(かげとし)   63歳   3年  400石

7番手
 長谷川太郎兵衛正直(まさなお)61歳   7年  1450石

8番手
 長谷川平蔵宣雄(のぶお)    52歳   5年  400石

9番手
 橋本河内守忠正(ただまさ)    60歳  3年  1300石

10番手
 石原惣右衛門広通(ひろみち)  78歳   3年  200俵


番方の出世の終点とも思われている先手・弓の、しかも1番手の組頭を手にした天野富房は、就任2ヶ月後の8月18日に逝去が認められた。

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(先手・弓の1番手組頭・天野伝四郎の個人譜)

後任は、平岡与右衛門正敬(まさとし 69歳 300俵)で、小姓組与頭を15年まじめにに勤めあげたすえの抜擢である。
この仁については、後刻詳報することになろう。

ついでに記しておくと、しばしば家名がでた、先手・鉄砲(つつ)の7番手の組頭・諏訪左源太頼珍(よりよし 64歳 2000石)も、この年の5月13日に病死したことになっている。

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2009.04.28

火盗改メ・お頭の交替

明和7年(1770)4月24日、昨年の9月25日から火盗改メ・冬場の助役(すけやく)を勤めていた菅沼主膳正虎常(とらつね 56歳 700石)が任を解かれ、元の先手・弓の4番手の通常職務に復した。
通常職務とは、江戸城内の5つの門の守衛の交替勤務である。

任期中に尽力を賜ったと、3両(約50万円)の礼金を包んでよこしたのは、筆頭与力・村越増次郎(ますじろう 49歳)が、自分の火盗改メ手当てからこころづかいをしたのであろう。

参照】2009年3月19日~[菅沼摂津守虎常] () () () (

火盗改メ・与力には、80石から120石までの俸禄のほかに、20人扶持の職務手当てがつく。
1人扶持は1日に玄米5合であった。
搗き減りを2割とみても、月に4石8斗。
1升100文として4万8000文、ざっと10両。
村越与力の場合は、冬場の助役だから7ヶ月間、それだけ入った。

といっても、小者や密偵の雇い賃に半分遣ったとして、かなりのものが残ったはず。
銕三朗は、火盗改メの勝手に通じているから、3両を遠慮なく受け、うち1両を〔相模(さがみ〕の彦十(ひこじゅう 35歳)へ渡した。
風速(かざはや)〕の権七(こんしち 38歳)は、駕篭屋の店主として独立し、さらに用心棒の請け賃が入っているので、金銭を渡す必要はなくなっていた。

同年6月26日、隣家の火盗改メ・本役の松田彦兵衛貞居(さだすえ 63歳 1150石)が免任となり、後任には、同日、先手・鉄砲(つつ)の10番手の組頭・石野藤七郎唯義(ただよし 64歳 500俵)が職についた。

松田組土方筆頭与力(51歳)は、気ばたらきが粗雑な仁で、礼のあいさつもなければ、石野組への申しおくりもしなかったらしい。

参照】2009年2月17日~[松田彦兵衛貞居] () () () (

そういえば、石野家も気がきかない家柄なのか、『寛政譜』に、火盗改メを勤めたことも記していない。

もっとも、これは、長谷川平蔵宣雄(のぶお 52歳 400石)についてもいえる。
寛政譜』から、火盗改メをやった経歴がすっぽりと落ちている。
落ちたのは、[先祖書]を上程した平蔵宣義(のぶより 小説の辰蔵)が省略していたことによる。

参照】2007年4月14日[寛政重修諸家譜』 (10

石野家の場合は、同家が幕府に提出した原本の[先祖書]も、火盗改メ拝命のことが欠落されているのかどうかを、国立公文書館所蔵をたしかめていないので、、その理由も推測するすべがない。

_360_2
B_360
(石野藤七郎唯義の個人譜)

石野唯義が火盗改メの任にあたっていたのは、翌8年7月29日までの1年と1ヶ月であった。
まあ、常識的な任期といえる。

任期後半になり、組の与力か同心のだれかが、銕三郎の実績を耳にしたらしく、辞をとおしてきたのは、明和8年(1771)に入ってからであった。
その経緯(あれこれ)は、8年の項に記すことになる。


参照】2008年3月23日~[〔墓火(はかび)〕の秀五郎] () () () () () (

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2009.04.27

19歳の〔掻掘(かいぼり)〕のおけい(3)

長谷川さま。八幡さま境内の二軒茶屋のうちの、〔伊勢屋〕倉右衛門のほうをあたってみやしたら、驚くではござんせんか。おけいは後妻の座に居すわっておりやした」
町駕篭〔箱根屋〕の主人におさまった〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 38歳)が、銕三郎(てつさぶろう 25歳)から頼まれた翌日、三ッ目通りの長谷川邸へやってき、報告した。


参照】2009年4月13日[風速(かざはや)〕の権七の駕篭屋業] () () () (

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(深川八幡社内 二軒茶屋〔伊勢屋〕)

「おけいは、20歳そこそこにしか見えなかったが---」
「座敷女中頭の弁では、19歳だそうでやす」
「19歳で、あの高級料亭の女将がつとまるのか」
「女中や板場の包丁人たちも、ころっとなびいちまったらしいんでやす」

「ところで、倉右衛門の前妻は、病死かなにか?」
「20年連れそったあげくの、三下り半だそうで---」

「倉右衛門は幾つなんだ?」
「53とか---」
「53歳に、19の後妻か---」
「うらやましいかぎりでやす」

どの。うらやんではいかぬ。同情してやれ。毎晩、ねだられたのでは、53歳の躰がつらかろう」
「まったく。38歳のあっしでも、もちやせん」

権七の〔箱根屋〕は八幡宮の境内茶屋も常得意の一つで、出入りしている駕籠舁(か)きたちの耳にはいろんな風評がはいっている。

A_120けいが倉右衛門とできたのは、仲居としてつとめた5日目だったという。
一度、その躰の味をおぼえた倉右衛門は、これまでの人生がつくづく無駄な52年とおもえたとこぼしてはばからなかった。
もう、座敷に出すのもおしそうで、いっときでも離れていてはほかの男に連れさられると、前妻に200両(3400万円)を渡して離縁し、おけいを本妻になおした。(歌麿 おけいのイメージ)

けいもこころえたもので、まず、女中頭をまるめこみ、つぎには板長を手なづけ、女将の座を安泰にした。
そのために、50両(800万円)以上の金がつかわれたろうとの、もっぱらうわさという。

それから2ヶ月後、倉右衛門が〔伊勢屋〕を売りに出しているらしいとの風聞を、権七が聞きこんできた。
なんと、おけいが、店の金の130両(約2080万円)、持ち逃げしたのだ。

「やはり、〔たらしこみ〕であったか---」
銕三郎の言葉に、権七は首をすくめ、
「お見とおしでごさいやしたか。それにしやしても倉右衛門は、あんなすごいおもいをした男は、江戸中に、わし、ただ一人---首をくくって、いつ死んでも悔いはねえと、うそぶいているそうでやす」
「〔掻掘(かいぼり)〕のおけいが生きているかぎり、何人の男たちが、倉右衛門と瓜ふたつのたわごとを冥土へのみやげにする羽目になるやら」
(あやうくおれも、その中の一人になるところであったかも)


参照】2009年4月25日~[19歳の〔掻掘(かいぼり)〕のおけい] () (

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2009.04.26

19歳の〔掻掘(かいぼり)〕のおけい(2)

掻掘かいぼり)〕のおけい(20歳がらみ)が出ていってから、銕三郎(てつさぶろう 25歳)が訊いた。
「あのおけいは、どの頭(かしら)の下で盗(つと)めていているのだろう?」

(たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ 50歳がらみ)が、じろりとにらんで答えた。
っつぁん。訊かねえ、言わねえ---って、つきあい方もありやすんで」
「すまなかった。訊かなかったことにしておいてほしい」
「盗(つと)めは辞めたといっても、むかしの仲間への義理ってもんもござんすので---」
「承知しているつもりであったが、つい、口がすべった」

そろそろ、呑み客がくるころなのに、どこまで使いに行っているのか、おまさ(14歳)が帰ってこないので、銕三郎は、如意輪観音のお札の礼の言葉を忠助にたくし、〔盗人酒屋〕を出た。

竪川ぞいの北河岸を三ッ目ノ橋のほうへ歩いていると、柳原町1丁目の小間物屋〔川越屋〕から、
っつぁんの旦那」
呼びかけたのは、20歳のおんなには似合わない乾き気味の声の〔掻掘〕のおけいであった。
(煙草の吸いすぎだ)
銕三郎の家では、だれも吸わないから、よけいに気になる。

「先刻は失礼いたしました。お家は、こちらのほうでございますか?」
「そうだが、おけいどのは?」
「深川八幡宮境内の二軒茶屋〔伊勢屋〕さんのお世話になっております」
「それでは、三ッ目ノ橋をわたったほうが近い---」
「いいえ。きょうは非番なので、帰りが遅くなってもかまわないのですよ」

「おつきあいしたいが、これから、御厩(おうまや)河岸まで、野暮用に参るので---」
「お差し支えなければ、ごいっしょさせてください」
「拙はかまわないが、おけいどのは、人目につくと困るのでは?」
「いいえ。ちっとも。っつぁんこそ、こわい女性(ひと)がいらっしゃるとか---」
「まあな」

とんだ行きがかりで、新辻橋のたもとから猪牙(ちょき)舟を雇った。
並んで座ると、おけいは腕をとって太ももへおかせ、右胸を押しつける。
銕三郎の躰に雷に打たれかとおもえるほどの稲妻が走った。
おんなの躰がこんなに柔らかいものとは!
舟の揺れにあわせたように、、
(骨がないみたいに包みこんでくる、とはこのことだ)

けいは、銕三郎の肩に躰をあずけ、袴の前においた掌を開いたり握ったりして触れる。
たちまち股間が緊張しはじめた。

それと察していながら白々しく、その掌を拍子とりの動きに変え、
袴を打ちながら小唄を口ずさむ。

 三笠の松はしょんがいな
 ほれ、しょんがいな
 待つとしっていて、背伸びをわすれ---

舟着きで舟からあがるとき、わざとよろめいて、手をかした銕三郎に真正面からすがりつき、両の乳房をもろに押しつけた。
茶店〔小浪〕に入るまで、こんどは横からすがりついている。

_130驚き顔の小浪(こなみ 31歳)に目くばせした銕三郎が、
「おけいどの。拙のこわい情人(いろ)の、小浪でござる」
(歌麿 小浪のイメージ)

けいは、小浪の美貌にたじろいだ。

「おけいはんといわはりますの。うちのがえろうお世話なったみたいで、おおきに。もう、お返ししてくれはったかて大事おへんえ」

つぎの渡し舟がでるのを機(しお)に、仏頂顔(ぶっちょうがお)のおけいが立ち去った。
小浪が供した茶に手もつけていなかった。

舟が大川の半ばまで達したのを見とどけた銕三郎小浪は、声をそろえて笑った。
「あ、ははは」
「お、ほほほ」

杭に翼を休めていた都鳥が驚いて飛び立った。
それで2人は、また、笑いなおした。


参照】2009年4月25日~[19歳の〔掻掘(かいぼり)〕のおけい] () (

参照】[〔うさぎ人(にん)・小浪] (1) (2) (3) (4) (5) (6)  (

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2009.04.25

19歳の〔掻掘(かいぼり)〕のおけい

〔盗人酒屋〕へ入った途端、銕三郎(てつさぶろう 25歳)は、ふしぎな気分になった。
欲望が触発されたというか、股間があったかくなったのである。

奥の飯台で、こちらを背にしたおんなと向きあって話している〔(たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ 50がらみ)が、銕三郎をみとめて、
「ああ、っつぁん。お引きあわせしときやしょう」

おんながこちらをふりむいた。
美人というほどではない。
下がり気味の目じりの流し目で、男ごころを誘う。
白粉をはたいていない首すじあたりの肌が、抜けるように白い---というより透きとおって骨まで見えようかという風情で、江戸のおんなには珍しい。

これまで抱いたことのあるおんなでは、三島宿のお芙佐(ふさ 25歳=当時)に近いといえようか。
あれは、銕三郎にとっては10年以上も前、14歳のときの初めての性体験で、しかも、1夜きりのことであったから、しかとは比べられない。

参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ

「おけいさん。こちらは、銕三郎とおっしゃる、旗本の3男坊で、厄介ぐらしの身の上。ただし、蔭にすごい女性(にょしょう)がついてるから、手だしは無用」

けいと呼ばれた20歳そこそこと見えるおんなは、齢に似合わず、色気の塊といえそうなほどだが、それもどことなく崩れた妖気じみたものを感じさせる。
男に、溺れてみたいとおもわせる色気である。
銕三郎の股間は平常に戻っていたが、独身のときなら、溺れるほうを選んだかもしれない。

そんな銕三郎を見通したように、
「おけいでございます。おけいのけいは、親は恵むの〔恵(けい)〕のつもりだったようですが、わなの〔罠(けい)〕だろうっておっしゃる男衆が多いんでございますよ。おほっ、ほほほ」
(しょってやがる。おもいしらせてやりたいと、男におもわせるところが、〔罠〕なんだな)

「罠とかにかかってみてえものだが、こええ情婦(いろ)に殺されてもつまらねえからな」
伝法に受け流しておき、目で忠助を板場へ誘った。

どん。おまさに心配させてはいけないよ。あの娘(こ)のいうとおり、10日ごとに店を閉めるんだな。遊びたいさかりのおまさにとっても、いい休養日になるしな」
「わかりやした。ところで、っつぁん。あのおけいの〔通り名(呼び名とも)〕は、〔掻掘かいぼり)〕といわれていやす。男の精をあますところなく掻いだすんだそうで---」
「掻いだされる男がだらしない」

「そりゃあ、そうにちげえねえが、なんでも、骨がねえみてえな躰だといわれていやす」
どんは、まだ試していない?」
「趣味じゃねえから---」

「ふふ。それはそうと、宮参り祝いのお返しにきたのだ」
「もう、そんなになりますか。久栄おっ師匠(しょ)さんは、お変わりなく?」
「おお。宮参りをすませたら、早々に〔罠〕をしかけてきている」
「う、ふふふ。ご馳走さまでやす」


参照】2009年4月25日~[19歳の〔掻掘(かいぼり)〕のおけい] () (


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2009.04.24

嫡子・辰蔵の誕生(3)

(てつ)兄(にい)さん。中ノ郷の如意輪寺で、お札をいただいてきました」
おまさ(14歳)が、さしだしたのは、子育てにご利益があるという、如意輪寺(現・墨田区吾妻橋1丁目)の如意輪観音のお札であった。

「わざわざ、吾妻橋東詰までいってくれたのか?」
兄さんの子は、わたしにとっては甥ですから---」
「ありがとうよ」

610
(北本所。如意輪寺 『江戸名所図会』部分 塗り絵師:ちゅうすけ)

当時、如意輪観音は、子育てで信仰をあつめていた。
赤ん坊が3歳、5歳、7歳まで大病もしないで育つと、底抜けの柄杓(ひとゃく)を供えて感謝した。
「柄杓の奉納を忘れないようにしよう」

銕三郎は、久栄(ひさえ 18歳)と辰蔵がふせている部屋へおまさを伴った。
おまさが、如意輪観音さまのお札をいただいてきてくれた」
辰蔵に母乳をあたえていた久栄が、
おまささん。見てやってください。飲んでは寝、飲んでは寝てばかりなんですよ」
「でも、おっ師匠(しょ)さん。寝る子は育つっていいますから---」

兄さん。辰蔵さんのためには、妙見さまのお札のほうがよくなかったですか?」
「なぜ?」
「だって、妙見さまは北辰っていうでしょ」
「北辰というのは、いつも真北で輝いている星のことだ」
「でも、辰蔵の辰でしょ」
「それはそうだが、朝という意味もある。辰蔵は、朝方に生まれたから、父上が辰蔵とおつけになった。草木が育つという字でもある」
「如意輪観音さまでよかったのですね」
「いいどころではない。ぴったりだ。お宮参りには、如意輪寺さんへも参詣しなくてはな。おまさもいっしょしてくれるな」
「はい。きっとですよ」

離れの部屋へ戻ってから、銕三郎が訊いた。
忠助さんの躰のほうは、どうなんだ?」
「ええ。疲れが残るようです」
「大事にしないとな。もう、かれこれ50歳であろう?」
「そうなんです。店も、10日ごとに休みにするように言っているんですが---。わたしの言うことはちっとも聞いてくれなくて。兄さんから、きびしく言ってください」
「よし。近いうちに、道場の帰りにでも店へ寄って、休みをとるように、強く言ってやろう」

兄さん。そのとき、岸井さまはお連れにならないでね」
「どうしてだ?」
「おおばさんと、おみねちゃんが帰ってきているんです」
(こん 31歳)は、3年前に亭主の〔助戸(すけど)〕の万蔵(まんぞう 35歳=当時)が突然死したあと、納骨に足利へ行ったとき、万蔵のお頭だった〔法楽寺ほうらくじ)〕の直右衛門(なおえもん)の妾になり、性戯をしこまれた。

で、江戸で盗(つと)めの指示をまっているときに、岸井左馬之助(さまのすけ 23歳=当時)とねんごろになってしまった。

参照】2008年8月27日~[〔物井(ものい)〕のお紺] () (

気がついた銕三郎おまさの父親・〔たずがね)〕の忠助が、おを隠したのである。

_360_3

情交を絶ち切らさないと、直右衛門にしれたら、左馬之助の命が危なかった。
(やれやれ。また、厄介ごとの火種か)

参照】2009年4月22日~[継嗣・辰蔵の誕生] () (


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2009.04.23

嫡子・辰蔵の誕生(2)

「若。今助(いますけ)とおっしゃる人と、小浪(こなみ)と申される女性(にょしょう)が見えておりますが---」
下僕の太作(たさく 63歳)が告げた。

「おお。こちらへお通ししてくれ」
銕三郎(てつさぶろう 25歳)が気軽に言うので、太作はいぶかしげにためらっている。
「いいんだよ、素性のしれた知りあいなのだ」

_130今助(23歳)は、着なれない羽織袴に、みょうにかしこまっている。
小浪(31歳)も、化粧も商家の新造らしくひかえめにおさえ、埃よけの揚げ帽子をつけているが、天性の艶っぽさは、さすがにかくせない。
今助と連れだって真っ昼間におおっぴらに外出できる口実ができ、うれしくてしかたがないという面持ちもかくさない。

若夫婦のために建て増しされた離れに導かれた2人は、それでも型どおりに祝辞を述べ、祝い金をさしだした。
今助は、
「用心棒のことで、大きくお世話になっている、あっしからの、こころばかりもので---」
じつは、浅草・今戸一帯を取り仕切っている香具師(やし)の元締・〔木賊(とくさ)〕の林造(りんぞう 61歳)の代理といえば、辞退されるとしっての口上である。
その知恵をつけたのは、小浪にきまっていると、銕三郎も察している。

その小浪は、
「きつうご贔屓にしてもろてます、茶店〔小浪〕からのお祝いどす」
それにしては包みが厚すぎる。
これも、出どころは〔狐火きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 50歳)の差し金とわかっているが、このときはこだわらなかった。

何かと世話がしやすいからと、宮参りがすんでも母屋に眠っている辰蔵(たつぞう)を、ぎこちない手つきで抱き、離れへ戻った銕三郎が、
「見てやってください。拙の赤子のときにそっくりだと、親類の者たちはいうのですよ」
手ばなしの親ばかふりである。

小浪が抱くと、目をさました辰蔵が乳房を手さぐりするので、
辰蔵ちゃんのお口におうたら吸うてもらうんどすが、でえしまへん---」
小浪は泣き笑いしながら、銕三郎へ返す。
銕三郎は、母屋へとってかえし、久栄の乳房をふくませた。

「お乳(ちち)は足りてはりますか」
小浪は、中年増らしく気がまわる。

急に改まった今助が、両手をついて頭をさげ、
長谷川さま。お蔭をもちまして、義兄・浅田と姉の仲が戻りやした。このとおりでやす」

小浪が口をそえたところによると、浅田剛二郎(ごうじろう 32歳)は、夜明け前から昼間のあいだは、向島・寺島村の〔狐火〕の寮で、於布美(おふみ 25歳)と刻(とき)をすごし、夕飯後に浅草・田原(たはら)町の質商〔鳩屋〕へつめているという。

「向島のあの寮の湯殿は、男とおんなの垣根をあっさりと取りのぞくからなあ」
「なんででやす?」
「いや---」

_360
(梅里 湯殿のイメージ)

参照】 2008年6月2日~[お静という女](1) (2) (3) (4)


参照】2009年4月22日~[継嗣・辰蔵の誕生] () (

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2009.04.22

嫡子・辰蔵の誕生

明和7年(1770)の(旧暦)3月1日の早暁、久栄(ひさえ 18歳)が男子を産んだ。
その産声(うぶごえ)が産室をみたすと、赤ん坊の父・銕三郎(てつさぶろう 25歳)をはじめ、平蔵宣雄(のぶお 52歳)とその内妻・(たえ 45歳)も、ころがるように産室へ走った。

昨夜からつめきっていた産婆が、産湯(うぶゆ)をつかわせている赤子を見せて、
「ご立派な、お跡継ぎでございます。おめでとうございます」

いちばんあわてていたのは、宣雄で、産婆に、
「苦労であった」
礼の言葉もそこそこに、赤子に話しかける。
「これが祖父ぞ。わしが祖父ぞ」

「殿さま。父親の銕三郎の挨拶が先でございましょう。おじいちゃんはあとでよろしいのです」
がたしなめても、
「なにをいうか。わしは、当家の主(あるじ)であるぞ。主が真っ先に言葉をかけて、どこが悪い」

銕三郎は、宣雄にかまわず、久栄の手を布団の中でにぎりしめ、目で、
(よくやった、よくやった)
と伝えている。

赤子が、久栄の実家・大橋からとどけられていた産着にくるまれて、生母の隣りに寝かされると、宣雄が改まり、
銕三郎久栄。この子の名前じゃが、なにか案でも相談ができておるかの?」

顔を見合わせてから、久栄が、
「お舅(ちちうえ)さまに、ご案がございましょうか?」
「じつは、いま、ひらめいた」
「---なんと?」
「今朝は3月朔日である。しかも、いまは、日の出どき。しごく、めでたい」
「はい」
「それで、辰蔵---と」
辰蔵---」
「この家は、お城から辰の方位(東南東)にあたり、3月は辰月である。あ、ちょっと待て。太作辰蔵のための産湯の用意、大儀であった。礼をいう。ついては、もう一つ---和泉橋通りの大橋どのの家へ、無事に辰蔵が生まれたこと、母子ともに、伸びざかりの草木のようにすこみやかであると、親英(ちかふさ)どのへ告げてきてくれないか。そうじゃ、与惣兵衛(親英)どのもわしも、ともにおじじと呼ばれる身になったとつけくわえてくれ」

太作(たさく 63歳)が、久栄のうなずきに頭をさげて出ていくと、
「おじじ呼ばわりは殿さまからおいいだしでございますからよろしゅうございますが、わたくしのおばば呼ばわりはご遠慮申します」
「おばばがいけないとなると、なんと?」
「大母者---」
辰蔵が舌を噛むわ」
「それでも、そう、願います」
辰蔵よ、聞いたか? そなたのおばばどのは、身勝手な、たいしたおばばじゃぞ」
久栄が痛そうに眉をひそめながら笑い、それにつられて、辰蔵が泣きはじめた。


参照】2009年4月22日~[継嗣・辰蔵の誕生] () (

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2009.04.21

一刀流杉浦派・仏頂(ぶつちょう)(5)

浅田どの。ほんの寸刻、おつきあいいただけませぬか」
銕三郎(てつさぶろう 25歳)が、剛二郎(ごうじろう 32歳)を小声で誘った。

高杉銀平(ぎんぺい 65歳)師の居室での歓談を終え、それまでいっしょだった岸井左馬之助(さまのすけ 25歳)や井関録之助(ろくのすけ 21歳)が北へ歩みはじめたときである。

うなずいた浅田剛二郎を、法恩時門前の茶店〔ひしや〕へ導き、
「じつは、私事で申しわけないのですが、妻(さい)が臨月で、そう長話もしておれないのです」
「---お話しとは?」
「その前に、浅田どの。立ちいったことをお訊きしますが、お子は?」
「---ひとり、男の子がいましたが、死なせました」

銕三郎に好意を感じている剛二郎は、さも言いにくいことを打ちあけるように、ぽつりぽつりと話しはじめた。

その子---正一郎(しょういちろう)が生まれたのは、6年前であったという。
そのころ、剛二郎は、笠間藩の下級藩士たちにあてがわれている、城下の花香(はなか)町の4軒長屋同然の1軒に住んでいた。
郷方調べ役だった亡父の家禄(30俵3人扶持)と役目を相続した剛二郎は、藩内を見回る日々で、ときには、僻地の役小屋へ泊りがけで調べものをすることもあった。

1歳の正一郎が発熱の果てに幼い生命の灯を消したときも、出張(でば)っていて、死に目にあえなかった。
そのことを若い妻・於布美(ふみ 19歳=当時)はゆるさなかった。
実家に帰ったまま、葬儀にも顔をみせなかった。

於布美の実家は、100石・馬廻り役であった。
もっとも、実家といっても養女ではあったが---。

はじめに家中の某家へ膨大な持参金つきでもらわれ、その後、むすめのいなかった実家へ養女としてはいった。

17歳で、剛二郎を見そめ、嫁入りした。
生まれが生まれで、金がらみの養女であったから、格下の家への嫁入りも見逃されたともいえた。
結婚はいつかは、おんなに幻滅の現実をつきつける。
愛児の死で堰がきれたのであろう。

話がもつれて離縁にまで行きついたのは、1年後であった。
離縁話には、於布美の義理の兄・長三郎(ちょうざぶろう 23歳)があたった。

この長三郎と口論になり、
「たかが30俵の家、との侮辱は許されぬ」
鞘ごとの太刀で長三郎の左腕をたたき折り、藩を辞めたのであると。

「事情はお訊きしました。ところで、きょうの立会いを相撃ちということにして、浅田どのに、受けていただきたいことがあるのです」
「はて?」

小浪(こなみ 31歳)から頼まれた事情を打ち明け、於布美どののこと、再考の余地はありませぬか---と訊いた。
剛二郎は、
(あきれた)
といった目つきで、まじまじと銕三郎を瞶(み)つめ、黙っていた。

ここで返事を求めては、剛二郎を追いつめてしまい、なるものがならなくなると憶測、
「いや。他人の拙が、よけいなことにかかわり、面目しだいもございませぬ。いちおう、頼まれごとはお伝えした。ご判断はご自由に---」
さっと立ち、剛二郎をのこして去った。

【参照】200余年4月17日~[一刀流杉浦派・仏頂(ぶつちょう)] () () () () 

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2009.04.20

一刀流杉浦派・仏頂(ぶっちょう)(4)

竹刀を構えるとともに、半歩引いた銕三郎(てつさぶろう 25歳)は、右肩上に八雙(はっそう)上段にとった。
道場の板壁にそって正座して観戦している岸井左馬之助(さまのすけ 25歳)が、おもわず、
「ほっ」
小さな嘆声をもらした。
隣座の井関録之助(ろくのすけ)は、息をとめて、2人のつぎの技を見つめている。

対している浅田剛二郎(ごうじろう 32歳)は、銕三郎の髷(まげ)にじっと視線をすえ、正眼のままである。

門弟たちは、みな退出させられ、道場には5人だけであった。
5人目は、審判役の道場主・高杉銀平(ぎんぺい 65歳)である。
銕三郎との年齢差は40歳。

道場の大川に面した格子窓から、西日がさしこみ、相対している2人の影を長くつくっている。

どれくらいの刻(とき)がすぎたろうか。

録之助が息を吐いたとき、
銕三郎の竹刀が浅田の面上へ落ちると同時に、浅田の竹刀が銕三郎の左肩にきまっていた。

「それまで。相撃ち」
高杉師が両手で2人を指した。

その瞬間、浅田剛二郎がその場に膝をつき、
「いえ。長谷川うじの勝ちでございましょう。一瞬早く、面を撃たれましてございます」

「違うな。一瞬の差もなしの、相撃ち」
高杉師が、ゆっくりといい、
「双方、汗を流して、居室のほうへくるように。岸井井関も相伴いたせ」
先に道場を出て、隣りの居室へ消えた。

銕三郎剛二郎は、ただにらみ合っていただけに近いのに、汗びっしょりであった。
井戸水で躰をぬぐい、師の居室へ伺うと、婆やにでもいいつけてあったのか、酒肴の用意ができていた。

高杉師は、浅田の盃を満たしてやりながら、
「相撃ちでないとおもわれた根拠(わけ)は---?」
盃を置いた浅田が、
「はい。長谷川うじは、気を消して撃ってこられました。一刀流杉浦派の秘太刀・仏頂(ぶっちょう)は、気を殺されると、どうしても後手(ごて)にまわります」
「なるほど。長谷川が八雙上段にとった理由(わけ)は?」
「仏頂の名は、笠間の山の名と聞きました。それで、吹きおろす山風をおもいつきまして---」
「うむ。ところで、長谷川は、笠間城下へ行ったことがあるのか?」
「いいえ。ございませぬ」
「よくぞ、察したの」
浅田うじのお人柄を手がかりに---」
左馬も、いまの長谷川の言葉を肝に銘じておくように」
「はい」
「銘じました」

浅田が、あわてて、
長谷川うじ。買いかぶられましたな」

【参照】200余年4月17日~[一刀流杉浦派・仏頂(ぶつちょう)] () () () (

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2009.04.19

一刀流杉浦派・仏頂(ぶっちょう)(3)

「山か---」
浅田剛二郎(ごうじろう 32歳)があやつる一刀流杉浦派の秘太刀・仏頂(ぶっちょう)は、笠間盆地を囲む山塊群のなかの一つの峰の名前であるという。

銕三郎(てつさぶろう 25歳)は、大川で見た筑波山を背にして、大川ぞいに南へ、竪川(たてかわ)へ向かって歩みながら、思い出の山を反芻していた。

東海道では、なんといっても箱根山道。
それと、さつた峠、宇津谷峠、小夜の山が記憶にのこっている。
阿記(あき 22歳=当時)とのことがあった翌朝、2人で後日の約束をかわしながら眺めた駒ヶ岳の姿は朝日にかがやいていた)

参照】2008年1月2日[与詩(よし)を迎えに] (13)  (14) (15

(〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 30歳=当時)と掛川から、山あい道ぞいに相良へむかった途次、中という名の山里の北に見た、名も知れない山の容姿のやさしかったこと)

2009年1月25日[ちゅうすけのひとり言] (30

甲州路は小仏峠をすぎると山ばかりだったようにおもう。
いや、手前の山にさえぎられて、遠くの高山の頂は、往還からは目にはいらなかったといったほうが正しい。

山にはそれそれ命名されたいわれがあるはず。
(仏頂峰のすぐ南隣りには鍬柄(くわがら)山があると、浅田うじはたしかに言った)。
しかし、この2つの峰の名は、山貌からきているのであろう。

仏頂山から北東は、谷をはさんで国見(くにみ)山だったか。
こちらの命名は、ちがいすぎる。
国見山からは常陸国の広い平野と下野国の田畑が見わたせるのか。
いや、国というのは、笠間藩のことかもしれない。

_360
(赤○=笠間城下 緑○=佐白山 青○=左下から時計まわりに鍬柄、仏頂、国見の各山。 
明治20年 参謀本部測量部製)

国見山から南東に見下ろせる佐白(さしろ)山におかれていた城(居館)のこと指しているということもありうる。
(そういうことだと、仏頂の山頂上からは、佐白城は真東だ。しかも、山高は半分もない)

山姿とすると仏頂は、仏の頭から生まれた仏頂尊ということになるが---。

あれこれおもいめぐらせているうちに、あやうくわが家をゆきすぎかけ、苦笑したが、そのとき、ひらめいた。


【参照】200余年4月17日~[一刀流杉浦派・仏頂(ぶつちょう)] () () () (


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2009.04.18

一刀流杉浦派・仏頂(ぶっちょう)(2)

おもわぬ褒賞金がはいったから、どこかで散財しようと岸井左馬之助(さまのすけ 25歳)が提案し、
「うなぎでよろしければ、それがしが働いている店の近くの、〔草加屋〕が評判ですが---」
浅田剛二郎(ごうじろう)用心棒がうけた。

浅草田原町(たはらまち)の〔草加屋〕は、屋号のとおり、草加宿のはずれを流れる綾瀬川で獲れたうなぎを生簀(いけす)で飼いおき、舟で毎日はこばせているので、味がいいといわれている店である。

_360
(うなぎの〔草加屋〕 『江戸買物独案内』 文政7年 1824刊)

銕三郎(てつさぶろう 25歳)も久栄(ひさえ 18歳)と、いちど、行ってみようとは思っていた。
しかし、久栄は臨月が近い。
なるたけそばにいて、気をくばってやりたい。

うなぎを肴に呑もうという3人を見送った。
渡しの舟着きへ向かおうとした銕三郎に、女将の小浪(こなみ 31歳)が声をかけた。
_100長谷川はん。よろしゅおしたら、もう一杯、お茶、どないどすえ?」
「なにか、用でも?」
「お耳にお入れしてええのんか、どうか---」

腰を落ち着けた銕三郎の横へきた小浪が、ささやくように、
今助はんが、浅田はんのご内室が上府してはるいわはりましてなあ」
「なに? 浅田うじのご内室は、たしか、今助どのの姉ごと聞いていたが---」
「ええ。事情(わけ)がおまして、離縁にならはったんどすが、あきらめられへんらしゅうて---」
「男とおんなの仲です。ましてや夫婦だったお方。そういうこともありましょう。しかし、それをなぜ、拙に?」
浅田はんのとりなし役は、長谷川はんをおいて、ほかにはあらへんと、今助はんが---」

於布美(ふみ 25歳)---剛二郎のかつての妻の名である。
於布美はいま、〔銀波楼〕に仮偶している。
小浪は、自分のお頭である京の〔狐火きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 50歳)からの返事があり次第、向島の寮へ移すつもりだという。
生計(たつき)の入用(いりよう)は、今助から出る。

「ほかならぬ今助どのの頼みとあれば、聞かぬわけにはゆきませぬ。機会(おり)をみて、浅田どのには話してはみますが、こればっかりは、ご当人の気持ちひとつゆえ、あてにはしないように、今助どのへ伝えてくだされ」
今助は、浅草・今戸一帯の香具師の元締・〔木賊(とくさ)〕の林造(りんぞう 61歳)の子であるらしい。
小浪は、大盗・〔狐火〕の勇五郎のうさぎ人(にん 耳役)であるとともに、林造の妾であり、今助とも情を通じている。

参照】2008年10月23日[うさき人(にん)・小浪] (

渡しの舟が向こう岸の石原橋脇の桟橋へ着けるあいだ、銕三郎が思案していたのは、於布美のことではなく、剛二郎がふっともらした、一刀流杉浦派の秘太刀〔仏頂(ぶっちょう)〕のことであった。

高杉銀平(ぎんぺい 64歳)師からは、剛二郎の竹刀の一撃が肩へくる前に、対手(あいて)の面を撃つ工夫を宿題にされている。
剛二郎は、こう言った。
「対手が攻撃に移ろうとする瞬間、髪がかすかに逆立(さかだ)つ。それを見て、機先を制すのです」

銕三郎は、大川のはるか上流の向こうに、箱庭の山のような筑波の山頂が夕日をあびているのを眺めた。
(笠間の西、下野国と常陸国の境にそびえているという仏頂山の山容は、あのようであろうか?)


【参照】200余年4月17日~[一刀流杉浦派・仏頂(ぶつちょう)] () () () (

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2009.04.17

一刀流杉浦派・仏頂(ぶっちょう)

浅田どのが、左馬さんにお遣いになった剣ですが---」
銕三郎(てつさぶろう 25歳)が、浅田剛二郎(ごうじろう 32歳)に問う。
ところは、御厩(おうまや)河岸の舟着き茶店〔小浪〕である。
岸井左馬之助(さまのすけ 25歳)が身をのりだした。
つられて、井関録之助(ろくのすけ 21歳)もこぶしをにぎりしめる。

4人は、浅草田原町の質舗〔鳩屋〕長兵衛方をおそった盗賊〔釘無(くぎなし)〕の角兵衛(かくべえ 40歳)一味を倒し、夜廻りに駆りだされていた先手・弓の2番手組頭・奥田山城守忠祇(ただまさ 67歳)に、お馬先(さき)の召し取りの栄誉をもたらした。
その褒賞を、奥田組頭の屋敷で、受けた帰りである。
褒賞は、一人に1両(16万円)ずつが奉書紙につつまれていた。

「ああ。杉浦派の仏頂(ぶっちょう)のことですか」
「ほう---仏頂というのですか」
銕三郎は納得したが、左馬之助録之助はきょとんとしている。

きき耳をたてていた女将・小浪(こなみ 31歳)がお茶のお代わりを注ぎながら、
「ぶっちょういうたら、あの、仏頂顔(ぶっちょうがお)の仏頂どすか?」

「字で書けば同じですが、命名の由来は、笠間の仏頂山からきております」
応じた剛二郎に、
「笠間に、そんな不愛想な名の山があるのですか?」
録之助がも素っ頓狂な声で訊いた。

剛二郎は、笠間は盆地で、ぐるりを朝房(あさぼう)山、国見(くにみ)山、鍬柄(くわがら)山、棟(ぐし)山、吾国(わがくに)山にかこまれており、仏頂山はその山々の一つである。
山貌がけわしいためにつけられた山名であるが、杉浦流の秘剣の場合は、対手(あいて)の髪を注視することに由来していると。

「髪を注視する---?」
左馬之助が反問した。
「はい。攻撃に移ろうとする瞬間、髪がかすかに逆立(さかだ)つ。それを見て、機先を制すのです」
「ふーむ」
うなったのは録之助

「笠間藩では、唯心一刀流と示現流がもっぱらと聞いておりますが---」
たしかめたのは、高杉銀平師から聞かされていた銕三郎である。

「はい。中層より上の家の方々は唯心一刀流を修行なさっておりますが、それがしごとき花香(はなか)町の長屋住まいの小身の者は、杉浦三郎太夫師のお弟子だった方を、師とあおいでおりました」


【参照】200余年4月17日~[一刀流杉浦派・仏頂(ぶつちょう)] () () () (

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2009.04.16

〔風速(かざはや)〕の権七の駕篭屋業(4)

長谷川さま。お気づきのことがありましたら、どうぞ、お教えくだせえまし」
駕篭屋業の店びらきを3日後にひかえた〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 38歳)が、銕三郎(てつさぶろう 25歳)の知恵をかりている。

(ごん)どのが箱根で荷運び人足---雲助といったな---あのころの小田原宿から箱根宿までの荷運び賃はいくらであったかな?」
「小田原からの登りが、429文(1万7,1600円=公式換算)、箱根宿からの下りが361文(1万4,440円=同前)という決まりでやした」
「小田原から箱根宿までの距離は?」
「4里8丁---。ああ、江戸の町中での駕篭賃も、1丁(109m)いくらとはっきりさせたほうがいいと、おっしゃっているのでやすね?」

江戸は箱根とちがって平地が多いとはいえ、本郷・湯島や谷中、赤坂や麻布・高輪あたりは坂が多い。
それで、権七は、駕篭舁(か)きたちが1日に3刻(6時間)・6里(24km)、客を乗せているとして、手取りを1人500文(2万円)、2人で1000文(1分=4万円)とおき、水揚げはその倍の2分(8万円)とはじいた。

この計算は、戻り駕篭の客はいれていない。
もし、運よく、戻り客がつけば、その分は増収となる。
もっとも、権七のねらいは、戻り客はなしでもいいから、いそいで店へ戻ってきてもらうことであった。

駕篭屋側の取り分を水揚げの5割とふんだのは、駕篭切手の元請け手数料が1割5分、駕篭の原価償却と修理費が2割、残る1割5分を営業費に引きあてたからである。

この計算には、元の店主から引き継いだ駕篭舁(か)き人足たちも納得した。
どうやら、権七が新しい店主になると、駕篭舁(か)きたちの実入りが、これまでよりも2割前後は増えるらしい。

権七は、駕篭舁(か)きの代表3人にきっぱりと告げた。
「増えるかどうかは、あ前さん方の働きしでえだ。客を乗せている時間が1日3刻、6里を下まわると、そのぶん、実入りが減る日もある」
「しかし、親方。3刻を上まわると、実入りも増える---」
「そういうこと」

もちろん、店側としては、目いっぱい、客つなぎにつとめることも伝えた。
「その代わり、お前さん方は、行き先をきいたら、そこまでは何丁だから、掛け値なしにいくらいくらと、客が乗る前に値段を告げ、納得の上で乗ってもらうように」

権七は、江戸の主要な道々の里程を記した絵図を刷らせて、駕篭舁きに持たせ、客にも示すように言いつけた。

ちゅうすけ注】「現金掛け値なし」は、駿河町の越後屋・三井呉服店が始めて大成功したので、このころになると、江戸のなだたる大・中店も「掛け値なし」を看板に掲げていた。
が、表向きとはべつに、やはり、現金だとこっそりの値引きも少なくなかった。
また、商品切手のアイデアは鰹節問屋、〔イ(にんべん)〕の伊勢屋伊兵衛の創案といわれている。

開業の前の日には、背中に □ の屋標、襟に〔箱根屋〕と屋号を紺地に白抜きした半纏も届けられた。
「みなの衆。この半纏に恥ねえようにやってもらいてえ」
新しい門出の祝い酒の席で、権七が言った。


参照】2009年4月13日[風速(かざはや)〕の権七の駕篭屋業] () () (

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2009.04.15

〔風速(かざはや)〕の権七の駕篭屋業(3)

駕篭屋を開業する〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 38歳)は、銕三郎(てつさぶろう 25歳)も目をみはるほど慎重であった。

大川から東の横川までの西深川に点在する辻駕篭屋7軒のすべてを、紋付羽織に角樽をさげ、ゑ組の組半纏をまとった頭(かしら)・仁吉(にきち 38歳)同道でまわった。
「お手をお借りすることもあろうかとおめえます。その節は、よろしゅうにお助(す)けくだせえますよう---こっちには、お声をいただけば、いつにてもお役に立つつもりでおりやす」
つまり。駕籠舁(か)き人の貸し借りを通じて、商売がたきとなりそうな芽を摘みとっていていしまったのである。
世話人に、最長老を立てたので、これには反目しあっていた亭主連も賛同するしかなかった。、

深川八幡宮前の料理茶屋や木場の旦那衆のところは、土地(ところ)の香具師(やし)の元締・〔丸太橋(まるたばし)〕の源治(げんじ 55歳)のところの小頭の雄太(ゆうた 36歳)がつきそった。
丸太橋〕へは、銕三郎が発案した駕篭切手の販売権を、通用額の1割5分の販売手数料を引いて卸した。

銕三郎は、自分の発案だけに、
「そんなに大きな利幅をわたして、内証は大丈夫なのか?」
心配すると、
「なに、地回り代をはらったとおもえば、売り子をかかえなくてすみやすから、かえって安いものです。それに、駕篭切手は、現金で〔丸太橋〕に引きとってもらっとりますから、貸しだおれはありやせん」
権七は、もと、箱根山道の雲助頭であっただけに、度胸がすわっていた。
その上、江戸の暗黒街の仕組み、下町の商家の金(かね)繰りの知恵が加わったから、鬼に金棒といえた。

蛇足を書くと、権七が創案して羽織につけた家紋は、屋標と同じで、単なる □ だった。
右上の角から左下の角へ線が引かれていれば、枡紋なのだが、その斜線はない。
銕三郎が訊くと、
「箱でやす」
「たしかに箱、ではあるな」
「〔箱根屋〕という屋号にしやすんで---」
「〔風速〕ではないのか?」
「そんな、自慢たらしい屋号をつけたら、同業者(なかま)に何を言われるかわかりやせん。箱根の山猿---と、へりくだって、ちょうどいいんでやす」


参照】2009年4月13日[風速(かざはや)〕の権七の駕篭屋業] () () (http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2009/04/post-ac1f.html">4)

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2009.04.14

〔風速(かざはや)〕の権七の駕篭屋業(2)

「この、居酒屋〔須賀〕が消えると、多くの仁が落胆するのでは---?」
銕三郎(てつさぶろう 25歳)の問いかけに、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 38歳)が答える先に、女将のお須賀(すが 32歳) が、
「でございますよね。だから、ここもつづければいいって言っているんですが、さんが承知しないんでございますよ」
「おれは、2つの店をやりくりするほどの、才覚は持ちあわせていねえんだ」
権七が、ぴしゃりとお須賀の口を封じた。

権七夫婦の一人むすめのお(しま)は、5歳になっているといっても、このころは数え齢だし、10月生まれだから、いまの年齢でいうと、満3歳である。
そろそろ、知恵がまわりはじめる齢ごろといえよう。
(子育てを、子守にまかせっきりでいいものか---)
そのことをおもんぱかっての、権七の決断であることが、銕三郎はわかっているので、お須賀への言葉をさがしたが、たやすくはみつからなかった。

上総国武射郡(むしゃこおり)寺崎の縁者のところへ養女にやった於嘉根(おね)のことがあたまに浮かんだ。
於嘉根も、7歳だ。七五三の祝いの品は、母上が手くばりなさっていようが、おれからも何か---久栄(ひさえ 18歳)に言って、みつくろわすか)

権三郎の表情から察した権七が先まわりして、
「ここは、三島から呼んでいる、須賀の縁者のおとその連れあいにゆずると、決めやしたんで。おれたちは、気がむいたら、客としてきて、なじみの客衆の話の輪にいれてもらえりぁ、それでいいで---」
「それも、ひとつの解決案ですな」
(くつろいで風聞がひろえる店がひとつ消えるのは痛いが、駕篭屋業のほうが世情に広く深くかかわれると、権七が読んだのだから、ここはまかせきろう)

銕三郎が話題を変えた。
「お坊に、弟か妹は?」
「そんな暇は、ございませんのですよ」
須賀のその言葉に、
「駕篭屋になれば、暇はたっぷり---」
銕三郎が笑うと、つられてお須賀の顔から険が解けた。

権七どの。駕篭札というのを、どう思いますか?」
銕三郎の案は、駕篭をよく呼ぶ八幡宮前の料理茶屋や木場の旦那衆の店などに、50文(2000円)札、100文(4000円)札、1朱(1万円)札などを前もって買ってもらっておけば、節季ごとの集金をしなくてすむから、金繰りがたすかる---その分、駕籠かき人への支払いがとどこおらない---というのであった。
「前払い(プリ・ペイド)でもらっておくってわけでやすね。ふーむ、前代未聞の案だが---」


参照】2009年4月13日[風速(かざはや)〕の権七の駕篭屋業] () () (http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2009/04/post-ac1f.html">4)


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2009.04.13

〔風速(かざはや)〕の権七の駕篭屋業

長谷川さま。お蔭をもちやして、黒船橋北詰の駕篭屋を居抜きで買うことができやした」
永代橋東詰の居酒屋〔須賀〕の亭主・権七(ごんしち 38歳)が、うれしげに銕三郎(てつさぶろう 25歳)に告げた。
明和7年(1770)年の桜花(はな)の季節である。

権七によると、蛤町といっても黒船橋ぎわは、櫓下(やぐらした)の出入り口にあたっており、縦に折れjまがって大川に流れこむ大横川をさかのぼって櫓下の岡場所へやってくる遊客をはじめ、木場の材木問屋の旦那衆など、客筋は悪くないのだという。
「よく、そのように繁盛している駕篭屋の出物がみつかったな」
銕三郎は、資金のことよりも、売り店のことを気にした。
権七は、
(末はお役人におなりの方なのに、勝手(経済)がおわかりである。末たのもしい)
ひそかにおもったが、口にも顔にもださない。
銕三郎に、追従ととられては心外だからである。

「そのことでやすが、持ち主が地元の悪(わる)どもにたかられるのが嫌になり、手放す気になったんでやす」
〔悪ども?」
「へい。なにしろ、櫓下は、悪どもの金(かね)づるでやすから---」

「それでは、権七どのも、これから手加減がむずかしかろう?」
「それがでやす、話をもってきてくれたのが、〔須賀〕の常連客の一人で、ゑ組の頭(かしら)3代目・仁吉(にきち 38歳)っつぁんでやして---地元の悪どもも一目も二目もおいてるお頭(かしら)だったもので---」
「そうか。火消しの頭の口ききでは、悪たちも手がだせないな」

旬日のうちに、土地証文、諸式と駕籠舁(か)き人足ともども、引きわたしてもらえるという。
というのも、浅草田原町(たはらまち)の質商[鳩屋〕をおそった〔釘無(くぎなし)〕の角兵衛(かくべえ 40歳)一味の逮捕に大きく貢献した用心棒のことが追い風になって、あちこちの大店(おおだな)に用心棒を雇うことが流行(はや)った。
その分、身元引き請け料で、権七のふところがうるおったというわけである。

用心棒一人の身元引き請けをするたびに4両2分(約72万円)を今助(いますけ 23歳)が確実にとどけてよこす。
5口で22両2分(約360万円)、10人だとその倍。
駕篭屋の権利料など、即金ではらっても、おつりがくる。

それでも、権七は用心深かった。
浅草・今戸一帯の香具師(やし)の元締・〔木賊(とくさ)〕の林造(りんぞう 61歳)の小頭・今助をうごかし、深川の元締・〔丸太橋(まるたばし)〕の源次(げんじ 55歳)に、切餅ひとつ(25両)をわたして、辞をとおした。

丸太橋〕の源次は、切餅はもちろんだが、権七に、おのれにかかわりのあるの浪人の身元を引き請けてもらえることのほうを期待したフシもないではない。
権七は、ぴしゃりと返事をした。
「そっちのほうは、先手組の組頭のご嫡子、一刀流の免許持ちの長谷川の若のお眼鏡次第でやすから」

権七が駕篭屋を買いとったのも、さまざまな風評や事件の切れっぱしをかき集めては、銕三郎の耳へ入れてくれるためと察していたから、そのこころ根が、銕三郎はなによりもうれしかった。


参照】2009年4月13日[風速(かざはや)〕の権七の駕篭屋業] () () (http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2009/04/post-ac1f.html">4)

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2009.04.12

ちゅうすけのひとり言(32)

宮城谷昌光さん『風は山川より』(全5巻 新潮社 2006.12.1~)は、野田菅沼家3代を主軸に、徳川3代(清康・広忠・家康)をからめた、雄渾な物語である。
もちろん周辺の今川家武田信玄にも筆がおよぶ。

それで、つい、余計なことを期待した。
今川家の重臣であった、紀伊(きの)守正長(まさなが 没年37歳=1572)の田中城の立ちのきの事情にもくわしいかもと。

武田信玄の軍が、駿河国田中城を攻めたのは、永禄13年(1570 4月に元亀と改元)の正月である。
_130風は山河より 第5巻』からひく。

(永禄12年の)十二月十三日に信玄は府中(駿府)にはいり、家康に命じられて府中守禦の任についていた岡部正綱(まつさな)らを武力で排除せず、臨済寺の僧をつかって懐附(かいふ)させた。年が明けるや、信玄は軍を西進させて、花沢城と徳一色(とくしっしき)城を攻め、正月のうちに開城させた。徳一色城は馬場信春(のぶはる)によって改修され、田中城となる。二月中旬まで田中城にいた信玄は、清水(しみず)に移り、水軍編成をおこなうと同時に江尻(えじり)城の普請をはじめた。

たった、これだけである。
藤枝市史』(市史編纂委員会 1979.3.31)fは、

元亀元年(1570)1月22日、武田信玄は花沢城を攻略して27日にこれを陥入れると、その余勢をもって田中城を攻めた。
この時田中城を守っていたのは長谷川正長である。
思うに由井美作守は永禄3年(1560)の桶狭間の戦に戦死をとげたので、その後をうけて、小川に居館を構えていた長谷川氏が守衛したのである。
(長谷川正長の祖父は法永長者と呼ばれ今川の家督争いに氏親を庇護した功臣である)武田勢は新宿口・平島口から潮の如くおしよせた。
正長は一族二〇人余、三〇〇騎でこれを守ったが、衆寡敵せず、辛うじて脱出して金比羅山へ逃れ、再起逆襲の機をねらったが遂にその機会がなく、遠州に走って家康に投じた。(改行はちゅうすけ)

疑問点は、「一族20人余、300騎」の「300騎」である。
田中城は、本丸がわずかに860坪の平地城である。
こんなちっぽけな城にはたして「300騎」も収容できたであろうかか。
また、長谷川正長を受け入れた徳川家康側にしても、「300騎」では長谷川正長の処遇に当惑したとおもう。

駿州雑記』巻38は「長谷川次郎右衛門正長」の項を立てて、

伝えて云う。
長谷川次郎右衛門正長は、某元長の子なり。のち紀伊守に任ず。
頭郡徳一色の城(注:田中城)に在り。
永禄十三年(1570 注:元亀元年でもある)、武田信玄のために攻められ、一族二十一人、その勢三百余人を従え、去って遠州へ赴き、東照宮に奉仕。
元亀三年(1572)十二月廿二日、味方が原御合戦の時討死す。
墓は止駄郡小河村会下島、長谷山信香院(曹)に有り。
法名長谷院殿前紀州守林叟院信香大居士と号す。(略)

織田信長の要請で、家康は軍を率い、はるか、近江国まで遠征した。
いわゆる、姉川の合戦である。
徳川軍の朝倉援軍への活躍があって、織田軍はかろうじて勝利をええた。
この戦いに、長谷川正長も参加しているらしいが、その記録をいまだ、目にしていない。

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2009.04.11

先手・弓の2番手(5)

(たち)伊蔵(いぞう 53歳)筆頭与力が指揮して、侵入して打ち倒された賊8人を田原町(たはらまち)のすぐ西に広い境内を有している臨済宗の名刹・金竜寺へ、看視の小者をつけてあずけるの見とどけたかのように、読みうり屋の〔耳より〕の紋次(もんじ 26歳)があらわれた。

長谷川の旦那---」
夜っびいて開けている、駒形堂脇の菜飯屋へ、浅田剛二郎(ごうじろう 32歳)、岸井左馬之助(さまのすけ 25歳)、井関録之助(ろくのすけ 20歳)ともども案内した。

賊と対決した3人に、格闘の経緯を訊き終えたところで、銕三郎(てつさぶろう 25歳)が口をはさんだ。
紋次どの。まず、格闘の時刻を2刻半(5時間)ほど遅らせないと、版元に迷惑がおよぶ」
「なんで?」
「先手・弓の2番手の組頭・奥田摂津守さまが指揮されて、お馬先で召し取られたことなっておる。そう書かないと、かの組からとんでもないことでいいがかりがつけられる」

参照】お馬先召し捕りについては、2006年6月12日[現代語訳『徳川時代制度の研究」] () 

奥田の殿さまの紋どころは?」
「なにゆえに家紋が?」
「騎馬の奥田さまの勇姿の陣笠と羽織にでっかく描かせやすんで---」
「それはありがたい。しかし、家紋は大きめの武鑑なら、先手組頭の項に載っておるはず」
「さいでした。あとで調べて、絵師に伝えておきやす」

_100ついでだが、奥田山城守忠祇(ただまさ 66歳 300俵)の家紋は、丸に横二引両であった。

「そういたしやすと、浅田さん、岸井さん、井関さんの3剣豪の活躍どころはどこにすればよろしいので?」
「屋内でそれぞれが賊2人ずつ倒したが、逃げた2人を、奥田組が召し捕ったとでもしておいてくれませんか」
「承知しやした」

その読みうりが発売されたが、売れ行きはかんばしくなかったらしい。
紋次がぼやいた。
長谷川の旦那。お役人の落ち度なら町びとはよろこんで読みますが、賊を召し取るのは役目であって、面白くもなんともないんでやすよ」
「そういうことであろう。しかしな、紋次どのよ。なにごとも、二番煎じは興奮しないものよ」
「でも、二匹目の泥鰌(どどょう)をすくわぬ馬鹿、三匹めの泥鰌をねらう馬鹿---って言いやすぜ」
「泥鰌と泥棒を、いっしょにしては、なあ」

大売れはしなかった読みうりだったが、左馬之助録之助を名ざしでの用心棒の引きあいが、今助(いますけ 22歳)と権七(ごんしち 37歳)のもとへ、どっときた。

高杉銀平師は、岸井左馬之助には許可しなかった。
道場をゆずるつもりだったのかもしれない。

録之助には許しがでた。
もっとも、夜をあけるのでは、茶問屋〔万屋〕との契約に反するというお(もと 34歳)の強い異議がとおって、けっきょく、録之助も用心棒の2重稼ぎはできなかった。
30おんな相手のこってりした夜に、いささかうんざりした録之助の顔が見えるようでもある。

(ゆき 23歳当時)以来、自分の膝っ小僧を抱いて寝ている夜の多い左馬之助に言わせると、
「ぜいたくを言うな」
であろうが---。


参照】2008年8月21日 [若き日の井関禄之助](1) (2) (3) (4) (

2008年10月17日[〔橘屋〕のお雪] (1) (2)
 
(3) (4) (5) (6)


2009年~4月3日[用心棒・浅田剛二郎] () () () (


2009年4月7日[先手・弓の2番手] () () () (

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2009.04.10

先手・弓の2番手(4)

偶然とはいえ、浅草田原町(たはらまち)1丁目の質舗〔鳩屋〕長兵衛方を、2番目の賊が襲ったとき、来あわせたのが先手・弓の2番手の奥田組であったことには、運命のようなものを感じる。

前にも書いたが、長谷川平蔵家は徳川幕府体制のなかでは毛並みのいい両番(書院番と小姓組)の家柄とはいえ、7代目の宣雄(のぶお 47歳=明和2)の代になってはじめて役つきに引きあげられた。
それまでの6人の当主は、両番ではあっても、平(ひら)のままで終わっていた。

宣雄は、番方(武官系)でも最上位に近い先手組、しかも、格が上の弓組の8番手の組頭にまで抜擢された(その後、役方(行政)系の京都西町奉行)。
本家の太郎兵衛正直(まさなお 61歳=明和7)も、本家の歴代の当主では、初め役席についた。先手組頭としては弓の7番手の組頭であった。

この太郎兵衛正直、7番手の組頭を15年間も務めた安永5年(1776)12月に、突然、2番手へ組替えになったのである。
奇妙な人事移動であった。
弓の2番手の組頭・土屋帯刀守直(もりなお 43歳=安永5 1000石)iは、2日前に目付からこの組の組頭へ昇格したばかりで、諸方への挨拶まわりがおわらないうちの、火盗改メを下命され、同時に組替えをいわれた。
寛政譜』をあたってみても、役目上に落ち度があった形跡はない---いや、常識的にいって発令2日で落ち度など、あるわけはない。

2番手も7番手も、与力は10人、同心は30人と、差はない。

唯一考えられるのは、7番手は、前の組頭・長谷川太郎兵衛正直が、14年間に2度、火盗改メを勤めている。
組頭が火盗改メにつくと、与力、同心にも加役手当てがはいる。
それをあてこんでの、火盗改メの組頭を呼びこむという例は、ないわけではない。

ちゅうすけ注】平蔵宣以(のぶため)の火盗改メの前任、堀 帯刀秀隆(ひでたか)が役についていたとき、2回も組替をやっている。そのときに秀隆の用人がふところにいれた賄賂は80両と100両であったとうわさされている。

とにかく、長谷川家は、弓の2番手への実績が、本家の太郎兵衛によって開かれたとみなしておこう。

奥田摂津守忠祇(ただまさ)から長谷川平蔵宣以までの、先手・弓の2番手の組頭のリストを掲げておく。


奥田山城守忠祇( 300俵)
  先祖は越後から尾張へ移り、松永弾正につかえ、
  のち織田右府に属し、また豊臣太閤に。
  大和国畑に蟄居していたのを、関ヶ原のときに
  家康に召される。

61歳 宝暦13(1763)年3月15日 御小納戸頭取より
71歳 安永2(1773)年正月11日 御持頭
    (1791年歿。享年93歳)

赤井越前守忠晶( 700石)
  先祖は丹波国を領す。明智光秀に追われ、遠江国に
  逃げる。大久保忠世の推挙で家康につかえる。

47歳 安永2(1773)巳年正月11日 小十人頭より
          同月20日 火盗改メ
48歳 同 3(1774)年 3月20日 京都町奉行
    (1790年歿。享年64歳)

菅沼藤十郎定亨(2020石)
  先祖は三河国野田で育ち、額田郡菅沼の婿になる。
  一族が武田についたが、定亨の始祖は家康旗下に。

 45歳 安永3(1774)年3月20日 西丸御目付より
 47歳 同 5(1776)年12月12日 奈良奉行
      (1778年、奈良にて歿。享年49歳)

土屋帯刀守直(1000石)
  先祖は武田家に仕え、秋山、のち武田家臣の金丸
  を継ぐ。信玄とときに武田の臣・土屋と改む。
  伝手を頼り駿河国今泉村の清見寺にいたのを鷹狩り
  にきた家康に認められる。

 39歳 安永5(1776)年12月12日 御使番より
    同     12月14日 (弓7番組へ)
               長谷川太郎兵衛と組替え
               同日  火附盗賊改メ加役
42歳 同 8(1779)亥年正月15日 大坂町奉行

長谷川太郎兵衛正直(1450石)
  始祖は今川義元に仕え駿河国小川から田中城へ移り
  のち、家康に使えて三方ヶ原で討ち死。

54歳 宝暦13(1763)年8月15日 御徒頭より
                  (弓7番組へ)
   同   10月13日 火盗改メ加役
   同  14(1764)年5月3日 加役御免
56歳 明和2(1765)年4月朔日 定加役
    同  3(1766)年6月朔日 加役御免
67歳 安永5(1776)年4月 日光御供
   同  (1776)申年12月14日 他組より
                 (土屋帯刀組へ)組替え
 69歳 同 7(1778)年 2月24日 御持頭
    (1792年歿。享年83歳)

贅 越前守正寿( 300石のち 400石)
  始祖は家康、のち紀伊家につかえる。
  吉宗に従い、御家人に。

37歳 安永7(1778)年2月28日 御小姓頭より
39歳 同 8(1779)年正月15日 火附盗賊改メ加役
44歳 天明4(1784)年7月26日 堺奉行
    (1795年、堺にて歿。享年55歳)

横田源太郎松房(1000石)
 祖先は武田信玄と勝頼の足軽大将、武田滅亡後に、
 家康のとき、甲斐の士とともに芦田小屋を守る。

41歳 天明4(1784)年7月26日 西丸御目付より、
                  火附盗賊改メ加役
    同   10月15日 前田半右衛門と組替え
42歳 同 5(1785年11月15日 御作事奉行)

前田半右衛門玄昌(1900石)
 始祖は美濃国出身で織田信忠に仕え、前田玄以(丹波
 亀山)は豊臣の5奉行の1人。

50歳 安永8(1778)年2月20日 小十人頭より
56歳 天明4(1784)年10月19日 横田源兵衛と組替え
   同 6(1786)年 7月8日 卒(享年58歳)

谷川平蔵宣以( 400石)
41歳 天明6(1786 )年7月26日 西丸御徒士頭より
 42歳 同 7(1787 )年5月 組召し連れ相廻るべき旨
      (天明の騒擾・打ち壊しの鎮圧部隊に)
   同   6月 一統御免
   同   11月より増加役
43歳 同 8(1788)年 4月29日御免
   同     10月2日定加役
50歳 寛政7(1795) 5月16日 病気につき願いのとおり
             火附盗賊加役御免。
   同     5月19日卒(享年50歳) 
           (ただし、事実は5月10日卒)


参考】2009年~4月3日[用心棒・浅田剛二郎] () () () (


2009年4月7日[先手・弓の2番手] () () () (


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2009.04.09

先手・弓の2番手(3)

(たち)さま。御蔵片町のほうの放火犯人も、この〔鳩屋〕を襲った賊の手の者です。その者の名前も所在も、ここで捉えた者たちをしめあげれば、わかりましょう」
銕三郎(てつさぶろう 25歳)が、夜廻りをしていて行きあった先手・弓の2番手の筆頭与力・館伊蔵(いぞう 53歳)にささやく。

「こちらの賊たちは、舟できて、駒形堂のあたりから陸(おか)へあがったはずです。駒形堂の河岸には、船頭が1人か2人、賊たちの戻りを待っています」
銕三郎は、自分が太刀の柄頭で気絶をさせた賊に活をいれ、縛られているのに気づいて泣き顔になっているまだ20歳前に見える男に、
「獄門になりたくなければ、火盗改メに協力しろ。お前のお頭をはじめ、一味は全員、獄門になるから、お前が火盗改メに口を割ったことは、だれにもしれはしないが、どうだ?」

獄門といわれた若い男は、かんたんにうなずいた。
腰縄だけにして、その男を大川岸まで連れて行き、
「おーい。こっちだ」
と呼ばせた。
金で雇われた船頭が、舟からあがってきたところを、銕三郎が太刀の鞘で首筋を打って倒すと、2番手組の小者がすばやく縛りあげた。

見張りをしていた若い者(の)は、〔越巻(こしまき)〕の定次(さだじ 17歳)と名乗った。
「〔腰巻〕とは、ずいぶん、艶っぽい〔通り名〕をつけたものだな」
「屁(へ)をこく尻に巻く腰巻じゃねえんで---越後の{越す〕って字の〔越巻〕ですだ。おらが生まれた村の名だで」
「その越巻村というのは、どこにあるのだ?」
「綾瀬川ぞいだで---」
「綾瀬川って、長いぞ」
「埼玉郡(さいたまこおり)の越谷宿から横手へへえった越巻村(現・埼玉県越谷市新川町)だで」
「最初(はな)からそういえばいいんだ。要するに、高台のふもとなんだ」
「すんません。〔浮塚(うきつか)〕の甚兵衛(じんべえ 30歳)お頭(おかしら)が、みんなに可愛いがられる名だから、つけておけって---」

「なんだ、〔浮塚〕の甚兵衛のところにいたのか?」
「へえ。見張りをしていて、お頭やみんなが捕まったので、逃げただど、銭がつきたで、口合人さんとこさ行ったら、〔釘無(くぎなし)の角兵衛(かくべえ 40歳)お頭につないでもらったで---」
「中へはいったのは、〔釘無〕一味なんだな」
「なんでも、比企郡(ひきこおり)にそういう名前の村があるだと」

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』文庫巻16[見張りの糸]に〔稲荷いなり)〕の金太郎という盗賊が登場する。稲荷なんて、日本中に、わかっているだけでも12万社あるが、彼の兄が〔むじな)〕の豊蔵(とよぞう)というから、武蔵国比企郡(ひきこおり)上か下の狢村(現・埼玉県比企郡川島町)出身と特定できた。隣が釘無村である。

定次を捕り方へわたして、銕三郎筆頭与力に頼んだ。
「あれは、まだ、盗みの道へはいったばかりで、足を洗う見込みがあります。ご温情を---」
「こころえた。わが方も、お馬先召し捕りを容認いただいておるのでな」

参照】お馬先召し取りについては、2006年6月12日[現代語訳『徳川時代制度の研究」] () 

「では、定次だけは、今夜のうちに、目白台へ引きたてください」

連れられていく定次の耳に、銕三郎がささやいた。
「困ったら、永代橋東詰の居酒屋〔須賀〕の亭主、権七(ごんしち 37歳)さんを訪ねるんだぞ」


参考】2009年~4月3日[用心棒・浅田剛二郎] () () () (

2009年4月7日[先手・弓の2番手] () () () (

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2009.04.08

先手・弓の2番手(2)

銕三郎(てつさぶろう 25歳)は、〔佐久屋〕の瀬戸口を裏手に出、隣家とのあいだの猫道から表へまわった。
表通りへのとば口で、見張りの挙動をうかがう。

見張りの賊は、新米らしく、じっとひそむことをしないで、あちこちと歩きまわっている。
その男が猫道の前へくるのを待ち、背骨を太刀の柄頭でつよくつくと、声もたてずに気絶して倒れた。
ついてきていた太作(たさく 63歳)にしばりあげるように言い、〔鳩屋〕の表戸に耳を寄せてみた。

激闘の音がかすかに伝わってくる。
表戸は、内から桟が降りていてあかない。

そこへ、やってきた一隊が、銕三郎を見とがめて取り囲み、提灯をつきつけた。
「怪しいやつ。なにをしておる?」
「あなた方は、何組ですか?」
「先に名乗れ」
「先手・弓の8番手組頭・長谷川平蔵宣雄の嫡子・銕三郎です」

一隊の中から、指揮者らしい年配のが、
長谷川どのでござったか---」
「おお、筆頭与力さま」
先手・弓の2番手の筆頭与力・(たち)伊蔵(いぞう 53歳)の顔が、新月の星明りでみとめられた。
2番手組の組頭は、奥田山城守忠祇(ただまさ 67歳 300俵)である。

筆頭とは、去年の晩春、盗賊・〔傘山(かさやま)〕の弥兵衛(やへえ 40がらみ)の記録のことで、目白台の組屋敷で会っている。
「わざわざのお見廻り、ご苦労さまでございます。それにして、奥田山城さまのお組がこのあたりをご担当とは---」
「目白台の組屋敷からは方角ちがいだが、お頭の屋敷は神田の元誓願寺なので、下谷(したや)あたりの見廻りを割りあてられたのでござる。ところで、ここで、なにを---?」

銕三郎太作がしばりあげた見張りの賊をしめし、
「〔鳩屋〕へ押しいった賊たちの、見張り役を捉えました」
筆頭与力は、賊が身動きしないので、
「斬り殺された---?」
「いえ。気をうしなっているだけです。切り傷はつけてはおりませぬ」

与力は、捕り方の同心に目で、賊を改めるように命じ、
「で、盗賊たちは?」
「いまごろは、この家の中で、みんな、気をうしなっておりましょう」
銕三郎が塀ごしに呼びかけた。
さん。表の大戸を開けてくれないか」

筆頭ほか組下一同が、奥へ行ってみると、廊下や庭に、8人もの賊が倒れてうめいていた。
浅田うじ。先手・2番手の筆頭与力どのです」
でござる」
「この家の用心棒・浅田剛二郎(ごうじろう 32歳)であります」
(てつ)さんの剣友で、佐倉の郷士・岸井左馬之助(さまのすけ 25歳)と申します」
「おなじく弟弟子の井関録之助(ろくのすけ 21歳)であります」
それぞれが、筆頭に名乗った。

筆頭は、ひとりひとりに大きくうなずきながら、
「お手前方のあっぱれな働きは、組頭の奥田山城守さまが、上っ方へご報告になるはず。組頭さまは、今夜は、お風邪ぎみでご静養なので、小職から仔細に話しておきます」

1_360
_
(奥田山城守忠祇の[個人譜)
ちゅうすけ補】奥田山城守の嫡養子・吉五郎直道(なおみち)とは、銕三郎は2年前の明和5年(1768)12月5日、いっしょなに将軍(家冶)の初見をうけている。

筆頭は、銕三郎を廊下の隅へいざない、
「お頭はお齢をめしておられるので、小職に代役をお命じになりましたが、今宵のような手柄は、ご自分のものになさりたいはず。どうであろう、賊の逮捕は、明日、お頭のお馬先召し捕り---ということにしていただきたいのじゃが---?」
「承知しました。そういたしましょう」

参照】お馬先召し取りについては、2006年6月12日[現代語訳『徳川時代制度の研究」] () 【ちゅうすけ注】火盗改メの長官(かしら)のお馬先召し捕りというのは、じっさいにあったことらしい。が、先手の臨時見廻りであったかどうかはしらない。

銕三郎が訊く。
ところで、御蔵前片町あたりのようであった火事はどうなりました?」
「ぼやでの。大火にならないでよかった。そちらは、鉄砲の5番手の永井内膳直尹 なおただ 500俵)さまの組があたっておるが、組頭どのはやはり73歳とお齢での、次席与力どのが采配をとってござる」


参考】2009年~4月3日[用心棒・浅田剛二郎] () () () (

2009年4月7日[先手・弓の2番手] () () () (

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2009.04.07

先手・弓の2番手

如月(きさらぎ 陰暦2月)の新月の前後両日ともで3晩のうちに、
(きっと、くる)
鉄三郎(てつさぶろう 25歳)は、そう読んでいた。

もちろん、〔蓑火みのひ)〕の喜之助(きのすけ 48歳)のように、条理をわきまえた首領は、みすみす危険の多い盗(つと)めをするわけがない。
功名心にかられたうぬぼれ屋が、火盗改メの鼻をあかしてやったと、仲間内で自慢をこくためにやるのだ。
貧から盗みの道に入った者の中には、抑圧が裏目にでて、見せたがり屋も少なくはない。

新月が近づいいたので、鉄三郎は、3日間は、夜、外泊すると、久栄に告げた。
そのことをしった老僕・太作(たさく 63歳)が、
「若。わたくしめをお供にお連れください。それで、ご新造さまが安心なされます。いまが、ややにとって、一番大事なときで、母ごに心配ことがあっては、ややに感染(うつ)ります」
太作は、どこぞに隠し子でもつくったことがあるように、よう、気がまわるな」

鉄三郎は、質商〔鳩屋〕のおもてがのぞける向かいの小間物屋〔佐久屋〕の2階の一と間を夜だけ借りるように話をつけていた。
理由(わけ)を聞かなくても、近所のことだから、〔佐久屋〕は〔鳩屋〕の1件をしっていて、間接ながら事件にかかわることでわくわくであった。

〔鳩屋〕では、用心棒・浅田剛二郎のほかに、岸井左馬之助(さまのすけ 25歳)と井関録之助(ろくのすけ 21歳)が、高杉道場備えつけの鉄条入りの振り棒をたずさえて、待ちかまえている。
〔鳩屋〕の家族と奉公人は、1軒おいた家へ、夕食をすますと、さっさと避難していた。

鉄三郎は、見張りを太作にまかせて仮眠をとっていた。
太作が、ゆすって、
「若。きました」
鉄三郎も、窓障子のすきまから、向かいの〔鳩屋〕を見た。
「何刻(なんとき)だ?」
ささやき声で訊く。
「九ッ(12時)をすぎたところです」

10人近い人影が脇の塀に縄梯子をのぼっている。

そこへ半鐘が打たれた。
鉄三郎が、太刀を腰にさしながら、
(ばかめ!)
舌打ちした。
(放火するなら、もっと、遠くでやれ。これでは、近所中が起きてしまう)

〔佐久屋〕の亭主・伊兵衛も寝ていなかった。
そっと部屋へ入ってきて、
「物干し場から、火事のぐあいをたしかめてもよろしゅうございましょうか?」
「おやめなさい。盗人が気がついたら、命がない」
「へえ。さようで---」
亭主は、あきらめて、しぶしぶ降りていった。

鉄三郎は、見張りを1人残し、盗賊たち全員が塀を越えたのをみとどけてから、ゆっくりと階段を下りていった。


参考】2009年~4月3日[用心棒・浅田剛二郎] () () () (


2009年4月7日[先手・弓の2番手] () () () (

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2009.04.06

用心棒・浅田剛二郎(4)

浅田うじ。貴殿が盗賊だとしたら、どういう手できますか?」
すべての手配が整ったことを伝えるために、浅草田原町(たはらまち)の質店〔鳩屋〕を訪れた銕三郎(てつさぶろう 25歳)が、用心棒・浅田剛二郎(ごうじろう)を近くの蕎麦屋へさそいだし、声をひそめて訊いた。

「まず、日時は、人影が認めにくい新月ですな」
「まさに---。一番近い新月は3日後。そのつぎは如月(きさらぎ 陰暦2月)の新月」
銕三郎が相槌をうち、
「配下たちに連絡(つなぎ)をつけているとすると、3日後の夜では、いかにもあわただしい」

「目くらましの放火をするとして、その賊に善意があれば、北風がまだ強い3日後より、1ヶ月先の如月(きさらぎ 陰暦2月)のほうが---」
剛二郎の言葉をうけた銕三郎が、復習してきたばかりの『孫子』をひいて、
「---火を発するに時あり、火を起こすに日有り---というが、大事にいたらさないためには、『孫子』の逆をということになる---」

「左様です。『孫子』は、乾いたときといっていますが、春雨の夜だと広がりが少なくてすみます。また、風の強い日を〔宿(しゅく)〕といってすすめておりますが、善意の賊なら、風のないでおる晩をえらぶでしょう」
銕三郎はうなずき、剛二郎が軍法にもくわしいのをみて、安心した。

「で、放火の場所の読みは?」
「先手の夜廻り組をおびきよせるには、田原町から離れていて、しかも大火事にしないために、風下に人家がないところ---というと、神田川に南面している平右衛門町あたりでしょうか」
「たしかに---あのあたりも町家ばかりで辻番所がない」

「首領が率いる本盗(ほんづと)め組は、大川を舟でやってきましょう」
「竹町の渡しの舟着きにもやっておく」
「駒形堂か、そのあたりです」

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(大川側から見た駒形堂 近くに竹町の渡し 『江戸名所図会』
塗り絵師:ちゅうすけ)

「ご存じの岸井左馬之助(さまのすけ 25歳)と井関録之助(ろくのすけ 20歳)を助っ人として、泊り込みさせましょう」
「いや、それにはおよびませぬ。手前一人のほうが、気づかいなく戦えます」
「しかし、賊の側が浅田うじを意識して、手錬(だ)れの浪人を雇っていることもかんがえておかないと。左馬は、高杉道場に備えつけの鉄条入りの振り棒で、盗人と戦わせます」

参照】2008年5月12日[高杉銀平師] (

「手錬れとの対決になると、手前は、真剣を遣うことになるやも---」
「できれば、火盗改メか先手組の衆が駆けつけるまで、動けないようにしておくだけになさってください」
「こころがけましょう」

銕三郎は、これほどの藩士が、なぜ、藩を去るようなことになったのか、確かめてみたくなったが、私事にたちいることで、せっかくの友情がそこなわれることを怖れて、そのことは忘れることにした。


参考】2009年2月17日~[隣家・松田彦兵衛貞居] () () () () () () () (

1009年~4月3日[用心棒・浅田剛二郎] () () (

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2009.04.05

用心棒・浅田剛二郎(3)

「父上。浅草田原町(たはらまち)の質商〔鳩屋〕のことですが--」
銕三郎(てつさぶろう 25歳)は、下城してきた父・平蔵宣雄(のぶお 52歳)に、これまでの経緯を話した。

すなわち、押しいった盗賊〔浮塚(うきつか)〕の甚兵衛(じんべえ 30歳)一味5名は、用心棒・浅田剛二郎(ごうじろう 32歳)が倒してしばりあげ、長谷川家の隣家の火盗改メ・本役、松田組の得点になった。
しかし、浅田用心棒の剣の腕前を知らない盗賊のなかには、〔浮塚〕一味のような名もない田舎盗賊だから用心棒に簡単にしてやられたが、おれたちなら実(じつ)があげられると思い上がり、押しこんでくるような心得違いがいそうな気がしてならない。

「なるほど。(てつ)の言い分にも一理ある。それで、の考えは?」
浅田用心棒が申しますには、〔鳩屋〕の家族や使用人の生命を守らくてもよくて、賊たちだけとの勝負なら、負けはしないと---」
「ふむ」
「〔鳩屋〕の二軒隣りに、うまいぐあいに、空き家がありました。それで、いやがる店主・長兵衛を説き伏せて、その空き家を借りうけ、家族・使用人は、銭箱とともに、夜分はそちらへ泊まるようにさせました。移動も、表の出入り口でなく、裏庭づたいに行き来させます」

「なるほど。かんがえたな」
浅田用心棒は、自分が囮(おとり)になるから、火盗改メ方は警戒をきびしくして、襲ってくる賊を捉えてほしいと申しております。つきましては、先手組で非番の6組、さらには両番の書院番・小姓組の若手にも、深夜の見廻りを、上のほうから命じていただくわけには参らないかと存まして---」

「むつかしいお願いとはおもうが、いまの月番の少老(若年寄)は、水野壱岐 忠見 ただちか 41歳 上総・北条藩主 3万5000石)さまだから、先手の長老どのから、上申していただこう。さいわい、いまの長老は弓の10番手の石原惣左衛門広通(ひろみち 77歳 475石)さまだから、話を通しやすい」
このとき、77歳の組頭にもう一人、鉄砲(つつ)の20番手の福王忠左衛門信近(のぶちか 200石)がいたが、格は弓組のほうが上なので、福王信近は次老(じろう)と呼ばれていた。

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こうした処置は、ふつうは、前例がどうのこうのとごたごた論議がつづき、容易に結論がでないのが当時の幕政の泣きどころであったが、宣雄の人柄のせいで、3日とたたないで即決されたのはおどろきであった。
もっとも、田原町の一帯に旗本の屋敷や辻番がなく、警戒手段が見廻りしかなかったことも幸いしたようである。

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(東本願寺・緑○=田原町の質商〔鳩屋〕)


参考】2009年2月17日~[隣家・松田彦兵衛貞居] () () () () () () () (

2009年~4月3日[用心棒・浅田剛二郎] () () (


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2009.04.04

用心棒・浅田剛二郎(2)

浅田うじに謝らないといけませぬ」
「なんでしょう?」
浪人・浅田剛二郎(ごじろう 32歳)---いや、いまは浅草田原町(たはらまち)の質店〔鳩屋〕方のりっぱな用心棒という肩書きがある---その浅田用心棒が、澄んだ眸(め)で銕三郎(てつさぶろう 25歳)をみつめた。

火盗改メ・本役(ほんやく)の松田彦兵衛貞居(さだすえ 63歳)の屋敷兼役宅から連れだって、〔笹や〕に立ち寄っている。
〔笹や〕は、二ッ目ノ橋の南、弥勒寺の門前の茶店である。

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(二ッ目の通りと弥勒寺。山門前の板庇がお熊の〔笹や
『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

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(上絵の部分拡大。〔笹や〕と隣の〔植半〕。「植木や」の文字が)

女将のお(くま)は、おんなのさかりをとうに過ぎた46歳だが、当人は依然として現役ぱりばりのつもりでいる。

久しぶり顔を見せた銕三郎に、
長谷川の若、嫁ごをもらったというでねえか。どうだえ、おれの味とくらべて?」
臆面もない口のききようである。
剛二郎を紹介されると、
「読み売りに、10人もの盗人をばったばったと片づけたと書かれていた用心棒さんが、このおさむれえかい? もう一本の剣で、おんなに『死ぬ、死ぬ』っていわせてみねえかね?」
剣は一流の浅田用心棒も、さすがに赤面して、
「倒したのは5人」
と訂正しそこなった。

「おどの。浅田うじと内密の話があるので、奥の部屋をしばらくお借りしたいのだが---」
「奥ってい7やあ、いつだかの晩に、若と裸の躰と躰をもみあった部屋でいいかね?」

【参考】2008年4月20日~[〔笹や〕のお熊] (1) (2) (3) (4) (5)

「また、これだ---」
「思い出のあの部屋でいいんだね?」
「じゅうぶんです」
という次第で、2人は、〔笹や〕の部屋にいる。

浅田うじを囮(おとり)にしてしまったことを、です」
「囮?」
「読み売りに、書かせてしまったことです」
「あれで、〔鳩屋〕の亭主は、大満足。わしの目利きのたしかさが江戸中に知れわたったと、鼻高々です」

「品定めはいいとして、賊の中には、〔浮塚(うきつか)〕の甚兵衛(じんべえ 30歳)一味はだらしがない、おれなら---と、売名の輩が押しかけるのがいないともかぎりませぬ」
「そのときはそのとき、です」
「5,6人の賊なら---いや、10人でも、浅田うじのお手並みなら片づけられましょう。しかし、15人がいちどにかかったら---しかも、手錬(だ)れの浪人が混じっているかもしれませぬ」
「------」

松田組だけでなく、父にも話して、手すきの先手組や両番(書院番と小姓組)の若くて腕の立つのを毎晩、夜回りさせるつもりですが、〔鳩屋〕のほうでも、浅田うじとどっこいどっこいの用心棒をもう一人、雇えないかと---」
「さて。あのけちな長兵衛がなんといいますか---」
浅田うじの命がかかっています。なんとか口説けませぬか」

浅田用心棒が、ひとり言のようにつぶやいた。
「手前ひとりなら、何人の賊でも手にあまるということはありませぬが---」
この言葉に、銕三郎は天啓をえた。


参考】2009年2月17日~[隣家・松田彦兵衛貞居] () () () () () () () (

1009年~4月3日[用心棒・浅田剛二郎] () () (


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2009.04.03

用心棒・浅田剛二郎

浅田どのとやら。このたびの処置、おみごとでござった」
火盗改メ・本役の松田彦兵衛組の筆頭与力・土方万之助(まんのすけ 51歳)が、姓を呼んで、ほめた。
銕三郎(てつさぶろう 25歳)が横目で見ると。浅田剛二郎(ごうじろう 32歳)は、袴のほころびを気にしながら、頭をさげてかしこまっている。

年があらたまり、松がとれたころあいに、土方筆頭からの差紙(さしがみ 呼びだし状)が、浅草田原町(たはらまち)の質商〔鳩屋」と、松田家(1150石 先手・鉄砲(つつ)の2番手・組頭)の隣りの長谷川邸へとどいた。

昨年の暮れに、〔鳩屋〕へ押しいった盗賊・〔浮塚(うきつか)〕の甚兵衛(じんべえ)一味5人を、血をみせないで逮捕した浅田用心棒へのねぎらいの言葉と、その経緯を読み売りに売りこんで、火盗改メ・松田組の市井の声をいささか高めた銕三郎へのほめ言葉をかけるための呼びだしであった。

当夜、浅田用心棒は、太刀の鞘と棟(峰ともいう)で盗賊たちを気絶させたあと、縄でしばりあげて、夜明けを待った。
明るくなってから事態をしった町(ちょう)役人が、火盗改メの役宅---すなわち、松田組頭の屋敷へとどけたのである。

出勤してきた土方筆頭は、町奉行所でなくて、火盗改メ・本役の役宅へとどけたことを大げさな言葉で賞し、同心2名に小者数人をつけて、賊を受けとりにやった。

松田組の吟味で、首領・〔浮塚〕の甚兵衛は、 〔通り名(呼び名ともいう)〕のとおり、武蔵野国埼玉郡(さいたまこおり)浮塚村(現・埼玉県越谷市増林)の生まれで、若いときから江戸へ流れでてき、門跡(もんぜき 東本願寺)の寺男を隠れ蓑に、悪事をかさねていたことが判明した。

土方筆頭は、甚兵衛を伝馬町の獄へ送りこんだあと、一件の取調べ控え書を北町奉行所へまわし、月番の若年寄・水野壱岐守忠見(ただちか 41歳 上総・北条藩主 1万5000石)へもとどけておいた。
若年寄からは奥祐筆を経へ、褒賞の言葉はあったが、賞金の下賜はなかった。

したがって、土方筆頭与力も報奨金をつつまず、
「お頭も、大儀のよし、申しておられた。こんごとも、はげむように---」
筆頭与力としては、若年寄からの褒賞の言葉があったことを伝えただけでも、恐懼(きょうく)感激せよ---というつもりであろうが、浅田剛二郎とすれば、笠間藩士時代ならともかく、市井で浪人ぐらしをしている身とすれば、言葉などより実入りのほうがありがたい。
しかし、一応はありがたくうけたまわったという形をとった。

銕三郎へは、
「町方の安堵におおいに支えとなった。お頭も喜んでおられた。今後とも、側面からの助(す)けを、よろしゅうに---」
これだけであった。
(ま、今助(いますけ 26歳)と権七(ごんしち)の商いがふえ、左馬さんと(ろく)の実入りがつづいたのであるから、よし、とするか。言葉で飯がくえるほど、世の中、甘くはないよ、土方さん)


参考】2009年2月17日~[隣家・松田彦兵衛貞居] () () () () () () () (

2009年~4月3日[用心棒・浅田剛二郎] () () (

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2009.04.02

〔風速(かざはや)〕の権七の口入れ稼業(4)

風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 37歳)の口入れ稼業は、とんでもないことから繁盛するようになった。

師走も半ばをすぎた雪もよいの晩、浅田剛二郎(ごうじろう 31歳)が用心棒にはいっていた、浅草田原町(たはらまち)の質商〔鳩屋〕長兵衛(ちょうべえ 62歳)方に盗賊が押し入ったのである。

塀を乗りこえた数人が、寝所の雨戸をはずして侵入、寝所の長兵衛夫妻を抜き身でおどし、金蔵の鍵を要求したとのである。
物音をききつけた浅田浪人がしのび寄り、見張りの賊2人を太刀の鞘尻で急所を突いて眠らせ、2人がくずれ倒れる音に寝所からのぞいた賊も首筋を鞘で打たれてのびた。

太刀を抜いてその隙間から寝所へおどりこんだ剛次郎は、夫妻をおどしている2人をあっというまに棟撃ちで倒してしまった。
すべての処置は、5呼吸ほどのあいだに片づいていた。

銕三郎(てつさぶろう 24歳)は、読みうり屋の〔耳より〕の紋次(もんじ 26歳)を、浅田浪人と今助(いますけ 22歳)に引きあわせて一枚ものに記事を書かせた。
紋次はちゃっかり、〔鳩屋質店〕と隣家の太物の〔上州屋〕の広告もせしめていた。

その読み売りによって、浅草広小路から上野広小路へかけての大店(おおだな)から、今助に引き合いがあいつぎはじめ、用心棒になりたがっている浪人も、口を求めて〔木賊(とくさ)〕の林造(りんぞう)の女房・お(ちょう 52歳)がやっている料亭〔銀波亭〕の門をくぐったのである。

銕三郎は、父・宣雄(のぶお 51歳)から、人生訓や人との付きあい方など、多くのものを学んでいるが、ひとつだけ、違ったところがあった。

宣雄は、
人の己を知らざるを患(うれ)えず。人を知らざるを患うるなり。(『論語学而編』)
(人が自分を知らないことは困ったことではない。自分が人を知らないことこそ困ったことなのだ。宮崎市定 『現代語訳・論語』 岩波現代文庫)
この教えを体(たい)してい、自分を売りこむということをしたがらない。
認められるのをじっと待っている。

銕三郎は、この点については、こころがまえがちがう。
人に知られていないものは、あっても、無いに等しい。
知ってもらう工夫をべきである。
それだけ商品社会に生きていたといえようか。

読みうり屋の〔耳より〕の紋次との相互扶助的なつき付きあいも、その一つである。

浪人たちの腕のほどは、もちろん、岸井左馬之助(さまのすけ 24歳)と井関録之助(ろくのすけ 20歳)が試合ってたしかめた。
腕ききは10人に3人いればいいほうであったが、それでも左馬之助録之助には鑑定料が合格した1人につき1両(約16万円)ずつ入るのだから、いい小遣いかせぎになった。

左馬之助などは、
(てつ)さんお蔭で、毎晩でも〔五鉄〕の軍鶏なべが食えるというものだ」
左馬さくん。いいことは長つづきはしない。ぜいたくしないで、貯めておくことだ」
銕三郎の忠告を聞く耳もたぬとばかりに、本所・入江町の鐘楼下の娼家〔みよし〕の(こずえ)とかいう18歳の娼婦(こ)に熱中している。

潤ったのは、左馬之助録之助、それに、浪人たちの身元請けの謝礼がたんまりと入った〔風速〕の権七
が、権七は、その金をしっかりと貯めこんでいた。

あるとき、銕三郎が、ほかの話にまぎらしてそのことを問うと、
「駕籠屋の株を買う資金に---と思いやしてね。お須賀にいつまでも居酒屋の女将をやらしておくわけにはいきません。駕籠かき人足は、箱根からいくらでも連れてこれます」
「なるほど、屋号としての〔風速〕は、居酒屋よりも駕籠やのほうにぴったりだ」

銕三郎は、〔耳より〕の紋次にも訊いた。
「〔鳩屋〕の事件のうわさは、どれくらいのあいだ、効き目があるとおもうかね?」
「〔人のうわさも75日〕---っていわれているとおり、2ヶ月半ってところでしょうかね。でも、大店が用心棒を雇っておくと、いざってときに役にたった---ってのは、じかに金子にむすびついてやすから、これは、半年はもちやしょう」
「利にまつわる事件は、色ごとの事件より長持ちするってことだね」
「命の次に大切な金子(かね)---っていいやすから」


参照】2009年3月30日[〔風速(かぜはや)〕の権七のの口入れ家業」] () () (

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2009.04.01

〔風速(かざはや)〕の権七の口入れ稼業(3)

長谷川さま。今助どんが、身元請け料と称して、4両2分をとどけてよこしました」
風速(かざはや)〕の権七(ごんしち )が、銕三郎(てつさぶろう 24歳)の前に、小判4枚と2朱銀を8枚並べた。
長谷川さまのお口ききでやったまででやすから、お好きなだけ、お取りくだせえ」
4両2分は、72万円前後に相当する。

浅田うじの身元を引き請けただけで? どういう計算になっているのかな?」
権七は、〔木賊(とくさ)〕一家の小頭・今助(いますけ)が述べた口上をくりかえした。

田原町(たわらまち)1丁目の質商〔鳩屋〕の用心棒に雇われた浪人・浅田剛二郎(ごうじろう 31歳)の月の手当てが、三食と晩酌1合つきで1両2分(22万円)、その3ヶ月分と。

「ふむ。とすると、今助は、〔鳩屋〕に半年分を引きあわせ料としてふっかけたな」
「そんなに払えるものでやんすかね?」
「盗賊に押しはいられて、金蔵を空にされたら、そんなはした金ではすむまい」
「証文1枚で、4両2分もはいるんでは、こんな安居酒屋や箱根の雲助なぞ、馬鹿らしくてやってられません」
「まあ、正業とはいいがたい」
長谷川さま。額に汗しないで手にできたお宝です。ほしいだけ、もっていってくだせえ」

「いや。こう見えても、お上から扶持をいただいている家の嫡子だから、そういう金子をもらうわけにはいかない。権七どのが、好きに使っていい」
「さいで---。なんだか、うす気味がわりい」
「尻馬にのるようで申しわけないが、左馬(さま 岸井左馬之助 24歳)さんには、2分(約8万円)やってくれまいか?」
「そんな。2分なんていわないで、1両(約16万円)にしやしょうや」
権七は1両を銕三郎へわたし、残りをつつんで、板場の竈の上に祀ってある荒神さんの神棚へのせた。

今助どんは、もう2,3軒、こころあたりがあるから、その節は、またたのむと言ってやした」
浅田うじほどの剣の腕のたつご仁が、そうそう、見つかるとはおもえないが---」
今助は、甘い汁が吸える脇の仕事を見つけたな。あの男の才気と口先をもってすれば、浅草・今戸かいわいの大店(おおだな)に月に一人ずつの用心棒を送りこむくらい、なんでもなかろう。そのたびに、権七のふところにも4両8朱がころがりこむとなると、権七須賀(すが) 31歳夫婦にも、ようやく、陽がさしてきたというものだ。お(しま 2歳)坊にも晴れ着があてがえる)
は、権七夫婦のむすめで、銕三郎が名づけ親である。

一刀流杉浦派の剣をつかうと告げた浅田浪人の腕はたしかであった。
高杉銀平(ぎんぺい 64歳)師の前でたちあった岸井左馬之助は3本に2本とられた。
井関録之助(ろくのすけ 20歳)は1本もとれなかった。

高杉師は、銕三郎左馬之助を居室に呼んで、
浅田うじの一刀流杉浦派の肩にきまる竹刀(しない)さばきの前に面を撃つ手だてを工夫せよ」
と命じた。
師から皆伝を授けられている2人は、かしこまったまま、しばらく顔があげられなかった。


参照】2009年3月30日[〔風速(かぜはや)〕の権七のの口入れ家業」] () () (

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