嫡子・辰蔵の誕生(3)
「銕(てつ)兄(にい)さん。中ノ郷の如意輪寺で、お札をいただいてきました」
おまさ(14歳)が、さしだしたのは、子育てにご利益があるという、如意輪寺(現・墨田区吾妻橋1丁目)の如意輪観音のお札であった。
「わざわざ、吾妻橋東詰までいってくれたのか?」
「銕兄さんの子は、わたしにとっては甥ですから---」
「ありがとうよ」
(北本所。如意輪寺 『江戸名所図会』部分 塗り絵師:ちゅうすけ)
当時、如意輪観音は、子育てで信仰をあつめていた。
赤ん坊が3歳、5歳、7歳まで大病もしないで育つと、底抜けの柄杓(ひとゃく)を供えて感謝した。
「柄杓の奉納を忘れないようにしよう」
銕三郎は、久栄(ひさえ 18歳)と辰蔵がふせている部屋へおまさを伴った。
「おまさが、如意輪観音さまのお札をいただいてきてくれた」
辰蔵に母乳をあたえていた久栄が、
「おまささん。見てやってください。飲んでは寝、飲んでは寝てばかりなんですよ」
「でも、おっ師匠(しょ)さん。寝る子は育つっていいますから---」
「銕兄さん。辰蔵さんのためには、妙見さまのお札のほうがよくなかったですか?」
「なぜ?」
「だって、妙見さまは北辰っていうでしょ」
「北辰というのは、いつも真北で輝いている星のことだ」
「でも、辰蔵の辰でしょ」
「それはそうだが、朝という意味もある。辰蔵は、朝方に生まれたから、父上が辰蔵とおつけになった。草木が育つという字でもある」
「如意輪観音さまでよかったのですね」
「いいどころではない。ぴったりだ。お宮参りには、如意輪寺さんへも参詣しなくてはな。おまさもいっしょしてくれるな」
「はい。きっとですよ」
離れの部屋へ戻ってから、銕三郎が訊いた。
「忠助さんの躰のほうは、どうなんだ?」
「ええ。疲れが残るようです」
「大事にしないとな。もう、かれこれ50歳であろう?」
「そうなんです。店も、10日ごとに休みにするように言っているんですが---。わたしの言うことはちっとも聞いてくれなくて。銕兄さんから、きびしく言ってください」
「よし。近いうちに、道場の帰りにでも店へ寄って、休みをとるように、強く言ってやろう」
「銕兄さん。そのとき、岸井さまはお連れにならないでね」
「どうしてだ?」
「お紺おばさんと、おみねちゃんが帰ってきているんです」
お紺(こん 31歳)は、3年前に亭主の〔助戸(すけど)〕の万蔵(まんぞう 35歳=当時)が突然死したあと、納骨に足利へ行ったとき、万蔵のお頭だった〔法楽寺(ほうらくじ)〕の直右衛門(なおえもん)の妾になり、性戯をしこまれた。
で、江戸で盗(つと)めの指示をまっているときに、岸井左馬之助(さまのすけ 23歳=当時)とねんごろになってしまった。
【参照】2008年8月27日~[〔物井(ものい)〕のお紺] (1) (2)
気がついた銕三郎とおまさの父親・〔鶴(たずがね)〕の忠助が、お紺を隠したのである。
情交を絶ち切らさないと、直右衛門にしれたら、左馬之助の命が危なかった。
(やれやれ。また、厄介ごとの火種か)
【参照】2009年4月22日~[継嗣・辰蔵の誕生] (1) (2)
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コメント
辰蔵って名前の由来、初めてわかりました。
宣雄さんって、学があるんですね。
それと、おまささんが、辰蔵のことを「甥}って言って、早くも弟分扱いしているのが、かわゆいです。
そういうあいだ柄なんですね。
投稿: tomo | 2009.04.24 05:38
>tomo さん
長谷川家の歴代の当主の継承名は、伊兵衛でした。
それが、厄介の平蔵宣雄が遺領相続のために養子になったとき、平蔵に変えました。
宣雄にとって、平蔵は幼名でした。
遺領相続前に、厄介の立場で生まれた子は銕三郎と名づけられました。
しかし、養子縁組により、宣雄は、自分の幼名である平蔵を継承名としました。
辰蔵は、生まれたときから継嗣でした。
それで、幼名を辰蔵とつけられたからには、なにか訳があったにちがいないと、宣雄の身になって考えた結果を書いてみました。
おそらく、これまで、池波さんをはじめ、鬼平ファンが誰一人として考えたこともない主題だったのでしょう。
投稿: ちゅうすけ | 2009.04.24 07:56