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2009年5月の記事

2009.05.31

銕三郎、先祖がえり(2)

儒学の〔学而塾〕の帰り、おもいつき、日本橋室町の茶問屋〔万屋〕まで足をのばした銕三郎(てつさぶろう 26歳)を認めた源右衛門(げんえもん 50歳)は、
「これは、長谷川さまの若さま。辰坊(たつぞう 2歳)さまは、そろそろ、あんよでございますか?」
「まだ、這い這いですよ」
「失礼いたしました。ところで、わざのお出ましは、鶴吉(つるきち 10歳)になにかおきたのでございましょうか?」
店の者をはばかって、急に声をひそめた。

源右衛門が女中のおみつ(19歳=当時)iに産ませた鶴吉は、北本所の寮で、乳母のお(もと 35歳)と暮らしている。
その用心棒として雇われた井関録之助(ろくのすけ 22歳)が、おとできてしまった経緯(いきさつ)は、すでに述べてある。

参照】2008年8月22日~[若き日の井関禄之助] (1) (2) (3) (4) (5

「いや。鶴坊はあいかわらずいたずらざかりです。源右衛門どの、小半刻(こはんとき 30分)ばかり、店を空けれられますか?」
そう誘われるのを待っていたといわんばかりの源右衛門は、銕三郎を近くの浮世小路の蒲焼・〔大坂屋〕の小部屋へみちびいた。

銕三郎は、親類から[ご先祖がえ]と笑われていること、先祖の一人が駿河の小川(こがわ)村(現・静岡県焼津市小川)で製塩や明国との交易をしていた武士であったことを話し、
「商(あはな)いについて、いくつかご指南いただきたいのです」
「どんなことでございましょう?」
「商い人(びと)で、もっとも大切なことというと---?}」
「一に信用、二に信用、三、四がなくて、五に利でしょうか」

「その信用をきずくのは?」
「約束をたがえないこと、虚言しないこと、相手の利を冒さないこと---。虚言のうちには、品物をごまかさないことも入ります。いま、長谷川さまは、ご先祖が駿河の小川と申されましたが、あの近辺で産する茶葉を、伏見ものといつわって高く売るものも同業者のなかにおります。それをつづけておりますと、いつか、信用をなくしてしまいます」

「信用の大切さは、武士もおなじです。利は?}
「お武家さまと商人(あきんど)の違いは、利についての受けとめ方でございましょう。お武家さまは、お上がくださるものをおいただきになっておればよろしゅうございますが、商人はそうは参りません。利を得なければ、商売がまわっていきません」
「利は、売り値から生ずる?」
「いえ。利のもとは仕入れにありといわれております。売り値は、仕入れ値に諸掛かりの一切---使用人の手当て・食費から家賃・倉敷き料、金利、火事にあったときの建て替えの引き当て---引き当てといえば売り掛けがままならなくなったときの貸しだおれも入ります、同業者との付き合いの飲み食い代、店の奥の生活費に、少しばかりの利をのせたものが売り値となります」
「本所の隠居所の掛かりも、井関録之助(ろくのすけ 22歳)の用心棒料もそこにはいって入っているのだな。はっ、ははは」

「それは、仕入れ値の何倍ですか?」
「扱っているものの種類によって異なるとおもいますが、仕入れ値とどっこいどっこいか、すこし上とみていいのではないでしょうか」
「なるほど。ところで、〔万屋〕どののところの、産地からの茶葉の送料は?」
「産地との取り決めで、産地持ちのところと、手前ども持ちとがあります」
「その荷送りの船賃は、風体(ふうたい)ですか、重さですか?」
「そう、風体のことが多いとおもいます」

「いや、お訊きしたのは、風体であれば、抑えに抑えれば、小さくなる---」
「圧すれば圧するほど、茶葉が傷んで、売り値がさがります」
「これは、素人考えでした」

「お武家の長谷川さまが、なぜに茶葉の風体のことまで?」
「いや。小川のご先祖は法栄(ほうえい)どのと申されるのだが、明国から茶葉を仕入れていたかもしれないので。なにしろ、江戸が開かれる100年も前のことで、駿河国や伏見あたりでは、茶樹はそれほどなかったろうとおもいましてな」
「いまは、交易は長崎にかぎられており、唐物屋さんが大きな利を得ておられます」

「もう一つ。出た利はどのように?}
「ここだけの話にかぎらせていただきます。諸掛かりを差し引いた売り上げのほとんどは、仕入れにわします。他店(よそ)よりもいい品をまわしてもらうためには、産地へ手付けのように前払いします」
「それでも、手元に残った利は?」
「寺へ貸して高利にまわしてもらいます」
「そんな寺があるのですな」
「寺がやるとはかぎりません。座頭金(ざとうがね)にまわるのでしょう」

「すると、盗賊が〔万屋〕さんを襲っても、現金はほとんどないということかな?」
「そのことなら、引き当て金として、つねに200両ほど、用意しております。盗人さんは手ぶらでは帰ってはくれますまい。手みやげをわたさないと、自棄(やけ)をおこして殺傷されてもつまりません」
(このことをお(りょう 31歳)が聞いたら、智者の慮(りょ かんがえ)は、必ず利害(利得と損害)を交える---というだろうなあ)

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2009.05.30

銕三郎、先祖がえり

(てつ)が先祖がえりしていると、本家の太郎兵衛正直 まさなお 61歳)どのが笑っておられたぞ」
父・平蔵宣雄(のぶお 53歳)に冷やかされた。

「なにをもって、本家(ほんけ)がえりと---?」
「これ。本卦(ほんけ)がえりとは、干支(えと)が一巡(ひとめぐ)りして60歳になったときを言うのだ」
「あ、そちらのほうの本卦がえりは、まだ、34年先でした」
「60歳まで、生きておられたら、な」
宣雄は、いい齢をして、本卦と本家の区別もつかないとは、困った嫡男だといわんぱかりの眸(め)で、銕三郎(てつさぶろう 27歳)を眺めた。

銕三郎のおもいは違う。
(父上、60歳までもお生きになり、本卦がえりをお祝いさせてください)
ただし、口にはださなかった。
言葉にしてしまうと、神仏がお怒りになるとおもったからである。

本家の長谷川太郎兵衛正直(1450石 先手・弓の7番手組頭)の揶揄(やゆ)で思いあたるのは、先夕、表1番町新道の屋敷を訪ね、
長谷川のご先祖の、法栄(ほうえい)長者どのがなさっていた商(あきな)いついて、お教えください」
「わが家には、くわしいことは伝わっておらぬ。銕三郎も存じおるように、小川館(こがわやかた)から田中城の守備にまわられた紀伊守(きのかみ)正長(まさなが)どのは、武田信玄公の大軍に攻められ、一族とともに城をでて浜松へ走り、徳川勢にお加わりになった。そのおり、紀伊守どのの3代ほど前の法栄長者のお仕事ぶりの書きものは、小川(こがわ)湊にいた一族のどの家にあったか、寺へ預けられたのではないか」

なにゆえ、いまごろ、法栄長者の事蹟をしりたいとおもったのかと訊かれたが、銕三郎は言葉をにごした。

安房国朝夷郡(あさいこおり)江見村へ、盗人の訊きこみへ行った帰り、勝浦湾の串浜湊から江戸へ向かう500石荷船に、江見浦でひろってもらった。

木更津湊まで、その船の知工(ちく 船の庶事頭)・瀬兵衛(せべえ 35歳前後)と、またも世の経済(からくり)について話しあった。
同心・有田祐介(ゆうすけ)は、昨夜の疲れがでたか、艫(とも)の荷にもたれて眠っている。

「船で運ぶのに、風体(かさ)に比して割りのよいのが菜種油であることは納得しました」
「種油よりも割りがよいのは金銀でしょうが、ま、これは別格として、安房で産するもののなかでは、木炭、檜あたりでしょうか」
「生糸は?」
「あれは、海路で運びません」
「なぜ?」
「潮水はもとより、雨水にも弱いからです」

「酒は?」
「灘、伊丹や伏見の下り酒なら割りにあうでしょうが、地酒は、江戸まで運ぶほどのものではありません」

「西瓜(すいか)や瓜(うり)、梨(など)の水菓子は?」
「水菓子の名のとおり、時がたつと水気がぬけていくものは、遠くからは無理です。しかも、季節のものですからね」
「日もちのするものは鮮度がおちないから、時がたっても値がくずれないということですね?」
「そのとおりです。だからご公儀が、米を貨幣の代わりとおかんがえになっているのです。米の敵は鼠と黴(かび)と相場師くらいですから---」

木更津湊で下船して別れる寸前に、瀬兵衛がつぶやくように言った。
長谷川さまは、お武家なのに、珍しく、勝手方(かってかた 経済)のことにおこころが向いています。むかしは、お武家といえども、ものや田をおつくりになり、取引きなさっていたのですが---」

このつぶやきに、鉄槌で打たれたような衝撃が銕三郎の躰を駆けぬけ、13年前に、法栄長者と呼ばれた館の主が統治していた小川湊を訪れたときの記憶がよみがえったのである。

そのことに関連して、法栄長者と銕三郎宣以(のぶため)の次男・銕五郎正以(まさため)のことは、【参照】に記した。

参照】2006年5月23日[長谷川正以の養父
2007年7月23日[青山八幡宮

Book_ogawajyo_150
焼津市がおこなった小川城遺跡発掘調査によると、遺跡から明との交易をしのばせる白磁片も出土しているという。
法栄長者とその一統が、遠く明国まで商圏に入れていたことがうかがえる。(焼津市の『小川城』調査報告書)
そのことは、長谷川家に言い伝わっていたのではあるまいか。

それで、本家・長谷川太郎兵衛正直が、ものの生産や商いに興味を示した銕三郎を評し、
「先祖がえり」
と言ったのであろう。

税のことにまつわり、父・平蔵宣雄が、老中格の田沼主殿頭意次(おきつぐ)に、こんなことしを言ったことも【参照】に記した。

参照】2007年7月22日[幕閣

どうやら、銕三郎の躰の中で、法栄長者の血が音をたててはじけはじめたらしい。

ただし、法栄長者は、単なる貿易商人ではなかった。
今川家の重鎮の武将でもあった。
つまり、武将が交易や製塩に手をそめて、資金力を増やしていたのである。


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2009.05.29

ちゅうすけのひとり言(34)

10_35つい先だって(5月16日)の[銕三郎の初見仲間の数]()に、徳川幕府の正史ともいえる『徳川実紀』に記録されている、将軍家への幕臣の嫡子の初見の記述が、正確ではないのではないか、と疑問を呈した。

ことは、銕三郎(てつさぶろう 23歳=当時)が初見の儀式にまかりでた日---明和5年(1768)12月5日の記述である。

実記』は、30人が初お目見(めみえ)したとして、うち16人の保護者の肩書と氏名および当人の続柄と氏名を明記している。

参照】2009年5月12日[銕三郎、初見仲間の数]
 (

銕三郎はもちろん、明記組にのほうに入っている。

_30それで、氏名が記されなかった14人を『徳川重修l諸家譜』の活字本22冊をぱらばらくって、以前に見つけていた顛末と、G.W.にさらに補った経緯は、[銕三郎の初見仲間の数]の上記(1)に報告している。

文頭に引いた(5)には、新撰組と鬼平の研究家である釣 洋一さんが、『寛政譜』を精査して、じつは明和5年12月5日に初見したのは133人と、驚くべき数字をおあげになっていたことにかぶせて、こと、初見の人数に関するかぎり『実紀』のそれは不正確のようだ、との私見を加えて、報じている。

しかし、いまのところ、そのことについて、反応をしめしたくださったのは〔みやこのお豊〕さんのみで、歴史家、郷土史家の方々からは、なんの示唆もない。

にもかかわらず、こんな報告を追紀するのは、糠にさらに釘を打つことになろうが、じつは、また1人、疑わしい人物を発見したので、記録として、あえて記しておく。

発見の経緯は、こうである。

釣さんのリストに、小林姓の者が4人いた。
うち、1人---小林新蔵従種(よりたね 24歳=当時 60俵2人扶持)については、すでに2008年12月9日[銕三郎、初お目見]()を挙げている。

きょうの3人とは、別の系統の同姓小林である。

それで、格式のあるほうの小林一門の『寛政譜』を、いつものようにコピーしてA3版に貼り付けて、一覧性を高めた。
A3に9葉、38家。
うち、明和5年12月5日に初見と記されているのは、
(年齢は、初見年の数え齢)

小林仙太郎正方(まさみち 23歳 450石)
小林善兵衛正芳(まさよし 29歳 250俵)
小林惣兵衛正察(まさあき 25歳 200石
                      50俵)
小林孫太夫正意(まさとも 22歳 150俵)

4人は、釣さんのリストにも挙げられている。

もう1人、明和5年10月15日に初見したと書かれた、

小林太郎八信安(のぶやす 34歳 300俵)

がいた。

、『実紀』には、この年、10月15日に初見があったとは記録されていないし、明和元年(1764)から4年までの5年間、10月にこの儀式は行われていない。
とすると、『寛政譜』の誤りとみていい。
こじつけると、12月5日の誤記か誤植であろう。
もちろん確定するには、小林家が幕府に提出した「先祖書」の稿本をあらためるしかないのだが。

_360
(太郎八信安・個人譜 初見の日付は疑問)

以下の『寛政譜』は読めなくても、感じをつかむための掲示。

_360_2
(太郎八信安 300俵 一門38家中9番目 9j葉中3葉目)

_360_3
(仙太郎正方 450石 一門38家中13番目 9葉中4葉目)

_360_4
(善兵衛正芳 250俵 一門38家中21番目 9葉中5葉目)

_360_5
(惣兵衛正察 200石50俵 一門38家中4番目 9葉中2葉目)


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2009.05.28

〔真浦(むうら)〕の伝兵衛(8)

(半鐘を打たせるまでもなかったかもしれない。あの早鐘の音が、吾平を追いつめたかのかも---)
銕三郎(てつさぶろう 26歳)は、曲松(まがりまつ)の幹にもたれるようにして死んでいる吾平(ごへい 18歳)に手をあわせた。
曲松は、東江見村の西を北へ、久留里藩領へ通じる街道に枝をさしかけている。

早鐘が打たれてから、小半刻(こはんとき 30分)もしないで、村触れに廻っていた村役人が、そこで発見した。
農家の納屋から盗んだ鎌で首を切っていたのである。
提灯の弱い明かりでも、かなりなれたところまで血がとんでいるのがわかった。

報らせで駆けつけてきた父親・伍作(ごさく 48歳)とその老妻・お(すえ 43歳)が、遺骸にすがりついた。

伍作。銭を持たせて、逃がしてやるつもりであった」
「申しわけねえこってす。こいつがいけねえんです」
伍作は、それでも銕三郎に頭をさげた。
老母は、銕三郎を無視、そうすれば生き返りるとでも信じているのか、吾平の顔をなぜつづけている。

「あとは、たのむ」
村役人にまかせて、銕三郎はその場を離れた。
(今夜は、眠れそうもない)
細い三日月が、吾平が手にしていた鎌のように、冷たく光っていた。

翌朝。
五ッ半(9時)すぎに、継立の問屋場から使いの者が、吾平あての便をとどけてきた。
なんと、大多喜往還を経由、勝浦からきたものであると。

_70
急ごしらえに手ぬぐいを引き裂いた端布(はぎれ)で包んだものをあけてみると、紙切れと南遼二朱銀が6枚(約6万円)でてきた。(右::明和南遼2朱銀)

紙切れには、かな釘流の筆跡で、

大たきにはいない
えど、すざきべん天うら、こまものしろこまやへこい
りょぎんにしな

「すざきべんてん、といえば、深川の---」
「そう、洲崎弁天でしょうな」

574_360
(洲崎弁天社 『江戸名所図会』 塗り絵師・ちゅうすけ)

「こまものしろこまや、とは?」
「小間物屋?」
二日酔いの有田祐介 ゆうすけ 31歳)同心と銕三郎の会話である。
(しろこまや---どこかで耳にした---そうだ、お(りょう 32歳)が探索にいくと言っていた盗人・〔白駒(しろこま)の幸吉(こうきち)だ)
声にはださなかった。
有田同心にはかかわりのない名前である。

ちゅうすけ注】鬼平ファンなら、ここでおを引き合いにだすまでもなく、〔白駒〕の幸吉と見ただけで『鬼平犯科帳』文庫巻9[浅草・鳥越橋]の小判いただきみたいな小賢い盗賊をおもいだされるであろう。

参照】2009年5月22日[〔真浦(もうら)〕の伝兵衛]

(とんだところで、〔真浦〕の伝兵衛と、〔白駒〕の幸吉が結びついたが、おは、なんのために〔白駒〕を追っているのか。幸吉の店が洲崎弁天宮の近くにあることを、おは知っているのであろうか。しかし、拙は、おの居場所を聞かなかったから、連絡(つなぎ)のつけようもない)

銕三郎は、有田同心に代わって、〔真浦〕の伝兵衛が配下の2人とともに木更津から江戸しりしたこと、2人の特徴、立ちまわり先が〔白駒〕の幸吉の店であることをしたため、早急に捕り物をと、継(公用)速飛脚に託した。

有田どの。お願いがあります。この明和南遼銀は、そっくり、吾平の供養料のたしに、伍作のもとへとどけてやりたいのですが---」
「手前は見なかった、聞かなかったことにしておきます」

あとは、勝浦港の荷運び船の知工(ちく 庶事頭)・瀬兵衛(せべえ 35歳)に、明日朝、江見の浦へ迎えに寄ってもらうことを頼めばいい。

そのことは、庄屋・幸兵衛(こうべえ 56歳)が手くばりしてくれた。
東江見村から勝浦港まで、海辺ぞいの房総往還を片道5里強(21km)ほどである。
風がよければ、帆舟だと半刻(1時間)ちょっとでわたってしまう。

幸兵衛が、さも、残念そうに言った。
日蓮祖師さまがお生まれになった東条郷小湊(現・千葉県鴨川市天津小湊町)も房総往還ぞいだし、勝浦海岸の岩礁も天下の奇観でございますのに、お目におとめにならずにお帰りとは、もったいない」

それから、そっと洩らした。
有田さまは、今夜も、あの妓(こ)をとおっしゃっておりますが、長谷川さまは、昨夜はあのような仕儀で仕方がなかったとしましても、今宵もまた、お独り寝でよろしいのでございますか。さようございますか。では、そのように---」

後日談】江見から速飛脚書簡で、深川の小間物商〔白駒屋〕に打ち込ん火盗改メ・永井采女直該(なおかね)組の同心と捕り方は、難なく〔真浦〕の伝兵衛と配下の2人は捕縛したが、仕入れにでかけていた〔白駒〕の幸吉と手代は、風をくらって姿ょを消した。
捕縛された3人は、所持金をほとんど持っていなかった。
20年後の[浅草・鳥越橋]事件では、本所I二ッ目の裏通りで小間物店〔三好屋〕の主人となって登場している。
なお、各藩からの顛末書が証拠となり、伝兵衛たちはは死罪(打ち首)と決まった。
銕三郎は、八助佐吉の親たちの顔をおもいうかべながら、こころの中で合掌して、念仏をとなえた。

ちゅうすけ注】長谷川平蔵宣以(のぶため)は、火盗改メの長官となってからも、処刑になった盗人たちの供養を欠かさなかったと、史料に記録されている。

からの連絡(つなぎ)? あるわけがない。


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2009.05.27

〔真浦(もうら)〕の伝兵衛(7)

伝兵衛(でんべえ 28歳)と東江見の八助(はちすけ 19歳)は、真浦(もうら)村の博打場で面識ができたと言っていましたな」
東江見村の庄屋・幸兵衛(こうべえ 56歳)の離れ座敷での夕餉(ゆうげ)である。
酒には目がない火盗改メ方の同心・有田祐介(ゆうすけ 31歳)は、さっきからうれしそうに呑んでいたが、一皮むけた艶っぽい女中に酌をされると、照れたのか、幸兵衛に言葉をかけた。

女中は、海岸に近いところをのびている房総往還に面した料理屋から借りられている。
もう一人の若いほうは、銕三郎(てつさぶろう 26歳)にべったりだが、相手にしてもらえない。

「博打場といいましても、地蔵堂でひらかれたり、百姓家の納屋であったりと、しけた賭場のようです」
幸兵衛の言葉にかぶせるように、銕三郎が、
有田どの。こんど出張りは、〔真浦〕の伝兵衛にとどめて、賭場のことは代官所にでも通してすませましょう」
「それはそうだが---」
有田同心は、女中にいいところを見せたいらしい。
有田どの。役目の話は、酒の味を落とします。お女中、酌がたりないようだぞ」

銕三郎は庄屋を目でまねいた。
女中に、熱い酒をとってくるように言いつけて座をはずさせ、
「明朝いちばんに、問屋場へお手配いただきたい。木更津からの飛脚が吾平(ごへい)あてのものをとどけてきたら、こちらへすぐに持参させるようにと---」
うなずいた幸兵衛が、母屋(おもや)へ手くばりに立った。

銕三郎は、自分の膳の徳利で有田同心の盃を満たし、
「明後日、勝浦港からの荷船にここの浦へ寄ってもらい、木更津まで送らせましょう。明朝のお目覚めは、ごゆっくりでよろしいから、たっぷりおすごしを」
艶っぽい女中にも、もっと酌をするようにけしかけた。

江戸・木更津河岸から乗船したのが一昨日の朝である。
午後は、船問屋をあたった。
宵は、木更津の桜井村の諏訪明神社で、お竜(りょう 32歳)と会った。

参照】2009年5月21日~[〔真浦〕の伝兵衛] () (

2日目は、各藩からの届けを受けた。

参照】2009年5月23日~[〔真浦〕の伝兵衛] () () (

3日目が今宵で、昼間は江見のかかわの出頭人たちに訊き、拘束している吾平を脅しておいた。

参照】2009年5月23日~[〔真浦〕の伝兵衛] (

4日目の明日は、吾平にのっぴきならない証拠をつきつけてあきらめさせる---
5日目のあさっては、荷船と便船を乗りついで、江戸だ。

10日と目論んでいた日程が、意外に早くすみそうなので、ほっとした。
若い女中が、新しい酒をもつて戻ってきたが、目で有田同心を指し、
「ちょっと、母屋へ頼みごとに行ってくる」

立ったそのときである、裏手で、異様な物音がした。
銕三郎は、おもわず太刀をとって裏手へ走った。

庄屋の下僕が、叫んだ。
吾平が逃げました!」

2,3人の下男が追った。
台所で食事を摂っていた松造(まつぞう 20歳)もかけつけてきた。
「どうしますか?」
「見張りの頭を呼んでくれ」

母屋では、庄屋・幸兵衛が困ったといった表情で立ちつくくしている。
幸兵衛どの。半鐘をうちなさい。そうでないと、吾平が犯罪を犯す」
「なるほど」
幸兵衛が町役人の家へ使いを走らせ、もう一人の下僕に早鐘をうつように命じた。

「あとの者は、手分けして村中に触れてまわれ。けだものが逃げた。戸締りをしっかりかけて、火の用心をするように」
どこでおぼえたのか、銕三郎の指示は、堂にいっている。
吾平に先に「奇」を遣われた)

見張りの頭がおそるおそるやってきた。
吾平は、銭を持っているのか?」
「いいえ。着ているものだけです」
「庄屋どの。吾作の家へ人をやり、吾平がきたら、有りったけの金をわたしてやるように。かりそめにも、捉えようなどと考えてはならぬと」

その使いの者が提灯をもって走った。
半鐘が打たれている。
静まっていた村が、にわかにざわめいてきた。

足もとをよろめかせた有田同心が、女中に支えられ、きょとんとした顔で縁側に立っていた。


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2009.05.26

〔真浦(もうら)〕の伝兵衛(6)

「お帰りは、いつごろごろでございますか? 明後日であれば、ご府内まで、この船便にお乗りいただけますが---」
勝浦湊の荷運び船の知工(ちく 船の庶事頭)・瀬兵衛(せべえ 35歳前後)は、話したりない面持ちであった。

「どうなるか、まだ、公事(くじ)の真似ごとの先ゆきの見通しがたたないのです。こととしだいでば、大多喜城下へまわることになるかもしれませんし」
銕三郎(てつさぶろう 26歳)としても、瀬兵衛の物価、金銀銭の値動きのからくり、出来もののぐあい、船問屋の差配(経営)など、もっと聞きたかった。
しかし、江見村での訊きとりしだいで、日どりがどう動くか、見当もつかなかったことも事実であった。

小島のあいだを縫い、船は江見湊口(現・千葉県鴨川市江見)で停まった。
浅くて、200石船ならともかく、500石船は入湊できないのだ。
湊からはしけが漕ぎより、有田祐介(ゆうすけ 31歳)同心も銕三郎も、舷側におろされた梯子をつたって乗りうつる。
手荷物は、綱でおろされた。

遠ざかる船では、瀬兵衛が舷側に立ち、いつまでも手をふっていた。

訊きとりの場は、東江見村の庄屋・幸兵衛(こうべえ 56歳)の屋敷の内庭に、むしろを敷いてつくられていた。
銕三郎が村役人に、きつく指図した。
「これはなにかの間違いであろう。呼んでいるのは、罪人ではなく、訊きとりの者であるから、床几(しょうぎ)を用意するように。待ち合いのところにも、腰掛けをあてがうよう---」

川越藩の飛び地の分領から逃亡した八助(はちすけ 19歳)と佐吉(さきち 18歳)のそれぞれの父親への質問は、2人の若者の躰つきと面体であった。

八助は、中肉中背だが、右肩下に、幼いころに牛の角でつかれた傷跡と、左小鼻の脇に疣(いぼ)があると、申したてられた。
「〔真浦(もうら)〕の伝兵衛(でんべえ 28歳)とのつながりは---?」
有田同心の詰問に、
「一昨年、真浦村での博打場で知りあったようでごぜえます」
「一昨年といえば17歳ではないか。監督不行き届きであるぞ」
「へえ」

佐吉の父親も見るからに貧しげな作男で、おどおどと、
「背丈は齢のわりによく育ちまして5尺8寸(1m80cm)、女には目がなく、村の40歳の後家のところに入りびたっておったで、村抜けには気がつかねえでした、へえ」

佐吉から、息子・吾平(ごへい 18歳)へ誘いの文(ふみ)がきたと訴えた伍作(ごさく 48歳)に、銕三郎がやさしげな口調で、
「その文だが、どこへ来いと書いてあった?」ね、
「そこまで読むまもなく、あやつがとりあげ、ひっちぎって、洲貝(すがい)川さ、投げこんだもんで---へえ」
「ちら、とも見なかったのかな」
「申しわけねえこんで---」
伍作どん。お前がそのように嘘をついていると、吾平を拷問にかけてでも吐かせることになるのだが---」
しばらく思案していた伍作は、
「なんでも、〔大〕の字が---」
「そうであろう、大喜多であったかな?」
「しか、とは---」

出頭していた全員を帰したあとで、火盗改メ・永井組からの指示で、庄屋の仮牢の物置小屋にいれられていた吾平が呼ばれた。
銕三郎が、のつけから、佐吉をのんでかかった口調で、
吾平佐吉たちは、木更津湊から、江戸へ逃げたぞ」
吾平は、うらめしげな眸(め)で銕三郎をにらんだ。
「ご府内へ入れば、火盗改メの網にかかったようなものだ。3日のうちにお縄になり、打ち首だ」
それでも、吾平は動じない。
「10両盗めば、打ち首というご定法は存じておろう」
横から、有田同心の小者が、叱った。
「お返事も申しあげろ」
それでも、吾平は黙っている。
「なあ、吾平。ご府内で3日のうちに〔真浦〕の伝兵衛一味が、なぜ、捕まるか教えてやろう。お前のせいなのだよ」
吾平の顔に動揺とともにも不審の色が走った。
「こういうわけだ。今日か明日、お前のところに、佐吉から飛脚便がくる。木更津で便船に乗る前に、だしたものだ。ところが、お前は、ここで監視つきで閉じこめられておる。その文は、火盗改メが受けとる。そこに書かれているのは、吾平、お前が江戸で訪ねるはずの〔真浦〕一味の隠れ家だ。文には旅費もそえられていようが、それはお上が没収する。つまりは、お前が火盗改メを手引きしたと、〔真浦〕の伝兵衛佐吉もおもう。お前の命は、あの盗人たちの仲間の手の中にあるというわけだ」
「そんな、阿呆な---」
吾平から悲鳴がほとばしった。

吾平。助かりたかったら、〔真浦}たちの打ち首を一日でも早めることだ」

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2009.05.25

〔真浦(もうら)〕の伝兵衛(5)

「〔大原屋〕さん」
桟橋から渡り板に足をかけた〔大原屋〕茂兵衛(もへえ 44歳)は振り返かえって、銕三郎(てつさぶろう 26歳)の姿を認めると、連れていた若い手代に席をおさえておくように言いつけ、
「何か、まだ、御用でございましょうか?」
柔和な顔ながら不審そうな目つきで桟橋を引きかえしてきた。

「船がでる前に、もう一つだけ、お教えおきいただきたい」
「はい」
「大多喜城下の花町というか、色を売っているところは?」
「新丁(しんまち)のことでございますか?」
「そこは、藩の公認の花町ですか?」
「公認の揚げ屋は10軒ほどですが、新丁の裏手の夷隅(いすみ)川べりに、もぐりの岡場所が数戸あるやに聞いております」
「旅籠は?」
「新丁と並んでいる桜台町(さくらだいまち)に12軒ほど---」
「飯盛女を置いておりますか?」
「8軒ほどは---」
「いや。おおいに助かりました」
「盗人と何か?」
「なに。こころおぼえです。どうぞ、船へ。おだやかな船日和(ふなびより)でありすよう」
「ありがとうございます。それでは乗らせていただきます」

(戦いは正を以(も)って合い(対し)、奇を以って勝つ)
銕三郎は、愛染寺脇の旅籠〔矢那(やな)屋〕へ帰りながらつぶやいた。
(〔真浦(もうら)〕の伝兵衛(でんべえ)よ。きっと、きさまたちの尻尾をつかまえてやる)

大喜多は、内陸部にあるのに、房総でいちばんにぎわっている城下町である。
そこで盗(つと)めをはたらいていないということは、ねぐらと遊び場所にちがいない、とふんだのである。
隠したつもりが、ぎゃくに、しっぽをだしてしまった。

もちろん、銕三郎の勘ばたらきにすぎない。
しかし、人間も動物も、ねぐらは清くしておきたがるものだ。

旅籠へ戻りつくと、待っていた有田祐介(ゆうすけ 31歳)同心が、江戸からの(公儀ご用の)継飛脚便と、船問屋からの連絡(つなぎ)を伝えてくれた。
江戸の火盗改メ・先手鉄砲(つつ)組4番手の組頭・永井采女(うねめ)直該(なおかね 52歳 2000石)配下の狭山(惣右衛門 そうえもん 38歳)与力からの飛脚便による指示は、これから行く、安房(あわ)国朝夷郡(あさいこおり)江見村(現・千葉県鴨川市江見)に分領200石余をもつ川越藩(藩主・松平(大河内)  大和守直恒 なおつね 10歳 15万石)から、おもいのまま探索してよろしいとの許しが得られたと告げていた。

船問屋からの言伝(ことづて)は、江戸から浜勝浦湊へ帰る500石船で、木更津湊に一泊するのが、明朝六ッ半(7時)に錨(いかり)をあげるが、江見浦まで送ってくれるという報せであった。

銕三郎の供者の松造(まつぞう 20歳)が、せっかく聞きこんでてきた売色の家々のある、港浦(富津市)、館山、白浜は、そういうことだと素通りだが、仕方がない。

翌朝。

荷船といっても、500石積みの大きさであった。
勝浦からは、幕府直轄領の年貢米のほかの、薪、菜種、綿などを運んだ。
帰りは、空船に近かった。
江戸から勝浦への荷というと、古着と代官所への紙類しかなかった。
それで、木更津湊の船主へ権利料をはらい、江戸から人を乗せるので、寄港するのである。

木更津湊を出ると、岸は一面に菜の花畑で、黄色いじゅうたんを敷いたようであった。
珍しそうにそれを眺めている銕三郎のかたわらへ、知工(ちく 船の庶事頭)・瀬兵衛(せべえ)がやってきて、
「菜種は、米よりも、何倍も率がよろしいのです」
瀬兵衛は、35歳くらいに見えたが、船頭や水主(かこ)ほどには陽にやけていないので、若く感じさせるのかも。
ほんとうは、もう2つ3つ、上かな。

「菜種油は率がいいといいますと?」
銕三郎が訊きかえした。
「一斗あたりの値が、米の数十倍---ときには100倍近くにもなることもあります。この船での米の運び賃は、100石につき1石1斗(1万1000円)です。菜種油は、1石(10斗)につき300文(もん 1万2000円)です。船荷料だと、かさでは100倍近いひらきになります」

銕三郎は、ものの値段と経費ということを学んだ。
もともと、幕臣(中央官庁の役人)には珍しく原価意識が強かったから、知工・瀬兵衛の話は興味ぶかく聞いけた。

瀬兵衛は、眸(め)をかがやかせて聞く銕三郎に、
(この若いお武家は、金銭についての考えが、そこいらの武家とは毛すじがちがう)
見てとったので、すすんで商売の差配、勘どころを話してきかせた。

銕三郎がこのときに瀬兵衛から得た知識は、20年近くのちの人足寄場で、無宿人たちに自立資金を貯めさせるために与えた仕事の一つとなって生かされた。
菜種油しぼりがそれである。

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(種油〆 『風俗画報』明治31年6月10日号 塗り絵師:ちゅうすけ)

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2009.05.24

〔真浦(もうら)〕の伝兵衛(4)

次にきた、佐貫藩(藩主・阿部駿河守正賀 まさよし 23歳 1万6000石)の佐貫町奉行所(現・千葉県君津市佐貫)の小者は、届け先として指定されていた舟番所へ、書状をおいて、そのまま帰っていった。

有田同心(祐介 31歳 先手・永井組)が怒り狂った。
「藩内のことは藩にまかされており、火盗改メに届けでる義理はないとはいえ、わざわざ訊きあわておるのに、この返事の仕様は、あまりといえばあまり。外桜田、山下門前の藩邸が火事で焼けても、火盗改メは面倒をみないからな」
有田どの。ここで言っても先方には聞こえませぬ。それより、書付を改めるのが先です」
銕三郎(てつさぶろう 26歳)が汗馬をとりなすようになだめた。 

たしかに、各藩はそれぞれで仕置(政治)と公事(裁判)を行っている。
盗難なども、各藩で処理して間違いではない。
火盗改メが出張るのは、幕臣の知行地での犯人逮捕と受けとりのときである。
こんどの出張りは、幕臣・浅野家の要請にもとずいたもので、佐貫藩の求めに応じたものではない。
とはいえ、火盗改メは、幕府の機関である。
それなりの対応があって、しかるべきともいえる。

書状には、去年の初夏と秋の終わりにあった、藩内の2件の盗難が記されていた。

天羽郡(あまはこおり)初夏の1件は、海岸ぞいに南北に通じている房総往還の湊川を、数馬村、望井村と東へ30丁(3km)ほど遡行した天羽郡(あまはこおり)六野(むつの)村(現・千葉県富津市六野)の名主の家がやられていた。
風を通すために雨戸をは3,4枚引かないところから侵入してきた2人組が、抜き身で庄屋・善兵衛(ぜんべえ 45歳)に手文庫の13両(200万余)を出させて去ったという。
賊に気がついた表使用人棟にいた者も、見張りをしていた男に太腿(ふともも)を刀で突かれ脅されために、身動きができなかった。

秋の終わりの件は、同じ天羽郡の村だが、こちらは海岸に接した篠(ささ)毛村(現・千葉県富津市笹毛)の大きな農家で、祝いごとがあり、みんなが酒をすごしてて寝入ったところを3人組に襲われた。
祝儀の金を18両(300万円弱)持っていかれていた。

有田祐介同心が、うらやましさもこめて、
「久留里城下の分もあわせると、去年だけで54両(約860万円弱)もさらっておる。貧農の次・三男にしたら大金だが、さて、何に使ったか?」
「きまっています。女です」
銕三郎が、書付を有田同心へ戻した。
「すると、淫売宿をあたってみなければなりませぬな」
「淫売屋がどこと、どここの宿場にあるか、船問屋へ、松造をやってたしかめさせましょう」

からす山〕の寅松(とらまつ)改め、松造(まつぞう 20歳)は、目明しの下働きのような仕事を初めて言いつかり、肩をそびやかして出かけていった。

「あとは、大多喜藩からの使者ですな」
有田同心がつぶやいたところへ、船番所の小者が、その使者を案内してきた。

来たのは、大多喜藩士ではなく、町人風の、物腰の丁寧な中年男であった。
「手前は、大多喜城下・久保町で呉服と小間物の店をひらかせていただいております〔大原屋〕茂兵衛と申します。藩の奉行さまより、江戸へ商用で上るのであれば、木更津の船番所へとどけるようにと、申しつかりました。番所では、お役人さまへじかにお渡しするようにとのことでございましたので、ぶしつけながら、参上させていただきましてございます」

書状を受けとって開披した有田同心は、
「苦労であった」
それだけであったので、銕三郎が言葉をおきなう。
「〔大原屋〕さんは、藩のご用もおつとめかな?」
「とんでもございません。手前どもは、大喜多街道ぞいの、手前がまだ初代の小さな店でございます。藩のご用などもおもいもよりません。ただ、町奉行所の鎌田与力さまと碁仇(ごがたき)でございまして、昨夕も白黒を戦いまして、きょうの江戸上りのことを口をすべらせましたら、好都合だから、お届けするようにと、頼まれまして。
九ッ半(午後1時)の江戸行きの便船に乗るつもりであります」
「ついでながら、今朝のお発(た)ちは?」
「明け七ッ(午前4時)でございました」
「幾里です?」
「7里(28km)とちょっとで---」
「それはお疲れのところを、わざわざ、大儀でありました。お礼を申しあげます」
「めっそうもございません。鎌田与力さまから、火盗改メのお役人さまへ、くれぐれも無礼をおわびしておくようにとのことでございました」

〔大原屋〕が去ってから、有田同心が、
「大喜多藩主・備前守正升(まさのり 32歳 2万石)さまから、きびしい節約令がでており、盗難なしの書状をわざわざ木更津まで使いをだすこともなかろうと、〔大原屋〕に言伝(ことづ)たようですな」
「盗難なしをとどけるために、わざわざ藩士を遣(よこ)すことはありませぬからな」

大多喜藩の財政は、正升の父で隠居した正温(まさはる)が多くの側室に女子を産ませすぎ、その婚儀の出費もたいへんであったらしい。

「ぬかった。〔大原屋〕に訊きそびれました。追っかけて、訊いてきます」
銕三郎が、ややあわて、船着場へ走るようにしていそいだ。


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2009.05.23

〔真浦(もうら)〕の伝兵衛(3)

「なんたる、愚鈍(ぐどん)!」
奥まった部屋から、有田祐介(ゆうすけ 31歳)の大きな声がした。
つづいて意味の聞きとれないほどに低い謝罪のことばが、銕三郎(てつさぶろう 26歳)の耳に達した。

銕三郎が、お(りょう 32歳)と密会をした翌朝、五ッ(8時)である。

有田の部屋へ行ってみると、木更津(きさらづ)港の船番所の書役(しょやく)が、畳に額をすりつけて、謝っている。
「どうしました、有田どの?」

「今朝の6ッ半(7時)の便船で、〔真浦(もうら)〕の伝兵衛らしい3人組が江戸へ向かったというのですよ。いまごろは、五井の沖合いです。江戸への速飛脚(はやびきゃく)をたてても、船が木更津河岸に着く時刻にはまにあいませぬ。みすみす、取り逃がしたも同然」

銕三郎が船番所の者にやさしく訊いた。
「たしかに、〔真浦〕の伝兵衛だったのか?」
「いえ。手前どもは顔をしりません。ただ、3人組の乗船客がいた、と申しあげただけでございます」

有田同心の怒りはおさまらず、
「その者たちの背丈、風体は?」
「それが、船着場の者は、はっきりとは覚えておりませんのでございます」
「田舎の愚鈍者めらが---」

銕三郎が、慰めるように、
「ご苦労でした。昼すぎまでに、船着場のその者の口述を書付けにして届けてくれますか。できるだけ、思い出し、背丈、顔の目印になるようなもの---そうだな、黒子(ほくろ)などだな、それから着ていたものの柄やそれの新しい、旧いも書いてくれると助かる」

銕三郎は、有田同心に目で合図し、船番所の書役をかえした。
有田どの。この者がじかに見たわけではないのですから、叱ってもしかたがありますまい」
「それはそうだが---とにかく、やることがのろい」
「田舎刻(どき)ですよ。東海道筋の継立(つぎた)てどころとは、いっしょになりませぬ」

「ところで、大多喜(おおたき)藩、久留里(くるり)藩、佐貫(さぬき)藩からの盗難届けは、まいりましたか?」
「それも、まだなので、田舎者は愚鈍だと申したのです」
「大多喜にしても、佐貫にしても、今朝五ッ(8時)に城下を発(た)ったとして、ここへ着くのは四ッ(午前10時)なら、御(おん)の字です」
「六ッ(午前6時)に発つべきなのです」
「役所が、商店とちがうことは、江戸も上総もかわりませぬ」
「火盗改メには、朝も夜もござらぬ」
「昨夜の有田どのは、ご機嫌で六ッ(午後6時)には、よくお寝(やす)みでしたよ。ま、田舎ぶりにあわせて、気ながにいきましょう」

各藩からの使いは、銕三郎が予想したとおり、四ッに前後して到着した。

いちばん先に着いたのは、久留里藩(藩主・黒田大和守直純 なおずみ 68歳 3万石)の使番(つかいばん)・丹羽幡之丞(はたのじょう 32歳 50石)であった。
使番だけあって挙措にそつがなく、歯ぎれはよく、なまりもない。

城下(千葉県君津市久留里)から木更津湊まで約3里(12km)。
朝六ッ半(7時)には出たであろう。
「江戸表へとどける藩米を、木更津湊までだす小櫃(こびつ)川の荷運び舟が、あいにくと今朝は下りませず、足で参りましたゆえ、遅くなりまして---」
一応は謝ったうえで、持参した書状を差し出した。

去年の秋口に、筆屋〔長石屋〕が3人組に押し入られ、抜き身で脅されて23両(368万円)奪われていた。
3人は覆面をしていたので顔はわからないが、言葉には安房なまりがあったと。

「盗賊火付改メ方の永井采女直該(なおかね 52歳 2000石)さまから継飛脚(公儀書状の飛脚)でお問い合わせをいただきましたのが、昨日の昼過ぎで、それから町奉行所を改めましたので、遅くなりました」

久留里町奉行所の犯科帳から写した一件書状をざっと読んだ有田同心が、
「瀬戸(裏)口から侵入したとあるが---?」
「久留里あたりでは、表戸は戸締りしても、裏口に心張棒(しんばりぼう)はかいませぬ」
「それでは、盗人に入ってこい、と言わんばかり---」
「城下にも村方にも、盗人などはおりませぬ」

ふん---鼻を鳴らした有田同心から手渡された書付けにざっと目を走らせた銕三郎が、
丹羽どのにおたしかめします。賊が使った抜き身の寸法はわかっておりましょうか?」
「いや、そこまでは手控えてはありませなんだ、なんでしたら、帰藩しまして、改めて〔長石屋〕を糾しますが---」
「それにはおよびませぬ。ご放念ください」

「いまひとつ、お尋ねします。周准郡(すえこおり)の白駒(しろこま)と申す村は、貴藩のうちでございますか?」
「はて---周准郡は、東と西で藩が異なりまして---それがしは郡(こおり)奉行職に就いたしたことがございませぬゆえ、しかとはお応えいたしかねますが、たしか、高岡藩の飛び地であったような---」

高岡藩は、譜代の井上筑後守正国(ただくに 33歳 1万国)の封地で、陣屋を下総国香取郡(かとりこおり)高岡(現・千葉県香取郡下総町)においていた。

「久留里城下から、何里ほどで---」
「さよう---山越えをいれて真東に5里半(22km)というところでしょうか」
「かたじけのうございました」
「白鳥村になにか---?}」
「いや。他事(よそごと)でございます。わが長谷川家の采地の一つが武射郡(むしゃこおり)の寺崎村で、そこにも白馬(しろうま)社があるように聞いております。なにかのつながりがあるのかとおもっただけで---」
有田同心の手前、銕三郎はとっさに嘘をつくった。
〔白駒(しろこま)〕の幸吉(こうきち 30がらみ)のことも、お竜(りょう 32歳)と〔五井(ごい)〕の亀吉(かめきち 30がらみ)のことも、いまは秘めておくべきだと判じたからである。

(いまごろ、お(りょう 32歳)は白駒村に着いて、探索しているのだろうか)
昨夜の床の中での、おの中年増らしいずっしりした殿部の肉置(ししおき)がおもいだされ、おもわず唾をのみこんだ。

妻子がありながら、妾(めかけ)でもないおんなと親しく寝る。
考えてみれば、反道徳なことともいえる。
目の前の久留里藩士・丹羽幡之丞は、せまい藩内で噂になるようなそういうことはしないかもしれない。
藩内でなかったら、どうであろう?
有田同心は、31歳という若さで、妻には1男2女を産ませているが、いまではおんなより酒のようである。

銕三郎は、これからも、おとどうこうというつもりはない。
いちどは、女賊とは---とあきらめたが、もう、なりゆきにまかせるつもりである。
ただ、会って話がしたい。
が話すことには、いちいち、感銘する。

昨夜も、別れぎわに、
(てつ)さま。戦いは、正を以(も)って合い、奇を以って勝つ、と『孫子』にあります。奇を工夫なさいませ」
謎をかけた。
「奇」とは、なんであろう?
反道徳も「奇」ではないのか。
「風説」も「奇」あろう。
侍が「正」なら、盗賊たちは「奇」の集団ではないのか。
「奇」---すなわち、反道徳。


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2009.05.22

〔真浦(もうら)〕の伝兵衛(2)

木更津湊の船番所が手くばりしていた愛染((あいぞめ)院脇の旅籠〔矢那(やな)屋〕に落ちつき、昼餉(ひるげ)をすますと、銕三郎(てつさぶろう)は、松造(まつぞう 20歳)にこっそり言いつけた。

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(木更津湊に近い愛染院)

「ここから離れた蝋燭を商っている店舗(みせ)を見つけ、ぶら提灯2張と蝋燭を20本ばかりを買い、この旅籠から桜井村の下諏訪明神社までの道順を描いてもらってきてくれ。くれぐれも有田(祐介 ゆうすけ 31歳)同心どのと供の小者には気どられないこと、それと、こちらの身許も隠しておけ」

夕刻まで、銕三郎有田同心は、船問屋を10軒ほどまわって、〔真浦(もうら)〕の伝兵衛(でんべえ 28歳)と江見村の佐吉(さきち 18歳)らしいのが、荷役人(にえきにん)としてもぐりこんでいないか、調べた。
相手方には、火盗改メであることを隠さなかった。

有田同心は、隠しておいたほうが、こちらの動きが見えなくてよろしいのでは---と気がかりを口にしたが、
永井組が、一昨日の継(公用)飛脚便で、飯野藩の陣屋や代官所、それに船番所などへの、有田さまのお出張りのお達しで、村中、知れわたっております。探索の狙いをおあかしになれば、ご用への反感も消えましょう。伝兵衛佐吉も安房国朝夷郡(あさいこおり)の人間で、土地(ところ)の望陀郡(もうだこおり)からみれば、他国(よそ)者でしかありませぬ」
「おらが国さの者ではないということか」
「そうです。安房と上総の国分けは、大権現さまの世になってからでも、50年を経ております」

(さて。〔真浦〕の伝兵衛め、おのれが捜されていることを耳にしたら、どちらへ逃げるか? 安房か、江戸か?)

夕餉で膳についた酒を、銕三郎有田同心へゆずり、さらにお代わりを運ばせた。
松造にも、小者にうんと飲ませるように言いつけておいた。

が床についてすぐに寝入ったのを見とどけた銕三郎は、真っ暗い道を、頭に道順をたたきこんだ桜井村の下諏訪明神社へいそいだ。
15丁ほどは田んぽ道であった。
昼間は春めいたほの暖かさであったが、遅くなりはじている陽が沈むと、さすがに顔にあたる風は冷たい。

拝殿と本殿は、小高い丘の上にあったが、訪れたのは、岡の下の神職の屋敷である。

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(木更津・桜井村の諏訪神社)

暮れていたので、銕三郎は拝殿を見なかったが、神域を視野におさめていたら、甲斐国八代郡(やつしろこおり)の中畑(なかばたけ)村のそれとあまりにも似ていることに驚いたはずである。
そして、そこに巫女姿のおがいてもおかしくないとおもったであろう。

_130案内(おとない)を乞うと、待ちわびていたように、お(りょう 32歳)が戸口にあらわれ、手をとらんばかりに部屋へみちびいた。(歌麿 お竜のイメージ)
「お酒(ささ)にしますか?」
「うむ。〔五井ごい)〕の亀吉(かめきち 30がらみ)は?」
亀吉どんをご存じでしたか。おそろしいお方。あの人は、今夜は縁者のところへ泊まっています」
「ここへは、おどの、独り?」
「はい。おせきにならないで。お神酒(みき)をもらってきます」

おたがいに盃を注ぎかわしながらも、おは遠慮して、躰にふれてこない。
(てつ)さまのお連れは、火盗方のお役人ですね? 一目でわかりました」
有田同心どのとは、2年前の駿府、掛川への旅もいっしょであった」
「掛川から相良への旅、今でもおもいだしております。楽しゅうございました」
「拙も---」
「お忘れかと、あきらめておりました」
「なにゆえ、そう、おもった?」
「男のお子もお生まれになったのですね」
「うさぎ人(にん)の小浪(こなみ 32歳)だな?」
「みんな、つつぬけでございます。ふっ、ふふふ---」

酒をさした銕三郎の手首をとったおが、
さま。お話が遠すぎます。もっとお傍(そば)へ寄ってよろしゅうございましょうか?」
「うむ。おどのがそのほうがよければ---」
「お竜どの、じゃなく、おと呼んでくださる約束です」

は、さっと横に移り、右手で銕三郎の肩をだき、胸をもせかけ、盃を銕三郎にふくませて、
「銕さま。寺嶋村でしたように、いっしょに湯をあびてくださいますか?」
「この社に、いいのか?」
「江戸での情人(いろ)だと、断ってあります」
「ここは まさか〔蓑火みのひ)の盗人宿では?」
「いいえ。中畑(なかばたけ)のお諏訪さまのお引きあわせです。〔狐火きつねび)〕ともかかわりはありません」

参照】2008年11月27日[諏訪左源太頼珍(よりよし)] (3)
2009年4月29日[先手・弓の組頭の交代]

湯からもどったおは、うれしげに床をのべた」
「お。悪いが泊まることはできぬ。五ッ半(9時に迎えがくる」
「はい。それまで、伏せってお話を---」

の旅の的(まと)は、〔白駒しろこま)〕の幸吉(こうきち 30がらみ)という盗人の身元調べであった。

ちゅうすけ注】、〔白駒〕の幸吉は、『鬼平犯科帳』文庫巻9[鳥越・浅草橋]に、本所・二ッ目の裏で小間物屋をやりながら、ハエアナのような盗みをやっている盗人。これはその20年前の行状。

幸吉は上総国長柄郡(ながらこおり)白駒村(現・千葉県君津市白駒)の出である。
同村・熊野下の白駒社の脇の貧農の3人目の余計な子として生まれた。

参照】君津市の白駒神社

亀吉の方は、その白駒村から7里ほど北の五井村(現・同県市原市五井)の育ちで、〔蓑火〕のところの2番手の子頭だが、かつての縁でおの手引きをしてくれることになったのだと。

「ですから、わたしも、明日の朝は亀吉どんと伊南(いなん)房州街道を南へ下るのです。さまは?」
「船で、外房へ---ところで、〔白駒〕のは、なにをしたのだ?」
「〔狐火〕一味の恥をさらすことになるので、お訊きにならないで---」
掌で口を銕三郎のふさいだおが、また、上に乗ってきた。
「すこし、肥えたか?」
「おいや?」
「痩せたのでは、心配になる」
「うれしい」

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2009.05.21

〔真浦(もうら)〕の伝兵衛

日本橋川に架かる江戸橋の東から南へ分かれる堀が楓(かえで)川である。
その西側の河岸が本材木町一丁目---人びとは木更津(きさらづ)河岸と呼んだ。
内房総・木更津湊への往還船が発着したからである。

人と荷を運ぶ往還船は、通称を〔木更津船〕といい、木更津側の特権であった。
大坂の陣に徴発された木更津の水主(かこ)の半数が死亡した補償として、船主たちに近隣の幕府領の米のほか、人と荷を運ぶ独占権を与えたといわれている。

_130船着きの茶店で、火盗改メ・永井組の同心・有田祐介(ゆうすけ 31歳)と茶をすすりながら出船を待っていた銕三郎(てつさぶろう 26歳)は、前を横切って桟橋へおりていった揚げ帽子のおんなの横顔に、おもわず茶碗を床机(しょうぎ)に落としそうになった。
中畑(なかばたけ〕のお(りょう 32歳)にそっくりだったからである。(清長 お竜のイメージ)

付きそっていた商人風の細面の色の黒い小ぶりな三十男は、〔五井ごい)〕の亀吉(かめきち)にちがいない。
亀吉に会ったのは3年前、小浪(こなみ 29歳=当時)の店だったが、油断のならない盗賊として記憶に焼きついている。

参照】2008年10月9日~[五井(ごい)]の亀吉] (a) (b) (c

(それにしては奇妙だ。亀吉は〔蓑火みのひ)〕の喜之助(きのすけ)一味の2番手の小頭だし、おは〔蓑火〕から初代・〔狐火きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 50がらみ)にゆずられて、上方へ移ったはずだが。
いや、先日の文(ふみ)では、相方(あいかた)のお(かつ)がまたぞろしくじって、一味にいられなくなるかもしれないと書いてきていたから、〔蓑火〕へ戻ったのか?)

参照】2009年4月30日~[お竜(りょう)からの文] () () () 

それとなく、船のほうへ視線をやりながら、
有田どの。そろそろ、乗りますか?」
「急ぐにはおよびませぬ。われらの席は、すでにおさえてあります」
野袴すがたの有田同心は、すでにお上(かみ)のご用風をふかせて、上席をとらせたらしい。
茶のお代わりをいいつけている。

有田どの。水気をとりすぎると、木更津湊までに尿意をもよおしますぞ」
「なに、5年のあいだに1男2女をもうけた名刀を、江戸前の魚どもに見せてやりながら、艫(とも)で放つまでのこと」
「下(しも)つ者たちの上に立つ同心どのがそれでは、しめしがつきますまい」
冷やかしながら、銕三郎は、供の松造(まつぞう 20歳)に、
「先に乗って待つように---」
言いつけ、茶代をはらおうとすると、
「あ、長谷川うじ。ここは気づかいは無用です。では、そろそろ、乗りますか」
有田同心は、茶店の爺に手で合図して、立った。
(火盗改メがこれでは、町方の者が迷惑する。おれが頭になったら、きびしく締めつけよう)

参照】2006年4月26日[水谷伊勢守が後ろ楯?]
2006年6月17日[町々へ触れを出したとき


乗船するとき、銕三郎は客席に視線をやったが、屋根の下には陽がとどかず、艫(とも)の近くは薄暗かった。
(他人の空似かなあ。それにしても---)

船方が有田とその小者、銕三郎松造のためにあけておいた座席は、乗りあいの客たちからやや離して、舳先(へさき)にもっとも近かった。

船は、日本橋川から大川へでると、帆をはって風まかせになった。

「風が冷とうございましょう」
船方が刺し子の上掛けを4人に渡してくれた。
木更津までは海上15里(約60km)、順風だと2刻(4時間)から2刻半(5時間)である。

そのあいだ、銕三郎は背中に注がれているにちがいないおの視線が気になり、話しかけてくる有田同心にも、生ま返事をつづけた。
有田も途中からそれに気づいて、話しかけるのをおもいとどまったようである。

沖合いに出、筑波山のかわりに、上総の低いなだらかな山なみが望めるようになると、舳先が南へ向く。
風までが柔らかくなったようだ。

あきらめた銕三郎が、乗客に聞こえないように、
「〔真浦(もうら)〕の伝兵衛(でんべえ 28歳)は、木更津あたりに潜んでいますかな」
有田同心の耳元でささやくと、びっくりしたように、
長谷川うじは、どこと見当をつけておられますかな?」
逆に訊きかえしてきた。

「他(よそ)者が潜むのに、在方(農村)は無理でしょう。木更津なら、荷積みこみ人足たちの宿にもぐりこめますが---」
「手前も、そこをかんがえておりました。木更津の村々の村役人たちへは、すでに達しがとどいているはずです」

船が木更津湊へ着き、渡り板が置かれると、われ先にと乗客が下船口へ寄ってきた。
船方が、
「待った、待った。お役人衆が先だ」
乗客たちがざわめいた。
有田同心は馴れたもので胸をはり、小者をしたがえて真っ先に渡り板にのぼった。
銕三郎は、目の隅におの姿を認め、松造を先に行かせる。
銕三郎が動いたとき、左手になにかが押し込まれた。
横におがいたが、目は、あらぬほうを見ている。

下船し、番屋で茶をふるまわれたとき、厠を借りて掌の中の紙切れを開いてみた。
「今夜、桜井村 下すわ神社」

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2009.05.20

火盗改メ・永井采女直該(2)

火盗改メのお頭(おかしら)・永井采女直該(なおかね 52歳 2000石 鉄砲(つつ)組の4番手組頭)は、最後まで顔を見せなかった。

そのことを銕三郎(てつさぶろう 26歳)が、父・平蔵宣雄(のぶお 53歳 先手・弓の8番手組頭)へ告げると、
「とぼけたことを言うでない。先方は2000石の幕臣だぞ。しかも、泣く子もだまる火盗改メのお頭でもある。部屋住みの(てつ)など、眼中にあるものか」
「しかし、捕り物を頼んだのでございすよ」
「名前が同じ采女で、家禄も2000石同士でも、本多采女紀品(のりただ 58歳 大番組頭)どのは、別なのだ」
「火盗改メといえば、町方(まちかた)や在方(ざいかた)以下の盗賊相手の職務。高くとまっていては、職務がつとまりまらないと存じますが---」
が火盗改メの頭になったら、気さくにふるまえばよろしい」
「はい。そういたします」

離れへ引きさがってきた銕三郎に、辰蔵(たつぞう 2歳)を抱かせなから久栄(ひさえ 19歳)が、
「しっかりとお顔を覚えさせておきなれませ。10日もお顔を見ないと、忘れるやもしれませぬ」
「おどかすな。長い一生のうちの、ほんの10日のことだ」
「一日千秋、と申します」
「それは、久栄の気持ちであろう。拙とて、一日万春だ」
「ほんとうでございますか?」
「ほかに、そういうおもいをするおなごでもいるとおもうのか」
「いまのお言葉、うれしゅうございます」

銕三郎は、浅野大学長貞(ながさだ 25歳)が路銀のたしにとよこした5両のうちから3両を、
辰蔵の着るものでも買うてやってくれ」
久栄は押し返し、
辰蔵は、大橋の母にとっても初孫でございます。着るものには不自由させませぬ」
「それは、拙の母ごで、その方の姑(しゅうとめ)どのにも初孫だ。だが、父親は拙である。着るものの一枚ぐらいは買うてやりたい」
「おろかでございました。頂戴いたします」

機嫌がなおった久栄は、さっさと床をのべた。
「もうか?」
「一夜千秋、万春を満喫いたしましょう」

「ほら、千秋がこのように張りきって---」
「まんも、常に倍して濡れに濡れ、ながれるほどだぞ」

「今宵あたり、(たつ)の妹ができそう」
「さようか。では、しっかり受けとめて、放すなよ」
「はい。ああ、きています、き、ま、し、た」


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2009.05.19

火盗改メ・永井采女直該

「楠の大樹から北へ4軒目と聞いたぞ」
弓町へ入るまえの壱岐坂下から梢はおろか、樹高の半分から上の茂り葉が、屋根ごしに見えていた。

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(本郷・(元)弓町の楠の巨樹は現存。樹齢700年ほど。幹囲8.5m)

それを目安に、左手へおれたとき、銕三郎(てつさぶろう 26歳)が、下僕見習・松造(まつぞう 20歳)に言う。

「いえ。昨日、書状をとどけたときは、3軒目でやした」
「これ。やしたではないぞ。3軒目でございました、だ」
言葉づかいを直されるのも道理、下僕見習は、〔からす山〕の寅松(とらまつ)であった。

昨年暮れに烏山(東京都世田谷区北烏ー山)から出てきて、
「掏摸(すり)の足をきっぱり洗いやしたから、飯炊きなりなんなりに雇ってくだせえ。若のおそばで修行させていいだきやす」

父・宣雄(のぶお 53歳)が、銕三郎の勤仕も近かろうから、専属の下僕の一人もいておかしくないと、認めてくれた。
もちろん、久栄(ひさえ 19歳)の口ぞえもきいた。
何かにつけて、宣雄久栄に甘い。

参照】2008年9月7日~[〔中畑(なかばたけ)〕のお竜〕 (1) (2) (3) (4) (5)  (6) (7) (
2008年9月22日[大橋家の息女・久栄]  (

寅松は武家の下僕に似つかわしくないと、松造と変えた。
日が浅いので、伝琺な言葉のほうがなかなか直らない。
それでも、銕三郎は気にしないで、松造を使いにだす。
(習うより、慣れろ、だ)
そう割り切っており、昨日も訪(おとな)い状を、火盗改メ・永井組の与力筆頭・佐貫(さぬき)徹次郎(てつじろう 45歳)あてに持たせておいた。

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(永井采女直該の[個人譜])

「やっぱ、若のおっしゃるとおり、4軒目でやした---でございました。あいだの1軒があんまり小さいので見逃しておりました」
「これ、。声(鯉)が高い」
「鮒が安い」
池波さんなら、ここで、こう、駄洒落を返させるだろうが、ちゅうすけには、その気はない。

さすが家禄2000石の永井家の敷地は本郷台地の弓町に2000坪はあり、その役宅の与力部屋で佐貫筆頭与力のわきに、駿府、掛川へ探索に出張(でば)った与力・佐山惣右衛門(そうえもん 38歳)も待っていた。
説明は、もっぱら、佐山与力がおこなった。

出張る同心は、気ごころのしれた有田祐介(ゆうすけ 31歳)であること。
与力は手いっぱいゆえ、出張れないこと。
(なにをいっておるか。賊を捕まえるのが仕事のくせに---)
組の掛かり金が少ないゆえ、旅籠代別で1日2朱(2万円)、10日分1両1分(約20万円)きり下せないこと。
木更津と江見村、真浦(もうら)村での食事と泊まりは村持ちであるから、掛かりは足りようと。

佐山さま。供の掛かりはどうなりましょう?」
「ほう。駿府、掛川のときには、供の者はお連れではなかったが---」
「あのときは初見前の部屋住みの身分でしたから---」
「なるほど。理ですな」

佐山
与力は、佐貫筆頭の丸顔に目をやって指示をあおぐ。
筆頭は、渋い顔をさらにしかめながらうなずいた。
「では、2人分ということにいたします」
(これで、に小遣いをやれる)

有田祐介同心が呼ばれた。
「公用手形、木更津への船手形は、この有田同心が持って、明後日五ッ(午前8時)、木更津河岸(江戸橋南)からでる木更津通いの船で待っている」

「では、有田さま、明後日、木更津河岸にて---」


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2009.05.18

銕三郎の盟友・浅野大学長貞(2)

「采地に賊とは、どういうことだ?」
銕三郎(てつさぶろう 26歳)が、親しくしている浅野大学長貞(ながさだ 25歳 500石)に訊きかえした。
浅野家の采地は、安房国の朝夷郡(あさいこおり)の東江見(現・千葉県鴨川市江見)と、平郡(たいらこおり)の本郷村(現・同県富津市本郷)である。

その江見のほうに銕三郎の手を借りたいらしい。
「いや、わが家が知行している東江見村は取れ高300石ちょっとで、うち200石ほどは川越藩のものなのだ」
「川越藩というと、3年前に直恒(なおつね 7歳=当時)が継嗣なされた武蔵入間郡(いりまこおり)の?」
「そうだ。松平(結城)侯が4年前に城下町替えなされ、さらに世継ぎなどで、小さな飛び地の郷村へまでは手がまわりきっておらず、江見の仕置はしばらく頼むと用人どのからのお声があった」

「で、賊というのは?」
松平領から、小作人の家の若者が2人、逃亡した」
「逃亡が賊とはかぎるまい。無宿になったということであろう?」
「そのうちの一人の佐吉(さきち 18歳)というのが、幼なじみへ文(ふみ)をよこして、盗賊・〔真浦(もうら)〕の伝兵衛(でんべえ 28歳)一味に加わらないかと誘ったのだ」

その誘いの文を見つけた百姓の父親が、村長(むらおさ)へ相談をもちかけ、村役人から知行主の浅野家へしらせてきた。
浅野家の形ばかりの当主である大学長貞としては、なんとか手を打ちたいが策をおもいつけず、銕三郎に出番をもとめたというしだい。

「待て。なんとかいったな、学(がく)の采地の若者が一味入りした盗賊---」
「〔真浦〕の伝兵衛
「なんなのだ、その〔もらう〕、じゃなかった、〔もうら〕というのは?」
「わが家の采地に近い代官所支配の村の名である。真実の〔真〕、浦島の〔浦〕と書いて〔もうら〕(現・千葉県南房総市真浦)と読む」
「〔真浦〕を通り名にしている伝兵衛というのは、そこの出なんだな?」
「村役人が調べたところでは、村抜けをしたのに、伝平(でんぺえ)というのがいるそうだ」

「わかった。いま、火盗改メ方の本役は永井采女直該(なおかね 52歳 2000石 鉄砲(つつ)組の4番手組頭)どのだ}
永井どのなら、わが屋敷から2丁とない、弓町だ」
2人の話を黙って聞きながら、黙々と料理をつまんでいた長野佐左衛門孝祖(たかのり 26歳 600石 西丸書院番士)が、箸をおいて会話に加わってきた。

ちゅうすけ注】本郷・弓町(現・文京区本郷1丁目)
参照】2008年11月26日[諏訪左源太頼珍(よりよし) (

「500年を経た樟の大樹の隣りのそばと聞いておる」
「その巨樹から4軒北だ」
「そうか。それで、だいたいの推察がついた」
合点した銕三郎が説明をはじめる。

永井組の新任の筆頭与力・佐貫(さぬき)徹次郎(45歳 120石)が、になにかの折に隠居した先の筆頭・佐々木与右衛門(53歳)と会い、組与力が5名なもので手不足で難儀しているとこぼしたらしい。
佐々木前職は、銕三郎の助けを求めるべきだとすすめた。
それで佐貫新筆頭はこの月のはじめに、顔なじみの同心・有田祐介(31歳)をよこした。

参照】2009年1月8日~[銕三郎、三たびの駿府]()  () () () () () () () ()  (10) (11) (12) (13
2009年1月21日~[銕三郎、掛川で] () () () (

有田同心は、駿府、掛川への探索以来の久闊のあいさつもそこそこに、
「いちど、役宅にお立ち寄りいただきたい」
用件を告げると、鳥が飛び立つように帰って行った。
その態度に、佐貫新筆頭の真意のようなものをくみとり、訪ねそこねていたのであった。

「安房へ出張るとなると、訪ねざるをえないな」
「火盗改メが採りあげれば、旅の費(つい)えくらいは出るかもな」
孝祖が、出仕している者らしく、出張(でば)り費用のことに触れる。
「いや。そのことなら、わが家で用意するつもりでおるから---」
浅野長貞がこころづかいを示した。
「待て待て。まだ、受けるとは言っておらぬぞ」


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2009.05.17

銕三郎の盟友・浅野大学長貞

明和8年(1771)の新春である。

「久しぶりに夕餉をともにしたいが、落ちつける料亭を存ぜぬか。本郷元町・御茶ノ水の長野も誘いたいので、足場のことも考えて指定してほしい」
浅野大学長貞(ながさだ 25歳 500石)の下僕が、書簡をとどけてきた。

長貞の屋敷は、市ヶ谷牛小屋跡である。
体調がすぐれないからと、兄・長延(ながのぶ)が27歳の若さで小姓組番士を致仕したので、次弟の長貞が家督したものの、出仕はまだきまっていない。

参照】2009年5月16日[銕三郎、初見仲間の数] (

本郷・御茶ノ水の長野佐左衛門孝祖(たかのり 25歳 600石)も、ともに初見をした仲で、去年からすでに西丸の書院番として出仕している。

銕三郎(てつさぶろう 26歳)は、父・平蔵宣雄(のぶお 53歳 先手・弓の組頭)に意を伝え、元飯田町中坂下角の〔美濃屋〕を推してもらった。

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(飯田町 左:九段坂 中:中坂 
『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

なるほど、中坂下なら、本郷からも市ヶ谷からも近い。
宣雄は、先手・弓の組頭に就任したときに、この店で披露(ひろめ)の宴をもよおして以来、馴染みである。
〔美濃屋〕は、清水門、田安門にも近く、水戸家一橋家のご用もつとめているほどに格式も高く、一見(いちげん)の客は受けない。

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(飯田町中坂下の〔美濃屋〕 『江戸買物独案内』 1824刊)

参照】2008年3月11日[明和2年(1765)の銕三郎] (その6

銕三郎が〔美濃屋〕へ入ったときには、浅野長貞と長野孝祖が先に着いており、中坂を利用した滝が望め、梅の香りが流れてくる座敷で、主人の源右衛門(45歳)が相手していた。
宣雄の口ききということで、源右衛門みずからがあいさつら出てきたのであろう。

源右衛門は、銕三郎と目が会うと、器量を読むことにたけた商売柄、一目でその人柄が気にいってしまったらしく、
「組頭さまには、いつもご贔屓をいただいておりますが、若も、どうぞ、いつなりと---」
商売用のお世辞とはおもえない口調であった。

武士はともかく、市井の町人職人たちが銕三郎に魅されてしまうことを知っている長貞は、源右衛門の気持ちをすかざず読みとり、
どのにいい店を教えたもらった。ご亭主、手前は家督したといっても、まだ出仕がきまらない身ゆえ、いささか敷居は高いが、今後とも、長谷川の殿同様によろしく頼みますぞ」
孝祖も、
「いや、近間に、このような風雅な座敷があろうとは---屋号から推して美濃の出と察したが、われも浅野うじも祖は尾張者、隣国のよしみでぜひ、これからも使わせていただきたい」

幕臣の継嗣2人に如才なく頭をさげられた源右衛門はかえって恐縮し、
「せいぜい、お口に合いますように勤めますれば、ご贔屓のほど、お願い申しあげます」

源右衛門が引きさがったところで、銕三郎が訊いた。
「ところで、今宵の題目は?」
佐左(さざ)にややが生まれる」
「いつ?」
「来月だ」
「それはめでたい」
「子なしは、われ一人となった」
「奥も娶(めと)らないで、子ができたら、ことだ。庶子には世継ぎの利がないからな」
「いま、話がすすんでいる」
「なんだ、それを言うための夕餉か」

「さきほど、(だい)から訊いたのだが、諏訪一族の息女らしい」
孝祖が、口をはさんだ。
「いくつだ?」
「それが、薹(とう)がたちかけておる」
「いくつだと、訊いておる」
「17」
「もちろん、初婚であろう?」
「しれたことを訊くな」

それから、ひとしきり、若者らしい猥談めいた話をしたあと、
。半月ほど、躰があけられぬか?」
「どういうことだ?」
「知行地に---」
「どっちの村だ?」
浅野家の知行地は、安房国朝夷郡(あさいこうり)と平郡(たいらこおり)に分かれている。

「朝夷郡の江見村(現・千葉県鴨川市東江見)のほう---」
「どうした?」
「賊がな---」
「む?」


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_
(長野佐左衛門孝祖の個人譜)

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2009.05.16

銕三郎、初見仲間の数(5)

銕三郎(てつさぶろう 23歳=初見の齢)といっしょに明和5年12月5日に初お目見(めみえ)した仲間の数が、『徳川実紀』の記述と大きく食いちがっていることに気づき、思いだしては調べ始めてから、2~3年たったろうか、いや、もっとかな。

ブログを書いていて、突然おもいだしたのが、釣 洋一さんの、
「『実紀』から洩れている初見者を全部あたってみましたよ」
このセリフ、いつだったかの〔鬼平忌〕で耳にした。

さんは、〔鬼平忌〕の主催者の一人である。
もう一人は、長谷川平蔵家の菩提寺・戒行寺の住職である星 和道師。

鬼平忌〕は、平蔵宣以の歿後200年にあたる1995年(その前年かも)を記念し、戒行寺に〔長谷川平蔵宣以慰霊碑〕がさんほかの有志によって建立されて以来、つづいている。

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(戒行寺の鬼平慰霊碑)

10回ほど前の〔鬼平忌〕で、ぼくもスピーカーを勤めさせていただいた。

会は、平蔵宣以の命日である5月10日(旧暦)が新暦だと6月26日にあたるので、たしか、第4日曜日の午後1時半からだったように記憶している。
いや、最近は、体調がおもわしくなくて欠席をきめこんでいるが、今年あたりは参会させていただこうかとかんがえているのだが。

閑話休題。さんの、
「洩れを全員あたった」
の一言で、急遽、鬼平がらみのファイルをひっくりかえしてみた。

「あった!」
なんと、A3の用紙に6段に組んだ、すごいデータである。
ワープロ文字でなく活字組だから、さんが公刊物に発表なさったもののアレンジと推察。

全部で133人とある。
これに、さんは、手書きで、

法制史研究家の重松一義教授は、鬼平の御初見は23歳で遅かった。10歳や12歳の子を含めた30人もの旗本の子一緒に交じって針の筵の恥辱と受け止めたであろう---としているが、10歳や12歳の子は一人もいなかった。
『族徳川実記』で30人の初御目見とあるが、『寛政重修身諸家譜』を調べたところ、133人もの人たちが初御目見しており、その平均年齢は鬼平より上で、25.5歳だった。遅いどころか、早い方だった」

(へえ、初見の平均年齢をただすために、橙色版22冊を全部あたったのか。ご苦労さま)
というのが率直な感慨だったが、史実の探求を旨としているさんのこと、目的はほかにもあったろうと推察してみた。

前記のように、徳川の正史ともいえる『実紀』の初見の記録に大漏れがあるとすると、正確とはいいがたい。
2008年12月5日の当ブログに、明和3年(1766)から同5年上半期までの『実紀』からの記録として、

実紀』によると、将軍・家治の初見は、明和3年は、3月18日に11人、7月18日14人、12月3日17人で、計42人であった。
しかるに、4年は、12月8日の22人としか記されていない。

さらに明和元年(1764)と同じ2年(1765)の記録も、

明和元年 4月17日に11人、12月15日は記名者4人
   2年 5月12日に15人 6月1日に6人、12月22日に10人。

少なすぎる。
年に100人初見したと仮定しても、30年間で3000人にすぎない。
実紀』が初見のすべてを記録しているわけではないとすると、何に拠ればいいのだろう?
やはり、さんやぼくがやったように、『寛政譜』を総ざらえするしかないのだろうか。
橙色版の『寛政譜』の索引には、記述内容に属する初見の項目はないからなあ。


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2009.05.15

銕三郎、初見仲間の数(4)

銕三郎(てつさぶろう 23歳=初見時)の明和5年12月5日のお目見(めみえ)の仲間は、どうやら、数十人---ひょっとすると100人近いのかもしれない。
異例かどうかは、わからない。
徳川実紀』で見るかぎり、1日に50人以上というのは、異例と言えそうである。

それはともかく、いつもいつも、史実に忠実に---というのも、肩が凝る。
たまには、雑談もいいではないか。

初見者のリストをつくっていて---つまり、『寛政譜』を総ざらえしていて---、
短篇時代小説にでもなりそう、というか、人生の機微もしくは武家であることの悲劇---に触れたような記述が目に入った。

初見のときは、平岡権之助良利(よしとし 18歳 200俵)。
養父・彦兵衛良寛(よしひろ 56歳)は、甲府近在の幕府直轄地の代官を勤勉につとめていた。
代々甲州の代官職についていたのは、出身が武田の蔵奉行だったからであろう。

そんなわけで、屋敷は湯島中坂下に拝領していたが彦兵衛自身は、甲府の官舎に赴任していた。
いや、『寛政譜』によると、権之助良利も、初見をすますと、ただちに甲府へおもむき、養父の職務の見習いをしたとある。

養子だから、妻は養家側が準備している。
彦兵衛の長女である。
名は仮りに、富江(ふえ)とでもしておこうか。
年齢は、じつは、22歳の若後家---というのは、婿養子・栄之助が、1年前に病死していたからである。
夫婦生活は3年であったが、その半分は、栄之助の看護であった。
もっとも、病床の栄之助の求めに忠実に応じたので、その死期を早めたともいえる。

富江の躰は、熟れきっていた。
新しい男を待ちに待っていた。
そう推察したのは、権之助が、半年もしないで腎虚のようになり、養子解消を申しでたからである。
富江とすれば、技巧もしらないで、ただ、はげしく突いてくるだけの若い夫にあき足らなくなっていた。
その突きもできなくなっては、同衾する楽しみがない。

権之助は、実家・松平田宮恒隆(つねたか 40歳 500石 小十人頭)の許(もと)へ戻り、養生にはげんだ---というより、富江から離れたことで、腎虚はたちまちに回復したともいえた。
ただし、養家をしくじったと見られた権之助に、養子の口はほとんどかからなかった。

実母はすでに亡く、継母は、権之助から見ると5歳違いの姉のようであったが2女をもうけており、厄介者あつかいがきつかった。
恒隆が宿直(とのい)のある夜、権之助を呼び、
「府中(甲府)の富江さまから内密にお聞きしたことですが、どのは、床(とこ)でのなにが、まっすぐすぎるとか。おなごは、寄せては引く波のように遊ばせてほしいのですよ」
にこりともせず言いきり、大年増の後家の女中に言いふくめてあるゆえ、今夜、教わるがよいとけしかけた。

たしかに、富江とのことはつよく反省させられた。
それが継母の計りごとであったことは、すぐにきた婿養子の相手が、先夫が病死した28歳の後家であったことでしれた。
「手習いの良師とおぼしめせ」

酒井宇右衛門正稙(まさたね 51歳=安永元年 新番 250俵)の長女は、たしかに良師であった。
先婿とのあいだに3女をもうけており、寝間でも大胆にふるまったが、富江のように毎晩求めるのではなく、むしろ、頻度よりも濃密を好んだ。
権之助も、ゆっくりと寄せては、突然に返した。

どこが武家の悲劇かって?
次男以下は、選りごのみができないこと、たとえ2度ともが使用済みであろうとも。

権之助のことはこれくらいにして甲府の平岡家富江である。
躰が承知しなかった。
江戸で男をくわえてきた。
同じ武田系ではあるが、大身・小田切家(2930石)といえば、兄・直年(なおとし)がのちに町奉行にもなったほどだが、当人・主人(もんど)は、あぞび好きで、門地にこだわらなかった。
だから、27歳になるまで、4年間、同棲のようにして平岡家で暮らし、富江が身ごもったのでやっと初見をする気になった。

そうそう、平岡家長谷川家のかかわりだが、2人目の養子・良利が初見で銕三郎と同席であったということのほかに、富江の叔母---といっても祖父の養女---が、なんと、平蔵宣雄が養女に迎えた与詩(よし)の父・朝倉仁左衛門景増(かげます) 享年)の2番目の内室であった。

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参照】2007年12月24日~[与詩(よし)を迎えに] () () (16) (17) (18) (19) (20

 

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2009.05.14

銕三郎、初見仲間の数(3)

久栄(ひさえ 18歳)は、こもなげに、
「忠義は、家族の何千もの涙の上になりたっているのものなのです」
と言いすてたが、徳川時代に入ってからとくに精神的にも忠義を求められる男としては、そう簡単に割りきれるものではない。

しかも、浅野大学長貞(ながさだ 22歳 500石)と付きあうことと、切腹させられた内匠頭(たくみのかみ)長矩(ながのり  35歳=事件時)とは、別ごとであるはず。
大学長貞の家祖は、赤穂藩から新墾地3000石を分与されて別家をたてた大学長広(ながひろ)---内匠頭長矩とは1歳違いの同腹の実弟というだけのことである。

とはいえ、刃傷沙汰を城内でおこした者に対する将軍・綱吉の怒りは、長広にまでおよび、閉門と領地を取りあげ、そのうえ翌年、本家・安芸守綱長(つななが 43歳=元禄15年 広島藩主 42万5000石)の封地への謹慎を命じた。
許されて江戸へ呼びもどされ、500石の幕臣に取りたてられたのは9年を経て、綱吉が隠居した宝永6年(1709)8月(44歳)であった。

のちになって、銕三郎が長広の孫にあたる大学長貞に奇縁を感じたのは、別家・浅野家の菩提寺が、備中・松山藩の元藩主の末、水谷(みずのや)(出羽守勝久 かつひさ)家と同じ高輪の泉岳寺であったことである。

この先、4年後の安永3年(1774)のことになるが、遺跡を継いで平蔵を襲名した銕三郎改め宣以(のぶため)が初出仕をした西丸・書院番4番組の番頭が水谷伊勢守(に改め)勝久であった。

参照】2006年4月28日[水谷伊勢守が後ろ楯] 
2006年9月28日@[水谷伊勢守と長谷川平蔵

浅野大学長貞の屋敷を、『江戸幕府旗本人名事典 第Ⅰ巻』(柏書房 1989.6.30)は、市ヶ谷牛小屋と記している。
牛込という呼称が、神崎牛牧からきたらしいと諸書にあるが、広域すぎて探しようがない。
平凡社『東京都の地名』(2002.7.10)の索引には載っていない。
_120手持ちの『牛込区史』(1930.3.31 復刻・臨川書店 1985.10.30)には、牛小屋跡として、「市ヶ谷より四谷への通の付いた後七軒町と唱へられし処」とあった。

牛小屋跡の前後は、

放生寺門前(旧上戸塚)
牛惟小屋跡
加賀屋舗空地(市ヶ谷加賀屋敷)

とあって、それに対応する昭和初期の町名は、加賀屋舗空地(市ヶ谷加賀屋敷)のみが記されてでいた。
察するに、七軒町は、尾州家の上屋敷に取りこまれてしまったか。

ちゅうきゅう注】四谷七軒町だと、『鬼平犯科帳』で、長谷川組の組屋敷とされた四谷坂町を上がったところの左手にあたる。文庫巻22[迷路]で、組屋敷へ戻るべく、七軒町から了覚寺へきた与力・秋本源増が首に矢を射こまれるシーンに登場するのだが。p95 新装版p91

とにかく、とりあえず、尾張屋板で加賀屋敷と尾州家周辺をルーペで数時間しらべたが、浅野邸は見つからなかった。
500石なら、25間に30j間---750坪(2500㎡)前後の屋敷地を拝領しているはずだから、見つからないほえうがどうかしているのである。

寛政以後、屋敷替えでもあったのであろうか。

調べものは、とにかく時間をくう。1中に調べて、ブログの3行分ということも、しょっちゅうである。

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2009.05.13

銕三郎、初見仲間の数(2)

明和5年(1768)12月5日にまとめて初目見(めみえ)した幕臣の継嗣で、5の日の集いをやろうといって、300石(俵)以上で1000石未満の者は、これまでに判明した分を記すと、下表のように20名を超えた。

大河内勘解由忠栄(ただよし 25歳 750石)
杉浦十兵衛正悦(まさよし 32歳 700石)
三雲八五郎定察(さだあきら 18歳 650石)
長野勝次郎孝祖(たかのり 23歳 600石)
松平又太郎勝武(かつつぐ 20歳 500石)
佐久間修理孝由(たかよし 19歳 500石)
桑原主計盛倫(もりとも 23歳 500石)
浅野大学長貞(ながさだ 22歳 500石)
太田庄十郎美資(よしすけ 52歳 500石)
高木一学正膚(まさのぶ 29歳 500石)
一色靭負定之(さだゆき 27歳 500石)
北村銕次郎季春(きしゅん 26歳 500石)
三浦左膳義和(よしかず 17歳 500俵)
長谷川銕三郎宣以(のぶため 24歳 400石)
難波田権三郎憲道(のりみち 26歳 400石)
永田孫次郎正与(せいよ 20歳 400石)
田辺采女惟伝(これつぐ 20歳 400俵)
水野新八郎元貞(もとさだ 14歳 400俵)
遠山兵部直栗(なおふさ 23歳 300石)
諏訪織部正武(まさたけ 33歳 300俵)
長崎源之助元良(もとかた 26歳 300俵)
伊丹三十郎勝英(かつひで 20歳 300俵)
近藤半次郎政盈(まさみつ 21歳 300俵)
奥田吉五郎直道(なおみち 20歳 300俵)
江馬平左衛門季寛(すえひろ 33歳 300俵)

うち、52歳の太田美資が、あまりにも高齢すぎ、「駿馬の中に駄馬がまじったようでこころ苦しい」と、辞退を申し出た。

一応、口ぐちに引きとめたが、美資の決意は堅く、
「それでは、友朋ということにいたし、お気が向いたら、いつなりとご出席になり、人生の先達ということで、ご助言をたまわりたく---」
浅野長貞がとりなした。

22歳とはおもえない老練な収めように、銕三郎は、そのときから長貞に目をつけたのである。
(この男、ただものではないな)

父・平蔵宣雄(のぶお 52歳)にそのことを告げると、
「さすがに、長延(ながのぶ 27歳=明和5年)どののお仕込み」
「さすがと---とは?」
「小姓組でも、無欲の士というわさだった仁なのだ」

容姿はさわやかで、口跡は役者のように明らか、しかも教養が豊かなので、19歳で進物番に選ばれ、将来を嘱目されていたのに、その進物番を5年で固辞、27歳で家督をさっさと実弟・長貞へ譲った。
3番組の番頭・水谷(みずのや)出羽守勝久 かつひさ 46歳 3500石)へ申し出た辞任の理由がふるっていたという。
「実弟・大学のほうが、それがしよりも才幹がすぐれております。大学をお召しになられたほうがお上のためによろしいかと---」

水谷勝久については、すでに幾度が紹介している。
旧・備中松山藩(5万石)の藩主の後裔だが、3代前に、世継ぎ問題で断絶させられた。
そのとき、城を受け取りにきたのが、赤穂藩の家老・大石内蔵助良雄(よしお)であった。
宣雄の実母は、その松山藩の改易で浪人した三原七郎兵衛のむすめであったことも、記している。

参照】2006年11月8日[宣雄の実父・実母

浅野うじはもしかして、赤穂藩の浅野内匠頭(たくみのかみ)さまの一族?」
「そのとおり」
「では、水谷さまが小姓組の番頭にお就きになったので、意趣返しに---」
「まさか。そうではなく、番(武官系)を離れて、もっと書を読みたいために辞されたと聞いておる」

寝間で辰蔵(たつぞう)に乳をふくませていた久栄(ひさえ 18歳)に、浅野長貞のとりなしようを聞かせると、
「浅野さまのお話は、中村座だけでけっこうでございます。大学とおっしゃるからには、藩士のことにまでお考えがおよばなかった無分別なお方のおん弟ごの系統でございましょう? お家断絶で、家族も入れると千何百人の糧(かて)が失うなわれたのでございますよ。忠義は、何千もの涙の上になりたっているのものなのです」

切腹させられた47人の家族---妻子・父母のことを言っているのだ。


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2009.05.12

銕三郎、初見仲間の数

突然だが、2年前に遡上(さかのぼ)る。
銕三郎(てつさぶろう 23歳=明和5年)のあることに、粗漏があった。
訂正かたがた、鬼平ファン、江戸びいきの朋友への、ご注意もかねたい。

銕三郎の2年前の幕臣人生上の出来ごとは、お上(家冶)への初お目見(めみえ)であろう。
それが、明和5年12月5日に行われたことは、すでに報告している。

参照】2008年12月1日~[銕三郎、初お目見(みえ)] (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)

年月日の変更はない。
徳川実紀』にも、そう、書かれている。

粗漏というのは、じつは、その『実紀』にかかわりがある。
実紀』の当日の記述を図版で掲げる。

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(明和5年(1768)12月5日(旧暦)の初見の部分)

30人の初見者のうち、16人だけが記録されている。
のこりの14人捜しを『寛政重修諸家譜』でざっとやって、16人見つけた顛末は、上記の[銕三郎、初お目見(みえ)](7)に報じた。

このゴールデン・ウィークの連休に、暇をつくっては『寛政譜』を眺めていて、さらに20数人を発見した。

(7)の16人は、稟米200俵以下の家禄の者たちであったから軽視されたのか---と余計な類推をしてしまったが、G.W.に見つけたのは、軽輩どころか、1000石以上の大身の継嗣もいる。

横山勇之助近遠(ちかとう 18歳 4500石)
堀数馬親褒(ちかひろ 29歳 2000石)
永田大膳直行(なおゆき 30歳 1200石)
西尾藤次郎政億(まさおく 18歳 1100石)
大河内勘解由忠栄(ただよし 25歳 750石)
杉浦十兵衛正悦(まさよし 32歳 700石)
三雲八五郎定察(さだあきら 18歳 650石)
長野佐左衛門孝祖(たかのり 23歳 600石)
太田庄十郎美資(よしすけ 52歳 500石)
高木一学正膚(まさのぶ 29歳 500石)
一色靭負定之(XQ@8G 27歳 500石)
北村銕次郎季春(きしゅん 26歳 500石)
浅野大学長貞(ながさだ 22歳 500石)
永田孫次郎正与(せいよ 20歳 400石)
田辺采女惟伝(これつぐ 20歳 400俵)
水野新八郎元貞(もとさだ 14歳 400俵)
平野岩太郎勝彭(かつよし 25歳 400俵)
遠山兵部直栗(なおふさ 23歳 300石)
諏訪織部正武(まさたけ 33歳 300俵)
長崎源之助元良(もとかた 26歳 300俵)
伊丹三十郎勝英(かつひで 20歳 300俵)
小池主馬貞乗(さだのり 33歳 150俵)
平田万三郎勝伴(かつとも 32歳 150俵)

ちゅうすけ注】うち、小池貞乗の『寛政譜』は、明和5年11月5日と誤植されているので、あやうく見逃がすところであった。
この年、11月には初見はおこなわれていないから、『寛政譜』本の誤植と断定。
池波さんが所蔵のえび茶色表紙の古版も誤植しているのだろうか?

根をつめて捜せば、もっと見つかるとおもわれる。

それはともかく、12月5日の初見の人数が、こう増えては、上掲の(4)で、水谷(みずのや)出羽守勝久(かつひさ 46歳 小姓組番頭 3500石)の養子・兵庫勝政(かつまさ 25歳 酒井家の出)が提案したことにした、有志による〔師走の5の日会〕を再検討しなくてはなるまい。

いくら有志にかぎるとはいえ、上は4500石の横山近遠から、下は70俵3人扶持の堀弥七郎義高よしたか)を一つのグループとしてくくるには無理がある。

もちろん、稟米100俵とか150俵の下級の子弟とすれば、大身の子弟と同期の会員となって同席でき、そこで顔と才能をみとめられる幸運があれば、会費の1両や2両は無理しても都合するであろうが、あまりにも現実ばなれれしている。

そういう集(つど)いは、やはり家格にしたがって人選されるべきかとおもう。
1000石以上の組、300俵から900石までの組、299石以下の組といったところであろうか。

そう考えると、3500石の水谷兵庫勝政銕三郎に相談をもちかけるというのがおかしくなってきた。
あの件は取り消しということに。

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2009.05.11

ちゅうすけのひとり言(33)

朝日カルチャーセンター(新宿)の{鬼平クラス]は10年間つづいた。
2年前に体調をくずし、閉講に。

受講生の方々とは、いまも文通がある。
その中のお一人---ハンドル・ネーム〔くまごろう〕さんは、中山道を完歩し、その記録は、別のブログ[『わたし彩(いろ)の『江戸名所図会』]に部分的に転載させていただいている。

その〔くまごろう〕さんから、最近、また、『鬼平犯科帳』を読み返し、「第3巻まで一気に読了しました。新鮮でした。痛快でした。恐れ多いことながら、池波さんの小説の構想力、筋立てに改めて瞠目しました。まさに最高のエンターテインメント小説だと思いました」

「読み返したのも[1-4 浅草御厩河岸]が9読目で最も多く、[3-6 むかしの男]が4読目で、その間に各篇の読んだ回数が散らばっていました」---ー〔くまごろう〕さんのように記録はとっていないけれど、ぼくも負けない程度には読みかえいているとおもう。

さて、〔くまごうさん〕のメールに、「[2-4 妖盗葵小僧]のラストに、

>粂八はあたまをかき、
「これだけはあいつらと同業の私ども四人でなれば出来ねえことで---」
照れながらも、めずらしく得意げに鼻をうごめかしたものである。<

と、ありますが、4人とは誰と誰なんだろう? と、疑問が湧きました」

たしかに、その篇までに登場した岩五郎相模彦十を入れても3人である。
くまごろう〕さんは、当ブログ[『鬼平犯科帳Who's Who]の事項細見もあたってみたとおっしゃっていた。

『鬼平犯科帳Who's Who]の事項細見---当ブログの初期画面の左欄---カテゴリー、171文庫 第1巻~178文庫 第8巻までで中断してる採集事項のことである。


ちなみに、各篇に登場している密偵の項をピックアップすると、

[1―1 唖の十蔵]・天明7年(1787)の春から
  ◎密偵:---

[1―2 本所・桜屋敷]・天明8年(1788)年小正月
 ◎密偵:岩五郎 p49 新装p52
 ○相模の彦十(50をこえた)p65 新装p69

[1―3 血頭の丹兵衛]・天明8年(1788)年10月
  ◎密偵:---

[1―4 浅草・御厩河岸]・寛政元年の夏から秋
 ◎密偵・岩五郎 35.6歳 p123 新装p130

[1―5 老盗の夢]・寛政元(1789)年の初夏から暮
 ◎〔小房〕の粂八 鎌倉河岸で味噌おでんの屋台店
   p162 新装p172

[1―6 暗剣白梅香]・寛政2年(1790)年初春
 ◎密偵:〔小房〕の粂八 p276 新装p292
 ◎密偵:〔相模〕の彦十 p277 新装p293

[1―7 座頭と猿]・寛政2年(1790)
  ◎密偵:---

[1―8 むかしの女]・寛政2年(1790)年晩夏
 ◎密偵:〔小房〕の粂八 p276 新装p292
 ◎密偵:〔相模無宿〕の彦十 p277 新装p293

[2―1 蛇の眼] 寛政3(1791)年の初夏
  ◎密偵:---

[2―2 谷中・いろは茶屋] 寛政3(1791)年晩夏
 ◎密偵:小房の粂八 p84 新装p89

[2―3 女掏摸お富]・寛政3年(1791)年の夏
  ◎密偵:---

[2―4 妖盗葵小僧]・寛政3年(1791)年初夏から
     翌4年へ
 ◎密偵:小房の粂八 p123 新装p130

たしかに、ご指摘のとおりなので、[2-4 妖盗葵小僧]を読みかえしてみたら、採集洩れがあった。

 ◎密偵:名なしの別の密偵 p190 新装p200 

小房〕の粂八には、「鬼平直属の密偵」とある。p123 新装p130
ということは、池波さんの頭の中では、佐嶋筆頭与力やほかの与力・同心が使っている名なしの密偵が数人いるということであろう。

粂八のほかの3人は、その夜、動員された彼たちのことと判断したのだが---。

参照】〔小房こぶさ)〕の粂八
〔小房(こぶさ)〕の粂八が見かけた

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2009.05.10

田沼意行の父(4)

ちゅうすけつぶやき】今日:5月10日(旧暦)は、平蔵宣以の命日である。戒行寺の霊位簿は、寛政7年5月10日 海雲院殿光遠日耀居士 とある。
旧暦の5月10日は、新暦の6月26日にあたるらしい。

『寛政譜』では、寛政7年5月19日卒 50歳 となっている。

現役でのまままの逝去なので、先手組頭の当番の彦坂氏らが、辞職願を14日に幕府へとどけ、16日に受理され、公式に喪を発することができたのが19日であったということ。

★2006年6月25日[寛政]7年5月6日の長谷川家]
★2008年4月28日[ちゅうすけのひとり言] (11
★2006年4月1日[長谷川平蔵年譜
★2006年5月1日[高貴薬・瓊玉膏の下賜]
★2006年5月12日[平蔵の後釜に坐る


ずっと前に、田沼意行(もとゆき)がらみで、安池欣一さんから『南紀徳川史 第一冊』の部分コピーをいただいていた。

安池さんのリポート[田沼意行の父]を転載するにあたり、めくりかえしていて、「これは---」というページに目がとまった。

七代将軍・家継がわずか8歳で死去したとき、紀州藩主・吉宗(33歳)が後継として指名され、藩邸から急遽、二の丸へつめたことはつとに知られている。

そのとき、扈従というより吉宗の身辺警護のために150人前後の江戸詰藩士が柳営に入った。
その中に、田沼意次の父・専左衛門意行もいた。

意行の紀州藩(37万5000石)での職分と家禄が記録されていたのである。

小姓 50石。
田代七右衛門養子

とも書かれている。

吉宗が将軍職につくことにより、意行の職と家禄は、

300俵 小姓
主殿頭

に格上げされた。
徳川幕府の直轄地は実質400万石ともいわれていたから、紀州藩での10倍になってもおかしくはない。
それが、6倍でぁった。
吉宗が、もともとの幕臣たちへ配慮したのでろう。
(もっとも、意行は、その後加増されて700石になっているから、結果的には14倍であった)

同じリストに、菅沼新左衛門の名があったので、主題とはかかわりがないが、参考までに転紀しておく。
紀州藩士のときは、

用達 400石

扈従しての江戸城入りの直後は、

小納戸(側近) 主税正 400石

これも、幕臣たちへのはばかりであろう。
11年後に従五位下、主膳正。さらに7年のちに300石加恩。
まわりを紀州出身者でかためた吉宗の、したたかな施政ぶりがうかがえる。

このほか、膳まわりの者が12名、のちにお庭番と名を変えた薬込めの者が6家、急ごしらえにしても鷹狩りかかわりの者が鷹匠・鳥見をふくめて5名も指名されているのは、いかにも、鷹狩りがすきな吉宗らしい。

参照】2009年5月8日`~[田沼意行の父] () (

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2009.05.09

田沼意行の父(3)

静岡のSBS学苑[鬼平クラス]でともに学んでいる安池欣一さんの田沼意次(おきつぐ)の父・意行(もとゆき)の、さらにその父捜しのリポートのつづきである。

どうして、そのようなことが、[『鬼平犯科帳Who's Who』]なんだ---とおっしゃらないで。
データを後学者のために公開しておくことも、大きな意義がある。
少なくとも、ぼくは、そう、かんがえている。
田沼意次まわりの論文で、そこまで考究がすすめられたとおもえないからである。
大げさにいうと、安池さんが初めて鍬をいれた人かもしれない。


菅沼家「系譜」の検討


田沼意行
寛政重修諸家譜』では、

 田沼意行 重之助 専左衛門 主殿頭 従五位下

南紀徳川史 第5冊』では、

田沼専左衛門 重意 初名:専之助

と表記されています。

また、『寛政譜』では、
「享保19年(1734年)12月18日死す。 年47。」

となっていますから、計算すると元禄元年(1688年)生まれとなります。

1.菅沼家代々の当主の没年を調べますと、元祖は寛永19年(1642)、2代目は寛文11年(1671)で、意行が誕生する前ですから、父親ということはありえません。

5代目は元禄4年(1691)生まれですから、これも該当しません。
意行の父親の可能性があるのは3代目と4代目です。

ちゅうすけ注】ここで、理解をやさしくするために、『山家三方集』(愛知県鳳来町立長篠城跡保存館 1997.3.1)から、長篠菅沼の系図から、紀州へ付随した初代・半兵衛のすぐ上の2人を引く。

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_200_22..3代目新九郎政則について
菅沼家は代々半兵衛を名乗っているのに、3代目だけが新九邸です。
没年は正徳3年(1713)ですが、そのときの年齢は不詳となっていまして生年が計算できません。
常識的には4代目よりは早い生年と考えられます。
(右の系図は、紀州菅沼家の2代目~5代目 前掲書より)

寛文11年(1671)に跡目を相続して、延宝6年(1678)には弟を養子としますが、弟が死去しますので、翌年4代目とな渋谷家の三男を養子として、自分は隠居します。
このとき、知行2000石のうち、500石を隠居料とします。
子供がいたという記事はありません。

3. 4代目半兵衛政等、渋谷角太郎三男紋之丞、明暦2年(1656)生まれ。
15歳のとき小姓に召出され、延宝7年(1679)歳で菅沼家の養子となり、家督と知行1500石を相続します。
元禄4年(1691)に惣領が誕生し、以後息子2人・娘2人が生れます。

宝永7年(1710)に城代となり、享保10年(1725)に隠居、享保12年(1727)72歳で病死しています。

長男が家督し、その他の2人の息子は一人は杉田家の養子となり、もう一人は菅沼姓です。

意行を生んで他家に養子に出した記録はありません。
意行の誕生は元禄元年(1688)です。
その時、政等は33歳で、すでに菅沼家を相続した後ですし、まだ惣額が生れる以前ですから、もし意行が生れたとしても、養子に出す可
能性はほとんどないといっていいでしょう。

4.課題
以上1-3の検討によりますと、田沼意行の父の家はこの菅沼家ではないこと
になります。あるいは、南紀徳川史の記事が間違っているのでしょうか。
もし、『南紀徳川史』の記事が正しく、田沼意行がこの菅沼家の出身であると仮定しますと、どういう可能性があるのでしょうか。
あるとすれば4代目の子供というより、3代目の子供であるという方が可能性が高いのではないでしょうか。
3代目は自分の息子がいなくて、他家より養子をもらっていますが、隠居後30年以上生存している勘定ですし、500石の知行もありました。
当時、隠居した人のところに生れた子供はどのように扱われたのでしょうか。
「隠居したら元気になって、子供までできちやって、生活は楽じゃないけど長生きもできた。よかったよ」なんてうそぷ゛いていてくれたほうが救われます。


さて、安池さんの疑問、仮定にこたえられるのは、紀州の郷土史家しかあるまい。
うまく、このコンテンツがお目にとまるといいのだが。

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2009.05.08

田沼意行の父(2)

田沼主殿頭意次(おきつぐ 52歳=明和7年 老中兼側用人 相良藩主 2万5000石)と長谷川銕三郎(てつさぶろう)宣以(のぶため 25歳)とのかかわりあいを、[相良城、曲輪内堀の石垣]と題し、2009年5月4日(1)から(2)(3)(4)と4回つづけた。

参照】2009年5月4日~[相良城、曲輪内堀の石垣] () () () (

というのも、父・宣雄(のぶお 52歳=明和 先手・弓の8番手組頭)の代から長谷川家(400石)の諱(な)となった平蔵を引き継いだ銕三郎宣以が、41歳という若さで先手の組頭に登用されたのも、実力老中だった意次に引きたてられたからである。

もっとも、その分、意次が門地門閥派によって失墜したあと、その派の代表格としてまつりあげられた老中首座・松平定信(さだのぶ)から、平蔵田沼派もしくは田沼的体質としてにらまれ、物要(い)りな火盗改メを足かけ8年間もやらされ、備蓄を大きく減らしてしまったばかりか、借財をつくった。

そのことは、いま書いている当ブログ[『鬼平犯科帳』Who's Who]の16年先の経緯である。

歳月の引きもどしついでに、80年ほど、遡る。

この5年間、静岡駅ビル7階、SBS学苑パルシェで、月1回(第1日曜日の午後)、[鬼平クラス]でともに学んでいる安池欣一さんから、膨大な史料とともに、手紙をいただいた。

安池さんが、いま、田沼意次の父・意行(もとゆき)の実父を調べていることは、当ブログの2009年3月4日の[田沼意行の父]()で報告しておいた。
↑の色変わり(1)をクリックで再読なさってから、今日のテキストをお読みいただくと、理解が微細におよぶはず。

_130じつは、安池さんのリポートは、4月初めにいただいていた。
内容が、三河国の長篠菅沼にもかかわりが深いので、宮城谷昌光さん『風は山河から 全五巻』(新潮社)をひろい再読したりしていて、ご紹介がおくれた(しかも、この1回では足りない。順次、つづけたい)。

まず、安池さんの「田沼意行の出自の調査について」と題した手紙の前文から。

内容の点で進展はないのですが、資料の点では前進があったと個人的には考えておりますので、途中経過を報告させてください。

_120
「山家三方衆」 編集:長簾城祉史跡保存館

1_100宮城谷昌光さんの『古城の風景 Ⅰ』のなかで、長篠菅沼氏に関連して「山家三方衆」の解説がありましたので読んでみました。

長篠菅沼氏については、新城市教育委員会が所有している菅沼家譜・子孫蔵の家譜や菩提寺の過去る帳・墓碑などにより、現代にいたるまでかなり詳細に調査してあります。
また、『南紀徳川史』の名臣伝に菅沼半兵衛正勝について記載されていることも紹介されております。
但し、本のなかでは、二男以下まで全ての人が記載されている訳ではありません。

集められた資料のなかにはそれらのことも記載されている可能性はあります。
長篠城祉史跡保存館に確認したところでは、この資料については館内に展示されていることはなく、前館長(故人)の個人的な保有となっているそうです。
その資料の整理はしたいが、現在のところは手が廻らないとのことでした。


菅沼家「系譜」  
    --明治4年に菅沼家10代目が提出したもの 和歌山県立文書館保管--

1年程前、和歌山県立文書館に「田沼意次の父親にあたる人を養子に出した菅沼半兵衛という人の資料を捜しているのですが---」と、今から考えると随分漠然とした事項の調査をお願いしてしまいました。

そのときは、それでも調査していただいたのですが、「皆菅沼半兵衛を名乗っている家はあるが、何代も続いているから、諱がわかりませんか?」と問い返されて終わりになってしまいました。

「山家三方衆」を読んで、長篠城祉史跡保存館に問合せをして、この件に関して、こちらから、それ以上の情報収集は難しいと考えた後、「和歌山県立文書館」のことを思い出しました。

1年前には、気がつかなかったホームページを発見。

文書館で保管している古文書類」の「館蔵文書」として「紀州家中系譜並ニ親類書上」とあります。
早速、電話にて照会しました。
1年前にも照会させていただいたことなども、くどくどと言訳がましく説明し、判明しているかぎの諱も申し上げて、菅沼家の系譜があればコピーを送っていただきたいとお願いしました。

担当者のM さんは時間がかかるかもしれませんよといいながらも、そんな系譜があるか調べて下さるとのことでした。
結果として、M さんの「ありましたよ」という弾んだ声のお返事をいただました。

入手した系譜はいわゆる古文書に該当するもので、何という文字か判別できなかったり、判別できてもどういう意味か容が理解できなかったりという部分はありましたが、自分なりに検討したところでは別紙「菅沼家『系譜』の検討」に記載したとおりで、田沼意行が菅沼家の出身であるという結論は出ませんでした。

現在は、性懲りもなく、『寛政重修諸家譜』のなかで、田沼意行が養われたと記載されている「田代七右衛円高近の系譜」がないかとM さんお願いしているところです。

安池さんの、この探索手つづきは、読んでいて、わくわくしてくる。
ビジネス社会で活躍後、時間的に自由な身となり、やりたかった研究テーマを追い詰める方にとっても、大きく参考になろう。

さて、肝心の、安池さんが解読・現代語訳などは、後日。


【参照】2009年5月8日`~[田沼意行の父]  () (

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2009.05.07

相良城・曲輪内堀の石垣(4)

「恐れながら---」
佐野与八郎政親(まさちか 37歳 1100石)であった。
3年前から西丸の目付衆の一人として、徒(かち)目付や小人(こびと)目付を統括している。

参照】2007年6月5日~[佐野与八郎政親] (
2008年11月7日~{西丸目付・佐野与八郎政親] () () (

「おお、佐野うじの耳には、どのようなことが入っておるかの?」
老中格・田沼意次(おきつぐ 52歳 相良藩主 2万5000石)が気軽に受けた。

老中格のやりようではない、というのは、目付は若年寄に直結しているからである。
しかし、形式ばった柳営ではともかく、下屋敷での意次は、そういう垣根を意識しない。

「いま、話にでました先手・鉄砲(つつ)の1番手の為井又六祐安(すけやす 80歳 200俵)組頭のことに、じかにかかわることではございませぬ。先手の組頭衆のみなさまについての苦情でこざいます」
「それは、聞きずてならぬこと。申されてみよ」

佐野政親が告げたのは、徒目付・小人目付が聞きこんできている、つぎのような声であった。
先手の組頭は1500石格で、並みの番方(武官系)の、ほとんど終着地位に近い。
番方の幕臣がさらに高い地位をもとめるとすると、役方(行政畑)へ転じるしかない。
それでも、家禄によって壁があるから、このところ、先手組頭に死ぬまで居座るようになっている。

しかし、先手組というのは、泰平のいまの世でこそ江戸城内の門の警備役であるが、いざ、戦時ともなれば、第一線で敵と槍をまじえ、鉄砲を射ちあう部隊である。
その指揮者で組頭が、個人差はあるというものの、70歳代、80歳代でいいものか---との批判めいた声がないでもない。

「もっとも、おいしい席の先がつかえているために、長老たちの職への執着をとやかく言う者も少なくはありませぬ」
佐野目付は、言葉を選びえらびしながら、幕府の役人たちの高齢化を述べている。

勝手方の勘定奉行・石谷(いしがや)備後守清昌(きよまさ 56歳 800石)が口をはさんだ。
「当主がいつまでも在職していると、多くの継嗣は、30歳をすぎても、あるいは40歳になっても部屋住みのままで、あたら、才能をくさらしておりますな」

「うむ。さりとて、この職は乃公(われ)でのうてだれにできるか---と思いこみがちなのも、人の業(ごう)ではあるがな」
意次の言葉に、備後守清昌は遠慮をしない。
「人生は、仕事のみではございますまい。ほかに楽しみもあるはず」
「仕事人の備後どのの口からでた言葉ともおもえぬことを---」
同じ紀州の出身で、しかも親類というあいだからなので、意次清昌は忖度会釈なしの仲であった

「ところで、佐野うじは先手組頭の高齢化を申されたが、なにか、証拠をお持ちかな?」
意次が訊いた。
「はい。下の小人目付たちからの言上がありましたので、調べてみました」

佐野政親によると、この年---明和7年(1770)の弓の10組の組頭の平均年齢は64歳を超えており、最年長は78歳、鉄砲の20組のそれは60歳強で、最長老は80歳の為井又六祐安(すけやす 200俵)と。

「西丸の先手組頭4人のことは、お許しくださいますよう---」
「それは申しにくいであろう。よいよい。先手の爺い組頭のこととして、少老(若年寄)部屋へ、若返りをささやいておこう。
今宵は、この話はでなかったことにいたそう」
佐野目付よりも、長谷川平蔵宣雄(のぶお 52歳 400石)の頭の下げ方が深かった。

宣雄が与(く)みしている弓組の10人組頭のうち、50歳台は宣雄ともう一人、60歳代前半が4人、後半が2人、70歳代が2人であった。
最若年は宣雄の52歳。

田沼意次の提案にもかかわらず、先手組頭の対高齢化策は、銕三郎(てつさぶろう 25歳)が平蔵を襲名して組頭になる17年後まで、ほとんどとられなかったといってよい。
人事の若返りは、一度は築かれた石垣のように、改修はそれほどむつかしいともいえる。
とりわけ、定年制が明文化されていなかった徳川体制のものでは。


参照】2009年5月4日~[相良城、曲輪内堀の石垣] () () (

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2009.05.06

相良城・曲輪内堀の石垣(3)

長谷川うじ」
老中格で、将軍・家治(いえはる)の信任もあつく、側用人も兼帯という異例の重臣・田沼主殿頭意次(おきつく 52歳 相良藩主 2万5000石)が、今宵の客---というより、情報将校あつかいしている長谷川平蔵宣雄(のぶお 52歳 先手組頭)に呼びかけた。

宣雄とともに、銕三郎も盃をおいて、意次を注視した。
江戸城内では、老中を注視するなどは許されない。
目を伏せて、上申・応答するのが下のもののとるべき挙措である。
が、ここ、木挽(こびき)町の田沼家の中屋敷では、儀礼ぬきの会話が求められているし、宣雄たちは、これまでもそうしてきた。

「はい」
「率直に聞かせてもらいたいたい。先手組頭衆のあいだで、紀州出身の者たちが優遇されすぎておるという風評はでておらぬかな?」
「とんと、耳にいたしてはおりませぬ」
「ふっ、ふふふ。先手・弓組の組頭10名のうち、有徳院殿(ゆうとくいんでん 吉宗)さまにしたがってきた者は、いま、何人かな?」
細面で面高(おもだか)の意次の細い目は、やさしげではあるが、笑ってはいない。

菅沼摂津守頼尚(よりなお)
橋本丹波守忠正(ただまさ)
石原惣左衛門広通(ひろみち)

名をあげた。

「ことのついでに、その者たちの齢と家禄も言ってみてくれまいか」

菅沼摂津守   57歳  700石
橋本丹波守   60歳 1300石
石原惣左衛門  78歳  200俵

応じた宣雄は、横の佐野与八郎政親(まさちか 39歳 1100石)にそれとなく同意を求めた。
与八郎は西丸の目付である。
そのことをこころえている意次は、仕置の機微にふれることは、与八郎には訊かない。

宣雄は、意次の真意は、弓組のこともあろうが、20組ある鉄砲(つつ)組のことではないかと気づいた。

とりわけ、去年(1769)12月に81歳で逝った鉄砲(つつ)の一番手の組頭・寺嶋又四郎尚包(なおかね 300俵)の後任にすえられた為井又六祐安(すけやす 80歳 200俵)について風音を求められていると類推した。

先手の組頭は1500石格である。
この組頭になることにより、家禄300俵の寺島には1200石の足(たし)高がつけられ、あわせて1500石にしてもらえた。
家禄が200俵だった為井の場合には、1300石の足高が任期中は給される。

一瞬、宣雄は、寺嶋尚包の前任の鉄砲・一番手の組頭の名をおもいだそうと試みた。
しかし、寺嶋の就任は12年前の宝暦(ほうりゃく)8年(1758)のことで、宣雄が先手組頭に着任するずっと前のことである。

しかも、宣雄は弓組、寺島は鉄砲組で、つきあいの密度がちがう。

それで、宝暦12年(17662)から鉄砲の16番手の組頭を足かけ7年のあいだ勤めていた本多采女紀品(のりただ 57歳 2000石 新・大番頭)へ質してみた。

寺嶋どのの前任といえば、先年、奈良ご奉行のまま亡くなられた---」
石谷(いしがや)備後守清昌(きよまさ 56歳 800石 勘定奉行兼長崎奉行)が、さすがに能吏らしい記憶力で、
「奈良で逝かれた奉行といえば、山岡豊前どの---」
「さようです。先手組頭のころは、まだ、五郎作景之(かげゆき 享年54歳 1000石)でござった」

「山岡五郎作というと、神代のちょっとあとからの家筋とかであったな」
意次もおもいだしたらしい。
「そのように自慢していました。はっ、ははは」
本多紀品は、笑いで座をとりつくろった。

「いや、長谷川うじのご推察どおり、80歳で鉄砲の一番手の組頭に抜擢した為井がことでな。あの職の年寄りたちの推挙ということになっておったが、なにしろ80歳---少老の水野壱岐(守忠見 ただちか 40歳=当年 上総・鶴牧藩主 1万5000石)に、気をつかいすぎるなと申したのだが---」

先手組頭の補充は、年寄りたち---最年長の長老、次老、三老が候補者の名をあげ、入れ札で決めることが多いが、為井祐安の場合は、三人の年寄りの推挙できまったという。
それが、紀州系の将軍・家冶田沼に対する思惑ではないかと、ひそかにささやかれていた。
なにしろ、80歳の祐安は、言葉を発するたびにたれるよだれを手拭いで拭きとるほどで、城中の躑躅(つつじ)の間でもしゅっちゅう、腰が痛いの、息があがるのとこぼしている。

景之に会ったことのない銕三郎は、
(役人というのは、仲間のあれこれについて、よく、まあ、調べているものだ。が、話題がせますぎる)
腹の底で、いつも感じているおもいを、牛の咀嚼のように、くりかえしていた。

ちゅうすけ注】為井又六祐安の個人譜を掲げる。

Photo
(為井吉太祐安の個人譜)

祐安は、吉宗にしたがって急遽、江戸城二の丸に詰めたのではなく、4ヶ月後の享保元年(1716)8月、赤坂の紀州藩江戸屋敷から、長福(ちょうふく 6歳 のちの家重)に扈従してご家人になっている。

このときの紀州藩士について、深井雅海さん『江戸城』(中公文庫 2008.4.25)は、つぎの表を掲げている。
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又六はこの中の一人であった。


参照】2009年5月4日~[相良城、曲輪内堀の石垣] () () (


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2009.05.05

相良城・曲輪内堀の石垣(2)

それぞれの引きあわせ---といっても、新顔は相良から出府してきた普請奉行・三好四郎次郎だけだが---がおわり、気がおけなくなったところで、この邸の主である田沼主殿頭意次(おきつぐ 52歳 老中格兼側用人)が、手を打って召使に膳を言いつけた。

「領内が違作で、お上から多額に拝借しているので、ぜいたくはできない。ま、話が肴と分別を願って---」

膳には、鮒の甘露煮と、松茸と青菜の煮もの、大根の千切りが載っていた。
「鮒は、佐野うじからの到来もの---であったな」
給仕の召使にたしかめた。

「知行をいただいているところの一つに、常陸(ひたち)の牛久沼のほとりの佐貫(さぬき)村がございまして、日持ちするからともってきましたものです。鄙びたものなので、お歴々のお口にあいますれば幸甚---」
佐野与八郎政親(まさちか 39歳 西丸目付)が恐縮したふうi述べた。

「松茸は長谷川うじのお気づかい---であったな?」
「知行地の上総(かずさ)の寺崎村の山でとれたものです。ことしは、雨が少なく、出来がも一つのようで、村長(むらおさ)もすまながっておりましたが、香りだけは並みかと---」
平蔵宣雄(のぶお 52歳 先手・弓の組頭)がいいつくろった。

さっそく、石谷(いしがや)備後守清昌(きよまさ 56歳 800石 勘定奉行兼長崎奉行)が箸でつまんで鼻へかざし、口へふくんで嚥下、
「いや、けっこうな芳香と風味です」

本多うじの新しい知行地からということで、鮑(あわび)の干しものをいただいていたな?」
給仕の合点を待って、
「せっかくの珍味なれど、備後どのの手前、供するわけにはいかぬ」
14年来、長崎奉行として、唐土への支払い銀に替えて、鮑や海鼠(なまこ)の増獲・集荷を督励している石谷備後守に軽くあてつけ、生真面目な石谷奉行が苦笑したのを、おもしろそうに眺めた意次が、
「なれど、今宵は備後どのに目をつむってもらい、調理するように申しつけてある」
一同が笑い声をたてると、石谷清昌もつられて笑い、座が一気になごんだ。

笑いがおさまったところで、本多紀品が陳べた。
「3年前に、主殿頭(とのものかみ)さまのおはからいで、遠江・城東郡(きとうこおり)の知行地の一部を、相模湾に面した鎌倉郡とお取り替えいただいたのです。それで、海の幸があがってくるようになった次第」

銕三郎は、出仕のこころえのあれこれを、みんなの会話から学んでいく。
とりわけ、意次の気くばりは感銘を受けた。
献じものの紹介にしても、佐野政親から平蔵宣雄、本多紀品へと、若年者を先にたてた。
さりげなく、本多家の知行地替えに話題をふって、それとなく希望の有無を問うている。

本多うじの遠江国の知行地は、まとまっていすぎた。あれには、凶年には根こそぎ参ってしまう。出荷の手間はかかるが、知行地は国あるいは郡(こおり)を割っておいたほうが、まさかのときに互いに補いあえるからの」
意次の意見に、みな、うなずいた。

「さきほど、お上から拝借金とかおっしゃいましたようですが---」
銕三郎がおもいきって質(ただ)した。

「おう、そのことか。いや、恥をさらしたな」
意次が笑った。
三好四郎次郎がすぐに引きとって、
「領内が違作ゆえ、勘定ご奉行のお計らいで、返済は5ヵ年ということで、お上のご金蔵から3000両、拝借したのです。したがって、相良のお城は、二ノ丸、三ノ丸の堀の石垣の完成したとろこで、殿のご決断で、本丸などの建築は一時延期ということに決まりました」

「ご築城は、将軍家のお言葉によるものと、先にうかがっておりますが---」
銕三郎に、意次はこだわりなく、
「そのとおりであるが、拝借金をしている身で、築城の続行は、あまりに恐れおおすぎよう---」
石谷勘定奉行が、
「小職はじめ、宿老のお歴々も、本丸ほかを早く完成なされるのが、お上のお言葉へのお応えになるとおすすめしたのですが、主殿頭さまは頑として、おしりぞけになりましての」

ちゅうすけ注】理由がたてば幕府の金蔵から拝借金ができるということを記憶にとどめた銕三郎は、20年後に、石川島に人足寄場を創建した2年目、幕府からのあてがいが半減ちかくに落ちたのを補うため、物価安定の口実で金蔵から3000両を借りだし、銭相場に介入して500両近く利ざやをかせいだ。
経緯の詳細は、当ブログ2007年9月19日現代語訳[よしの冊子(ぞうし)] (18

ちゅうすけ注:とくに歴史の好きな方へ】田沼意次の実力発揮の端緒
2007年8月19日~[徳川将軍政治権力の研究] () () () () () () () () () (10) (11) 

参照】2009年5月4日~[相良城、曲輪内堀の石垣] () () (

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2009.05.04

相良城・曲輪内堀の石垣

三好どのと仰せられますと、近江の---」
佐野与八郎政親(まさちか 39歳 1100石 西丸目付)が、相良藩の普請奉行・三好四郎次郎に訊いた。
老中格で側用人も兼務している田沼主殿頭意次(おきつぐ 52歳 相良藩主 2万5000石)の木挽(こびき)町の下屋敷である。

久びさに私邸でくつろぐために下城した意次が、そろえて招くのが通例のようになっている、新番組頭の本多采女紀品(のりただ 57歳 2000石)、先手の組頭・長谷川平蔵宣雄(のぶお 52歳 400石)とその嫡男・銕三郎(てつさぶめろう 25歳)、そして佐野政親の4人。

参照】2009年3月6日[蝦夷への思い] (
2007年7月25日~[田沼邸] (1) () (3) (4)

田沼意次の財政面の知恵袋ともいわれている勘奉行で足かけ9年来長崎奉行を兼任している・石谷(いしがや)備後守清昌(きよまさ 56歳 800石うち300石は当年加増)も、連日つづく激務にいささか憔悴した面持ちで、いつものようにつらなっている。

参照】2007年3月29日{石谷備後守清昌] () () () 

新顔は、この6月に相良城の基礎工事である二の丸、三の丸の堀の石垣工事が成った報告と、あとの築城の指示をうけに出府してきていた三好普請奉行である。

参照】2009年3月3日[ちゅうすけのひとり言] (31

「ほう。佐野うじはさすがにお目付衆、三好普請奉行が近江・浅井の旧臣と、よくも推量なされた」
意次が、すかさず、与八郎をもちあげた。

_80「お恥かしいかぎり。長谷川組頭どのゆずりの、武鑑の知識でございます。ご普請奉行どののお腰の印籠(いんろう)の大割牡丹(おおわりぼたん)の蔭紋で推察をつけただけのことで---}

そのむかし、北近江の浅井家は越前の朝倉家に味方して、織田信長の恨みを買い、ほろぼされた。
牡丹は、浅井家の蔭紋でもあり、重臣たちはいろいろにくずして自家の蔭紋としていた。

主を失った三好家の子孫は、諸国をめぐりなから築城術を学んだという。
その知識に目をつけた意次が、四郎次郎を召しかかえた。
もっとも、その時点では、城持ちになるとは考えていなかった。
由緒のある家柄の家臣ならいくらでもほいしほど、意次の家禄は急激にふくらんでいたのである。

堀の石垣の工事ぶりを観察したことを、銕三郎は黙している。
意次が父とともに自分を招いてくれるのは、そんなことを聞くためではないことを承知していたからである。
相良へは、〔仲畑(なかばたけ)〕のお(りょう 30歳=当時)といったことも秘密にしておきたかった。

参照】2009年1月25日[ちゅうすけのひとり言] (30

しかし、話は相良城の郭の石垣におよんでいた。
江戸城の石垣の石の多くが伊豆から運ばれたように、相良城のための石も、西伊豆からきりだされていた。
運搬も、江戸城のときにそうしたように、筏から綱でしばった石を海中にたらして重さを軽くし、つないだ筏を船で引いて駿河湾を横断させた。

このときのことが、江戸で石を手早く調達するならと、銕三郎が工夫を重ねるきっかけの一つとなった。
20年ほどのち、満潮時には水びたしの湿地になる石川島に人足寄場をつくることになり、寺社奉行にかけあい、無縁仏の墓石を寺でらからかき集め、江戸ふうテトラポットとして、たちまち地揚げを果たすことにつながった。

ちゅうすけ注】佐野与八郎政親の武鑑を見る趣味は、長谷川宣雄ゆずりというのは、いつだったか、宣雄がもらしたこの話に刺激されたものである。
2008年7月6日[宣雄に片目が入った] (

銕三郎が父・宣雄から学んだことで、石川島の人足寄場の創設に生かされた知恵の一つ---無縁仏の墓石の件についての裏話:2006年6月21日[家風を受けつぐ

宣雄から学んだことが人足寄場の創設で実地に生かされてもう一つの例:2008年3月3日[南本所・三ッ目へ] (10

ちゅうすけ注:とくに歴史好きな方へ】田沼意次の財政の知恵袋・石谷備後守清昌について
2007年7月27日~[石谷豊後守清昌] () () (
2007年や月25日~[田沼邸] () () () (
2007年12月18日~[平蔵の五分(ごぶ)目紙] () () () 
 
参照】2007年1月3日[平岩弓枝さん『魚の棲む城』] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7)
2007年11月6日[相良城址の松樹

参照】2009年5月4日~[相良城、曲輪内堀の石垣] () () () 

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2009.05.03

火盗改メ・平岡与右衛門正敬

2009年4月29日の当ブログ[先手・弓の組頭の交替]に、天野伝四郎富房(とみふさ 700石)が、凡庸ながら勤勉につとめあげ、67歳にしてようやく、弓の1番手の組頭の席を射止めたものの、着任2ヶ月で病死してしまったことを告げておいた。
後任には、天野富房とおなじく小姓組の与頭(くみがしら 組頭とも記す)を15年間にわたって勤めていた平岡与右衛門正敬(まさよし 69歳 800俵)が、明和7年(1770)9月1日に発令された。

前にも書いたが、小姓組の与頭は1000石格、先手組頭は1500石格であるから、800俵の平岡正敬には700石の足(たし)高が給される。
足高で、1500石にふさわしい供ぞろえなどを補充せよ---というのが表向きの沙汰だが、たいていは、旧のままですましてしまう。

長谷川平蔵宣雄(のぶお 52歳 400石)のように、先手の組頭に任じられると、火盗改メの加役を下命されることを予想し、仮牢や拷問部屋、武具庫のために1200余坪もの敷地を手配した例は、きわめてまれである。

さて、弓の1番組という由緒のある先手の組頭となった平岡正敬に、待っていたかのように2ヶ月もおかずして、火盗改メ・助役(すけやく)が発令された。

平岡家は拝領屋敷として、湯島聖堂の西にあって江戸城にも近い、本郷桜ノ馬場(現・東京医科歯科大付属病院)の角を賜っており、よほどに裕福とみられたのかもしれない。

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(赤○=桜ノ馬場 緑○=平岡邸 近江屋板)

余右衛門正敬に火盗改メの下命が達したのは、明和7年10月21日で、1番手の与力・同心たちとすると、冬場の助役(すけやく)とはいえ、宝暦3年(1753)年以来、17年ぶりの火盗改メというので、先輩たちは若手を鍛えるいい機会とばかりに張り切った。

ところが、平岡組頭がいっこう沙汰をくださないばかりか、桜ノ馬場の屋敷に白洲や仮牢を設ける気配もない。
同心たちが不審におもっていると、余右衛門正敬が病気につき加役ご免の申請をしているらしいとのうわさが流れてきた。
筆頭与力・三宅喜之輔(きのすけ 53歳)が余右衛門に質(ただ)すと、腰痛と膝痛がひどいために乗馬もかなわぬゆえ、火盗改メ・辞退願いを上程していると打ちあけられ、与力たちは唖然とした。
それなら、先手組頭への昇進の諮問があったときに釈明して断るべきだ、というのが誇り高い1番手の与力・同心たちの総意であった。

それなのに、先手の組頭の役料1500石がほしいばっかりに、同職だけは受けたというこころねがいやしいと、聞こえよがしにいきまく同心もいた。

幕府が辞退願いを受理、病免あつかいにして平岡家の体面をかばってやりながら、火盗改メの代役には高齢の組頭に懲りたか、とってつけたように51歳の永井采女直該(なおかね 2000石)を11月23日付で発令した。

平岡政敬の火盗改メの期間は1ヶ月と1日であった。

永井直該は、鉄砲(つつ)の4番手の組頭であり、家禄2000石なので、1500石格の先手組頭は、いわゆる持ち高勤めであり、あまりありがたがられないところへもってきて、もの要(い)りな火盗改メは、いかに冬場の助役とはいえ、不本意であったろう。

先例がないわけではない。
本多采女紀品(のりただ 49歳=就任時 2000石)もその一人である。
本多紀品は、先手組の中でも同心が50名と多い、それだけに格も高い鉄砲の16番手の組頭であった、
さらに、火盗改メを2度こなした。
上から有能と見られていたのである。

参照】2008年2月9日~[本多采女紀品] (1) () () () () () () (
2008年2月20日~[銕三郎、初手柄] () () () (

次の栄転を暗示され、引き受けた気配がある。
永井一門も、本多家同様に名家が多く、引きも強い。

ま、そういった永井直該のその後のことは、向後に託し、これきりでこのブログからは消えるはずの平岡与右衛門正敬の個人譜を掲示しておく。

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2360
(平岡与右衛門正敬の個人譜)

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2009.05.02

お竜(りょう)からの文(3)

_100おまさは、いま、お(りょう)どのは、美しい女性(にょしょう)かと訊いたな
(てつ)兄(にい)さんは、美しい人だと、お答えになりました」
おまさが訊いたから、そう答えた。だが、それは、見た目だけのこことだ」
銕三郎(てつさぶろう 25歳)の言葉に、14歳のおまさが首をかしげた。(歌麿 お竜のイメージ)

「見た目の美しさで、男の人は、親しくなりたがるのではありませんか?」
「美しさを武器の一つと信じているおんなには、たいていの男がそうするだろう。しかし、な。自分の外見の美しさなどなにほどのことでもないとおもっているおんなには、それは値打ちでもなんでもない」
「そんなおんなの人がいるのですか?」
「げんに、お(りょう)どのがそうだ。〔狐火きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 50歳)お頭には、おまさも会ったことがあるな」
「はい。お(しず)姉(ねえ)さんのお頭でした」

参照】2008年6月2日~[お静という女](1) (2) (3) (4) (

銕三郎は、この〔盗人酒屋〕での勇五郎との会話を再現して聞かせた。

長谷川さま。小浪(こなみ)もお(りょう)も、ともに美形です」
「認めます」
「どちらも、賢い。しかも、芯がつよい。が、こころねは、まるで異なります」
「はあ---?」
小浪は、おのが美形を存分に遣いこなすこころえがあります」
「おどのは?」
「美形を、まったく、意に介しておりません」
「---?」
「おなごには、きわめて珍しいことです。それだけに、こころねが真っすぐです。だから、ものごとがよく見えます」

参照】2008年10月29日[うさぎ人(にん)・小浪] (

小浪さんって?」
「御厩(おうまや)河岸の舟着き茶店の女将だ。こんど、いつかお茶でも飲みにいこう」
「うれしい。美しいおんなの人を見るの、大好き」
おまさも、小浪女将にまけないほど、美形だよ」
っつぁん。冗談がきつすぎます」
あわてて、父親・〔鶴(たずがね)〕忠助(ちゅうすけ 50がらみ)が口をはさんだ。

久栄おっ師匠さんは、おさんのこと、ご存じなかんですか?」
小浪女将には会ったし、辰蔵(たつぞう 当歳)のお祝いにもきてくれた。だが、おどのは盗賊の軍者ぐんしゃ)だし、江戸にはいないから---」
「それでは、この文(ふみ)のことも秘密ですね」
秘密をともに持てたことに、おまさは子犬のようなうれしそうな顔をした。

銕三郎
は、それどころではなかった。
(おとの秘事が、いつ、久栄(18歳)の耳に入るか、策をたてなければ---)

しかし、おまさに口どめをしなかった。
そんなことをすれば、逆効果なことがわかっていたからである。

との秘めごとを、おの妹分のお(かつ 29歳)は察しているかどうか。

参照】2008年11月25日[屋根船
2008年11月27日[諏訪左源太頼珍(よりよし) (
2009年1月23日[銕三郎、掛川で] (

小浪は感づいてはいまい。
とすると、久栄の耳へ入るのは、おまさの耳こすり(内緒ばなし)しかない。

参照】2009年4月30日~[お竜(りょう)からの文] () () () 

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2009.05.01

お竜(りょう)からの文(2)

(てつ)っつぁん。なにか、いいことでも書いてありやしたか?」
(りょう)からの文(ふみ)を読み終え、巻きもどすのを待って、〔たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ 50がらみ)が銕三郎(てつさぶろう 25歳)に訊いた。

そばで、おまさ(14歳)がきき耳をたてている。
忠助とすれば、一人むすめのおまさの気持ちを察したうえで、文の中身を銕三郎にしゃべらそうとしているのである。
聞けば、おまさも安心するだろう。
おまさは、いま、むつかしい齢ごろにさしかかっている。
母親が生きていれば、おんな同士の解りあいもあろうが、男親では、むすめごころは律しきれない。

銕三郎は、お(しず)の子がはやり風邪がもとで死んだことを告げた。
おまさの表情が複雑なうごきをした。
はじめは安堵し、つづいて涙顔になった。

参照】 [お静という女] () () () () (

(まさか、おれの子とおもっているのではあるまい)
銕三郎は、わざとおまさを無視してつづけた。

京の御所の東の荒神口で太物商いをしていた〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう 50歳すぎ)のおんな・お賀茂(かも 30歳すぎ)が、身重になったらしいと言うと、
兄(にい)さんが捜している盗人(つとめにん)でしょ?」
「うむ。だが、拙は出仕しているわけではないから、とくべつ、捜しているわけではない」
「それでは、お(こん)おばさんの居所がわかっても、捕まえないんですね?」

参照】2007年7月14日[〔荒神(こうじん)〕の助太郎] () () () () () () () () () (10) 

忠助があわてて、
「なんてことを---。っつぁん、聞き流してくだせえ」
いまでは、っつぁん、さんと呼びあう仲になっている。

(こん 31歳)の亡夫・〔助戸(すけど)〕の万蔵(まんぞう 没年35歳)の遺骨を足利へ納めに行ったまま、〔法楽寺ほうらくじ)〕の直右衛門(なおえもん 40すぎ=当時)の妾になり、性戯をみっちりしこまれて江戸へ戻り、岸井左馬之助(さまのすけ 21歳=当時)と睦みあったことはすでに記してある。

参考】2008年8月27日~[〔物井(ものい)〕のお紺] ) (1)] (

「おどのは、江戸にいるのか?」
「いいえ。江戸へは、ときどき、息抜きにやってくるだけ」
(〔法楽寺〕は、手広く網をうっているようだな)

「江戸で盗(つと)めをするのでないのと、左馬さんに近づかなければ、目をつむっておいてもいい」
話題が、おからおにそれたので、銕三郎もほっと息をついた。
おまさ は、このごろ、妬心をかくさなくなっている。それだけ、おんなへの成長がすすんでいるのだろう。

「おどのはどこにいる?」
「言わない」
「そうか。それでは、訊かない」
「怒った?」
「怒らない」
「なぜ?」
おまさが言いたくないものは、無理には訊きたくないから」

忠助が笑いながら、2人の問答を見守っている。
兄さんが、おさんて人のこと、話してくれたら、わたしも、おさんのいまいるところを教えてあげる」
話題は、おからそれていなかった。

「おどののなにを?」
「齢とか、美しい人かどうかとか---」
「それはすごく美しい人だ」
久栄(ひさえ)おっ師匠(しょ)さんより?」
「比べられないな」
「齢は?」
「30---1だったかな」
「お仕事してる?」
「軍者(ぐんしゃ 軍師)」
「おんなで?」
「そう。おまさも知っている、〔狐火きつねび)〕のお人の軍者なのだ」
「あ、そのおんなのお人のことなら、〔瀬戸川せとがわ)〕の源七(げんしち 54歳)おじさんから聞いたことがあります」
「おんなおとこ、と?」
「そう。なあーんだ、おんなおとこの軍者さんか」
おまさは安心したように、
「おおばさん、堀切村の西光寺にいます」
「おみね坊(10歳)もいっしょか?」
「おみねちゃんは、足利---。盗(おつと)めの足手まといになるからって---。かわいそう」

ことは、これだけではすまなかった。


参照】2009年4月30日~[お竜(りょう)からの文] () () () 


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